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2017年05月23日

末期の肺がんの母にモルヒネが効かなかった理由

戦時中、痛みを麻痺させるためにも使用されていたモルヒネ。

酷い怪我で、治療の施しようが無い戦士は

死を待つのみだった。

幸運な戦士は、モルヒネを打ってもらえた。
次第に痛みから解放され
眠るように逝った・・・。

しかし数多くの犠牲者、戦死者の中でこのような最期を迎えることが出来たのは
ほんの一部だっただろう。

モルヒネ・・・現代医学では今も尚使用されている。
痛みから解放される・・・痛みを緩和させてくれる・・・

「がん」は時に痛みを伴う。
特に、治療することが出来ず、最後を待つのみの
緩和ケア病棟の患者さんにも計画的に使用される。

少しずつ・・・少しずつ・・・量を増やす方法もある。
痛みの恐怖から解放させて、病室のベッドの上で
眠るように最期を迎える・・・。

モルヒネ・・・それは痛みには特効薬となりうるが・・・
肺がんの・・・呼吸器の機能だけはごまかせない。

つまり・・・息苦しさからだけは解放されない・・・
何時間かかっただろう・・・母が苦しそうにしていたのは・・・

初めてモルヒネが投与されてから一夜明けても
母は猛烈に苦しそうだった・・・末期の肺がん。

暴言を吐く場面もあった・・・。
「いい加減にしろー!!」
あの心優しい母の暴言・・・私が耳にした、母の最初で最後の暴言だった。

生き地獄・・・まさに生き地獄のように見えた。

苦しい・・・喉が渇いた・・・
酸素マスクを外そうとする母・・・
その両手はベッドに縛られていた・・・
母を今すぐに死なせたくない感情が
今すぐに生き地獄から解放させてあげようという気持ちを
上回っていた・・・としか解釈が出来ない。

でも・・・今だから思う・・・なぜ縛ったのか・・・と。
やはり、あのまま外して・・・・

母の肺は呼吸器としての機能をほぼ失っていた。
これが肺がん・・・。
モルヒネを投与しても
肺の機能低下はごまかせなかった。

苦しむ母の耳元で
楽になる薬を打とうか??
と母に訊くと、首を縦に振った・・・。

薬で・・・モルヒネで楽にさせてあげたい・・・
その想いだけが先行していたと思う。

モルヒネの使い方・・・医師とも・・・
母とも話し合うことをしなかった。
モルヒネの使用タイミングと、
期待できる効力と・・・効き目が生じるまでの時間などを
聴いておくべきであった。

最後の最期に生き地獄のような時間を・・・
あんなに長時間・・・苦しかっただろう・・・
ホントに苦しかっただろう・・・

だから伝えたい。
モルヒネが期待通りには効かない場合もありうるのだということを。

モルヒネは治療薬ではない。
モルヒネは緩和薬の一つであり、
苦痛に対して万能ではないということを・・・。

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2017年04月13日

パンパンになった母の手

最期の夜

モルヒネを投与し始めて2日目の夜。
そこに寝ているのは、母の形をしただけの母だった。

数秒に一度、呼吸をする母。
酸素マスクでかろうじて命がつながっている状態。

痰の吸引のサイクルはどんどんと縮まった。
吸引する看護師さんも、恐る恐るやっているように伺えた。
痰の吸引の時は、酸素マスクを外す必要があるからだった。

母が危篤状態に入ってから、
これと言ってすることも無かった。
母を見て涙し、
母とのことを思い返しては涙し、
悔しさと悲しさの入り混じった感情で涙した。

それでも、不思議とお腹は空いた。
食べる気なんてないのに、
悲しすぎて食欲なんて無いのに、
お腹は鳴っていた。

母の温もり

時折母に触れた。
おでこに手を当ててみたり、
腕に触れてみたり、
手を握ってみたり・・・。

自分も子供の頃、
こうして母親に看病してもらった。
そんなことを一瞬思いながら・・・。

母の手は、パンパンに膨れていた。
皮膚からは水分が出て来ていた。
シーツが濡れないように・・・と
看護師さんが給水シートのようなものを敷いていた。

そんな母の手を握るのは怖かったが、
それでも母の手には変わりない。
私は母の手を握った。

温かかった。
呼吸しかしていない母。
うっすらと目は開いたまま。
瞬きはしない。

良い状態

病院に着いた時、母の肺は機能していない状態だった。
肺がんは確実に母の体の中で増殖していたのだ。

今でもはっきりと思い出せる母の温かい手。
そのぬくもりは、私の知っている母の手ではなかった。

身体中が浮腫んで、パンパンになっていた。
闘病でやせ細った身体が健康そうな身体つきに戻った。
母は骨と皮に近づいていた。

それが浮腫んだことによって元に戻ったのだった。
顔つきも、ちょっとふっくらしたかな・・・
そんな気がする程度で、ある意味良い状態だった。

しっとりと汗ばんでいて、ふっくらとした感触。
母の手を忘れない。

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2017年03月03日

他界する76日前に容態は急変した

息苦しい朝

肺がんステージ4で抗がん剤治療を止めて約2か月が経った頃
今までにない息苦しさが母を襲った。
苦しくて起き上がれない・・・
十数分後にやっとの思いで起き上がり、
頓服薬のコデインリン酸塩10%を探す・・・

わらにもすがる思いでそれを飲み、
すぐさまベッドに横になる・・・。

30分ほどで薬の効果が現れて、次第に楽になったという母。
一時は本当にどうなることかと思い、色々なことを考えていたそうです。

迫りくる死の恐怖

とにかく「息」が出来なかったという母は、
このまま死ぬのかなぁ・・・と真剣に考えたそうです。

当時、タイミング悪く風邪を引いている私を気遣い、
容態が悪いことを伝えることに躊躇(ちゅうちょ)していた母。

気づきのタイミングとしては
この頃だったのかもしれない。
母の肺がんが末期症状に突入したシグナル。

抗がん剤治療を停止すると
副作用の辛さから解放され、一時的に体調が回復した気分に・・・。

当時、実際に母は元気な状況が続いていただけに、
突然の容態急変は心がついていきませんでした。

その母が息を引き取る時の想像をする準備さえできていなかった。


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2017年02月03日

いい人生だった・・・と言い遺した母

とあるブログを見ていたら、
馴染みのある言葉が題名になっていた。

「いい人生だった」と言いながら死んでいけるか?

について、長々と綴られていた。
いろんなことへの葛藤が伝わってくる。

自分が他界する時、「いい人生だった」と
言えるだろうか・・・それは私も同じ。

中には、そのブログ記事を読まれた方もいらっしゃるかと・・・。
いろんなことを考えさせられたに違いない。

年齢層によっても違いは出てくるだろうかと推測はできます
・・・が、それぞれの人生ですから、
人生最期を迎えるその時でないとわからない・・・
そう言った意見が多いのではないかとも感じます。

母が他界した時、ブログ記事で幾度となく書かせていただきました。
母が最期に言い放った・・・私たち家族に残してくれた言葉。
それがまさに
「いい人生だった」
なのです。

ですから、たまたまこの見出しを発見した時は
ドキッとしました。

そしていつの間にか、その言葉自体が
母の言葉になっていたことに気づかされました。

母が息苦しそうにしながら、酸素マスクを外してまで
言ってくれた言葉・・・忘れない。

「いい人生だった」と言い遺して死んでいけるか?

「いい人生だった」と言い遺して永眠した母は
幸せだった・・・と思って良いのだろうか?

・・・ここは素直に良い方向に受け止めさせて頂きますが・・・

しかし不思議だ・・・人の心の葛藤を知ることで、
自分の心の葛藤が少し和いだ・・・。

いい人生だった・・・と言える人生を・・・


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2016年12月27日

ぺんこさん、初めまして。

ありがとうございます。
コメント・・・ありがたく読ませていただきました。

10月にお父様を亡くされたそうで・・・
あのような記事をしてしまったことを申し訳なく感じています。

ぺんこさんの仰る通りです。
なんとも・・・言葉が浮かびません。

ある方が、似たような境遇で悩まれていました。
私はその方を励ましたいと真剣に思いました。

ですが・・・
気付いてしまったんです・・・
自分も・・・自分の事を責めている・・・ということに。
その方を励ませる立場になかったのです。

一旦意識がその方向に向かってしまうと
もう止めることが出来ず、
心が悪い方向へ暴走してしまった・・・
そんな感じです。

大事なことに気付かせていただいたこと・・・
感謝しています。
正直、見失いそうでした。

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そんな最中に、体調を崩してしまったので
コメントに対するお返事も遅れてしまいました。
申し訳ありません。

ぺんこさんは偶然、当ブログに辿り着いた・・・・
とのことでしたね。
恐らくこの記事に目を通されることもないのかとも
思いましたが、
コメントを頂いたことは何かの縁があるとも
感じています。

ぺんこさんのお子さんの病状も気になります・・・
本来ならば、差し支えない範囲でお聞きしたかったのですが・・・
この記事が届けばいいのですが・・・。

ぺんこさん、ありがとうございました。

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2016年12月23日

母の死を早めた私の悲しい決断が許せない


今日は母が再入院した日

入院する為に病院へ連れて行くことを決めたのは私だった。
もう、自宅ではどうにもできない状況だった。

とにかく寝かせてあげたい・・・。
母は何日もずっと座った姿勢しか取れていなかった。
病院に居れば、もう少し楽な状態になれると信じていた。
しかし、それはただの思い込みでしかなかった。
病院なら何とかしてくれると思っていたのだ。

今考えればとても浅はかで、母の気持ちを考えたら
申し訳ない気持ちが溢れてくる。

私は午前10時前に病院に電話を入れた。
母の状況を伝え、係りつけの科と担当医の名前を出し、
今から入院を希望したいと言った内容で相談した。

病院からは、救急車で搬送してもらった方が
スムーズになる・・・とのことだった。

そもそもで病室が空いていないようだった。
その日が祝日だったということも関係した。

その日の母は、前日に引き続き動けなかった。
リビングの椅子に座ったまま、あごを上に向けながら
意識がもうろうとしていた。


119番通報に躊躇と葛藤

母の手が震えていた・・・痙攣だったのかもしれない。
「オエ〜」っと吐き気を催してもいた・・・2〜3度ほどだったが、
嘔吐は無かった。
慌ててバケツ代わりにボール(台所用品)を持って行った
ことを覚えている。

救急車を呼んだのは11時半を回っていた。
病院側と話をした後、少しの間悩んでいた私は
初めての救急119番通報を躊躇していた。

これでいいのか、どうか・・・の葛藤があった。

これ以上の精神的負担と、母の入院とで
天秤にかけていた気がする。
入院しても、また毎日会いに行けるし、
そうすれば会社に行っている間も安心できる。

・・・そこに母の想いは反映されていなかった。
 
母自宅に居たかった・・・それを知った上での決断。
救急隊を待っている時、母が子供のように泣き出した。


私が早めた母の死期

・・・抗がん剤治療を始める前以来・・・
母のここまでの泣きじゃくりを聴いたのは
それ以来・・・私の人生で2度目だった。
そしてその2度目が最期となった。

その時の母の泣き声が今でも耳に焼き付いている。
病院に行くのが嫌だったのだ・・・間違いない。
悲しくて悲しくて仕方がなかったのだろう。
私の我慢が足りなかった。

悲しい決断だった。
母はその犠牲になった。

その証拠に、母の容態は救急車に乗ってから急変した。
それまでは穏やかだった呼吸も、激しい呼吸に変わり
酸素吸入量は最大の15リットルでも効果はなかった。
母の「心のダム」は決壊した。

病院に到着してからもそれは止まらない。
母の目が見えていないことに気付いたのは
到着して1時間ほどが経った頃だった。

私たちの名前を呼びながら、目は真直ぐ前を見ている。
手探りで確認するように私たちの名前を呼んでいた。
こんな光景を目にするとは考えもしなかった。

私が病院へ送り込んだことで
母の死期を早めてしまった・・・この事実は変えられない。
ずっと・・・。
あの時の自分を背負いながら生きることが懺悔になるのなら
喜んで受ける・・・。
・・・本当に申し訳なかった・・・ごめんなさい・・・。

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2016年12月18日

想い出したくない

母が逝く前の記憶

いい想い出があるわけがない。

嫌なことばかりだった。

二週間に一度だった通院は、一か月に一度になった

こともあった。

それがどうだろう・・・昨年の12月に入ると

その回数は一気に増え、毎週以上のペースになった。

数日おきに通院していた。

痛みに耐えかねて・・・または咳の回数が減らない・・・

末期の肺がんの症状は酷だった。

肺がんの辛さは心にも脳裏にも目にも焼き付いている。

その殆どが、母が逝く直前の数日間でつくりあげられた。

あのような光景は二度と見たくないし

出来ることならば、思い出したくもない。


辛い一週間

一周忌の法要は終わった・・・しかし・・・

母の命日は、月末だ・・・。

今週が一番辛い週となる。

一日一日、母が弱っていった記憶をたどりながら

この一週間を過ごさなければならない。

考えただけでも辛い。

しかし、逃げるわけにもいかないし、そもそもで

逃げることが出来ない。

その日は必ずやってくる。

世間はお祭り騒ぎのこの時期に、

一番思い出したくない記憶をたどりながら

母親を想い、供養に努める。

今までの毎日とは一味も二味も違う感覚。

とても言葉では言い表すことのできない想いがある。

今週、夢の中で母に逢うことが出来るだろうか・・・。


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2016年11月25日

人の命が尽きるとき

命の灯

身近な死

この二年間で、身近な人が沢山旅立っていった。

母もその中の一人だった。

幼なじみの同級生の母親の葬儀には母と参列した。

母の病気が発覚する一か月前だった。

癌だった・・・らしい・・・聞けなかった。

母が入院中、幼なじみの後輩の父親が他界した。

脳腫瘍で闘病の末・・・2年の余命宣告だったが

少し早く旅立たれた。

親類が肺がんで他界した・・・母と同様に

発見された時点でかなり進行していたようだ。

誰にでも優しい・・・優しすぎるおじさんだった。

幼なじみで親友の母親の死因は心臓疾患。

お風呂場で倒れてるところを発見された。

連絡は警察からだったそうだ。

上司の父親はすい臓がんで入院中に多臓器転移で他界。

義祖母は大往生・・・痴呆で家族の見分けも付かなかった。

食べることが大好きだった。

仕事仲間でもあった運送業の経営者は胃がんだった。

しかし、死因は肺がんだった・・・転移だった。

恩師が亡くなったのは最近の事・・・

脳溢血で孤独死だったが、見つけてくれたのは奥さんだった。

もう一度酒を呑みかわしたかった。


人の命が尽きるとき

色々なケースがあるが、病気にだけ絞らせていただくと、

わかりそうでわからない。

命の灯が、仮にろうそくのようにわかりやすいものなら

色々な準備ができるだろう。

少しずつ弱っていき、痩せて、意識がもうろうとなる。

寝ている時間が多くなるが、起きている時は会話もできる。

話している時は顔色も良かったりする。

まだまだいけると感じてしまう。

でも、やはり痛みや苦しみを感じている時は

見ていて辛い・・・いっそのこと解放してあげたい・・・

そう思うことは多々あった。

人の命は儚いが、生きようとしている命と

去ろうとしている命との狭間では、壮絶なドラマが

繰り広げられている。

命が尽きるとき・・・それは直前になるまで

なかなかわかりにくいものだと感じた。

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2016年10月18日

動けなくなった日・・・あの時母が座っていた椅子

椅子・・・それは想い出の詰まった椅子とは到底かけ離れている。

少なくとも今現在は・・・、それは今後変わるかもしれないが、

そうなる前に廃棄するかもしれない。

それは自分にもわからない・・・というのが今の心境だ。

心の整理がついていない・・・もうすぐ10か月が経つというのに。

母が闘病期間中だけ使っていたベッドもある。

当初は廃棄することを前提に、部屋の模様替えを始めた。

模様替えが終わっても、椅子やベッドの処分が進まない。

家族もそんな自分を煩わしく感じていることだろう。

だが、それはそれだ・・・急ぐことでもない・・・

しかし、決断はしなければならないということもわかっている。

ただ、それは今ではない・・・それだけ・・・

根拠はないが、今ではない・・・。

ただ、その椅子を見ると思い出したくないことを思い出す。

やはり、母が苦しんでいた時を思い出すのは酷だ。

自分でもわかっている。

現実から目を逸らしてはいけない感情と、

前に進んでいかなければいけない感情と、

忘れてはいけない感情が、心の中でぶつかり合ってる。

それを・・・その様をただじっと見つめている感じだ。

別にぶつかり合わなけても、それぞれの感情を

それぞれの引き出しにしまっておけばいいだけの話だ。

しかし、現状はというと、それが出来なくて困っている。

不器用なやつだなぁ・・・としみじみと感じている。

心のどこかで、いろんなことが吹っ切れるタイミングを

待っている。

しかし、最近思う・・・待っていても、そのタイミングは

やってこないのではないだろうか・・・?

バスも、電車も待っていればいつかやってくる。

でも、それはバス停や駅のホームに居れば・・・だ。

そこまで足を運ばなければ、乗ることはできない。

いまの自分は、自宅で引きこもったままバスや電車が

迎えに来てくれるのを待っているに近い状態なのかもしれない。

母が座っていた椅子の結末は・・・ベッドの廃棄は・・・

その答えはもうすでに出ている・・・。

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2016年09月30日

痙攣だったのか、震えだったのか・・・肺がんで他界する数日前の真実。

母は最期を迎える前の一連の出来事は

忘れてしまいたいけれども、忘れてはいけないもの。

どうしても定期的に思い出してしまう。

その時々によって・・・自分精神状態によって、

感じることが少しずつ違ってくる・・・。

例えば、手の痙攣。

母が肺がんで他界する数日前から、母が痙攣の様子を見せてくれた。

最近こんななんだよ・・・

そんな感じのセリフだったと記憶している。

母の手は小刻みに揺れていた。

アルコール中毒の禁断症状のようにも見て取れた。

しかしながら、母は酒はやらない人だった。

痙攣・・・それを見た時、

驚いたはずだった・・・それなりの衝撃も受けたはずだった。

しかし、それほど動じなかった。

母の手前、驚かないように振る舞っていた部分もあったと思う。

いろんな感情が、その時の衝動や何かを押さえつけた。

母が動揺しないように振る舞った結果が、

実は自分が一番動揺していた・・・というオチだ。

ある時、自分の感情に変化があった。

あれは痙攣ではなかったのではないのか・・・・?

母は、迫りくる死を頭ではなく自身の体で感じ取っていたのでは

ないだろうか・・・

それも、無意識のうちに・・・

それが震えとなって出ていたのだとしたら・・・

母はどんなに死の恐怖におののいていただろう。

あの時・・・私は母をそっと抱きしめるべきだったのではないか。

優しい言葉を掛けてあげるべきだったのではないだろうか・・・。

肺がんの悪化の影響で起きた痙攣に対する恐怖で、

震え交じりの痙攣だったのかもしれない・・・。

あの時・・・母は・・・。


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2016年09月25日

大きく見開いた目

あの日・・・母の目には何が見えていただろう・・・

最期に母が病院に運ばれた日・・・

物凄い速さで母の身体が変化して行く様を見ていた。

大きく見開いた目。

肺がんの恐ろしさを目の当たりにした。

呼吸が乱れていた。

会話も厳しくなった。

自分たちのことが見えていない・・・

そう感じるようになった途端、

瞳孔が見開いたようになり、

一点を見つめたままの母の目は

見ているようで、何も見えていない・・・

そう感じさせた。

目が見えていないんだ・・・言葉にならなかった。

苦しそうで・・・辛そうで・・・

何か言いたいことがあるんだ・・・と、

でも、話すことが出来ない・・・話す余裕がないのだ。

苦しくて、苦しくて、

酸素マスクも邪魔をする。

酸素マスクは喉が異様に乾くらしい。

母は水を欲しがった。

見開いた目が印象に残っている。


あのような光景は、二度と思い出したくはない筈なのに、

母が永眠して9か月・・・これまでに何度も思い出している。

大きく見開いた目・・・。

自然と思い出されることもあれば、

意図的に思い出すこともある。

とても辛い思いでなのだが、

同時に、絶対に忘れてはいけない思い出でもある。

だからこそ、時々思い出さないと

記憶が少しずつ風化してしまいそうで・・・

眠りから一瞬目覚めた母が病室で言った言葉・・・。

「ここ・・・家?」

母の見開いた目にはどのような光景が見えているのだろうか。

あの時、母は何をみていたのだろうか・・・

暗闇か・・・三途の河が見えたのか・・・

「まだ死んでないの??」

というセリフも残している。

そんな母に対して

逝かないでくれとは言えなかった・・・

むしろ、早く逝かせてあげたかった・・・

あの姿は決して忘れない。

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2016年05月29日

母が最期に笑った日

故人を想いだすことが供養につながると聞きます。
母が他界して約半年・・・想いだすことの多くは
母が苦しんでいたこと、悲しんでいたことが多く、
楽しかった想い出が出づらい日々を過ごしています。

他界する約1か月前に、酸素吸入が必要だと主治医に告げられた
その夜に、悲しそうな表情で「いろいろありがとうね」との
言葉が忘れられません。
望みは持ちつつも、潜在的な部分で死を覚悟していたかのよう・・。

胸が痛い・・・息苦しい・・・眠い・・・目が霞む・・・
足がむくむ・・・ふとももがむくむ・・・ウエストがむくんできた、
手がむくんできた・・・
怖いなぁ・・・と表現したり、もう太れないと思っていたから
太れてうれしいような表現をしてみたり・・・

最期に母の笑顔を見たのはいつだっただろう・・・
時間が経つにつれて記憶が薄れていく・・・
「スカッとジャパン」という番組をが好きで毎週見ていた母が
その放送を見ながら笑っていたことは思い出せるのですが、
それがいつ頃だったのかが思い出せず、すっきりしない日々を
送っています。
これと言った理由もないのですが、どうしても思い出したい。

コデインリン酸塩10%を服用すれば、胸の痛みを一時的に改善
させたり、咳の回数を抑えることも出来ていたのは、
今思えばほんの束の間の出来事・・・見る見るうちに薬は
効かなくなりました。

何をしても痛いし、息苦しさも改善されない・・・
高濃度酸素吸入装置の酸素量は5.0リットルの最高値に設定。
それでも何も変わらなくなった。
息苦しさに何の改善も見られず、水を飲むにも一苦労。

意識が飛ぶことは日常茶飯事となり・・・楽しいことなんて
何一つない日々が続いていた。

母はいつから笑えなくなったのだろうか・・・
あんなに苦しんでいた母の記憶だけが強く残っている。
母が最期に笑った日・・・たとえ想い出すことが出来たとしても
その時はその時で、まさかこの母の笑いが、笑顔が最期とは
考えもしないし、わかりもしないことは明白ですけど・・・

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2016年01月06日

母が末期の肺がんに負けた日

母が他界しました
最期は眠るようにゆっくりと息を引き取りました。
末期の肺がんに負けてしまった。

モルヒネが効いてからは、息苦しそうな表情もなく
肩で息をしいても、血中酸素濃度は安定している。
そんな状態が半日以上続きました。

モルヒネがしっかりと効くまでにかなりの時間を
要してしまったことが悔やまれる・・・
悔やまれると言っても私にはどうしようも無かった
のですが、もっと楽に逝かせてあげたかった。


肺がんステージWで12か月
病気がわかってから12か月間、母は本当に頑張りました。
今となって思い返すと、あの時もっとこうすれば・・・
あの治療はやめておけば良かったかも・・・などなど、
母が元気だったころの姿を思い浮かべながら・・・。
後悔と欲が入り混じる。

とにかく母は末期の肺がんに負けたとはいえ
本当に良く頑張ったと思います。
私はそんな母を尊敬しています。
恐怖と苦痛と不安に何度も心が潰されそうに
なったことと思います。

それでも最後まで気丈にふるまった母・・・。

そして再入院する日の朝に自宅で見せた
最期の涙と泣き声は忘れない・・・。



再入院してから他界まで約2日間
早かったと言えば早かった・・・。
しかし、前半の1日強は苦しみが続いた。

苦しんだのは24時間ずっとではなく、不定期で
薬が完全に効くまでの、いわば投与量を少しずつ増量して行く
過程が本当に辛そうでした。

これは、母にとってとてもとても長く辛い時間だった筈です。
そう考えると、とても複雑な感情を覚えます。

この後悔とも受け取れる感情は、生涯ずっと
私の心に焼き付けられて、消えることはないでしょう。
末期の肺がんに負けた日を・・・


別れのとき
呼吸の間隔に少しずつ変化が現れた。
モニターの数値にも、波形からもそれは見て取れる。

痰が絡みはじめ・・・やがて、鼻から痰が噴き出す。
幾度となくナースに痰の吸引をお願いするが、
瞬間的に酸素マスクを外す必要があるために、
血中酸素濃度がガクンと下がってしまう。

それは、母の呼吸の力が弱まるにつれてリスクは高まる。

・・・何もできず、見守るしかない私たち・・・
息苦しさを訴え続けた母にとって、この時はもっと早く
来てほしかったはずであり・・・実際、それを望んでいた。

もう、逝かせて欲しい!!・・・と、
母の悲痛な叫びはまだ記憶に新しい・・・。

沢山苦しませてごめんなさい・・・

今までありがとう・・・おかあさん・・・。



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2016年01月05日

魂の叫び・・・母の最期の言葉

魂の叫び!?最期の言葉
壮絶な夜は夜通し続いた・・・
激しい息遣いと、体をよじるような動きが連動する。
入院する直前まで、少しでも動くと息切れをしていた
母だけに、ベッドの上でもがくということは
息切れに拍車を掛けるようなもの・・・。

しかし、そんなこと言っていられないほどに
母は苦しいのだろうということは簡単に想像がつく。
母を見ている限り、ただの悪循環でしかない。

自らマスクを外す・・・
最初は、何か話したいことがあるのかと思い、
瞬間的にマスクを外してあげたりもしたが、
同やら違うようだと気づいてからは、マスクを
外させないようにと、母の動きを注視するようになった。

そんな最中、母は自分の命の最期が近づいていることを
肌で感じ取ったかのように、
「私、死ぬんだね!」
と、振り絞るような声で叫んだ。
私は、何も返事が出来なかったが、姉はそんなことないよ
とつぶやくように言っていたことを覚えている。

・・・「なんか・・・一瞬だった!」と、母。
私たち兄弟に、自分の手を握ろと求めるかのように、
母はそのむくんだ両手を力いっぱい広げた。

母の右手に、私の右手を差し出した・・・
探るようにして私の手を力強く握る母。
!!・・・物凄い力だ・・・瞬間的にそう思った。

母の目は開いてはいるが焦点が合っていない。
おそらく私たちの姿ははっきりと見えていないのでは・・・

それでも私の方に顔を向けて、力を振り絞るような声と
しっかりとした口調で、「あとよろしくね!!」
・・・私は、弱弱しい声で「うん・・わかった・・」と応えた。
今思えば、もっと力強く返事をしてあげたかった・・・。

みんなありがとう!
さようなら!!

母のしっかりとした言葉は、これが最期となった。
しかし、死闘はまだ続く・・・。


母の命の灯はいつまで持つのか!?
朝になれば、母の一番大好きな主治医に会える。
しかし、モルヒネの投与量は少しずつ増やしている。

それでも尚、モルヒネが効かなくなると
息苦しそうに暴れる母・・・
その母の抑える私・・・

早く楽にしてあげたいのに・・・マスクを外したがる母の
手を抑えている自分は、母の意志に反してそれを阻害している。
心と体の動きが全く矛盾している・・・
涙が止まらない・・・
時折嗚咽交じりで、泣きながら母を抑える・・・。

母にとって地獄のような時間を、長引かせているのではないか、
俺は何をやっているんだ!?
心の中でずっと、答えの出ない自問自答を繰り返していた。


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2016年01月04日

壮絶な一夜

危篤で入院初日
息苦しそうにもがく母を目の前に
何もできずにただ時間だけが過ぎて行く・・・。
そしてその時間がものすごく長く感じる。

救急搬送されたのが正午ごろ・・・
時間が経つにつれて明らかに苦しそうに、
苦しい!!
と叫ぶ母・・・。
16時過ぎ、モルヒネの投与をお願いした。

ベッド上で動きが激しくなる母。
体温は37.8度でまあまあの高熱が続いている。
母から目が離せない。

モルヒネの投与
とうとうその時が来た!
そんな感じの心境だったと思います。
いつかは来るだろうとは思っていたが
まだまだ先のことだろうと、裏腹な安心感にも似た
感覚もあった。



その時が今目の前で起きようとしている。
モルヒネの投与を医師にお願いした私は
何とも言いようのない感情が湧き上がった。

生きていてほしい・・・・・
でも、母を苦しめたくない・・・
目の前で苦しむ母を見ながら、心が崩壊寸前・・・

モルヒネを投与すれば、母は楽になれるのだろうか!?
肺がんが発見されて約1年
ここまで頑張ってきた母に、最期の!?試練なのか??
それにしても苦しそうだ!
尋常じゃないと言っても過言ではないだろう・・・。

モルヒネの投与をすると一時的に落ち着くのだが
すぐに息苦しそうに暴れはじめる母は、
次第に酸素マスクを外そうとし始める。

酸素マスクをしている方が血中酸素濃度を維持できる
のですが、酸素マスクの着用自体が息苦しさを助長するので
しょうか!?どうしても酸素マスクを外そうとする母。

こんなシーンをテレビドラマで観たことがある・・・
客観的になり、そんなことも考えた・・・
焦っている中で、妙に冷静でいられる部分もあり、
とても複雑な感情になった。

この日は、兄弟3人が病室に泊まることにした。
長い夜は始まったばかり・・・。

・・・今の母に頑張れとは言えない・・・


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2016年01月03日

入院したその日に危篤状態

途切れた緊張の糸
救急車に乗車してしばらくすると、母に異変が起きていた。
自宅では息苦しいとは言えども、肩で息をするようなことはなかった。
しかし、救急車に乗ると、5.0リットルの酸素吸入でも追いつかない。

血中酸素濃度は60%台まで下がっていた母に、酸素マスクが装着された。
救急隊員が母が搬送される先の医師に、酸素マスクの着用と酸素吸入数値
の変更指示を仰いだ結果、マスク着用で血中酸素濃度90%を目指すように
との指示・・・

母も先ほどとは違って息苦しさに拍車がかかった様子・・・。
まるで緊張の糸が途切れてしまったかのように
容態が急変したかのようにもとれた・・・。

救急搬送されて1時間・・・待合所で待たされた私と姉。
再開した母はさらに別人のよう・・・
息苦しそうで大きく方で息をする母。

目の焦点が合っていない・・・
まさか!?・・・

早ければ今夜
当直の医師に呼ばれて別室へ。
母の肺のレントゲン写真を見ながら
「肺が機能していない状態です、早ければ今夜にも・・・」

泣き崩れる姉・・・うなずく私・・・
覚悟できていたような・・・驚いたような、
何とも不思議な感覚で、不思議と冷静でした。

そのまま個室へ・・・
これが長く辛い夜の始まりでした。



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2016年01月02日

入院を決意・・・恐怖と期待の再入院

母の限界
母と一緒に一夜を過ごしてわかったこと・・・
それは、母が限界であるということ・・・
私が感じる母の限界とは、自宅で療養することの限界・・・

高濃度酸素吸入装置の酸素設定量「5.0リットル」では
息苦しさから解放されない・・・
これだけでも自宅療養の限界、それは主治医からも指導されていた
ことで、設定が5.0になった時点で再入院の意識は高まっていた。

更に、母は痛み止めを飲み過ぎている・・・
オキシコンチンを5mgから10mgに変更したが
それは1日2回、12時間おきの服用なのでしっかりと守っている。

問題はオキノームである・・・痛みがひどい場合は
1時間以上あければ何度でも服用してよいとの指導が
ありました。

時折意識が飛んでしまう母は、記憶力もおかしくなり
意識が戻ると、夜か朝なのかもわからない・・・。
記憶がおかしいことの自覚もあるために、メモを取り
ながら薬を服用した時間を管理している。

しかしそれも限界・・・いや、
限界を超えている母には、もはや何が何だか
分かっていない・・・。
痛くなくても服用するものだと勘違いが始まっている。
1時間毎に、オキノームを服用する母・・・
痛いの?と聞くと、痛くはないと答える母・・・

飲み過ぎている・・・感覚も麻痺し始めて
いるのだろうか!?

病院へ行こう!・・・しかし、私の車で行くのも
難しい状況になっていることに、気づくのが遅すぎた。


救急車しかない
母は救急車に乗ることを嫌っていた。
そんな母の言葉を思い出すと、辛いのですが
状況からしてかなり深刻・・・救急車で搬入された方が
処置が早い・・・救急外来で行っても待たされる確率が高い。

号泣する母
入院準備の応援に姉が来てくれた。
姉を見た母は号泣・・・。
色々な思いと、入院することが確実となった状況を
受け入れることが出来ないのか、それが悲しいのか、
母は、時々意識を飛ばしながらも、声を出して泣いている。

救急隊が到着してから出発するまで、
意外と時間が掛かる。
行き先は事前に連絡済みのかかりつけの大学付属病院。
主治医はいないが、致し方が無い。

では、行ってきます。


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2016年01月01日

再入院へのカウントダウン

ギリギリ再入院手前
寝たきりではないが、ほぼ動けない状態の母。
日に日に弱っていく。
数日前から「再入院」の3文字が頭を過ぎる。

母にとって「再入院」は最悪の言葉。
自分が末期がんであることを知っている上に、
現在の自分の身体の状況も母自身が一番分かっている。

家に戻ってこれなくなることが怖いのだと思います。
再入院して、むくみが解消されれば自宅療養を再開できる
可能性も出てくる。

自宅療養では、高濃度酸素吸入装置による酸素吸入量は
5.0リットルが限界であり、それ以上の吸入が必要となれば
むくみが解消されても、自宅療養は難しい。



このままの状況が続いたと想定すると、
母が寝たきりになってしまう可能性は十分にある。
何とかしてあげたい・・・何とかならないのか・・・
自問自答を繰り返しても答えは出ないまま、
時間だけが過ぎていく・・・。

着替えも出来なくなり、一日中パジャマのままで過ごす日々。
薬を飲むために何とかして食事を摂っているのですが、
食事中に寝てしまうありさまで、付きっきりでないと
心配でならない・・・やはり再入院が頭をよぎる。

姉が風邪を引いていて、嫁も風邪を引いているなか、
母の面倒を見れるのは私しかいない。
免疫力もかなり低下しているだろう・・・
肺がんの母に感染症は危険すぎる。

今夜は母と一緒に寝てみよう・・・。



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2015年12月30日

末期・・・自らオムツを手にした母の覚悟

トイレに行くにも歩いていくことがとてもとても困難な母。
末期の肺がんで、息苦しさが日に日に悪化する。
と同時に、むくみも進行し続け、リンパマッサージだけでは
気休め程度の効果しか得られないといった状況です。

利尿剤の処方をして頂いた母は、トイレに行く回数が増えるはず。
そうなると当然、歩かなければならない回数も必然的に増える。
私がいる時間であれば、キャスター付きの椅子を車椅子代わり
にしてトイレまで運んであげることが出来るのだが、
誰もいない時間はどうしても自分でトイレに行く他ない。

今の母にとって、トイレに行くということはリスクを伴う。
高濃度酸素吸入装置を使用している母は、
常に吸入用のチューブがまとわりついている。
そのために、自宅内移動はそのチューブが脚に絡んで
転倒してしまうという可能性を秘めている。

また、歩いて移動するということ自体、現在の母には
重労働となっている上に、便座に座ったり、便座から
立ち上がったりという動作も全力を振り絞らなければ
ならない状況で、入浴はもってのほかです。

病気は母から大好きなものをどんどん奪って行きます。
とうとう一人でお風呂に入ることさえも奪い始めました。
そして今度は母のプライドを奪いに来ています。



それは・・・オムツの使用です。
母にとってオムツを履くということが・・・
オムツを履かなければならないということが、
母のプライドを激しく傷つけるのです。

少し前から、オムツの使用を何気なく促してはいましたが
母は頑なに拒み続けていました。
もちろん私だってオムツはしたくありません。
母の年齢は68歳になったばかり・・・
オムツをするにはまだまだ若すぎます。

そんな母が、自らオムツを手に取り自ら履いた。
これが何を意味するか・・・そこに母の覚悟が
感じられる。
覚悟ではなく、そこまで追い込まれたのだろうか。

身体が動かない・・・自分の限界に気が付いたのだろうか、
夜のトイレが大変だから夜だけでもした方が・・・
そのように促したのですが、母は一日中履いている。
よほど辛いのか・・・母から目が離せない・・・。


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”手が震える”・・・母の体内で何が!?

湯呑みを持つ手が震えている。
心臓が弱っているのだろうか・・・。

ここ1か月、息苦しさにも変化が現れて
今週はというと、全くと言っていいほど動けない。

筋力が無くて動けないのとは違う。
いや、確かに筋力も衰えている。
しかし、それ以上の異変が起きている。

母の息苦しさは、私の想像をはるかに超えているはず。
我慢強い母・・・、なるべく入院したくない母・・・
母の身体が限界を迎えているのか、限界を超えているのか、
母にしかわからない・・・。

それを私たちに悟られれば、病院へ連れていかれてしまう。
そのように感じているのか・・・とにかく、
私たちの前では、何かを演じているかのよう・・・。
しかし、母の手は震えている・・・
母の体内で何が起きているのだろうか。

その様が更に私の心を強く叩きつける。
頑張りすぎる母と、見守る私たちの心の探り合いは
一体いつから始まったのだろうか!?

母の心境が読めないと感じることが多くなった。
とは言っても、やはり再入院をしたくないという
気持ちは痛いほど伝わる。


そんな母が病院へ再入院すれば、ガクンと元気が
無くなり、一気に病状が悪化するであろうことは、簡単に予測ができる。

だからこそ、何としてでも自宅で観てあげたい・・・
そう思う気持ちと、私たち夫婦共働きの現状・・・
姉にも、兄にも家族があり、そのどちらも共働きで、
現在の弱り切った母の介護をする準備が出来ていない。

少し前に書店で立ち読みした「東洋経済」に”介護離職”
が社会問題となっていることについて書かれていたことを
思い出した。
私の脳裏にもも”介護離職”の言葉がよぎりました。

トイレに行くにも歩いていくことがとてもとても困難な母。
食事の準備をするにも立っていることが出来ない。
ベッドに横になるまでに、何度も休憩を入れて呼吸を
整える必要がある。

もう、一週間以上お風呂にも入っていない。
気が付くと寝ている・・・痛み止めが効きすぎているのか
痛み止めを飲み過ぎているのか・・・
薬を口に運ぶ手は、やはり震えている。
同時に、桁外れの眠気が常に母を襲い続けている。
一体、母の体内で何が起きているのだろうか?


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緊急入院した母が,非小細胞肺がん(腺癌)「ステージ4」を宣告され、1年後に他界・・・母の闘病中の記録や、がんに関することを中心に記事にしているブログです。
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