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2019年04月06日

教員は聖職者である

今日は、地区の錬成大会の優勝、準優勝校と新人戦県優勝チームとの招待試合を行った。
これに併せて、地区の全顧問が集合し、新年度の初顔合わせを行う。

公立の先生方は、異動により学校が変わり、野球部の顧問でなくなったり、あるいはまた、新たに顧問になったり、と入れ替えはあるのだが、本年度は、全くの新人の方はいなかった。
何年ぶりかに復帰された方が数名おられるだけで、いつものメンバーである。

なかなか過酷な野球部顧問へのなり手は少ないはずだ。

好きでなければできないだろうし、子どもと汗を流せる体力と、情熱がなければできないだろう。

教員の勤務時間負担減とも関わり、私の地区では毎月、第三日曜日に加え、第一日曜日も部活動を行わない日に設定された。

月に二度、日曜日が使えなくなるのは、先生方には結構お困りのようで、以前から日程が組まれていた行事は、なんとか校長の個別の許可を得て、行うようである。

私の学校は私立なので、そうした縛りはない。
土曜日も授業なので、日曜日しか練習試合は入れられない。
だが、地区の学校は日曜日は二回しかないので、私の学校が練習試合を行えるのは、祝日がない月は、日曜日の二回だけとなった。

窮屈な世の中になったものだ。

私には、「野球部がやりすぎているから、私たちが困るんです」、という引きずり下ろしの思想が見え隠れする。

併せて、「部活指導は教員の仕事ではない」、というサラリーマン意識も見える。

私は、およそ教育活動すべてに関わることが、教員の仕事である、と考えている。
法律だの勤務時間だのは、あとから考えた人間の知恵で、今できる自分のすべてを捧げるのが、聖職者教員の務めだ。

これに反対の方は、教員が聖職者であることを拒否した方であると思う。

もちろんバランス感覚は必要であろう。

教員の誰もがサラリーマン意識で、教育活動を行い続けたならば、おそらくは、教員を尊敬する生徒も保護者もいなくなってしまうだろう。

教育に関わる仕事には、徳が必要である。
断じて時間の切り売りではない。

教員が聖職者意識を捨てることは、自殺行為である、と私は思う。












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