親鸞聖人が、先生の法然上人の信心と同じだと言ったとき、周りのお弟子はこういいました。
念仏房「お師匠様を冒涜するにもほどがある」
勢観房「弟子として言うまじき言葉だ。そなた何様のつもりだ」
聖信房「それはどういうことだ」
勢観房「さっぱり分からん」
念仏房「お師匠様を冒涜する者がおりまして」
念仏房「申し上げるのも恐れ多いことですが」
念仏房「まったく申し訳のないことです」
念仏房「その心得違いを強く申し付けて頂けたらと…」
勢観房「お師匠様の前でよくもヌケヌケと」
これらのセリフの共通点は何でしょう。
いずれも、親鸞聖人のお友達の勢観房・聖信房・念仏房の言葉です。
法然上人や親鸞聖人のお言葉ではなく、
間違った連中の言葉です。
これはどれも同じことを言っています。
法然上人を人一倍尊敬していることが分かる言葉だとも言えます。
法然上人を尊敬していたという点では親鸞聖人も共通していました。
これは、いかに“他力の信心”というのが考えられないかということです。
信心といったら異なって当たり前、同じになるなんて考えられないことなんです。
とてつもない、とても考えられない。
そういうことを説かれているアニメの内容なのです。
そうしたことが重ねて重ねて、こうしたセリフで表わされているのです。
3人は、法然上人と同じになれるとは毛頭思っていない。
そこへ親鸞聖人が、
「親鸞の信心はお師匠様の信心と全く同じでございます」
と言われた。
親鸞聖人はビックリすることを言われた。
3人にとっては青天の霹靂だったのです。
信心同異の諍論をしばらく見ていきますと、
念仏房が法然上人のお部屋を尋ねた時、
法然上人は親鸞聖人のお名前を聞かれて微笑まれます。
法然上人がここで微笑されてしまうと、
話の結末が分かってしまうのではないですか。
しかし、このアニメの制作では、
分かってよいんだ。
信心が同じになるというのは普通なかなか分からないこと。
繰り返し描いたらよい。
念仏房はうつむいていて微笑に気付かなかったとすればいい
ということだそうです。
それほど考えられないことなんです。
よくよく噛み締めてみますと、
ここまで重ねなくても分かりそうなものです。
同じようなセリフを何度も続けておられます。
他力の信心は、それほど信じられないことということだということを、
知ってもらいたいと思います。
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