アフィリエイト広告を利用しています
<< 2024年02月 >>
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29    
検索
リンク集
最新コメント
チェコの銀行1(十二月二日) by ルイ ヴィトン 時計 レディース hウォッチ (03/20)
メンチンスキ神父の謎(四月卅日) by にっしやん (12/30)
メンチンスキ神父の謎(四月卅日) by にっしゃん (12/30)
メンチンスキ神父考再び(七月卅日) by にっしゃん (12/30)
カレル・チャペクの戯曲残り(二月朔日) by K (08/16)
最新記事
カテゴリーアーカイブ
記事ランキング
  1. 1. 『ヨハネス・コメニウス 汎知学の光』の刊行を寿ぐ(四月十日)
  2. 2. no img 『羊皮紙に眠る文字たち』『外国語の水曜日』(三月十九日)
  3. 3. no img コメンスキー――敬虔なる教育者、あるいは流浪の飲んだくれ(九月廿七日)
  4. 4. no img すべての功績はピルスナー・ウルクエルに(一月廿六日)
  5. 5. no img 「トルハーク」再び(三月廿日)
  6. 6. no img トルハーク四度(十月二日)
ファン
タグクラウド










ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

2018年07月21日

オロモウツのサマースクールに来る人へ3(七月廿日)



 サマースクールで大学の寮を宿舎にする人は、自炊というわけにも行かないだろうから、大半は外食ということになるだろう。以前とは違ってサマースクール事務局の食券があって指定されたレストランでしか使えないということはないようだし、すでに紹介したレストランに加えていくつか会場のコンビクトから近く昼食をとりに行きやすそうなレストランを紹介しておこう。

 以前、「オロモウツレストランめぐり」「同2」とか題して紹介したのは、すでに二年以上前の話になるが、あのときから変わったといえば、ビラ・プリマベシのレストランが再開したのにまた閉店したことと、聖バーツラフ・ビール醸造所の高級路線のレストランが閉店してベトナム料理店になったことぐらいだろうか。メニューには大量の料理が載っていて出てくるのがかなり早いから、注文をとってから料理しているのではなく、冷凍食品を使っているのではないかとは、実際に食べに行った人の話。美味しかったかどうかは聞いていない。
 それからミニビール醸造所だったリーグロフカが、ビールはそのままにステーキハウスとか言い出して、熟成肉とか和牛とかアンガス牛とかを売り物にし始めたというのもあった。ここでステーキを食べたことはないけれども、知り合いの話では、そこまで美味しいものではないらしい。むしろ、宿舎からマサリク通りに出て駅に向かってモラバ川をわたったところにあるM3とか、旧市街を越えてテレジア門の脇にあるプランBのほうが値段相応でいいと言っていた。

 さて最初に追加するのは、コンビクトを出て、神学部の建物を左に見ながら左前方の通りに入ってすぐのところにあるホテル・アリゴネのレストランである。ホテルの入っている建物の中庭に屋根をつけてレストラン用のスペースにしている。以前はここでサマースクール開始の夕食会が行われていたのだけど、今年はどうなるのかな。面倒くさいから出ないと思うけど。
 レストラン再開なんて文字も躍っているから、改修かなんかで一時閉鎖中だったのかもしれない。そういえばこのホテルの建物の一つで改修工事をしているのを見た記憶もある。メニューはステーキを中心に良くも悪くも普通という感じで、スマジェニー・シールがあるのが特徴といえば特徴かなあ。最近この料理が食べられるレストランはそれほど多くないような気がする。もう一つの特徴は月曜日が定休日になっていること。これはチェコでは異常に珍しい。

 アリゴネの前を過ぎてすぐのところを左に曲がると聖ミハル教会の前のジェロティン広場に出る。その細長くいびつな形の広場の一番奥にはウ・バカラージェという飲み屋があって、たまにジェザネーがきれいに二つに分かれて出てくることがあったのだけど、この前久しぶりに通ったらすでに閉店していて、喫茶店らしきお店になっていた。そこで左に曲がって二つ目の角を右に曲がると、ペンションもやっているウ・アンデラがある。こちらに来たばかりの十数年前は、オロモウツでも評判のいいレストランの一つだった。奥まったところにあるせいでなかなかいく機会もなかったけれどもさ。

 ウ・アンデラの前の通りを突き当りまで行って右に曲がる。カプチーン通りに出て右手前方にあるのが、サイド・ストリートというグリルとハンバーガーを中心にしたお店。ここはオロモウツ郊外ホモウトフ地区のビール、ホモウトが、運がよければ飲めるはず。それ以外にこの店に行く理由はない。以前行ったときは、コンサートが始まってあまりのうるささに食事が終わって早々に帰ってきたのだった。ホモウトのビールは二種類メニューに載っていたけど、一種類しか飲めなかったのかな。ホモウトも最近一時期ほど目に付かなくなっているなあ。コンビクトの中のレストランでも飲めたのだけど閉鎖されたし、オロモウツ市内では飲めないなんてことはないと思いたい。

 坂を下ってドルニー広場に出ると、すぐ左手にお寿司のチェーン店もあるけど、わざわざ行かなければならないほどの店ではないらしい。この広場のレストランで紹介していないところの中では、名前をチェコ語の説明のところで使ったポッド・リンポウを挙げておこう。ここ禁煙になる前は、地下室にもうもうと煙が立ち込めていて、食事をするにはどうかというところだったので、広場に出されていたザフラートカ、いわゆるナッド・リンポウに席をとることの方が多かった。オロモウツでベルナルトが飲める数少ないみせの一つだったのだが、いつの間にかピルスナー・ウルクエルに鞍替えしていた。ベルナルトを飲むならプランBだったかな。

 ドルニー広場からホルニーに出て右に曲がった広場の角の部分には、昔はウ・ケイクリージェというチェコ料理のお店があって、それが中華料理屋に変わっていたのだけど、それも閉店して現在改装工事中。改装が終わったらチェコ第二のビール会社スタロプラメン直営チェーンのポトレフェナー・フサというお店が開店するらしい。どんなお店か知りたければプラハの中央駅の駅舎に入っているからオロモウツに来る前に試してもいいかもしれない。このチェーン店で飲めたスタロプラメンの工場で西欧向けに生産しているアサヒ・スーパードライは、アサヒビールがピルスナー・ウルクエル買収という挙に出た後でも飲めるのだろうか。自分では絶対に飲む気はないけれども、話の種にという人も居るかもしれないしさ。
 以前そのポトレフェナー・フサがあった場所、ホルニー広場から聖モジツ教会に向かう途中にあるのがウ・モジツェである。スタロプラメンではなく、ピルスナー・ウルクエルのお店になっている。ドラーパルと経営が同じなのかな。ドラーパルにいた店員がこちらで働いていたなんてことがあったし、メニューのデザインにも共通性が高かった。この前、行ったときにはスビーチコバーを食べたんだったかな。ベプショ・ゼロ・クネドロだったかな。
 また長くなってきたので分割。
2018年7月20日23時43分。







2018年07月19日

オロモウツのサマースクールに来る人へ2(七月十八日)



承前
 美術館の対面にある聖母なんとかマリア教会の前を通って左手の登って行く通りに入る。その前に歩行者の安全のために建物に穿たれた小さなトンネルを抜けてもいい。ここはスプレー「芸術家」に開放されているのか、誰かが依頼しているのかは知らないが、しばしば壁に描かれた「作品」が変わっている。以前街中にピアノを置いて自由に弾かせるのが流行ったときにピアノが置かれたのも風雨を避けられるこのトンネル内だった。このトンネルのある建物は博物館の施設の一つで、「石の物語」と名付けられた展示が行われているようである。石碑やら考古学的な発掘物やらが展示されているのかな。

 とまれこのウニベルジトニー通りを登って行って左側に最初に現れる入り口がサマースクールの会場のコンビクトの入り口である。コンビクトは、もともとフスは戦争の後のチェコの再カトリック化の主力となったイエズス会の建物で、パラツキー大学の前身となったイエズス会の学寮があったところである。いわば大学発祥の地なので、大学としても威信をかけて建物の修復、設備の近代化を行い、師匠があれに金かけ過ぎているから他に回ってこないんだなんてぼやいていた。
 受け付けはこの建物の110という二階の部屋である。入り口を入って真っ直ぐ進むと中庭に出てしまう。右に行くか左に行くかだが、二階なのでどちらの入り口から入っても目的の部屋にはたどり着ける。近いのは左の入り口から入るほうである。ちょっと重いドアを引いて中に入ると廊下がずっと奥まで伸びていて突き当りまで行くと普段は入れない、サマースクールの卒業式が行われるらしい礼拝堂がある。その前の階段を登ってすぐ左手にある部屋が110である。昨日行って確認してきたから間違いない。

 受付とかクラス分けのテストを終えて、コンビクトから宿舎になっている大学の寮に行くには、入り口を出て左に曲がる。共和国広場に戻ってトラムに乗ってジシカ広場で下りるという手もあるけれども、それでは面白くないので歩くほうを説明する。
 コンビクトを出て左に曲がって、右手前方に見える水色っぽい色の建物がモラビアにキリスト教をもたらしたツィリルとメトデイの兄弟の名前を冠した神学部の建物である。ビザンチン帝国のキリスト教を伝えた兄弟の名が使われているということは、カトリックのイエズス会との関係は、すでに切れているということだろうか。よくわからない。いや、そもそも国立大学で宗教教育ってのは政教分離の原則に反しないのか。ヨーロッパレベルの政教分離で問題ないのであれば、昭和天皇の大葬の礼も、今上陛下の大嘗祭も、地鎮祭も政教分離の原則には反していないことになる。

 コンビクトの建物沿いに登っていくと左手に見えてくるのが、ジャーマン・セセッションの傑作ビラ・プリマベシである。この中に入っていたレストランは現在何回目かの閉鎖中だが、ドアが開いていれば中に入って玄関の装飾ぐらいは見られるかもしれない。場所はいいところなので、なかなか定着しないのがちょっとふしぎである。意外と言えばコンビクトに入っていたレストランも閉鎖されていたなあ。昼食をとるレストランの候補が二つ減ってしまった。
 ビラ・プリマベシを越えて突き当たるのが聖ミハル教会である。かつてこの教会のある丘の上で古代ローマ帝国の遺跡が発掘されたというのだけど、それを示すようなものは現時点では見かけない。ここで左に曲がって階段を下りる。ここから城下の公園に降りられるようになっているのである。城壁につけられた監視塔とでも言いたくなるような建物の中の階段は、以前は薄汚れていて変な臭いがして入るのをためらうようなこともあったのだが、改修を受けてからはそんなこともなく、定期的に清掃が入っているようである。以前は完全に放置されていた。
 階段を下りて振り返ると、ビラ・プリマベシやコンビクトを裏側から見上げることになる。こういう裏側から見るオロモウツというのもなかなか見物なのだけど、普通の短時間のオロモウツ観光ではこんなところまでは来ないはずである。去年ガイドをした時には街の中心よりも、こういう建物の由来や建築様式なんか知らなくても見ただけで、おおすごいと思えるようなところを案内したのだった。オロモウツは教会の多い街で教会を中心に観光することも多いのだけど、信心のかけらもない日本人には、城塞都市の城壁の上に建つ建物を見上げる方が感動的である。

 話を戻そう。ムリーンスキー川のほうに向かうと右手前方に橋が見えるが、これは植物園へ入るための橋なので渡ってはいけない。ここからは右に曲がっても左に曲がっても宿舎にはたどり着ける。橋を渡って大通りに出て理学部の建物の脇を抜ければ、パラツキー大学の寮が見えてくる。
 とりあえず、左に曲がって川の上流に向かうと、ギリシャ神殿みたいなのが建っているのが見えてくる。これがかつては旧ユーゴスラビアの租借地になっていた第一次世界大戦で亡くなったユーゴスラビア出身の兵士の遺骨を納めた廟である。昨年改修工事が行われたのだが、下の納骨堂の部分だけが改修されて、上の神殿っぽい建物はスプレー芸術も含めて放置されていた。それが今日通ったら上の部分の改修工事の準備が始まっていた。

 反対に右に曲がると、城壁に一つ赤煉瓦の塔みたいなものが見えてくる。中に階段がありそうに見えるのだが、ここは宗教施設である聖ミハル教会の裏庭につながっているからか、一般には開放されていない。その手前の城壁の下に、灰色の直方体のコンクリート製と思しき物体が横たわっているが、現在は「芸術家」の手で側面にチェコの国旗とマサリク大統領の顔が描かれているかな、これが冷戦時代に建設された民間防衛組織の指揮所としても計画された防空壕(の入り口)らしい。建設された時代を考えるといわゆる核シェルターとしての機能も持っていたのかもしれない。
 共産党政権は核戦争の脅威をわりとまじめにとらえていたようで、学校でも毎年訓練が行われていて、キノコ雲を見たらそちらに足を向けて横になるように指導されたり、ガスマスクをつける訓練をしたりしていたらしい。身体測定の一つに顔や鼻の長さを測定するというのもあって、それはガスマスクのサイズを確認するためだったという話も聞いたことがある。

 左に曲がった場合は一本目の橋を渡ればいいが、右に行くと一本目の橋は植物園への入り口、二本目は通行不能なので、三本目の橋を渡ることになる。右手にはテニスコートか何かが見え、左手にはレンガ造りの土塁というか城壁みたいなものが見えるはずである。この城壁で囲まれている部分が、ペブヌーストカと呼ばれる城塞都市オロモウツの堀の外に突き出した出丸のような部分である。砲台なんかも設置されていたのかな。中に入ると最近オープンした科学体験施設(こんな言い方あるかな)がある。植物園も一部この出丸の敷地を利用しているので、植物に興味はなくても入ってみる価値はあるかもしれない。
 ミニゴルフを含むスポーツ施設と城壁の間の道を道なりに進むと大通りに出る。これが11月17日通りで、ビロード革命以後につけられた名前なのかそれ以前からの名前なのか判然としない。11月17日はビロード革命の発端となったデモの起こった日であるけれども、第二次世界大戦中にヒトラーがチェコの大学を閉鎖し学生を弾圧した日で、それが原因で国際学生の日になった日でもある。共産党政権下でこの日がどんな扱いをされていたのかが問題である。サマースクールで質問してみようか。

 通りに出て正面奥に見える建物が、パラツキー大学の法学部である。左手前方に見える横長の建物は理学部。昔はここには何の建物もなくただの野原で、ビールフェスティバルの会場になっていたのだが、いつの間にかこんな建物が建てられて、ビールフェスティバルの会場はどこかに移転してしまった。初年度は入場も無料だったし行ってみたけど、あの手のイベントはあれこれ制限が多すぎて嫌いなのでどこで行われるのかの確認すらしなくなった。
 11月17日通りを渡って理学部のほうに向かい一つ目の角を右に曲がる。その後左に曲がって右手前方に見える建物がサマースクールの宿舎である。寮の入り口と手続きをする事務所は二つの棟に挟まれた真ん中の部分にある。以前は、宿舎の管理人が英語が使えなくて、強制的にチェコ語の練習になったのだけど、今はどうかなあ。当時は寮を出るときには鍵を預けることになっていたから、初心者も含めてみんな必死で部屋番号をチェコ語で言えるように頑張っていたのである。当時も参加者が宿舎に入る日だけは英語が使える人が控えていたような気もする。

 ここの寮はモラバ川沿いにあって、気分転換に川沿いを散歩したりなんてこともできるはずなのだけど、残念ながら現在は河岸工事、ようは1997年に起こった洪水が再発しないように堤防もどきを建設中のため寮から上流も下流も川沿いの道は全面的に通行止めになっている。だから、おそらくモラバ川クルージング(ちょっと誇張)も、コースが変わっているようである。
 宿舎からコンビクトに向かうのは、上に書いたルートを反対にたどってもいいし、サマースクールの事務局から届いた地図に黄色い線が引かれているのをたどってもいい。そっちのルートを使った場合でも、橋を渡った後は、川沿いを下ってプリマベシの先の階段を登るほうがいいとは思うけど。黄色のルートの階段を登った先の通りで建物の改修工事をやっていて工事車両なんかが邪魔で歩きにくいのである。まあオロモウツは小さな町だし、特に遅刻しそうとかいうことでもなければ、あちこち歩いて迷いながらコンビクトを目指すというのもオロモウツ滞在の楽みの一つになるはずである。

 Vítejte v Olomouci!

2018年7月18日22時31分。







2018年07月18日

オロモウツのサマースクールに来る人へ1(七月十七日)



 本当はもう少し早く書くつもりだったのだが、ずるずると引き延ばしてしまった。とまれ現在のトラムの運行状況も含めて、サマースクールのためにオロモウツに来る人に、そんな人が読んでいるかどうかは知らないけれども、読んでもらっているつもりで案内をしてみよう。本当はせっかくデジカメを復活させたのだから写真もつければよかったのだろうけど、持ってくるのを忘れてしまったので写真はなし。
 プラハからオロモウツへの移動については、チェコ鉄道、レギオジェット、レオエキスプレスのどれを使っても問題ないという話はすでに書いた。あれから私鉄が一つ増えたけれども、スロバキアのニトラのほうに行くならともかく、オロモウツまでの区間に使用するメリットは少ない。とにかくどの鉄道会社を使っても到着する駅は同じオロモウツ・フラブニー・ナードラジーである。ホームも同じになる場合もあるかな。

 駅についたら、荷物が多くてトラムで移動するだろうという前提のもとに説明をすると、まず中央のホールに向かう。別の出口から出てもいけれども、トラムのチケットを買うには中央ホールにでるのが一番手っ取り早い。エスカレーターでホールに上がって正面の出口に向かう途中で、右のほうに向かうと窓口がいくつか並んでいるののうち一番奥にある二つがオロモウツ市の交通局のものなので、開いていればここで何枚か買っておくといいだろう。普通は一枚14コルナである。荷物が大きい場合には追加料金が必要になるなんて言う話もなくはないのだけど、払ったことはない。心配な場合には窓口で質問をすればいい。ただし、英語が通じるかどうかは保証の限りではない。
 時間が悪くて窓口が閉まっていたら、反対側一番左側の出入り口の脇に自動券売機がある。注意するのはお金を入れる前に、チケットのボタンを押さなければならないことで、一枚なら一回、二枚なら二回と必要な数だけボタンを押して、表示される金額に合わせて小銭を入れる。時々入れてもそのまま出てくることがあるが、そんなときには、券売機の前面の銀色のざらざらした部分に硬化の側面をこすりつけてやると、認識されやすくなるらしい。
 小銭がない場合には、ホール内の一番ホームに向かう出口の脇にあるキオスクみたいな売店で買えるはずである。そこも閉まっていたら反対側のトイレに向かう途中にある小さなスーパーみたいなお店で、ちょっとした買い物をして小銭を作るしかないかな。最後の手段としては、携帯をつかってSMS乗車券を買うというのがあるのだけど、自分では使ったことがないし、使いたいとも思わないのでよくわからない。気になる人はこちらをご覧いただきたい。届いてから乗らなければいけないとか、トラムに乗ってからではなく、買った時間から50分有効だから事前に買っておけないとか、値段がちょっと高いとかあるようである。一応トラムの運転手から直接買うことも可能だけれども、これも小銭がないと難しいので、小銭があれば駅から乗る場合には自動券売機で買ったほうがマシである。

 チケットを買ったら、駅舎を出る。駅前にはバスの停留所もいくつかあって、バスの乗るときにはどこから乗るのか結構厄介なのだが、トラムに乗る場合には駅舎を出たらすぐに左に曲がってそこにある停留所からトラムに乗る。線路を渡って反対側の停留所から乗ると、場合によっては駅の裏側に連れていかれるので注意が必要である。
 問題は何番に乗るかである。最初に宿舎に向かうのであれば何番でもよく、二つ目の停留所で降りることになるのだが、話の都合上事務局に向かう。その場合、2番、3番か、X1/4番のpřes centrumと表示されているのに乗らなければならない。駅前の停留所をでてすぐに左折してそのまままっすぐ大通りを進んでいくやつである。歩く場合にもこのトラム沿いを歩いて行けば、目的地に到着する。大通りの名前はマサリク通り。一つ目の停留所はウ・ビストシチキでモラバ川の支流のビストシチカ川から名前が取られている。駅を出て二つ目の大きな川がモラバ川で、この川にかかる橋の上から上流、進行方向を向いて右側を見ると、遠くにナポレオンも滞在したクラーシュテルニー・フラディスコが見える。
 橋を渡った先の交差点でマサリク通りは終わり、交差点を越えるとヤン・ジシカを記念したジシカ広場(ジシコボ・ナームニェスティー)になる。ここに二つ目の停留所がある。左がわの奥にある灰色の建物が元駐屯ソ連軍の本部だった建物で現在はパラツキー大学の教育学部になっている。教育学部の建物前が広場のようになっているのだが、そこにそびえているのがチェコスロバキア共和国の建国の父にして初代大統領のマサリク大統領の像である。ジシカ広場にマサリク大統領というのも不思議な気がしたけれども、マサリク通りの続きと考えればいいのかな。今年の宿舎に向かうにはこの停留所が一番近いはず。

 ジシカ広場を出るとまた川を越える。この小さな川はムリーンスキー・ポトクと呼ばれ、城塞都市オロモウツの堀の役割を果たした川で、これを越えると旧市街である。ゆるやかに左に曲がりながら坂を登って行くのだが、途中のホテル・パラーツの前の三差路はつい最近まで改修工事が行われていた。その際に、街に入るための城門の遺構が発見されて記念碑を作るとかなんだとか言っていたのだけど、今日通ってみたらなんだかちゃちなのが立っていた。期待外れもいいところである。
 三つ目の停留所がウ・ドーム。ドームというのは、聖バーツラフ教会(大聖堂でも可)のことで、バーツラフ広場、バーツラフ教会に向かう場合にはこの停留所が一番近い。バーツラフ教会に向かう道とは反対側に曲がると、大司教宮殿とマリアテレジアの武器庫がある。以前はこの奥の建物がサマースクールの会場だったのだけどね。

 四つ目の停留所が共和国広場(ナームニェスティー・レプブリキ)で、スバトバーツラフスキー・ピボバルに飲みに行くときの集合場所でもある。サマースクールの事務局があるコンビクトという建物の最寄りの停留所はここである。トラムを降りて進行方向に向かって右側の大きな教会のできそこないのような建物が博物館、その次のカフェが入っている白っぽい建物が美術館である。劇場も入っているのかな。この建物の最近の見どころは外観で、見上げると銅色の人形がぶら下がっているのが見えるだろう。この人形、時間が来ると左右に移動し、チェコ語で罵詈雑言を吐くのである。何でもこの美術館に忍び込もうとして、うまくいかない泥棒という設定らしい。
 たしか二年ぐらい前に設置されたこの作品、「芸術」ということなのだけど……。見世物としては面白いし悪くないとは思う。現代芸術というものが作者本人にしか理解のできない、時に悪ふざけと大差のないものに堕している現状で、チェコってのは現代芸術家には優しい国である。EUの議長国になったときにも、現代芸術科の加盟各国をステレオタイプ化してプラモデルの部品にした作品を飾って、一部の国を揶揄するような所があったので批判にさらされていたけれども、日本だったらありそうな国費をこんなくだらないものにつぎ込むのはどうかという批判はなかったような気がする。
 無駄なことばかり書いていたらコンビクトまでたどり着けなかった。以下次号。

2018年7月17日23時39分。









2018年07月17日

サマースクールに向けて(七月十六日)



 十年以上ぶりに参加するサマースクールが来週の月曜日から始まるのだが、今のままでは出た甲斐のあるサマースクールにするのは難しい。何せ午前8時45分という時間から一コマ目の授業が始まるのである。不断の自堕落な生活を改善した上で、サマースクールに臨まなければ、完全に目が覚めて頭が動き始めるころには、授業が終わっているということになりかねない。
 ということで、今週は生活のリズムを変える過渡期として使用することにした。普段も六時半ぐらいには起床しているわけだし、普段よりもめちゃくちゃ早く起きるわけではない。問題は8時にはうちを出る必要があるということだ。現状では朝起きてからしばらく、というには長いかもしれないけれども、ぼんやりしてからでないと動き始められない人間にはちとつらい。
 それに、ここ数年重要な仕事はできるだけ午後に固めて、午前中は例外を除くとその日のウォーミングアップ的なことしかしていないので、たまに朝早くから重要な仕事が入ると疲れが倍増する。午前中から体も頭もしっかり活動できるように慣らしておかないと、疲労困憊で授業どころではなくなるかもしれない。その一環として七月に入ってから早寝早起きを目指しているのだが、宵っ張りの朝寝坊人間には、早起きはできても、早寝がなかなかできない。早寝ができないと、早起きしてもそのまま活動的な状態にはなれないのである。

 仕方がないので、無理やり朝早くから仕事に出て、普段はあれこれ読んでいる時間にこの記事を書いている。読むという受動的な作業は寝ぼけた頭で何とかなっても、書くという能動的な作業は寝ぼけた頭ではなかなか進まないから、その日の分を午前中に書き終えることができるようになれば、頭が順応したということだと考えられる(かもしれない)。午前中いっぱい使って記事一本しな書けないのは情けないことではあるけれども、さらに情けないことに、この記事は午前中に書きあがらなかった。うーん。サマースクールの授業は午後1時までだから、今日の分は何とかそれまでに書き上げよう。いやちょっと足が出るかも。
 午前中から動き回ったことで疲れが出れば、早寝できるかもしれない。今日一日では無理でも、一週間続ければなんとかなるかな。目標は11時に寝て6時前に起きる生活である。これが定着すれば、勤勉立ったチェコ語を勉強していたころの自分に戻れるかもしれない。あの頃はほぼ毎日8時から授業だったんだよな。師匠の時間が空いているのがそこだったから、というか娘さんを学校に送り出してからとなると、その時間が一番よかったのであってこちらが希望したわけではない。

 思い返してみれば、毎晩飲み歩いてお酒の残った頭で、授業を受けることも多かったから、毎日すっきりさっぱりした頭で勉強していたとも言いにくいのか。日本でも週一で通っていた語学学校では、一日の祖事が終わった後の疲れ果てた頭で勉強していたわけだし、かつてのサマースクールでも時差ボケだったり、前日飲みに行ったりで頭の回転が悪いことが多かった。チェコ語の勉強ってそんな条件の悪い中で積み重ねてきたのか。だから、英語と違って、酔っぱらってもある程度はチェコ語で話せるようになったのかな。
 その一方で、だから、語彙は増えたけれども、文法的な正確さが置き去りにされたという面もあるわけで、今回のサマースクールの目標が論文を書くためのチェコ語(主催者の側にはそんな意図は全くないだろうが、こちらの目的意識がはっきりしていれば、どんな授業の内容であってもこちらの目的に活用できるはず)である以上は、文法的な正確さを追及するのは当然のことである。ならば、それができるように体調を調整しておくのは当然というものである。

 リハビリ初日の文章がぐだぐだになるのは予定通りとはいえ、明日はもう少しまともな文章が、もう少し早く書き上げられることを願って、今日は筆を擱く。
2018年7月16日13時15分。







プロフィール
olomoučanさんの画像
olomoučan
プロフィール


チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。