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2018年11月03日
自己責任問題(十月卅日)
シリアの紛争地帯に取材に出かけて誘拐され、監禁され続けてきた日本人ジャーナリストが三年ぶりに解放されたことで、あれこれ議論が噴出しているようである。一つは例の、国の渡航禁止命令や勧告を無視して戦争地帯に向かった人間に関しては、危険を承知した上で自らの意志で出かけたのだから、誘拐されようが殺害されようが国は動く必要はないという、いわゆる自己責任論という奴である。それに対して、マスコミやジャーナリストの関係者を中心に、戦場に出向いて取材活動をすることの重要性を説き、ジャーナリストの行動を擁護しているグループもあるようである。
この二つの議論が全くかみ合っていないのは、最近の日本におけるこの手の議論の例に漏れない。この場合のかみ合わない理由は簡単で、国家の責任と個人の責任という本来同じレベルで議論してはならないものを一緒くたに扱っているからである。この二つは別々に議論し、それぞれの責任について問われなければならないはずなのに、ごちゃまぜにするから、読んでもどこか歯切れの悪い納得のできない議論に終始してしまうのである。
まず、国の責任という点から考えてみよう。これはもう、議論の余地もなく、動かなければならない。拉致されたのが犯罪者であろうと、国家にとって都合の悪い人物であろうと、日本人である以上は、日本という国が責任をもって対応し、解放に向けて動かなければならない。それは日本という国が、現時点では自国民と他国民を峻別して、自国民を守るべき国民国家という形態をとっている以上、当然のことである。窮地に陥った際には国家が支援するという前提があるから、国民は義務を受け入れるのである。これが個々の国民に対する責任。
それから、外国に対する責任というものもある。国民国家とはいいながら、日本に住む外国人も、外国に住む日本人も増えている。長期的に住みはしなくても、留学や国外赴任で数年程度外国に居住する人も多いし、国外を旅行する日本人も多い。そんな日本人が問題なく受け入れてもらえるのは、個別の人から受ける差別はあっても、日本人だからという理由で差別されて不当な扱いを受けることがないのは、日本という国に対する信頼があるからである。その信頼は、経済的な豊かさだとか軍事力だとかいう即物的なものに依存しているのではなく、日本人が問題を起こした場合には、最終的には日本政府が責任を取ってくれるという信頼である。日本のパスポートを持っていれば、ビザなしで入国できる国が多いのもその信頼に基づいているはずである。
チェコでは、以前イギリスの入国管理局が飛行場に出張してきて、イギリス行きの飛行機のチケットを持つ人たちのパスポートのチェックをし、飛行機に乗せる乗せないを決めていたことがある。これは完全な内政干渉だったけれども、原因は、チェコの政府がイギリスに入国したチェコ国籍の人が起こした問題についてちゃんと責任をもって対応するとは思われていなかったことにある。当時、イギリスに出国するチェコ国籍のロマ人が多く、ほとんど拒絶されていたけれども、差別を理由に難民申請をしようとしていたのだったか。チェコ政府がそのイギリスに出たロマ人について責任ある対応を取らなかったことが、イギリス政府が内政干渉を行った原因だった。同じような事態がカナダとの間でも発生していたような記憶もある。とまれチェコ政府は、信用されていなかったのである。
話を日本に戻せば、これまで外遊でやってきた国会議員の醜態から、パスポートや財布をすられた観光客に至るまで、日本が、正確には大使館の職員たちが、問題の解決のために頑張ってきたからこそ、日本は信頼されており、日本人は世界各地で観光したり仕事したりできるわけである。よきも悪しきも、世界中のどこであっても日本人が起こした出来事の最終的な責任は日本という国のものであって、今回だけではないけれども、日本人が紛争地帯にのこのこ出かけて行って誘拐されるという失態を起こした場合にも、日本政府は責任をもって解決にあたらなければならない。これを怠り続ければ、日本に対する信頼は失せ、国外における日本人、日系企業の活動は制約が今まで以上に大きくなってしまうだろう。これは個人的にも困る。
最後に考えなければいけないのは、国民全体への責任である。日本という国は、個々の日本人を守ると同時に、日本人全体の安全も守らなければならない。だから、日本人が誘拐され政府が交渉の場に立たされたときに、誘拐犯の言いなりになって、犯罪者を釈放したり身代金を払ったりすることは許されない。この手の武装勢力、犯罪組織は、情報の交換をしているに決まっているのである。日本はカモだと認識されてしまえば、日本人誘拐が続発するのは目に見えている。政府は、正確には担当者は、誘拐された人の解放を目指しつつ、日本人を誘拐するのは割に合わないと思わせるような交渉をしなければならないのだから、その苦労は想像するにあまりある。
その交渉の役に立つという観点から言えば、誘拐されたことが明らかになった時点で(こういう情報が表に出るのもあまり望ましいことではないのだろうが、最近は誘拐した側が交渉の一環として公開してしまうから仕方がない)、自己責任論が出てきて、国は何もするなとか、身代金は払うなとかいう方向に世論が向かうのは、悪いことではないだろう。交渉の材料として、誘拐犯の要求に応じられない口実として使用できるのだから(この辺は「マスター・キートン」からの想像である)。ただ、誘拐されて監禁されていた人が解放された後で、つまり交渉の必要がなくなった後で、こんな議論が出てくるのは健康的ではない。国にとって日本人の失態をしりぬぐいするのは義務なのであって、これを誘拐されたジャーナリストへの批判に結びつけるのは間違っている。
実際にどの程度の動きだったのかは確認していないが、誘拐されて交渉が長引くと、関係者や野党などから、交渉に全力を尽くせとか、国は十分なことをしていないとか、国に対する批判が出てくるものだが、これは、実際に交渉を担当した人からすれば、ただの害悪でしかなかろう。誘拐組織側の条件交渉のネタになってしまうのだから、ぎりぎりの綱渡りをしているところを後ろから背中を押されるようなものである。
繰り返しになるが、日本人が外国で、それが紛争地帯であれ、誘拐などの犯罪に巻き込まれたとき、国が動くのは当然の義務であって、それを批判するのは天に唾するようなものである。現在は国の威信をかけて解決に尽力しているものが、一度自己責任を口実に国が義務を果たさないことを許してしまえば、自己責任の範囲が拡大されて、そのうち旅行者がパスポートや財布をすられた際にも、自己責任で大使館が何もしてくれなくなるかもしれないのだから。
と、まあ以上がこの件について国の責任という観点から見た場合の考えである。だからといって解放されたジャーナリストを批判するなという気はない。ただし、これに関しては、個人の責任という観点から、国の責任とは切り離した形で批判されるべきである。
2018年11月1日23時。
タグ:マスコミ