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2018年11月14日
仮定法3(十一月九日)
チェコ語を勉強していて、最初に出てくる「jestli」の意味は、二つのうちどちらだっただろうか。直接仮定法とは関係のないほうから説明すると、「vědět(わかる)」「přemýšlet(考える)」「říct(言う)」などの動詞と結びついて、日本語の「かどうか」と同じような使い方をする。
Nevíš, jestli Pavel přijde?
パベルが来るかどうか知らない?
なんて感じなのだが、日本人がやりがちな間違いは、「来るかどうか」と「来るか来ないか」を混ぜてしまって、「Nevíš, jestli Pavel přijde, nebo nepřijde?」としてしまうものである。昔チェコ語を教えていた我が弟子がよくやっていたのだけど、考えてみたら弟子がやるということは、教えていたこちらの間違いが移った可能性も高い。いやあ申し訳ないことをしてしまった。
もう一つの使い方が、仮定法になる。その仮定法の「jestli」を語源的に考えてみると、「jest」は「být」の三人称単数「je」の古い形で、それに仮定表現の「li」が付いたものだと考えられる。本当かどうかは知らないけど、師匠がそんなことを言っていたような気がする。違ったとしても、こう考えておけば、「jestli」が仮定表現に使われるのも納得できる。学習者にとって有用なのは、言語学的に正しい理論ではなく、言語学的には間違いであってもそれに従えば正しく使える理論もどきである。
チェコ語学習者の中には、チェコ語では頻繁に使われる仮定の「jestli」を使った表現を聞いて、何か気に入らないと感じたことがある人が居るかもしれない。日本語だと「〜がほしければ」とか、「〜したければ」とか、相手の意思を「ほしい」「たい」を使って直接仮定法にするのは、かなり失礼な言い方で、よほど親しい間でもなければ、使うと相手を怒らせることになる。しかし、チェコ語では、「chtít」を使って相手の意思を直接確認するような質問もできるし、三人称でも何の問題もなく使えるのである。
Jestli chcete, můžete se mnou přijít.
この文を直訳すると、「もし来たかったら、私と一緒に来てもいいですよ」と誰に対してなら使えるかなと考えなければならない文になるのだが、チェコ人としては「よければ一緒に行きましょうか」ぐらいの感覚で使っているのだと思う。以前は親しい人ならともかく、よく知らない人に「Jestli chcete」と言われるたびに、一瞬むっとしていたのだが、最近は気にならなくなったし、自分でも使うようになってしまった。以前は使うのも避けていたんだけどね。
この「jestli」は、文頭、もしくは仮定の節の頭に置くだけで、あとは動詞の時制も人称変化もそのまま使えるから使い勝手がいい。人を誘うときにも「時間があれば」とか気軽に使えるし。「kdyby」を使うと硬すぎというか構えすぎの感じがするので、軽く誘うときには使いにくいんだよね。この感覚がチェコ人と同じかどうかは知らない。苦労して覚えたことはできるだけたくさん使いたいと思うのと同時に、軽いどうでもいいことよりも何か重要な話をするときに使いたいとも考えてしまうのも学習者の性だろうか。
もう一つ「jestli」と同様に使えて、同様に使い勝手がいいものに「pokud」がある。音の響きのせいか「pokud」が硬く強く響くように感じられるけれども、これもチェコ人がどう感じているかは知らない。使い分けは特に何かの基準に基づいているというわけではなく、感覚的に適当にやっている。決まり文句的にどちらかとしか使わない表現、使えない表現もある。
二つほど「pokud」としか使わない例を挙げておく。
Pokud možno, pošlete tento dopis do Japonska letecky.
できればこの手紙を日本に航空便で送ってください。
他の表現を使うと長くなるところを、「Pokud možno」だけで「可能ならば」という意味を表せるので、結構重宝する。しかもちょっと特殊な文法になるので、きれいに使えるとチェコ人を驚かせることもできる。こんなにチェコ語ができるんだよというハッタリ用の表現はいくつも確保してあるが、これもそのうちの一つ。他はほとんど口語的過ぎる表現や方言で使いどころが難しいけど、これはどこでも使えるし。
もう一つは日本語で「確か〜だと思う」というような状況で使う表現。
Pokud se nemýlím, měl by být Pavel v Japonsku.
確かパベルは日本に行っているはずだと思うけど。
直訳すると、「Pokud se nemýlím」は「私が間違っていなければ」となるのだが、そんな外国語をそのまま日本語にしたような表現は、翻訳以外では使うものではない。「確か」ではたりないと言うなら、「私の知る限り」とでも訳そうか。この表現、チェコ語では、個人的にもよく使う表現なので、自然な日本語の訳を当てておく必要があるのだ。
改めて、「jestli」と「pokud」の使い分けについて考えてみると、無意識に使い分けしているから、本当にこんな使い分けをしているという確信はないけど、主語が二人称の場合には軟らかく感じられる「jestli」を使って、一人称の場合には「pokud」を使っているような気もする。多少変でも勢いで押し切ってしまえというのがこちらのチェコ語だからなあ。
とまれ、日本語と同様に、チェコ語にもいくつかの仮定表現があって、日本語と同様にそれぞれ意味するところや使い方が微妙に違う。その違いは、これも日本語と同様に個人差が大きいようにも見受けられる。ならば、開き直って、間違いだと訂正されない限りは、自分なりの使い分けをしてもいいのではなかろうか。訂正されないということは、多少変でも許容範囲にはあるということだろうし。
許容範囲を超えるたら、間違いだと指摘してくれる人がいるというのはありがたいことである。その結果、使うのを諦めた言葉があるとしてもである。ちょっと皮肉に響いただろうか。実は「pokud」に似た「dokud」という言葉を、使用するのをあきらめたのである。
以前は「お金がある限り」というのを、この言葉を使って表現しようとがんばったのだけど、何回やってもうまくいかないので、ひよって「お金がある間はずっと」とか「お金がなくなるまでは」なんて言うようになってしまった。師匠の訂正も説明も毎回違っていたような気がするんだよなあ。だからチェコ語で使い方が一番難しいのは「dokud」だと断言しておく。
これでチェコ語の仮定法についてはひとまずおしまいということにする。
2018年11月10日23時55分。