2019年09月08日
こんなもの要らない(九月六日)
小学館の週刊誌「週刊ポスト」が、「韓国なんて要らない」という記事だか、特集だかを誌面に乗せたせいであちこちから非難を浴びて、謝罪に追い込まれたらしい。こういう騒ぎが起こるたびに思うのだが、たかだか一雑誌の内容に大騒ぎし過ぎじゃないか。仮にたかだか一週刊誌のせいで、日本中に反韓国感情が高まる恐れがあると考えているのなら、それは読者を馬鹿にし過ぎというものである。
そもそも、雑誌の記事、特に週刊誌の記事を読んで完全に真に受けてしまう人などいるまい。独断と偏見、予断と憶測、我田引水、針小棒大などに満ち満ちているのが週刊誌の記事であって、見出しに惹かれて読んでみたら金と時間の無駄だったという経験のない人は、読まないという人を除けば、皆無であろう。そういう虚と実の境目の虚の部分で、あることないこと書き散らすのが週刊誌で、読者の側もでたらめさの中に、たまに多少の事実が混じっているのまで楽しむというのが、日本の誇る似非ジャーナリズム、週刊誌文化というものだ。
出版社系であれ新聞社系であれ、週刊誌の「取材」というものがいい加減にすぎることについては、すでに森雅裕が乱歩賞受賞直後に痛烈に批判している。事実誤認を指摘しても修正も謝罪もせず、雑誌に取り上げられたのだから喜べ的な対応だったらしい。その不満を受賞パーティーなどでぶちまけた結果、あちこちの出版社から嫌われて、後に干される原因の一つになったというのは、森雅裕読者ならよく知っている話である。
大学関係者が、しばしば不満を漏らすのが、どこかの週刊誌が売り物にしている大学別就職状況ランキングとかいうもので、この雑誌の「取材」と称するものは、大学の事務に電話をかけて、場合によってはメールを送って、いついつまでに卒業生の就職先のリストを提出するようにと依頼をするだけ。大学側では毎年毎年くそ忙しい中、大学の名前が雑誌に出るのだから当然協力するよな的な態度での要請に、腹を立てながら資料を作成しなければならないのだとか。
それだけのことをさせておきながら謝礼を出さないどころか、掲載誌を送って来もしないと言うのだから、森雅裕の時代から進歩していないようである。仮に一回だけなら大学側の厚意に甘えるのも、それが実質的には強要だったとしても、企画自体が海のものとも山のものとも付かないのだから、わからなくもない。だけどそれが毎年ということになったら、相手にかける負担というのが普通だと思うのだが、ここにも日本のマスコミの思い上がりというのが現れているのだろう。
そういえば、昔、「こんなものいらない」なんて連載をしていたのは、「週刊朝日」だっただろうか。いろいろなものや習慣、ルールなどを不要だと批判して切って捨てるという内容だった。週刊誌らしい企画で、週刊誌らしいいい意味でいい加減な面白い記事が多かったと記憶する。それでも、読んでいて、それはないだろうと言いたくなるような独断と偏見に満ちたものもけっこうあったけど、それを批判するというのは野暮というものである。
今回の「週刊ポスト」の件は、そういう世界で生きていて、事情もよく分かった人たちからの執筆拒否宣言が相次いだこともあって、謝罪に至ったようだが、執筆拒否って天に唾するようなものじゃないか。自分たちもその一部として作り上げてきた週刊誌の世界のやり口を否定しているのだから。自分だけは関係ないと、責任逃れに逃げを打ったようにも見える。不満があるのなら、「週刊ポスト」なんていらないという記事を、あることのないこと混ぜ合わせて書けばよかったのだ。
もし、記事が「アメリカなんか要らない」とか、「トランプ大統領なんか要らない」だったら、抗議して執筆拒否なんて言い出す人はいなかったんだろうなあ。国の悪口をいうより、個人攻撃の方が、人権侵害の観点から言えばたちが悪いと思うんだけど。公人についての記事なら、ある程度は仕方がない部分があるにしても、例えば殺人事件の被害者を貶め、遺族をさらに追いめるような記事に対しての執筆拒否だったら、納得もいき尊敬の気持ちにもなるのだけど……。
迷走、迷走、また迷走の結果、書くべきことが見えなくなってしまった。
2019年9月6日24時30分。
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