2018年08月03日
週末一〈LŠSS2018〉(七月廿八日)
同級生たちが、レドニツェとバルティツェの世界遺産に向かい、ワインの試飲会まで体験する最初の週末の土曜日、別件で南モラビアに向かった。週末は平日と違って目的地までの接続が悪くなるので、それなら、いつもとは違うルートを使ってみようと思い立った。運賃も大して差がないし。ということで、これまで何度も町の中を車で通ったことはあり、駅で乗り換えたこともあるけれども、街に出たことがないウヘルスケー・フラディシュテで乗り換えることにした。普段なら待ち時間が40分以上もあるから、絶対に選ばないのだが、ちょっと街を見てこようというにはちょうどいい。
最近チェコ鉄道では、プラハとウヘルスケー・フラディシュテ近辺を結ぶ特急にスロバーツキー・エキスプレスという名前をつけて一日に何本か走らせている。行き先はベセリーだったりルハチョビツェだったりといろいろあるが、フラディシュテを通るのは共通している。以前はこの手の電車はそれぞれガラーンとか別の名前が付けられていて、統一感がなかったのである。オストラバのほうに向かっていたレオが一部の電車をこっちに走らせるようになったのに対する対策だったのかもしれない。
前日の酒の多少残った頭で、朝食もとらずにうちを出て九時過ぎに乗り込んだルハチョビツェ行きの電車は、昔の緑色のおんぼろではなく、青色の車両でコンパートメント方式だったけど六人掛けでなかなか快適だった。冷房もかすかに入っていて、暑さで死にそうということにはならなかった。問題は乗った車両が途中のスタレー・ムニェスト止まりでフラディシュテまでは行かなかったことで、検札に来た車掌に言われて慌ててPCを終了させて前の車両へと移動した。
考えてみれば、スタレー・ムニェストで車両の切り離しなどの作業をするわけだから、慌てずに電車が停まってから降りて移動すればよかったのだった。途中で通った一等の車両は冷房が効きすぎなぐらい効いていて、乗っている人が少ないのにもったいないことだと思ってしまった。以下二日とが少ないとはいえ、一等を二等と同じレベルの冷房にはできないのだろう。いや、人が少ないから同じレベルの冷房でも効いているように感じられるのか。一度話のたねに一等に乗ってみたいと思うのだけどなかなか踏ん切りがつかない。
ウヘルスケー・フラディシュテの駅は、民俗的なモチーフが描かれていることで知られていて、それなりに有名である。だけど、今回はちょっと遅れて10時半ごろに到着した時点で、太陽が煌々と照りつけ気温が、暑い夏になれていた日本人にとっても辛いと思うぐらいに上がっており、観察するような余裕はなかった。正直この時点で、このルートを選んだことを後悔していた。しかも、ここからベセリーまでは、線路の改修工事のため代替バスに乗ることになるのである。レギオあたりのバスとは違ってクーラーなんてないだろうしなあ……。
フラディシュテの街は、きれいではあるのだけど、何だかちぐはぐな印象を与えた。言い方は悪いけれども小プラハという感じだった。最初は悪くなかったのだ。駅を出てすぐのところに、かつての街の入り口と周囲の城壁がちょっとだけ再現されていたのには、その内側が単なる公園というか、木の植えられた広場になっていたのはともかくとして、街の散策に対する期待を大きくさせた。
最初に出会った違和感は、イエズス会の庭園と呼ばれているらしい広場を出ると姪に入ってきた立派な建物が、「ユネスコ小学校」と名付けられているのに気づいたときに感じた。そこに込められた意味など知らないが、世界遺産を認定するユネスコに対する阿諛追従の類ではないかと思われた。
国連は、EUほど目立つ組織ではないから、問題が起こっても知られることは少ないが、EUがドイツの暴走と迷走によって、存亡の曲がり角に来ているのと同様に、国連もその存在意義も含めて改めて根本的に議論検討されるべき時期に来ている。それは、世界遺産というものを錦の旗にしてしまったユネスコも同様である。世界遺産の認定、リストからの削除などに関してはあれこれよからぬ噂も聞くけど、西欧的に洗練された不正であれば、西欧の価値観では問題ないことにされるからなあ。
個人的に気に入らなかったのは、この広場にコメンスキーの名が冠されていたことで、ユネスコとか、世界遺産の理念に対してはコメンスキーも賛同するだろうと予想するけど、現状、現実の運営、運用に対しては、満足するとは思えない。改革を訴えても聞き入れられない憤懣から、毎晩飲みに出かけるコメンスキーということになりそうである。ああ、それならコメンスキーには適役だ。だけど、それはユネスコとコメンスキーを結びつける理由にはならない。
最初は、写真を撮ろうと思って、デジカメを手に歩いていたのだが、途中でその気がなくなって、ただふらふらと歩き回るだけに終わった。太陽の光が強すぎてデジカメの液晶画面でどんな写真になるのか見づらかったというのもあるけど、少なくとも街の中心には、無理して写真に撮りたいと思うようなところは少なかった。このあたりは大モラバ国の中心地だったらしく、遺跡が残っているというから、そこなら写真をとる気にもなったのかもしれないが、遺跡まで足を伸ばす時間はなかった。
もう一つ、写真を撮らなかった理由を考えると、街中に妙に人が多かったこともあげられる。特に若い人たちが首からカードをぶら下げて街の中を歩き回っていた。中には遠くから着たばかりなのか大きなリュックをしょっている人もいた。なんだろうかと考えて、昔サマースクールでイタリアのアレッサンドロに週末フラディシュテに行こうと誘われたのを思い出した。フィルモバー・シュコラがあるとか言っていたか。
フィルモバー・シュコラは直訳すると映画学校だが、実態は映画祭とあまり変わらない。学校という名目で、さまざまな映画を参加者にたいして上映する許可を取っているのだろう。ズリーンでやっているのは子供向けの映画で、こちらは一般向けの映画だっただろうか。それにしては若い、ときに幼いともいいたくなるような子供もカードをぶら下げていたから、10代の子供たち向けの作品にも力を入れているのかもしれない。
そんなことを確認して、けばけばしさのない裏道を通って駅に戻り、車掌さんに中はくそ暑いよと言われつつベセリー行きの代替バスに乗り込んだのだった。今考えるとフラディシュテの印象があまりよくなかったのには、このくそ暑さが影響していた可能性もある。そう、すべては太陽がいけないのである。
2018年8月2日18時40分。
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