2019年04月07日
慢心を戒める
始業式と入学式が行われた。私の学校では、同日に行う。
概ね一時間目あたりに始業式を行い、その後入学式になる。
在校生の指導と、新入生対応が同時に行われるので、なかなか忙しいのだが、一気に終えてしまうのは、授業日数確保から見ても、なかなか効率がいい。
私の担当は、入学式会場の保護者誘導。併せて、新入生の入退場時の扉の開け閉めであった。
これまでは、学年やクラスの生徒対応ばかりだったので、こうした役割分担は初めてだった。
「生徒と関わる仕事がしたい。」
そう、思って教員生活を過ごしてきたが、ここにきて、「どんな学校行事も、たくさんの人の支えてによって行われており、縁の下の力持ちが、華やかな部分を支えているのだ」、ということが、身をもって分かった。
新年度から校長も替わった。
私立学校であっても、時々は校長が替わるのである。
学校の教育方針は同じでも、当然その味付けなり、強調事項は変わってくる。
なにより、校長の性格で、学校の雰囲気は一変するものだ。
と言うわけで、今年は、入学式を客観的視点で見ることができた。
これまで入学式に参加するのは、新入生の担任の時、彼らの先頭に立ち、入場を誘導すべく座席まで歩いて行くというのが、いつもスタイルだったが、今日は違った。
ホールの一番後ろの、扉の横に座り、何となく落ち着いた心で、入学式全般を見ることができた。
入学式の最中、私は、
『あなたを取り巻く環境は、あなた自身の心の鏡に映った世界である。』
という言葉をかみしめていた。
環境がどう見えるかは、自分自身の心の状態が決める。
心の中の鏡が、正しく映し出すことができれば、それは、客観的にも、その通りなのだろう。
だが、もし、自らの心の鏡がゆがんでいたり、曇っていたとしたら、周りの環境は、間違った見方をしてしまうということだ。
これまでの私は、この言葉は十分すぎるほど知っていながらも、いつしか、自分の心を鏡を曇らせ、ゆがませてしまったいたのだな、ということを思い返している。
人はともすれば、簡単に慢心する。
気を付けているつもりでも、いつの間にか、自分を過信し、自分の力こそが優れていると思い、そうした慢心の心が芽生える。
一気にそうなるのならば、目立つし、自分自身の戒めも効くのだろうが、毎日少しずつ、慢心の思いが蓄積して、五年、十年と経つと、謙虚さを失った領域にまで達してしまうのだ。
一番いけないのは、物ごとが客観視できなくなってしまうことだ。
そんなことを、入学式中ずっと考えていた。
十数年前、一ヶ月あまり、下座修行に取り組んだことがある。
ある施設で、一日中ひたすら庭の草取りをした。
一見、暇そうで、退屈そうにも思えるが、実はそうではない。自分の心を見つめるのに、もっとも適しているとも言える。
その時、私は草取りを通して、自分の心を磨いていたわけだ。
だから、時が経つにすれ、草取りがどんどん楽しくなってくる。
別にノルマがあるわけではない。早く終わらせればよい、というものでもない。
大切なことは、その作業を通して、心を磨くこと。
自分自身を見つめること。
ものごとを、客観視できる癖をつけることである。
草取りが楽しくて仕方なくなったとき、別の仕事が与えられた。
慢心してはいけない。
慢心の心は、心に毒を作っていることになるし、日々の慢心は、心をどんどん醜くさせる。
新入生には、めでたい入学式。
特に新中学一年生は、緊張の中で、難しい話を聞いて過ごしたのだと思うが、私にとっては、新鮮で、初心を思い出させるに、十分な時間となった。
有り難い役割だった。
概ね一時間目あたりに始業式を行い、その後入学式になる。
在校生の指導と、新入生対応が同時に行われるので、なかなか忙しいのだが、一気に終えてしまうのは、授業日数確保から見ても、なかなか効率がいい。
私の担当は、入学式会場の保護者誘導。併せて、新入生の入退場時の扉の開け閉めであった。
これまでは、学年やクラスの生徒対応ばかりだったので、こうした役割分担は初めてだった。
「生徒と関わる仕事がしたい。」
そう、思って教員生活を過ごしてきたが、ここにきて、「どんな学校行事も、たくさんの人の支えてによって行われており、縁の下の力持ちが、華やかな部分を支えているのだ」、ということが、身をもって分かった。
新年度から校長も替わった。
私立学校であっても、時々は校長が替わるのである。
学校の教育方針は同じでも、当然その味付けなり、強調事項は変わってくる。
なにより、校長の性格で、学校の雰囲気は一変するものだ。
と言うわけで、今年は、入学式を客観的視点で見ることができた。
これまで入学式に参加するのは、新入生の担任の時、彼らの先頭に立ち、入場を誘導すべく座席まで歩いて行くというのが、いつもスタイルだったが、今日は違った。
ホールの一番後ろの、扉の横に座り、何となく落ち着いた心で、入学式全般を見ることができた。
入学式の最中、私は、
『あなたを取り巻く環境は、あなた自身の心の鏡に映った世界である。』
という言葉をかみしめていた。
環境がどう見えるかは、自分自身の心の状態が決める。
心の中の鏡が、正しく映し出すことができれば、それは、客観的にも、その通りなのだろう。
だが、もし、自らの心の鏡がゆがんでいたり、曇っていたとしたら、周りの環境は、間違った見方をしてしまうということだ。
これまでの私は、この言葉は十分すぎるほど知っていながらも、いつしか、自分の心を鏡を曇らせ、ゆがませてしまったいたのだな、ということを思い返している。
人はともすれば、簡単に慢心する。
気を付けているつもりでも、いつの間にか、自分を過信し、自分の力こそが優れていると思い、そうした慢心の心が芽生える。
一気にそうなるのならば、目立つし、自分自身の戒めも効くのだろうが、毎日少しずつ、慢心の思いが蓄積して、五年、十年と経つと、謙虚さを失った領域にまで達してしまうのだ。
一番いけないのは、物ごとが客観視できなくなってしまうことだ。
そんなことを、入学式中ずっと考えていた。
十数年前、一ヶ月あまり、下座修行に取り組んだことがある。
ある施設で、一日中ひたすら庭の草取りをした。
一見、暇そうで、退屈そうにも思えるが、実はそうではない。自分の心を見つめるのに、もっとも適しているとも言える。
その時、私は草取りを通して、自分の心を磨いていたわけだ。
だから、時が経つにすれ、草取りがどんどん楽しくなってくる。
別にノルマがあるわけではない。早く終わらせればよい、というものでもない。
大切なことは、その作業を通して、心を磨くこと。
自分自身を見つめること。
ものごとを、客観視できる癖をつけることである。
草取りが楽しくて仕方なくなったとき、別の仕事が与えられた。
慢心してはいけない。
慢心の心は、心に毒を作っていることになるし、日々の慢心は、心をどんどん醜くさせる。
新入生には、めでたい入学式。
特に新中学一年生は、緊張の中で、難しい話を聞いて過ごしたのだと思うが、私にとっては、新鮮で、初心を思い出させるに、十分な時間となった。
有り難い役割だった。
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