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2017年01月31日
云々云々(正月廿八日)
昨日だったかな、朝仕事に出かけようとしたら、うちのに、安倍総理大臣が何かまた変な日本語を使ったらしいよと教えられた。見せられたのは日本語のニュースではなく英語のニュースで、「テイセイデンデン」と言ったらしいのだけど、そんな言葉はないので、「ウンヌン」を誤読したのではないかと書かれていたようだ。
国会での答弁だというので、「テイセイ」は「帝政」だろうかと考えたのだが、これに「云々」のつく状況が思いつかなかった。夜になって思い出して調べてみたら「訂正云々」だった。その前後の民なんとか党の人とのやり取りは、日本の国会の議論の不毛さを象徴しているようで、目くそ鼻くその争いをいつまで続けているのだろうとため息をつくしかない。
それはさておき、「云々」の「云」を「ウン」と音読みするのは、「云」を音符とする形声文字の音読みを考えればわかるだろうと書きかけて、常用漢字の範囲でこれに当てはまるものが「雲」しかないことに気づいた。
しかし、日本では漢字検定とかいう、何のために受けるのかも、何の意味があるのかも理解できない検定試験が、不祥事が発覚するまでは大流行していたらしいから、「芸」の本来の音読みが「ウン」であることを知っている人も多いだろう。「ゲイ」は、常用漢字で正字「藝」の略字体として採用された結果、「ゲイ」という読みが正しいことになっただけである。
同じように、「会」の正字は「會」、「転」の正字は「轉」で、「云」は音符としての機能を果たしていないのである。では、「伝」はというと、これも「傳」が正字である。この辺が、丸谷才一氏など、常用漢字の新字体を強く批判し、正字の使用を求める人がいた所以なのだろう。音符と字音の関連性が失われてしまって、漢字の読みの習得を困難にすることになる。ということは、今回安倍首相が言い間違いか、読み間違いかをしてしまったのは、常用漢字のせいだということになる。これ決めたの自民党政権だよね。ってことは自業自得か。
さて、「云」に踊り字を重ねた「云々」が、「ウンウン」ではなく、「ウンヌン」と読まれるのは、連声と言われる現象である。「反応」が「ハンノウ」、銀杏が「ギンナン」なるように、音読みが子音Nで終わる漢字の後に母音で始まる漢字が付いたときに起こることがある。問題は規則がよくわからないことで、同じ「サン」と読む漢字に「位」がついた言葉でも、「散位」は「サンニ」と読み、「三位」は「サンミ」と読むのである。いや、「三位」にはスポーツの場合の「サンイ」という読み方もあった。
一般的には、連声は起こりにくくなっているといっていいのだろう。かつては「マンニョウシュウ」と読まれていたはずの『万葉集』は、「マンヨウシュウ」以外の読み方はされなくなっているし、新しく次々に作られる熟語の場合には、連声を起こすことはなさそうだ。ただ、日本人がこの連声と縁を切ることはあるまい。国民統合の象徴たる天皇、その天皇の読み「テンノウ」も、連声の結果生じた読み方なのだから。「皇」は、単独で「コウ」「オウ」とは読まれでも、「ノウ」と読まれることはないのである。
「云々」に話を戻すと、本来は漢文で誰かの言葉を引用した最後につけてそこで話が終わることを示した表現である。狭い意味での漢文、つまり中国の古典に登場したかどうかは、ちゃんと覚えていないが、日本で書かれた漢文資料には頻出する。それで思い出したことが一つ、文学系の先生や学生は、「云々」を「ウンヌン」と読み、史学系では、「としかじか」と読んでいたことだ。
韻文であれ、散文であれ、和文を主として研究対象にする文学科の人間が、音読みして済ませているのに、漢文史料を主に扱う史学科の人たちが、訓読みしているのが不思議に思えたものだ。「しか」が「云」の訓読みなのかという疑問に対しては、漢字の読みを和文における意味から当てていったのが訓読みであることを考えれば、訓読みと言ってかまわないだろうと答えておく。
和製漢文においては、「者」も人の話の引用の末尾に用いられる。これは、書き下し文では「てへり」と書かれ、文語なので「てえり」と読まれる。「といへり」の約まった形なので、意味は「と言った」ということになる。引用の助詞「と」が「て」に形を変えるのは、現代口語だけの話ではないのである。
その「者」を「てえり」ではなく、歴史的仮名遣いの読み方の原則を無視して文字通り「てへり」と読んでしまう史学科の学生がいるという話を聞いたことがある。これは、日本で国語教育、特に古典に関する教育が軽視されていることの反映であろう。一般の人ならともかく、近代以前の日本史を専攻する人間が、正しく読めないというのはしゃれにならない現実である。
おそらく、安部総理大臣が、「云々」を知らなかった、もしくは読めなかったというのも、その延長線上にある。戦後の学校教育が英語教育に力を入れるあまり、国語をないがしろにしてきた結果、かつては誰でも知っていた言葉も読めない総理大臣を輩出してしまったのだ。以前も誤読を連発して問題になった総理大臣がいたというが、母語である日本語において間違いを連発することを恥だとは思わないのだろうか。英語ができないことよりもはるかに大きな恥だと思うのだが。
最近流行っているらしい「美しい日本語」とやらを称揚する動きも関連すると言えば言えるか。あれは、外国語、とくに英語に対するコンプレックスが生み出した徒花としての流行に過ぎない。それに、あの手のものに紹介される日本語が本当に美しいものだとは必ずしも言い切れないし、あれを読んで国語能力が向上するとも思えない。
国語そのものだけではなく、外国語も含めた他の分野の学習に関しても、世界認識の要である母語、すなわち日本語が確たるものとして確立されていることは重要だと思うのだけど、日本の社会はそっちのほうには向かっていないようである。
1月29日17時。