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2019年10月25日

スラビアとバルセロナの意外な関係(十月廿三日)



 チャンピオンズリーグのグループステージの試合のために、あのバルセロナがプラハにやってきた。この前、バルセロナがチェコのチームと試合をしたのは、プルゼニュだっただろうか、それともその前のまだ強かったころのスパルタだろうか。プルゼニュだとしたら大敗しているはずだし、スラビアが前回チャンピオンズリーグに出たときも、はるかに格上のチームには惨敗ばかりだったのは覚えているから、今回は負けてもいいけどせめて接戦になることを期待していた。前節では負けたとはいえ、ドルトムント相手に結構いい試合をしたというし、勝つのは無理でもそれぐらいは期待してもよかろう。

 試合は、例によって、チェコテレビで放送されず見ることができなかったのだが、スラビア大健闘で、負けたとはいえ、1−2の1点差で決勝点も不運な自殺点だったらしい。ダイジェストで見ても全く手も足も出なかったというわけではないようだから、チェコのサッカー、イングランドに勝った代表だけでなくクラブチームレベルでもいい方向に向かいつつある。とはいえ最悪のグループなのでスラビアが3位でヨーロッパリーグに進むためには、最低でもホームでインテルに勝たなければいけないという状況なのだけどさ。
 見ることのできなかった試合よりも、こちらの興味を引いたのは、両チームが試合前の記者会見などで触れたらしいチェコとスペインの遠く離れた2つのチームを結びつけた選手と監督の話だった。チェコはこれまで多くの優秀な選手を西ヨーロッパの国々のクラブに提供してきたが、これまでバルセロナでプレーした経験のあるチェコ人は一人しかいないらしい。その唯一のチェコ人選手が国内でプレーしたのがスラビアだったらしい。

 その選手の名前はイジー・ハンケ(Jiří Hanke)。名字はドイツ系ッぽいけど、名前は完全にチェコ人である。出身は中央ボヘミアの世界遺産にもなっているクトナー・ホラの近くのドルニー・ブチツェという小さな村で、第二次世界大戦中の1944年にスラビア移籍を果たした。1924年生まれだというから二十歳前後のことだったようだ。それから数年の間はスラビアの中心選手だったのである。
 スポーツ新聞の記事によるとハンケは、第二次世界大戦中は、ナチスドイツににらまれていて、戦後は共産党ににらまれていたらしい。戦後共産党に警戒されたのはドイツ系だからというのだけど、スラビアを離れて、西ドイツに亡命した、もしくは西ドイツのチームに移籍したのが、1950年ごろのことで、ハンブルクのザンクト・パウリでプレーしたあと、1951年にコロンビアのミジョナリオスというチームに移籍して有名らしいアルフレッド・ディ・ステファノとともにプレーしてリーグ優勝を果たしている。

 コロンビアは1シーズンで離れて、フランスのチームを経て、バルセロナに移籍したのが1952年のことだという。ただしウィキペディアには1953年と書かれている。それはともかく、最初の試合はまだ正式契約前だったので、フェルナンデスという偽名で出場したらしい。バルセロナには3シーズン在籍して、あわせて57試合に出場し、5ゴールを決めたという。ポジションはフォワードだったかな。在籍期間中にはスペインリーグ優勝にも貢献している。
 その後、スイスに移籍して、選手兼監督を務めた後、引退し監督として活躍したようだ。ビロード革命後も故郷のチェコに戻ってくることはなく、2006年にスイスのローザンヌで亡くなっている。このチェコスロバキア代表としても活躍したハンケについては、試合前にバルセロナがHPで発表したらしい。

 そして、ハンケをバルセロナに呼んだ人物が、当時バルセロナの監督を務めていたスロバキア人、フェルディナント・ダウチェクチーク(Ferdinand Daučík)で、この人、バルセロナに行く前、スラビアの選手だったのである。オーストリア・ハンガリー時代の1910年に生まれたダウチェクチークがブラチスラバからスラビアに移籍したのは1935年のことで、ボヘミア・モラビア保護領から追放されスロバキアに戻った1941年までの間に、3回のチェコスロバキアリーグ優勝を達成している。

 ただし、スラビアがこの時期の最大の成功としているのは、リーグ優勝ではなく、1938年の中央ヨーロッパカップの優勝である。ダウチェクチークはこの大会で、キャプテンとしてスラビアを優勝に導いた。これで、スラビアにとっては忘れられない選手になったのである。
 中央ヨーロッパカップというのは当時の世界最大のクラブレベルでの国際大会で、現在のチャンピオンズリーグに当たる存在である。開始された1927年から1940年まで、多少の出入りはありながら、チェコスロバキア、ハンガリー、オーストリア、イタリア、スイス、ユーゴスラビア、ルーマニアのチームが参加して行なわれたものである。すべての7つの国のチームが出場したのは、1937年だけで、すべての年に参加チームを送ったのはハンガリーだけらしいけど。

 それはともかく、ダウチェクチークは階級の敵とされたスラビアで活躍したこともあって、共産党政権から敵視され、1950年に亡命を余儀なくされた。亡命先に選んだのがスペインで、バルセロナの監督に納まったのである。バルセロナの監督を務めたのは、1954年までだが、リーグ優勝もなし遂げている。
 その後はスペインを中心に、アトレティコ・ビルバオ、アトレティコ・マドリードなど多くのチームで監督を務めた。世界をまたに駆けて活躍するチェコ人監督、スロバキア人監督の走りのような存在だったのだ。亡くなったのは、冷戦の終了も近い1986年だから、チェコスロバキアには帰りたくても帰れなかったのだろう。こちらの監督については試合前の記者会見で、スラビアのオーナーを務めるトブルディークが言及していた。

 実はダウチーク監督時代のバルセロナには、もう一人、スラビアとは関係ないけど、チェコスロバキアと関係するラディスラフ・クバラ(Ladislav Kubala)という選手が所属していた。ハンガリーのブダペストで生まれたためハンガリー人とされることもあるようだが、両親はスロバキア人で第二次世界大戦後にスロバキアに逃げてきて、スロバン・ブラチスラバの選手になり、チェコスロバキア代表でもプレーした。
 共産党のクーデター後の1949年には、オーストリアに亡命し、イタリアのクラブを経てバルセロナに移籍して、同じスロバキア人のダウチーク監督の元でプレーを始めたのである。バルセロナでは10年ほどプレーして、194ゴールあげている。その活躍もあって、スペイン代表にも選出され、後にはスペイン代表の監督も務めている。帰化はしていたのだろうけど、スロバキア人がスペイン代表の監督を務めていたなんて、思いもしなかった。それを言うと、戦後すぐにチェコ、スロバキアの選手、監督がバルセロナで活躍していたというのも驚きの歴史なのだけど。
2019年10月24日22時。












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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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