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2018年12月16日

習一篇草稿−終章上

1
「ごめんね、すごくこわかったでしょ」
 異形は銀髪の少女に変貌し、涙を流す習一を抱きしめた。彼女は習一の背中をやさしくさする。その接触が、過去に奪われた体の実在を証明した。
「記憶、もどった?」
 習一は自信なくうなずく。自分が怪物に襲われた瞬間は思い出した。そこに至るまでの経緯はまだはっきりしない。
「バケモノに……手や、足を……でも、どうしてオレは生きている?」
 薄暗い灯りの下に黒い異形が無数にうごめいていた。それらが帽子の男の「喧嘩をせずに分け合え」という号令のもと、習一の肉体を咀嚼した。その惨劇は吐き気をもよおすほどにまざまざと思い出せる。習一はエリーの両肩を押して離れさせ、喋らない男を正視した。
「あんたがオレをバケモノたちの住処に運んだんだろう」
 言ってすぐ、習一は手錠のかかった片手が自由に動かせることに気付いた。
「あれ、手錠は……」
 拘束具は鉄棒に繋がっていた。習一の手首にあった輪は閉じたまま、ゆらゆら揺れる。錠が開いた形跡はない。手錠などなかったかのように、習一の手がすり抜けたのだ。
「なんで……?」
「いまのシューイチはね、ニンゲンじゃなくなってるの」
 エリーは習一の背に回した手を外し、習一の片手を握る。
「オレも、お前みたいなバケモノになっちまったのか?」
「うーんと……姿を消したわたしがくっついてると、シューイチも消える」
「『姿を消した』……?」
 エリーの存在は他人に気付かれない。それは彼女が常人に見えない姿で活動する影響か。
「わたしとシドはね、ほんとうは体がないの。こっちの世界の生きものじゃないから」
「シドも、お前と同じ? じゃあ、あの男は……」
 エリーが帽子の男に変化できたのだ。同類であるシドがくだんの男に化けられぬ道理はない。であれば教師がこの場におらず、帽子の男がいるわけは。
「……あんたが、シドか」
 男は頭を縦にふる。習一の警戒心がだいぶ薄れた。人外だという告白は衝撃的ではあるが、時折そういった疑念を抱いた習一にとっては仰天するほどの事実でない。なにより、シドは習一に危害を加えない。人を異形たちの食糧にする悪行は、気立ての優しい彼にできるはずがない。習一にトラウマを植えつけた犯人とは異なるのだ。習一は安堵のため息を吐き、目元に残るしずくをぬぐった。
「趣味の悪いことをしやがる。でもまぁ、おかげで少しは思い出せた。もうそのニセモンの姿はやめていいぞ」
「違う……」
 シドはいつもと異なった声質で答えた。その声はその姿の持ち主のもの。
「声もあの野郎のをコピーできるのか。エリーみたいな見た目だけじゃないんだな」
 これもシドは否定の素振りをした。彼が言わんとする主張はなにか。それを習一が明確に理解した瞬間、悪寒が脳天から足先まで走りぬけた。
「私が貴方を同胞に喰わせた」
 習一が本物だと思っていた教師の姿こそが、彼にとっては偽物だった。そうとわかると習一は握りこぶしをつくり、打ち震えた。
「とんだ……とんだお笑いぐさだ! 誰にでもいいツラして、善人ぶってたくせに! 裏じゃあんな酷いことをやってたのかよ!」
 今までの人物像が見せかけだったと知ると気が昂ぶり、エリーの手を乱暴に振りほどいた。
「シューイチ、さけぶなら手をつないで。ミツバがおきる」
「知ったことか! あんた、オレ以外にもバケモンに喰わせた人がいるんだってな。なにが目当てだ? 他人を信用させた隙に喰おうとしてんのか!」
 エリーが背後から習一に抱きついた。習一は暴れる。
「くっそ、放せ!」
 習一は上半身を左右に大きく揺さぶった。エリーは離れない。そもそも巨漢の光葉を突き飛ばす腕力のある相手だ。常人が力でかなう見込みはなかった。その拘束自体は怒りの対象ではない。習一はかまわず憤怒の根源に立ち向かう。
「バケモンのくせに、オレを真っ当な人間にするとぬかしたのか!」
 彼らが人間と偽った怪物だった──それは怒りの核心を突いてはいない。
「オレを殺したくせに、オレの前で笑っていやがったのか!」
 自分を傷つけた張本人だと隠していた──これも怒髪天を衝く要因には不足があると感じた。唐突に涙が垂れる。これは恐怖が生む涙ではない。だが純粋な怒りが生むものとも違う気がした。
(オレは……なんで泣いてる?)
 複数の感情がせめぎ合い、言葉を失う。混乱する習一に罪人姿の異形が詰め寄る。習一は怖気づいた。だが身の安全は取るに足らぬと思い、恐怖をねじ伏せた。
 大きな手が習一の顔を覆う。指の隙間から見える目は、彼の冷血さを伝える青色だ。
「私への不満はすべて吐き出せ。それらを私が余すことなく飲み込もう」
 シドは暴言を受け入れるという。天邪鬼な習一はかえって文句が言いにくくなる。彼にぶつけたいわだかまりは残っているのだが、それはどういううらみ言で表現すべきなのか習一自身がわからなかった。
「……場所を移すか」
 習一が黙りこくったのを見かねたのか、習一の顔からシドの手が離れた。圧迫感が遠ざかり、ほっとしたのは束の間だった。太い腕が習一の体を捕え、肩に担がれてしまった。
「急になんだ! どこ行くんだよ!」
 視界一面に広がる背中に問うたが返答はない。ごつごつした背に手をついて離れようとするものの、両腿をがっちり捕縛されて動けない。動ける範囲で胴に蹴りを入れたが、巌のごとき強固な体に跳ね返される。シドの背か地面の二つしか見れぬ習一はせめてもの抵抗として上体を反らす。新たに見える周囲の景色は離れ、小さく、低くなっていく。
(飛んでる……?)
 公園全体が俯瞰できるまでに高度が上がった。そこが最頂点であり、徐々に降下する。落下には二人の体重が合わさって加速が始まる。民家の屋根が拡大し、習一は慌てだした。
「わ、バカ! お前みたいな野郎が屋根に落ちたら……!」
 重くて家を破壊してしまう、と危惧したがもう遅い。彼の足は屋根瓦を踏んだ。組み合わさった瓦がこすれる音は鳴らなかった。巨体を支える屋根は無事でいる。
(あ、そっか……)
 エリーの説明によると彼らは姿を消すことができる。人間である習一も彼らに接触する間は同様に消える。いわば幽霊になったも同じだ。その状態での物理的な質量はないのだろう。そう理解した習一は虚脱した状態で夜の空中遊泳を体験した。

2
 シドは桁外れの跳躍力で移動した。オフィス街のビルの屋上で足を止める。終業の時刻は過ぎていて、階下の明かりがビルの中腹以下に集中する。そういう建物をシドが選んだのだ。習一が騒いでも他人に勘付かれにくい場所を。
 習一はコンクリートの上に立たされた。習一の体にはシドもエリーも触れていない。常人に感知される体にもどっているようだ。
「オレをこんなところに連れてきて、なにがしたい?」
「質問を受け付ける。それと私への罵声も」
「罵ってくれだなんて、どんな変態だよ」
「軽口を叩けるくらいに落ち着いたか。部屋で話してもよかったな」
 言われてみれば習一の興奮がおさまっている。場所移動の時間がクールダウンになったらしい。冷静に考えると、あそこまで感情が動く原因は不明瞭だ。眼前の男は習一を病院送りにした犯人なのだから、怒り自体は正当だ。習一が疑問に思うのは己の涙だ。
「オレ……オレは、なんで泣いたんだと思う?」
「それが私への質問か」
 シドが求める問いは彼が習一を襲った理由や彼らの素性だ。カウンセリングの相談ではないことを習一はわかっている。だが現在、一番不可解な問題は自分の感情だった。
「バケモンに人間の気持ちなんか、わかるわけねえよな」
「難しいが推察はできる。涙は感情が高まった時に出る……良い意味でも悪い意味でも」
 律儀にもシドは習一の疑問に応え、回答を模索する。外見と口調がいささか粗暴に変わっても本質的な性格はそのままらしい。
「傷を負わされた怒り、謀略に気付けなかった悔しさ、愛する者を目の前で失う悲しみ、死を間際にした恐れ……私が見た涙は強い負の感情のかたまりが多かった」
「オレのはどう見えた?」
「最初は死の恐怖……最後は、信用していた者に裏切られた絶望……」
 惨劇の再演のせいで流れた涙は習一もそう感じた。だが二回目の涙が裏切りによるという表現は抵抗がある。それほどの信頼を、猜疑心の強い自分が抱けたのだろうか。
「裏切りに遭った人の顔、あんたは見たことあるのか?」
「最近、あった」
「だれの?」
「オヤマダ……貴方がそう呼ぶ女性だ」
 習一が完全に失念していた、才穎高校の女子生徒。彼女は彼の特殊能力の一端を知る態度を見せていた。その時に口の堅いシドのことを尋ねようかと思ったのだが、ゲームだ飯だ猫だといろいろあって機会を逃していた。
「あいつを、あんたが騙した?」
「そうだ。彼女を主のもとへ連れていく……そのつもりで才穎高校に勤めた」
「待てよ、おかしいだろ? あんたは普通の人に見えない姿になれるんだ。そんな回りくどいことをしなくたって、いつでもかっさらえただろうが」
「では逆に聞く。なぜ貴方は姿を消した我々が見える?」
 この返しは習一の想定外だ。常人代表の光葉がエリーに邪魔をされた時、習一はしっかり目と耳で彼女の存在をとらえた。少女は普通の人間だとばかり、習一には映っていた。
「……小山田はオレみたいに、あんたたちが見えるやつなんだな?」
「いや、彼女は見えていない。だが彼女の友人と、友人が親しくする警官は見えている」
「その警官は……露木か?」
「そう……彼の存在がもっとも厄介だった」
「あののほほんとした野郎が? 体つきだって大したことなさそうなのに」
 どんな役職であれ、警官は一定の武術の心得がある。だが素人に毛が生えた程度の強さしか感じられぬ青年だ。屈強な光葉に圧勝したシドを凌ぐとは到底考えられない。
「率直に言うと彼単体は弱い。強いのは彼が従える仲間だ。白いカラスを見ただろう?」
「ああ、露木のペットか」
「あれはこちらで言うところの、妖怪や式神に相当する。彼の最強の仲間は私では歯が立たなかった」
「露木が呼び出すペットが怖いんだな。それはわかった。で、オレが見たとこ、あんたは露木と仲良くやってる。あんたが騙した小山田もだ。あんたの企みはどうなったんだ?」
「失敗した……というよりは、成功させる意志がなくなった。計画を遂行すると十中八九、彼女はこちらに帰れなくなる。二度と目覚めない姿を……彼女の親にさらせなかった」
 この言い分には習一の不服がせりあがる。
「昏睡するオレをオレの親も見てるんだが、それはかまやしねえってか?」
「その眠りは一時的なもの。魂が健康な肉体に宿るかぎり、いずれは目が覚める。同胞は魂までも喰い尽くすわけではないから──」
「精神的にはかなりキツイぞ、あれ。痛みを感じたし、人を一回殺してるのと同じだからな。そこんとこわかってんのか?」
「わかってはいる。だからこそ私が貴方の保護をする。これが私のあがない方だ」
 決然とした声明だ。習一は疑問を一点はさむ。
「オレ以外にも被害者を出してたんだろ? そいつらはどうするんだ」
「彼らとは接触できない。関われば消えた記憶がもどると警告を受けた」
「オレはあんたと一緒にいてもなっかなか思い出せなかったぞ」
「今の貴方は忘却の効果が色濃く残っているが効き目はいずれ風化する。ほかの子たちはすでに治療を受けて数ヶ月経った。貴方と同じ忘却力のままではいられない」
 得体の知れぬ魔法に関しては議論のしようがない。習一は一応、説明を鵜呑みにする。
「じゃ、オレは事件のことを思い出したいと言ったから、堂々と会ってるわけだ?」
「そうだ。彼らの分まで、貴方には尽くすつもりだ」
 連日の厚遇は以後も継続していくと見えて、習一は胸をなで下ろした。
(信じさせておいて後ろからザックリ、てのはしなさそうだな)
 よくよく考えればその危険があるのなら露木が野放しにしないはずだ。まがりなりにも彼は警官なのだから。警戒を解いた習一は次なる質問をする。
「オレをあんな目に遭わせた動機は? あんたの計画にオレが割りこむ隙はないだろ」
「いや、割りこんできた」
「え?」
 習一の視界にいなかったエリーが現れ、習一の手を取った。手のひらに冷たい金属片をのせる。薄雲に遮られた月明かりを頼りに手の角度を変えると、それはナイフに見えた。だが持ち手と刃は分断している。
「このゴミがどうした?」
「貴方が私と私の生徒に向けた凶器だ」
「オレの……?」
 習一は折れた刃を片手に移し、ナイフの柄を握った。手に馴染む感触はそれなりにある。
「あんたたちにこれを向けたって、どういう……」
 視線を話者にもどすと、見慣れた教師の姿があった。習一の体がこわばる。帽子の男と同じ人物だという認識が瞬時にできなかった。
 彼の目元にサングラスはなく、なぜか切れ込みのあるネクタイを胸に垂らしている。
「そのネクタイはなんだ?」
 大剣部分の生地が半分切れたネクタイだ。使い物にならないナイフに引き続き、シドの所有物も損傷のある形で現れた。これらが示唆する事実は──
「オレがあんたを切りつけた?」
「そうです。私の被害はこの程度でしたが、貴方の攻撃を受けた結果、二人の生徒がケガをしました。その時の記憶はもどりませんか」
 変身とともに丁重な言葉遣いが復活する。習一は異形の演じ分けを奇妙に感じながらも「知らねえな」と答える。ただし、そのような喧嘩があったことは人づてに聞いていた。
「オレを痛めつけすぎたのを苦にして……とかなんとか掛尾先生に言ったんだったか」
「そうです。これらを見ても効果がないようですね」
「ああ、もうちょっとインパクトがないとな」
「では再現しましょう」
 習一が了承しない間に荒々しい手が喉に食らいつく。気管支を圧迫し、首や顎の骨に多大な負荷をかけて習一の体を持ち上げた。地に足がつかぬ浮遊感、強調される脈動、浅くなる呼吸。着実に窒息の順序を経る中、習一は懸命に捕捉者の手を引きはがそうとあらがった。捨てたナイフの残骸がからん、と乾いた音を立てる。
(いくら、思い出させるためだからって……!)
 まかり間違えば死に至る。習一は暴挙に対抗して足を前後に動かした。空を蹴る足先がシドの体に当たったが、全くの無反応だった。
『先生、やりすぎだ!』
 習一と完全に意見が一致する台詞が脳裏を走る。それは習一と同年代の少年の声だ。少年はあの時、こめかみから血を流していた。その傷は──習一が負わせたものだ。少年が放つ蹴りで倒されたことに習一が逆上し、仲間内にもらった武器を振るった。頭を狙った覚えはないが、相手が体勢を崩したせいで結果的に頭部の負傷をつくった。少年が転んだ時に彼の下敷きになった者がいる。小山田だ。彼女は鈍い音を鳴らして倒れた。習一が生みだした負傷者のうち、一人は習一の意図しない巻き添えを食ったのだ。
 足は宙を掻く力が萎え、手は肩より上へあげていられなくなる。あがく気力が根こそぎ奪われた時、足裏が硬いコンクリートに触れた。習一はその場にへたれこみ、潰れかかった首を手でさする。喉にからんだ痰が新鮮な空気の吸入をさまたげた。
「思い出しましたか」
 シドは平素と変わらぬ調子で尋ねる。その態度に習一はむかっ腹が立った。
「あんたなぁ! 昔話をする程度のことで、人を殺す気か!」
「死にはしません。加減をわきまえています」
「死ななかったら何をしてもいいってわけじゃねえんだぞ!」
「その忠告、胸に留めておきましょう」
 詫び言を聞けなかったせいで、習一の苛立ちは加速する。
「オレが不良だから手荒くしても平気だと思ってんだろ」
「いいえ。記憶を取りもどしたいという貴方の希望に沿いました」
「これが小山田だったら、同じことをしたか?」
「彼女の望みにかなうのなら喜んでやります」
 ブレない返答は習一に諦観を生じさせた。第一、相手はこの世の者ではないという異形だ。人間の常識や痛覚を理解するのにも限度があるのだろう。
「あー、わかったよ。あんたは悪気がないんだな。余計タチわりぃが気にしてられ……」
 ふいに鼻がむずがゆくなり、習一はくしゃみをした。
「冷えてきましたか。続きは部屋に帰ってからにしましょう」
「……そうだな。部屋ん中ならあんたも暴れねえだろうし」
「必要ならまたやりますが。『思い出せた』という言葉を私は聞けていません」
「あんたに負けた前後の記憶はもどったよ! とっとと行くぞ」
 再犯をほのめかした男は習一に背を向けてしゃがむ。
「私におぶさってください」
「え……おんぶ?」
「嫌ですか。ではここへ来た時と同じ、肩に担ぐ方法がよいのでしょうか」
「いや……あの体勢は腹が苦しくなる」
 なにより頭が地面をむく姿勢は不安定で怖い。だが、赤の他人の男性に背負われることへの戸惑いもあった。シドは向きなおる。
「おすすめはしませんが、横抱きで行きましょうか?」
「げ……男同士でやるもんじゃねえだろ。緊急時は、しゃーないにしても」
「私もそう思います。……そうですね、では私が女に化けます」
「あんたが女に……? ああ、光葉が言ってた長身の女って」
「私のもう一つの形態です。あの姿は、武術の師匠に稽古をつけてもらう時によく変化していました」
「なんで大男の格好じゃダメなんだ?」
「彼は男が苦手で女好きな方でした。それで私は彼の……従者兼娘にあたる女性の姿を模倣して、指導を受けたのです──この詳細を話すのも帰宅してからにしましょう」
 習一は無難におぶさる運送方法を選び、意を決して黒シャツに覆いかぶさった。自身のひざ裏を持つ手と、広い背中に体を預ける。
(父親にもされた覚えがねえのに……)
 全身を他者に託す感覚が不慣れで、妙にうわついた気分になった。
 シドは助走をつけ、屋上の塀を跳びこえる。彼は風と一体化したかのように疾走した。

3
 二人はアパートのベランダに到着した。室内の座卓に洗濯物の山ができている。その奥にイチカが扇風機の風で涼む。ベランダのガラス戸を開けるとイチカは「おかえりー」と笑顔で出迎えた。知人がベランダから出現したことを日常茶飯事のごとく受け流している。
「おさきにお風呂入ったんすけど、オダのアニキはどうする?」
 湯船に浸かる気分ではないがシドが「お先にどうぞ」と言うので、なんとはなしに入浴の流れになった。嫌な汗はべったりかいている。さっさと洗い流すことにした。
 風呂を出た習一と入れ替わりでシドが脱衣場に入る。彼は自身よりも風呂場を綺麗にする目的で入浴するのだと昨晩知った。清掃にはそれなりに時間がかかる。話を再開する時機がずれてしまい、習一はじれったく感じた。
 帰宅時は未整理だった洗濯物が片付けられ、卓上にはイチカが用意した冷茶が置かれる。
「オダのアニキは、なくした思い出を元にもどしたいんすよね?」
 習一はうなずいた。イチカが得意気に破顔する。
「アニキの日記を読んだら思い出せるかも!」
 彼女はロフトベッド下の机に行き、棚にしまったノートを取った。
「勝手に読んでいいのか?」
「じゃ、了解をとってくるっす!」
 イチカは座卓にノートを置いてから風呂場に向かう。行動の順番が逆だと習一は思いながら茶を飲んだ。ものの十秒ほどで「読んでいいっすよー!」という声が飛ぶ。思えば以前、日記を読んでもいいと本人の了解を得ていた。だがその時はあまり習一の役に立つ記録はないだろうとも言われた。
(このまんま待ってるのもなんだしな……)
 適当にページをめくる。開いたページには三月、シドが才穎高校へ赴任するくだりが載っていた。このあたりは習一と出会う前のことだ。とばして他の日付を見る。イチカが習一のとなりに座り、一緒に見始める。
「オダのアニキの話は四月の下旬くらいから出てきたはずっす!」
「お前、いつも日記を読んでるのか?」
「アニキんちに遊びに来た時は読ませてもらってるんすよ。今日は買い物中にアニキが一人でどっか行っちゃってヒマだったんで……」
「だから無断でオレに読ませようと?」
「最初はあるじさんの報告用にまとめてたもんすから、アニキの事情を知っていい人は読めるんす」
「ご主人様に、ねえ。あいつはなにが目当てでここに来たか、聞いたか?」
「人を捜してるっす。何人か連れてったけど違ってて、ヤマダさんがドンピシャなんす」
「ふーん……?」
 習一は説明不足な箇所を複数思いついた。捜す対象はどんな人物か。連れ去った人とは露木の言う習一と同じ被害者か。どうやって目当ての人物だと見極めるのか。小山田はどういった理由で当たりの人物なのか。
 しかし今は自分の情報を得ようとして日記を漁る。文中にはアルファベット一字で表記される仮名が登場し、なかでもHという名が頻出した。イチカが閲覧をすすめた四月下旬の記録を探すも、習一とは無関係な内容に目がとまる。
『校長の講義中、Hが事務員に変装してきた。目的は私と校長の密会の理由を探るためだという。行動力と胆力のある娘だ。校長が言うには、彼女は私に気があるという。校長の注目を集めると今後の行動に支障が出そうだ』
 Hなる人物がシドと直接関わった形跡だ。彼と関連の強い女子生徒──習一は小山田かと思い、イチカに尋ねた。イチカは悔しそうに「そうなんすよ!」と答える。
「もーアニキったらヤマさんに甘々なんすよ! アニキはおいらと何年いたってレディに見てくれないのに、ヤマさんには女性あつかいするんすから!」
「だってお前ガキだろ。自立してたらあいつにベタベタしねえよ」
 イチカは熱烈に反論するが習一の興味の対象外だ。Hが小山田だという変換が正しいとわかれば他の情報はいらない。習一は日記を読み進めた。
 四月の終わり際、シドは町中の見回りを行なっていたことが書かれる。そして雒英(らくえい)高校の制服を着た金髪の男子生徒について言及があった。習一のことだ。この時期は習一の身辺調査をしていたと書きつづられる。その目的は教え子たちと二度目の衝突を起こす前に、不良のリーダー格を無力化するというもの。
(二回目……? あいつに負ける前に、才穎の連中とやり合ったことがある?)
 無関係だと切り捨てた四月以前の過去にさかのぼってみる。シドは四月から赴任したというので、彼が人づてに聞いた騒動だろうか。日記に事跡が書かれていない可能性はあるものの、とりあえず確認する。ぱらぱらと数ページめくった先の二月、そこに少年たちの喧嘩が記載される。
『新たな土地へ訪れる。強く惹かれる力を感じた。同胞に似た感覚だ。力に接近すると少年らの乱闘を目撃した。そこにいた編み帽子を被った一番小柄な子が力を発していた。後日、試験をしよう。もう一つ気になったことがある。あの中で体術に優れる子の一人が私を見ていた。あの視線は偶然ではなさそうだ。帽子の子とは友人のようだった。接近には注意が必要』
 喧嘩に関わる少年の身分は不明だが、この時に目当ての人物を見つけたとわかる。姿を消したシドが見える少年とは誰か。習一は自分かと思ったが、編み帽子を着用する知り合いはいない。これはビルの屋上でシドが言った、小山田の友人のことだろう。
(じゃあ帽子の子ってのは小山田か?)
 その予想を胸に秘め、脱衣場より鳴る機械音を耳にした。じきに日記の作成者は現れる。習一に衛生を説いた模範として、髪をきちんと乾かした状態で。
(しっかし、体がないっていうバケモンが体を洗う意味はあんのか?)
 姿を消した時に体に付着した汚れが落ちそうなものだ。だが衣類が体と同化して消える仕組みを考えると、汚れもずっと付いたままなのかもしれない。
(いや、問題はそこじゃない。あいつがオレを襲った理由……それを知らなきゃな)
 枝葉末節にこだわっていては夜が明けても疑問が解消されない。習一は現在一番に知るべき真相を突きとめようと、退院の一か月前にあたる六月の記録を漁った。
 才穎の体育祭の記録を読み飛ばしたところで部屋主がやってきた。相変わらずの黒シャツと灰色のスラックス姿だ。彼は寝間着を持たないようだ。
(バケモンだから寝なくても平気なのかな)
 またも思考が逸れた、と習一は己に注意する。だがイチカが騒ぐせいで集中が途切れた。
「アニキー! チューするっす!」
「オダギリさんと大事な話をしますから、そういうことは明日以降に」
「イヤっす! いま、愛が欲しいんす!」
 イチカがシドに抱きつく。彼の胸に押しつけた顔は嬉しそうだ。シドの腕はイチカの背を包み、うなじと二の腕に手を置く。手から黒いもやが発生した。
「あー……アニキ、おいらを眠らせるんすね?」
 黒い気体はイチカの上半身から出て、シドの体へ吸収されていく。
「今日のところはこれで休んでください」
 シドの背中をつかんでいたイチカの手が落ちる。あんなにはしゃいでいた彼女がすぐに眠りに落ちた。ぐったりした少女をシドが横抱きにし、ロフトベッドに横たわらせた。
「お見苦しいところ見せましたね。この子はいつまで経ってもお兄ちゃん子なんですよ」
「あんたはそいつの兄貴じゃないだろ?」
「イチカさんには本当の兄がいました。残念なことに、私がこの世界へ来る前に亡くなったそうです。その兄の代わりが、私です」
 シドはベッド横の階段をおり、机のライトを点けた。
「私が早くこちらに着いていれば助けられたかもしれません」
「そんなの考えるとキリないぞ。イチカはあんたに会えて喜んでる。それでいいじゃねえか」
 シドが悲しそうに笑った。次に部屋の照明のスイッチがある壁へ向かう。
「部屋の明かりは消しましょう」
「ああ……イチカが起きないようにだな。わかった、オレも話の腰を折られたくねえ」
 習一はシドがイチカを眠らせた力について触れなかった。それは必要な知識ではない。そう己に言い聞かせていると天井の明かりが消えた。机のライトは習一とその周辺に光を届ける。ただし光源から距離をへだてるごとに明るさは弱くなった。
「日記を読みたかったら私の机でどうぞ」
「あんたに直接聞く。そのほうが早い」
 習一は日記を座卓に放り、壁際で立て膝に座る人型の異形を見た。

タグ:習一
posted by 三利実巳 at 00:00 | Comment(0) | 習一篇草稿

2018年12月15日

習一篇草稿−7章

1
 朝方は昨日の肉詰めピーマンの残りとイチカ手製のフレンチトーストを食べ、習一たちは外出した。新品のサンダルは足が蒸れないので快適であり、習一は良い買い物をしたと満足がいった。三人は公共交通機関を利用してプールを目指す。駅までの道のりの中、シドがしきりに電車の時刻表を確認した。乗車すべき電車の種類、降りる駅名はメモを取ってある。他になにを気にするのだろう、と習一は彼の周到さをあやしんだ。
 駅のホームにて電車の到来を待つ。駅構内に目当ての電車が来るアナウンスが起きた。
「私は一本あとの電車に乗ります」
 きびすを返す彼をイチカが呼びとめる。
「アニキ! どこ行くんすか?」
「大した用ではありません。イチカさんたちは先に行ってください」
 シドは理由を説明せずに姿をくらました。事前に遊興費はイチカに渡っており、出資者が不在でも目的は果たせる。降車場所やプールの場所を記したメモもイチカが持つ。最初から習一とイチカの二人での遊行を想定したかのような事前準備だ。まさか泳ぐことを嫌がって逃亡する気では、と習一は疑ったが、いざ電車に乗るとその予想は吹き飛んだ。
「よおニーチャン! えらい久しぶりやんな!」
 熊を思わせる図体の男が太い脚を開いて座っていた。自信に満ちあふれた笑顔は習一の記憶に新しい。イチカが「お友だちなんすか?」と習一に尋ね、習一は首をぶんぶんと横にふった。白いスーツの大男はわざとらしく落ちこむ。
「薄情やな、退院祝いに花束やった仲やっちゅうんに」
 光葉は両手で手招きして、習一とイチカを自身の左右に座らせた。車内の乗客はみな、習一たちと離れた座席に固まる。彼らは光葉に目を合わせない。いかめしい男と関わりたくないのだ。だが無鉄砲にもイチカが「電車の中じゃ大きい声を出しちゃダメなんすよ」とたしなめる。光葉は目を丸くした。怒り出すか、と習一がひやひやした。彼は笑って「うっかりはしゃいでもうたわ」と言い、諫言にのっとって声を小さくした。
(ヤクザっぽいのは見た目だけか?)
 筋骨秀でる体躯に加え、オールバックの金髪は無法者スタイルだ。その外見とは裏腹に人懐こい性格でもある。落差が激しい男のどこを本性と見るべきか習一は考えあぐねた。
 意外にも光葉はイチカと気が合うようで、会話を弾ませる。内面を抽出すると陽気な者同士、なんらおかしくない状況だ。シドもアウトローな外観でいて内実紳士なのをかんがみ、習一は光葉の中身を信じることにした。話中、イチカが正直に今日の予定を光葉に話した。光葉が銀髪の教師について質問すると彼女はごまかさずに喋る。イチカが光葉の捜す人物の縁者だと知り、光葉はにんまりと笑う。
「そのアニキもプールに行くんか?」
「わかんないっす。あとで来るかもしんないし、おいら達だけで行かせたかったのかも」
「けったいなやっちゃな。ワシがどう動いてええかわからんやないか」
「アニキとお話しするぐらいなら、おいらが頼んでもいいっすよ」
「そんな生易しい用事やない。手合せしてもらうんや。初めに探しとった男とちゃうねんけど、そいつもごっつう強いっちゅう噂やから」
「アニキと? それはムリっす。むやみに人を傷つけるの、嫌がってるんす」
「ほんならどないしたら戦ってくれるんや?」
「どうしても……と言うなら、弟子になったらどうっすかね」
 光葉は「弟子ぃ?」と聞き慣れぬ言葉を耳にしたかのように首をひねる。
「アニキのお師匠さんは稽古で手合せをよくやったらしいんで、きっとアニキの指導もそんな感じっす。最初は基本的な動きを教わって、慣れてきたら師匠と戦うんす」
「地道な修行は性に合わんなぁ」
「じゃああきらめてほしいっす。アニキはもう教師だからケンカは卒業したんすよ」
 シドが教師業をする以前は武術の腕を頼りに生きていたかのような物言いだ。習一がシドの経歴を気になりだした時、スピーカーは習一たちが降車する駅への接近を知らせる。
「次でおりるっす。ミっちゃん、さいなら」
 イチカは出入り口の前で待機する。習一も即降車できる準備をした。光葉は腕組みをしたまま閉口している。車窓の景色がなだらかな速度で変化していき、停止すると扉が左右に開いた。乗車しようとする客は先客がホームへ流れるのを待つ。イチカがその脇を通った時は平然としていた客が、習一が降りるとなぜか慌てて別の昇降口へ入った。
(そんなにオレは怖い面をしてるか?)
 習一がとまどいつつイチカの後ろを追った。が、右肩を強くつかまれたせいで足が止まる。肩を見ると日焼けした大きな手があった。その手はシドより大きい。
「ニーチャン、一つ忠告しといたる」
 習一は肩を押さえられて身じろぎできず、光葉の顔を見れなかった。
「あのセンセイを信じすぎんこっちゃ」
 光葉は己が会った事もない相手を信用ならない男だという。シドも光葉もよく知らぬ頃の習一なら参考にしただろう。習一が光葉の助言を一笑に付すのと同時に電車が発車する。その轟音で声をかき消さないためにか、光葉の顔が習一の右肩の上に乗る。
「カタギの世界に戻れんようになるで」
 一瞬、なんのことを言っているのか習一は混乱する。電車が遠ざかると習一を拘束する手も離れた。習一は振りむきざま光葉を見上げる。
「なーに言ってんだ。教師やってるやつをあんたみてえなチンピラと一緒にすんな」
「ニーチャンはセンセイが教師する前にやってた稼業、知っとるんか?」
「知らねえけど、それがなんだってんだ」
「ヤクザしとった男の会社に勤めとったんやで。ニーチャンと一緒の女はその男の娘や」
 呆然とする習一を尻目に光葉は「じゃーの」と手を振りながら去った。イチカが習一に駆け寄り、プールへ行こうと催促する。習一は彼女に手を握られるままにした。
「いまの話、聞いてたか?」
「ミっちゃんの話? 聞こえてたっすよ」
「あいつの言ってたこと……本当か?」
 イチカは「そうっす!」と明朗に断言した。彼女がむくつけき男にマナーを説ける理由がわかった。イチカの周りには光葉のような人物がごろごろ居たのだ。彼らと過ごすうちに相手の逆鱗に触れぬ技能か、強面に隠れた本性を見抜く人物眼を身に着けたらしい。
「でも昔のことっす。オヤジはちゃんと足洗って自立してるんすよ。アニキが働いたのだって足抜けしたあとの仕事なんすから、ぜんぜん、恥ずかしいことはやってないっす!」
 習一は手を引かれながら物思いにふける。光葉は事実を言ったとはいえ、それとシドを信頼すべきでないとする主張は繋がらない。ただ一点、胸に落ちる指摘があった。
(普通の……世界にいられなくなる)
 光葉がどこまでの情報収集を経た上で述べたことかは不明だ。単純に、口外しにくい経緯の持ち主だと伝えたかったのかもしれない。
(普通じゃないもんな、あいつ……)
 シドは時に超常的な力を発揮する。現在彼が習一たちのそばにいないのも、光葉の乗車を看破し、遭遇を避けたからにちがいない。その他、クレーンゲームのプレイ中に得体の知れない黒い物体を呼び出していた。あの黒い何者かが手助けをしている。その正体は教えてくれなかった。いずれ説明すると言われたものの、真実を知った時に習一はどうなるだろう。尋常ならざる秘密を知り、秘密を共有して生活を続ける。それは畢竟、自身も尋常でない者の仲間入りを果たすのではないか。
(このまま一緒にいて、平気なのか?)
 なにも知らされず、なにも思い出さない。この状況はすべてを知る以上に幸福なのかもしれない。だが一度記憶を取り戻したいと言った手前、いまさらやめるのも釈然としない。そんな逡巡をしつつ、習一は駅を離れた。

2
 プール場にてシドと合流する。別行動の理由を尋ねると、彼は光葉の乗車を黒い仲間に教えてもらったと答えた。習一は追究したがイチカが遊泳を急かすせいでうやむやになった。
 泳ぐ最中もプール場を発ったあとも光葉に出会わなかった。無事に電車に乗り、習一とイチカはシドの隣りの席に座る。イチカは隣人の肩に寄りかかってすぐに寝息を立てた。威勢よく泳いだせいで疲れたようだ。習一もプール上がりのシャワーを浴びたあとは眠さを感じていて、座席で一息つくと眠気がぶり返した。
「オダギリさんも寝ていいですよ。私が起きていますから」
 疲れ知らずの引率者が不寝番を申しでる。習一は真面目がとりえの男に起床を託した。
 今朝の出発駅に到着し、一行は帰宅する。夕飯は外食にしようとシドが言い、荷物を置いてまた出かけた。食事の支度目的にイチカを呼んだとはいえ、疲れた彼女に調理させるのは気が引けたようだ。もしくは料理を作りに来た、というのはただの口実かもしれない。
 イチカのシドへの懐き具合は甚だしく、家事と入浴以外は片時も離れようとしない。昨晩ロフトベッドで就寝したイチカは当初、シドに共寝を求めた。それは父親を慕う幼い娘のような要求だ。いかがわしい行為目的ではないだろうが、シドは固く断った。寝床のない彼は一晩中ベッド下の机で過ごしており、シドの眠る姿を習一は見ていない。習一の知らぬところで休息するのか底なしの体力を持つのか、とかく謎の多い男だと改めて感じた。
 三人は和風の飲食店に訪れた。習一が一度来店した場所だ。店員の活気ある挨拶に歓迎され、四人掛けのテーブル席に着く。応対した店員は細身の若者、マサだ。彼は案内係の務めを終えて厨房へ入る。シドがメニューを習一とイチカに渡しながら「お話を聞けそうにないですね」とつぶやいた。イチカがきょとんとして「なんのことっすか?」と尋ねる。
「さきほどの店員さんにお聞きしたいことがあるのです。いつもお忙しく働いているので、勤務中は難しそうです」
「仕事のない時間か日を聞いて、会う約束をしたらいいっす!」
「私個人の頼みではどうにも……オヤマダさんから頼んでもらうのが適切でしょうか」
 シドはマサとの話し合いの場を設けようと考えている。それは習一のためだ。父との意思疎通ができずに出奔した者の過去を知ることで、習一の生き方の指標が生まれる。そのような考えからシドは段取りを練るのだ。善意が引き起こす計画を習一はつっぱねた。
「やめとけよ。他人相手に自慢にならねえ昔話は言いたくないもんだろ」
「おっしゃる通りです。ですから、マサさんと親しい方に口利きをしてもらいます」
「親に見放された可哀そうな野郎を憐れんでくれ、とでも言わせるのか」
「貴方が乗り気でないのならやめます。マサさんたちに無駄な迷惑をかけられません」
 シドは刺々しく言い返した。習一はむすっとする。相手の主張がもっともなだけに、口答えの隙がなくて押し黙った。険悪な空気を感じたイチカはメニュー表を立てて顔を隠した。ふっとシドは表情を和らげ「気分を悪くしましたか」と尋ねた。習一はうなずく。
「あんたにしちゃ、露骨に嫌味な言い方だったからな」
「貴方には日常茶飯事な言い方だと思いますが、自分にされるのは嫌なようですね」
「べつに、言いたきゃ言ってりゃいい。間違ったことは言ってねえんだから」
 マサとは別の店員が水の入ったコップを運んでくる。一人だけメニューを見ていたイチカは自分の分の注文をする。習一も前回頼んだ品を男性店員に告げた。この店員はノブを少し小さくしたような体型だ。店員が伝票ホルダーを片手に「先生は?」とシドに尋ねる。
「私は遠慮します。注文は以上です」
「了解! 早いとこ用意するからのー」
 店員は朗らかに答え、厨房に入った。イチカが「知り合いなんすか?」とシドに聞く。
「ええ、彼は私の教え子です。オヤマダさんとも仲が良いので、そこからオダギリさんの近況が伝わっているようです」
「? なんでオダのアニキのことを知ってるってわかるんすか」
「彼が何も知らなければ大騒ぎしたと思います。私とオダギリさんは……敵でしたから」
 シドと敵対していたことは習一も記憶がないなりに察している。イチカが習一を見て「そうだったんすか」と淡泊に納得した。習一がシドに害する人物だった過去には興味がないらしい。現在遊泳にまで同行する仲間だという事実を優先し、信頼したようだ。
「んで、あのほそーい店員さんに聞きたい昔話はどんなのっすか?」
「どうでもいいだろ。オレは聞く気ねえんだ」
「んじゃ、聞きやすいことを聞いてみたらどうっすかね。はじめは世間話をして、仲良くなるんす。そして本当の目的は最後に言う! これが交渉術っすよ〜」
 イチカはシドに「ね?」と同意を求めた。シドは微笑んで「いいですね」と肯定する。
「もしマサさんが注文の品を届けてくれたら、その時になにか尋ねてみてはどうです」
「なんでオレが……」
「知りたいことがあるのでしょう? 無理に、とは言いませんが」
 他の店員が来た時は無効になる条件だ。習一は博打に乗った。するとマサが二つの丼を盆に載せてやって来た。テーブルの鉄板の横に丼を並べていく。その作業中に習一は対面する同行者二人の顔を見た。みな、楽しげな笑顔だ。習一の動向を伺っている。ここで習一が怖気づいて無言を突き通せば、あとでいじられるだろう。それは別段悪意のないからかいで済む。そうとわかっているものの、習一はその事態が自身の負けを認める気がした。
 マサが伝票を置いて去ろうとしたところを、習一は声をかける。
「えっと……ノブ、さんのこと……どう思う?」
「ノブさん?」
 マサは注文の品に無関係な質問を受けて唖然とする。だが嬉しそうな返答があった。
「あの人はいい人だよ。明るいし働き者で……」
 青年は「それに」と口元をほころばせる。
「いろんな考えを大切にするんだ。外国の友人が多いって話だけど、いろんな友だちができるのも人柄のおかげなんじゃないかと思う。でも、どうしてノブさんのことを?」
「オレ、ちょっと世話になったことがあって、気になったんだ。そんだけ」
 習一はこれ以上の会話を求めるつもりがなく、下を向いた。だがマサの足は遠のかない。
「ノブさんと知り合い? ああ、キリちゃんの友だちなのかな。あの人は娘の同級生も自分の子どもみたく扱うから……」
 ちがう、と習一は言いたくて顔を上げた。そこに悲喜入りまじった男性の顔がある。
「ああいう人が父親だったら……仲良くなれたのにな」
 マサは「洗い物がたまってるんだった」と言って業務にもどった。ジューっと物を熱する音が聞こえる。習一が卓上を見ると、シドがお好み焼きのもとを焼いていた。
「よい受け答えでした。その口調を続けましょう。余計な争いが起きなくなりますよ」
 彼の視線は液状の小麦粉に注がれている。気泡がぷつぷつと出てきた円盤を器用にヘラでひっくり返した。片手間に発した助言は世間話のノリだったが、その内容は習一と大きく相容れない処世術だ。継続的な実践は簡単ではない。それを軽く言う相手を習一はにらんでみた。シドは笑い返すだけで抗議の態度を見せなかった。

3
 夕飯の会話中、習一たちは明日の行動を決めた。外出をしたがるイチカに対し、習一が普通に休みたいと主張する。結果、部屋で映画鑑賞をすることになった。食事後に三人は映像物を借りに行く。イチカは流行りものが陳列する棚を見物し、シドは動物のパッケージを手に取る。彼は氷の大地に立つ白熊やペンギンの表紙に注目していた。
 見たいジャンルのない習一は退屈を感じ、正直な感想をシドに告げる。すると彼は「先に帰っていいですよ」と部屋の鍵を渡してきた。
「このあと、私たちは明日の食材を買おうと思います。時間がかかりますから部屋で休んでいてください。帰り道はわかりますね?」
「ああ、地元だからな」
 最悪来た道をたどればいい、と習一は通い慣れないアパートへの道筋を思案した。日が落ちた外の景色と日中見た外観とを照らし合わせていく中、ふと気づいた。
(ひさしぶりに一人になった……な)
 このところ外を出歩く時は誰かしらの供がいた。一人もそばにいないのは脇の風通しが良すぎるような、身軽と言えばそうだが物足りない感覚を覚える。
(帰るまで時間がかかるって言ってたし……すぐに行かなくてもいいか)
 仮にシドらが先に帰宅してもイチカが合い鍵を持つので問題はない。習一の帰りが遅いことを指摘された時は、慣れないアパートの発見に手こずったと言えば通用する。習一はどこへ行くという信念なく、思いつきで進路を適宜決めた。
 直観のままに行き着いた場所はゲームセンターだ。そこで起きた怪奇な現象を髣髴し、真っ先にシドが挑戦していたゲーム機を確認する。また忍者の人形が入った箱が設置してあった。横倒しになった箱の下に注目する。
(黒い手がここから伸びてた)
 アームを通す穴の幅は人の腕を通せるほど。だがゲーム機内への侵入経路は景品の受け取り口一つ。小動物や幼子ならいざ知らず、普通の人間が狭い侵入口を通ることは不可能だ。
(なんだったんだ、あの生き物……)
 初めて見た時は不気味な存在だと感じた。だが畏怖すべき対象だとは言えない。あの物体はシドの要請によって動く。役割は雑事をこなすエリーと同じだ。姿は異形といえど、いまは味方してくれる。邪険にすべきいわれはないと、不安を軽減した習一は夜道に出た。
(黒いやつが光葉の居場所を知らせたと言ってたか?)
 プールで再会したシドがそう言った。ゲームセンターにおいて習一が見た化け物だと。
(エリーにも人捜しをさせてるんだったな。『会いたくはない相手』はきっと光葉だ)
 エリーとは動物園以来、会っていない。彼女も黒い異形と同じ任務中だ。光葉の口ぶりでは銀髪の女も捕縛対象だという。彼と鉢合わせになったらエリーに危険が及ぶだろう。
(オレはちゃんと伝えたよな……銀髪で色黒な女も、あいつは捜してるって)
 光葉の条件には男と見まごう高身長とあったが、あれだけシドと似た容姿の娘だ。誤差の範囲とみて標的にしかねない。その危機感がシドに伝わっていないのだ。よもや我が身かわいさのあまり、妹分の処遇はどうあってもかまわぬとする鬼畜ではあるまい。
(言ってやめさせるか。偵察は黒いやつだけに任せとけって)
 俄然アパートへ帰る意欲が出てきて、習一は現在位置を確認した。でたらめに徘徊したせいで周囲は目印の乏しい住宅街に変わっている。基点となる建物を探しに歩いた。
 背の高い木々が街灯に照らされる一画が見えた。それが公園だとわかると習一は近づく。
「いまはそっちにいっちゃダメ」
 習一の全身がびくっと跳ねた。振り返ると先ほどまで習一が身を案じた少女がいる。
「公園のむこうに、シューイチをさがしてる人がいる。見つかるとめんどう」
「オレを……? 一体だれが」
 習一は瞬時に父を想起したが、そんな労力をかけて自分を捜索するとは思えず棄却した。せいぜい捜索願を受理した警官がパトロールついでに捜す程度だろう。
「よくしらない人。とにかくこっちに来て。シドの部屋にもどろう」
 エリーは手招きする。習一は彼女の誘導に従った。揺れる銀色の髪をじっと見ながら帰路につく。アパートの付近に差しかかり、エリーが足を止める。彼女はブロック塀に隠れ、習一の目の前をあきらかにする。数メートル先、金髪で白スーツの男が仁王立ちしている。自分も身を潜めるべきかと習一が思った矢先、黒い部分の多い頭部がこちらを向いた。
「走って!」
 エリーの促しに応じて習一は駆けだした。あの男に関わるのは極力避けたい。どたん、と重たい物が倒れた。習一は走る速度をおさえ、後ろに視線をやる。地べたに白服が倒れている。その横には家屋の塀に手足をかけるエリーの姿があった。彼女が光葉の足止めをしたのだ。エリーは猫のように軽々と塀にあがり、習一を一瞥する。そうして民家の庭へ下りた。あの身体能力と障害物の豊富な場において、巨体の男を翻弄するのに不足はない。あとは習一が一時避難するのみ。習一は野太い声が後方から響くのを無視して走った。

4
 習一は日中の疲労がたまった足を懸命に上げた。適当に光葉を撹乱できたらアパートに帰ろうと考え、身を隠す場所を探す。周囲には塀つきの家が点在するのだが、利用するのはリスクが高い。盗人に間違われて騒ぎになればあっさり追跡者に見つかるだろう。
 もっと安全に、誰がいても怪しまれず、人目にもつかない場所。
(公園……)
 エリーに入るなと言われた場所だ。あの時は習一を捜す者が付近にいたという。何分か経過した今なら捜索者は不在やもしれず、その期待に賭けて走った。
 公園内はトイレの出入口を示す明かりや外灯によって部分的に照らされていた。その光を避けつつ、習一は荒れた息を整えて歩く。ベンチに腰かけ、体を休めた。
(いつごろ帰る……いや、帰れるのか? あいつ、またアパートの前で待つんじゃ)
 光葉は本来の目的であるシドの出待ちを再開する可能性がある。シドの下宿先をどこで知ったのかわからないが、その情報は誤りだったと思わせておきたい。でなければ今日、からくも煙に巻けたとしても、明日明後日は逃げ切る保障がない。
(あいつが諦めるまでは部屋に行けない。それをあの教師に伝える手段が……)
 エリーの顔が思い浮かんだ。彼女とシドは連絡を随時取りあう仲だ。おそらくエリーがシドに光葉の待ち伏せの件を伝えるだろう。アパートに行くに行けなかった状況を知れば、彼が打開策を講じるはずだ。なればこそ習一は自身の安全確保に専念するのがよい。
(漫画喫茶に隠れるか?)
 一晩やり過ごす資金はある。だが習一が行方をくらますと同居人たちはどう思うか。習一は彼らの連絡先を知らない。音信不通のまま忽然といなくなれば心配するのは目に見えている。その心境は習一が光葉に身柄を拘束された場合と大きな差がなく、良策とは思えない。もっとも良い方法はシドと合流することだ。シドたちと別れた店へ向かおうかと考えたが、一人行動の経過時間を考慮すると無駄足になる。他の候補は食材の買い出しができるスーパー。しかし彼らは会計を終えたあとかもしれず、習一は目的地を決めかねる。
 ここまで考えてみて、習一は自身をあげつらった。
(一人でやりたい放題してきたってのに、今になってあいつらにすり寄るのか)
 家族への迷惑をかえりみず、自分をもてなす他人の厚意に乗りかかる。なんとも虫のよい話だ。家族の心労を気にしないくせに、他人が抱える気苦労には配慮の念がある。身勝手な気遣いだ。その違いは自分に利をもたらすか否かという利己的な判断による。
(オレは汚いやつだ。使える人間にだけいいツラをしようとして)
 自己嫌悪に浸るのを防ぐため、習一は移動しようと思った。外れでもよいから開店中の食品売り場へ。顔を上げ、どちらの方向へ進むか模索する。ぼんやりと動く影が視界に入った。上下に動くその形は一般的な成人男性に近い。通行人だろうか。習一は園内のオブジェの一部のように息を殺した。通行人の陰影は次第に大きくなり、外灯が部分的に明らかにする地面を踏む。その足は二人分あった。一人が灯りのもと、電子機器を操作する。機器は強い光を発した。
「お、ここにいんじゃん」
 いかにも軽そうな口調の男が言う。その言葉は習一に向けられたものだが、声に聞き覚えはない。「いい稼ぎになったなぁ」と愉快そうにするのが不快で、習一は立った。
「おっと、勝手に行かれちゃ困るのよ。ダンナに来てもらわないと」
「ダンナってのは光葉のことか? 図体の大きい白スーツ野郎の」
「話が早くて助かる。このまま待っててくれりゃいいからさ」
 軟派な男が電話を耳にあてた。光葉と連絡を取る気だ。せっかく逃げられたのに告げ口されてはかなわない。習一は男の股ぐらめがけて蹴りあげた。男は電話を落とす。内股に立ち、痛みをこらえている。その隣りにいた連れは悶絶する男の体を支えた。彼らがもたつく間に習一は公園を脱出する。目についた曲がり角へまっしぐらに走った。
「!」
 一面に壁が現れ、急ブレーキをかける。止まりきれずに衝突し、したたかに鼻を打つ。
「よおニーチャン、夜の鬼ごっこはこれで仕舞いや」
 不運にも現在もっとも会いたくない人物にめぐりあった。大きな手が習一の肩にぽんと乗る。習一はその手を振り払おうとしたが、強く握られてうめき声をあげた。

5
「なんでワシを見てすぐ逃げたんや?」
 光葉は手にこめた力とは真逆に、子どもに諭すような声で尋ねる。その声色はいっそう危険な状況を物語る気がして、習一は正直に話すことに決めた。
「あの時、『走れ』って言われたから」
「そんな声、ワシは聞いておらんで」
 おかしな主張だ。間違いなくエリーは声を張りあげて習一に逃走を命じた。そしてどうやったか見ていないが、追いかけてくる光葉を転倒させていた。
「あんたを転ばせた女の子がいただろ。あいつが、そう言った」
「女ぁ? そんなやつ見てへんな。すっ転んだのはまあ、足がもつれたからやと思うが」
 光葉はエリーとかなりの近距離にいたにも関わらず、彼女の存在に気付いていない。エリーの声を聞かなかったという証言といい、まるで彼女は習一にしか感知できぬ幽霊になったかのようだ。そんなはずはない。シドも小山田も、エリーとは自然なやり取りをしている。
「まあええわ。ニーチャンのセンセイの家、あそこで合っとるか聞きたかったんや」
「それを聞くために、金を使って人を雇ったのか?」
 二人組の男の言動により、かいま見える光葉の行動。その原動力は習一が簡単な質問に答える程度のことを最終目標には設定しない。
「よう口が回るやっちゃな。もうちっとおバカなほうがかわいげあるで」
「それで、あんたは何がしたいんだ。あんな頭の軽そうな連中に小金をちかつかせておいて、慈善家気取りしたいわけじゃないだろ」
「その通り、施しただけじゃワシは満足せえへん。ワシの望み、もう知っとるやろ?」
 光葉は習一の背後に回り、後ろ手を組んで本格的に拘束する。体格差のある相手への抵抗はできなかった。習一は彼の目的が自分にはないことを頼みに平静を保つ。
「あの教師と果たし合いするのか。だったらオレは関係ない」
「ニーチャンの身柄と引き換えに戦ってもらう。そうでもせんと全然会われんくてなぁ」
 無理もない提案だ。シドは不可思議な協力者のおかげで光葉との邂逅を未然に回避している。それゆえ光葉が強硬手段に出た。それは理解できるのだが。
「どうやって呼びつける? オレはあいつの連絡先を知らねえぞ」
「なんやと、連絡網っちゅうんはないんか?」
「あいつはオレの学校の教師じゃない。前にもあんたにそう言ったつもりだが」
 光葉は「なんやとぉ?」とキテレツな声を出した。
「とぼけとったんやないんか。じゃ、センセイはなんでニーチャンにかまけとるんや」
「オレは覚えちゃいないが、オレになにかやらかしたんだとよ。その詫びだって」
 この解説で光葉が納得できたか確認できないが、話が進展しないまま光葉は歩き始めた。
「ほんならどないしよか。直接センセイのおる部屋にお邪魔するか」
 アパートへ連行される道中、部屋はどこかと聞かれても習一は知らぬ存ぜぬを突き通した。さいわい習一がシドの下宿先に寝泊まりする現況は知らないようだった。習一から情報を引き出せない光葉は一部屋ずつ訪問すると言い出す。習一を捕縛した状態で住民と会ったなら、異変を感じた住民が通報するだろう。警察沙汰はまずい。それは光葉も同じはずだ。
「オレを捕まえたまんま、部屋を総当たりする気か?」
「そらそうやな」
「『自分は不審者です』と紹介して回るようなもんだぞ」
「それは気ぃつかんかったわ。まあええ、用が済んだら寄りつかんからな」
 警官が来るという発想は光葉にない。もしくは警官があらわれたところで支障がないと考えたのだろう。この大男は卓越した身体を有する。何者にも負けぬ自信があるのだ。
「いでっ」
 突然光葉が痛みを訴えた。コロコロと軽い物が地面に転がる。途端に習一の手首がぐいっと下に押しやられた。拘束がすべり落ちる。習一が咄嗟に後ろを見れば、少女が走ってきている。
「こっち!」
 エリーが腕をのばした。だが光葉が習一を抱えこんでしまい、少女の手は空を切った。
「なんや、誰かがワシの邪魔をしよる!」
 光葉は頭をぶんぶんと動かす。あたりは無人。光葉は「おっかしいな」と一人ごちた。
(あれは見間違いだったのか?)
 大男はまたも少女に気付かなかった。習一の耳には真新しいエリーの声が残るのだが。
「その少年を放してください」
 もはや親の声より聞き慣れた声だ。後ろに向きなおると目の据わった銀髪の教師が立つ。
「やぁっと出てきてくれたな。アンタを捜してあちこち回っておったんや」
「貴方の事情は知りません。その子から離れてください」
「まずは不意打ちの謝罪、と言いたいとこやけどええわ。ワシの頼みを聞くこっちゃ」
「一つだけですよ」
「アンタの仲間にアンタと似たような銀髪の男がおるやろ? そいつを紹介してくれや」
 今朝の光葉はシドと戦うのでもよい、と言っていたのだが、本音はやはり違うらしい。
「私がお相手します。私に勝てないようでは彼には到底かないません」
「アンタを倒してもな……ちょいと気乗りせんのや」
「わかりました。貴方が私の膝を地につけられたら、彼を呼びましょう。いかがです?」
 温厚な男による好戦的な条件がつらつらと流れる。習一は普段の彼との大きな隔たりを感じた。しかしよく考えると、決闘になれば光葉は嫌でも習一を放さねばならない。シドは戦いを引き受けることで習一を逃がそうとしているのだ。彼の根底にある行動理念は変わらなかった。
 光葉はこの要請に快諾し、目の前の公園に入る。そこに習一が急所を蹴った男の姿はなかった。園内の広場で戦うかと思いきや、光葉は広場を通り越す。
「おい、どこ行く気だよ」
「ニーチャンをどこも行かれへんようにしとくだけや」
 光葉は広場の端にある高さの違う鉄棒をぽんぽんと触った。内ポケットからじゃらりと音のする金属を出す。外灯の光を反射するそれは警察が所有する手錠に酷似していた。
「カギはもっとるさかい、安心して捕まっとってくれや」
 二つの輪っかのうち片方を習一の手首にはめ、もう片方は鉄棒に繋ぐ。習一は完全に繋がれた犬状態になった。シドは腕組みをしながら光葉の所行を見ている。
「疑り深いのですね。私は人質がいなくとも試合をしますよ」
「まぁまぁ、気ぃ悪くせんでくれや。証人はおって困らんやろ?」
「どちらが勝った、という証言者が欲しいのですか」
「そういうこっちゃ。ほんじゃ、準備はええか」
「その前に一つ、お尋ねします。銀髪の男を倒す理由はなんですか」
 光葉は白のジャケットを脱ぎ捨てた。首の骨をこきっと鳴らす。
「ワシはこれでも末っ子でなぁ、アンタの年下なんやわ。若いとなっかなか周りに認めてもらえん。せやけど無敗のバケモンを倒したあかつきにゃ、ワシの箔がつくってもんよ」
「つまり、名声が目当てですか」
「そうや。男らしい理由やろ?」
 それはプライドや外聞の概念に疎い者には理解しがたい動機だ。シドがうつむく。
「……くだらない」
 非難を凝縮したつぶやきが開戦の合図になった。

6
 光葉が先に仕掛けた。単純だが破壊力のある右ストレート。その拳にはこの場に立つ意義を貶された憤激がこもる。怒りのあまり大振りになった動作は見切られ、シドが半身をずらす。光葉の太い腕は黒シャツの胸元をかすめた。光葉は外れた拳を自身の胸へ抱きこむように薙ぐ。これもシドが光葉の背後へ移動してかわす。全力で振りかぶる光葉に対し、シドはその場を動くだけに留まる。彼は最小限の自衛に専念してばかりで攻勢に出ない。
「挑発しといて、ビビっとるんか!」
 光葉はかかと落としを繰り出す。ぶん、と大きく空を切った蹴りはシドの肩を狙う。その足首をシドの手が受け止めた。光葉の足を発泡スチロールのように軽々と持つ。
「なんやと……?」
 シドは光葉の太い足をポイっと捨てた。光葉は多少よろめきつつ体勢を整える。
「わかりませんか。私と貴方との力の差はかけ離れていることを」
 光葉は力量を低く評価されたことへの報復を起こさない。闘争心にかげりが見え始めた。
「元気に帰れるうちに引いてください。貴方が実力を高めた上での再戦は受け付けます」
「……アンタは優しいな。やけど、その優しさが他人を傷つけるっちゅうのは覚えとき」
 挑戦者は無謀なタックルを試みる。シドが寸前で回避しようとしたところ、彼のサングラスが宙を舞った。光葉の手足は触れていない。だがシドは顔面に攻撃を食らった。
「剣道三倍段、てな。リーチの長いもんが有利や!」
 光葉は黒い警棒を振り上げた。伸縮する携帯武器を隠し持っていたのだ。予想外の打撃を受けたシドは顔をそむけたまま、迫りくる敵に注意を払わない。
「もらったぁ!」
 勝利を確信した激声が響き渡った。警棒は戦意を見せない男の頭めがけて振り下ろされる。無防備な銀髪が揺れるのを最後に、習一は思わず目をつむる。だが打擲する音は発生しなかった。かわりに誰かの苦しげな声が聞こえる。習一は慎重にまぶたを開けた。
 二人の男が向かい合う姿があり、どちらが優勢か判断がつかない。光葉が警棒を落とし、空いた手を自身の首元へ運ぶ。彼は己の首を掴む手をはがそうと必死にもがいた。光葉を締め上げる手は一つ。しかし光葉の両手はその握力に負け、拘束を解けない。
「『考えなしに打ち合うな。己の弱点を相手に教えることになる』」
 感情をともなわない、朗読のような語りが始まった。
「『決して驕るな。子どもが振るう短剣とて己が命を落とす凶器になりうる』……」
 この朗読の一文に、習一はなぜか寒気を感じた。
「私の武術の師匠が述べた戒めです。貴方の師匠は教えてくれなかったようですね」
 言ってシドは光葉を解放した。光葉は膝を屈し、喉に手を当てて咳こむ。
「手錠の鍵をください」
 シドが差しのべた手を光葉は憎たらしいもののように払いのける。
「……渡せるか! ワシはまだやれる」
「強情ですね。どうしたら納得してもらえるのですか」
「もちろん、アンタの仲間に会わんと帰れん!」
「──わかりました。一目だけでもお見せしましょう」
 シドは習一を見た。習一は自分の後ろになにかあると思った。彼の視線の先を見ると木の幹から一人の男があらわれる。光葉に匹敵する大男だ。彼はつばの広い帽子を被る。男の全容がはっきりするや否や、習一の肌が粟立つ。手錠がガチャガチャと鳴って習一の逃走を阻んだ。
(こいつは……!)
 習一は理屈抜きにその男が危険だと感じた。泣きたいほどの恐れが全身に押し寄せる。その原因は理論では推し量れない。ひたすらに本能がこの男への強い拒否反応を示した。
 習一とは正反対に光葉が歓喜した。意気揚々と立ち上がり、帽子の男に一歩近寄る。
「アンタか……! ちっとばかし頭を見せてくれんか?」
 男は帽子の天井を手のひらで覆い、無言でどけた。その頭髪はシドと同じ輝きがある。照明の不十分な野外といえど、シドという標本と比較すると銀色に違いないと思えた。
「ホンマもん、みたいやな。よーし、アンタと勝負や!」
 意気込む光葉に対し、シドは頭をふって拒否する。
「ダメです。事前の約束と違うでしょう」
「ええやん。カタいこと言うなや〜」
 光葉は合掌してシドを拝みたおす。たった一人が信仰する神仏は深いため息をついた。シドは帽子を被りなおす男に「手加減なしで」と忠告し、後方へ下がる。光葉のねばり勝ちだ。使い捨ての崇拝者の皮を脱いだ男は嬉々として構えた。
「今度こそ、勝──」
 言い終わらぬうちに男の掌底が光葉のみぞおちに入る。光葉は相手の戦法がシドと同じ、最初は防戦に徹するものだと高をくくっていたのだろう。まるきり警戒していなかった腹に攻撃を受け、やすやすと吹っ飛んでしまった。地面に倒れた光葉は腹をおさえる。
「っく〜! ヒトが喋っとる間に手ぇ出すんは卑怯やぞ!」
「徒手試合の途中から武器を使う行為は卑怯ではないのですか」
 シドはすたすたと光葉に接近し、その顎をがしっとつかんだ。
「な、なにする気や?」
「これ以上は時間の無駄です。貴方には眠ってもらいます」
 光葉はシドの手を離そうとして暴れる。その抵抗は数秒減るごとに目に見えて衰え、動かなくなった。シドは光葉を地べたに放置し、帽子の男に歩み寄る。
「お疲れさまです。もう変化を解いていいですよ、エリー」
「うん」
 屈強な大男の口から少女の細い返事が発せられた。直後に男の姿が絵の具でぼかしたかのように潤み、人の体を失くす。全体的に丸みを帯びた、黒い、人間ができそこなった怪物が出現する。首のない頭部には大きな緑色の双眸があった。
「ほんとうに、そいつが……エリー?」
 共通点は目の色と声の二点のみ。それ以外は見る影もない。黒の怪物がずるずると棒状の足をひきずり、習一のもとに来た。習一は恐怖で固まってしまう。見た目は異形であろうと二たび習一を光葉の手から救おうとした相手だ。自分を襲うはずがない──そう頭で理解はできても、体は猛烈に生命の危機を感知した。
 異形の腕が習一の拘束されていない手を包む。ひんやりしたクッションのように柔らかな感触があった。その冷たさが習一の臆病風を強める。習一は助けを求めてシドを捜す。しかし教師の姿はない。ただ一人、習一に視線を射る男がいた。光葉を吹き飛ばした帽子の男。だがそれは黒の怪物と化したエリーが形作る偽の姿だった。ではあれは誰なのか。
(まさか、あいつが本物の……?)
 習一は誰のどの姿が本物なのかわからず、混乱した。唯一の真実は、習一に良くしてくれた者たちの姿がどこにもないということだ。習一はひとまず人の原型を保つ男に助けを請おうと考えた。男の顔を凝視すると、その瞳が冷たい青色だと気付く。
『悔いても遅い。お前には助かる機会を与えた。むげにしたのはお前自身』
 男は口を堅く閉ざしているが、習一にはそんな言葉が聞こえた。それらは過去に、この男に言われたのだ。今と同じ、黒の化物に束縛された状態で。
 習一の視野に黒い異形の頭が入りこむ。緑の目の下に丸い空洞を一つつくり、習一の眼前を覆い尽くす。喰われる──その空洞は人の骨と肉を食いちぎる口だと、習一は身をもって知っていた。
「うわああああ!」
『ああぁぁぁ……』
 ──現実の絶叫と記憶の中の断末魔が共鳴した。

タグ:習一
posted by 三利実巳 at 00:00 | Comment(0) | 習一篇草稿
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