2019年12月17日
卒業生のA君
久しぶりに卒業生のA君と会った。
先日の私の誕生日に、Twitterで私のことをつぶやいていた、愛すべき私の卒業生である。
私が関わったは、彼の中学時代の三年間だけだが、野球部員であったこともあり、深く濃い関係だった。
「丹澤先生、本当に迷惑ばかり掛けてすいませんでした。」
確かにいろいろあったが、私はほとんど忘れてしまった。だから、
「みんな忘れてしまったよ…。」
当時の私は必死だったので、彼との出来事も全力でぶつかっていたのだ。
余裕はなかったが、いろいろな出来事は私自身を成長させてくれた。
彼との思い出の一番は、連れて行ったスキーで骨折させてしまったことだ。
二回目でもあり、慣れてきた頃の事故。
足にボルトをいれるほどの大怪我をさせてしまった。
こののち、しばらくスキーには連れて行けなくなったことを考えると、当時は相当ダメージを受けていたことだけは間違いない。
「腰が痛い」、とい言うので、よいと言われる整体に、月一回新幹線で出掛けたこともあった。施術費も新幹線代金も、夕食代もすべて私の自腹。でも楽しかった。
野球部では、元気も良く、野球もよく知っているし、その上努力家なので、正キャッチャとして育てようとしたにも関わらず、最後の夏の大会では、ボルトを入れたままではキャッチャーはできないということで、キャッチャとして育てることができなかったことも心残りだ。
数ヶ月の入院中は、何度も病院を訪れた。
私に見せる元気そうな笑顔は、私のエネルギー源にもなったのだが、それは私に心配させまいと、わざと明るく振る舞っていたことも、後から知った。
そんな彼は、中学を卒業すると別の学校へ行ってしまう。
高校では途中から不登校になる。
そんなわけで、何度もA君には泣かされた。
今思い出すと、そんな風に関わったA君。
あと二年もすれば、社会人になる。
「教育実習は高校でやることにしました。先生の学校でやらなくて、すいません。お金なくて、高校の免許しかとれなかったんです。介護体験の費用が出せなかったんで…。」
人生いろいろある。
「丹澤先生、あと十年は現役でいて下さいよ。」
A君が私と同じ数学の教員になった時に、私が教員でいるかどうかは分からない。
それでも永遠にA君を応援し続けよう。
教師という人間は、そういう生き物だ。
先日の私の誕生日に、Twitterで私のことをつぶやいていた、愛すべき私の卒業生である。
私が関わったは、彼の中学時代の三年間だけだが、野球部員であったこともあり、深く濃い関係だった。
「丹澤先生、本当に迷惑ばかり掛けてすいませんでした。」
確かにいろいろあったが、私はほとんど忘れてしまった。だから、
「みんな忘れてしまったよ…。」
当時の私は必死だったので、彼との出来事も全力でぶつかっていたのだ。
余裕はなかったが、いろいろな出来事は私自身を成長させてくれた。
彼との思い出の一番は、連れて行ったスキーで骨折させてしまったことだ。
二回目でもあり、慣れてきた頃の事故。
足にボルトをいれるほどの大怪我をさせてしまった。
こののち、しばらくスキーには連れて行けなくなったことを考えると、当時は相当ダメージを受けていたことだけは間違いない。
「腰が痛い」、とい言うので、よいと言われる整体に、月一回新幹線で出掛けたこともあった。施術費も新幹線代金も、夕食代もすべて私の自腹。でも楽しかった。
野球部では、元気も良く、野球もよく知っているし、その上努力家なので、正キャッチャとして育てようとしたにも関わらず、最後の夏の大会では、ボルトを入れたままではキャッチャーはできないということで、キャッチャとして育てることができなかったことも心残りだ。
数ヶ月の入院中は、何度も病院を訪れた。
私に見せる元気そうな笑顔は、私のエネルギー源にもなったのだが、それは私に心配させまいと、わざと明るく振る舞っていたことも、後から知った。
そんな彼は、中学を卒業すると別の学校へ行ってしまう。
高校では途中から不登校になる。
そんなわけで、何度もA君には泣かされた。
今思い出すと、そんな風に関わったA君。
あと二年もすれば、社会人になる。
「教育実習は高校でやることにしました。先生の学校でやらなくて、すいません。お金なくて、高校の免許しかとれなかったんです。介護体験の費用が出せなかったんで…。」
人生いろいろある。
「丹澤先生、あと十年は現役でいて下さいよ。」
A君が私と同じ数学の教員になった時に、私が教員でいるかどうかは分からない。
それでも永遠にA君を応援し続けよう。
教師という人間は、そういう生き物だ。
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