信心というのは異なって当然と世間で思われています。
しかし、他力信心はまったく違います。
親鸞聖人が34歳のとき、
お友達と信心同異の諍論といわれる論争がなされました。
お友達は、みんな信心は違って当然と思っていたのですが、
親鸞聖人だけは、同じになるといわれたのです。
それは現代でも同じです。
他力の信心を獲得した学生が、
あるとき教務所から呼び出されたそうです。
そこで「お前は救われたら大慶喜心がおこるしハッキリすると言って
布教しているらしいが、なんと驕慢なことを言うのだ」
と詰問してきたそうです。
「おかしなことを言われますね。
自分の救われた喜びを明らかにするのがどうして驕慢なのですか。
自信教人信ではありませんか。
等しく十方に弘むべしと教えておられるではありませんか。
親鸞聖人も、いたるところに“慶ばしきかな〜”と書かれているではありませんか」
と答えられたそうです。
親鸞聖人や蓮如上人などの善知識方は繰り返し言われています。
「慶ばしきかな〜」
「あぁ、弘誓の強縁は〜多生にもあいがたく真実の浄信は億劫にもえがたし」
「建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」
「われすでに本願の名号を持念す」
「他力の信心ということをば今すでに獲たり」
「今こそ明らかに知られたり」
もし大慶喜心がおこるしハッキリすると言って
布教するのが憍慢なら、
これらの仏教の先生方も驕慢ということになってしまいます。
自分の救われた喜びを告白するのが悪いことならば真宗宗歌も歌えません。
「身の幸何に比ぶべき」
と歌ってるじゃないですか。
それに対して浄土真宗の最高の学者である勧学が返答したんですが、
それが信心同異の諍論にも通じます。
「馬鹿者!七高僧や御開山聖人や蓮如上人を私たちに当てはめる奴があるか!
ワシら凡夫がそれらの方と同じことを言えるはずがなかろう!」
親鸞聖人と私たちが同じ境地に出られるはずがない。
信心が同じになれるはずがない。
これは今日でも固く信じられている常識なのです。
そんな中にあって親鸞聖人は断固
信心は同じになると言われたのです。
これはちょっとやそっとの争いではないんですね。
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