2019年03月28日
難民問題についてもう一度考えてみる(三月廿六日)
オカムラ党の内紛劇についてはすでに記したが、その余波で、党内の実態、とくに追放された国会議員が支部長を勤めていたモラビア・シレジア地方支部の実態が漏れ聞こえてくるようになった。かつて党員だった女性は、党名のSPD=「Strana přímé demokracie」をもじって、「Sekta přímé diktatury」になってしまったとなげいていた。直接民主主義を党名に掲げているのに、直接独裁になってしまったというのである。それに政党のはずだったのが、宗教的なセクトになってしまっているという批判も含まれている。
チェコテレビが流したこのモラビア・シレジア支部の会合での支部長の発言がまたトチ狂ったもので、イスラムの連中はヨーロッパに侵攻するために、中東からトンネルを掘っているんだとか、そのトンネルはもうかなり完成していて、今それを防ぐための行動を始めないと取り返しがつかなくなるとか、おい、おまえ頭大丈夫かといいたくなるようなことを繰り返していた。オカムラ氏もに多様なことは言うけど、ここまで過激なことは、身内だけなら言っているかもしれないなあ。右であれ左であれ目立つために過激化していくのはよくある話である。同時に意味不明になっていくのもさ。
それから、この支部の党員は、ネット上での難民問題などの討論に参加して、オカムラ党の見解を主張する書き込みをすることを強制されていたらしい。それが、選挙で候補者名簿に載ったり、党の役職をもらうための条件になっていたという。オカムラ氏もネット上のSNSであれこれ、頓珍漢な発言を繰り返して、支持者を集めているから、同じようなことを党員にも求めたということなのだろう。
こういう集団が、ネット上で過激な発言を繰り返すのもチェコが難民の受け入れを一切拒否しているというイメージが出来上がるのに貢献しているはずである。もちろんこういうイメージの形成には、EUやドイツのチェコを含む旧共産圏国家に対する批判のありかたも寄与しているし、チェコ政府自体も積極的に誤解を解こうとはしていないから、仕方がないという面はある。
しかし、少なくともこちらが理解した限りでは、チェコは難民の受け入れそのものを断固拒否しているわけではない。チェコが拒否しているのは、ドイツなどの難民に対する扱いの厚い国に行くことを希望している難民を、強制的に受け入れさせられることである。チェコにも難民収容施設はあって、そこでチェコに亡命申請をした人たちが、審査の結果を待っている。問題は、チェコに来たがる難民の数が少ないことである。
というのを前提に今日の話が始まるのだが、こんなことを考えたのはコメンスキー研究者のS先生のブログに、コメンスキーも亡命を余儀なくされて、移民として受け入れられたのではないかということが書かれていたのがきっかけである。確かにコメンスキーも、チェコ国内の宗教戦争のあおりを受けて、国内にいられなくなり、ポーランドやハンガリーなどを経て最後はオランダに住むことになったのだった。時代は違うとはいえ、現在の中東からの難民と状況は似ていると言える。
コメンスキーが亡命先で受け入れられたのは、宗教の共通性が理由の一つとして挙げられるだろう。プロテスタントと、フス派のキリスト教とで完全に信仰が一致していたわけではないだろうが、反カトリックという点では共通点を見出すのは難しくなかったはずだ。オランダに落ち着くまでにあちこち転々とすることになったのも、カトリックによる対抗宗教改革の進行とも関係があっただろうし。
現在のチェコの領域からは、コメンスキー以後もさまざまな理由で、亡命を余儀なくされ他国に受け入れられて人生をやり直した人がたくさんいる。新しくは共産党政権の時代に自ら亡命した人もいれば、国によって追放されたり帰国を禁じられたりした人たちがいた。そこでちょっと考える。コメンスキーを初めとする人たちは、亡命先で受け入れられることを当然と考えるような傲慢な振る舞いをしたのだろうか。
現在、例えばチェコでオカムラ党の反難民の声に賛同者がすくなくない理由の一つは、難民たちの、特にその一部の振る舞いにある。希望するドイツで受け入れられるのは自分たちの当然の権利であり、それを邪魔するものは法律であれなんであれ無視するという態度を見せ付けられると、とりたて反難民の意見を持っていない人でも、これ大丈夫だろうかと不安になる。オカムラ党は、その不安を過剰にあおりたてることで党勢を伸ばしてきたわけだから、チェコで反難民の声が高まったのは、ある意味自業自得ではあるのだ。
もちろん、すべてのヨーロッパに押し寄せた難民がこんな態度だったという気はないし、十字軍以来ヨーロッパのキリスト教社会が、アジアアフリカに対して行ってきた犯罪行為の数々を考えれば、中東やアフリカからヨーロッパに逃げてきた人々が、ヨーロッパには自分たちを助ける義務があり、自分たちには受け入れられる権利があると考えるのは重々理解できるけれども、相手の義務と自分たちの権利だけを言い立てるのでは、相手の感情を害して受け入れを困難にするだけである。
チェコでも先日のニュージーランドで起こったモスク襲撃事件を受けて、プラハのムスリム組織の幹部が、「ムスリムよ、銃を取れ」的な発言をして、物議を醸していたが、難民として受け入れを求めている人、すでに受け入れられた人たちの中に、こういう発言をする人がいることが、受け入れ反対の世論を強化することにつながるのである。
以前、コメンスキー研究者のH先生は、本当に戦争から逃れて命からがら逃げ出してきた人であれば、できるだけ助けてやりたいと思うけれども、お金のために国を捨ててきた人には同情できないと仰っていた。そして、見ただけでは区別がつかないのが問題なんだよなあと付け加えられた。
確かに、区別の難しい問題ではあるし、そもそも区別すべきなのかというのも問題になるのだが、チェコ政府には、難民受け入れ全面反対というEUに貼られたレッテルをあえてはがさないことによって、チェコを希望する難民が来ないようにするなんて姑息な手段はとらずに、以前イラクのキリスト教徒を対象にして行なったプロジェクトのように、直接難民キャンプでチェコへの亡命希望者を選抜してチェコまで連れてくるという事業をやってほしいものである。
それを成功させることが、EUとドイツが押し付けてこようとする各国に難民を割り振るという制度の無意味さを証明することになるし、自力で、人間密輸組織にお金を払ってヨーロッパまでたどり着く余裕のある人たちよりも、そんな余裕もなく難民キャンプで暮らし続けている人たちこそ救われるべきなんじゃないかと考えてしまう。
なんかまとまりがついていないけど、時間もないのでここでおしまい。
2019年3月27日23時。
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