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2018年12月18日
習一篇草稿−終章下
7
習一は自宅の玄関前に立った。押し慣れない呼鈴を鳴らす。これは家人が起床しているか確認する行為だ。現在は早朝。暑さがひどくならないうちに用事を済ませたい、と習一が考えたうえでの訪問ゆえに、一般的に人が起きている時間帯とは言いがたかった。
家屋の静けさが習一の焦りをまねく。その一方で、心を掻き乱されうることに立ち向かわなくてもよいという一時的な安楽さも生じた。
(いや……ここで逃げたら、だれもスッキリできやしないんだ)
習一も、父母も、現状に甘んじていたいとは思わないはず。両者が今後どう過ごしていくか、ここで決めねばならない。その決定は、自身の背後にひかえる外国人風の男ものぞんでいることだ。
習一はズボンのポケットの中にある鍵を握った。自宅の鍵だ。これを使えば自由に家へ入れる。だが独断で入るのはまずいと思った。習一ひとりならともかく、小田切家には無関係な男性も付き添っている。彼を家に入れるのも玄関付近で待機させるのも、家族の許可が必要だ。
屋内から足音が聞こえはじめた。その音が目の前にまで近づいたとき、一度音が止んだ。習一は思わず息を殺した。出てくる人物次第では、玄関先で悶着を起こしかねない。そんな緊張が走った。
玄関の戸が開く。戸を開けたのは習一の母だった。初手は無害な人物が現れたので、ひとまず習一の気持ちは落ち着いた。
母はすでに普段着に着がえていた。彼女は行方知れずだった息子を見て、言葉をうしなった。母は子の突然の訪問に驚くばかり。数日ぶりの息子の帰宅に対して怒ったり悲しんだりといった感情は見せない。習一は母が子の家出をとがめる気はないのだと察する。同時に、ただ母に見つめられる状況を気恥ずかしく思った。
母はひとしきり子を見つめたあと、子の後ろにだれかがいることに気付いた。母の目線は習一の身長を超えた先に向かう。
「いままで……息子は、どこにいたんですか?」
「私の下宿先で宿泊していました。食事と睡眠には不自由させておりません」
母は子の顔に視線をもどした。無理につくった笑顔を浮かべる。
「そう、ですか……とても、健康的に暮らせているんですね」
習一は母の素直な感想に納得した。数か月前の自分は、食うや食わずやの不規則な生活の結果、痩せぎみでいた。さらに、二週間前までは昏睡により一ヶ月の絶食を余儀なくされ、殊更やつれた。それが現在、この男性教師と過ごすうちに生気を取りもどしたのだ。親がすべき子の養生を、他人がこなした事実が顕在化している。
母の笑みがどんどん薄れる。しまいに母はうつむいてしまった。きっと親の不手際を他人が補ったことに罪悪感をおぼえているのだ。自分は不出来な親だと、そう自責の念に駆られているのかもしれない。習一がそのように推察したとき、はたと気付いた。母がよく見せる負の感情は、子に向かっていない可能性を。
「……かあさん、気にすんな」
母は目を丸くした。息子の口からなぐさめの言葉が出るとは夢にも思っていなかったのだろう。習一は握りこぶしをあげ、立てた親指を後方へ指す。
「この野郎が根っからのお節介焼きなだけだ」
その言葉は母に責任はないという主張のつもりだった。赤の他人が勝手に習一の世話を請け負ってきたのだと。好事家が好きでやった行為であるから、親としての責任を感じる必要はないのだ。
習一がシドのことを話題にしたせいか、シドはずいと習一の前に出る。
「今日は折りいって、オダギリさんのご両親とお話ししたいことがあります」
彼はさっそく本題を持ちかけている。習一は一瞬、シドがせっかちなように思ってしまった。しかし話を切り替えるにはベストなタイミングだとも感じた。
「中へあがらせていただいて、よろしいでしょうか」
慇懃な申し出だ。この丁寧な言動自体は他者の気分をそこねるデキではないはずだが、母の表情がくもった。母はこれから起きるであろう言い争いに不安を感じたのだろうか。沈痛な面持ちで承諾した。
習一は四日ぶりに小田切宅に足を踏みいれた。先導する母が居間に入る。そこには脚の長い食卓で新聞を読む父がいた。彼は寝間着姿であり、新聞紙を広げたまま習一たちとは顔を合わせない。玄関先での会話を聞いていたのかわからないが、この態度からうかがうに、訪問してきた者が習一だとは知っているようだ。そうでなくては客に不遜な居住まいを見せない。
父が座っている椅子の真向いに、この家の者でない男が座る。習一はその隣りに腰を落ち着けた。母は席に着かず、台所で茶器を鳴らしている。茶の準備ができてから話すべきかどうか、習一はまよった。これから繰り広げる話題は母にも伝えねばならぬこと。それゆえ、母が同席した状態で会話したほうがよいとは思った。しかし無言のまま、敵対している人物と同じ卓をかこむ状況は居心地がよくない。こんな状態は早く終わらせたいとも思う。
新聞紙の奥から「なんの用だ」と低く重い声が届いた。父は母を待つ気はない。彼がそう出るなら習一も話を切り出すのに抵抗はなかった。
「じつは──」
習一の同伴者が返答しようとした。それを習一が手で制する。
「オレはこの家を出ていくことに決めた。学校も別のところにする。それを言いにきた」
新聞紙が前後に揺らぐ。中年が顔出ししないまま「金はどうする気だ」と尋ねた。やはり一番に興味があることは金か、と習一はげんなりするものの、実際それがもっとも切実な問題だ。
「自分で稼いで、足りねえ分はこのシドっていう教師が立て替える。あんたの金はあてにしてない」
「放蕩息子がでかい口を叩くな」
習一は中年が吐いた単語に引っ掛かる。その語句はこの中年の口から出るには不愉快だ。
「その『息子』って言うのをやめにしねえか?」
新聞紙がぱんっと机に叩き下ろされた。父の顔がようやく見える。不快げに眉間にしわを寄せた中年の顔だった。習一の予想できた反応ゆえに、習一は平然と話をつづける。
「あんたはオレをカミジョウという男の子どもだと思ってんだろ?」
「……それがなんだ。戸籍上は親子だろう」
中年は顔色を変えずに言った。肯定も否定もはっきりしない返事は習一の期待外れだったが、そこはいま重要ではない。
「じゃあ親子の縁を切ってくれ。そうしたらおたがい、せいせいする」
中年はふん、と鼻をならした。
「お前は学校の勉強はできても法律は不勉強だな。親子関係はそうそう切れないものだ。特別養子縁組をすれば実親との関係は抹消できるが、お前の年齢ではもうできん」
「法律なんざどうでもいい。気持ちの問題だ」
中年は習一に勝る知識を無下に扱われ、さらに顔をしかめた。彼のそういう頭でっかちな性格を、習一は好きになれなかった。だからこそ、決別する。
「オレはあんたを父親だと思わねえし、あんたもこれまで通り、オレを息子だと思わないでいいってことだ。心にもない『息子』呼びはやめろ」
習一は刺々しくも理性的に答えた。自分でもおどろくほど気持ちが落ち着いている。もっと激しい言い合いになるかと思っていたが、案外スムーズに決着がつきそうだと思った。
習一側が会話の主導権をにぎる中、母が湯飲みを載せた盆を持ってくる。湯気の立つ茶が三つ、食卓に並んだ。この場で唯一の客分は丁寧に「いただきます」と母に会釈する。彼はこの非常時においても平時と変わらない対応を通すつもりだ。中年が劣勢でいるときに、シドの態度は慇懃無礼もいいところである。案の定、中年がシドを槍玉にあげる。
「貴様は悠長に茶をすすりに来たのか?」
「いいえ」
シドがこともなげに否定する。しかし茶を放置するわけではなく、両手で湯飲みの底と側面を持つ。
「ですが出された飲食物は粗末にしない主義ですので、お茶を頂戴します」
シドはくいっと湯飲みをかたむけ、茶を飲んだ。この状況でその我が道を行く対応は、人を食っているという印象を周囲に与えかねない。やはりと言うべきか、中年は怒り心頭に至ったかのように口を歪ませる。だがシドに不快な態度を改めさせようとしても、彼の行為そのものは礼を失する行動には当てはまらない。どう注意すればよいか中年はわからなかったのだろう。行き場のない不満は母に向かった。
「こんなやつを客扱いするんじゃない!」
シドの身代わりとして母が怒号を浴びる。母は盆を盾のように胸の前に持ったまま、体をすくめた。完全な八つ当たりである。その原因をつくったシドが物申そうとするより早く、習一が抗議する。
「おいおい、責めるなら空気を読まないこいつにやれ」
「なにを……!」
「言い返してこない相手にだけ強気に出るなっての。いい歳こいた大人がやることじゃねえぞ」
習一のたしなめを受けた中年は閉口した。叱責におびえていた母は習一を不思議そうにまんじりと見る。息子があまりに冷静かつ母に同情的なのを信じられないでいるようだった。
習一は茶を半分飲み、一呼吸ついた。中年は習一に反論も咎めも言いにこない。彼は習一の言い分に了承しているのか、習一は確認する。
「で、オレが家を出るのと学校を替えるの、異存はないんだな?」
「勝手にしろ。あとで泣きついても知らんぞ」
「それは無い。この教師はあんたよかよっぽど父親してるから」
中年は銀髪の教師をねめつけた。にらまれた相手はかるく頭を下げる。
「僭越ながら、彼の高校生活の後押しを努めさせてもらいます」
「若造にそんな余力があるのか?」
「経済面はこのお宅に劣るでしょうけど、不足のない援助ができる見込みです」
「せいぜい、共倒れにならないよう気をつけるんだな」
憎たらしい言い方だ。しかしある意味では習一たちの決定を認める返答でもある。その良いほうの意味で受け取ったらしいシドが深々と頭を下げる。
「貴重なご意見、この胸に刻んでおきます」
「まったく! 皮肉屋同士、仲が良いことだ!」
中年が乱暴に卓上を叩き、廊下へ引っこんだ。食卓には手つかずの茶がひとつのこる。それをシドが手元に寄せる。
「慇懃無礼が過ぎましたかね」
「なんだ、あいつの気持ちがよくわかってんじゃねえか」
習一はこの男が偏屈な人間の心情を解さぬまま、挑発に準じた行動をとったのかと思っていた。シドは苦笑いする。
「何度も怒らせましたからね」
彼はねらってあのような態度に徹したのではなさそうだ。およそペットが飼い主の叱りを受け、いまの行動は良くないことだと学習するのと同じ理屈なのかもしれない。
「礼を尽くすことが逆に失礼になるとは、どう動いてよいものやら判断に困ります」
「べつにいいんだよ。あいつの中身がガキなだけだ」
あのような矮小な人間に配慮する義理はない、と習一は断ずる。
「自分を敬わない人間がいると不機嫌になる……自分が一番じゃなきゃイヤだっつうわがまま野郎」
「私の同胞にもいますね。……なるほど、貴方はああいう敵意と接しながら、過ごしていたのですか」
習一はシドの共感を得たことにおどろく。習一が知りうるシドとその仲間であるエリーは、プライドの高さを感じさせない性格だ。それゆえ、彼の種族全体が驕慢とは縁遠い生き物だと習一は推量していた。それがシドの口から否定された。おまけに彼が「敵意」と的確に表現したのを鑑みるに、シドもまた、驕りたかぶる身内から攻撃された経験があるのだとうかがい知れる。その口ぶりは習一に親近感をおぼえさせた。
8
ひとり、だまっていた母が「あの」と心細げに会話に入る。
「ほんとうに、習一は一人立ちするんですか?」
母の視線と言葉遣いはシドに向けられたもの。そうと知れた習一は二人の会話を見守った。
「はい。私が勤務する高校には学生向けのアパートがあります。家具家電一式がそろっていますから、あとはご自分で足りないものを補充していけばよろしいかと」
「ご飯はどうするんです?」
「自炊するなり惣菜を買うなりは息子さんの判断に任せます。ご心配でしたら、私の知り合いに食事を用意できる者がいますので、その人たちにお願いしましょう」
「生活費は……」
母は憂鬱顔で質問を重ねた。その姿に習一はやきもきする。
「なぁ、この教師と親父のどっちがオレを大事にしてると思うんだ?」
「それは、先生のほうだけど……」
「じゃあ信用してくれよ。こいつが大丈夫だっつってんだから」
習一は不恰好な笑みを作った。母を不安にさせまいとする一心での表情だ。だのに母は大粒の涙を流す。
「ごめんなさい……」
母が顔を手で覆い、泣き崩れる。習一は自分の対応に汚点があったのかと焦った。笑顔に縁のない暮らしを長くつづけたせいで、怒気のこもった顔を見せてしまったのだろうか、と。
「私が弱いから、あなたをこんな目に……」
母は習一の態度で傷ついたのではなかった。むしろ習一が軟化した影響で、いままで堰き止めていた感情があふれ出たらしい。つまり、これが隠し立てのない母の本音だ。
習一が今日母に会ったときに感じた疑念は、これで確定した。いままで母が習一に向けてきた負の感情は自責の表れだったのだと。それを習一は母からの憎悪だと誤解してきた。このことが明らかになったいま、習一はずいぶん救われる思いがした。自分は完全に母に疎まれていたわけではない。母の愛情はたしかに子にそそがれていた──その想いに応えてあげたいのに、習一はできなかった。眼前の光景にどう対処していいかわからなくなる。ちいさく嗚咽を漏らす母に、息子である自分が、なにかしなくてはいけない。心ではそう感じていても、頭は単純な行動さえ思いつけない。
呆然とする習一に代わり、銀髪の教師がうごいた。彼は母のそばで膝を屈する。
「これが今生の別れではありません。息子さんの生活が軌道に乗ったときに、またお二人は会えるはずです」
母は声にならない声をともなって何度もうなずいた。習一はシドの対応が最適解だと思った。習一も母も、いまは動揺している。優先すべきは双方の気持ちの整理。この場は相互理解を深めるには適さないのだ。
習一はシドのフォローに異を唱えず、テーブルにのこる茶を飲みほす。
「……それか、あいつがいねえときにまたくる。オレの荷物もあるしな」
習一は母の反応を確認せず、部屋を出た。用件は済んだ。あの場に長居しても得なことは起きない。万一、妹が早起きしてくれば話がややこしくなりそうだと習一は考えた。
別れのあいさつなしで、習一は日が照る外へ出た。習一に遅れてシドも外へ現れる。彼が習一の突飛な行動に付き添うのは想定内だ。習一が家出を決行したときもそうだったのだから。
小田切家の敷地内を出たところ、「一つ、たずねてもよろしいですか」と声がかかる。習一は後ろに顔を向けたきり、良いとも悪いとも言わなかった。めんどくさそうだな、と思ったが、シドの質問に答える義理はあると感じていた。
「私が『父親をしてる』という評価は、本心で言ったことですか?」
習一は今朝がた母と対面したときと同程度の恥ずかしさがこみあげた。すぐに顔を前方へもどし、歩を進めた。正面を向く顔に、日光がじりじりと焼きつく。その日光とは別の熱が顔にのぼるのを自覚しつつ、質問しかえす。
「……そんなの聞いて、どうする?」
「どう、ということもないのですが、興味深いと思いました」
「まだ親をやる歳でもねえのに、ってか?」
「そうは思いません」
「そうか? まだ三十くらいだろ」
「いえ、私の活動年数はその倍以上です」
習一はぎょっとした。たしかに老成した男だとは思っていたが、中高年に相当するとは。
「ずいぶん長生き、だな」
「おそらくは、寿命自体がないのかもしれません。そういった生き物は私たち以外の種族にもいます」
「そうか……ま、アンタの世界じゃ長生きが普通だって言うなら、そういうもんだと思っておく」
シドが人外だという認識はすでに習一の中で確立している。いまさら人間との差異をとやかく言う気はなかった。生物として違いすぎるからといって、それが取り立てて声をあげるべき短所だとは思えなかった。
シドの寿命の話題がおわると、習一はすっきりした気分でシドの居住地を目指した。背後から「私の質問はどうなりました?」と話しかけられる。習一はなんのことだったか一瞬思い出せず、すぐに返答できなかった。
「言いにくいことでしたか?」
「あ……父親がどうこう、だったか」
習一はその話題について、答えたくないと思った。だが決して、その感情に向き合うことが苦行なのではない。胸をえぐられるような苦しみとは真っ向から対立している。ただ、この男にありのままの心情を吐露するのは「負け」になるような気がした──彼以外に本心を語れる相手もいないと思っていながら、これだけは言いたくない、認めたくないという気持ちが、習一にはまだのこっている。その抵抗を感じる原因は、純粋に習一の性格にある。
「なんだっていいだろ」
「わかりました。ではほかの方にたずねてみます」
「え?」
「貴方の心情を察しうる人に聞いて、それで私は疑問を解消しておきます」
シドは遠回しに、習一に答えなくてもよいと言っている。それは彼の気遣いなのだろうが、かえって習一をはずかしめる危険を、彼はまったく察知できていない。
「おい、だれに言いふらす気だ?」
「いけませんか?」
「ああ、やめろ。あんなの、あいつのダメ親さを当てこすりたいだけの出まかせだ。まともに考察したってムダだぞ」
習一は未熟な保身の連続に対して居心地のわるさを感じた。話題を変えようと周囲をさぐる。すると灰色の動物が民家の塀を渡っていた。顔と体の大きい、どこかふてぶてしさのある猫だ。習一の視線に気づいたシドが「おや、猫ですね」と関心をそそぐ。動物好きな彼には格好のネタだ。習一はこれを話題逸らしの好機として活用をこころみた。
9
「顔デカいな、こいつ」
「オスでしょうか」
「猫も顔にオスメスの差があるのか?」
「個体差はありますが、その傾向はあるそうです」
習一の思惑通りにシドが話に乗ってきた。たやすく目的を果たした習一は安堵し、通りすがりの獣から視線を外した。あとは適当な話をしておけばこの場をしのげると思ったのだ。だが動物好きの男は猫を凝視する。
「遺伝子的には……オヤマダさんが拾った子猫たちの父親にあたるかもしれませんね」
「え、こいつが?」
どの子猫とも毛皮は似ていないが、と習一が思った矢先にグレーの猫は消えた。民家の庭に降りていったようだ。気ままに放浪するさまは野良猫の常だが、習一はグレーの猫を憎たらしく感じた。子猫の母親が血で汚れていたのを思い出したせいだ。
「母猫が大変な思いしてたってのに、オスは気楽な一人旅か」
「そういう生き物です。猫はオスが育児に介入しなくてもよいようにできていますからね」
「そこが人間とはちがう、か」
習一は人間の倫理観を獣に押しつける行為を無駄だと思い、憤慨を引っ込めた。それと同時にある男性を髣髴する。自身の父疑惑のある男。もし彼が学生時代に得た就職先のまま勤続しているのなら、現在も海外での仕事をしているはず。
「……カミジョウも、あんな感じでふらついてんのかな」
「調べてみましょうか?」
思ってもみない有益な提案だ。習一は食い気味に「どうやるんだ?」とたずねた。
「シズカさんにその方の居場所を探ってもらいます」
「警官の捜査で? それとも白いカラスなんかを使ってか?」
「カラスのほうですね。近隣に住むカミジョウさんを一通り調べるくらいのことはできるかと」
「近場、か……」
「はい、それより広い範囲の調査はむずかしいと思います。できないことはないでしょうが、あまりに時間と労力を費やす依頼になってしまう」
「それならやめとく。どうせ海外を飛びまわってる人だから、会えっこない」
居所がわかったところで、習一の力ではなにもできない。海外旅行をする資金は持ち合わせていないのだ。いまは無理だが、いずれお金を貯めて、露木に捜索の依頼をしたら、本当の父に会えるのかもしれない。シドがもたらした情報は習一にかすかな希望を持たせた。
会話が途切れ、二人は黙々と帰路をたどった。不意に周辺がほの暗くなる。分厚い入道雲が太陽を覆い、鈍色の影を習一たちに落としていた。そのおかげで日差しが遮られる。
「ちょうどいい日除けだな。ま、あんたにゃあってもなくても同じだろうけど」
「必要なら日傘を買いましょうか?」
「んな女みたいなことはやらねえって」
「快適さを求めることに男女の性差は関係しないように思いますが」
「周りがどう思うかを言ってるんだ。そもそも持ち歩くのがめんどうだし」
「では帽子はどうでしょう。鍔の広いものは頭の周辺に日陰をつくれますし、通気性のよいものは被っていても熱がこもらないそうですよ──」
たわいない会話が展開する。習一は雑談をたのしむつもりはさらさらないのだが、無理やり話を打ち切りはしなかった。この会話はシドが習一をおもんばかっていることの表れだ。習一が暑さにうだっていようとなかろうと彼には関係がないのに、自分のことのようにあれこれ対策を考える。まるで子の体調を気遣う親のようだ。これがきっと、習一に欠けていたものだ。母からは受け取れていたが、その対に相当するものはいまになってようやく、他人から享受している。その他人が異種族であることはなにかの皮肉のようにも思えるが、習一は気に留めなかった。たとえシドが化け物であろうと、その心根が情け深い事実は変えようがない。
太陽の下にあった雲が風で流れていき、また直射日光が地を照らす。肌を焼く暑さが再来してきた。習一が帰路を急ごうとすると、後方にいた保護者が並行する。
「私が貴方を抱えていけば、すぐにアパートに着きますよ」
習一は昨夜に体験したことを思い出す。実体を無くした状態のシドは家屋を軽々と跳びこしていた。そのとき彼に抱えられていた習一も、常人には見えない特殊な状態にあったという。
「昨日の夜にやったやつか?」
「はい。私たちが消え去る瞬間を他人に見られない状況なら、できます」
「アパートに到着したときにだれかいたら?」
「部屋のベランダで降りるので、平気かと」
「昨日は暗かったからそこでもよかっただろうさ。明るいいまだと、だれかに気付かれるんじゃないか?」
「でしたら部屋で実体化しましょう。普通の家屋はすり抜けられます」
「なんで昨日はそうしなかった?」
「土足で床を汚したくありません」
綺麗好きな者らしい忌避理由だ。習一はなかばあきれながらも、
「だったら玄関で降りてくれ」
と言うと、シドの提案を飲んだことが言外に伝わる。シドがその場にしゃがんだ。習一はまわりにだれも自分たちに注目する者がいないのを確認したのち、彼の背におぶさった。
習一は自身の右腕をシドの胸元にまわし、自分の右手首を左手でつかむ。簡単に落ちない姿勢になった直後、シドは移動をはじめた。
習一の腕は大部分が露出しており、シドの灰がかった黒シャツをじかに接触した。彼のシャツは太陽光による熱を吸収している。習一が触れた直後は暑さが倍加したような熱気を感じたが、習一はその熱を嫌悪しなかった。
(ちょっと、たのしい)
自分の体をうごかさなくとも景色が移り変わる、という体験は、慣れぬうちは新鮮なものだ。おまけにこの状態のシドは常人が通らない、道なき道を行く。平生歩かない塀の上などを跳びまわるので、同行者である習一も、身軽な猫や猿に変じた気分になれる。これがなかなかおもしろかった。しかしその無邪気な本音は他人に明かせない。
習一は奇異な移動をたのしむ以外に、べつの意義も感じ取っていた。そちらも他言できない感情である。その情は先の実家での話中に発露したので、隠しとおせてはいないのだが。
(そこに食いつかれるとは思わなかったな)
それは習一がはぐらかしてしまった話題だ。シドは「興味深い」と言って習一の真意をたしかめようとしたが、習一が羞恥するあまり、彼の好奇は満たされなかった。習一が気にするのと同様、シドもまた琴線に触れる言葉だったのだろうか。それをたしかめるには習一が恥を忍ばねばならず、そのような問いかけは容易にできない。
(聞くときは……学校がはじまってからがいいな)
二人が四六時中ともに過ごす現状、気まずいことが起きると尾を引きずりやすい。両者が日常生活に忙しくする時期がねらい目だと思い、この場は沈黙に徹した。
太陽は燦々と地上を照りつけている。人外と化した状態の習一たちはその日射を無効化していた。そのことに習一が気付いたのは、シドの部屋の玄関が見えたころだった。習一がシドに担がれる目的とは、暑い外にいる時間を短縮するためにあった。いそいで帰らなくともよかったという発見と、疑似親に甘えうる時間の短さを惜しむ気持ちがこみ上げる。だが眼前の鉄扉にぶつかる恐怖がそれらの意識を上回った。習一は目をつむる。数秒が経ってもなんの衝撃も異音も起きなかった。ただシドの「着きましたよ」の一言が聞こえる。習一がおそるおそる視界を開けると、アパートの玄関内にいた。
「さ、降りてもらいますよ」
うながしにしたがい、習一はせまい玄関に降り立った。家主が一足先に靴をぬぎ、廊下に立つ。
「今日は部屋でのんびりすごす予定でしたね。どうかゆっくり休んでください」
シドは笑顔で習一に休息をすすめた。そのやさしさに呑まれそうになるのを、習一はこらえる。
「いや、休むのはあとだ。転校とか、住む部屋とか、バイトとか、いま決められることはあるんじゃないのか?」
「貴方はせっかちですね」
シドは顔色を変えずに言う。
「今日は日曜日ですよ。どこもそういった申請を受け付けていません」
「じゃあ明日になったらやるのか?」
「はい、私がすべて付き合います。ですから、いまは休んでおいてください。明日からまた忙しくなりますよ」
いまの習一ができることは休養をとること。その主張を完全に支持するほど習一はお人好しではない。だが習一の今後の生活を取り決める保護者がそう言う以上、習一にできることは思いつかない。この場はシドを尊重して、習一は彼の部屋へ進み入った。
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習一は自宅の玄関前に立った。押し慣れない呼鈴を鳴らす。これは家人が起床しているか確認する行為だ。現在は早朝。暑さがひどくならないうちに用事を済ませたい、と習一が考えたうえでの訪問ゆえに、一般的に人が起きている時間帯とは言いがたかった。
家屋の静けさが習一の焦りをまねく。その一方で、心を掻き乱されうることに立ち向かわなくてもよいという一時的な安楽さも生じた。
(いや……ここで逃げたら、だれもスッキリできやしないんだ)
習一も、父母も、現状に甘んじていたいとは思わないはず。両者が今後どう過ごしていくか、ここで決めねばならない。その決定は、自身の背後にひかえる外国人風の男ものぞんでいることだ。
習一はズボンのポケットの中にある鍵を握った。自宅の鍵だ。これを使えば自由に家へ入れる。だが独断で入るのはまずいと思った。習一ひとりならともかく、小田切家には無関係な男性も付き添っている。彼を家に入れるのも玄関付近で待機させるのも、家族の許可が必要だ。
屋内から足音が聞こえはじめた。その音が目の前にまで近づいたとき、一度音が止んだ。習一は思わず息を殺した。出てくる人物次第では、玄関先で悶着を起こしかねない。そんな緊張が走った。
玄関の戸が開く。戸を開けたのは習一の母だった。初手は無害な人物が現れたので、ひとまず習一の気持ちは落ち着いた。
母はすでに普段着に着がえていた。彼女は行方知れずだった息子を見て、言葉をうしなった。母は子の突然の訪問に驚くばかり。数日ぶりの息子の帰宅に対して怒ったり悲しんだりといった感情は見せない。習一は母が子の家出をとがめる気はないのだと察する。同時に、ただ母に見つめられる状況を気恥ずかしく思った。
母はひとしきり子を見つめたあと、子の後ろにだれかがいることに気付いた。母の目線は習一の身長を超えた先に向かう。
「いままで……息子は、どこにいたんですか?」
「私の下宿先で宿泊していました。食事と睡眠には不自由させておりません」
母は子の顔に視線をもどした。無理につくった笑顔を浮かべる。
「そう、ですか……とても、健康的に暮らせているんですね」
習一は母の素直な感想に納得した。数か月前の自分は、食うや食わずやの不規則な生活の結果、痩せぎみでいた。さらに、二週間前までは昏睡により一ヶ月の絶食を余儀なくされ、殊更やつれた。それが現在、この男性教師と過ごすうちに生気を取りもどしたのだ。親がすべき子の養生を、他人がこなした事実が顕在化している。
母の笑みがどんどん薄れる。しまいに母はうつむいてしまった。きっと親の不手際を他人が補ったことに罪悪感をおぼえているのだ。自分は不出来な親だと、そう自責の念に駆られているのかもしれない。習一がそのように推察したとき、はたと気付いた。母がよく見せる負の感情は、子に向かっていない可能性を。
「……かあさん、気にすんな」
母は目を丸くした。息子の口からなぐさめの言葉が出るとは夢にも思っていなかったのだろう。習一は握りこぶしをあげ、立てた親指を後方へ指す。
「この野郎が根っからのお節介焼きなだけだ」
その言葉は母に責任はないという主張のつもりだった。赤の他人が勝手に習一の世話を請け負ってきたのだと。好事家が好きでやった行為であるから、親としての責任を感じる必要はないのだ。
習一がシドのことを話題にしたせいか、シドはずいと習一の前に出る。
「今日は折りいって、オダギリさんのご両親とお話ししたいことがあります」
彼はさっそく本題を持ちかけている。習一は一瞬、シドがせっかちなように思ってしまった。しかし話を切り替えるにはベストなタイミングだとも感じた。
「中へあがらせていただいて、よろしいでしょうか」
慇懃な申し出だ。この丁寧な言動自体は他者の気分をそこねるデキではないはずだが、母の表情がくもった。母はこれから起きるであろう言い争いに不安を感じたのだろうか。沈痛な面持ちで承諾した。
習一は四日ぶりに小田切宅に足を踏みいれた。先導する母が居間に入る。そこには脚の長い食卓で新聞を読む父がいた。彼は寝間着姿であり、新聞紙を広げたまま習一たちとは顔を合わせない。玄関先での会話を聞いていたのかわからないが、この態度からうかがうに、訪問してきた者が習一だとは知っているようだ。そうでなくては客に不遜な居住まいを見せない。
父が座っている椅子の真向いに、この家の者でない男が座る。習一はその隣りに腰を落ち着けた。母は席に着かず、台所で茶器を鳴らしている。茶の準備ができてから話すべきかどうか、習一はまよった。これから繰り広げる話題は母にも伝えねばならぬこと。それゆえ、母が同席した状態で会話したほうがよいとは思った。しかし無言のまま、敵対している人物と同じ卓をかこむ状況は居心地がよくない。こんな状態は早く終わらせたいとも思う。
新聞紙の奥から「なんの用だ」と低く重い声が届いた。父は母を待つ気はない。彼がそう出るなら習一も話を切り出すのに抵抗はなかった。
「じつは──」
習一の同伴者が返答しようとした。それを習一が手で制する。
「オレはこの家を出ていくことに決めた。学校も別のところにする。それを言いにきた」
新聞紙が前後に揺らぐ。中年が顔出ししないまま「金はどうする気だ」と尋ねた。やはり一番に興味があることは金か、と習一はげんなりするものの、実際それがもっとも切実な問題だ。
「自分で稼いで、足りねえ分はこのシドっていう教師が立て替える。あんたの金はあてにしてない」
「放蕩息子がでかい口を叩くな」
習一は中年が吐いた単語に引っ掛かる。その語句はこの中年の口から出るには不愉快だ。
「その『息子』って言うのをやめにしねえか?」
新聞紙がぱんっと机に叩き下ろされた。父の顔がようやく見える。不快げに眉間にしわを寄せた中年の顔だった。習一の予想できた反応ゆえに、習一は平然と話をつづける。
「あんたはオレをカミジョウという男の子どもだと思ってんだろ?」
「……それがなんだ。戸籍上は親子だろう」
中年は顔色を変えずに言った。肯定も否定もはっきりしない返事は習一の期待外れだったが、そこはいま重要ではない。
「じゃあ親子の縁を切ってくれ。そうしたらおたがい、せいせいする」
中年はふん、と鼻をならした。
「お前は学校の勉強はできても法律は不勉強だな。親子関係はそうそう切れないものだ。特別養子縁組をすれば実親との関係は抹消できるが、お前の年齢ではもうできん」
「法律なんざどうでもいい。気持ちの問題だ」
中年は習一に勝る知識を無下に扱われ、さらに顔をしかめた。彼のそういう頭でっかちな性格を、習一は好きになれなかった。だからこそ、決別する。
「オレはあんたを父親だと思わねえし、あんたもこれまで通り、オレを息子だと思わないでいいってことだ。心にもない『息子』呼びはやめろ」
習一は刺々しくも理性的に答えた。自分でもおどろくほど気持ちが落ち着いている。もっと激しい言い合いになるかと思っていたが、案外スムーズに決着がつきそうだと思った。
習一側が会話の主導権をにぎる中、母が湯飲みを載せた盆を持ってくる。湯気の立つ茶が三つ、食卓に並んだ。この場で唯一の客分は丁寧に「いただきます」と母に会釈する。彼はこの非常時においても平時と変わらない対応を通すつもりだ。中年が劣勢でいるときに、シドの態度は慇懃無礼もいいところである。案の定、中年がシドを槍玉にあげる。
「貴様は悠長に茶をすすりに来たのか?」
「いいえ」
シドがこともなげに否定する。しかし茶を放置するわけではなく、両手で湯飲みの底と側面を持つ。
「ですが出された飲食物は粗末にしない主義ですので、お茶を頂戴します」
シドはくいっと湯飲みをかたむけ、茶を飲んだ。この状況でその我が道を行く対応は、人を食っているという印象を周囲に与えかねない。やはりと言うべきか、中年は怒り心頭に至ったかのように口を歪ませる。だがシドに不快な態度を改めさせようとしても、彼の行為そのものは礼を失する行動には当てはまらない。どう注意すればよいか中年はわからなかったのだろう。行き場のない不満は母に向かった。
「こんなやつを客扱いするんじゃない!」
シドの身代わりとして母が怒号を浴びる。母は盆を盾のように胸の前に持ったまま、体をすくめた。完全な八つ当たりである。その原因をつくったシドが物申そうとするより早く、習一が抗議する。
「おいおい、責めるなら空気を読まないこいつにやれ」
「なにを……!」
「言い返してこない相手にだけ強気に出るなっての。いい歳こいた大人がやることじゃねえぞ」
習一のたしなめを受けた中年は閉口した。叱責におびえていた母は習一を不思議そうにまんじりと見る。息子があまりに冷静かつ母に同情的なのを信じられないでいるようだった。
習一は茶を半分飲み、一呼吸ついた。中年は習一に反論も咎めも言いにこない。彼は習一の言い分に了承しているのか、習一は確認する。
「で、オレが家を出るのと学校を替えるの、異存はないんだな?」
「勝手にしろ。あとで泣きついても知らんぞ」
「それは無い。この教師はあんたよかよっぽど父親してるから」
中年は銀髪の教師をねめつけた。にらまれた相手はかるく頭を下げる。
「僭越ながら、彼の高校生活の後押しを努めさせてもらいます」
「若造にそんな余力があるのか?」
「経済面はこのお宅に劣るでしょうけど、不足のない援助ができる見込みです」
「せいぜい、共倒れにならないよう気をつけるんだな」
憎たらしい言い方だ。しかしある意味では習一たちの決定を認める返答でもある。その良いほうの意味で受け取ったらしいシドが深々と頭を下げる。
「貴重なご意見、この胸に刻んでおきます」
「まったく! 皮肉屋同士、仲が良いことだ!」
中年が乱暴に卓上を叩き、廊下へ引っこんだ。食卓には手つかずの茶がひとつのこる。それをシドが手元に寄せる。
「慇懃無礼が過ぎましたかね」
「なんだ、あいつの気持ちがよくわかってんじゃねえか」
習一はこの男が偏屈な人間の心情を解さぬまま、挑発に準じた行動をとったのかと思っていた。シドは苦笑いする。
「何度も怒らせましたからね」
彼はねらってあのような態度に徹したのではなさそうだ。およそペットが飼い主の叱りを受け、いまの行動は良くないことだと学習するのと同じ理屈なのかもしれない。
「礼を尽くすことが逆に失礼になるとは、どう動いてよいものやら判断に困ります」
「べつにいいんだよ。あいつの中身がガキなだけだ」
あのような矮小な人間に配慮する義理はない、と習一は断ずる。
「自分を敬わない人間がいると不機嫌になる……自分が一番じゃなきゃイヤだっつうわがまま野郎」
「私の同胞にもいますね。……なるほど、貴方はああいう敵意と接しながら、過ごしていたのですか」
習一はシドの共感を得たことにおどろく。習一が知りうるシドとその仲間であるエリーは、プライドの高さを感じさせない性格だ。それゆえ、彼の種族全体が驕慢とは縁遠い生き物だと習一は推量していた。それがシドの口から否定された。おまけに彼が「敵意」と的確に表現したのを鑑みるに、シドもまた、驕りたかぶる身内から攻撃された経験があるのだとうかがい知れる。その口ぶりは習一に親近感をおぼえさせた。
8
ひとり、だまっていた母が「あの」と心細げに会話に入る。
「ほんとうに、習一は一人立ちするんですか?」
母の視線と言葉遣いはシドに向けられたもの。そうと知れた習一は二人の会話を見守った。
「はい。私が勤務する高校には学生向けのアパートがあります。家具家電一式がそろっていますから、あとはご自分で足りないものを補充していけばよろしいかと」
「ご飯はどうするんです?」
「自炊するなり惣菜を買うなりは息子さんの判断に任せます。ご心配でしたら、私の知り合いに食事を用意できる者がいますので、その人たちにお願いしましょう」
「生活費は……」
母は憂鬱顔で質問を重ねた。その姿に習一はやきもきする。
「なぁ、この教師と親父のどっちがオレを大事にしてると思うんだ?」
「それは、先生のほうだけど……」
「じゃあ信用してくれよ。こいつが大丈夫だっつってんだから」
習一は不恰好な笑みを作った。母を不安にさせまいとする一心での表情だ。だのに母は大粒の涙を流す。
「ごめんなさい……」
母が顔を手で覆い、泣き崩れる。習一は自分の対応に汚点があったのかと焦った。笑顔に縁のない暮らしを長くつづけたせいで、怒気のこもった顔を見せてしまったのだろうか、と。
「私が弱いから、あなたをこんな目に……」
母は習一の態度で傷ついたのではなかった。むしろ習一が軟化した影響で、いままで堰き止めていた感情があふれ出たらしい。つまり、これが隠し立てのない母の本音だ。
習一が今日母に会ったときに感じた疑念は、これで確定した。いままで母が習一に向けてきた負の感情は自責の表れだったのだと。それを習一は母からの憎悪だと誤解してきた。このことが明らかになったいま、習一はずいぶん救われる思いがした。自分は完全に母に疎まれていたわけではない。母の愛情はたしかに子にそそがれていた──その想いに応えてあげたいのに、習一はできなかった。眼前の光景にどう対処していいかわからなくなる。ちいさく嗚咽を漏らす母に、息子である自分が、なにかしなくてはいけない。心ではそう感じていても、頭は単純な行動さえ思いつけない。
呆然とする習一に代わり、銀髪の教師がうごいた。彼は母のそばで膝を屈する。
「これが今生の別れではありません。息子さんの生活が軌道に乗ったときに、またお二人は会えるはずです」
母は声にならない声をともなって何度もうなずいた。習一はシドの対応が最適解だと思った。習一も母も、いまは動揺している。優先すべきは双方の気持ちの整理。この場は相互理解を深めるには適さないのだ。
習一はシドのフォローに異を唱えず、テーブルにのこる茶を飲みほす。
「……それか、あいつがいねえときにまたくる。オレの荷物もあるしな」
習一は母の反応を確認せず、部屋を出た。用件は済んだ。あの場に長居しても得なことは起きない。万一、妹が早起きしてくれば話がややこしくなりそうだと習一は考えた。
別れのあいさつなしで、習一は日が照る外へ出た。習一に遅れてシドも外へ現れる。彼が習一の突飛な行動に付き添うのは想定内だ。習一が家出を決行したときもそうだったのだから。
小田切家の敷地内を出たところ、「一つ、たずねてもよろしいですか」と声がかかる。習一は後ろに顔を向けたきり、良いとも悪いとも言わなかった。めんどくさそうだな、と思ったが、シドの質問に答える義理はあると感じていた。
「私が『父親をしてる』という評価は、本心で言ったことですか?」
習一は今朝がた母と対面したときと同程度の恥ずかしさがこみあげた。すぐに顔を前方へもどし、歩を進めた。正面を向く顔に、日光がじりじりと焼きつく。その日光とは別の熱が顔にのぼるのを自覚しつつ、質問しかえす。
「……そんなの聞いて、どうする?」
「どう、ということもないのですが、興味深いと思いました」
「まだ親をやる歳でもねえのに、ってか?」
「そうは思いません」
「そうか? まだ三十くらいだろ」
「いえ、私の活動年数はその倍以上です」
習一はぎょっとした。たしかに老成した男だとは思っていたが、中高年に相当するとは。
「ずいぶん長生き、だな」
「おそらくは、寿命自体がないのかもしれません。そういった生き物は私たち以外の種族にもいます」
「そうか……ま、アンタの世界じゃ長生きが普通だって言うなら、そういうもんだと思っておく」
シドが人外だという認識はすでに習一の中で確立している。いまさら人間との差異をとやかく言う気はなかった。生物として違いすぎるからといって、それが取り立てて声をあげるべき短所だとは思えなかった。
シドの寿命の話題がおわると、習一はすっきりした気分でシドの居住地を目指した。背後から「私の質問はどうなりました?」と話しかけられる。習一はなんのことだったか一瞬思い出せず、すぐに返答できなかった。
「言いにくいことでしたか?」
「あ……父親がどうこう、だったか」
習一はその話題について、答えたくないと思った。だが決して、その感情に向き合うことが苦行なのではない。胸をえぐられるような苦しみとは真っ向から対立している。ただ、この男にありのままの心情を吐露するのは「負け」になるような気がした──彼以外に本心を語れる相手もいないと思っていながら、これだけは言いたくない、認めたくないという気持ちが、習一にはまだのこっている。その抵抗を感じる原因は、純粋に習一の性格にある。
「なんだっていいだろ」
「わかりました。ではほかの方にたずねてみます」
「え?」
「貴方の心情を察しうる人に聞いて、それで私は疑問を解消しておきます」
シドは遠回しに、習一に答えなくてもよいと言っている。それは彼の気遣いなのだろうが、かえって習一をはずかしめる危険を、彼はまったく察知できていない。
「おい、だれに言いふらす気だ?」
「いけませんか?」
「ああ、やめろ。あんなの、あいつのダメ親さを当てこすりたいだけの出まかせだ。まともに考察したってムダだぞ」
習一は未熟な保身の連続に対して居心地のわるさを感じた。話題を変えようと周囲をさぐる。すると灰色の動物が民家の塀を渡っていた。顔と体の大きい、どこかふてぶてしさのある猫だ。習一の視線に気づいたシドが「おや、猫ですね」と関心をそそぐ。動物好きな彼には格好のネタだ。習一はこれを話題逸らしの好機として活用をこころみた。
9
「顔デカいな、こいつ」
「オスでしょうか」
「猫も顔にオスメスの差があるのか?」
「個体差はありますが、その傾向はあるそうです」
習一の思惑通りにシドが話に乗ってきた。たやすく目的を果たした習一は安堵し、通りすがりの獣から視線を外した。あとは適当な話をしておけばこの場をしのげると思ったのだ。だが動物好きの男は猫を凝視する。
「遺伝子的には……オヤマダさんが拾った子猫たちの父親にあたるかもしれませんね」
「え、こいつが?」
どの子猫とも毛皮は似ていないが、と習一が思った矢先にグレーの猫は消えた。民家の庭に降りていったようだ。気ままに放浪するさまは野良猫の常だが、習一はグレーの猫を憎たらしく感じた。子猫の母親が血で汚れていたのを思い出したせいだ。
「母猫が大変な思いしてたってのに、オスは気楽な一人旅か」
「そういう生き物です。猫はオスが育児に介入しなくてもよいようにできていますからね」
「そこが人間とはちがう、か」
習一は人間の倫理観を獣に押しつける行為を無駄だと思い、憤慨を引っ込めた。それと同時にある男性を髣髴する。自身の父疑惑のある男。もし彼が学生時代に得た就職先のまま勤続しているのなら、現在も海外での仕事をしているはず。
「……カミジョウも、あんな感じでふらついてんのかな」
「調べてみましょうか?」
思ってもみない有益な提案だ。習一は食い気味に「どうやるんだ?」とたずねた。
「シズカさんにその方の居場所を探ってもらいます」
「警官の捜査で? それとも白いカラスなんかを使ってか?」
「カラスのほうですね。近隣に住むカミジョウさんを一通り調べるくらいのことはできるかと」
「近場、か……」
「はい、それより広い範囲の調査はむずかしいと思います。できないことはないでしょうが、あまりに時間と労力を費やす依頼になってしまう」
「それならやめとく。どうせ海外を飛びまわってる人だから、会えっこない」
居所がわかったところで、習一の力ではなにもできない。海外旅行をする資金は持ち合わせていないのだ。いまは無理だが、いずれお金を貯めて、露木に捜索の依頼をしたら、本当の父に会えるのかもしれない。シドがもたらした情報は習一にかすかな希望を持たせた。
会話が途切れ、二人は黙々と帰路をたどった。不意に周辺がほの暗くなる。分厚い入道雲が太陽を覆い、鈍色の影を習一たちに落としていた。そのおかげで日差しが遮られる。
「ちょうどいい日除けだな。ま、あんたにゃあってもなくても同じだろうけど」
「必要なら日傘を買いましょうか?」
「んな女みたいなことはやらねえって」
「快適さを求めることに男女の性差は関係しないように思いますが」
「周りがどう思うかを言ってるんだ。そもそも持ち歩くのがめんどうだし」
「では帽子はどうでしょう。鍔の広いものは頭の周辺に日陰をつくれますし、通気性のよいものは被っていても熱がこもらないそうですよ──」
たわいない会話が展開する。習一は雑談をたのしむつもりはさらさらないのだが、無理やり話を打ち切りはしなかった。この会話はシドが習一をおもんばかっていることの表れだ。習一が暑さにうだっていようとなかろうと彼には関係がないのに、自分のことのようにあれこれ対策を考える。まるで子の体調を気遣う親のようだ。これがきっと、習一に欠けていたものだ。母からは受け取れていたが、その対に相当するものはいまになってようやく、他人から享受している。その他人が異種族であることはなにかの皮肉のようにも思えるが、習一は気に留めなかった。たとえシドが化け物であろうと、その心根が情け深い事実は変えようがない。
太陽の下にあった雲が風で流れていき、また直射日光が地を照らす。肌を焼く暑さが再来してきた。習一が帰路を急ごうとすると、後方にいた保護者が並行する。
「私が貴方を抱えていけば、すぐにアパートに着きますよ」
習一は昨夜に体験したことを思い出す。実体を無くした状態のシドは家屋を軽々と跳びこしていた。そのとき彼に抱えられていた習一も、常人には見えない特殊な状態にあったという。
「昨日の夜にやったやつか?」
「はい。私たちが消え去る瞬間を他人に見られない状況なら、できます」
「アパートに到着したときにだれかいたら?」
「部屋のベランダで降りるので、平気かと」
「昨日は暗かったからそこでもよかっただろうさ。明るいいまだと、だれかに気付かれるんじゃないか?」
「でしたら部屋で実体化しましょう。普通の家屋はすり抜けられます」
「なんで昨日はそうしなかった?」
「土足で床を汚したくありません」
綺麗好きな者らしい忌避理由だ。習一はなかばあきれながらも、
「だったら玄関で降りてくれ」
と言うと、シドの提案を飲んだことが言外に伝わる。シドがその場にしゃがんだ。習一はまわりにだれも自分たちに注目する者がいないのを確認したのち、彼の背におぶさった。
習一は自身の右腕をシドの胸元にまわし、自分の右手首を左手でつかむ。簡単に落ちない姿勢になった直後、シドは移動をはじめた。
習一の腕は大部分が露出しており、シドの灰がかった黒シャツをじかに接触した。彼のシャツは太陽光による熱を吸収している。習一が触れた直後は暑さが倍加したような熱気を感じたが、習一はその熱を嫌悪しなかった。
(ちょっと、たのしい)
自分の体をうごかさなくとも景色が移り変わる、という体験は、慣れぬうちは新鮮なものだ。おまけにこの状態のシドは常人が通らない、道なき道を行く。平生歩かない塀の上などを跳びまわるので、同行者である習一も、身軽な猫や猿に変じた気分になれる。これがなかなかおもしろかった。しかしその無邪気な本音は他人に明かせない。
習一は奇異な移動をたのしむ以外に、べつの意義も感じ取っていた。そちらも他言できない感情である。その情は先の実家での話中に発露したので、隠しとおせてはいないのだが。
(そこに食いつかれるとは思わなかったな)
それは習一がはぐらかしてしまった話題だ。シドは「興味深い」と言って習一の真意をたしかめようとしたが、習一が羞恥するあまり、彼の好奇は満たされなかった。習一が気にするのと同様、シドもまた琴線に触れる言葉だったのだろうか。それをたしかめるには習一が恥を忍ばねばならず、そのような問いかけは容易にできない。
(聞くときは……学校がはじまってからがいいな)
二人が四六時中ともに過ごす現状、気まずいことが起きると尾を引きずりやすい。両者が日常生活に忙しくする時期がねらい目だと思い、この場は沈黙に徹した。
太陽は燦々と地上を照りつけている。人外と化した状態の習一たちはその日射を無効化していた。そのことに習一が気付いたのは、シドの部屋の玄関が見えたころだった。習一がシドに担がれる目的とは、暑い外にいる時間を短縮するためにあった。いそいで帰らなくともよかったという発見と、疑似親に甘えうる時間の短さを惜しむ気持ちがこみ上げる。だが眼前の鉄扉にぶつかる恐怖がそれらの意識を上回った。習一は目をつむる。数秒が経ってもなんの衝撃も異音も起きなかった。ただシドの「着きましたよ」の一言が聞こえる。習一がおそるおそる視界を開けると、アパートの玄関内にいた。
「さ、降りてもらいますよ」
うながしにしたがい、習一はせまい玄関に降り立った。家主が一足先に靴をぬぎ、廊下に立つ。
「今日は部屋でのんびりすごす予定でしたね。どうかゆっくり休んでください」
シドは笑顔で習一に休息をすすめた。そのやさしさに呑まれそうになるのを、習一はこらえる。
「いや、休むのはあとだ。転校とか、住む部屋とか、バイトとか、いま決められることはあるんじゃないのか?」
「貴方はせっかちですね」
シドは顔色を変えずに言う。
「今日は日曜日ですよ。どこもそういった申請を受け付けていません」
「じゃあ明日になったらやるのか?」
「はい、私がすべて付き合います。ですから、いまは休んでおいてください。明日からまた忙しくなりますよ」
いまの習一ができることは休養をとること。その主張を完全に支持するほど習一はお人好しではない。だが習一の今後の生活を取り決める保護者がそう言う以上、習一にできることは思いつかない。この場はシドを尊重して、習一は彼の部屋へ進み入った。
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2018年12月17日
習一篇草稿−終章中
4
「六月、あんたはオレを襲った。それはなんでだ?」
「貴方が邪魔でした。オヤマダさんたちに報復をしようとする、貴方が」
「覚えてねえな。オレがそんな計画を立てたことをどうやって知った?」
「貴方が仲間と通話するのを聞きました」
「盗み聞きか。ま、鈍かったオレが悪いな」
「それは致し方ないのです。あの時の貴方は実体化しない私が見えなかったのですから」
「なんだと? いまは見えてるのに?」
習一は最初から異形が見える体質なのではなかった。ではなにをきっかけに、彼らを視認できるようになったのか。
「……お前らに喰われたから、見えるようになった?」
「いえ、私が貴方を異界へ連れていった影響です。そこから帰ってきた人はみな、こちらで隠遁した異界の生き物が見えるそうですよ」
「姿を消したあんたが見えるっていう少年もそうか?」
「その方は希少な例でして生まれつきの能力です。彼は異界の者だけでなくこちらの幽霊も見えるので、はじめは私たちのことを普通の霊だと思ったそうです」
霊視能力は国を問わず、まことしやかに健在する。習一がシドに出会うまでは信じなかった特殊能力だ。こうして人ならざる者にまみえた以上、ペテンだと断ずる気は起きない。
「幽霊……か。そいつもめんどくせえ人生を送っていそうだな」
「はい、あの子も苦労の多い生き方をしていると思います。オダギリさんとは少し、似ているかもしれませんね」
「オレと? そいつは家族ともめてんのか」
「家族仲は良好です。二人が似ていると思う部分は……ぶっきらぼうに見えても心根は優しいところですよ」
「オレが、やさしい? あんたの目は節穴か」
「自分では気付きにくい……いえ、認めたくないのでしょうね」
習一は含みのある言葉が気に入らなかった。だがここは軌道修正をはかる。
「そんな話はどうでもいい。あんたのご主人様はなぜあんたに人を襲わせる?」
「理由は知らされていません。私たちは道具と同じです。命令を与えられるだけ……その成果が何をもらたすかは考えなくていい」
ロボットのような存在意義だ。無感情な声が「ただ」とつぶやく。
「主の求める人物を差し出せば、その人は過酷な仕打ちを受ける。鈍感な私でもそう思うほど、主は抑えきれない憎悪を抱えていました」
「あんたはご主人様の気持ちを聞かなかったのか?」
「一度は質問しました。ですが教えてもらえませんでした。『いずれわかる』と……」
「はん、あんたがオレに言ってた『記憶がもどったら話す』と同じだな」
「そう、ですね。主は……私が主と同じ考えに行きつくのを待っていたように思います。私の記憶は、私が人型に変化するまでの期間が抜け落ちています。失くした思い出の中に、あの方の苦しみを共有する何かがあったのでしょう。ですが私はあの方の心を理解する前に……離れてしまった」
シドは左手にある指輪を見つめた。その指輪は主が贈ったものだという。この世界においては肉体同様レプリカなのだろうが、それを常に身に着ける心理からは、彼が忠誠心を失っていないと予想が立つ。だが彼はもう、仕える者の手駒にならない。そうわかる言動は今宵だけで何度もしていた。相反する行為のどれもが彼の本心だ。理屈通りにはいかない、ちぐはぐな姿はとても人間臭かった。
「……オレはバケモンに喰われて死んだはずだ。なんで生きてる?」
「異界へは精神だけが移動します。貴方が喰われた時の肉体は、私の力がつくった偽物です。同胞は私の力と貴方の持つ活力を餌にしました」
「体はこっちに置いたままだから、死ななかった、と?」
「そうです。ですが死なないという保証はありません。私の恩師のケイはこの世界の少し昔の人です。彼女は異界で亡くなり……以後、姿を現しませんでした。異界での死が疑似的な体験なら、彼女は再びあちらに訪れたと思います」
「おい、それって……オレも本当に死んだ可能性があるってことじゃ」
「それはないと思います。オダギリさんと同じ状況下で落命しなかった先例が十ありますから」
「オレが例外だったらどうしたよ?」
「その時は私と心中していただくということで、不運を嘆いてもらおうかと」
「しん、じゅう?」
さらっと発した言葉は彼に自決の計画があったことを匂わせた。
「私は最終的に、ツユキさんに消されるつもりでした。それは教員の生活を過ごすうちに固まってきた願望です」
「人さらいを……気に病んでいたのか。でも、死ぬようなことか? オレ以外の被害者はみんな、普通に生きているんだろ」
「こちらでは公(おおやけ)に目立つ被害を出しませんでしたが、元いた世界では死人が続出しました。私はお尋ね者なのです。そのことを、ツユキさんも承知なさっていたのですが……」
「あの警官が、こっちで教師のふりをずっとしろとでも言ったか?」
「大元はツユキさんの発案ですね。正確には、あちらの被害者の生き残りとお話しして私の処遇を決めてもらいました。消息をつかめた一人が……教師業の継続が贖罪になるとおっしゃったのです。その方は恵まれない子どもを育てることに人生を捧げていますから──」
「オレを保護することがあんたの罪を帳消しにする第一歩になるわけか」
「そうとも言えますが、私は貴方に不当な仕打ちをしたのですからその謝罪ですね。これは『子どもを助ける』という契約の履行とは別物だと思っています」
「じゃ、オレがどうなったらあんたの謝罪はおさまって、どっからが罪の償いになるんだ?」
「そう言われてみると……明確な線引きはできませんね。私も、よくわかりません」
習一が思うに、彼の目標である「夏休みの期間中に習一の生活を健全にする」というのが自主的な行動の範囲であり、それ以降の交流は他者に命じられた行為に値するのだろう。どっちがどうであれシドが習一に良くしてくれることに変わりない。習一は次の話題をふる。
「あんたが犯した罪はぜんぶ、ご主人様に従ってのことか?」
「そうです。私もエリーも、あの方に仕えるために存在する。そのように信じて努力してきたのですが……」
「そりゃ無理があるな。あんたは……悪人になりきれない。もともとが犯罪者向きの性格をしてないんだよ」
青い目が習一を見る。その目は優しげだ。
「この短期間で、よく見抜きますね。貴方は聡明だ」
「あんたほどわかりやすい野郎もいない。露木の警戒をそらす手段とはいえ、教師になって小山田に近付いたら情が移るとは考えなかったのか?」
「数ある生徒のうちの一人、であれば大丈夫だと思いました。やはり、というか……あの子も私を気にかけてしまって、ただの他人ではいられなくなりました」
「『やはり』ってどういうことだ?」
「彼女の中には同胞が住んでいます」
「中に……あの黒いやつが?」
「そうです。私とは別の役目を負う仲間でした。自我は欠けた個体だったのですが、現在は主命に背いてオヤマダさんと共存しています。その同胞と共にあり続けるうちに、彼女も私たちに親しみを覚えるようになった……のだと思います」
「彼女『も』? あんたは最初っから小山田が好きだったのかよ」
さんざん恋心はないと否定してきた主張をくつがえす告白だ。彼は首をひねる。
「どう捉えてもらってもかまいません。実を言うと、教師として潜入する前から迷いはありました。その時は彼女とその親への憐れみが先立っていましたが」
「『憐れみ』だぁ? キーワードを小出しにすんのやめろ。とっとと全部言いやがれ」
他人の興味を持続させる方法なのだろうが、まだるっこしいと感じた習一はいらいらした。シドは「貴方とは直接関わりのない話ですが」と警告する。
「私はある特殊な力を持つ人物を捜しています。その判定方法は……私がかけた術を解除できるかどうかを見ます。時を止めた時計の針を動かす──それが合否の判定方法です。オヤマダ以前にも同じ試験を行なった子はいました。彼らのうち、針を動かし続ける時計を渡してくれた人たちを私は攫いました。ですがオヤマダさんは違います。返却された時計は……時間が経つと針が止まったのです」
「電池切れじゃないのか?」
「いいえ、私が術を解けば針は動きました。彼女は術の効果を一時的に無効にする力を備えていたのです。その特別な力が、主の求めるものではないかと思いました」
小山田はこうしてシドの試験に合格した。折を見て彼女を連れ去ろうとしたものの、彼女の友人が「怪しい霊がいる」と露木に連絡したために実行は阻止された。シドが今後の計画を再編していたころ、小さな少女が高所より転落する現場に出くわした。その子を助けた際に同じく助けに入ろうとした女性に感謝された。その女性が小山田の母親だ。
「自分の子ではないのに、ミスミさんはとても喜んでいました。ベランダから落ちた女の子の家族が帰宅するまで私たちがその子の面倒を看ることになり、その時にミスミさんの話を聞きました」
ミスミの人助けへの熱意について質問すると、彼女は身の上を語ったという。
「ミスミさんは、お子さんを次々に亡くしていました。そのせいで他人の子どもであっても傷つく様子を見るのが怖いのだとおっしゃいました」
習一はミスミが野良猫の飼育には否定的だったことを連想した。我が子が先に逝く辛さを経験したせいで、寿命の短いペットを飼うことが怖くなったのだろう。だが──
「娘は生きてるじゃねえか」
「ええ、そうです。あの子は同胞が見逃したおかげで生きのびました」
「『見逃した』……?」
シドが連れ去った人間は化け物に喰われても死ななかった。それがミスミの子たちになると生死に関わるという。
「こっちの人間を拉致していっても、普通は死なないんだろ?」
「私の場合はそうです。しかし同胞はそれぞれに能力と役割が違います。私はおもに人間生活に溶けこんで標的を攫う役目を持ちました。ミスミさんの子を狙った同胞は、他者の頼みを聞いて魂を刈りとる役目を担っていました。この同胞はいわば『死神』です」
シドを超える攻撃的な化け物がいる。習一は黒い異形姿のエリーを脳裏に浮かべた。
「死神が連れ去った人は、もとの肉体と精神を繋ぐ糸を切られてしまい、生還できなくなる……と、私は理屈をこねてみましたが、実際のところはよくわかりません」
習一はがくっと肩を落とした。適当なことをぬかすシドをにらみつける。
「お前な、仲間のやってることくらいきちっと把握しとけ!」
「同胞自身もよくわからないでしていたことです。ご容赦ください」
「死神は襲った人間を覚えてねえのかよ」
「先ほども言いましたが、自我のはっきりしない個体なのです。こちらとあちらの生き物を区別しませんし、どれだけの命を刈ったかも数えていません」
「え? 『先ほど』?」
シドの同胞の話は、エリー以外だと小山田の体内に住まう者が一体だけあがった。
「はい。死神は……オヤマダさんが野良猫に手招きするような呼びかけに応じて、彼女に取り憑きました。以後はひっそりと、彼女と一緒に生きています。私が話しかけると簡単な返答をする程度には自己も生まれていました」
小山田は黒い異形を目の前にしても動じなかった。そこには二点の不審な箇所がある。
「なんで小山田はビビらなかったんだ? いや、それよかどうして死神に気付けた? あいつの目は普通なんだろ」
「彼女には死神とは別に憑いている何かがいます。『クロスケ』と名付けたそれと勘違いしたそうです。このクロスケは彼女の幼馴染が存在を教えていました」
「じゃあなぜ死神がいるとわかった? そいつがわざわざ姿をあらわしたのか」
「半分正解です。生物に接触をはかる際、姿を消した我々は相手に見える時があります。強い害意を持つとその危険が高くなる……それは怪談話に出る幽霊も同じでしょう?」
「まあ……そうかもな。幽霊が見えるタイプじゃねえのに、悪霊にばったり会ったら姿が見えたとかいう、ホントかウソかわからん話はな」
「我々の場合は当てはまります。おいそれと悪事が働けないよう、働いたとしても足がつくように、この世界はできています。ですから私は不意打ちか、闇に乗じて目的を遂行していました。死神はそういう対策を思いつけません。思考しないがゆえに……赤子にも非情になれた」
シドは急に立った。おもむろに座卓に歩み寄り、日記を回収する。
「同胞はもう死神ではありません。他に、よい呼び名があればいいのですけど」
そう言って勉強机の回転椅子に座った。思いついたことを日記に書く気らしい。その姿勢が話を終えようとする意思表示に見えて、習一は少し寂しく感じた。質疑応答をはじめる前は聞かなかったであろう質問が口に出る。
「エリーやシドって名前は誰が付けたんだ?」
「オヤマダさんです」
「なら、あいつに名付け親になってもらえばいい。同居人なんだしな」
シドは笑って「それがいいですね」と同調した。彼は机に向かい、書き物をする態勢になる。その状態でも習一が話しかければ延々答えるだろう。だが習一は思いつく限りの重要な質問を聞き終えた。常温になった茶を飲み干し、そのまま寝床へあがろうとした。
「歯は磨きましたか?」
シドが机に向かったまま尋ねた。習一は黙って洗面台へ行く。歯磨きのために部屋の照明を点けると、鏡には口の端がわずかに上がる自分がいた。
5
暗い廊下に光源が一つあった。そこから母の声が聞こえる。
『習一、学年で一位をとったんですって』
わがことのように誇らしげだった。この口調から察するに話し相手は父だ。
『この成績を維持できたらどの大学でも狙えると、先生がおっしゃっていたのよ』
三者面談では担任にそう言われた。進学を目指す者にはこれ以上ない評価だ。習一は父の称賛をひそかに期待した。だが父の声は一向に聞こえない。
『……どうして、嬉しくないの?』
母のか細い落胆の声がもれる。
『あなたはいつもそう。あの子が満点をとったテストを見せてきても全然喜ばないで……一言くらいほめてあげてもいいじゃない』
『ほめなくていい。あいつはできて当たり前だ』
『習一は天才児じゃありません。努力して、いい成績をとるんです。そのがんばりを認めて』
『あいつは血統がいいんだ。あの男の血に感謝するんだな』
習一の思考は止まった。父がなにを意図した発言をしているのか、わからない。
『またそんなことを……あの子が聞いたらどんな思いをするか、考えたことがあるの?』
母の返答も習一の理解を超えた。父の言葉はこの時、はじめて出した妄言ではないのだ。
『納得するんじゃないか。父親に顔も頭も似なかったことを』
『顔はたまたま私に似ただけよ』
『ああ、顔はお前似だな。それはよかったよ。カミジョウに似たんじゃ美形にならない』
カミジョウ、とは母が語る回想に登場した名前だ。写真を見せられたこともある。醜男ではないが麗人でもない、ふくよかな男性だった。それらの情報は決まって父が不在の際に見聞きした。彼は父と母の共通の友人であり、母とは懇意な仲だったという。
『頭だって少し物覚えがよかったのを、あの子なりに鍛えたから雒英に入れたんです』
『あれが「少し」なものか。たった一度教えたことでもしっかり覚えるうえに、抜け目ない観察力がある。カミジョウもそうだった』
『あなただって賢いじゃないの。難関の司法試験に合格してるのよ』
『あいつは一発で合格したんだぞ。俺が一度滑ったのを、カミジョウは簡単に乗り越えていった』
『二回めでちゃんと受かったでしょう。一回の結果なんて、その時の運次第──』
『バカを言え!』
父がいきり立つ。その悪声には己の自信を粉砕する人物への憎悪があった。
『あいつは急に「海外の仕事をしたい」と言い出して、ほんの数ヶ月で英語と中国語の資格を取ったんだ。中国語なんぞ必須単位だけ習っていたやつが……』
友人の優秀さを肯定する裏に、醜い嫉妬が凝り固まっている。
『やつはお前に海外行きの話をすぐにしなかったそうだな。なんでか、わかるか?』
『……知りません、そんなの』
『自分の恋人が、法曹界に入る男を夫にしようと考える女だと思わなかったからだ。どんな生き方でも応援してくれると自惚れていたわけだな。あいつは自分のこととなると勘が鈍る……そんなところも習一は似た』
『あの子が父親に認めてほしくて頑張ってるのを、わかってて冷たくするの? そんなにあの人も習一も憎いなら、どうして検査をしないの』
『カミジョウの子だとわかったら、お前は習一を連れて家を出ていくんだろう? 独り身のあいつは歓迎するとも。大企業に勤めていて羽振りがいいんだ、お前もいい再婚相手だと思うはずだ。……思い通りにはさせん。お前たちだけ幸せになってたまるか!』
『だったら習一をどうしたいの?』
『養ってやる。自分が不出来な人間だという劣等感を抱きながら、一生過ごせばいい』
父の下卑た笑いが響いた。だがこれは真実ではない。脳が手を加えた作り話だ。習一はまどろみの中、己だけが見える非現実の世界を漂流していたと理解した。どこまでが本当にあった両親の会話だかおぼろげだ。
(ほかにも言ってたことがあったかな……カミジョウって人のこと)
知り得た情報はまだある。ただ、父の嫌疑を聞いた時に知ったこととはかぎらない。
母の昔話には母と父が学生結婚を果たしたという一段がある。その際に様々な事情を覚えた。どれも母の口伝であり、母の都合の良い部分が切り取られていた。
(いい人、みたいだったな……)
両親の友人は明朗、かつ才識にめぐまれながらも他者に驕ることはなかったという。父とは性格がまったく異なる男性だ。合わない二人が学生生活をともに過ごせた要因は、ひとえに友人の度量の広さによるのだろう。
(オレみたいなやつでも、仲良くしてくれんのか?)
そのような空想は過去に何度も出現した。実の父親との疑いのある人物が、行き場のない自分を庇護してくれる。そんな自分勝手な夢想を、最近はめぐらせていなかった。
(もう……いるもんな、オレの保護者)
習一の身を案じる男がいる。彼がどんな障害でも取り去ってくれる。その事実を掛け値なしに信じる気持ちが芽生えてきた──
(いまじゃ、ない。もっと前からだ)
信頼はとうにあった。その心に蓋を閉めていただけなのだ。蓋に気付いていながら知らぬふりを続けてきた。それは少し前のシドも同じだ。
彼は絶対たる主人への忠誠ゆえに自身の感情を押し殺し、望まぬ犯罪に手を染めた。だが小山田とその家族との関わりが、彼の蓋を取り払うきっかけになった。
(あの教師は小山田がいなかったらここにいないし、オレも不良のままだった。結果的にみんながいいほうへ転んでる……のか?)
長考に飽きた習一はまぶたを開けた。室内は薄暗い。日がのぼりきらない早朝に目が覚めたのだ。二度寝をしようと寝返りを打ったところ、階下から光が漏れる。習一は物音を立てないよう移動し、居間の様子を見た。またベッド下の机には煌々とライトが点いている。ライトの光は縦長の陰影を座卓の上にまで形作る。その影は部屋主のものだ。
(いっつも寝ないでなにやってんだ?)
好奇が眠気に勝り、習一はロフト部屋をおりた。
6
習一はそろりそろりと慎重に階段を下りた。しかしどうしても足場がきしむ。習一の起床を部屋主が察知したはずだが、彼は作業を止めない。大方、用足しに起きたとでも思ったのだろう。習一は座卓のそばに座った。昨晩使用したコップは片付けられている。
「お早いのですね。あまり眠れませんでしたか?」
シドが椅子をキィっと動かした。彼はいつものサングラスをかけていない。直射日光の入らぬ室内なのだから日除け眼鏡を着用しなくて当然なのだが、習一は変だと感じた。
「べつに、目が冴えただけだ。あんたこそ寝なくて平気なのか?」
「私は力の補給さえ万全であれば眠らなくてよいのです」
「『力の補給』はどうやるんだよ。やっぱり……人を?」
自身の体験の断片がよみがえり、身震いした。シドは習一の恐怖を払うかのように表情を和らげる。
「昨夜、イチカさんを眠らせた方法です。元気を分けてもらうと眠くなる方が多いんですよ。私もエリーも、流血沙汰はやりません」
「そう、か……オレは別のやつにやられたんだな」
「はい。それともう一つ、栄養の摂り方がありまして……」
シドが机の引き出しを開けた。透明な瓶が仕事机の上に置かれる。瓶には黒い丸薬がぎっしり詰まっていた。
「これはツユキさん特製の栄養剤です。彼も白いカラスなどを呼び出すと力を消耗しますから、その回復用に作り置きなさっているそうです」
「オレが見た白いカラスもあんたと同じ、こことちがう世界から来てるのか?」
「そのように考えてよろしいです」
習一は瓶を手にとって観察した。あの露木が作る薬剤には人を傷つけて得る材料は混入しないだろう。シドは他人に危害を加えずに生活できるのだ。習一は一安心し、瓶を机にもどす。
「それで、あんたは寝ないでなにをしてたんだ?」
「生活費の試算をしています」
「なんだ、やっぱりオレがいるとカツカツなんじゃねえか?」
「これは……オダギリさんが一人で生活することを想定した計算です」
シドはノートパソコンを片手に持ち、習一に見せた。画面に数字の羅列が表示してある。
「一人暮らしをする大学生の生活費の平均値を参考にしました。加えて学校に通うとなると、教材費や修学旅行などの出費もありますから……」
「オレにこれだけ稼げ、と言いたいんだな?」
「いえ、私が負担します。高校生生活の残りの約一年半、私の貯金でまかなえることがわかりました。貴方は安心して勉学にいそしんでください」
「安心して、っつってもな……」
このまま家出状態で新学期を迎えたなら、親との軋轢(あつれき)が教師連中に問題視される。とても勉強に身が入る環境ではない。
「雒英高校は貴方が通いたくない学校ですか?」
シドがわかりきったことを尋ねる。これは確認だ。習一は口をつぐみ、うなずいた。
「では転校しましょう。才穎高校はいかがです? 常識では推し量れない人がいますけど、心優しい方が多いですよ」
「オレ個人で決められるか? 学校側がオレみてえな問題児を抱えたくないだろ」
「たった今、言ったでしょう。常識が通用しない人がいると。それは校長です」
習一は才穎高校の評判を思い出す。ありえない基準で入学者を選定する、色物高校。
「オレが校長のおめがねにかなう、と?」
「はい。その素質は備えているように思います」
「どういう審査なんだ?」
「ありていに言えば異性にもてる人物が好まれます。くしくも私は風貌の立派な男性を模して、採用と相成りました」
「見てくれのよさでか? それじゃアイドル養成所じゃねえかよ」
「外見はファクターです。ようは校長がお好きな恋愛騒動を起こす逸材だと思わせることが大事です」
「オレは女に興味ないぞ。男にもねえけど」
「私も同じです。言い換えると周りが勝手に騒いでくれればよいのです。校長も含めて」
「おめでたい学長だな……ま、そのぐらいおバカなほうがオレに合ってるかもしんねえ」
珍しく習一は好意的な返答をした。事実、中退をしないのならこの教師が在籍する学校に行ってはどうだろうと薄々思っていた。はじめは白壁に促されたのを頭の片隅に追いやっていたが、シドとの交流を重ねるにつれて現実味を帯びてきた。
(こいつがいるんならきっと、いい学校なんだろう)
小山田も過去に習一と敵対したとはいえ現在は普通に接している。彼女は習一のせいで傷を負ったのをおくびにも出さず、食事の用意をした。彼女の友人も後腐れがなさそうだ。たとえ習一を敵視する者がいても、不要な争いを避けたがるシドが釘をさすだろう。
シドはパソコンを机に置いた。くるっと椅子を回して習一と顔を合わす。
「残るは親御さんの件ですね」
習一の眉間に力がこもる。多くの事柄に整理がついても、父と対決する心構えは万全でない。
「もし差しつかえなければ……なぜ貴方の父親がわが子を憎むのか、教えてくれますか?」
「それを知って、どうなる?」
「和解の道を探るにはまず、真相を明らかにせねばならないと思います」
「和解なんかできっこねえよ。オレは、本当の息子じゃないんだ」
習一は腹をくくった。質問者はすでに他言無用の素性をさらけ出したのだ。自分もその誠意に応えねばならないという義務感が芽生えた。聞き手は顔色を変えずに黙っている。
「はっきりした根拠はないみたいだけどな。そんな話を夫婦喧嘩の時に聞いた」
「貴方の母親に不貞行為があったのですか?」
「それは知らない。オレが知ってるのは両親の結婚前に、母親に恋人がいたってことだ」
習一は直接会ったことのない人物に思いを馳せる。
「その恋人は父親の友人だった。この二人が付きあってることはあいつもわかってた。相手の男が海外の仕事に就こうとしたら母親と別れて、あいつがかあさんと一緒になった。すぐに二人は結婚して、オレが生まれた。妊娠期間が前の恋人のいた時期と被るから、疑われてる」
「遺伝子の検査で父親が判明するでしょう。どうして不明なままにしておくのです」
「それがあいつのバカなとこなんだよ。出産後すぐ検査すりゃあいいものを、その時は自分の子だと疑いもしなかったそうだ。看護師どもが『お父さん似ですね』と言ってきて、その気になってたらしい。オレ、母親似なのにな」
実父でない可能性のある男を「あいつ」と呼び名を固定して習一は説明を続ける。
「あいつがオレを本当の子じゃない、と思ったのはオレが物心ついてから。頭が回り過ぎるところが、あいつの友人に似ていたんだとよ。一つ疑うとなにもかも疑わしくなる。だから、オレはあいつに冷たくされた記憶ばっかり残ってる。そんなに疑うなら調べりゃいいとはあいつもわかってるはずだ。でも、やらないんだ。本当の子だったからって急に態度を変えられるもんじゃない。思いこみだけでオレをいじめられればそれで満足なんだ」
もしも息子が実の子だと判明した時、父はピエロに成り下がる。その可能性をおそれて真実をあきらかにできないのだとも考えられた。
「あいつの友人は切れ者だった。見た目はぼーっとしてるのに毎回成績が上位で、司法試験に一発合格したんだとさ。あいつは一度落ちたから余計にみじめだったんだろ。オレが高校でいい成績をとったら、あいつは言った。『やっぱりあの男の息子なのか』ってよ」
その言葉は両親の口論の後日に出てきた。すでに父は息子に隠し立てする意欲がなくなっていたのだ。
「必死に勉強していい成績をとれば……親はみんな喜ぶもんだと信じてた。まちがってないだろ? 自分の子がバカだから喜ぶ親はかなりの変人だ」
「はい。世間一般的には、その通りです」
「いい成績を見せても渋い顔をすんのは『その程度で喜ぶな』と、高い目標をオレに期待してるからだと思ってた。けど全然違った。あいつはオレが秀才だと言われるたびにオレを憎んでいた。あいつの上を行った友人が時間を越えて、また自分を笑い者にする──」
この推測は習一がカミジョウの子だと断定した上で成り立つ。習一は想像を膨らませる。
「形を変えた友人を痛めつけて、プライドをずたずたにしてやれば、初めて勝ったことになる──そういう思考だ、あいつは。人の好いあんたにゃ死んでもわからないだろうよ」
習一で鼻で笑った。愚かな父親と、その父に媚びてきた己への嘲笑だ。
「あいつは妹を溺愛してる。妹はいま、中学生だ。塾に行ってても成績はせいぜい中くらい。塾に通う前は下の中だった。オレの時は『中学生が塾なんぞ行かなくていい』とぬかしてたくせに、妹になったら金に糸目をつけないでいやがる。勉強のできない子どものほうが可愛いんだろうな。自分の子だと安心できるから」
「……根が深い確執ですね」
傾聴していた聞き手が控えめに感想を述べる。ほとんどが習一の憶測でしかないことを、彼が否定するかと習一は思っていた。人間の醜さを持たぬ異形に「そんなことはない」と諭された時は受け入れるつもりだった。だが、シドは習一の洞察を全面的に支持する。習一は胸に小さな懐炉が入りこんだような温かみが広がるのを感じた。
「オダギリさんは父親との共存ができないことはわかりました。では、貴方はどうしたいですか? 自分を虐げてきた父親への復讐を果たしたいのでしょうか」
「やりたい、つったらあんたはどうする?」
「法に抵触しない範囲で、加担しましょう」
真顔で答える様子に、習一は声をあげて笑った。目の端に熱いしずくが溜まる。
「もう、どうでもよくなっちまったよ。無駄に疲れるだけで……なにも変わりゃしない」
「でしたら、これからどうします?」
「最低限、別居することは伝えなきゃな。あと学校を替えるのも……学費、どうすっかな」
「才穎高校の学費も私がなんとかできます」
「あんたに頼りっぱなしは癪だ。放課後に稼げるとこ、知らないか?」
シドがベランダに顔をむけて黙考する。その隙に習一は目をこすった。
「心当たりがあります。オヤマダさんに確認してみましょう」
「お好み焼屋で働くのか?」
「いえ、そちらは人手が足りているそうです。もう一つのお店のほうです」
小山田と関わりのある店。勘付いた習一はその店に抵抗があるとわかる渋面を作った。
「大丈夫ですよ。店長さんや店の仕事は普通なんですから」
シドは机の端にあったサングラスを取り、定位置にかけた。光葉の攻撃を受けたまま公園に置き去りにしたかと思われたが、きっちり回収していたようだ。
「さて、オダギリさんのご両親は早起きな方たちでしょうか?」
「どうかな。失踪していた息子が帰宅するのは早いほうがいいと思うが」
「そうですね。では支度しましょう」
シドはメモ帳の紙をちぎり、書置きを用意する。紙には「散歩に行きます」とあった。
「散歩のノリで行く気か?」
「はい。そのくらいの気持ちでいましょう。殴りこみに行くのではありませんから」
「オレはまぁ、殴り合ってもいいんだけどな」
「拳が心を通い合わせるツールになるのでしたら、止めはしません」
「んな漫画みたいな美談にもっていけねえよ」
シドはロフト下の壁際に立った。その壁はクローゼットの戸だ。がらがらと戸を動かし、中にあったタイピン付きのネクタイを取る。以前にも見た、三つの宝石がついたタイピンだ。習一はそれが彼の趣味だとは思えなかった。
「そのタイピン、貰いもんか?」
「ええ、オヤマダさんから頂いたものです。私が……この世界に残る証ですよ」
シドはタイピンを大切そうになでたあと、ネクタイを締めた。
「六月、あんたはオレを襲った。それはなんでだ?」
「貴方が邪魔でした。オヤマダさんたちに報復をしようとする、貴方が」
「覚えてねえな。オレがそんな計画を立てたことをどうやって知った?」
「貴方が仲間と通話するのを聞きました」
「盗み聞きか。ま、鈍かったオレが悪いな」
「それは致し方ないのです。あの時の貴方は実体化しない私が見えなかったのですから」
「なんだと? いまは見えてるのに?」
習一は最初から異形が見える体質なのではなかった。ではなにをきっかけに、彼らを視認できるようになったのか。
「……お前らに喰われたから、見えるようになった?」
「いえ、私が貴方を異界へ連れていった影響です。そこから帰ってきた人はみな、こちらで隠遁した異界の生き物が見えるそうですよ」
「姿を消したあんたが見えるっていう少年もそうか?」
「その方は希少な例でして生まれつきの能力です。彼は異界の者だけでなくこちらの幽霊も見えるので、はじめは私たちのことを普通の霊だと思ったそうです」
霊視能力は国を問わず、まことしやかに健在する。習一がシドに出会うまでは信じなかった特殊能力だ。こうして人ならざる者にまみえた以上、ペテンだと断ずる気は起きない。
「幽霊……か。そいつもめんどくせえ人生を送っていそうだな」
「はい、あの子も苦労の多い生き方をしていると思います。オダギリさんとは少し、似ているかもしれませんね」
「オレと? そいつは家族ともめてんのか」
「家族仲は良好です。二人が似ていると思う部分は……ぶっきらぼうに見えても心根は優しいところですよ」
「オレが、やさしい? あんたの目は節穴か」
「自分では気付きにくい……いえ、認めたくないのでしょうね」
習一は含みのある言葉が気に入らなかった。だがここは軌道修正をはかる。
「そんな話はどうでもいい。あんたのご主人様はなぜあんたに人を襲わせる?」
「理由は知らされていません。私たちは道具と同じです。命令を与えられるだけ……その成果が何をもらたすかは考えなくていい」
ロボットのような存在意義だ。無感情な声が「ただ」とつぶやく。
「主の求める人物を差し出せば、その人は過酷な仕打ちを受ける。鈍感な私でもそう思うほど、主は抑えきれない憎悪を抱えていました」
「あんたはご主人様の気持ちを聞かなかったのか?」
「一度は質問しました。ですが教えてもらえませんでした。『いずれわかる』と……」
「はん、あんたがオレに言ってた『記憶がもどったら話す』と同じだな」
「そう、ですね。主は……私が主と同じ考えに行きつくのを待っていたように思います。私の記憶は、私が人型に変化するまでの期間が抜け落ちています。失くした思い出の中に、あの方の苦しみを共有する何かがあったのでしょう。ですが私はあの方の心を理解する前に……離れてしまった」
シドは左手にある指輪を見つめた。その指輪は主が贈ったものだという。この世界においては肉体同様レプリカなのだろうが、それを常に身に着ける心理からは、彼が忠誠心を失っていないと予想が立つ。だが彼はもう、仕える者の手駒にならない。そうわかる言動は今宵だけで何度もしていた。相反する行為のどれもが彼の本心だ。理屈通りにはいかない、ちぐはぐな姿はとても人間臭かった。
「……オレはバケモンに喰われて死んだはずだ。なんで生きてる?」
「異界へは精神だけが移動します。貴方が喰われた時の肉体は、私の力がつくった偽物です。同胞は私の力と貴方の持つ活力を餌にしました」
「体はこっちに置いたままだから、死ななかった、と?」
「そうです。ですが死なないという保証はありません。私の恩師のケイはこの世界の少し昔の人です。彼女は異界で亡くなり……以後、姿を現しませんでした。異界での死が疑似的な体験なら、彼女は再びあちらに訪れたと思います」
「おい、それって……オレも本当に死んだ可能性があるってことじゃ」
「それはないと思います。オダギリさんと同じ状況下で落命しなかった先例が十ありますから」
「オレが例外だったらどうしたよ?」
「その時は私と心中していただくということで、不運を嘆いてもらおうかと」
「しん、じゅう?」
さらっと発した言葉は彼に自決の計画があったことを匂わせた。
「私は最終的に、ツユキさんに消されるつもりでした。それは教員の生活を過ごすうちに固まってきた願望です」
「人さらいを……気に病んでいたのか。でも、死ぬようなことか? オレ以外の被害者はみんな、普通に生きているんだろ」
「こちらでは公(おおやけ)に目立つ被害を出しませんでしたが、元いた世界では死人が続出しました。私はお尋ね者なのです。そのことを、ツユキさんも承知なさっていたのですが……」
「あの警官が、こっちで教師のふりをずっとしろとでも言ったか?」
「大元はツユキさんの発案ですね。正確には、あちらの被害者の生き残りとお話しして私の処遇を決めてもらいました。消息をつかめた一人が……教師業の継続が贖罪になるとおっしゃったのです。その方は恵まれない子どもを育てることに人生を捧げていますから──」
「オレを保護することがあんたの罪を帳消しにする第一歩になるわけか」
「そうとも言えますが、私は貴方に不当な仕打ちをしたのですからその謝罪ですね。これは『子どもを助ける』という契約の履行とは別物だと思っています」
「じゃ、オレがどうなったらあんたの謝罪はおさまって、どっからが罪の償いになるんだ?」
「そう言われてみると……明確な線引きはできませんね。私も、よくわかりません」
習一が思うに、彼の目標である「夏休みの期間中に習一の生活を健全にする」というのが自主的な行動の範囲であり、それ以降の交流は他者に命じられた行為に値するのだろう。どっちがどうであれシドが習一に良くしてくれることに変わりない。習一は次の話題をふる。
「あんたが犯した罪はぜんぶ、ご主人様に従ってのことか?」
「そうです。私もエリーも、あの方に仕えるために存在する。そのように信じて努力してきたのですが……」
「そりゃ無理があるな。あんたは……悪人になりきれない。もともとが犯罪者向きの性格をしてないんだよ」
青い目が習一を見る。その目は優しげだ。
「この短期間で、よく見抜きますね。貴方は聡明だ」
「あんたほどわかりやすい野郎もいない。露木の警戒をそらす手段とはいえ、教師になって小山田に近付いたら情が移るとは考えなかったのか?」
「数ある生徒のうちの一人、であれば大丈夫だと思いました。やはり、というか……あの子も私を気にかけてしまって、ただの他人ではいられなくなりました」
「『やはり』ってどういうことだ?」
「彼女の中には同胞が住んでいます」
「中に……あの黒いやつが?」
「そうです。私とは別の役目を負う仲間でした。自我は欠けた個体だったのですが、現在は主命に背いてオヤマダさんと共存しています。その同胞と共にあり続けるうちに、彼女も私たちに親しみを覚えるようになった……のだと思います」
「彼女『も』? あんたは最初っから小山田が好きだったのかよ」
さんざん恋心はないと否定してきた主張をくつがえす告白だ。彼は首をひねる。
「どう捉えてもらってもかまいません。実を言うと、教師として潜入する前から迷いはありました。その時は彼女とその親への憐れみが先立っていましたが」
「『憐れみ』だぁ? キーワードを小出しにすんのやめろ。とっとと全部言いやがれ」
他人の興味を持続させる方法なのだろうが、まだるっこしいと感じた習一はいらいらした。シドは「貴方とは直接関わりのない話ですが」と警告する。
「私はある特殊な力を持つ人物を捜しています。その判定方法は……私がかけた術を解除できるかどうかを見ます。時を止めた時計の針を動かす──それが合否の判定方法です。オヤマダ以前にも同じ試験を行なった子はいました。彼らのうち、針を動かし続ける時計を渡してくれた人たちを私は攫いました。ですがオヤマダさんは違います。返却された時計は……時間が経つと針が止まったのです」
「電池切れじゃないのか?」
「いいえ、私が術を解けば針は動きました。彼女は術の効果を一時的に無効にする力を備えていたのです。その特別な力が、主の求めるものではないかと思いました」
小山田はこうしてシドの試験に合格した。折を見て彼女を連れ去ろうとしたものの、彼女の友人が「怪しい霊がいる」と露木に連絡したために実行は阻止された。シドが今後の計画を再編していたころ、小さな少女が高所より転落する現場に出くわした。その子を助けた際に同じく助けに入ろうとした女性に感謝された。その女性が小山田の母親だ。
「自分の子ではないのに、ミスミさんはとても喜んでいました。ベランダから落ちた女の子の家族が帰宅するまで私たちがその子の面倒を看ることになり、その時にミスミさんの話を聞きました」
ミスミの人助けへの熱意について質問すると、彼女は身の上を語ったという。
「ミスミさんは、お子さんを次々に亡くしていました。そのせいで他人の子どもであっても傷つく様子を見るのが怖いのだとおっしゃいました」
習一はミスミが野良猫の飼育には否定的だったことを連想した。我が子が先に逝く辛さを経験したせいで、寿命の短いペットを飼うことが怖くなったのだろう。だが──
「娘は生きてるじゃねえか」
「ええ、そうです。あの子は同胞が見逃したおかげで生きのびました」
「『見逃した』……?」
シドが連れ去った人間は化け物に喰われても死ななかった。それがミスミの子たちになると生死に関わるという。
「こっちの人間を拉致していっても、普通は死なないんだろ?」
「私の場合はそうです。しかし同胞はそれぞれに能力と役割が違います。私はおもに人間生活に溶けこんで標的を攫う役目を持ちました。ミスミさんの子を狙った同胞は、他者の頼みを聞いて魂を刈りとる役目を担っていました。この同胞はいわば『死神』です」
シドを超える攻撃的な化け物がいる。習一は黒い異形姿のエリーを脳裏に浮かべた。
「死神が連れ去った人は、もとの肉体と精神を繋ぐ糸を切られてしまい、生還できなくなる……と、私は理屈をこねてみましたが、実際のところはよくわかりません」
習一はがくっと肩を落とした。適当なことをぬかすシドをにらみつける。
「お前な、仲間のやってることくらいきちっと把握しとけ!」
「同胞自身もよくわからないでしていたことです。ご容赦ください」
「死神は襲った人間を覚えてねえのかよ」
「先ほども言いましたが、自我のはっきりしない個体なのです。こちらとあちらの生き物を区別しませんし、どれだけの命を刈ったかも数えていません」
「え? 『先ほど』?」
シドの同胞の話は、エリー以外だと小山田の体内に住まう者が一体だけあがった。
「はい。死神は……オヤマダさんが野良猫に手招きするような呼びかけに応じて、彼女に取り憑きました。以後はひっそりと、彼女と一緒に生きています。私が話しかけると簡単な返答をする程度には自己も生まれていました」
小山田は黒い異形を目の前にしても動じなかった。そこには二点の不審な箇所がある。
「なんで小山田はビビらなかったんだ? いや、それよかどうして死神に気付けた? あいつの目は普通なんだろ」
「彼女には死神とは別に憑いている何かがいます。『クロスケ』と名付けたそれと勘違いしたそうです。このクロスケは彼女の幼馴染が存在を教えていました」
「じゃあなぜ死神がいるとわかった? そいつがわざわざ姿をあらわしたのか」
「半分正解です。生物に接触をはかる際、姿を消した我々は相手に見える時があります。強い害意を持つとその危険が高くなる……それは怪談話に出る幽霊も同じでしょう?」
「まあ……そうかもな。幽霊が見えるタイプじゃねえのに、悪霊にばったり会ったら姿が見えたとかいう、ホントかウソかわからん話はな」
「我々の場合は当てはまります。おいそれと悪事が働けないよう、働いたとしても足がつくように、この世界はできています。ですから私は不意打ちか、闇に乗じて目的を遂行していました。死神はそういう対策を思いつけません。思考しないがゆえに……赤子にも非情になれた」
シドは急に立った。おもむろに座卓に歩み寄り、日記を回収する。
「同胞はもう死神ではありません。他に、よい呼び名があればいいのですけど」
そう言って勉強机の回転椅子に座った。思いついたことを日記に書く気らしい。その姿勢が話を終えようとする意思表示に見えて、習一は少し寂しく感じた。質疑応答をはじめる前は聞かなかったであろう質問が口に出る。
「エリーやシドって名前は誰が付けたんだ?」
「オヤマダさんです」
「なら、あいつに名付け親になってもらえばいい。同居人なんだしな」
シドは笑って「それがいいですね」と同調した。彼は机に向かい、書き物をする態勢になる。その状態でも習一が話しかければ延々答えるだろう。だが習一は思いつく限りの重要な質問を聞き終えた。常温になった茶を飲み干し、そのまま寝床へあがろうとした。
「歯は磨きましたか?」
シドが机に向かったまま尋ねた。習一は黙って洗面台へ行く。歯磨きのために部屋の照明を点けると、鏡には口の端がわずかに上がる自分がいた。
5
暗い廊下に光源が一つあった。そこから母の声が聞こえる。
『習一、学年で一位をとったんですって』
わがことのように誇らしげだった。この口調から察するに話し相手は父だ。
『この成績を維持できたらどの大学でも狙えると、先生がおっしゃっていたのよ』
三者面談では担任にそう言われた。進学を目指す者にはこれ以上ない評価だ。習一は父の称賛をひそかに期待した。だが父の声は一向に聞こえない。
『……どうして、嬉しくないの?』
母のか細い落胆の声がもれる。
『あなたはいつもそう。あの子が満点をとったテストを見せてきても全然喜ばないで……一言くらいほめてあげてもいいじゃない』
『ほめなくていい。あいつはできて当たり前だ』
『習一は天才児じゃありません。努力して、いい成績をとるんです。そのがんばりを認めて』
『あいつは血統がいいんだ。あの男の血に感謝するんだな』
習一の思考は止まった。父がなにを意図した発言をしているのか、わからない。
『またそんなことを……あの子が聞いたらどんな思いをするか、考えたことがあるの?』
母の返答も習一の理解を超えた。父の言葉はこの時、はじめて出した妄言ではないのだ。
『納得するんじゃないか。父親に顔も頭も似なかったことを』
『顔はたまたま私に似ただけよ』
『ああ、顔はお前似だな。それはよかったよ。カミジョウに似たんじゃ美形にならない』
カミジョウ、とは母が語る回想に登場した名前だ。写真を見せられたこともある。醜男ではないが麗人でもない、ふくよかな男性だった。それらの情報は決まって父が不在の際に見聞きした。彼は父と母の共通の友人であり、母とは懇意な仲だったという。
『頭だって少し物覚えがよかったのを、あの子なりに鍛えたから雒英に入れたんです』
『あれが「少し」なものか。たった一度教えたことでもしっかり覚えるうえに、抜け目ない観察力がある。カミジョウもそうだった』
『あなただって賢いじゃないの。難関の司法試験に合格してるのよ』
『あいつは一発で合格したんだぞ。俺が一度滑ったのを、カミジョウは簡単に乗り越えていった』
『二回めでちゃんと受かったでしょう。一回の結果なんて、その時の運次第──』
『バカを言え!』
父がいきり立つ。その悪声には己の自信を粉砕する人物への憎悪があった。
『あいつは急に「海外の仕事をしたい」と言い出して、ほんの数ヶ月で英語と中国語の資格を取ったんだ。中国語なんぞ必須単位だけ習っていたやつが……』
友人の優秀さを肯定する裏に、醜い嫉妬が凝り固まっている。
『やつはお前に海外行きの話をすぐにしなかったそうだな。なんでか、わかるか?』
『……知りません、そんなの』
『自分の恋人が、法曹界に入る男を夫にしようと考える女だと思わなかったからだ。どんな生き方でも応援してくれると自惚れていたわけだな。あいつは自分のこととなると勘が鈍る……そんなところも習一は似た』
『あの子が父親に認めてほしくて頑張ってるのを、わかってて冷たくするの? そんなにあの人も習一も憎いなら、どうして検査をしないの』
『カミジョウの子だとわかったら、お前は習一を連れて家を出ていくんだろう? 独り身のあいつは歓迎するとも。大企業に勤めていて羽振りがいいんだ、お前もいい再婚相手だと思うはずだ。……思い通りにはさせん。お前たちだけ幸せになってたまるか!』
『だったら習一をどうしたいの?』
『養ってやる。自分が不出来な人間だという劣等感を抱きながら、一生過ごせばいい』
父の下卑た笑いが響いた。だがこれは真実ではない。脳が手を加えた作り話だ。習一はまどろみの中、己だけが見える非現実の世界を漂流していたと理解した。どこまでが本当にあった両親の会話だかおぼろげだ。
(ほかにも言ってたことがあったかな……カミジョウって人のこと)
知り得た情報はまだある。ただ、父の嫌疑を聞いた時に知ったこととはかぎらない。
母の昔話には母と父が学生結婚を果たしたという一段がある。その際に様々な事情を覚えた。どれも母の口伝であり、母の都合の良い部分が切り取られていた。
(いい人、みたいだったな……)
両親の友人は明朗、かつ才識にめぐまれながらも他者に驕ることはなかったという。父とは性格がまったく異なる男性だ。合わない二人が学生生活をともに過ごせた要因は、ひとえに友人の度量の広さによるのだろう。
(オレみたいなやつでも、仲良くしてくれんのか?)
そのような空想は過去に何度も出現した。実の父親との疑いのある人物が、行き場のない自分を庇護してくれる。そんな自分勝手な夢想を、最近はめぐらせていなかった。
(もう……いるもんな、オレの保護者)
習一の身を案じる男がいる。彼がどんな障害でも取り去ってくれる。その事実を掛け値なしに信じる気持ちが芽生えてきた──
(いまじゃ、ない。もっと前からだ)
信頼はとうにあった。その心に蓋を閉めていただけなのだ。蓋に気付いていながら知らぬふりを続けてきた。それは少し前のシドも同じだ。
彼は絶対たる主人への忠誠ゆえに自身の感情を押し殺し、望まぬ犯罪に手を染めた。だが小山田とその家族との関わりが、彼の蓋を取り払うきっかけになった。
(あの教師は小山田がいなかったらここにいないし、オレも不良のままだった。結果的にみんながいいほうへ転んでる……のか?)
長考に飽きた習一はまぶたを開けた。室内は薄暗い。日がのぼりきらない早朝に目が覚めたのだ。二度寝をしようと寝返りを打ったところ、階下から光が漏れる。習一は物音を立てないよう移動し、居間の様子を見た。またベッド下の机には煌々とライトが点いている。ライトの光は縦長の陰影を座卓の上にまで形作る。その影は部屋主のものだ。
(いっつも寝ないでなにやってんだ?)
好奇が眠気に勝り、習一はロフト部屋をおりた。
6
習一はそろりそろりと慎重に階段を下りた。しかしどうしても足場がきしむ。習一の起床を部屋主が察知したはずだが、彼は作業を止めない。大方、用足しに起きたとでも思ったのだろう。習一は座卓のそばに座った。昨晩使用したコップは片付けられている。
「お早いのですね。あまり眠れませんでしたか?」
シドが椅子をキィっと動かした。彼はいつものサングラスをかけていない。直射日光の入らぬ室内なのだから日除け眼鏡を着用しなくて当然なのだが、習一は変だと感じた。
「べつに、目が冴えただけだ。あんたこそ寝なくて平気なのか?」
「私は力の補給さえ万全であれば眠らなくてよいのです」
「『力の補給』はどうやるんだよ。やっぱり……人を?」
自身の体験の断片がよみがえり、身震いした。シドは習一の恐怖を払うかのように表情を和らげる。
「昨夜、イチカさんを眠らせた方法です。元気を分けてもらうと眠くなる方が多いんですよ。私もエリーも、流血沙汰はやりません」
「そう、か……オレは別のやつにやられたんだな」
「はい。それともう一つ、栄養の摂り方がありまして……」
シドが机の引き出しを開けた。透明な瓶が仕事机の上に置かれる。瓶には黒い丸薬がぎっしり詰まっていた。
「これはツユキさん特製の栄養剤です。彼も白いカラスなどを呼び出すと力を消耗しますから、その回復用に作り置きなさっているそうです」
「オレが見た白いカラスもあんたと同じ、こことちがう世界から来てるのか?」
「そのように考えてよろしいです」
習一は瓶を手にとって観察した。あの露木が作る薬剤には人を傷つけて得る材料は混入しないだろう。シドは他人に危害を加えずに生活できるのだ。習一は一安心し、瓶を机にもどす。
「それで、あんたは寝ないでなにをしてたんだ?」
「生活費の試算をしています」
「なんだ、やっぱりオレがいるとカツカツなんじゃねえか?」
「これは……オダギリさんが一人で生活することを想定した計算です」
シドはノートパソコンを片手に持ち、習一に見せた。画面に数字の羅列が表示してある。
「一人暮らしをする大学生の生活費の平均値を参考にしました。加えて学校に通うとなると、教材費や修学旅行などの出費もありますから……」
「オレにこれだけ稼げ、と言いたいんだな?」
「いえ、私が負担します。高校生生活の残りの約一年半、私の貯金でまかなえることがわかりました。貴方は安心して勉学にいそしんでください」
「安心して、っつってもな……」
このまま家出状態で新学期を迎えたなら、親との軋轢(あつれき)が教師連中に問題視される。とても勉強に身が入る環境ではない。
「雒英高校は貴方が通いたくない学校ですか?」
シドがわかりきったことを尋ねる。これは確認だ。習一は口をつぐみ、うなずいた。
「では転校しましょう。才穎高校はいかがです? 常識では推し量れない人がいますけど、心優しい方が多いですよ」
「オレ個人で決められるか? 学校側がオレみてえな問題児を抱えたくないだろ」
「たった今、言ったでしょう。常識が通用しない人がいると。それは校長です」
習一は才穎高校の評判を思い出す。ありえない基準で入学者を選定する、色物高校。
「オレが校長のおめがねにかなう、と?」
「はい。その素質は備えているように思います」
「どういう審査なんだ?」
「ありていに言えば異性にもてる人物が好まれます。くしくも私は風貌の立派な男性を模して、採用と相成りました」
「見てくれのよさでか? それじゃアイドル養成所じゃねえかよ」
「外見はファクターです。ようは校長がお好きな恋愛騒動を起こす逸材だと思わせることが大事です」
「オレは女に興味ないぞ。男にもねえけど」
「私も同じです。言い換えると周りが勝手に騒いでくれればよいのです。校長も含めて」
「おめでたい学長だな……ま、そのぐらいおバカなほうがオレに合ってるかもしんねえ」
珍しく習一は好意的な返答をした。事実、中退をしないのならこの教師が在籍する学校に行ってはどうだろうと薄々思っていた。はじめは白壁に促されたのを頭の片隅に追いやっていたが、シドとの交流を重ねるにつれて現実味を帯びてきた。
(こいつがいるんならきっと、いい学校なんだろう)
小山田も過去に習一と敵対したとはいえ現在は普通に接している。彼女は習一のせいで傷を負ったのをおくびにも出さず、食事の用意をした。彼女の友人も後腐れがなさそうだ。たとえ習一を敵視する者がいても、不要な争いを避けたがるシドが釘をさすだろう。
シドはパソコンを机に置いた。くるっと椅子を回して習一と顔を合わす。
「残るは親御さんの件ですね」
習一の眉間に力がこもる。多くの事柄に整理がついても、父と対決する心構えは万全でない。
「もし差しつかえなければ……なぜ貴方の父親がわが子を憎むのか、教えてくれますか?」
「それを知って、どうなる?」
「和解の道を探るにはまず、真相を明らかにせねばならないと思います」
「和解なんかできっこねえよ。オレは、本当の息子じゃないんだ」
習一は腹をくくった。質問者はすでに他言無用の素性をさらけ出したのだ。自分もその誠意に応えねばならないという義務感が芽生えた。聞き手は顔色を変えずに黙っている。
「はっきりした根拠はないみたいだけどな。そんな話を夫婦喧嘩の時に聞いた」
「貴方の母親に不貞行為があったのですか?」
「それは知らない。オレが知ってるのは両親の結婚前に、母親に恋人がいたってことだ」
習一は直接会ったことのない人物に思いを馳せる。
「その恋人は父親の友人だった。この二人が付きあってることはあいつもわかってた。相手の男が海外の仕事に就こうとしたら母親と別れて、あいつがかあさんと一緒になった。すぐに二人は結婚して、オレが生まれた。妊娠期間が前の恋人のいた時期と被るから、疑われてる」
「遺伝子の検査で父親が判明するでしょう。どうして不明なままにしておくのです」
「それがあいつのバカなとこなんだよ。出産後すぐ検査すりゃあいいものを、その時は自分の子だと疑いもしなかったそうだ。看護師どもが『お父さん似ですね』と言ってきて、その気になってたらしい。オレ、母親似なのにな」
実父でない可能性のある男を「あいつ」と呼び名を固定して習一は説明を続ける。
「あいつがオレを本当の子じゃない、と思ったのはオレが物心ついてから。頭が回り過ぎるところが、あいつの友人に似ていたんだとよ。一つ疑うとなにもかも疑わしくなる。だから、オレはあいつに冷たくされた記憶ばっかり残ってる。そんなに疑うなら調べりゃいいとはあいつもわかってるはずだ。でも、やらないんだ。本当の子だったからって急に態度を変えられるもんじゃない。思いこみだけでオレをいじめられればそれで満足なんだ」
もしも息子が実の子だと判明した時、父はピエロに成り下がる。その可能性をおそれて真実をあきらかにできないのだとも考えられた。
「あいつの友人は切れ者だった。見た目はぼーっとしてるのに毎回成績が上位で、司法試験に一発合格したんだとさ。あいつは一度落ちたから余計にみじめだったんだろ。オレが高校でいい成績をとったら、あいつは言った。『やっぱりあの男の息子なのか』ってよ」
その言葉は両親の口論の後日に出てきた。すでに父は息子に隠し立てする意欲がなくなっていたのだ。
「必死に勉強していい成績をとれば……親はみんな喜ぶもんだと信じてた。まちがってないだろ? 自分の子がバカだから喜ぶ親はかなりの変人だ」
「はい。世間一般的には、その通りです」
「いい成績を見せても渋い顔をすんのは『その程度で喜ぶな』と、高い目標をオレに期待してるからだと思ってた。けど全然違った。あいつはオレが秀才だと言われるたびにオレを憎んでいた。あいつの上を行った友人が時間を越えて、また自分を笑い者にする──」
この推測は習一がカミジョウの子だと断定した上で成り立つ。習一は想像を膨らませる。
「形を変えた友人を痛めつけて、プライドをずたずたにしてやれば、初めて勝ったことになる──そういう思考だ、あいつは。人の好いあんたにゃ死んでもわからないだろうよ」
習一で鼻で笑った。愚かな父親と、その父に媚びてきた己への嘲笑だ。
「あいつは妹を溺愛してる。妹はいま、中学生だ。塾に行ってても成績はせいぜい中くらい。塾に通う前は下の中だった。オレの時は『中学生が塾なんぞ行かなくていい』とぬかしてたくせに、妹になったら金に糸目をつけないでいやがる。勉強のできない子どものほうが可愛いんだろうな。自分の子だと安心できるから」
「……根が深い確執ですね」
傾聴していた聞き手が控えめに感想を述べる。ほとんどが習一の憶測でしかないことを、彼が否定するかと習一は思っていた。人間の醜さを持たぬ異形に「そんなことはない」と諭された時は受け入れるつもりだった。だが、シドは習一の洞察を全面的に支持する。習一は胸に小さな懐炉が入りこんだような温かみが広がるのを感じた。
「オダギリさんは父親との共存ができないことはわかりました。では、貴方はどうしたいですか? 自分を虐げてきた父親への復讐を果たしたいのでしょうか」
「やりたい、つったらあんたはどうする?」
「法に抵触しない範囲で、加担しましょう」
真顔で答える様子に、習一は声をあげて笑った。目の端に熱いしずくが溜まる。
「もう、どうでもよくなっちまったよ。無駄に疲れるだけで……なにも変わりゃしない」
「でしたら、これからどうします?」
「最低限、別居することは伝えなきゃな。あと学校を替えるのも……学費、どうすっかな」
「才穎高校の学費も私がなんとかできます」
「あんたに頼りっぱなしは癪だ。放課後に稼げるとこ、知らないか?」
シドがベランダに顔をむけて黙考する。その隙に習一は目をこすった。
「心当たりがあります。オヤマダさんに確認してみましょう」
「お好み焼屋で働くのか?」
「いえ、そちらは人手が足りているそうです。もう一つのお店のほうです」
小山田と関わりのある店。勘付いた習一はその店に抵抗があるとわかる渋面を作った。
「大丈夫ですよ。店長さんや店の仕事は普通なんですから」
シドは机の端にあったサングラスを取り、定位置にかけた。光葉の攻撃を受けたまま公園に置き去りにしたかと思われたが、きっちり回収していたようだ。
「さて、オダギリさんのご両親は早起きな方たちでしょうか?」
「どうかな。失踪していた息子が帰宅するのは早いほうがいいと思うが」
「そうですね。では支度しましょう」
シドはメモ帳の紙をちぎり、書置きを用意する。紙には「散歩に行きます」とあった。
「散歩のノリで行く気か?」
「はい。そのくらいの気持ちでいましょう。殴りこみに行くのではありませんから」
「オレはまぁ、殴り合ってもいいんだけどな」
「拳が心を通い合わせるツールになるのでしたら、止めはしません」
「んな漫画みたいな美談にもっていけねえよ」
シドはロフト下の壁際に立った。その壁はクローゼットの戸だ。がらがらと戸を動かし、中にあったタイピン付きのネクタイを取る。以前にも見た、三つの宝石がついたタイピンだ。習一はそれが彼の趣味だとは思えなかった。
「そのタイピン、貰いもんか?」
「ええ、オヤマダさんから頂いたものです。私が……この世界に残る証ですよ」
シドはタイピンを大切そうになでたあと、ネクタイを締めた。
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