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2018年11月10日

マサリク大統領についてあれこれ(十一月五日)



 マサリク大統領は、一般には南モラビアのスロバキアとの国境の町ホドニーンの出身で、当地のドイツ系貴族の所有する農園で働いていたチェコ人の下女とスロバキア人の馬丁の間に生まれたと言われている。それが、分断されていたチェコ人とスロバキア人が結びついて建国したチェコスロバキアを象徴するような生まれだとして喧伝されるわけだが、それに異を唱える人がいないわけではない。初代大統領の出自というデリケートな問題ではあっても完全なタブーとはなっていないようである。
 コメンスキー研究者のH先生は、以前お宅にお邪魔してあれこれお話を伺ったときに、マサリク大統領はハプスブルク家の実質的な最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の隠し子だったんだなんてことを仰っていた。その証拠としては、皇帝本人のだったか、皇帝の執事のだったかの手帳に、マサリク大統領の母親と同じ名前が書いてあって、その後に日付と処理済という言葉が記されているという事実を挙げられた。手帳には他にも皇帝が関係を持った女性の名前が書かれているらしい。自分では見ていないし、見ても読めないだろうけど、同名の別人ということがあってもおかしくなさそうではある。

 それに対して先生は、状況証拠になるけれども、マサリク大統領の経歴を見ると、ただの馬丁の子供だとは思えないと仰る。マサリクの生まれた19世紀の後半といえば、初等教育は一般に普及していたけれども、高等教育を受けられたのはごく限られた層だったと考えていいだろうか。当時の社会通念で言えば、社会の下層から出てきた子供が、確かブルノのギムナジウムを経てウィーンの大学に入り、さらにはプラハの大学の教授になるというのは稀有なことだったのは確かだろう。先生はこれについて、プラハであれウィーンであれ、マサリクが向かったところ、マサリクが望んだところのドアは、まるで自動ドアでもあるかのように開かれたのだと仰る。
 マサリク大統領に関しては、苦学して大学まで進学したというイメージを持っていたのだが、当時の社会では苦学して優秀さを示しても、有力な後援者でもいない限り大学まで進学すること自体が難しかったのだと言われれば、納得してしまう。戦前の日本でも書生なんてものが存在したわけだし。その有力な後継者の代わりになったのが、皇帝の落胤という出自だということなのだろう。

 先生は、このことを前提にすると、チェコスロバキアが独立しマサリク大統領が誕生したのは、歴史の皮肉だと続けられた。オーストリア・ハンガリー帝国側から見れば、非公式の行程の息子が領土を分割して戴冠してしまったことになるし、チェコスロバキア側から見れば独立してなおハプスブルク家の血を国家元首として戴くことになったのだから。先生はそう言ってからかうような笑みを我々に投げかけてきたのだけど、このマサリク大統領落胤説をどこまで本気で語られたのだろうか。
 こうであってもおかしくはない話だから、これをテーマに歴史小説というか、時代小説というか、誰か書いていないかな。こういうのは学術的に解明しても面白くないから、いろいろフィクションを盛り込んで、ありそうな嘘話にしてしまうのが一番いい。独立したばかりのチェコスロバキア軍の情報部が、オーストリアの秘密警察とマサリクの出自に関する文書を巡って争うとか。独立前のハプスブルク家の宮廷内でマサリクの処遇を巡る暗闘があるとか。あれば読んでみたいものである。

 マサリク大統領の妻となったのは、フランス系のアメリカ人シャルロット・ガリクで、この女性についてはチェコでもあまり語られることはなかったのだが、今年が独立百周年だということからか、ニュースなどの特集で、マサリク大統領との出会いや、いかに夫を支えたかなんてエピソードが紹介されていた。記憶に残っているのは、交際を申し込むつもりだったマサリク大統領が、夫人の受け答えに感動して、思わず結婚を申し込んだというエピソードと、チェコ人社会から敵視されていた時期に、もうチェコ民族の独立はあきらめてアメリカへ渡ろうかと弱音を吐いたマサリクを叱咤激励して活動を続けさせたという話である。
 マサリク大統領は、殺人犯と目されたユダヤ人を弁護して無罪を証明したり、チェコの民族の古さを証明するとされたゼレナー・ホラ手稿が発見者の作った偽書であることを証明するなどした結果、一時はチェコ民族の裏切り者扱いをされていたのだ。それにもめげず、祖国、いや自らの民族の権利の拡大と独立を求めて運動に邁進した人物としてイメージしていたのだが、その陰には夫人の献身的な支えがあったというわけなのである。交際を申し込もうとして結婚を申し込んだマサリク大統領の目は正しかったというところか。ミドルネームに夫人の旧姓のガリクを付けることを決めたのも、そんな夫人の素晴らしさを見抜いていたからと言えば、ほめ過ぎになるだろうか。

 マサリク大統領がハプスブルク領内にいられなくなって、国外でチェコ、チェコスロバキアの独立のための活動を続けていた時期にも、夫人はプラハに残って秘密警察の監視を受けつつ、子供たちを育て上げたという話だし、マサリク大統領の活躍の陰には常にシャルロット夫人がいて、ある意味でチェコスロバキアの独立に最も貢献した人物だと言えなくもない。ハベル大統領の最初の夫人であるオルガ夫人のことも考えると、チェコで敬愛される政治家は奥さんで持っているところがあるような気もする。マサリク大統領にも秘密の愛人がいたとかいう話もあるし、ハベル大統領は以前から関係のあったらしい二人目の奥さんと結婚しているし、そんなところも二人は似ているのかな。
 ハベル以後の大統領夫人というと、クラウス大統領夫人は、伴侶というよりはクラウス大統領信者という感じで、自分の夫のことを「パン・プレジデント」って呼んでいたなあ。二人目のハベル大統領夫人が親密さを強調しようとしてなのか愛称で「バシェク、バシェク」と呼ぶ違和感に比べればマシだけど。今の大統領夫人は控えめにすぎてほとんど存在感がない。テレビで見るたびにあれこの人だったっけと思ってしまう。
2018年11月7日15時30分。




値段が間違っているような気がする。

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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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