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2018年08月11日
十二日目、もしくはビールの話〈LŠSS2018〉(八月七日)
新しい先生に代わって、毎日宿題として短いエッセイを書くことになった。月曜日に出された御題は「Co jsem zažil toto léto」で、「この夏経験したこと」と訳してもいいけど、「この夏の出来事」「この夏したこと」とか軽めに訳しても間違いではない。とにかく今年の夏の自分について書けばいいわけだ。せっかくなので、ここに紹介しよう。廃品利用とは言うなかれ、じかんがちょっと足りないのだよ。それにチェコ語で書いたものをそのまま載せるのでは理解できる人がいなくなるから、コメント付きで訳した上で掲出する。チェコ語で書くと、まだおバカなことしか書けないのを笑ってくれてもいい。日本語と大差ないジャンなんて思われたら、ちょっとばかり悲しくなりそうだけど。
暑さを経験した。いやより正確に言えば暑さを生き延びようとしている。
書き出しはちょっとひねったのだけど、日本語にするとあんまり意味がない。チェコ語では「zažít」と「přežít」の不完了態「přežívat」の対比になるので、言葉遊びだと思ってもらえるはず。こんなことを書いてしまいたくなるぐらいに今年の夏は暑いのである。2015年と違って夜は涼しいといっても、サマースクールで勉強するのは午前中で気温が上がり続ける時間帯で、宿題の作文を書くのは午後の一番暑い時間帯である。
サマースクールに参加しようと決めた時点で、古いのはもうぼろぼろだったから、新しいリュックを買うことは計算に入れていた。でも他は買わなくてもいいだろうと思っていた。
「買い物苦手だしぃ」というのを入れるつもりだったのだが、うまくチェコ語の文脈に収まらず省略。結果的にはここに入れなくて正解だった。こういうのは文章を読んでいれば自然と感じ取れるように表現したほうがいい。
それは間違いだった。暑さはとても強烈で普通の長ズボンを履いて学校に通えるような状態ではなく、短パンが必要だった。外に履いていける状態にあるのは一つだけ、予備としてもう一つ持っているだけだったのだ。
短パン、半ズボンでもいいけど、チェコ語の「kraťasy」もしくは「šortky」なんて普通の年にはそんなに頻繁に必要にあるものではないのだ。2015年はうちにいることが多かったから室内用の奴を履いていることが多かったし。
仕事中なら長ズボンを履いての暑さも我慢できるけど、勉強の際にはそんなことしたくもない。それで新しい許容できるような色で許容範囲の値段の短パンで自分のサイズがあるのを探すことになった。大半のチェコ人に比べると体格が小さいから、これが結構大変なのである。結局お店にはいいサイズのものがなかったから、注文して取り寄せてもらうことになった。
上に着るTシャツやらポロシャツやらは多少大きくてもいいけど、ズボンは大きすぎるとベルトで締め上げたときにウエストの部分が変なことになるから、できるだけ自分のに近いものが必要になる。Sに相当するサイズのものでも、結構ウエストがあまるしなあ。冬は厚着をするから結構ごまかせるんだけど、夏はちょっと難しい。
その後、靴、襟付きのTシャツつまりポロシャツ、さらには靴下までが必要となり順次購入することになった。これで今年の買い物はすべてということになればいいのだけど。できれば数年分の買い物を済ませたと思いたい。
チェコ語で書いても内容が何だかなあで、無駄にあれこれ書き込んで長くなってしまうという悪癖は変わらない。外国人がこんな変なこと書いたという意味では面白がってもらえるかもしれないけど、純粋にチェコ語の文章として読んだら、面白くもくそもないんだろうなあと自分で訳しながら思った。自分で書いておきながら日本語に訳しにくいのには笑ってしまったけど、これはチェコ語が進歩した徴だと素直に喜んでおこう。
新しい先生が始めた新しい活動はもう一つあって、毎日学生がひとりずつ自分の好きなものについて発表することになった。名簿の一番上に名前が書かれていたことから、一番手としてこの日に発表したのだが、当然テーマはビールである。一週目の終わりにホモウトの見学にも行ったしさ。題名は「チェコのビールは本当にチェコのビール?」。
これでお分かりの方もいるだろう。二年前に世界を、少なくとも日本のチェコビール好きの世界を震撼させたアサヒビールによるピルスナー・ウルクエルの買収に関して、キリンやスタロプラメンとの関係も含めて簡単に話をした。つまりチェコのビールだけど外資に支配されているんだという話である。それだけではつまらないので、本物のチェコのビールが飲みたかったらミニ醸造所のビールを飲むのが一番いいよといってオロモウツのホモウトも含めて四軒の醸造所を紹介して終わり。
最後にいくつか質問があって、フェルディナントに聞かれた一番好きなビールのブランドはという問には、チェルナー・ホラが好きだったんだけどねえと答えておいた。ロプコビツを経て中国資本につながると思うと飲む気になれない。ロプコビツも嫌いだしさ。フェルディナントに質問し返したら、プラハのヴィノフラディのミニ醸造所のビールがお気に入りだという答えが返ってきた。
この日勉強したのは、時間の表現のまとめ。大事なのは、困ったときには、特に二語以上の言葉を使う場合には、四格に四格にしておけば何とかなるということだった。他にもいくつかあったので気が向いたらここでもまとめるかもしれない。
今週は午後のプログラムにあまり魅力的なものがないので、プロスチェヨフやスバティー・コペチェクに足を延ばそうかと考えていたのだが、あまりの暑さにそれどころではない。宿題の作文を書くのも、この与太記事を書くのも結構大変なのだ。
2018年8月10日22時35分。
2018年08月10日
十一日目其の二、あるいは数詞の復習〈LŠSS2018〉(八月六日)
一応一番上のクラスなので、数詞の復習と言っても、普通の名詞につける数詞ではなくて、原則として単数でしか使わない、所謂数えられない名詞につける数詞と、複数でしか使われない名詞につける数詞の複数である。ただ単数でしか使わないことになっている名詞は、現在の普通の喋り言葉では、平気で複数にしてしまうというのは確かである。
恐らくチェコ語を勉強し始めたときに、飲み屋でビールを二杯注文するときには、普通の名詞のように「dvě piva」という言い方はせずに、「dvakrát pivo」というのが正しいと習ったはずだ。もちろん、今でもこの「dvakrát」「třikrát」という言い方をする人もいるけれども、「dvě piva」と言っても間違いだといわれることはない。普通は特定のビールを頼むから、「dvě desítky」「tři dvanáctky」と言うことが多いかな。便ビールも瓶という名詞を数えて、ビールは最後に二格でつけるのが本来のルールだったんだけどね。「tři láhvi piva」なんて感じに。
その辺は、水とかコーヒーなんかでも同じで、本来は数えられないはずなのに、無理やり数えてしまうというか、数えるのに使っていた名詞を省略して直接数えるようになったということのようだ。それでも今でも数えられない名詞を数えられない状態で、特別な数詞と組み合わせて使うことがある。それが何種類あるかを説明するときである。
1は普通の1を名詞の性に合わせて格変化するだけでいい。2と3は、それぞれ「dvojí」「trojí」という形容詞の軟変化形の数詞を使う。4以上は硬変化形に変わって、「čtverý」「paterý」「 šesterý」となる。大切なのは数詞の表す数が増えても名詞は必ず単数で格変化させることである。だから二種類の水は「dvojí voda」ということになる。適当に例文を作ってみると、正しいかどうかは保証しないけど以下のようになる。
Koupil jsem si dvojí vodu. (二種類の水を買った)
Kromě trojího piva jsem pil všechno. (三種類のビール以外は全部飲んだ)
Směs zlata s čtverým kovem (金と四種類の金属の合金)←ちょっと自信がない。
この2以上の何種類あるかを示す形容詞的な数詞は、単数でしか使わない名詞としか使えないと言うわけではなく、普通の名詞でも使えるようである。同じものがいくつあるかを言うのではなく、種類がいくつあるかを言いたいときには、こちらの数詞を使う。ただし、こんなのは使えなくても、「druh(種類)」という言葉を使えば問題ないのも確かなことで、正直こっちの方が簡単である。上の例を変えてみると、
Koupil jsem si dva druhy vody.
Kromě tří druhů piva jsem pil všechno. ←なんか微妙な文になった。
Směs zlata s čtyřmi druhy kovu ←これもちょっと自信がない。
こちらが形容詞的で使いやすいのと違って、複数でしか使わない名詞につける数詞はちょっと厄介である。1は、「jeden」を「všechen」と同じように複数で格変化しなければならない。複数の1格は後ろに来る名詞によって「jedny(男性不活・女性)」「jedna(中性)」となるわけだ。理論上は「jedni(男性活)」もあってもおかしくないが、複数でしか使わない名詞に男性名詞の活動体があったかなあ。注意するのは、2格以下に出てくる「e」が「ě」になること。「ňe」という表記にしてくれていたら楽だったんだけどねえ。
2と3は、それぞれ「dvoje」「troje」となり、1格と同じ4格、5格以外は、形容詞軟変化の語尾をとる。つまり2格は「dvojích」、三格は「dvojím」となるわけだ。4以上は上の単数名詞に形容詞型の語尾を短母音に変えてやればいい。「čtvery」「patery」となるわけだが、中性の複数名詞のときは、語尾が「 a」になるのは忘れてはいけない。繰り返すが、複数でしか使われない男性名詞活動体が存在すれば、その場合は語尾が「i」になる。4格、5格以外は形容詞硬変化と同じ語尾をとる。
しかし、形容詞の格変化ってどうだったっけなんて考える必要はない。先生の話では、この手の数詞の使い方はチェコ人にとっても厄介なので、あまり使わないし、使う場合でもできる限り、格変化させる必要のない1格か4格で使うというのである。そういえば、師匠もそんなことを言っていたような気がする。それに手袋とか靴下なんかの二つ一組で使うような名詞の場合には、組を意味する「pár」を使うことで普通の数詞が使えるようになる。もちろん、ズボンや新聞なんかの一つしかないのに複数形になる名詞には使えないけど。ちょっとだけ例を挙げておくと、
Koupil jsem si dvoje boty.(靴を二足買った)
Dal jsem kamarádovi pět párů rukavic.(友達に手袋を二組あげた)
Četl jsem stejný článek v trojích novinách. (同じ記事を三つの新聞で読んだ)
最後はちょっと頑張って6格を使ってみたけれども、これに関しては先生の言うように1格、4格で使うのが無難である。チェコ人に聞いてもよくわからんという答えが返ってくることもあるし、人によって言うことが違うこともある。昔、サマースクールの寮で、「dvě stě」を「dva sta」に直されたときには、普通の数詞だったから、問題なく修正された方が間違いだと気づけたけれども、この特殊な数詞に関しては、何人かのチェコ人に違う修正をされたら、お手上げになるのは間違いない。
こういうのを確実に覚えておくと、チェコ人に嫌がらせの質問ができるのだけど、普段から使うものではないだけに、なかなか。こういう機会に何回か復習していけば、そのうち問題なく使えるようになるかもしれない。道はまだ遠く、そして険しいのである。
2018年8月9日21時55分。
2018年08月09日
十一日目、あるいは古代スラブ語とかスラブ祖語と言われても〈LŠSS2018〉(八月六日)
オロモウツのサマースクールでは、一部のクラスを除いて一つのクラスを二人の先生が二週間ずつ担当する。かつて師匠が毎年一番上のクラスを一人で四週間教えていたのは例外なのである。ということで、本日から、先生が代わって男の先生になった。チェコ語の歴史を専門とする先生で、我々のクラスは上級だから、ちょっと歴史的な背景も知っておいた方が役に立つからという理由で、最初の授業の一番最初に、「praslovanština」についての話が始まった。
興味がなかったわけではないけど、触れると泥沼にはまりそうな予感がして避けていた、この消滅した言葉について、十数年ぶりに話を聞くことになるのかとこっそりため息をついた。こんなことなら師匠に勧められた時にもう少し話を聞いておけばよかった。さわりだけ聞いて、こんなのはもういいと断ってしまったのだ。
七人に減った同級生達はほとんどみんな大学で語学を専攻しているから、言語学についても詳しいわけで、こういうのもある程度は勉強してきたのだろう。特にため息をついたり顔をしかめたりはしていなかった。こうなれば腹をくくるしかあるまい。とはいえ、現代のチェコ語の理解に関係する部分を集めたという先生の説明は、レジメがあったこともあってかなりわかりやすく面白かった。
一番困ったのはこれ。
Pauel dal gest ploscoucih zemu Vlah dalgest dolas zemu bogu isuiatemu scepanu se duema dusnicoma boguceu a sedlatu
チェコ語は10世紀に古代スラブ語が消滅した後に形成されたと考えられているらしいのだが、あくまでも話し言葉として使われていただけで、チェコ語で書かれたものとして最も古いのが、ここに挙げた文で13世紀のチェコ語だという。アルファベットの使い方がちょっと違い、分かち書きの仕方も微妙で、前置詞がないのでわかりにくいけれども、「パベルはどこどこの土地を寄進し、ブラフは神と聖シュテパーンにどこどこの土地と人を寄進した」とかいう意味になるらしい。「V」が「U」で書かれていたんだなあぐらいのことはわかるし、「Ch」もまだなかったんだなあというのは想像できるけど……。
これは古いチェコ語の話で、現代のチェコ語にはあまり役に立たない。大切なのはこれよりも前の古代スラブ語の二つの傾向で、一つはすべての音節が開いていた、つまり日本語と同じように音節は必ず母音で終わることになっていたというのである。その音節を作っていた母音のうちの一つが、あるルールにもとづいて欠落するようになったことで発生したのが、チェコ語の名詞の後ろのほうで出たり消えたりするいわゆる出没母音の「E」らしい。
その母音をイェルといいチェコ語にはない「ь」で書き表すと、「otec(父)」の古い形は、「otьcь」だった。このイェルは後から数えて奇数番目のものが欠落し偶数番目のものは残るという変化をしたので、「otьc」となり、イェルが「E」に変わったことで、「otec」という言葉が出来上がった。格変化も二格はもともと「otьca」で、格変化によってイェルが「A」に変わったため、後からの順番にも変化が起こり、奇数番目、つまり後から一番目のイェルが消えて「otca」、格変化が軟変化になった時に活用語尾が「E」になって、現在の二格「otce」が誕生したのだという。
それから「E」が消える女性名詞の例を挙げると、「matka」はもともとは、「matьka」だったのが、最後のつまり唯一のイェルが消えて今の形になった。複数二格は今は語末に母音がないが、昔は「matьkь」だった。これも奇数、つまり後から一番目が消えて二番目が残るという原則に基づいて「matьk」、これが今の「matek」になったのだと。要は格変化するとどこからともなく「E」が出てくるのではなく、もともと存在したものが消されなかっただけなんだということになる。これがわかったからといって格変化をさせやすくなるということはないけれども、知っているとややこしい格変化も許せるような気がしてくる。
二つ目の特徴は子音と母音の組み合わせに制約があったことで、そのために格変化の活用語尾で、所謂子音交代が起きて学習者を悩ませているのだという。これも組み合わせの関係で子音が変わるのは現代チェコ語では語末だけの話で、100パーセント適応される原則ということではないけれども、格変化を考えるときに、この組み合わせの原則がわかっていると、どこで子音が変わるかというのが見えてくる。どう変わるかについては覚えるしかないけどさ。
こういう知らなくてもチェコ語を使うだけなら何の問題もないけど、知っているとより深くチェコ語を理解した気持ちになれる知識を増やすというのも悪くないなあ。知というものはある意味無駄の集積でもある。積み重なった無駄の中から時に有用なものが発見されるのもまた楽しである。有用なものを無駄に費やしてしまうのもまた知的な人生だと付け加えておこう。
新しい先生で気になることをあげておけば、「スーペル」「ファイン」「ペルフェクトニー」の三つを連発しすぎるところかな。褒めるのが好きな先生なんだろうけど、この三つ、連発されると本当に素晴らしいのか疑問になってしまう。そのうち慣れてしまって口癖のようにしか思えなくなるかも。
2018年8月8日17時5分。
2018年08月08日
十日目其の二、あるいは読むべきチェコ文学〈LŠSS2018〉(八月三日)
休み時間の終わりだっただろうか、カロリーナの受講証明書もらってしまったリュバが、事務局から怒りながら、もしくは怒った振りをしながら戻ってきた。「ちゃんと正しい証明書はもらえた?」と聞くと、「もらえなかった」と。リュバの話では今度は誕生日が間違えていて作成しなおしになったという。昨日誕生日プレゼントをもらったから、事務局では私の誕生日が八月だってのはわかっていたはずなのにとお怒りだった。
本人の推測では、サマースクールに申し込んだときに、生年月日の登録を求められたのだが、その登録の順番が、なぜか月、日、年の順番になっていて、それを基に月と日を入れ替える間違いをしたんじゃないかということだった。普通はチェコでは日、月、年の順番で表記するし、月、日の順番になる場合には、年が一番最初に来るはずじゃないか。何で月、日、年なんて普通じゃない順番にしたんだろうと首をひねっていたけど、これって英語で使う順番だったりするのだろうか。仮に今のサマースクールが、かつてのカオスだったサマースクールに劣る点があるとすれば、過度に英語に気を使っているところである。みんなチェコ語を勉強しに来るのだから、住所表記やら年月日の表記やらはチェコ風で押し通せばいいものをと思ってしまう。
その後、授業が終わるまでに正しい証明書をもらえなかったのは確かだが、午後のオロモウツ散策に参加するといっていたし、もう一週間はサマースクールの宿舎に滞在するとも言っていたから、時間は十分にある。でも、こういう抜けたところがあると、昔のサマースクールを思い出して懐かしくなる。今の方が運営が洗練されて効率がいいのは確かだけど、昔のふたを開けてみないとわからない混沌とした運営も、プシェクバペニーだらけでそれなりに楽しかったのだ。腹を立てることもあったけど、それも含めてサマースクールの思い出である。
それから、これも休み時間だっただろうか。イタリアのジョバンナに最後のテストについて聞かれた。口答試験はなさそうだと知ったジョバンナが、「それは嬉しい。私は喋るの下手だから」とか言い出した。待て待てである。リュバも言っていたけれども、ジョバンナのチェコ語は丁寧できれいなチェコ語である。我々長らくチェコに住んでいる人間やスラブ系の人が時に早口で喋って、正しくないチェコ語を使ってしまったり、母語の表現を使ってしまったりするのと違って、常に文法的な正しさを意識したチェコ語で、考えながら喋るからゆっくりになってしまうことはあっても、変な表現で理解できないということはない。
思わずかつてのサマースクールの同級生アレッサンドロ――こいつも長くオロモウツに住んでいたから喋るのは喋るけど文法的な正確さをどこかに置き忘れてしまうことがあった――と比較して、今まで会ったイタリア人の中で一番上手できれいなチェコ語で喋ってるじゃないかと言ってしまった。プリマで料理番組をやっていたイタリア人も、長くチェコに住んでいるから我々と同じで喋り捲るけど文法的な正確さには欠けたからなあ。そもそも、サマースクールでイタリア人が一番上のクラスに入ること自体が珍しいし、ジョバンナのチェコ語の綺麗さは、いい意味でプシェクバペニーだったんだよなあ。
ということで、今年のサマースクールの前半は、クラスも先生も含めていい意味でのプシェクバペニーが多かったとこの日のことをまとめようとして、もう一つ午後の講義があったことを思い出した。午後はオロモウツ歴史散歩に行くか、チェコの文学に関する講義に行くか、ちょっと悩んだのだが、散歩するには暑すぎる天気と、ちょっとアルコールを入れてしまったのとで、講義に出るほうを選んだ。オロモウツのことはよく知っているけれども、文学の知識はあいまいなところがあるし。
この講義で特によかったのは、個々の文学者の名前や作品、その内容よりも、その時代の文学的な雰囲気について話してくれたところだ。チェコの近代文学が1895年に幕を開けて、それからたいていは二十年単位で移り変わっていくという指摘もあったし、ミュンヘン協定とその後のナチスによる保護領化の後、突如として歴史小説が流行したというのは、日本の歴史小説、時代小説の流行の波と重ねてみると面白そうだと思った。ただ、歴史の中に現代の問題を解く答えを探そうとして書かれたであろうチェコの歴史小説の中で、一番読むべきものは誰のどの作品かという話にならなかったのが残念である。最後に質問するつもりだったのだけど、ワインのせいでど忘れしてしまった。
先生の意図したことかどうかはわからないが、何とか主義かんとか主義というのを超えたところで、チェコの現代文学というのは常に二つの相反する感情、文学的雰囲気の間を揺れ動いていたのではないかという印象を持った。不安と喜び、絶望と希望、楽観と悲観、どこの文学でも同じだといわれればその通りなのかもしれないが、歴史の波に翻弄され続けてきたチェコ民族が生み出した文学では、そういう点がよその国以上に如実に現れているのではないか。
この先生、文学の中でも詩を中心に扱っているのだろうか。詩人の名前がしばしば取り上げられたし、60分のうちの15分ぐらいを、現代チェコで最も売れている詩人クルコフスキーの話に費やした。このアナーキストっぽい詩人の詩もなかなか強烈で面白くはあったのだけど、ヤーラ・ツィムルマンについて触れられなかったのがものすごく残念だった。講義の内容紹介には書いてあったのに……。ツィムルマンの存在、もしくは非存在を、チェコ文学の中にどう位置づけるかには結構期待していたのだけどなあ。
全体としてみればこの講義にも十分満足だったし、いくつものプシェクバペニーでサマースクールに出ることにしたのは正解だったという確信とともに二週目の週末を迎えるのであった。
2018年8月6日23時55分。
2018年08月07日
十日目、あるいはプシェクバペニー〈LŠSS2018〉(八月三日)
うちの先生はしばしば今日はプシェクバペニー(překvapení)があるんだということを言う。この日は三つあると言っていたかな。プシェクバペニーというのは動詞「překvapit(驚かす)」から作られた名詞で、日本語に訳すと「驚き」とすることが多いけど、日本語の驚きよりも使用の幅が広く、本当に驚愕するような出来事から、ちょっと意外な予想外な出来事まで表現することができる。一週目の金曜日のプシェクバペニーは、教科書を捨て教室を出て、教会に出向くことで意外ではあったけれども、驚愕というほどではなかった。
十日目のプシェクバペニーの一つ目は、二週間でサマースクールを終える人に二週間コースの修了証明書とプレゼントが渡されたことだった。そのうちの一人のカロリーナが来ていなかったのはこれまで無欠席だっただけにちょっとした驚きだったが、リュバがもらった修了証明書がカロリーナのものだったのの方が大きな驚きだった。十数年前のサマースクールの運営であれば意外でもなんでもないんだけど。
二つ目のプシェクバペニーは、テストだった。先生はプシェパドフカ(přepadovka)なんて、銀行強盗なんかにも使うような言葉を使っていたが、ようは抜き打ちのテストである。抜き打ちとは言っていたけど、最初の授業で二週間目の終わりに、最後のテストがどんなものか体験してもらうために模擬試験のようなものをやると言われていたのだ。木曜日もリュバが、最後の試験を受けられないからできればテストのようなものを受けて帰りたいと主張していたし、抜き打ちでもなんでもなかった。
テストは文法問題と読解問題でそんなに難しくなかったのだけど、本試験ではこれに聴解とエッセイが加わるらしい。 内容にはちょっとプシェクバペニーがあった。日本語でいう感動詞的な表現が出ていて、ちょうど休んでしまったところだったので、答えが思いつかないところがあった。そうだよね。美味しいものを食べたときには「mňam」っていうよね。「ty vole」なんて言わないかなあ。言う人もいると思うんだけど、正解にはなるまい。
三つ目のプシェクバペニーは我々学生が先生に内緒で準備した。前日先生不在の間にドイツのアナとインガの発案で、学生たちがそれぞれ自分の国の音楽ファイル、歌であればビデオでも可を持ち寄って、チェコ語で言う「フラシュカ(USBメモリー)」に入れて、感謝の印として先生に贈ろうということになったのである。授業中毎日のようにチェコの民俗的な音楽とフォーク・ロックが融合したような曲、もしくはシンガーソングライターの曲を披露してくれていたから、そっち系がお気に入りなのだろう。ということで70年代の日本のフォークとロックの中から二つ、自分が昔90年代によく聞いていた歌を選んでおいた。他の人たちが選んだ曲を聴く機会がなかったのはちょっと残念だったが、さすがに授業つぶしてチェコ語ではない歌を聴くわけにもいかないからなあ。
アナたちの仕組んだプシェクバペニーは大成功で、先生がUSBメモリーをなくしたばかりで新しいのをどうしようか悩んでいたというおまけもついた。もう一つ残念といえば、欠席者が三人もいたことだろうか。ドイツから来たもう一人の男フェルディナントは金曜日から週末にかけてプラハに行くって言ってたなあ。ポーランドの二人は前夜行なわれた「会合」の結果、学校に出られる状態ではないのではないかと、出席した唯一のポーランド人アリツィアが推測していた。先生はそれに対して、「チェコ語における生格と対格の使用について検討する会合だったんだよね」と返していた。
最後の先生が仕組んだプシェクバペニーは、これまでで最高のプシェクバペニーだった。教室を離れて街に出たところまでは先週の金曜日と同じ。ただ歩いて数分かかると言って、聖ミハル教会のあるジェロティン広場を越え、坂を降りてドルニー広場に出る。そこからテレジア門の方に小さな通りに入ったのだが、どこに向かっているのか予想もつかなかった。この暑さだからどこか地下の涼しいところを目指しているのだろうとは考えたけれども、目的地はヴィノテーカというワインを販売しているお店。普通の酒屋とは違って樽に貯蔵されたものを量り売りもしてくれる。というか、チェコには日本的ないろいろな種類のお酒だけを売っている酒屋はないなあ。
ハナーツカー・レストランの角を入った通りにこの店があるのは知っていたけれども、地下にワインの貯蔵庫があって、その前でワインが飲めるようになっているのは知らなかった。先生もオロモウツの人間でも知らない人も多いんだよと言っていたけれども、もっとオロモウツの店について情報を集めるべきだろうか。とまれ先生との最後の授業はワイン蔵でということになった。これには、みんな驚いていたので、先生のプシェクバペニーも大成功だったということになる。
ワイン蔵にいるのだから、当然モラビアのワインについても勉強して、モラビアのワインが登場し、「dá se」「nedá se」「pro Pražáky」の三種類に分類されるとか、ワインの味わい方とかを「勉強」したあと、最後のプシェクバペニーとして、先生が子供の頃に遊んでいたというゲームが登場した。手元にある大きなカードに描かれたえと、小さなカードの山から一枚引いて同じ絵があったらもらえて、自分のカードにある江をすべて集めたら勝ちというゲームなのだが、そのままではチェコ語の勉強にはならない。カードを引いた人は、それが何なのか言葉を使って説明し他の人が当てるという形になった。カードは当てた人がもらうのではなく、大きなカードに同じ絵がある人がもらう。
最初は快調だったんだよ。残り4枚とか3枚辺りまではダントツで一番だったのだけど、そこからカードが出なくなってどんどん追い抜かれて結局最下位に終わってしまった。最後の一枚になってからが長かった。アイロンが出なかったんだよなあ。一位になったのは、最初は出遅れていたポーランドのアリツィア、この子、最初は自分のカードにあるのを三回ぐらい連続で引いて皆に、何か怪しいぞとからかわれていた。
この日の話は、時間が前後するけどもう少し続く。
2018年8月5日7時10分。
2018年08月06日
九日目其の二、あるいは作文の練習は楽しい〈LŠSS2018〉(八月二日)
九日目は午後に作文のワークショップが予定されていた。これは2と番号がついていて、上級クラスの学生だけを対称にしたものだった。下級クラスの学生を対象にした1は火曜日に行なわれたんだったかな。上のクラスの人間は1には出られないと思っていたのだが、2の授業中に例のポーランドの新聞記者のルカーシュが1にも出ていたことを知って、潜ればよかったかなと思ってしまった。
参加者は、結局我々のクラスから4人、一つ下の第9クラスから3人の全部で7人だった。日本からは外大の学生さんも参加していて、一番参加者の多い民族となった。とはいっても2人でイタリア人と並んでいたのだけど。他はスロバキア人とウクライナ人が一人ずつ。うちのクラスのドイツ人とポーランド人は意外なことに来ていなかった。
授業というか、ワークショップは、手紙やイーメールの書き出しから始まった。チェコ語ではメールでも、手紙と同じように呼びかけの言葉を書かなければならない。日本語だとメールと手紙の作法は違うけれども、チェコ語はほぼ同じだと考えていい。メール、手紙を出す相手によって書き出しやら結びの表現やらが変わってくるのは、日本語と同じである。
正直な話、友達に崩れた文体で書くのであれば、どんな書き方をしてもいいのだから作法もくそもない。大切なのは目上の人に、できるだけ敬意を表したい相手に書くときの作法である。普通は「Vážený pane」「Vážená paní」で始めるのは知っている。大切なのは、形容詞は形が変わらないけれども、呼びかけなので5格にすることである。これに学位やら名字やらをつけていくのだが、どこまで書くべきなのかが正直よくわからない。学位も含めて肩書き大好きなのがチェコ人だから、名刺に書かれているものは全部書いたほうがいいような気もするけど、長すぎるのもくどくてなんだかなあである。
先生の説明では、「Vážený pane」の後に書くのは一つだけにするべきだという。つまり肩書きを使うのであれば、たくさんある肩書きの中から一番重要なものだけを書き、名字を書く場合には肩書きは書かないというのである。そこで心中「マジか」と叫んでしまったのは、H先生にメールを書くときに、できるだけ丁寧にと思いつつ、学位と名字を両方書いてきたことを思い出したからである。両方書くと長すぎてあまり印象がよくないというのには賛同するけれども、じゃあどっちを使えばいいんだ? 学位を使った方が公式な感じで敬意が強く感じられる一方で、名字を使った方が親しみを感じさせるところがあるのだとか。そうすると、H先生に最初にメールを出すときは、学位を使って、返事が来てそれに返すときには名字を使うのがいいのかな。
結びも、一番よく使うのが「挨拶」という意味の名詞を使った「S pozdravem」なのだが、動詞の三人称単数形「Zdraví」「Pozdravuje」と書いて、その下の自分の名前と合わせて、「こうこういう者が挨拶しております」的な形式にすることもある。名詞を使うほうは最初から問題なく使えたのだが、動詞の方は自分が挨拶しているんだという意識が強すぎたせいか、一人称単数を使ってしまうことが多かった。それを間違いだと認識していたのだが、先生によると完全な間違いではないらしい。もちろん、公的に響く三人称単数を使うよりは表せる敬意が下がってしまうけれども、逆に一人称単数を使うことで親近感を表すことも可能なのだという。となればこれもH先生にメールをするときには使い分けることができる。最初はできるだけ」硬く、そこから徐々に親近感を出していくような戦略的なメールを書いてみよう。
考えてみれば、H先生は毎回、書き出しの呼びかけの部分も、最後の結びの部分も、少しずつ変えていたような気がする。毎回数度のメールのやり取りをするので、最初から並べて見てみるとH先生の言葉の使い方が見えてくるかもしれない。それを完全に真似するのはよくないだろうけれども、その中にある言語使用の戦略性はぜひとも真似たいものである。そう我がチェコ語は目標とする人物の真似から入るのである。喋るのと書くのの基本的な部分は師匠のチェコ語を真似るところから始まったし、ほかにもカンボジアの国王陛下や、チェコテレビのボサーク師匠、「チェトニツェー・フモレスキ」の登場人物たちなどなど、我がチェコ語の血肉になった存在は多い。学ぶ=まねぶ(真似る)だとはよく言われるが、意図的に実行できたのはチェコ語の学習が最初で最後である。
最後に三つのグループに分かれて、求人に応募するときに履歴書とともに提出する手紙、チェコ語だと「モティバチニー・ドピス」というのを書くことになった。グループは第9クラスと、第10クラスの人がそれぞれ一人ずつになる形で作られた。一つ目のグループはスロバキア―ポーランドグループで、新聞記者のルカーシュがいるからか、当然のようにチェコテレビの記者を目指し、二つ目のウクライナ・イタリア・日本グループは、チェコ語の先生のリュバがいるからか、サマースクールの講師に応募していた。最後の我々の組は、イタリア人も金曜日のホモウト見学に行っていたから、迷わずホモウトの「スラーデク」、醸造責任者と訳しておこうか、である。
この手の文書は自分褒めが必要であまり好きではないし、たいてい褒めるポイントが同じでどれを読んでも大差ないという印象を抱いてしまうので、あまり意味のあるものではなかろうと思うのだが、先生によるとチェコ企業の人事の人は、履歴書以上にこれを重視するらしい。日本だと受けそうな文書の書き方マニュアルなんてのが出るものだけど、チェコではそこまで行っていないのかな。とりあえず、事前に読んで分析した文書を真似るところから入って、要所に他の人は書かないであろうことを書いてオリジナリティを出すしかあるまい。
イタリアのおじさんは、ルカーシュの行っていた通り、文法の間違いは結構したけど、語彙が豊富で、こっちは文法的正確さなら考える時間さえあれば問題ないので。お互いに弱いところを補うことができた。そうして作成した文書はなかなかの出来で、先生には褒められたのだけど、オリジナリティを出すために入れた一文がなければとリュバに批判されてしまった。批判された「毎日ビールを飲んでいます」ってのは、ビール会社の求人に応募する際には必須だと思ったのだけど、こんな文書で読むとアルコール依存症みたいに感じられるという声も上がっていた。
きっちりと形式が決まっていて、内容の制約も強い中で、少しずつ表現や内容をずらしていくことで新しいもの、違うものを生み出すというのは和歌みたいなものか。求人に応募するためには公式の場にふさわしいものであるべきだと考えると、それは所謂「ハレ」の場となる。我々の書いたものは、違いを求めすぎて「ケ」に流れすぎたということか。こういう風に和歌にたとえてしまうと、妙に納得してしまう。こんな解釈でいいのかどうかは知らんけどさ。
2018年8月4日9時44分。
2018年08月05日
九日目、あるいは今年のクラスは当たり〈LŠSS2018〉(八月二日)
八日目、つまり八月朔日の水曜日は南モラビアから撤収のために欠席。前日夕方電車で南に向かったのだが、同じ電車でも冷房の効きのいいところと、悪いところがあったのは、意図的なものなのか単なる故障なのか判断が微妙なところである。日本だと弱冷房車とか表示があるものだが、そんなものはなかったし、それでも冷房の入るような車両が、多くの路線に配備されるようになったことは喜ぶべきことである。
水曜日は、本当はオロモウツ帰還が間に合えば、最後の部分だけでの出るつもりだったのだが、疲れが出たのかちょっと寝過ごしてしまって、オロモウツについたときには12時ごろで、授業に間に合う時間ではなかった。一つ下の9番のクラスと合同で授業をやるといっていたから、できれば出ておきたかったのだがしかたがない。この暑さでは、体調管理をしっかりしないと欠席数が当初の予定以上に膨れ上がってしまいかねない。
後で話を聞いたら、この日は、クラスの集合写真の撮影も行われたらしい。前半の二週間だけで帰ってしまう人もいるから、こういう儀式は二週目に行なう必要があるのだ。見せてもらった写真には、ホワイトボードに男の絵が描かれていて日本の旗を手にしている人がいるから、一応そこにいたことにしてもらえたようだ。他にもラジオが来たとかテレビが来たとか言う話もあって、すべて事情があって欠席していた日に行われたのは素晴らしい。今更テレビやらラジオやらに取り上げられて喜ぶような若さは持ち合わせていないのである。そんなのは若き、将来有望な、前途に限りなき未来が待っている若者に任せるに限る。
早めに学校について、最初の間食、チェコ語でスバチナをしていたら、ウクライナのリュバがちょっと疲れた顔でやってきて、「今日うちの先生突如プラハに行かなければならなくなったらしくて、代わりの先生が来るってよ」と教えてくれた。代講をするのは先生の教え子だという話もしてくれたかな。代講の先生がくるのはうちだけではなく、隣のクラスもだったから、先生の個人的な事情ではなく、学校全体にかかわる問題が発生したのかもしれない。
授業では第八課に入って、課のテーマはチャリティー。PCで教科書に附属する音声を再生しようとしてあれこれ問題が起こって、結局自分たちで読むことになった。最初の音声の再生自体はうまく行ったのだが、それが終わると、何の関係もないどこから来たのかもわからない音楽の再生が始まってしまって、とめられなくなってしまったのだ。代講の先生は技術には弱くてと何度も謝っていたけれども、気にすることはない。いつもの先生もうまく使えないことが多くて、最後にはいまや懐かしいCDラジカセをクラスに持ち込んでいたのだから。設備が新しくなってデジタル化されるのが、常に先生や学生のためにはならないといういい実例である。困ったときに頼れるのはかつての誰にでも簡単に仕える設備なのである。
二つのグループに分かれて、チャリティー活動の計画を立てるというロールプレーも行なわれた。この日は、ポーランドから来た三人娘のうちの一人がお休みで、学生の数は9人。わがグループは4人編成で、ドイツ1、ポーランド1、ウクライナ1、日本1という民族構成になった。暑さであまりアイデアが出ず、結局バイエルン、チェコ語でバボルスコの山の中出身だというアナのアイデアで、ギリシャに森をというプロジェクトを計画することになった。最近ギリシャで山火事が起こって大変なことになっているというニュースがあったらしい。サマースクールが始まってから、ニュースあんまり見てないから知らなかったや。
計画の本体は苗木を育てて植林するというもの。当初はお金を寄付した人が、木の養親になるなんて話もしていたのだけど、報告の際には忘れてしまった。それからお金集めとしては、チェコ国内のギリシャレストランに募金箱おいて募金活動をするとか、ギリシャ系の歌手とか、ギリシャにバカンスに行く歌手を探してチャリティーコンサートを開いて、テレビで中継して入場料だけではなく、寄付用のSMS、いわゆるDMSを送ってもらえるようにするとか、ドキュメント番組を作成してテレビで放送するとか、少しずつ話が具体化していった。三人寄れば文殊の知恵ではないけれども、一人では思いつかないようなことも、他人の意見がヒントになって思いつけた。最後に代表でプロジェクトの発表役を押し付けられたのは、まあ女性の方が数が多かったから男に回ってくるのは仕方がなかった、のかな。
もう一つの、ドイツ、イタリア、スロバキア、ポーランドグループは、癌の放射線治療で髪の毛を失った人のために鬘を製作して贈るというプロジェクトを考え出してきた。夏休みの時期に各地で行われるさまざまなフェスティバルに出向いて、無料で髪を切りその髪で鬘を作ろうというのである。特別なバスを仕立てて、ボランティアの美容師を目指して勉強している学生たちをあちこちに運ぶなんてことも言っていたかな。これも、多分一人では出てこないアイデアだよなあ。
こういうのも、一人で勉強するのではなく、学校に通って勉強する利点だといえよう。そしてその利点は学生たちの積極的な姿勢なしには、出現しないものでもある。今年のクラスは、その意味でも大当たりである。三回目のサマースクールのあの最高のクラスには及ばないかもしれないけれども、それを除けばこれまでに経験してきた語学の授業におけるクラスとしては頭一つも二つも抜けている。ウクライナのリュバ先生とポーランドのカロリーナの二人が二週間でコースを終えるらしいのだが、来週以降も今のクラスの雰囲気が継続することを願おう。
そうそうこの日は休憩時間が終わった後、授業を再開する前に、事務局の人がやってきてリュバ先生にプレゼントを渡していた。ちょうどこの日が誕生日で、サマースクールの事務局から誕生日プレゼントが贈られたのである。これで次の日の出来事につながっていくなんてことは、このときには考えてもいなかった。
2018年8月4日17時。
2018年08月04日
七日目、あるいはチェコ語の格の話(七月卅一日)
二週目の月曜日、つまりサマースクール六日目は、プラハで所用が会ったため欠席。以前紹介した日本語のアクセントに関するネット上のOJADというプロジェクトを主催している日本の先生がプラハに来て、プロジェクトについてだけではなく、日本語のアクセント、ひいては発音についても、ここが大事なのだけど言語学的な観点からではなく、工学的な観点からお話をしてくれるというので、チェコ語は一日休むことにした。これが言語学的なアプローチだったら興味を持たないところだけどね。それに先生には以前オロモウツでお目にかかったこともあって、せっかくチェコにこられるのだから挨拶ぐらいはしておきたいというのもあった。
講義の内容だけでも、ここの記事、何本か書けるような内容だったけど、メインとすべきテーマはチェコ語であって日本語ではない。だから泣く泣く書くのを諦めて、書いていたらサマースクールについて書く時間がなくなって、すべてが忘却のかなたに流れ去ってしまうし、この記事ではサマースクール七日目火曜日の出来事について書く。
朝起きると、前日の疲れからか、食欲があまりなかった。考えてみれば、月曜日は早朝に南モラバを出て昼過ぎにプラハに到着し、オロモウツに戻ってきたのは午後十時過ぎだった。乗った電車は最初の超ローカルな部分を除けば、すべて冷房完備の電車で、移動中に暑さにさいなまれることはなかったのだが、久しぶりに冷房のある空間と、ない空間を何度も出入りすることで疲れてしまった。昔は慣れて平気だったのだけど、チェコに来て長いからさ。
うちではコーンフレークだけ食べて、途中のパン屋で休み時間用だけでなく、授業前に食べるものも仕入れることにした。城下公園を歩いているうちに調子も上がってきてお腹も空き始めたし。ただしコーヒーは買わない。朝の一杯はうちで飲むに限るし、この時点で二杯目を飲むとコーヒーの飲みすぎになりかねない。飲みすぎてもいいんだけどね。
今年の夏は暑い。夜は気温が下がるからまだ何とかなっているけれども、朝八時ごろにうちを出る時点で気温が30度近くにまで上がっていることもある。こちらはピークが午後二時ごろなんてこともなく、日が出ている間は気温はあまり下がらない。何が言いたいかというと、脳みそが溶けている時間が長くて授業中はともかく、それが終わると授業で何を勉強したかなんて覚えちゃいないということである。
本来、サマースクールで勉強したことを日々記す学習日記のつもりで始めたのに、このままではただの日記もどきになってしまう。教科書やノートにメモしたことを見直して記憶を再現すればいいと思いつくのにも時間がかかるほどに、すでに暑く脳は機能を止めている。そしてそんなことをするのは面倒だと思うほどに暑く、疲れてしまっている。
ということで火曜日の授業は最初に天気について、形容詞を副詞にして使用するやり方について勉強したことぐらいしか覚えていない。「エコロジーな歌」なんてのも聞かされたか。題名の滅茶苦茶差に比べたら中身は凄く全うだったのに驚かされたけど、フォーク系のシンガーソングライターが、ここまで真っ直ぐ社会的な正義を訴える歌を作るってのは、日本だと60年代、70年代の出来事になるだろうか。最近日本の音楽を全く聞いていないからよくわからないけど、自然を守れ的な歌を作っている人いるのかな。日本語で聞くと反発しそうな内容でもチェコ語で聞くとすんなり納得してしまうのは不思議だった。
この日は、授業よりも午後の講義の方が記憶に残っている。我々のクラスを担当する先生が、チェコ語の格の役割について、チャペクなどの作品をもとにして説明してくれるという内容だった。うちの先生は、前の週も上級生向けのワークショップをやっていて、同級生の多くはそちらにも出ていたのだが、時間の都合がつかなかったのとコメンスキーだと思っていた講義と重なっていたこともあって、出られなかったのだ。
チェコ語の七つの格を動詞との関連性によって三つに分けるとかいう部分は、正直どうでもよかったのだが、動詞と直接は関係しない形で副詞的な使い方ができるという話は面白かった。というか、そういう観点で格を見てこなかったから、ちょっと目からうろこが落ちる思いがした。時間を表す表現、特に二語からなる時間を表す表現は、前置詞を使わずに四格をつかうのだが、それもこの副詞的用法に含まれるという。
チェコ語の時間を表す表現は、混迷を極めていて、例えば「tento týden(今週)」が四格の副詞的な使い方なんだと判ったからといって、それが解消されるわけではないけれども、名付けられることで多少の安心感は出る。でもなんで曜日は「v+四格」で、月は「v+六格」になるんだろう。そしてどちらも前に形容詞をつけると四格だけで表現できてしまうのだろう。悩みは尽きないのである。
それ以外にも、チャペクの作品に見る二格や三格の使い方。オタ・パベルの作品で三格を使いそうな場面で、使われていない実例とその意味何かの説明があって、普段のチェコ語の勉強ではできないような深い文章の読み込みができて楽しかった。言葉の使い方の側からの文学作品の分析というのは日本でもチェコでもあまり変わらないようである。似非文学者としてはそんなことを考えてしまった。
2018年8月4日0時10分。
2018年08月03日
週末一〈LŠSS2018〉(七月廿八日)
同級生たちが、レドニツェとバルティツェの世界遺産に向かい、ワインの試飲会まで体験する最初の週末の土曜日、別件で南モラビアに向かった。週末は平日と違って目的地までの接続が悪くなるので、それなら、いつもとは違うルートを使ってみようと思い立った。運賃も大して差がないし。ということで、これまで何度も町の中を車で通ったことはあり、駅で乗り換えたこともあるけれども、街に出たことがないウヘルスケー・フラディシュテで乗り換えることにした。普段なら待ち時間が40分以上もあるから、絶対に選ばないのだが、ちょっと街を見てこようというにはちょうどいい。
最近チェコ鉄道では、プラハとウヘルスケー・フラディシュテ近辺を結ぶ特急にスロバーツキー・エキスプレスという名前をつけて一日に何本か走らせている。行き先はベセリーだったりルハチョビツェだったりといろいろあるが、フラディシュテを通るのは共通している。以前はこの手の電車はそれぞれガラーンとか別の名前が付けられていて、統一感がなかったのである。オストラバのほうに向かっていたレオが一部の電車をこっちに走らせるようになったのに対する対策だったのかもしれない。
前日の酒の多少残った頭で、朝食もとらずにうちを出て九時過ぎに乗り込んだルハチョビツェ行きの電車は、昔の緑色のおんぼろではなく、青色の車両でコンパートメント方式だったけど六人掛けでなかなか快適だった。冷房もかすかに入っていて、暑さで死にそうということにはならなかった。問題は乗った車両が途中のスタレー・ムニェスト止まりでフラディシュテまでは行かなかったことで、検札に来た車掌に言われて慌ててPCを終了させて前の車両へと移動した。
考えてみれば、スタレー・ムニェストで車両の切り離しなどの作業をするわけだから、慌てずに電車が停まってから降りて移動すればよかったのだった。途中で通った一等の車両は冷房が効きすぎなぐらい効いていて、乗っている人が少ないのにもったいないことだと思ってしまった。以下二日とが少ないとはいえ、一等を二等と同じレベルの冷房にはできないのだろう。いや、人が少ないから同じレベルの冷房でも効いているように感じられるのか。一度話のたねに一等に乗ってみたいと思うのだけどなかなか踏ん切りがつかない。
ウヘルスケー・フラディシュテの駅は、民俗的なモチーフが描かれていることで知られていて、それなりに有名である。だけど、今回はちょっと遅れて10時半ごろに到着した時点で、太陽が煌々と照りつけ気温が、暑い夏になれていた日本人にとっても辛いと思うぐらいに上がっており、観察するような余裕はなかった。正直この時点で、このルートを選んだことを後悔していた。しかも、ここからベセリーまでは、線路の改修工事のため代替バスに乗ることになるのである。レギオあたりのバスとは違ってクーラーなんてないだろうしなあ……。
フラディシュテの街は、きれいではあるのだけど、何だかちぐはぐな印象を与えた。言い方は悪いけれども小プラハという感じだった。最初は悪くなかったのだ。駅を出てすぐのところに、かつての街の入り口と周囲の城壁がちょっとだけ再現されていたのには、その内側が単なる公園というか、木の植えられた広場になっていたのはともかくとして、街の散策に対する期待を大きくさせた。
最初に出会った違和感は、イエズス会の庭園と呼ばれているらしい広場を出ると姪に入ってきた立派な建物が、「ユネスコ小学校」と名付けられているのに気づいたときに感じた。そこに込められた意味など知らないが、世界遺産を認定するユネスコに対する阿諛追従の類ではないかと思われた。
国連は、EUほど目立つ組織ではないから、問題が起こっても知られることは少ないが、EUがドイツの暴走と迷走によって、存亡の曲がり角に来ているのと同様に、国連もその存在意義も含めて改めて根本的に議論検討されるべき時期に来ている。それは、世界遺産というものを錦の旗にしてしまったユネスコも同様である。世界遺産の認定、リストからの削除などに関してはあれこれよからぬ噂も聞くけど、西欧的に洗練された不正であれば、西欧の価値観では問題ないことにされるからなあ。
個人的に気に入らなかったのは、この広場にコメンスキーの名が冠されていたことで、ユネスコとか、世界遺産の理念に対してはコメンスキーも賛同するだろうと予想するけど、現状、現実の運営、運用に対しては、満足するとは思えない。改革を訴えても聞き入れられない憤懣から、毎晩飲みに出かけるコメンスキーということになりそうである。ああ、それならコメンスキーには適役だ。だけど、それはユネスコとコメンスキーを結びつける理由にはならない。
最初は、写真を撮ろうと思って、デジカメを手に歩いていたのだが、途中でその気がなくなって、ただふらふらと歩き回るだけに終わった。太陽の光が強すぎてデジカメの液晶画面でどんな写真になるのか見づらかったというのもあるけど、少なくとも街の中心には、無理して写真に撮りたいと思うようなところは少なかった。このあたりは大モラバ国の中心地だったらしく、遺跡が残っているというから、そこなら写真をとる気にもなったのかもしれないが、遺跡まで足を伸ばす時間はなかった。
もう一つ、写真を撮らなかった理由を考えると、街中に妙に人が多かったこともあげられる。特に若い人たちが首からカードをぶら下げて街の中を歩き回っていた。中には遠くから着たばかりなのか大きなリュックをしょっている人もいた。なんだろうかと考えて、昔サマースクールでイタリアのアレッサンドロに週末フラディシュテに行こうと誘われたのを思い出した。フィルモバー・シュコラがあるとか言っていたか。
フィルモバー・シュコラは直訳すると映画学校だが、実態は映画祭とあまり変わらない。学校という名目で、さまざまな映画を参加者にたいして上映する許可を取っているのだろう。ズリーンでやっているのは子供向けの映画で、こちらは一般向けの映画だっただろうか。それにしては若い、ときに幼いともいいたくなるような子供もカードをぶら下げていたから、10代の子供たち向けの作品にも力を入れているのかもしれない。
そんなことを確認して、けばけばしさのない裏道を通って駅に戻り、車掌さんに中はくそ暑いよと言われつつベセリー行きの代替バスに乗り込んだのだった。今考えるとフラディシュテの印象があまりよくなかったのには、このくそ暑さが影響していた可能性もある。そう、すべては太陽がいけないのである。
2018年8月2日18時40分。
2018年08月02日
五日目其の三、あるいはポーランドの新聞記者と与太話〈LŠSS2018〉(七月廿七日)
熟成用の倉庫を出ると日も陰りだいぶすごしやすくなっていた。そのまま帰路についた人もいたけど、我々は残ってザフラートカでビールを飲むことにした。ジュースの人もいたかもしれない。黒ビールのシュバルツは、よその会社の黒より、黒さが深いように思われた。味については最近黒を飲んでいないから、何ともいえないのだけど、最近の傾向としては黒ビールというよりは、茶色というかこげ茶色というか、黒というには中途半端なビールに力を入れているところが多いから、ホモウトの黒の黒さには潔さすら感じてしまう。
ホモウトのザフラートカであれこれ話していた連中も、午後6時半過ぎのバスの時間に合わせて席を立ち、残ったのはポーランドのクラコフで新聞記者をしているルカーシュと二人だけになった。お互い、学生が多い参加者の中ではいい年だということもあって、夕食をとりながらあれこれ与太話に花を咲かせた。
ルカーシュが働いているのは、ポーランドで共産党政権が倒れて最初に創刊された新聞「ガゼタ選挙何とか」という名前の新聞のクラコフ支局らしい。その新聞に選挙を意味する言葉がついているのは、創刊の経緯と関係するという。本来は共産党政権が倒れて最初に行われた民主的選挙に際して、候補者の多くがほとんど無名の人たちばかりだったので、候補者についての情報を有権者に知らせるための情報紙として誕生したものが、選挙後も発行を続けて、新聞としての体裁を整えていったらしい。
一部には、時代は変わったのだからいつまでも昔の紙名にこだわらないで、選挙の部分を取り去るなりして新しい名前にしようという意見もあったし、今でもあるけれども、現在のポーランドの政治的な状況を考えると、創刊の初心を忘れないためにも、名前は変えないほうがいいんじゃないかとルカーシュは語っていた。民主主義と呼ばれるものが至上の価値であるかのように語られる一方で、世界中で形骸化しつつある現状を考えると民主化当時の理念を忘れないというのは大切なことであろう。戻るべき理念を持たない日本の新聞が右であれ、左であれ大衆迎合化しているのとは違っていそうである。
ルカーシュの話で特に興味深かったのは、オロモウツの話で、有名なチェコのポーランド学者にインタビューするためにオロモウツに通い、その人が飲み屋「ポノルカ」の常連だったために、インタビューをポノルカで行ったという話だ。そして、今でもポノルカファンであり続けているので、今回のサマースクールでもすでに何度か足を運んでいるらしい。
あそこは、例の禁煙法の関係で会員制のクラブになっているはずだけどというと、ルカーシュ笑って、「酒が好きで、タバコも好き? タバコを吸いながら酒が飲みたい? じゃあお前は立派なうちの会員だ」と恐らくお店の人に言われたであろう台詞を教えてくれた。
禁煙法の網の目を抜けるために、誰でも入れる普通の飲み屋から、会員しか入れない会員制のクラブに衣替えしたところが多いのは知っていた。でも、これじゃあ会員制とかあってなきようなものじゃないか。こんなでたらめが許されるなんて、チェコの禁煙法は網じゃなくてザルだななんて感想を持ってしまった。
ルカーシュは更に笑って、ポーランドでもまったく同じだったということを教えてくれた。チェコより先に、レストランや飲み屋での禁煙が義務付けられたポーランドでも法律の施行直後は、適用を逃れるために会員制のクラブに名目上改組するところが続出したらしい。その数の多さと、会員制のでたらめさに、禁煙法が骨抜きにされることを恐れた政治家や官僚の手で法律が改正され、この手の名目だけの会員制クラブでの喫煙も禁止されることになったのだという。タバコを吸いながらお酒を飲むための会員制クラブ自体が禁止されたのかもしれない。
ルカーシュは、だからチェコでももう少しすれば、ポノルカでタバコは吸えなくなるさと言うのだけど、そうなったらそうなったでチェコ人は、ポーランド人には思いもつかないような方法で法律を骨抜きにしてしまうような気もする。自分ではタバコは吸わないし、道を歩いていて歩きタバコをしている奴の煙が漂ってくるとむかっ腹を立てしまうような人間だが、ポノルカのような喫煙が文化だった、何かを象徴していた時代の名残をとどめている場所でタバコが吸われなくなるのはちょっとさびしい気がする。それこそ文化遺産として残してもいいんじゃないだろうか。
この件、つまり禁煙法に関しては、EUのやり口が大口のスポンサーであるタバコ会社に遠慮して中途半端すぎるのも問題である。単なる好悪の問題ではなく、本当に健康の問題であるのなら、全面的に禁止してしまえばいいのだ。もしくは処方箋がないと買えないようにするとか、タバコを吸える場所を厳密に定めるとか。現在の街中でも屋根や壁のないオープンな空間であれば野放図にどこでも喫煙してもいいというのは、景観を害するだけである。それなら喫煙者しか入れない喫煙部屋にまとめて押し込んだほうがマシである。そして戸外での喫煙を禁止して罰則を厳しくすれば、吸殻のポイ捨てもなくなるから一石二鳥だと思うんだけどねえ。
ルカーシュとの話は示唆に富んで非常に楽しかったのだけど、いつまでもこればっかり書くわけにもいかないし、酔いが回ってあまり覚えていないというのもあるから、ここまでということにしよう。だんだんサマースクールで勉強したことについて書こうという当初の目的から逸脱し始めてきたなあ。
2018年8月1日23時15分。