2017年06月12日
超芸術トマソン(六月九日)
こんなテーマで文章を書くからって、トマソンのことを同時代的に知ってるわけじゃない。昔は、テレビの野球中継というと巨人の試合だったから、トマソンが出てきてボールに当たらないバットを振り回すのを見たことはあるかもしれんけど、ガキの頃のことで、ちっとも覚えちゃいない。後にこのトマソンの存在を教えられたときも、そんなのいたっけねえとしか思わなかったし。
さて、何でこんなことを書くのかというと、オロモウツのテレジア門を見ていて、これって一種のトマソンじゃないかと疑念を覚えてしまったのだ。本来は街の城壁に開けられた門を出て、堀の代わりの川にかかった橋を渡ったところにある門だったので、街の防御にとっても、また儀式の際ににも重要な役割を果たしていたはずである。
それが、左右にのびていた外側の城壁が解体され、川が埋め立てられ道路となり、内側の城壁の門の入り口の部分が、お店として使用され街の出入りに利用できなくなると、テレジア門が門として存在する理由もなくなった。パリの凱旋門とは違って、テレジア門を本来の向きで、街の中から外へ通り抜ける人はいない。道路沿いの歩道がテレジア門を横に通っているので、通り抜ける人が全くいないわけではないけれども、なくても何の問題もない建造物である。
トマソンについて真面目に勉強したことがあるわけじゃないから、本当にテレジア門がトマソンなのかどうかはわからないけど、チェコには結構トマソンぽいものがあるような気がする。職場には、奥に開けられない扉がある部屋がある。歴史的記念物に指定された建物なので、修復工事をする時には、特別な理由がない限り、本来存在したドアや窓などは、元通りに再現しなければいけないらしい。以前はその扉を通って隣の部屋と行き来できるようになっていたのを、後に行き来できないように改築したのだが、扉だけは昔のままに設置したということである。
と、トマソンが、誰でも知っている概念であるかのように書いてしまったが、自分自身も大学に入って出版社でアルバイトをしていたときの知人に教えてもらうまでは知らなかったのだ。トマソンが一部の人たちの間で大流行したのは、確か八十年代の初めのことだし、知らない人のほうが多いか。
トマソンというのは、間違っているかもしれないけど、建築物についた盲腸のようなものである。誰が何のために設置したのかわからない、一見無駄に見える建築物や、建築物の無駄に見える部分を指している。例えば、川もないのにかけられている橋とか、どこにもつながっていない階段なんかが挙げられていたはずである。でも、歴史的な記念物はトマソンにはならないのかなあ。
仕掛け人は芸術家で作家でもある赤瀬川源平。正直、トマソンの話よりも、この人が尾辻克彦のペンネームで小説を書き、赤瀬川隼とは兄弟であるということのほうが衝撃だった。赤瀬川源平というと、紙幣をコピーして芸術だと叫んで、裁判を起こしていた人だというイメージしかなかったんだけどねえ。ただの変な芸術家ではなかったのだ。
赤瀬川源平が、南伸坊とか、荒俣宏とか、筑摩、平凡社系の知識人が集まって、トマソン学会だか、協会だかがが設立されたんじゃなかったか。「路上観察学会」とか「考現学」とか、目の前にある奇妙な現象を、真面目なんだか不真面目何だかよくわからない態度で観察して楽しむ人たちも、トマソンに関わっていたのかな。ということは、藤森建築探偵も、かかわっていたはずだよなあ。トマソンから、建築探偵に進んで、藤森探偵が、実は大食いなのだという話を読んだのは覚えているのだが、あれはどの本だったか。夏目房之介の本だったかな。
トマソン自体が、無駄なものを指しているだけに、トマソンに関する知識も無駄といえば無駄である。ただ、こういう無駄を楽しめるのが人間というものであろう。トマソンのおかげで人生が豊かになったとは、思わないが、赤瀬川源平を取り巻く人々の著作に出会えたことは、確実に読書の幅を広げてくれた。それは同時に我が日本というものを、多少深く重層的なものにしているはずである。出版社時代の知人には感謝の言葉しかない。
森雅裕が、師匠の言葉として、芸術なんてものは人生は無用無駄なものなんだということを書いていたけれども、トマソンは、笑って楽しめる無駄だからいいのである。楽しめないのは、前衛芸術という奴で、チェコは芸術が好きなので、しばしばニュースでも取り上げられるのだが、どこが芸術なのかさっぱりわからないだけでなく、楽しむ余地さえないことが多い。
思い出すだけでも腹が立つのは、チェコが旧共産圏の国としては、最初にEUの議長国を務めたときのことだ。議長国として最初にやったことの一つが、ヤーグルなどの世界レベルで有名なチェコ人を集めてビデオを作製したことだったのは許そう。あのビデオはそれなりに楽しかったし。しかし、ヨーロッパの地図を模したものに、各国をステレオタイプ的に象徴するものをくっつけて芸術と証したのは許し難い。おまけに、ハンガリーを象徴するものとして、サラミだったかソーセージだったかを選んだことを批判されて、隠す破目に陥ったのである。大金かけて恥をさらしてざま見ろという面白さはあったけれども、それは「作品」そのものに対する面白さではない。
前衛芸術家の赤瀬川源平が、トマソンなんてものに手を出したのも、制作者以外には理解できる人がほとんどいないという前衛芸術の壁にぶつかったからじゃないかなどと想像してしまう。トマソンも万人向けではないけれども、前衛芸術よりは幅広い層に受け入れられそうである。だから、芸術を超えるものとして、超芸術なんて言葉を使ったのかな。
とまれ、かくまれ、前衛芸術なんて理解したくもないけれども、トマソンはわかってもいいかなと思うのである。またまた迷走の挙句に無理やりけりを着けることになったけれども、無理やり終らせるのだけは上達したような気がするから、それはそれでいいのである。
6月9日17時。
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