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2020年11月28日

形容詞短語尾形(十一月廿五日)



 動詞の受身のところでちょっとだけふれて放置してしまった形容詞の短語尾系である。実は一部を除いてそれほど使うものではなく、書けることもそれほど多くはないのだけど、形容詞についてまとめようと思ったら、触れないわけにはいかない。ものによっては動詞の受身形なのか、形容詞の短語尾形と解釈するべきなのかわからないものもあるのだけど、原則として動詞「být」とともに述語として使用するという点ではどちらも同じだから、あまり気にしなくてもいい。

 形容詞の短語尾形は、硬変化の形容詞の語尾の長母音を取り去って、主語の性、単複に合わせて、動詞の受身形と同じ短母音の語尾をつけてやるだけである。さらにわかりやすく言えば、副詞とされる「rád」と同じ語尾と言ったほうがいいかもしれない。考えてみれば「rád」も副詞の癖に、主語に合わせて形を変えなければならないという不思議な言葉である。
 念のために繰り返しておけば、単数が主語の場合には、男性であれば語尾なし、女性は「a」、中性は「o」をつけ、複数の場合は、男性活動体は「i」、不活動体と女性は「y」、中性は「a」をつけることになる。文にせずに、形容詞の短語尾形だけを使うときには、中性単数の「o」をつけた形を使う。

 この短語尾形で一番よく使う形容詞は、「hotový」だろうか。「できあがった/完成した」という意味の形容詞なのだが、作業が終わったときに、「hotovo」と独り言のように言ってしまうことも多い。また、「もうできた?」なとと質問するときにも、中性単数の形を使って、「Už je hotovo?」だけではなく、動詞「mít」を使って「Už máš hotovo?」と言うこともある。
 もちろん、主語を据えて、「Večeře je už hotova(夕食はもうできたよ)」と言っても間違いではないはずなのだが、この形容詞の短形というのは、どうして古い印象を与えてしまうので、「Večeře je už hotová」と形容詞の長母音の語尾を使ったほうが、少なくとも教科書で学んでチェコ語を勉強した人間には、自然に感じられる。さらに言えば、動詞の受身形を使いたくなる。たとえば「Večeře je už připravena」とか、「Večeři máme už uvařenou」とかである。

 以前、チェコ語を勉強し始めの頃、チェコ人の知り合いに、「Já sú zvědav」と言われてわけがわからなかったことがある。当時はまだそれほどチェコ語に詳しくなかったから、「sú」が「jsem」のモラビアの方言であることも、「zvědav」が形容詞の短語尾形であることもわからなかったのだ。ちなみに「zvědavý」は、「知りたくてたまらない/好奇心にあふれる」という意味である。
 翌日だったかに、師匠に質問したら、「zvědav」は、「zvědavý」の古い文語的な、書き言葉的形なので、方言であるつまりは口語的表現である「sú」と一緒に使うのはちょっとなあという説明が帰ってきた。師匠は、チェコ語を勉強している外国人に、こんな形もあるよと教えるために、文語的な短語尾形を使ったんじゃないのかなんて推測していたけど、ならば「sú」を使ったのは方言を教えるつもりだったのだろうか。

 たまに使われているのに気づくものとしては、健康、病気に関する形容詞があって、「健康な」という形容詞「zdravý」が短語尾形では「zdráv」と長母音が出てくる。命令形を使った「Buďte zdráv」なんてのを、耳にすることがある。一方「病気の」という意味の「nemocný」は「nemocen」となる。語尾のない男性単数では出没母音の「e」が出るのだが、語尾をつけると消えてしまうので、女性単数は「nemocna」という形になる。

 形容詞の短語尾形にはこのぐらいしか書くことがないのである。形容詞に関してはこれで終わりかな。形容詞から名詞、動詞を作る方法というのもあるけど、これはまた機会を改めることにする。
2020年11月26日23時。









タグ:形容詞

2020年11月24日

形容詞の作り方3(十一月廿一日)




C末尾の「t」を「cí」に変える
 これまでの三つとは違って、軟変化の形容詞を作ることになる。この方法で作られた形容詞は、「〜するために使う」ことを意味する。この形容詞化も使える動詞は限定的なので、外国人としては、一般的に使われているものを覚えて使うのがせいぜいである。覚えておいたほうがいいのは、原則として不完了態の動詞から作られるということだろうか。これもまず比較的よく使われる例を挙げておく。

・šít → šicí 縫うための
・psát → psací 書くための
・prát → prací 洗うための
・přijímat → přijímací 受入れるための

 一つ目の「šicí」は、機械を意味する言葉と組み合わせて、「šicí stroj」で、縫い物をする機械、つまりはミシンという意味になる。二つ目も同様に「psací stroj」でタイプライターを意味することになる。残念ながらこちらではワープロは一般的ではなかったので、「psací program」でワープロソフトということにはならないようだ。
 三つ目は洗剤を表す言葉に使われる。「prací prostředek」というのだが、「prostředek」は、「真ん中」という意味以外に、手段や方法を意味することがあるのである。ちなみに別の動詞から作った「čisticí prostředek」も洗剤を意味するが、「prací prostředek」が洗濯に使う洗剤なのに対して、こちらは掃除に使う洗剤のことである。

 最後は、「přijímací zkouška」という組み合わせでよく使われる。いや複数で「přijímací zkoušky」にするかもしれないけれども、受入のための試験、つまりは入試のことである。面接だと「přijímací pohovor」なんて言うこともある。入試は「přijímačky」と一語化した形が使われることも多いけれども、ほんらいは動詞から作られた形容詞が基になっているのである。
 他にも「hrací automat(スロットマシーンのようなゲーム機)」、「odbavovací hala(空港の出発手続きをするフロアなど)」なんかに、この方法で作られた形容詞が使われている。


D三人称複数の変化形に「cí」をつける
 この形容詞も軟変化で、不完了態の動詞からしか作れない。前の形容詞化と違うのは、府完了態の動詞からであれば、ほぼ間違いなく作れることである。「se」のつく動詞の場合には、「se」も一緒に形容詞化するというのも覚えておいたほうがいい。意味は「〜している」。

・jít → jdou(過去) → jdoucí(形容詞)
・vracet se → vracejí se(過去) → vracející se(形容詞)

 一つめの「jdoucí」は、副詞的な「kolem」とともに、「kolem jdoucí člověk」という形で、「そばを歩いている人」という意味で使われる。「člověk」が省略されて、「jdoucí」が名詞として使われているように見える例も多い。このように、追加される副詞的なものが一つの場合には、前から名詞にかけることも可能だが、数が増えると後からかけることが多い。関係代名詞を使わない分、日本人には楽である。ただ「,」で区切る必要があるのかどうか不安になるので、普通は動詞から使った形容詞だけで前からかけることにしている。昔「Je poměrně hodně Japonců umějících alespoň trochu česky」なんて文を作ったことはあるけどさ。

 二つ目は、サッカーなどのスポーツの中継で、自陣に戻ろうと走っている選手を形容するのに使われる。ディフェンスの選手につけて「vracející se obránce」とすることが多いかな。ハンドボールの場合には、退場から復帰しようとする選手とか、キーパー抜きで攻撃をしたあと、ゴールに戻ろうとするキーパーなんかにも使うし、怪我や病気などから仕事に復帰しようとしている場合にも使えるかな。
 この手の形容詞、もしくは名詞が使われているものとしては、ツィムルマンの映画の題名が真っ先に思い浮かぶ。「Jára Cimrman, ležící, spící」。「ležet(横になる)」と「spát(眠る)」という二つの不完了態動詞から作られた形容詞が後ろからかけられているのである。名詞的に使っていると考えたほうがいいかもしれないけど。

 ここに上げた形以外にも、動詞が基になって作られたと思しき形容詞はいくつもある。「zajímat se(興味を持つ) → zajímavý(興味深い)」なんかがその例なのだけど、規則性があるのかどうか判然としないのと、同じ形の場合に同じような意味が加わることになるのかよくわからないのとで、取り上げないことにした。いや、師匠に教わったのが、ここに挙げた5つの形容詞の作り方だといったほうが正しいか。
2020年11月22日21時30分。











タグ:形容詞 動詞

2020年11月23日

形容詞の作り方2(十一月廿日)



 続いて動詞から作られる形容詞の話である。こちらもいくつかの作られ方があって、それぞれ意味、使い方が違っている。日本人としては形容詞というよりは動詞の連体形のような印象も持ってしまうのだが、普通の連体修飾節と違って、関係代名詞を必要とせず動詞を名詞の前に置くことが出来るので使えるとうれしいものでもある。文末で述語的に使う場合もあるので、確かに形容詞ではあるのだろうけど。


@受身形に形容詞の語尾をつける
 これについては、動詞の受身のところで簡単に触れたが、基本的な形、つまり男性名詞の単数が主語のときの受身形の末尾の子音「n」、もしくは「t」に硬変化の形容詞の語尾をつけてやればそれで出来上がりである。一部はすでに完全に形容詞として辞書に載せられているぐらいだが、そうでないものでも普通に使われている。
 受身形は、動詞「být」と共に述語として使うだけなので、名詞の前で使う場合には形容詞化する必要があると言ってもいいのかな。

・otevřít → otevřen(受身) → otevřený(形容詞)

 これを例に簡単な文を作ってみると、次のようになる。述語として使う分には、どちらでも意味はほとんど変わらないと思う。

・Okno je otevřeno.= Okno je otevřené.
(窓が開いている)
・Otevřené okno jsem zavřel.
(開いている窓を閉めた)


A過去形に形容詞の語尾をつける
 こちらは受身から作るのとは違って、自分であれこれ作るのは難しい。すでに使われている形容詞を見て、これはあの動詞から作られたのだと理解するのがせいぜいである。チェコ語が母語の人ならある程度自分で考えて作れるのだろうけど、外国人には難しい。とまれ、比較的よく使われる例を3つ挙げておく。

・minout → minul(過去) → minulý(形容詞)
・zalézt → zalezl(過去) → zalezlý(形容詞)
・zasloužit → zasloužil(過去) → zasloužilý(形容詞)

 一つ目の「minout」は「過ぎる」という意味の動詞で。その過去形からできた形容詞は「過ぎた/過ぎ去った」という意味から、「過去の」という意味で使われる。週や月などと共に使うと「過ぎたばかりの」、つまり一つ前の週や月である、先週、先月を意味することになる。
 二つ目の形容詞は、ボサーク師匠のサッカーの中継でよく聞くので覚えてしまったのだが、守備の際に完全に引いてしまって前に出ようとしない様子を「zalezlý」と表現する。動詞の「zalézt」は、大学書林の辞書には「這い込む」という語義が上がっているが、形容詞のほうは一定のエリアに入り込んで出てこない様子を表すのに使うと考えてよさそうだ。となると日本語の引きこもりに近い意味でも使えそうである。

 三つ目は、映画などのタイトルロールで、俳優の名前に付されていることのある「zasloužilý umělec」というのが一番よく見る使い方だろうか。辞書だと「〜に値する」などと書かれているけれども、自らのなしたことによって何かに「値する」場合に使用する動詞である。言い換えれば、「〜に値する業績を上げる」ということで、形容詞形の「zasloužilý」は、「(顕彰されるに)値する業績を上げた」ということになり、「zasloužilý umělec」は「文化功労者」とも言うべき存在なのである。
 他にも、「zemřelý(亡くなった)」「zahynulý(亡くなった)」「pozůstalý(遺された)」など、特に事故や災害に関するニュースでしばしば耳にする言葉の中にも、動詞の過去形が元になったものがいくつかある。ただ、後の名詞が省略されることが一般化して、形容詞というよりは名詞として使われている印象もある。


B原形に「elný」をつける。
 動詞に「el」をつけることで、人を表す名詞を作ることがあるのだが(たとえば「učit(教える)」→「učitel(教える人=先生)」)、さらに「ný」が加わると、「〜することができる」という意味の形容詞になる。これもすべての動詞から作れるというものではないし、動詞によっては、原形ではなく、受身形を利用するなど微妙に形が変わるものもあるので注意が必要である。

・pochopit → pochopitelný 理解しうる
・srozumět → srozumitelný 理解しうる
・číst → čitelný 読める
・přijmout → přijatelný 受入可能な

 この手の形容詞は、「ne」をつけて否定する形で使用することのほうが多いような印象もある。動詞を否定形にした「není přijatelný návrh」よりも、「je nepřijatelný návrh」のほうをよく聞くような気がする。
 最後に一つ覚えておいたほうがいい言葉を上げておこう。動詞「obnovit」は、「nový」という形容詞とかかわりがあって、「新しくする、再建する」などの意味がある。そしてこの動詞からつくられる形容詞「obnovitelný」は、新しくすることが可能ということで、「再生可能な」という意味で使われる。つまり「obnovitelná energie」は、流行で嫌になるほど耳にする「再生可能なエネルギー」を意味するのである。
2020年11月21日22時。












タグ:形容詞 動詞

2020年11月22日

形容詞の作り方1(十一月十九日)



 代名詞に続いて、形容詞について書いた文章をまとめたリストを作ろうと考えて、何を書いたかチェックしていたのだが、一つ大事なことを書き忘れていたことに気づいた。他の品詞から作られた形容詞の話である。形容詞の中には、最初から形容詞というものもあるが、名詞や動詞から作られた形容詞も多く、その作られ方には、ある程度の規則性がある。いくつかはすでに簡単に触れたが、ここで改めてまとめておく。
 まずは名詞から作られる形容詞から。以前名詞から作られる形容詞には軟変化のものが多いと書いたことがあるが、名詞に「-í」もしくは「-ní」をつけて形容詞にすることが多い。もちろん名詞の後ろにそのままつけることは滅多になく、微妙に形が代わることも多いのだが、慣れてくるとある程度は考えなくてもできるようになる。ここまでたどりつくのだ大変なのはその通りだけど、不可能ではない。

 名詞から語尾をつけて形容詞にする場合に覚えておいたほうがいいのは、@末尾に母音がある場合には取り去る。A形容詞化するための語尾をつける子音が、「c」「k」の場合には「č」に変えるなどの子音交代が起こる。B出没子音の「e」がある名詞の場合には、複数二格の末尾の母音を取った形に、形容詞の語尾をつける。C名詞の長母音が形容詞では短母音化する。の4点だが、付け加える語尾によっては適用されないこともある。


@「í」を付ける。
・koza → kozí ヤギの
・kohout → kohoutí 雄鶏の
・kočka → kočičí 猫の
・slepice → slepičí 雌鶏の
・pes → psí 犬の
・lev → lvíライオンの
・pták → ptačí 鳥の

 この形で形容詞を作るのは動物の名前から作るものが多い。ただし、動物の子供を表す名詞には「cí」を付けることがある。「tele→telecí(子牛の)」「kuře→kuřecí(雛鶏の)」などである。


A「ní」を付ける。
・voda → vodní 水の
・kostel → kostelní 教会の
・kniha → knižní 本の
・radnice → radniční 市役所の
・divadlo → divadelní 劇場の
・léto → letní 夏の

 おそらくこれが最も一般的な名詞から形容詞を作る方法である。


B「ový」をつける。
・vlak → vlakový 電車の
・čaj → čajový お茶の
・počítač→ počítačový コンピュータの
・čokoláda→ čokoládový チョコレートの

 この形は比較的新しい、新しく使われ始めた名詞の場合に使う印象がある。いや、「časový(時間の)」なんかもあるから、そうでもないか。


C「ský/cký」をつける。
・lázeň → lázeňský 温泉の
・kuchyň → kuchyňský キッチンの
・učitel → učitelský 先生の
・žena → ženský 女性の
・čarodějnice → čarodějnický 魔女の
・prezident → prezidentský 大統領の

 この形を使うのは、人を表す名詞と地名を形容詞化する場合が多い。「ský/cký」のどちらを使うかは、すでに地名の形容詞化のところで書いたのでそちらhttps://fanblogs.jp/takzolomouce/archive/1185/0を参照。


D「(n)atý」をつける。
・voda → vodnatý 水の豊かな
・hora → hornatý 山がちの
・skála → skalnatý 岩だらけの
・lidé → lidnatý 人口の多い
・vlasy → vlasatý 髪の豊かな
・huba → hubatý 口数の多い

 この形で作られた形容詞は、基になった名詞がたくさんあることを意味する。ただし、どんな名詞でも使えるというわけではない。


F「ovitý」をつける。
・kopec → kopcovitý 丘のような
・pes → psovitý 犬のような
・kočka → kočkovitý 猫のような

 使われることはあまり多くないのだが、動物や植物などの呼び名や、どんな動物なのかを説明するときに使われることがあるので、覚えておくと役に立つ。例えば、日本からヨーロッパに輸出された帰化動物であるタヌキは、チェコ語で「mýval psovitý」、つまり「犬のようなアライグマ」というと思っていたのだが、チェコ語のウィキペディアによると、実は反対で「psík mývalovitý」、つまり「アライグマのような小さな犬」と名付けられているらしい。

 以上で名詞から作られた形容詞のすべてのタイプを網羅しているとは言えないのだが、これぐらい知っていると、チェコ語を読むのも自分で使うのも楽になる。適当に形容詞化してみて、違うといわれたら別の方法を使ってみればいいわけだしさ。そこで日本語はほとんど「の」を使って名詞を形容詞的に使うだけなのになあなんて考えては、チェコ語の勉強はできないのである。
2020年11月20日23時30分。










タグ:名詞 形容詞

2020年09月26日

数詞続き(九月廿三日)



 今回は100以上の数字についてである。一部繰り返しにはなるが、100から900まで100の倍数をいかに並べておく。

100 sto
200 dvě stě
300 tři sta
400 čtyři sta
500 pět set
600 šest set
700 sedm set
800 osm set
900 devět set


 後に名詞が来る場合には、1格、2格、4格で複数2格を取って、全体としては中性名詞の単数として扱われるのは、数字としては5以上になるので、当然のことである。名詞が省略されている場合は、「sto」は数詞とは言いながら、中性名詞のようにも見えるので、200、300、400は複数扱いしたくなるのが困りものである。

 面白いのは、1000は出来ないのだが、1100から1900までは、100を規準に数えられることである。特に年号を言うときによく使われるのだが、普通の数字を詠むときに使ってもかまわない。念のために掲示しておく。

1100 jedenáct set
1200 dvanáct set
1300 třináct set
1400 čtrnáct set
1500 patnáct set
1600 šestnáct set
1700 sedmnáct set
1800 osmnáct set
1900 devatenáct set

 10の位、1の位に数字があるときは、100の位までを読んだ後で、1から99の数字を読んでやればいい。だから、ビロード革命の起こった年は、1989、つまり「devatenáct set osmdesát devět」となる。1の位が、1から4の場合に起こりうる問題は、二桁の数字の場合と同じ。格変化をさせる場合には、細かい数字は使わず大体の数で満足しておいたほうが精神衛生上ははるかにいい。

 もちろん、1989は、「tisíc devět set osmdesát devět」と読んでもいい。というわけで次は、1000の倍数である。日本語と違って万ではなく、千が大きな数を表示するときに基本になる。つまり999+1000まで行けるので、全部ではなく要所だけ抑える。

1000 tisíc
2000 dva tisíce
3000 tři tisíce
4000 čtyři tisíce
5000 pět tisíc
10000 deset tisíc
11000 jedenáct tisíc
99000 devadesát devět tisíc
100000 sto tisíc
999000 devět set devadesát devět tisíc

 ここまでくると、100万ぐらいといったほうが楽なのだけどね。格変化させると、特に100の位以下にも数字が入っている場合には、やめてくれと言いたくなる。普通の1の位だけでなく、1000の前に来る数字も、1の位が1から4の場合にややこしいことになるのは、想像がつくだろう。数字を1と、2〜4、5以上の三つのカテゴリーに分けて、扱いを変えるというのは、とにかく厄介な問題で数字を使う場合にはどこまでもついて回るのである。

 100万を意味する「milion」男性名詞不活動体と全く同じ格変化をするので、1から5までは以下のようになる。

100万 milion
200万 dva miliony
300万 tři miliony
400万 čtyři miliony
500万 pět milionů
9億9900万 devět set devadesát devět milionů

 これも999+百万まで行って、次は10億、つまり「miliarda」になり、女性名詞と同じ格変化をする。注意すべきは「milion」までは、1の場合には、省略するのが普通だが、10億の場合は「jedna miliarda」と、「1」を付けることである。
 日本人として気を付けなければいけないのは、数の切り方が、日本は4つずつ切るのに対して、チェコ語は3つずつ切ることで、数が大きくなるにつれて差が大きくなり、頭の中だけでは換算できなくなってしまう。紙に書くのが一番確実なのだが、書けないばあいには、仕方がないのでたくさんと言ってごまかすことになる。

 数字に関して、最後に指摘しておかなければならないのは、10、100、1000を名詞化した「desítka」「stovka」「tisícovka」も時に数詞的に使われることだ。特に数十、数百などのように、数がはっきりしない場合に、単に複数にして「desítky」「stovky」「tisícovky」や、「několik」をつけて、「několik desítek」「několik stovek」「několik tisícovek」という表現を使うことが多い。後に名詞が来る場合には、1格では複数二格を取る。


数十(何十か) desítky/několik desítek
数百 stovky/několik stovek/několik set
数千 tisícovky/několik tisícovek/několik tisíc
数万 desítky tisíc/několik desítek tisíc


 もちろん、「desítka」は、10度のビールを指す場合のほうが多いのだけどね。他にも書き落としたこともあるかもしれないが、思い出したらまた書くことにする。ということで、次は数詞関係の記事のまとめで手を抜くことにしよう。
2020年9月24日17時30分












タグ:数詞

2020年08月22日

関係代名詞4「který」前置詞付2(八月十九日)



 六月末に関係代名詞「který」について書き始めながら、長らく中断してしまったのは、前置詞を付けて使う例文を考えるのが面倒だったからである。面倒な理由は、以前も書いたが、日本語では語順の関係もあって連体修飾節を使わないような文でも、チェコ語では関係代名詞が使えるところにある。「使える」であって、「使わなければならない」ではないところが重要で、日本語の文をそのまま関係代名詞を使わずに訳しても、全く問題ない。だから、例文を考えようとすると、普段自分では関係代名詞を使わないような文しか思い浮かばず、にっちもさっちもいかなくなったのである。前回の時点ですでにダメダメだったんだけど。

 それで、今回は前回から一歩進んで、関係代名詞を使った文を自然な日本語に訳して、それをさらにチェコ語にしてそれでも問題はないんだということを示そうと思う。昨日、次のような文を見かけた。細部には違いがあると思うけれども気にしても仕方がない。

・Dnes jsme měli dlouhé jednání, během kterého jsme se na tom dohodli.

 関係代名詞について解説すれば、中性単数の「jednání」を受けて、2格を取る前置詞「během」の後だから、中性単数2格で「kterého」になっているのは問題なかろう。強引に連体修飾節を使って訳すと「我々は今日、それについて合意に達した長い交渉を持った」とでもなるだろうか。意味は分からなくはないが個人的には、「我々は今日長い交渉の末、それについて合意に達した」としたいところである。これをチェコ語にすると、以下のようになるだろうか。

・Dnes jsme měli dlouhé jednání a na tom jsme se dohodli.

 日本人というよりは、日本語人にはこちらの方が精神衛生上楽なのである。だから前回、自然な日本語で訳してみた文、「日本のお米がないと生きていけないのだが、両親が送ってくれた」「そのパーティーで美しい女性と出会い、すぐに恋に落ちた」も次のように訳してかまわない。

・Nedokázal bych žít bez japonské rýže, ale rodiče mi ji na štěstí poslali.

 「na štěstí」はなくてもいいけれども、嬉しい気持ちを強調するために入れてみた。

・Seznámil se v tomto večírku s krásnou ženou a hned se do ní zamiloval.


 次は逆に日本語から始めてみよう。例えば「仕事を探すのを手伝ってくれた友達を夕食に招待した」という文は、日本人なら次のように訳すだろう。

・Pozval jsem ne večeři kamaráda, který mi pomáhal při hledání práce.

 最後の部分がなんだか怪しいなあとか、これでは仕事が見つかったのかどうかわからないとか不安になった場合には、仕事を見つけたことがはっきりするようにちょっと変えてもいい。

・Pozval jsem ne večeři kamaráda, který mi pomáhal, abych našel práci.

 短いのに無駄に複雑な文になったのが気に食わない。「私が仕事を見つけられるように手伝ってくれた」ということは、「友達のおかげで仕事が見つかった」ということなので、というところまで考えがたどり着くと、多分チェコの人がよく使うと思われる文が出来上がる。

・Pozval jsem ne večeři kamaráda, díky kterému jsem našel práci.

 日本人としては、「見つけることができた」と可能を入れたくなるけれども、チェコ語では要らないはず。ちゃんとしたチェコ語の文を書かなければいけないときには、こんな手順であれこれ考えて、自然なチェコ語だと思われる文を作り上げるのである。もっとも、わかるけど変だと言われることの方が多いのだけど、同じことを、いろいろな方法で表現する練習をするというのも、やはり語学の勉強には重要で、関係代名詞は日本語に直訳すると、なんか変な文になるのでその練習にうってつけだといってもいい。

 ちなみに、あんまり難しく考えたくないときは次のような文にしてしまう。

・Když jsem hledal práci, kamarád mi pomáhal, a proto jsem ho pozval na večeři.

 直訳すると「仕事を探していたとき友達が手伝ってくれたから、夕食に招待した」となって微妙に違うけれども、言いたいことは十分に伝わるはず。そもそも、同じ文でも言い方によって微妙に違うニュアンスがこめられたり、文脈によって微妙に捕らえられれかたが変わったりするものだから、ごく単純な文ならともかく、チェコ語と日本語の文が常に一対一で対応するなんてことはありえない。
 だから、いろいろな表現の仕方を覚える意味があるのだけど、その分、文脈まで考えなければらない作文のときに、どの表現を使うのがいいのかで悩むことになる。それもまた外国語を勉強する醍醐味なのかもしれないけど、日本語で文章を書くときの何倍も、下手すれば何十倍も時間をかけた挙句に、お馬鹿な文章になってしまうから泣きたくなる。
 どうにもこうにも中途半端だけど、「který」の話はひとまずこれでお仕舞いにして、次に進むことにする。
2020年8月19日24時30分。













タグ:関係代名詞

2020年07月27日

サマースクールの思い出(十二)――三年目3(七月廿四日)



 チェコ語には、いくらチェコ語ができるようになって、チェコ語で思考するようになったからといっても、日本人としての意識が残っている以上使えねえという表現がいくつか(も、かも)ある。そのうちの一つが、恋人同士が呼びかけるときに使う。「zlato(黄金)」「beruško(てんとう虫)」「sluníčko(太陽)」なんて言葉がある。ようは自分にとっては、それだけの意味があるということなのだろうけど、てんとう虫は幸運のシンボルらしいし、こっぱずかしくて口にはできない。「miláčku(いとしい人よ)」なんて直接的なのもあるけどこれも同様。

 この、恋人への呼びかけの言葉が、授業中に議論の対象になった。同じスラブ系でも全く同じではなく微妙に違うものもあったと思うのだが、そんなことはどうでもいい。日本ではこんなとき何というのかと問われて、正直に日本人にはこんなこっぱずかし意言葉は使えねえと言ったのに信じてもらえなかった。
 漫画や小説の登場人物なら英語のその手の言葉を借りてきて使うのだろうけど(そんな作品ほとんど読んだことはないけどゼロではないし)、現実に使っている人はいるのだろうか。個人的には古典にかえって「わぎもこ」なんていった方がマシである。ただこれも呼びかけとして使っていたのかなあ。和歌の中で比喩的表現として使うのならあれだけど、直接呼びかけに使うってのには抵抗がある。

 それはともかく、信じてもらえないので日本人のメンタリティーを説明するのに、例の漱石のお月様の伝説まで引っ張り出す破目に陥ってしまった。漱石の月の話も最近あちこちで目にするようになって、食傷気味なんだけど、どうしてみんな、「月がきれいだ」にしてしまうんだろう。あれって「月がとってもあおいなあ」じゃなかったっけ?
 確か大学時代だったと思うけれども、先輩が日本の文学では、自分の気持ちを直接的にあからさまに表現しないのが古来からの伝統だといって、漱石の逸話を教えてくれた。そのときに「きれい」ではなくて、「あおい」と言うところが漱石らしいよなあと評していた。「きれいだ」と言ってしまうとあからさま過ぎるというのである。

 貫之が業平を評した「意あまりて言葉足らず」は、ほめ言葉じゃないかもしれないけれども、定家の歌論にしても、芭蕉の俳論にしても、確かに同じようなことをいっていたような気もする。ただ定家の文章も、芭蕉の文章も、読めばわからなくはないし、その理論も理解できなくはないのだけど、それを実作に応用するとなるとお手上げというところがある。まあレビ・ストロースとか、チョムスキーとかの理論も、本人とシンパ以外には、わかるようでわからんというか、わかった振りをしている人のほうが多そうだから、文系の理論なんてそんなもんと言ってしまえばその通りなのだけど。

 話を戻そう。それ以前にも、チェコ語の「sluníčko」は日本語でなんと言うんだなんて質問をされたことは何度もあって、そのときには、ややこしい話をしても理解してもらえなさそうだと考えて、大抵は酔っ払った席での話だったし、チェコ語の言葉を日本語に訳してお茶を濁していた。一応日本語では使わないけどねというコメントはしたけれども、どこまで意識されていたかはこころもとない。
 このときのサマースクールでは、集まった学生たちの質が高かったこともあって、言葉の勉強、もしくは使う訓練のために参加しているのだから適当にごまかすのはもったいないと考えて、敢えてややこしい説明に踏み込んだ。授業中は即興だったからたどたどしい説明になって、わかってもらえなかったかもしれないが、自主的な宿題として文章にして師匠に提出したのだった。

 授業では、これ以外にも、その場で考え考え、自分の使える言葉を使ってあれこれ説明しなければならない機会は多かった。言いたいことの中にチェコ語で何というか知らない言葉があっても、別な言葉を使って説明してある程度理解させる、いい訓練になった。それが現在の何についてでもある程度は語れるチェコ語力につながっていると思う。こちらの説明を聞いてチェコ語の正しい言葉を教えてくれるやつも多かったし、覚えにくい概念語を覚えることもできたんじゃなかったかな。誤解しているもののあると思うけど。

 なんてことを書いて、日本の昔の和歌には「物に寄せて思ひを陳ぶ」なんてのがあったのを思い出した。チェコ語の「sluníčko」なんてのも、それに似ているかもと一瞬思ったのだけど、相手に直接呼びかけるからなあ。やはり日本人には直接あからさまに言うのは向いていないのである。
 あちこち迷走した挙句に、わけがわからなくなってきたのでこの辺でお仕舞い。
2020年7月25日22時。










2020年07月25日

サマースクールの思い出(十)――三年目2(七月廿二日)



 あのときのポーランドから来た学生たちの話がどこまで本当なのかはわからないけれども、今でもポーランドに対するイメージとして残っている。熱狂的にカトリックを信仰する国だから、このぐらいのことはあっても、不思議はないと考えてしまった。
 前回の婆ちゃん最強説というのは、ポーランドの中でも熱心なカトリック信者の多い老齢の女性を怒らせたら、ポーランドでは生きていけないというもので、婆ちゃん層を怒らせるような政策を唱える政権はすぐにつぶれるし、そもそもそんな政策は主張できないなんて言ってたかな。もっと小さな部分でのお婆ちゃん達の力についても個人的な経験も交えながら、あれこれ話してくれた。婆ちゃん連合とでも言うべき非公式の組織があるんだなんて話はちょっと眉唾だったけど。

 もう一つ覚えているのは、学校の先生が給料は安いけど学年末になると金持ちになるという話で、微妙な成績の子供の、お金持ちの親たちが、あれこれ付け届けをするものだから、さすがに家や車はないみたいだけど、家具とか電気製品とかは買う必要がないんだなんてことを言っていた。父兄会みたいなのがあると、先生が最近冷蔵庫の調子が悪くてなんてことを言うらしい。そうすると親たちの話し合いで担当者が決まって、どこの誰からともわからないように先生の家に冷蔵庫が送られてくるのだとか。
 じゃあ、お前ら先生になればいいじゃんなんてことを言うと、役得も多いけど、その分厄介ごとも多くて給料も安いから割に合わないんだという答が返ってきた。日本でもそういう話は聞かなくもないけれども、ポーランドの話はちょっと桁が違っていた。チェコだと昔は共産党関係で優遇されることがあったなんて話は聞くけどね。子供の進学のために親が共産党に入ったとか。

 師匠は母親ががちがちの共産党嫌いだったから、大学には入れたけど希望していた学科には入れなかったといっていた。自分が共産党に入れば希望する学科で勉強することも可能だったのだろうけど、母親の反対と、親から受け継いだ農地を共産党員に暴力的に没収された母親の悲しみを考えるとそれはできなかったと言っていた。師匠が希望する学科に入れていたら、我々のチェコ語の先生として現れることはなかったわけだから、なんとも言い難い気持ちになった。

 とまれ、この年の授業の様子はこんな感じだった。朝、当然授業開始前にほぼ全員そろって、どうせ前の夜も一緒に飲んでいたのだけど、あれこれ雑談をする。時間になって師匠がやってきて授業を始めようとすると、誰かが、

 „Prosím tě, mám otázku“

 と言って質問をする。大抵は、前日の授業の後に町で気づいたことや、新聞記事で理解できなかったことについてだった。お店の看板にこんなことが書いてあったんだけどどういうこと? とか、レストランでこんなことがあったんだけどなんて質問に、師匠は苦労しながら答えていた。その結果、町中の特に手書きの看板には文法的な間違いやつづりの間違いが多いということがわかった。書かれていることが理解できなくても、こちらの能力不足とは限らないのである。
 確か、どこかのお店の窓ガラスに「zleva」と書いてあったのに気づいた人がいて、これって「sleva」の間違いだよねという話があったのを覚えている。そこから、師匠は接頭辞の「z」と「s」の違いを詳しく説明してくれて、それが簡単に終わるわけがなく、気がついたらその日の一つ目の授業は終わっていた。

 それから、レストランに関しては、確かカティが、たのんだ覚えのない項目がレシートにあるんだけどこれ何? と聞いたんだったかな。師匠は、最初はチップに当たるようなものかねえと言っていたのだが、質問を重ね、食事の際にカティが取った行動を克明にしゃべらせた挙句、それはドレッシングだと結論付けた。そのとき、カティは付け合せの野菜に付けるために、隅のほうに置かれていたドレッシングのセットを勝手に持ってきて使用したのだった。
 今は知らないが、当時は特別な、ドレッシングをかけて食べることになるサラダの場合には、いくつかの種類のドレッシングが載ったお盆がいっしょに持ってこられ、どれを何種類使用しても追加料金は発生しないが、ドレッシングの使用が前提とならない料理の場合には、ドレッシングは別途注文する必要があって当然別料金になっていたのだ。そのことを学生たちは誰も知らず、師匠の説明を聞いて初めて知ったのである。
 当然お前らの国はどうなんだという話になってみんなであれこれ話をしたのだが、日本については、こちらは、レストランなんか最近行ってないから知らないと答え、もう一人が説明していたことも残念ながら覚えていない。チェコに来る前、外で食事をするというと、大抵は飲み屋に出かけて、お酒とおつまみだったし、そんなところでドレッシングが必要なものなんて注文しないから、と言うよりは飲む方が優先だったから、よくわからなかったのである。今もわからんけど。
 断片的な思い出話は、もう少し続く。
2020年7月23日19時。










2020年07月24日

サマースクールの思い出(十)――三年目(七月廿一日)



 昨日のニュースで、今年もパラツキー大学でチェコ語のサマースクールが始まったというニュースが流れた。武漢風邪の流行で開催されるのか心配していたのだが、無事に始まったようで安心した。実は今年も参加することを検討していたのだが、参加人数が少なくなりそうで、その場合こちらが求めるC1、もしくはC2レベルのクラスが開設される可能性が低くなりそうだと考えてやめることにした。制限のなかった二年前でさえC1のはずのレベルがB2にされてしまったのである。
 それはともかく、ニュースを見ていたらポーランドから来たという上級クラスの学生がインタビューを受けていた。二年前は下のクラスにいた奴じゃないか。今回は一番上にいそうである。もう一人インタビューを受けていたのも一年半しか勉強していないと言うウクライナ人で、スラブ系の人たちのチェコ語学習の早さにうらやましさを感じてしまう。

 なんてことを考えていたら、三年目のサマースクールのことを思い出し、同時にブログ一年目に、過去のサマースクールのことについて書きながら、二年目で止まっていることも思い出してしまった。ということで、久しぶりに過去のサマースクール、三回目のサマースクールについて書いておこう。とはいえ、このときを越えるサマースクールは存在しようがないだろうというものだっただけに、全体的な印象は強く残っていても個々の出来事についてはあまり覚えていないのであるが。
 師匠の元で一年チェコ語を勉強して、自分もある程度チェコ語ができるようになったという多少は根拠のある自信とともに、ある意味満を持して参加した三年目のサマースクールは、一番上のクラス、師匠のクラスとなった。一年目は初日の最初の授業で逃げ出したくなったが、今回はそんなこともあるまいと思っていた。逃げ出したいとは思わなかったが、いい意味でとんでもなかったこのときの授業は、驚きに満ちていて終わってほしくないという気持ちもまた大きかった。

 我々のクラスに集まったのは、人数は十人と他のクラスよりも少なかったが、その質は、翌年の一番上のクラスと比べても、一昨年の一番上のクラスと比べても高かった。まず、ポーランド人が4人。みんな同じ大学の4年が終わったところで、当時は制度が変わる前だったので学士を卒業はしていなかったが、実質修士課程の学生だった。ただでさえ、チェコ語を身につけるスピードの速いポーランド人が4年も勉強していたのだからその実力は推して知るべしである。
 スラブ系ではブルガリア人の大学生も2人来ていたが、個性豊か過ぎるほかの学生たちに埋もれて、あまり印象に残っていない。それよりは、ハンガリーの大学でチェコ語科の5年制の修士課程を卒業したばかりだったか、9月に卒業する予定だったかのカティの印象の方が強く残っている。本当の意味で学校で勉強したチェコ語と言う意味では、日本人の見本になるようなチェコ語だった。スラブ系の連中は勉強していなくても何となくわかるというから嫌になる。

 それから、一人年配のドイツ人もいた。ただし、この人、子供のころはオパバの近くに住んでいて、普通にチェコ語を使っていたと言うから、一から勉強したというよりは、学びなおしたタイプの人で、ドイツではギムナジウムで先生をしていて、希望者を集めてチェコ語の授業もしているなんてことをいっていたと思う。発音はドイツ語の影響を受けて外国人には聞き取りづらいこともあったけれども、語彙や文法の面ではあまり苦労していなかった。発音も4週間もいっしょにいれば慣れるしね。
 そんなつわものどもの中に、日本人が二人。もう一人は以前スイスで仕事をしていたときにチェコ語の勉強を始めたという人で、その年の冬から師匠の元でチェコ語を勉強していたけど、まだ半年だったし、二人とも授業についていくのが大変だった。授業自体が普通の授業ではなかったので、外大あたりの上級生でも大変だったかもしれないけど、予習はしても意味がなく、宿題と復習、それに毎晩の酒に大忙しだった。いや、昼から飲んでることも多かったしなあ。

 教科書は参加費の中に含まれているから、あったはずである。多分、初日はちょっと使ったと思う。初日の最初の授業は、自己紹介から始まるさまざまな会話で終わり、二コマ目の授業で教科書を使って、師匠が何か質問はないかと言った時点から、教科書が省みられることはなくなった。我先に、とはいっても大抵口火を切るのは、ハンガリー人のカティか、ドイツ人のディートルか、我々日本人のどちらかだったけど、質問をし、師匠が丁寧に質問してくれたのだが、次々にじゃあこういう場合はどうなんだと関連する質問が続出して、気がついたら授業終了の時間になっていた。
 ポーランドの連中が話を広げることが多かったし、みんな自国のことを細かくチェコ語で話せるだけの実力があったから、うちの国ではこうだぞとか、なんでチェコはこうなんだとか言う話でも盛り上がった。一番覚えているのは、ポーランドのルカーシュが言い出した「ポーランドの婆ちゃん最強説」で、その具体例を挙げた説明に大笑いになったのだった。
 こんなところで、長くなったので以下次回ということにしよう。
2020年7月22日14時。












2020年06月29日

関係代名詞3「který」前置詞付(六月廿六日)



 前回は6格を除いては、連体修飾節に前置詞を使わない例文を苦労して考え出したのだが、今回はさまざまな前置詞を使った場合にどうなるかを見ておこう。これも2格を取るものから順番に進めていく。


・Plavali jsme v rybníku, u kterého stojí vysoký strom.
 そばに高い木が立っている池で泳ぎました。

 何かが何かのそばにある場合には、前置詞「u」と2格で表す。この場合には名詞は池で男性名詞不活動体の単数なので、関係代名詞は前置詞と合わせて、「u kterého」となる。


・Kamarádky, u kterých jsem se včera ubytovala, pracují
v japonské firmě.
 昨日泊めてくれた友達は日系企業で仕事をしている。

 友達は女性ばかり複数なので、関係代名詞は「u kterých」となる。形容詞の格変化と同じで三性共通の形が多いので、格変化させて使うのは実は複数の方が楽である。問題は、日本人の習性として単複を意識するのを忘れて単数で使ってしまいがちなこと。
 念のために友達の性と単複を変えたバリエーションも上げておく。

・Kamarád, u kterého jsem se včera ubytovala, pracuje
v japonské firmě.

・Kamarádi, u kterých jsem se včera ubytovala, pracují
v japonské firmě.

・Kamarádka, u které jsem se včera ubytovala, pracuje
v japonské firmě.

 上から順番に男性単数、男性複数、女性単数である。


・Dnes se sejdu s otcem, od kterého bych si mohl půjčit peníze.
 今日は、お金を貸してくれるはずの父と会うことになっている。

 名詞は父、当然男性活動体で一人しかいないから単数。関係代名詞は「od kterého」。父を母に変えると、女性名詞なので以下のようになる。

・Dnes se sejdu s matkou, od které bych si mohl půjčit peníze.

 この文、無理やり感が強いけど、それは日本語にしやすい例文を作る必要があったからである。チェコ語の関係代名詞を使った文の中には、日本語で連体修飾節を使うと不自然な文、理解しにくい文になるものがかなりある。


・Rodiče mi poslali japonskou rýži, bez které nedokážu žít.
 なしでは生きていけない日本のお米を両親が送ってくれた。

 チェコ語の名詞「rýže」は女性名詞。一粒一粒数えたりはしないので常に単数で扱う。関係代名詞は女性単数2格で「bez které」。
 日本語訳がなんとも窮屈な不自然なものになっている。連体修飾節を「それなしでは生きていけない」としたほうがましかとも思ったけれども、翻訳でなければ使わないという点ではどちらも大差ない。日本語から訳す場合には「日本のお米がないと生きていけないのだが、両親が送ってくれた」とすれば、チェコ語でも問題なく通じる。


・Vynalezl novou látku, z které se vyrábí různé léky.
 いろいろな薬の原料となる新しい物質を発明した。

 女性名詞の単数の「látka」を受けるので、関係代名詞も女性単数二格で、前置詞とあわせて「z které」。
 これもまた直訳すると変な日本語になりそうなので、連体修飾節の部分をわかりやすくなるように訳した。これも日本語訳をチェコ語に直訳しても通じると思う。


・V toto večírku se seznámil s ženou, do které se hned zamiloval.
 そのパーティーで女性と出会い、すぐに恋に落ちた。

・V toto večírku se seznámila s mužem, do kterého se hned
zamilovala.
 そのパーティーで男性と出会い、すぐに恋に落ちた。

 相手が女性か、男性かで関係代名詞の形が変わっているのはわかるだろう。主語が男性か女性かで変わる動詞の過去形の語尾にも注意しなければならない。
 この文は連体修飾節を使うと不自然な日本語になるものの典型なので、訳しかたを変えた。チェコ語では連体修飾節が名詞の後に来る。ということは主文の動詞の後にくることもあるということなので、その場合、連体修飾節の情報のほうが、主文の情報よりも新しくなっていても、読むときの順番を考えれば問題ない。日本語の場合は、短い文であれば問題ない場合もあるだろうけれども、ややこしい文にしたり、文章中に何度も繰り返したりすると理解できなくなってしまう。

 日本語で考えた文をチェコ語に直訳しても、わかってもらえないと言うことは少ないので、チェコ語ではこんな表現も使うんだという知識にとどめておいて、自分では無理に使う必要はない。いちいち日本語にせずに直接チェコ語で文章を書くようになると、自然に使えるようになるのだが、それを日本語にしようとすると違和感が沸き起こってしまう。今回も例文を考え出すのに苦労した所以のひとつである。
2020年6月27日20時。











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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



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