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2018年12月12日

習一篇草稿−4章

1
 正午を過ぎたころ、習一たちは動物を見終えた。近くの公園に行くと手ごろな木陰に銀髪の少女が待機していた。二メートル四方の敷物の上にバスケットと水筒、そして彼女が常用するリュックサックがある。習一たちは膝を抱えて座る少女に合流した。
「今日のお昼ごはん、手作りのサンドイッチだよ」
 バスケットの蓋を開けると、中はラップにくるんだサンドイッチがすし詰め状態になっていた。エリーは水筒のコップに飲み物を注ぎ、習一に渡す。
「これ、ふつうのお茶。ぜんぶシューイチのものだから、好きなだけのんでね」
 習一はぐいっと茶を飲み干した。冷たい液体がさらさらと胃へ落ちるのを感じる。習一は入園以降、水を口にしておらず喉はカラカラになっていた。だがのどをうるおす機会は何度もあった。教師が自動販売機の前を通過する際に「なにか飲みますか」と尋ねたが、習一はかたくなに拒否した。熱気で汗を流す習一とは違って、教師は常に涼しげな顔をする。相手が飲料を欲さぬうちに習一が彼の厚意に屈するのは、なんだか悔しい気がした。
 習一が二杯目の冷茶をコップに入れる。水筒を動かすたびに氷の粒同士がぶつかった。
「そんなに喉が渇いていましたか」
 その声には渇きを自己申告しなかった者への非難はない。他者へのいたわりが欠けていたという自責の念が微量に含んでいた。習一はコップ越しの冷気を手に感じながら「あんたが気にすることじゃない」とぶっきらぼうに告げた。教師は頭を横にふる。
「脱水症状や熱中症で倒れてからでは遅いのです。私とエリーは暑さ寒さに鈍いので、私どもに合わせていては貴方の体がもちませんよ」
「寒いのも平気だと? おまえら、どういう土地で育ったんだ」
 色黒な者が多い熱帯地方出身ならば日本の猛暑に耐えうるかもしれない。だが彼らは概して寒冷な気候に不慣れだ。寒暑両方を苦手とする人間はいても、逆は通常いない。
「出身地……涼しい土地だったと思います。長袖で過ごす人が多かったようですから」
「他人基準でしか判断できねえのか?」
「そうですね。おおまかに温度は感じられるのですけど、それが人体にどれほどの影響を与えるかを知るには、他者の様子を参考にしています」
「変なの……機械が自動判別する時にやりそうな方法だな」
 習一は空けたコップを敷物の上に置き、手つかずのサンドイッチを手にした。前回食べたサンドイッチは白いパンだったが、今回は茶色の焦げ目がついている。
「今日は時間によゆうがあったからトーストしたの。前よりおいしくなってる、のかな」
 エリーはリュックサックの中を探ってタンブラーを二つ出した。
「これはわたしたちのごはんね」
 一つを教師に手渡した。タンブラーの容量は目測五百ミリリットル。それだけで大の男の腹が満たせるとは思えない。
「サンドイッチも食うんだろ?」
 習一が教師に尋ね、「いくつかはもらいます」と返答があった。しかし銀髪の彼らがバスケットに手を伸ばすことはなく、飲料を飲むだけだ。
「この少食ぶりで、よくそんな図体になれたな」
「体型と食事にも少々事情がありまして。後日お教えします」
 今は話せないというお決まりの文句だ。習一は軽く流した。話題変えなのかエリーが動物園を見物した感想を習一に聞くので「真夏に動物園に来るもんじゃない」と答えた。
「シューイチ、暑くてつらかったの?」
「オレはまだ平気だ。動物がどいつもこいつも、だらけていやがった」
 暑さにやられ、猛獣の長たるライオンや虎までもが地べたをごろついた。その様子には威厳が欠片もない。想像にたがわぬ生活を保ったのは元々の動きが緩慢なゾウやプールがあるペンギンなどに限定され、それ以外の動物は気だるそうだった。本日は曇天であり、比較的気温が低いため過ごしやすいのだが、毛皮をまとった動物には些細な差のようだ。
「元気な動物を見るには適さない時期だったのかもしれませんね」
 教師は習一に同調した。
「私はのんびりした彼らを見るのも楽しめましたが、貴方は物足りませんでしたか」
「さあ……動物園はあんまり来ないところだからな。退屈はしてない」
 習一は次々に用済みのラップを丸めて自身の足元に並べた。サンドイッチの具材は前より種類が豊富になり、あぶった鶏肉を小さく切ったタイプが一番美味だった。その評価をぽろっと口に出すとエリーが「やっぱりミスミは料理上手なんだ」と言う。
「ミスミ、てのはだれだ?」
「シドがシューイチのごはんのたよりにしてる人。もう一人、てつだってくれてる人がいるんだけどね。そうそう、明日から三日間の夕飯もミスミがつくってくれるって」
 少女の説明を教師が引きつぎ、学校の補習を終えた夕方はオヤマダという家へ訪問して夕食をとると言った。朝昼の食事もオヤマダ家の者が用意するのだと教師は述べる。
「オダギリさんの口に合った家庭料理のようですし、問題はないと思います」
「その家の連中はあんたの教え子の父兄……なんだろ。教師が個人的に自宅訪問していいのか?」
「校長の許可が下りていますから公認です」
「オレのことを、才穎の校長に?」
「はい。校長もオヤマダさんたちも、貴方への支援には協力的です」
「物好きがいるもんだな。補習が終わった後は……オレとそいつらの縁は切れるのか?」
「どうでしょうね。状況に合わせて、また食事の用意を頼むかもしれません。補習を終えて片が付くことは学校の事情だけです。家庭のほうは手つかずですから」
 言いにくいことをぽんぽん言うやつだ、という思いを習一は胸の内にとどめた。一番の問題は満足に食事もできない家庭環境にある。
「私は一度に複数のことをこなせません。家のことは補習を終えたあとで考えましょう」
「考えたって無駄だ。あの頑固オヤジをどうこうできるわけがない」
「その件は後日に取り組むとして、今日の午後の予定ですが──」
 風呂屋に行こう、と教師は言い出した。その計画自体は昨日提案されていたものだが。
「こんな真っ昼間にか?」
「食事処や休憩所があるリラクゼーション施設です。そこで夜までゆったりしようかと思います。着替えは服屋でそろえましょう」
 またも習一と縁遠い場所へ行くことになった。冷房のある室内で長時間過ごす分には体の負担は少ない。習一は教師の計画に乗った。

2
 習一が残した昼食は銀髪の二人がたいらげた。水筒やバスケットはエリーが回収して去る。彼女は風呂屋には同行しないという。しかし、教師の着替えを後で届けるそうだ。
「あいつを使いっぱにしてていいのか? オレだったらいい加減、うんざりするぞ」
「エリーは嫌なことを嫌だと言える子ですよ。それと貴方が思う以上に彼女は身軽です」
 軽業師的な運動能力は習一も認めるところだ。だがその言い方は物を運ぶための行き来が苦にならないことを指す。教師の扱うバイク以上に機敏に動ける乗り物を少女が使うようには見えないのだが。習一はこの疑問をぶつけてみたがはぐらかされた。
 習一たちは服を買いに量販店へ行った。適当に安くて無難なデザインの衣類を一ひろいと、タオルを数枚選ぶ。習一は購入時に率直な疑問をぶつけた。
「あんたの着替えも買えば手っ取りばやくすむんじゃないか」
「それも考えましたが、服決めに手間取るおそれがあったのでやめました」
「なんだぁ? 買う服をすぐに決められないのか。案外、女みたいなやつだな」
「女性の迷いは『どの服が自分に似合うか』を選りすぐっての結果でしょう。私は服の良し悪しがわからないのです。ファッションセンスはありませんから」
 教師は服に興味がなさすぎて選べない性質らしい。スーツ姿を見るかぎりは持ち前の容姿もあいまって、野暮ったい男性には見えない。習一はこの告白を半信半疑で聞き流した。
 購入した衣類は店名のロゴを印刷した袋に店員が入れる。その袋は一時、リアボックスにしまう。そして目的の風呂屋へ向かった。この時の習一は自分が汗臭いと感じたが、前方の教師は洗剤の匂いを放っていた。
(気温がわからなくて服のよしあしもわからん、か……)
 飲食も発汗も満足におこなえぬ男。彼はロボットなのではないか、とそんな仮想を思いつく。物語の世界では描かれることだ。人とそっくりな機械が人間社会にまぎれて一騒動を起こす。その行動が人にとって善であったり悪であったり、傾向はまばらだ。善人に扮した悪役のケースもある。この男は真実、どういう人物なのだろうか。
 疑おうと思えばいくらでも嫌疑はかけられる。善人を装う悪人は吐き捨てるほどいるだろう。そう仮定すると、教師は習一を懐柔したあとで我欲を満たすなにかを得る。よくある目当ては金銭だろうが、習一の父が息子のために身銭を切るはずはない。そう、教師はなにも得しないのだ。習一を更生させるにせよ謀るにせよ、見返りは皆無。
(バカバカしい……大体、こいつの妹も知り合いの警官もお人好しだろ)
 不満一つ言わずに教師に従う少女と、話し相手の毒気をぬく温和な警官。この二人が教師の仲間だ。人物の内面はその交友相手によって見抜けるという。全員が詐欺師ならば例外だが、習一と同年の少女に高度な腹芸はできないだろう。習一は疑心暗鬼を頓挫した。
 到着した風呂屋はあまり大きいという印象のない建物だ。和風の建築物の中は小奇麗な宿泊所のようでもあった。二人は脱いだ靴を下足箱に入れる。教師が受付の店員に話しかけ、財布から紙切れを出した。それは紙幣ではなくこの店の回数券だ。
「ここによく来るのか?」
「いえ、初めてです。回数券は譲ってもらいました」
 教師は提供者には言及しなかった。習一はその人物をなんとなく、自分に食事を用意してくれる人たちだと思った。二人は空気の冷えた店内を進む。手ぶらの教師は「エリーを待ちます」と別行動をし、習一は一人で男湯ののれんをくぐった。脱衣場のロッカーに荷物を置く。新品の衣類の包装を外し、風呂あがりにすぐ着れる準備をした。脱いだ服は服屋でもらった袋に詰める。教師が「着ていた服は袋に入れて、あとで私にください」と言ってきたのだ。衣類を洗濯して返すという申し出を受けて、習一は口答えせずに従った。
 必要かどうかわからないタオルを一枚持って浴場に入る。しかし大多数の利用客が局部を隠さずに奔放にしていた。風呂屋側のルールでは「タオルを湯船につけないでください」とあったので、タオルを持ち込まないほうが望ましいのかもしれない。
 習一はまず全身にシャワーを浴びた。備え付けの液体石けんで体を洗い、汚れが落ちたあとで湯船を選ぶ。内湯には人が多くいたので露天へ行き、無人の壺湯に入った。巨大な壺の中に入る経験はついぞない。人体が沈むごとにあふれ出る湯をじっと見ながら、肩までつかった。湯に入れられないタオルは頭に乗せる。規則を破っても今さら習一は気にしないが、現在は生真面目な保護者がいる。穏便に過ごせるよう心掛けた。今の己の格好がよくある入浴者のスタイルと同じになったことに、しばらく経ったあとで気付いた。
 絶え間なく湯を注ぐ竹筒を眺めた。時間の流れが遅くなったかのような現実離れした空間にいる。のぼせてきた気がすると浴槽をあがった。次に底の浅い風呂へ入り、高所より落ちる湯を肩に当てる。まだ明るい空を見つつ、体の熱がゆるく下がるのを待った。
 近くの露天風呂からじゃぶんと音が鳴る。誰か入浴したと思った習一が見てみると例の教師だった。彼も頭にタオルを置いていた。外国人風の者には稀有な姿である。サングラスはかけておらず、青い目が露出する。西洋人の特色らしき瞳の色だ。習一はなぜか体がすくんだ。
「風呂を利用されているようでなによりです」
 異人が視線を逸らした。習一への関心はとぼしい。浴場では習一と行動を共にしないようだ。習一もこの状況下で他人が付きっきりにいられては気色が悪い。教師の心中を推し量り、習一は屋内の風呂へ向かった。内湯は茶色の湯が張られ、薬湯のおもむきがある。客入りの良さからうかがうに、体によい成分があるのだろう。習一は健康をおもんばかって人々の隙間にもぐりこんだ。湯から微妙な鉄の匂いを感じる。あまりいい香りではないな、と思い、長居をせずに上がった。シャワーを浴びて風呂の湯を流し、脱衣場に行く。新品の乾いたタオルで体を拭いた。下半身だけ服を着て扇風機の風に当たる。湯上りに出る汗がおさまった頃にシャツを着た。そのまま脱衣場を出ようとした時、呼び止められる。
「オダギリさん、髪がぬれていますよ」
 習一が振りむくとそこに半裸の教師がいた。首にタオルをかけた状態だった。
「ほっときゃ乾くだろ」
「衛生的に良くありません。ドライヤーを使いましょう」
 習一が教師の提言を無視してのれんに手をかけた。その手首を浅黒い手がつかむ。
「ものの数分で終わります。ついてきてください」
 教師の連行を食らい、習一は洗面台の前に座った。壁に設置した大きな鏡が後方の教師の所作を映す。彼はドライヤーの機械音を鳴らし、生ぬるい風を習一の髪に当てる。風に煽られて動くのは脱色した髪の部分。黒い根元は染髪した部分と明確に色が分かれていた。
「髪が伸びていますね。風呂屋を早めに出て、散髪しに行きますか?」
「今日はもういい。疲れた」
「わかりました。せっかくですし、今日はここでゆっくりしていきましょう」
 鏡ごしに見える教師の顔は穏やかだ。彼はどんな思いで縁もゆかりもない子どもの世話をするのだろう。習一は黙って人工的な風を頭部に受け続けた。

3
 学校の補習を受ける日になった。今日も銀髪の教師は習一に同行する。制服に着替えた習一が玄関を出てすぐに銀色の頭髪を発見した。今日の彼は薄黄色のネクタイを首に巻き、銀色のタイピンでシャツに留めている。そのタイピンには三粒のカラーストーンがはめてあった。一般的に見ないデザインだ。オーダーメイド製の品だろうか。
「オダギリさん、おはようございます。これから三日間の補習、私が同伴します」
 決定事項を復唱された。習一はうなずく。昨日一昨日と教師と共に過ごした経験上、特筆すべき彼への不満は抱かなかった。この後の数日も似たようなものだと楽観視した。
 補習の開始時刻より早く教室へ入る。無人の一室で、習一は教師に手渡された朝食を口にした。朝食は昼食の弁当と一緒にトートバッグに入っていた。昨日の朝食と同じメニューだが、それで充分である。おにぎりは毎日食べても飽きないし、なにより味付けがうまかった。料理下手な習一の母親ではこの品質を毎日保てまい、と胸の内で比較した。
 習一に同行する教師は来客用の玄関を通って補習の会場へ来た。学校の備品のスリッパをペタペタ言わせて歩く様子は少し不恰好だ。しかし彼がスリッパの音や形状に不満を募らせる素振りはない。ただ一言「歩きづらいですね」とスリッパを履いた足を上げてみせる。底の長さが足りず、かかとがはみ出ていた。
 廊下がガヤガヤと人の話し声や靴音でにぎやかになる。生徒が登校しているのだ。この高校は進学校なだけあって夏休みも一定の期間、授業を行なう。単位や成績には関係しない、気楽な内容だ。しかし休みを返上しての学習には意欲が削がれる者がおり、名門への進学を考えない者は途中で抜けることもあるようだった。
 習一のいる教室に生徒が二人入室する。親しげな男女は習一と他校の教師を一目見て表情を凍らせた。当然の反応だ。校内一の不良と見知らぬ男性が同室者なのだ。習一はそっぽを向き、男女に対して無関心でいた。銀髪の教師は男女に軽く挨拶をする。
「私はオダギリさんのお目付け役です。私たちのことはお気になさらず、補習を受けてくださいね」
 教師は親切極まりない声色で、おびえ気味の生徒をなだめた。彼らはとなり合った席に着く。女子のほうはちらちらと習一のいる席に視線をやったが、習一は無視を決めこんだ。
 室外の喧騒が落ちつき、補習を行なう教師がやって来る。習一とは気の合う社会科担当の掛尾だ。色黒の教師が中年に一礼する。
「カケオ先生、今日から三日間の補習をよろしくお願いします」
「それじゃまるでシド先生が補習を受ける生徒みたいじゃないか。まあ、先生のことは他の教師にも言ってある。フツーにしててくれればいい」
 掛尾は続いて補習と課題の説明をした。補習は掛尾以外の教師も担当する。課題は今週中に掛尾に提出する。赤点のない科目の補習は受けなくてよい──三つめの説明は習一以外の生徒に向けた言葉だ。期末試験を受けなかった習一は全日補習を受けねばならない。
 補習がはじまると掛尾はプリントの問題文に補足したり、空欄の答えを生徒に質問したりする。習一は事もなげに答えるが、男女はしどろもどろに誤答を発していた。
 二時限分の授業を終えると掛尾は退室した。次に来た教師は習一の担任だ。年かさは四十近い三十歳代だというが精神的な年齢は銀髪の教師より低い。相手は無表情を繕いつつも、棘のある視線を習一と銀髪の教師に投げる。習一は極力担任の顔を見ないようにした。
 担任は一時間だけ教鞭をとり、昼までの残り一時間は別の教師がおこなった。科目内容は同じである。掛尾のように二時間続きでやればいいものを半分を他人に任せた。好意的に見れば他の授業の都合で抜けたのだろうが、落ちこぼれの面倒を看たくないというのが習一の見立てだった。
 昼休憩の時間になり、習一は弁当を机の上に出した。さりげなく銀髪の男を見ると彼はノートに何か書き付けている。その文字列は黒板に書かれた文言と解説者の余談だった。
「あんたが、なんで生徒の真似事をする?」
「せっかくですから復習させてもらいました。生徒の立場になるのは希少な体験です」
 ひとたび教員免許を取ってしまえば高校レベルの学習は不要ではないか、と習一は思った。この勤勉な教師に「変人だな」と感想をもらす。
「こんなもん、あんたにゃいらねえ知識だろ」
「なにごとも学んで無駄になるものはありませんよ」
 もっともらしいことを教師は言う。習一は聞き流して昼食に手をかけた。その時、がらがらと教室の戸を開く。開けた者は同じクラスの男子生徒だ。白壁という、成績優良児ではないが赤点を取るほど学が無いわけでもない男だ。
「おお、ちゃんといるんだな!」
 そこそこに体格の良い男子が鞄を提げて入室する。彼は習一の隣席に鞄を置き、サングラスをかけた男に握手を求める。
「おれは白壁といいます。あなたがシド先生ですね。お噂はかねがね聞いています」
 教師は戸惑いながらも白壁の手を握った。白壁はさらにもう片方の手で教師の手を固く握る。熱のこもった歓迎だ。男子の両手に解放された教師は不思議そうに相手の顔を見た。
「どなたから私のことを聞きましたか?」
「先生が補習に来ることは掛尾先生に聞きました。先生自体は以前から知っています」
 白壁は得意気な笑顔で着席する。教師が「才穎の生徒とお知り合いですか」と尋ねるとうなずき、「センタニさんのご友人でしょうか」と言われると目を見開く。
「どうしてあいつとおれが友だちだとわかるんです?」
「お二人に通じるものを感じました。センタニさんも礼儀正しく武芸に長じた生徒です」
「おれが武芸家だとわかるんですか?」
「立ち居振るまいを見ると、ある程度はわかります」
 白壁がなにやら感動した様子で「先生は評判通りの人みたいですね!」と嬉々として言った。彼は教師目当てで来たのだと習一は判断し、黙々と弁当を食べる。自然と耳に入ってきた会話をまとめると、白壁には才穎高校に通う古馴染みが最低二人いる。教師が言うセンタニとは別に女子の友人もいて、彼女がシド先生なる英語教師について情報提供していたという。シドという若手教師がいかに強く、優しく、かっこよく、そして底知れぬ怖さを持つかを聞かされたそうだ。「怖い」の部分は習一の興味を惹いた。
「『怖い』っつうのは、どういうところを指してるんだ?」
 白壁が意外そうに口ごもる。
「え……それは、小田切さんが一番よく知ってるんじゃないか?」
 習一は田淵が知らせた事件のことだと理解した。だが習一自身が女子相手に喧嘩をする事態はめずらしい。白壁の知人女子は別件を述べているのではないかと思った。
「そういや、記憶がところどころ抜けてるんだっけか。忘れてるほうがいいのかもな」
 白壁は具体的な教師の怖さを述べない。本人がいる手前、軽々しく言えないのだろう。習一は自身の不良仲間も銀髪の教師に畏怖したことを思い出して、質問は重ねなかった。

4
 午後の補習が終わる。習一は用済みの課題プリントを掛尾に提出して校舎を離れた。多くの生徒は午前中に授業を終えて帰宅したが、校舎には部活動に励む生徒がまだ残る。目立つ銀髪の教師への注目を集める前に立ち去りたかった。習一は正門で教師と合流する。
「夕飯にはまだ時間があります。少し時間をつぶしましょうか」
 教師は習一に行きたい場所の有無を尋ね、習一はつっけんどんに「ない」と答える。すると教師は予想外な行き先を提案した。
「ゲームセンターに行きましょう。欲しい景品があります」
「あんたが? 本当に?」
「正確には他の方がほしがっている物です。以前に挑戦してみて、全く取れなかったと言っていました。オダギリさんはクレーンゲームが得意ですか?」
「いや……あんまりやらない。ほしいと思うもんがなくってな。観戦ばっかりだ」
「そうですか。得意でしたら貴方に代行してもらおうかと思っていましたが」
「あんなもん、店側がゲットしにくくしてるに決まってる。絶対取ろうなんて思うなよ」
「はい、引き際をわきまえます」
 真面目くさった受け答えをする輩がゲームにヒートアップする光景は想像できない。習一は不要な助言を与えたと思った。二人は習一が通い慣れた遊興所にたどり着く。二階建ての施設からもれる音が街路にも伝わっていた。教師は一階にあるプライズコーナーにまっすぐ向かう。その的確な歩行は、ここは彼が初めて訪れた場所ではないことを意味した。
「プレイしたこと、あるのか?」
「こちらの店では一度もありません」
「そのわりには迷いがないな」
「下見は行ないました。景品の形状と取り方の種類を知ると事前の対策が楽になります」
「たかがゲームにも予習かよ」
「女子供に景品を渡さないゲーム相手です。生半可な気持ちで挑めば玉砕必至でしょう」
 つまり教師に泣きついた人物は女性か子どもだ。その無念を晴らすことに彼は静かに躍起になっている。つくづく他人のために生きたがる男なのだと習一は呆れた。
 景品を押しこめたゲーム機には種々様々なグッズが並ぶ。人気のある漫画およびゲームのキャラクターを模した人形やぬいぐるみのほか、市販の菓子を景品仕様にした大型の菓子などが取得対象だ。教師はクレーンを操作する台に手を置いた。そのゲーム機の景品は長方形の箱だ。箱の中身は忍者らしきデザインの人形。手に鉤爪を装備した覆面男である。
「忍者……? なんの作品のやつだ」
「幕末を舞台にしたアクションゲームだそうです。家庭用ゲームなので、ゲームセンターでは遊べないようですね」
 教師は丹念に景品と景品の落下口をいろんな角度から見た。この機種は左手前に大きな穴があり、右側には幅の細くなった穴が設けられ、景品が橋のように穴の上に横倒しで置いてある。プレイヤ―の正面に見える箱の底の幅は右側の穴より大きく、細い穴からは落とせない仕組みだ。二本脚のアームの出入り用に空けた穴らしい。穴と景品の間には小さく切った段ボールが敷かれ、赤字で線と「初期位置」の文字が書いてあった。店が提示する初期位置と現在の景品の位置はずれており、二センチほど左の大穴に近い。
「ここまで運んで、諦めた人がいるのですね。普通にやっても動かせないのでしょう」
 教師は小銭を出して投入する。正攻法ではかなわないと宣言した通り、真っ正直にアームで景品をつかむ方法はとらない。箱の端に落下するアームの先端を押し当てたり、アームをわざと景品の上を通りこして左右に開くアームの動きで押し出したりした。だが目に見えての進展はなく、箱が傾いても元通りの位置に戻るか、アームが箱の重量に負けて逆に押し返されていた。雲行きが怪しくなってきたものの、プレイヤーの表情に変化はない。
 初期投入から景品獲得のチャンスが残り一回になり、彼は深い息を吐いた。
「……今から見たことは、他の人には黙っていてください」
 小声で発した言葉はゲーム機が鳴らす音に半分かき消された。かろうじて聞こえた要求を習一が理解した時、漫然とした意識を正す。教師の最後のプレイは景品を正直につかみに行った。倒れた箱の側面をアームの両端が引っ掛ける。箱が斜めに持ちあがったが力の弱い腕は箱を置いて定位置に戻ろうとする。その時、アームと箱の接触面に黒い影が伸びた。
「え……?」
 習一は初め、猫が忍びこんだのかと思った。黒猫が景品の出入口に侵入してゲーム機の中にいると。しかし違った。機体をどの方向から見ても棒状の黒い物体が穴の下から伸びるのみ。生き物の胴体や頭は発見できない。謎の黒いものは役立たずのアームの代わりに箱を支え、落下口まで動かす。カコン、という落下音が響き、教師は目的物を手にした。
「なんとか取れましたね。汚れないうちに届けに行きましょう」
 異常などなにもなかったかのように教師は場を離れる。習一は本当の景品の取得者について問い詰めたが、教師は決まり文句の「記憶が戻ったあとで話します」でお茶を濁した。
 怪奇現象を目の当たりにして習一は心中穏やかにいられず、教師に詰問を続けるも効果はなかった。ゲームセンターを発ったあと、教師は先ほどの現象をはぐらかすようにゲームに興じた経緯を説明した。教師は忍者の人形を求める人物に会ったことがなく、その人物がほしがるからあげたいと言った依頼主が彼の教え子だという。この教え子こそが習一に食事を用意する一家の娘であり、習一が夕飯に相伴させてもらう家の者だ。
「私は彼女から多大な恩を受けています。少しずつ、恩に報いたいのです」
 教師は作り物の忍者の顔を見つめる。習一は意地悪い指摘を一つ思いついた。
「どんな不正をやってでもか?」
 教師は顔を上げた。その顔は習一を見ないで、前方を見据える。
「たしかに先程、ズルをしました。褒められた行為ではないと思います」
「あんたを責めはしない。店が根性の悪い設定にしなきゃ、やらずに済んだだろうしな」
 教師がいくらか話を聞く姿勢になった、と踏んだ習一は棄却された質問を繰り返した。
「あの時に出てきた黒いやつは何者だ? あとで話すんなら今教えてくれたっていいだろ」
「失くした記憶がもどればわかりますよ。貴方は以前に同じものを見たのですから」
「じゃあ、さっきのやつをもう一度見せてくれ。それで思い出すかもしれん」
「今はできません。別の場所へ移ってしまいました」
「そいつは生き物なのか?」
「ええ、そうです。いずれきちんと教えます。焦らないでください。貴方は他に解決すべき問題を抱えているのですから」
 答える気がないなら思わせぶりなものを見せなければいいのにと習一は心の中でこぼした。教師は遊興に慣れた習一の助力を期待したのだろうが結果的に居なくとも同じだった。

5
 教師の案内により、習一は小山田と書かれた表札のある一軒家を訪問した。玄関の靴箱の上に花が飾ってある。オレンジやピンク色などの明るい色調の花びらが印象的だ。
「この花、もしかして……病院でもらった……」
「貴方がエリーにあげた花です。少し数と花弁が減りましたが、まだ咲いています」
「オレがもらってから一週間くらい経ってるぞ。この暑さでよく傷まないな」
「こまめに手入れをすると夏場でも長持ちするそうですよ。切り花を延命する道具もあるといいます」
 二人が話していると家の者が一人、廊下に現れた。長い黒髪をポニーテールにまとめた、目つきの鋭い少女だ。習一はその顔立ちに既視感を覚えた。教師が少女に会釈する。
「オヤマダさん、お邪魔します」
「はーい、先生もオダさんも遠慮なく入ってね」
 眼孔に似合わず、声音は柔らかい感じがした。年齢的に彼女が教師の教え子なのだろう。女子生徒は教師の手中にあるパッケージを見て笑顔になる。
「先生はなんでもできるんだね」
「実力では取れませんでした。最後にあの子に助太刀をしてもらって得たものです」
「そういうのもできるの? 景品が取れ放題になっちゃうね」
 吊り目の女子は教師の異能力を容認する。習一は知らない事情を把握しているのだ。
(こいつから聞き出すのもアリ、か?)
 口の堅い教師に代わって情報源となりうる相手だ。習一が彼女の長い黒髪をじっと見つめると不意に黒い粒がにゅるっと出現した。目をこらすと粒はすぐに無くなる。
(なんだ? あの教師が呼んだのと同じやつか?)
 聞いても教えてくれそうにない異常について、習一は胸に秘めておいた。
 銀髪の男は景品の話を続け、ズルはしたくない、と告げて女子の同意を得る。
「お店が立ちいかなくなったらまずいもんね。こういう頼みごとはもうしない」
 この生徒も我欲がとぼしい性分らしい。習一の不良仲間の田淵なら、元手が少なく済むほど転売でぼろ儲けできると言って飛びつきそうな話題なのだが。
(育った環境の差かね)
 玄関先に活けた切り花への丁重な扱いといい、この家の人々は習一の身近な人間とは異なる気がした。同時に、彼女らと親しい教師は詐欺師とは程遠い人物だと認めた。
 三人はふすまを開けた先の和室に入る。冷房の利いた畳の部屋には長方形の木製のちゃぶ台が据えてあった。ちゃぶ台の周りに並べた座布団に習一と教師は座る。案内主は立ったまま、習一から弁当の入ったトートバッグを受け取った。
「冷たいジュースを飲む? それともお茶?」
「冷えた茶がいい」
 了解した女子生徒は教師に飲料の希望を聞かなかった。習一は、彼女が教師の好みの飲み物を事前に承知しているから聞く必要がないのだと見做した。
 束ね髪の女子は戸を開けっ放しにした隣りの台所へ行った。ほどなくして氷と茶を注いだガラスのコップを持ってくる。茶は一杯のみ。習一はこの対応がしっくりこない。二人の客のうち、片方のみをもてなす行為は非常識だ。
「この教師の分は?」
 習一が他者の処遇を気にかけると女子の目に丸みが帯びた。予想外の言葉だったらしい。
「私の分はいりません。オダギリさん、お気遣いありがとうございます」
「……礼を言うことかよ」
 顔に熱を感じた習一は冷茶をがぶがぶ飲んだ。昨日の昼食時のような渇きは感じていない。身体を冷やす目的で摂取した。空のコップをちゃぶ台に置くと女子が回収する。
「体にいいジュースがあるよ。飲んでみてね」
 二杯めに赤紫色の液体の入ったコップが現れた。習一が一口飲むと少し酸味がある甘いジュースだった。なにかの果物から抽出した飲料水らしいが、習一は特定できなかった。
 客をもてなし終えた女子が座り、机上に置いた忍者の箱を検分する。
「これがフィギュアかぁ。忍者好きな外国人でなくってもいいなーと思うね」
「オヤマダさんの分も必要でしたか」
「そんなことないよ。スペースをムダにとっちゃうし、掃除がめんどくさくなるし」
 そう言いつつも小山田は忍者に熱い視線を送った。欲しいことは欲しいのだと見てわかる顔だ。その面構えを最近目にしたような、という習一の思いが口に出た。
「どこかで見た顔なんだよな……」
「テレビで見たんじゃないかな。アイドルの樺島融子と似てるってよく言われる」
「いや……近頃、直接見た覚えがある。あんたの顔そのまんま、じゃない気はする」
 習一の疑惑に対して教師が「ノブさんのことですね」と答える。
「三日前にお好み焼屋へ行ったでしょう。あの時の中年の店員がオヤマダさんの父です」
 言われて習一は和風の飲食店での出来事を思い出した。教師と親しげだった恰幅のよい中年男性。あの男も鋭い眼孔を有したが、人となりは明朗かつ善人の雰囲気があった。
「ああ、そうか。オレの弁当はあの人の娘が作ってるんだったな」
 両者の目鼻立ちは共通する。輪郭には男女の差があり、娘はほっそりしたキツネ顔だ。「顎のあたりは似なくてよかったな」といつもなら腹の中に留める感想がついて出た。父似の女子は不満たらたらに「全部お母さん似がよかった」とむくれる。母似な習一は自分の遺伝が微妙に肯定されたような心持ちになった。
「そうそう、このゲームを一緒にやってみる?」
 小山田は人形の箱をつつく。その景品の原典は家庭用ゲームだと教師が紹介していた。
「時間制限は晩ごはんができるまで」
「お前と対戦するのか?」
「いんや、コンピュータ相手。オフラインならボコボコに負けることはないからさ」
 家の中で遊ぶテレビゲームは久しぶりだ。父親と隔絶する前は自宅にもあった。素行の良好な友人と共だって熱狂したことも、むなしく脳裏に浮かんだ。テレビとその台に収納した現行機の電源が入る。習一は小山田が手渡すコントローラーを物珍しそうに触った。
「物語を追っていこう。まだ進めてない話が残ってる」
「このゲームを買って、日が浅いのか?」
「けっこう前に貰ったものなんだけど、お店の手伝いがあると時間がね……」
「手伝い? 父親と同じ店か?」
「ううん、オカマオーナーのお店。オダさんはシド先生と食べに行ったんでしょう」
 通算、教師とは二箇所の喫茶店を利用した。一つはチェーン店、一つは独自の店構えと経営スタイルの店だった。どちらもオカマという個性的な店員が勤労していた覚えはない。
「食パンやらサラダやらが食べ放題の店か? あそこにオカマなんていたのか」
「背が高くて、胸がバイーンと出たウェイトレスは見なかった?」
「いたけど……あいつが、男?」
 妖艶な給仕だった。あの柔弱な身体は男性特有の骨ばった体躯とかけ離れているのだが。
「そう、あの外見でタマ付き」
 小山田は習一の混乱をよそに、コントローラーを操作してゲーム画面を切り替えていく。彼女があれやこれやとプレイ上のアドバイスをするものの、助言は習一の耳を通り抜けた。

6
 習一は二十分近く、人形と同じ忍者を操った。忍者の背中を見続ける三人称視点にて、ゲームの操作感に少しずつ慣れてくる。画面を上下二分割にしての二人同時プレイはアーケードゲームでは見ない遊び方であり、新鮮味があった。
 小山田は母親らしき人物に呼ばれた。ゲームを中断し、コントローラーを教師に渡す。教師は経験がないからと拒んだ。だが「食わず嫌いはよくないよ。これも勉強!」と押し切られ、教師は彼女のプレイを引き継いだ。彼の担当の画面は弓使いの手と武器が画面に映る一人称視点。任意に視点を切り替えられる仕組みだが、彼はそのまま弓使いを動かす。左右に歩く、その場で跳ねる、矢をつがえて撃つ動作を一通り試した。弓矢の攻撃は高い命中率で敵に当たる。その精度はゲームの持ち主である小山田と同格かそれ以上だ。
「未経験ってウソだろ?」
「いえ……オヤマダさんのお手本を見たおかげで少しできるようです」
「じゃああれだ、シューティングはやったことあるんだな」
「いえ……関連する経験というと、弓術を習ったことでしょうか」
 本物の弓の腕前がゲームにも反映されるという発想を、習一はにわかに信じられなかった。かと言って教師が隠れゲーマーなようにも見えず、とりあえず射撃の話題は不問にしてゲームを進行した。一戦が終わると教師は「続けますか?」と習一に尋ねる。
「んー、やめとくか。あんたはこういうの、嫌いなんだろ」
「嫌い、ではありませんが……オダギリさんの楽しみが減ってしまうのではないかと」
「あんたの腕なら足でまといにならねえよ」
 習一は教師にプレイ続行をもとめた。ここでゲームを終了させると夕飯までの過ごし方がわからない。かと言って一人でゲームをやれば自分のスキルの荒さをつぶさに観察される。ならばこのまま時間がくるまで二人プレイをしたら精神的によいように思えた。
 戦場を踏破すると、カチャカチャと陶器がこすれ合う音が鳴った。小山田が取り皿と料理を手にしてやってくる。もうじき夕飯だと知った習一たちは遊戯をやめた。機器を元あった状態に片付ける。食事のジャマになる人形はテレビの脇に移動させた。食卓に現れた夕飯の菜は大皿にのった煮物、唐揚げ、サラダ。豆腐がのった小皿は四つあった。この家の住民は最低三人いる。台所で料理を作る女性と、それを手伝う娘と、娘の父。晩餐に加わる習一の分を合わせて四つ。教師の食べる分は除外してあるらしい。
「ばーちゃん、ご飯よそってくれてありがと」
 小山田は新たな人物の存在を示唆した。彼女は横長の楕円の盆を持って居間に入る。その後ろに腰のくだけた老婆がついてきた。足首の布地がきゅっとしまったもんぺを履いた老人だ。まぶたが垂れた老婆は銀髪の教師の隣にためらいなく座る。家族ぐるみの親交があるのか──と習一が思いかけた時、「ノブさん」と老婆は教師に話しかける。
「今日のノブさんはお仕事が早くおわったんだねえ」
 老婆が呼ぶ人名は教師の固有名詞ではない。教師の言によれば、老婆の息子にあたる人物の呼称だ。背丈だけは共通する両者を混同しているというのか。
「今日は仕事が休みでした。ところでノブさんは家で夕食をとらないのでしょうか?」
「ノブは遅番だよ。日がかわる前に帰ってくるかねえ」
 老婆は奇妙なことに質問された息子の状況について普通に答える。教師をノブ自身だと思いこむ痴呆状態ではないらしい。老婆は習一を一目みて「おやまあ」と柔らかく驚いた。
「かわいらしいマサさんだこと。キリちゃんのお友だちかい?」
 「マサ」の名が己を指すことを習一は理解できたが、どう返答してよいやら困惑する。すかさず教師が会話に入った。
「この男の子の名前はオダギリシュウイチさんです。お孫さんの学友ではありませんが、夕食にご相伴させてください」
「そうかい。じゃあシュウくんだね」
 老婆は習一の略称を名付けた。習一はあだ名で呼ばれることに抵抗はないので、訂正はやめた。少なくとも他人の呼称よりは確実に良い。
「たーんと食べておいき。今はノブがいないから食べそびれることはないよ」
 横幅のあった中年は見た目にたがわず大食漢のようだ。彼が同席する食事の際は出方をうかがって食を抑えべきか、と習一は注意事項を思いついた。
 老婆が喋る間、小山田は白米の入った茶碗を食卓に並べおえて台所に行った。次に湯気のたつ黒塗りの茶碗を運び、同様に並べる。茶碗は五つあった。
「お吸い物は先生も飲んでね。具はわたしが切ったよ」
 汁物の中には刻んだネギと油揚げが浮かぶ。小山田は再び台所に行き、彼女と入れ替わりで母親らしき中年の女性が来る。おそらく四十代なのだろうが、少々幼い感じの丸い目と皺のないふっくらした頬が実年齢以上に若く見えた。教師が女性に一礼する。
「ミスミさん、お食事の用意をしていただいてありがとうございます」
「いえいえ、だいぶお待たせしちゃったわね。さ、ご飯を食べましょう!」
 ミスミは食卓に重ねた取り皿を配布し、皿に箸をのせる。箸が行きわたるとカラフルなプラスチックのお椀にサラダを盛って配る。そのどれもが教師の分を省いていた。
「シド先生のご飯は娘が用意してるの。もう少し待っててくださいね」
「はい。皆さん、どうぞお先に召し上がっていてください」
 教師と小山田を除く夕飯が始まる。習一はじっとミスミを見た。キツネ顔の娘とは全く方向性の違う造形だ。どう見ても娘は父似だとわかる。父親と娘を並べれば尚そう感じるだろう。それが子を宿せぬ父親にとってどれほど喜ばしいことか、娘にはわかるまい。
(ブサイクでもねえのに顔に文句言うなんざ、ぜいたくだ)
 小山田が「母親に似たかった」と言うのも一理あり、ミスミは美人の部類だ。より多くの人が好むであろう優しげな顔である。とはいえアイドルと似るという小山田も、間接的だが世間一般が認める顔立ちのはずだ。彼女が父似の顔を嫌悪する理由には美醜以外の要因がある。それがなんであれ、父の実の子という証を持つ者を習一はうらやましく感じた。
「習一くん、で合ってる? ガーベラをくれてありがとう」
 物思いにふけっていた習一は急に話しかけられて驚いた。そして耳慣れぬ単語に戸惑う。
「え……ガーベラ?」
「玄関に飾ってある花のこと。エリーちゃんが持ってきてくれたの。あなたが『花好きの人に渡して』と言ったから、うちに届けてくれたんですって」
 確かにそんなことを言った気がする、と習一はおぼろげに思い出した。適当に発した依頼を、エリーは完璧に遂行したのだ。普通の人では夏場の一週間、切り花を咲かせ続けられなかっただろう。花の知識がない習一はその長生きの秘訣が気になった。
「あの花……どう世話したらあんなに長く咲けるんだ?」
「えっと、花束を受け取った時は少ししおれていたから、水をたくさん吸わせて元気にさせたの。一本ずつ新聞紙でくるんで、水を張ったバケツにいれて半日置いて……」
 ミスミは切り花の生け方を語る。おおよそ習一の理解が及ぶ分野ではないが、手間暇をかけて花を生き永らえさせていることは伝わった。生け花講義の最中に小山田が現れる。手に箸とおにぎりをのせた皿と、輪切りにした野菜を盛った皿がある。
「はいこれ、先生のご飯。足りなかったら言ってね。漬物はまだまだあるから」
「充分です。ありがたくいただきます」
 教師は箸を親指と人差し指の間にはさみ、両手のひらを合わせた。外国人のくせに日本の風習に律儀だ、と習一は内心つっこんだ。彼専用の漬物は点々とぬかが付いている。それを見ていると小山田が「食べたい?」と聞く。
「うちの糠漬け、わたしとお母さんとお婆ちゃん制作の三種類あるよ。味見する?」
「いや、いい。お前の夕飯が冷めちまう」
「あ、けっこう気をつかってくれてるんだね」
 小山田は空いた座布団に座る。彼女が教師や母親との会話を弾ませるおかげで習一は会話に加わらずに済んだ。居心地の悪さはなかったものの、不和を匂わせない人物交流のありようは習一の目には奇異に映った。

タグ:習一
posted by 三利実巳 at 00:00 | Comment(0) | 習一篇草稿
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