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2019年10月29日

ジャポンスコ(十月廿七日)



 オーストリア・ハンガリー帝国時代のチェコ人で、日本まで出かけた人物というと、チェコスロバキア独立直前のマサリク大統領の名前が挙がるのだけど、それ以前にも、ヤン・レツルなどの建築関係者が日本で仕事をして原爆ドームなどの建設にかかわっている。さらにその前には、ヨゼフ・コジェンスキーという人物が明治時代半ばの日本を訪れ記録を残している。日本を訪れたのは1893年のことで、ヨーロッパからアメリカにわたり、太平洋を渡って日本に来たあと、インド、エジプトを経てヨーロッパに戻るという世界一周旅行の途中だった。

 この人は世界一周旅行の記録のうち、日本にかかわる部分を『ジャポンスコ』と題して1895年に刊行している。その本、もしくはその前に刊行した世界一周旅行記の日本にかかわる部分が翻訳されて出版されている。最初に出版されたのは1985年のことで、サイマル出版会から『明治のジャポンスコ ボヘミア教育総監の日本観察記』と題して刊行されている。
 二回目は、朝日新聞社がアサヒ文庫の一冊として、2001年に『ジャポンスコ ボヘミア人旅行家が見た1893年の日本』という題で刊行している。両者の訳者がともに鈴木文彦となっていることから、サイマルの本を文庫化する際に改題したと考えるのが自然であろう。二冊目は購入したことがあって、訳者はかつてチェコスロバキアで日本大使を務めた方ではなかったか。

 問題は、副題の部分に含まれる著者の肩書きの「ボヘミア教育総監」と「ボヘミア人旅行家」なのだが、コジェンスキーについてチェコ語で調べても、「ボヘミア教育総監」という役職に就いたという記述は出てこない。ただし、教育者であったことは確かなようで、チェコ国内各地の学校で教鞭をとっている。そして、教育者は世界を知らなければならないという教育観を持っていたようで、実践のために世界各地を訪れ、その記録を出版したらしい。
 ヨーロッパの国々を初め、オーストラリアやニュージーランドにまで足を伸ばしたコジェンスキーの旅は、同時代のエミル・ホルプなどの冒険かとは違って、前人未到の地に出かけるのではなく、すでにヨーロッパにとっては既知となった土地に出かけるものだった。出かけた土地で自分の興味、観点に基づいて記録を残し、本にまとめて出版していたのである。その意味では二冊目の「旅行家」という肩書きは正しいということになる。
 ただ、「ボヘミア人」というのはどうなのだろう。当時、ボヘミア人、モラビア人という民族意識の分離があったのかなあ。モラビアの人はこだわりそうだけど、ボヘミアの人は無神経にみんなまとめてチェコ人と呼んでいたのではないかと想像する。オーストリア・ハンガリー帝国内の行政区分ではボヘミアとモラビアは歴史的に別地域扱いされていただろうけど、民族としてはまとめてチェコ人扱いだったはずだ。

 コジェンスキーは、教職の傍ら、プラハの国立博物館などさまざまな自然科学の研究機関でも活動するなどチェコを代表する博物学者の一人だった。1927年にはカレル大学から名誉博士の称号を得ている。この人は、アジアやオセアニア、アフリカなどの遠隔地についてだけでなく、ヨーロッパ内の国についても旅行の記録を残している。

 もう一つ書いておくべきことがあるとすれば、チェコ最初の日本研究家とも言えるヨエ・フロウハが甥にあたるという事実だろうか。フロウハは子どものころからコジェンスキーの影響を受けて日本に興味をもつようになったに違いない。今はヤポンスコと呼ばれている日本が、昔はジャポンスコと呼ばれていたということも書いておくべきだったか。
 本来、ココシュカについて書いているときに思い出したハンベンゴローについての話の枕のつもりで書き始めたのだけど、長くなったので独立させることにした。
2019年10月28日22時。












posted by olomoučan at 07:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 本関係
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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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