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2019年10月17日
「スラブ叙事詩の行方」(十月十五日)
去年だったか一昨年だったか、日本に何十年ぶりかに貸し出され、話題を集めたあるフォンス・ムハの「スラブ叙事詩」は、現在プラハのどこかの倉庫に眠っている。日本から帰ってきた後、チェコスロバキア第一共和国独立記念行事の一環として、ブルノの国際展示場などで、展示が行われていたが、それが終わった後は、行き場がなくなり、巻き取られて倉庫に放り込まれた。プラハは依然として、ムハとの約束であった専用の展示会場を用意できていないのである。
現時点では具体的な計画もできていないようで、このままではまた忘れられた作品になることを恐れたプラハ市では、5年と年限を切って、モラフスキー・クルムロフに貸し出す計画を立てていた。そのぐらいあれば専用の会場が準備できると踏んだのだろうが、5年どころか、最低でも7年はかかるだろうなんて声も漏れてきている。
それで、なのかもしれないが、モラビアの果てに送るよりはプラハの内部にとどめたいと考え出した一派が出てきて、プラハ南部のズブラスラフにある城館に展示をしようという声も上がっている。問題は、ズブラスラフで展示の準備にかかる時間が2年ほどと、半年から1年と言っているモラフスキー・クルムロフより長いことと、旧貴族への資産返還の一環で個人所有になっているため、賃貸料を払わなければならないことのようである。クルムロフは当然、そんなものはいらないと言っている。
担当者が代わると、引継ぎもろくにないまま、計画がひっくり返されることのあるチェコの役所の悪癖がまた出てきたということなのだろうが、市当局内にも、クルムロフ派、ズブラスラフ派があって、なかなか決められないようである。それどころか遺族も、プラハ嫌いで知られるジョン・ムハ氏はクルムロフを推し、別の孫娘はズブラスラフを推すという混沌とした状況にある。
昨日の夜、たまたまテレビを付けたら、この件に関するレポートが放送されていて、プラハの両派の声を伝えていたのだが、クルムロフ派(と思しき)人が、市会議員に両方の城館の現状を視察させて、説明を受けた上で、議会の投票で決めるのが一番いいと語っていたのに対して、ズブラスラフ派の人が、「スラブ叙事詩」がクルムロフに行ったのは共産党の決定だったと語っていたのには、唖然としてしまった。悪いことは何でも共産党のせいにしておけば、何とかなるのがチェコだけど、それにしてもプラハ市の関係者としては無責任な発言である。
今でこそ、チェコの至宝のように語られるムハの「スラブ叙事詩」だが、作品が完成した1920年代の終わりには、当時の芸術的志向が前衛芸術に向かっていたため、あまり高く評価されなかったようだ。だから、寄贈を受けたプラハ市も、専用の展示会場を建設するという約束を、ずるずると引き延ばし、なし崩しになかったことにしようとしていたのだろう。第二次世界大戦前の第一共和国の時代でさえ、建設されることはなく、チェコの文化財に指定されたのも実は2010年と最近のことである。
戦災を避けるために巻き取られてどこかに隠され、戦後プラハ市内の小学校の倉庫に移された後は顧みられることなく放置され、朽ち果てるに任されたいた。ジョン氏は、母親に連れられてその倉庫に出向き、雨漏りの水をかぶり変色しカビが生え、ところどころ破れた作品を前に涙を流した母親の思い出を語っていた。これがあるから、ジョン氏は、プラハ市に展示するのを嫌がっているのだろう。
そして、1950年代になって、モラフスキー・クルムロフの美術関係者が、再発見し、クルムロフに移して、修復作業を始めたのである。恐らく、共産党がクルムロフに移すことを決めたのではなく、クルムロフ側に許可を与えただけではないのか。共産党にとってはブルジョワの画家であるムハの作品をプラハで展示するのが許せなかっただけで、プラハ以外の地方であればどこでもよかったはずである。
数年にわたる修復の後、モラフスキー・クルムロフで展示が始まるのが、1963年だったかな。それから少しずつ興味を引き始めて、確か70年代だったと思うけれども、作品の一部が日本に貸し出されて日本中のあちこちで展示が行われたらしい。そんな関係者の努力の果てに「スラブ叙事詩」は価値を高め、芸術的にも高く評価されるようになったのだ。それにプラハが気付いて返せと言い出したのもそれほど昔の話ではないはずだ。その裏に、2000年代に入ってモラフスキー・クルムロフの城館を買収したインヘバという会社の存在があるという話もある。プラハでの展示会場の候補となっていた産業宮殿を所有していたのもこの会社だという。
とまれ、プラハの市議会で、まともな決定、つまりクルムロフ行きが決まることを願っておこう。
2019年10月16日12時。