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2022年07月05日
お疲れのM先生
最近、若手の女性の担任M先生がお疲れのようである。
私も老害とは知りつつも、時々は、若手の先生たちにご意見を申し上げるが、そうしたこともこうなってくると気を遣う。あからさまにならないように、傷つかないように、そしてそれを長く引きずって、元気が無くならないように、といろいろ考えてのご意見なのだが、それでも私のような年齢の者から言われると、やはり相応のプレッシャーになるに違いない。
そこで今回は、さらに遠回しにお話しさせて頂いた。
まず、「M先生は、夏休みはどこかにお出掛けの予定はあるのですか?」と尋ねてみた。
すると、お休みできるのがお盆の頃だけで、お出掛けの予定はないとのことだった。
そこで私は畳みかける。
「せめて、おいしいものでも食べて、疲れを癒やせたらいいですね…。」
M先生はこのところ、やや心が乱れぎみである。先日も、別のクラスの担任が、M先生のクラスの生徒に話をしただけで、「どんな指導をしたのか、担任が知らないのは困るので、教えて欲しい」と抗議した。
「私のクラスの生徒だから」という思いが強くなりすぎると、他の先生の指導までをも抵抗したくなるのだ。「すべて自分が掌握したい」という気持ちは分かるが、学校現場はいろいろな先生が協力しあって生徒指導をしている。
私だって、ひそかにいろいろと指導をしているが、そのすべてを担任に報告することはない。生徒の側も、いろいろな先生と関わる中で、学校生活を送り、指導を受けているのだ。
こうした「自分中心」の考えに陥るのは、M先生の場合、疲れているときなのである。
だから私は、遠回しに、ちょこっとお話させていただいたわけだ。
一学期の終業式は、今月末。それまでまだしばらくあるのだが、M先生の復活を密かにお祈りしよう。
人は忙しすぎると、いっぱいいっぱいになる。
余裕がなくなり、普段なら「流せる」ことも心に引っかかりを残す。
それが過ぎるといらいら感が募り、怒りっぽくなる。
そしてまた、その姿をふと振り返り、自己嫌悪に陥る。
そのことで、ますます、心が乱れていくのだ。
忙しい学期末。心の身体の健康に十分注意しながら、それでいて、自分の中に、少しの余裕を残しつつ、仕事にあたりたい。
それが、生徒のためでにもなる。
私も老害とは知りつつも、時々は、若手の先生たちにご意見を申し上げるが、そうしたこともこうなってくると気を遣う。あからさまにならないように、傷つかないように、そしてそれを長く引きずって、元気が無くならないように、といろいろ考えてのご意見なのだが、それでも私のような年齢の者から言われると、やはり相応のプレッシャーになるに違いない。
そこで今回は、さらに遠回しにお話しさせて頂いた。
まず、「M先生は、夏休みはどこかにお出掛けの予定はあるのですか?」と尋ねてみた。
すると、お休みできるのがお盆の頃だけで、お出掛けの予定はないとのことだった。
そこで私は畳みかける。
「せめて、おいしいものでも食べて、疲れを癒やせたらいいですね…。」
M先生はこのところ、やや心が乱れぎみである。先日も、別のクラスの担任が、M先生のクラスの生徒に話をしただけで、「どんな指導をしたのか、担任が知らないのは困るので、教えて欲しい」と抗議した。
「私のクラスの生徒だから」という思いが強くなりすぎると、他の先生の指導までをも抵抗したくなるのだ。「すべて自分が掌握したい」という気持ちは分かるが、学校現場はいろいろな先生が協力しあって生徒指導をしている。
私だって、ひそかにいろいろと指導をしているが、そのすべてを担任に報告することはない。生徒の側も、いろいろな先生と関わる中で、学校生活を送り、指導を受けているのだ。
こうした「自分中心」の考えに陥るのは、M先生の場合、疲れているときなのである。
だから私は、遠回しに、ちょこっとお話させていただいたわけだ。
一学期の終業式は、今月末。それまでまだしばらくあるのだが、M先生の復活を密かにお祈りしよう。
人は忙しすぎると、いっぱいいっぱいになる。
余裕がなくなり、普段なら「流せる」ことも心に引っかかりを残す。
それが過ぎるといらいら感が募り、怒りっぽくなる。
そしてまた、その姿をふと振り返り、自己嫌悪に陥る。
そのことで、ますます、心が乱れていくのだ。
忙しい学期末。心の身体の健康に十分注意しながら、それでいて、自分の中に、少しの余裕を残しつつ、仕事にあたりたい。
それが、生徒のためでにもなる。