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2018年11月04日

自己責任問題其の二(十月卅一日)



 自己責任論でジャーナリストを批判する人たちを批判している人たちには、同業のジャーナリストやらマスコミ関係者やらが多いようであるのだが、その擁護の論理もなかなか醜悪である。大抵は、現地取材の重要性を訴え、国民の知る権利を満たすための取材での出来事だったのだから批判されてはならないというようなことが主張されている。この論理に、自分たちが国民の知る権利を代表しているのだから、取材のためだったら何をしてもいいというマスコミ、ジャーナリスト達の思い上がりを感じる人も多いはずである。
 この中国や韓国の反日無罪に通じるような、いわば取材無罪という考え方は、現在世界中で既存のマスコミが読者の信頼を失いつつある原因にもなっている。マスコミは、行政、司法、立法にづく、第四の権力を自任して特権化した時点で、存在意義を失ったと言ってもいいのかもしれない。それを端的に象徴するのが、この取材無罪的な考え方であり、災害が起こったときに呼ばれもしないのに被災地に出かけて、知る権利とやらをのもとに、心ない質問をして被災者を激怒させたり、苦しめたりするテレビのくそレポーターどもである。
 仮に、取材に出かけたことについては批判できないにしても、国の制止を押し切ってのことであったらしいことを考えると、取材に失敗して誘拐されたことについては強く批判されるべきであろう。そこをも批判しないのであれば、マスコミ、ジャーナリストと呼ばれる連中が身内の失敗はかばうとして強く批判している警察と大差ないということになってしまう。

 もう少し深く考えるなら、外国のマスコミが取材と称して紛争地帯に入ることが、現地の社会にどんな影響を与えているのかまで視野に入れなければならない。取材のためにコーディネーターと称する人物やら護衛やらを雇い、現地の感覚から言えば大枚の謝礼を払うことになるはずである。もちろんそのお金で家族が生き延びられたなんていい話も発生するだろうけれども、何度も繰り返されれば謝礼金を巡る対立を現地社会に巻き起こすことになりはすまいか。それに武装勢力の勢力範囲での活動を許されているということは、コーディネーターとやらも護衛も、武装勢力と何らかのつながりを持っている可能性が高く、謝礼の一部が武装勢力の資金になっている恐れもある。
 この手の外国からやってきた連中が金ばら撒いて現地社会に悪影響を与えた例としては、パリダカの例を挙げておけば十分だろう。パリダカについては主催者や取材陣を金ずるにしていた非合法組織が、手に入れた金で武装を整え、さらに儲けの大きい誘拐やら、キャンプ地の襲撃をねたにした脅迫を繰り返すことになったために、アフリカから撤退せざるをえなくなったという話を聞いたことがある。自業自得ではあるけれども、同様のことが取材と称する連中が集まる紛争地帯で起こっていないとは言えまい。

 それに、ジャーナリストと招する連中がどんな取材をしているのかという問題もある。かつて北アフリカの難民キャンプに仕事で出向いた人から、ボランティアやジャーナリストと称して滞在してた連中の話を聞いたことがある。やつらは早朝の一、二時間申し訳程度に仕事の振りをするだけで、残りの時間は、難民キャンプの近くの町の超高級ホテルでバカンス生活をしていたらしい。一日の宿泊費でそれこそ数千人の難民の一日の食費がまかなえるようなホテルで快適な生活をし、水不足で難民たちが苦しむその近くで、日がなプールで優雅に泳いでいたというのだから、ボランティアも取材も詐欺みたいなものである。
 これはヨーロッパの事例だけど、日本のマスコミ、ジャーナリストたちも、タリバン騒動で呼ばれもしないのに押しかけたパキスタンでは、ホテルから一歩も出ないで取材していたという話もあるから、こっちのほうがひどいか。それに日本のジャーナリストが、事前にコーディネーターや通訳に約束していた謝礼を踏み倒したり、全額払わなかったりして、差額を懐に入れたなんて話も踏み倒された側から聞いたことがある。えせ取材旅行に家族を連れてきていたなんてのもいたから、最初から謝礼を払ったことにして踏み倒し、家族の旅費に当てるつもりだったのは明白である。その取材とやらの結果でてくる記事を、どこまで信用していいものやらである。本人が書いたものであるのかどうかすら怪しいのだしさ。
 ジャーナリストと称する人たちが、みんながみんなこうだというつもりはないけれども、マスコミやジャーナリストの存在価値を貶めているのは、マスコミ自体、ジャーナリスト自身であることは否定できまい。取材だから、報道のためだからなどという論理ですべてを正当化することはできないし、許されるべきではない。

 今回解放された人へのバッシングをマスコミが非難しているけれども、これまでの弱ったものは袋叩きにし、溺れる犬はさらに棒で叩くというのを実践してきた連中に非難されても、お前らが言うなという反応が返ってきて終わりである。調子のいい間は散々持ち上げて提灯記事を書いておきながら、失敗すると寄ってたかってあることないこと書き散らして、それまでの賞賛をなかったことにしてしまうのがマスコミの常套手段ではなかったのか。それをなかったことにしてバッシング批判をしても、説得力はない。
 ネット上でのバッシングにしても、子供たちの間のいじめ問題にしても、弱ったものは袋叩きにしてしまうマスコミの報道姿勢が影響を与えているとは考えないのだろうか。そんな想像力があれば、報道のためなら何をしてもいいなんて思い上がったりはしないのだろうけどさ。
 予定とは違う方向に筆が進んだので、この件、もう一回。
2018年11月2日20時15分。










タグ:マスコミ
posted by olomoučan at 19:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言
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