2018年12月17日
習一篇草稿−終章中
4
「六月、あんたはオレを襲った。それはなんでだ?」
「貴方が邪魔でした。オヤマダさんたちに報復をしようとする、貴方が」
「覚えてねえな。オレがそんな計画を立てたことをどうやって知った?」
「貴方が仲間と通話するのを聞きました」
「盗み聞きか。ま、鈍かったオレが悪いな」
「それは致し方ないのです。あの時の貴方は実体化しない私が見えなかったのですから」
「なんだと? いまは見えてるのに?」
習一は最初から異形が見える体質なのではなかった。ではなにをきっかけに、彼らを視認できるようになったのか。
「……お前らに喰われたから、見えるようになった?」
「いえ、私が貴方を異界へ連れていった影響です。そこから帰ってきた人はみな、こちらで隠遁した異界の生き物が見えるそうですよ」
「姿を消したあんたが見えるっていう少年もそうか?」
「その方は希少な例でして生まれつきの能力です。彼は異界の者だけでなくこちらの幽霊も見えるので、はじめは私たちのことを普通の霊だと思ったそうです」
霊視能力は国を問わず、まことしやかに健在する。習一がシドに出会うまでは信じなかった特殊能力だ。こうして人ならざる者にまみえた以上、ペテンだと断ずる気は起きない。
「幽霊……か。そいつもめんどくせえ人生を送っていそうだな」
「はい、あの子も苦労の多い生き方をしていると思います。オダギリさんとは少し、似ているかもしれませんね」
「オレと? そいつは家族ともめてんのか」
「家族仲は良好です。二人が似ていると思う部分は……ぶっきらぼうに見えても心根は優しいところですよ」
「オレが、やさしい? あんたの目は節穴か」
「自分では気付きにくい……いえ、認めたくないのでしょうね」
習一は含みのある言葉が気に入らなかった。だがここは軌道修正をはかる。
「そんな話はどうでもいい。あんたのご主人様はなぜあんたに人を襲わせる?」
「理由は知らされていません。私たちは道具と同じです。命令を与えられるだけ……その成果が何をもらたすかは考えなくていい」
ロボットのような存在意義だ。無感情な声が「ただ」とつぶやく。
「主の求める人物を差し出せば、その人は過酷な仕打ちを受ける。鈍感な私でもそう思うほど、主は抑えきれない憎悪を抱えていました」
「あんたはご主人様の気持ちを聞かなかったのか?」
「一度は質問しました。ですが教えてもらえませんでした。『いずれわかる』と……」
「はん、あんたがオレに言ってた『記憶がもどったら話す』と同じだな」
「そう、ですね。主は……私が主と同じ考えに行きつくのを待っていたように思います。私の記憶は、私が人型に変化するまでの期間が抜け落ちています。失くした思い出の中に、あの方の苦しみを共有する何かがあったのでしょう。ですが私はあの方の心を理解する前に……離れてしまった」
シドは左手にある指輪を見つめた。その指輪は主が贈ったものだという。この世界においては肉体同様レプリカなのだろうが、それを常に身に着ける心理からは、彼が忠誠心を失っていないと予想が立つ。だが彼はもう、仕える者の手駒にならない。そうわかる言動は今宵だけで何度もしていた。相反する行為のどれもが彼の本心だ。理屈通りにはいかない、ちぐはぐな姿はとても人間臭かった。
「……オレはバケモンに喰われて死んだはずだ。なんで生きてる?」
「異界へは精神だけが移動します。貴方が喰われた時の肉体は、私の力がつくった偽物です。同胞は私の力と貴方の持つ活力を餌にしました」
「体はこっちに置いたままだから、死ななかった、と?」
「そうです。ですが死なないという保証はありません。私の恩師のケイはこの世界の少し昔の人です。彼女は異界で亡くなり……以後、姿を現しませんでした。異界での死が疑似的な体験なら、彼女は再びあちらに訪れたと思います」
「おい、それって……オレも本当に死んだ可能性があるってことじゃ」
「それはないと思います。オダギリさんと同じ状況下で落命しなかった先例が十ありますから」
「オレが例外だったらどうしたよ?」
「その時は私と心中していただくということで、不運を嘆いてもらおうかと」
「しん、じゅう?」
さらっと発した言葉は彼に自決の計画があったことを匂わせた。
「私は最終的に、ツユキさんに消されるつもりでした。それは教員の生活を過ごすうちに固まってきた願望です」
「人さらいを……気に病んでいたのか。でも、死ぬようなことか? オレ以外の被害者はみんな、普通に生きているんだろ」
「こちらでは公(おおやけ)に目立つ被害を出しませんでしたが、元いた世界では死人が続出しました。私はお尋ね者なのです。そのことを、ツユキさんも承知なさっていたのですが……」
「あの警官が、こっちで教師のふりをずっとしろとでも言ったか?」
「大元はツユキさんの発案ですね。正確には、あちらの被害者の生き残りとお話しして私の処遇を決めてもらいました。消息をつかめた一人が……教師業の継続が贖罪になるとおっしゃったのです。その方は恵まれない子どもを育てることに人生を捧げていますから──」
「オレを保護することがあんたの罪を帳消しにする第一歩になるわけか」
「そうとも言えますが、私は貴方に不当な仕打ちをしたのですからその謝罪ですね。これは『子どもを助ける』という契約の履行とは別物だと思っています」
「じゃ、オレがどうなったらあんたの謝罪はおさまって、どっからが罪の償いになるんだ?」
「そう言われてみると……明確な線引きはできませんね。私も、よくわかりません」
習一が思うに、彼の目標である「夏休みの期間中に習一の生活を健全にする」というのが自主的な行動の範囲であり、それ以降の交流は他者に命じられた行為に値するのだろう。どっちがどうであれシドが習一に良くしてくれることに変わりない。習一は次の話題をふる。
「あんたが犯した罪はぜんぶ、ご主人様に従ってのことか?」
「そうです。私もエリーも、あの方に仕えるために存在する。そのように信じて努力してきたのですが……」
「そりゃ無理があるな。あんたは……悪人になりきれない。もともとが犯罪者向きの性格をしてないんだよ」
青い目が習一を見る。その目は優しげだ。
「この短期間で、よく見抜きますね。貴方は聡明だ」
「あんたほどわかりやすい野郎もいない。露木の警戒をそらす手段とはいえ、教師になって小山田に近付いたら情が移るとは考えなかったのか?」
「数ある生徒のうちの一人、であれば大丈夫だと思いました。やはり、というか……あの子も私を気にかけてしまって、ただの他人ではいられなくなりました」
「『やはり』ってどういうことだ?」
「彼女の中には同胞が住んでいます」
「中に……あの黒いやつが?」
「そうです。私とは別の役目を負う仲間でした。自我は欠けた個体だったのですが、現在は主命に背いてオヤマダさんと共存しています。その同胞と共にあり続けるうちに、彼女も私たちに親しみを覚えるようになった……のだと思います」
「彼女『も』? あんたは最初っから小山田が好きだったのかよ」
さんざん恋心はないと否定してきた主張をくつがえす告白だ。彼は首をひねる。
「どう捉えてもらってもかまいません。実を言うと、教師として潜入する前から迷いはありました。その時は彼女とその親への憐れみが先立っていましたが」
「『憐れみ』だぁ? キーワードを小出しにすんのやめろ。とっとと全部言いやがれ」
他人の興味を持続させる方法なのだろうが、まだるっこしいと感じた習一はいらいらした。シドは「貴方とは直接関わりのない話ですが」と警告する。
「私はある特殊な力を持つ人物を捜しています。その判定方法は……私がかけた術を解除できるかどうかを見ます。時を止めた時計の針を動かす──それが合否の判定方法です。オヤマダ以前にも同じ試験を行なった子はいました。彼らのうち、針を動かし続ける時計を渡してくれた人たちを私は攫いました。ですがオヤマダさんは違います。返却された時計は……時間が経つと針が止まったのです」
「電池切れじゃないのか?」
「いいえ、私が術を解けば針は動きました。彼女は術の効果を一時的に無効にする力を備えていたのです。その特別な力が、主の求めるものではないかと思いました」
小山田はこうしてシドの試験に合格した。折を見て彼女を連れ去ろうとしたものの、彼女の友人が「怪しい霊がいる」と露木に連絡したために実行は阻止された。シドが今後の計画を再編していたころ、小さな少女が高所より転落する現場に出くわした。その子を助けた際に同じく助けに入ろうとした女性に感謝された。その女性が小山田の母親だ。
「自分の子ではないのに、ミスミさんはとても喜んでいました。ベランダから落ちた女の子の家族が帰宅するまで私たちがその子の面倒を看ることになり、その時にミスミさんの話を聞きました」
ミスミの人助けへの熱意について質問すると、彼女は身の上を語ったという。
「ミスミさんは、お子さんを次々に亡くしていました。そのせいで他人の子どもであっても傷つく様子を見るのが怖いのだとおっしゃいました」
習一はミスミが野良猫の飼育には否定的だったことを連想した。我が子が先に逝く辛さを経験したせいで、寿命の短いペットを飼うことが怖くなったのだろう。だが──
「娘は生きてるじゃねえか」
「ええ、そうです。あの子は同胞が見逃したおかげで生きのびました」
「『見逃した』……?」
シドが連れ去った人間は化け物に喰われても死ななかった。それがミスミの子たちになると生死に関わるという。
「こっちの人間を拉致していっても、普通は死なないんだろ?」
「私の場合はそうです。しかし同胞はそれぞれに能力と役割が違います。私はおもに人間生活に溶けこんで標的を攫う役目を持ちました。ミスミさんの子を狙った同胞は、他者の頼みを聞いて魂を刈りとる役目を担っていました。この同胞はいわば『死神』です」
シドを超える攻撃的な化け物がいる。習一は黒い異形姿のエリーを脳裏に浮かべた。
「死神が連れ去った人は、もとの肉体と精神を繋ぐ糸を切られてしまい、生還できなくなる……と、私は理屈をこねてみましたが、実際のところはよくわかりません」
習一はがくっと肩を落とした。適当なことをぬかすシドをにらみつける。
「お前な、仲間のやってることくらいきちっと把握しとけ!」
「同胞自身もよくわからないでしていたことです。ご容赦ください」
「死神は襲った人間を覚えてねえのかよ」
「先ほども言いましたが、自我のはっきりしない個体なのです。こちらとあちらの生き物を区別しませんし、どれだけの命を刈ったかも数えていません」
「え? 『先ほど』?」
シドの同胞の話は、エリー以外だと小山田の体内に住まう者が一体だけあがった。
「はい。死神は……オヤマダさんが野良猫に手招きするような呼びかけに応じて、彼女に取り憑きました。以後はひっそりと、彼女と一緒に生きています。私が話しかけると簡単な返答をする程度には自己も生まれていました」
小山田は黒い異形を目の前にしても動じなかった。そこには二点の不審な箇所がある。
「なんで小山田はビビらなかったんだ? いや、それよかどうして死神に気付けた? あいつの目は普通なんだろ」
「彼女には死神とは別に憑いている何かがいます。『クロスケ』と名付けたそれと勘違いしたそうです。このクロスケは彼女の幼馴染が存在を教えていました」
「じゃあなぜ死神がいるとわかった? そいつがわざわざ姿をあらわしたのか」
「半分正解です。生物に接触をはかる際、姿を消した我々は相手に見える時があります。強い害意を持つとその危険が高くなる……それは怪談話に出る幽霊も同じでしょう?」
「まあ……そうかもな。幽霊が見えるタイプじゃねえのに、悪霊にばったり会ったら姿が見えたとかいう、ホントかウソかわからん話はな」
「我々の場合は当てはまります。おいそれと悪事が働けないよう、働いたとしても足がつくように、この世界はできています。ですから私は不意打ちか、闇に乗じて目的を遂行していました。死神はそういう対策を思いつけません。思考しないがゆえに……赤子にも非情になれた」
シドは急に立った。おもむろに座卓に歩み寄り、日記を回収する。
「同胞はもう死神ではありません。他に、よい呼び名があればいいのですけど」
そう言って勉強机の回転椅子に座った。思いついたことを日記に書く気らしい。その姿勢が話を終えようとする意思表示に見えて、習一は少し寂しく感じた。質疑応答をはじめる前は聞かなかったであろう質問が口に出る。
「エリーやシドって名前は誰が付けたんだ?」
「オヤマダさんです」
「なら、あいつに名付け親になってもらえばいい。同居人なんだしな」
シドは笑って「それがいいですね」と同調した。彼は机に向かい、書き物をする態勢になる。その状態でも習一が話しかければ延々答えるだろう。だが習一は思いつく限りの重要な質問を聞き終えた。常温になった茶を飲み干し、そのまま寝床へあがろうとした。
「歯は磨きましたか?」
シドが机に向かったまま尋ねた。習一は黙って洗面台へ行く。歯磨きのために部屋の照明を点けると、鏡には口の端がわずかに上がる自分がいた。
5
暗い廊下に光源が一つあった。そこから母の声が聞こえる。
『習一、学年で一位をとったんですって』
わがことのように誇らしげだった。この口調から察するに話し相手は父だ。
『この成績を維持できたらどの大学でも狙えると、先生がおっしゃっていたのよ』
三者面談では担任にそう言われた。進学を目指す者にはこれ以上ない評価だ。習一は父の称賛をひそかに期待した。だが父の声は一向に聞こえない。
『……どうして、嬉しくないの?』
母のか細い落胆の声がもれる。
『あなたはいつもそう。あの子が満点をとったテストを見せてきても全然喜ばないで……一言くらいほめてあげてもいいじゃない』
『ほめなくていい。あいつはできて当たり前だ』
『習一は天才児じゃありません。努力して、いい成績をとるんです。そのがんばりを認めて』
『あいつは血統がいいんだ。あの男の血に感謝するんだな』
習一の思考は止まった。父がなにを意図した発言をしているのか、わからない。
『またそんなことを……あの子が聞いたらどんな思いをするか、考えたことがあるの?』
母の返答も習一の理解を超えた。父の言葉はこの時、はじめて出した妄言ではないのだ。
『納得するんじゃないか。父親に顔も頭も似なかったことを』
『顔はたまたま私に似ただけよ』
『ああ、顔はお前似だな。それはよかったよ。カミジョウに似たんじゃ美形にならない』
カミジョウ、とは母が語る回想に登場した名前だ。写真を見せられたこともある。醜男ではないが麗人でもない、ふくよかな男性だった。それらの情報は決まって父が不在の際に見聞きした。彼は父と母の共通の友人であり、母とは懇意な仲だったという。
『頭だって少し物覚えがよかったのを、あの子なりに鍛えたから雒英に入れたんです』
『あれが「少し」なものか。たった一度教えたことでもしっかり覚えるうえに、抜け目ない観察力がある。カミジョウもそうだった』
『あなただって賢いじゃないの。難関の司法試験に合格してるのよ』
『あいつは一発で合格したんだぞ。俺が一度滑ったのを、カミジョウは簡単に乗り越えていった』
『二回めでちゃんと受かったでしょう。一回の結果なんて、その時の運次第──』
『バカを言え!』
父がいきり立つ。その悪声には己の自信を粉砕する人物への憎悪があった。
『あいつは急に「海外の仕事をしたい」と言い出して、ほんの数ヶ月で英語と中国語の資格を取ったんだ。中国語なんぞ必須単位だけ習っていたやつが……』
友人の優秀さを肯定する裏に、醜い嫉妬が凝り固まっている。
『やつはお前に海外行きの話をすぐにしなかったそうだな。なんでか、わかるか?』
『……知りません、そんなの』
『自分の恋人が、法曹界に入る男を夫にしようと考える女だと思わなかったからだ。どんな生き方でも応援してくれると自惚れていたわけだな。あいつは自分のこととなると勘が鈍る……そんなところも習一は似た』
『あの子が父親に認めてほしくて頑張ってるのを、わかってて冷たくするの? そんなにあの人も習一も憎いなら、どうして検査をしないの』
『カミジョウの子だとわかったら、お前は習一を連れて家を出ていくんだろう? 独り身のあいつは歓迎するとも。大企業に勤めていて羽振りがいいんだ、お前もいい再婚相手だと思うはずだ。……思い通りにはさせん。お前たちだけ幸せになってたまるか!』
『だったら習一をどうしたいの?』
『養ってやる。自分が不出来な人間だという劣等感を抱きながら、一生過ごせばいい』
父の下卑た笑いが響いた。だがこれは真実ではない。脳が手を加えた作り話だ。習一はまどろみの中、己だけが見える非現実の世界を漂流していたと理解した。どこまでが本当にあった両親の会話だかおぼろげだ。
(ほかにも言ってたことがあったかな……カミジョウって人のこと)
知り得た情報はまだある。ただ、父の嫌疑を聞いた時に知ったこととはかぎらない。
母の昔話には母と父が学生結婚を果たしたという一段がある。その際に様々な事情を覚えた。どれも母の口伝であり、母の都合の良い部分が切り取られていた。
(いい人、みたいだったな……)
両親の友人は明朗、かつ才識にめぐまれながらも他者に驕ることはなかったという。父とは性格がまったく異なる男性だ。合わない二人が学生生活をともに過ごせた要因は、ひとえに友人の度量の広さによるのだろう。
(オレみたいなやつでも、仲良くしてくれんのか?)
そのような空想は過去に何度も出現した。実の父親との疑いのある人物が、行き場のない自分を庇護してくれる。そんな自分勝手な夢想を、最近はめぐらせていなかった。
(もう……いるもんな、オレの保護者)
習一の身を案じる男がいる。彼がどんな障害でも取り去ってくれる。その事実を掛け値なしに信じる気持ちが芽生えてきた──
(いまじゃ、ない。もっと前からだ)
信頼はとうにあった。その心に蓋を閉めていただけなのだ。蓋に気付いていながら知らぬふりを続けてきた。それは少し前のシドも同じだ。
彼は絶対たる主人への忠誠ゆえに自身の感情を押し殺し、望まぬ犯罪に手を染めた。だが小山田とその家族との関わりが、彼の蓋を取り払うきっかけになった。
(あの教師は小山田がいなかったらここにいないし、オレも不良のままだった。結果的にみんながいいほうへ転んでる……のか?)
長考に飽きた習一はまぶたを開けた。室内は薄暗い。日がのぼりきらない早朝に目が覚めたのだ。二度寝をしようと寝返りを打ったところ、階下から光が漏れる。習一は物音を立てないよう移動し、居間の様子を見た。またベッド下の机には煌々とライトが点いている。ライトの光は縦長の陰影を座卓の上にまで形作る。その影は部屋主のものだ。
(いっつも寝ないでなにやってんだ?)
好奇が眠気に勝り、習一はロフト部屋をおりた。
6
習一はそろりそろりと慎重に階段を下りた。しかしどうしても足場がきしむ。習一の起床を部屋主が察知したはずだが、彼は作業を止めない。大方、用足しに起きたとでも思ったのだろう。習一は座卓のそばに座った。昨晩使用したコップは片付けられている。
「お早いのですね。あまり眠れませんでしたか?」
シドが椅子をキィっと動かした。彼はいつものサングラスをかけていない。直射日光の入らぬ室内なのだから日除け眼鏡を着用しなくて当然なのだが、習一は変だと感じた。
「べつに、目が冴えただけだ。あんたこそ寝なくて平気なのか?」
「私は力の補給さえ万全であれば眠らなくてよいのです」
「『力の補給』はどうやるんだよ。やっぱり……人を?」
自身の体験の断片がよみがえり、身震いした。シドは習一の恐怖を払うかのように表情を和らげる。
「昨夜、イチカさんを眠らせた方法です。元気を分けてもらうと眠くなる方が多いんですよ。私もエリーも、流血沙汰はやりません」
「そう、か……オレは別のやつにやられたんだな」
「はい。それともう一つ、栄養の摂り方がありまして……」
シドが机の引き出しを開けた。透明な瓶が仕事机の上に置かれる。瓶には黒い丸薬がぎっしり詰まっていた。
「これはツユキさん特製の栄養剤です。彼も白いカラスなどを呼び出すと力を消耗しますから、その回復用に作り置きなさっているそうです」
「オレが見た白いカラスもあんたと同じ、こことちがう世界から来てるのか?」
「そのように考えてよろしいです」
習一は瓶を手にとって観察した。あの露木が作る薬剤には人を傷つけて得る材料は混入しないだろう。シドは他人に危害を加えずに生活できるのだ。習一は一安心し、瓶を机にもどす。
「それで、あんたは寝ないでなにをしてたんだ?」
「生活費の試算をしています」
「なんだ、やっぱりオレがいるとカツカツなんじゃねえか?」
「これは……オダギリさんが一人で生活することを想定した計算です」
シドはノートパソコンを片手に持ち、習一に見せた。画面に数字の羅列が表示してある。
「一人暮らしをする大学生の生活費の平均値を参考にしました。加えて学校に通うとなると、教材費や修学旅行などの出費もありますから……」
「オレにこれだけ稼げ、と言いたいんだな?」
「いえ、私が負担します。高校生生活の残りの約一年半、私の貯金でまかなえることがわかりました。貴方は安心して勉学にいそしんでください」
「安心して、っつってもな……」
このまま家出状態で新学期を迎えたなら、親との軋轢(あつれき)が教師連中に問題視される。とても勉強に身が入る環境ではない。
「雒英高校は貴方が通いたくない学校ですか?」
シドがわかりきったことを尋ねる。これは確認だ。習一は口をつぐみ、うなずいた。
「では転校しましょう。才穎高校はいかがです? 常識では推し量れない人がいますけど、心優しい方が多いですよ」
「オレ個人で決められるか? 学校側がオレみてえな問題児を抱えたくないだろ」
「たった今、言ったでしょう。常識が通用しない人がいると。それは校長です」
習一は才穎高校の評判を思い出す。ありえない基準で入学者を選定する、色物高校。
「オレが校長のおめがねにかなう、と?」
「はい。その素質は備えているように思います」
「どういう審査なんだ?」
「ありていに言えば異性にもてる人物が好まれます。くしくも私は風貌の立派な男性を模して、採用と相成りました」
「見てくれのよさでか? それじゃアイドル養成所じゃねえかよ」
「外見はファクターです。ようは校長がお好きな恋愛騒動を起こす逸材だと思わせることが大事です」
「オレは女に興味ないぞ。男にもねえけど」
「私も同じです。言い換えると周りが勝手に騒いでくれればよいのです。校長も含めて」
「おめでたい学長だな……ま、そのぐらいおバカなほうがオレに合ってるかもしんねえ」
珍しく習一は好意的な返答をした。事実、中退をしないのならこの教師が在籍する学校に行ってはどうだろうと薄々思っていた。はじめは白壁に促されたのを頭の片隅に追いやっていたが、シドとの交流を重ねるにつれて現実味を帯びてきた。
(こいつがいるんならきっと、いい学校なんだろう)
小山田も過去に習一と敵対したとはいえ現在は普通に接している。彼女は習一のせいで傷を負ったのをおくびにも出さず、食事の用意をした。彼女の友人も後腐れがなさそうだ。たとえ習一を敵視する者がいても、不要な争いを避けたがるシドが釘をさすだろう。
シドはパソコンを机に置いた。くるっと椅子を回して習一と顔を合わす。
「残るは親御さんの件ですね」
習一の眉間に力がこもる。多くの事柄に整理がついても、父と対決する心構えは万全でない。
「もし差しつかえなければ……なぜ貴方の父親がわが子を憎むのか、教えてくれますか?」
「それを知って、どうなる?」
「和解の道を探るにはまず、真相を明らかにせねばならないと思います」
「和解なんかできっこねえよ。オレは、本当の息子じゃないんだ」
習一は腹をくくった。質問者はすでに他言無用の素性をさらけ出したのだ。自分もその誠意に応えねばならないという義務感が芽生えた。聞き手は顔色を変えずに黙っている。
「はっきりした根拠はないみたいだけどな。そんな話を夫婦喧嘩の時に聞いた」
「貴方の母親に不貞行為があったのですか?」
「それは知らない。オレが知ってるのは両親の結婚前に、母親に恋人がいたってことだ」
習一は直接会ったことのない人物に思いを馳せる。
「その恋人は父親の友人だった。この二人が付きあってることはあいつもわかってた。相手の男が海外の仕事に就こうとしたら母親と別れて、あいつがかあさんと一緒になった。すぐに二人は結婚して、オレが生まれた。妊娠期間が前の恋人のいた時期と被るから、疑われてる」
「遺伝子の検査で父親が判明するでしょう。どうして不明なままにしておくのです」
「それがあいつのバカなとこなんだよ。出産後すぐ検査すりゃあいいものを、その時は自分の子だと疑いもしなかったそうだ。看護師どもが『お父さん似ですね』と言ってきて、その気になってたらしい。オレ、母親似なのにな」
実父でない可能性のある男を「あいつ」と呼び名を固定して習一は説明を続ける。
「あいつがオレを本当の子じゃない、と思ったのはオレが物心ついてから。頭が回り過ぎるところが、あいつの友人に似ていたんだとよ。一つ疑うとなにもかも疑わしくなる。だから、オレはあいつに冷たくされた記憶ばっかり残ってる。そんなに疑うなら調べりゃいいとはあいつもわかってるはずだ。でも、やらないんだ。本当の子だったからって急に態度を変えられるもんじゃない。思いこみだけでオレをいじめられればそれで満足なんだ」
もしも息子が実の子だと判明した時、父はピエロに成り下がる。その可能性をおそれて真実をあきらかにできないのだとも考えられた。
「あいつの友人は切れ者だった。見た目はぼーっとしてるのに毎回成績が上位で、司法試験に一発合格したんだとさ。あいつは一度落ちたから余計にみじめだったんだろ。オレが高校でいい成績をとったら、あいつは言った。『やっぱりあの男の息子なのか』ってよ」
その言葉は両親の口論の後日に出てきた。すでに父は息子に隠し立てする意欲がなくなっていたのだ。
「必死に勉強していい成績をとれば……親はみんな喜ぶもんだと信じてた。まちがってないだろ? 自分の子がバカだから喜ぶ親はかなりの変人だ」
「はい。世間一般的には、その通りです」
「いい成績を見せても渋い顔をすんのは『その程度で喜ぶな』と、高い目標をオレに期待してるからだと思ってた。けど全然違った。あいつはオレが秀才だと言われるたびにオレを憎んでいた。あいつの上を行った友人が時間を越えて、また自分を笑い者にする──」
この推測は習一がカミジョウの子だと断定した上で成り立つ。習一は想像を膨らませる。
「形を変えた友人を痛めつけて、プライドをずたずたにしてやれば、初めて勝ったことになる──そういう思考だ、あいつは。人の好いあんたにゃ死んでもわからないだろうよ」
習一で鼻で笑った。愚かな父親と、その父に媚びてきた己への嘲笑だ。
「あいつは妹を溺愛してる。妹はいま、中学生だ。塾に行ってても成績はせいぜい中くらい。塾に通う前は下の中だった。オレの時は『中学生が塾なんぞ行かなくていい』とぬかしてたくせに、妹になったら金に糸目をつけないでいやがる。勉強のできない子どものほうが可愛いんだろうな。自分の子だと安心できるから」
「……根が深い確執ですね」
傾聴していた聞き手が控えめに感想を述べる。ほとんどが習一の憶測でしかないことを、彼が否定するかと習一は思っていた。人間の醜さを持たぬ異形に「そんなことはない」と諭された時は受け入れるつもりだった。だが、シドは習一の洞察を全面的に支持する。習一は胸に小さな懐炉が入りこんだような温かみが広がるのを感じた。
「オダギリさんは父親との共存ができないことはわかりました。では、貴方はどうしたいですか? 自分を虐げてきた父親への復讐を果たしたいのでしょうか」
「やりたい、つったらあんたはどうする?」
「法に抵触しない範囲で、加担しましょう」
真顔で答える様子に、習一は声をあげて笑った。目の端に熱いしずくが溜まる。
「もう、どうでもよくなっちまったよ。無駄に疲れるだけで……なにも変わりゃしない」
「でしたら、これからどうします?」
「最低限、別居することは伝えなきゃな。あと学校を替えるのも……学費、どうすっかな」
「才穎高校の学費も私がなんとかできます」
「あんたに頼りっぱなしは癪だ。放課後に稼げるとこ、知らないか?」
シドがベランダに顔をむけて黙考する。その隙に習一は目をこすった。
「心当たりがあります。オヤマダさんに確認してみましょう」
「お好み焼屋で働くのか?」
「いえ、そちらは人手が足りているそうです。もう一つのお店のほうです」
小山田と関わりのある店。勘付いた習一はその店に抵抗があるとわかる渋面を作った。
「大丈夫ですよ。店長さんや店の仕事は普通なんですから」
シドは机の端にあったサングラスを取り、定位置にかけた。光葉の攻撃を受けたまま公園に置き去りにしたかと思われたが、きっちり回収していたようだ。
「さて、オダギリさんのご両親は早起きな方たちでしょうか?」
「どうかな。失踪していた息子が帰宅するのは早いほうがいいと思うが」
「そうですね。では支度しましょう」
シドはメモ帳の紙をちぎり、書置きを用意する。紙には「散歩に行きます」とあった。
「散歩のノリで行く気か?」
「はい。そのくらいの気持ちでいましょう。殴りこみに行くのではありませんから」
「オレはまぁ、殴り合ってもいいんだけどな」
「拳が心を通い合わせるツールになるのでしたら、止めはしません」
「んな漫画みたいな美談にもっていけねえよ」
シドはロフト下の壁際に立った。その壁はクローゼットの戸だ。がらがらと戸を動かし、中にあったタイピン付きのネクタイを取る。以前にも見た、三つの宝石がついたタイピンだ。習一はそれが彼の趣味だとは思えなかった。
「そのタイピン、貰いもんか?」
「ええ、オヤマダさんから頂いたものです。私が……この世界に残る証ですよ」
シドはタイピンを大切そうになでたあと、ネクタイを締めた。
「六月、あんたはオレを襲った。それはなんでだ?」
「貴方が邪魔でした。オヤマダさんたちに報復をしようとする、貴方が」
「覚えてねえな。オレがそんな計画を立てたことをどうやって知った?」
「貴方が仲間と通話するのを聞きました」
「盗み聞きか。ま、鈍かったオレが悪いな」
「それは致し方ないのです。あの時の貴方は実体化しない私が見えなかったのですから」
「なんだと? いまは見えてるのに?」
習一は最初から異形が見える体質なのではなかった。ではなにをきっかけに、彼らを視認できるようになったのか。
「……お前らに喰われたから、見えるようになった?」
「いえ、私が貴方を異界へ連れていった影響です。そこから帰ってきた人はみな、こちらで隠遁した異界の生き物が見えるそうですよ」
「姿を消したあんたが見えるっていう少年もそうか?」
「その方は希少な例でして生まれつきの能力です。彼は異界の者だけでなくこちらの幽霊も見えるので、はじめは私たちのことを普通の霊だと思ったそうです」
霊視能力は国を問わず、まことしやかに健在する。習一がシドに出会うまでは信じなかった特殊能力だ。こうして人ならざる者にまみえた以上、ペテンだと断ずる気は起きない。
「幽霊……か。そいつもめんどくせえ人生を送っていそうだな」
「はい、あの子も苦労の多い生き方をしていると思います。オダギリさんとは少し、似ているかもしれませんね」
「オレと? そいつは家族ともめてんのか」
「家族仲は良好です。二人が似ていると思う部分は……ぶっきらぼうに見えても心根は優しいところですよ」
「オレが、やさしい? あんたの目は節穴か」
「自分では気付きにくい……いえ、認めたくないのでしょうね」
習一は含みのある言葉が気に入らなかった。だがここは軌道修正をはかる。
「そんな話はどうでもいい。あんたのご主人様はなぜあんたに人を襲わせる?」
「理由は知らされていません。私たちは道具と同じです。命令を与えられるだけ……その成果が何をもらたすかは考えなくていい」
ロボットのような存在意義だ。無感情な声が「ただ」とつぶやく。
「主の求める人物を差し出せば、その人は過酷な仕打ちを受ける。鈍感な私でもそう思うほど、主は抑えきれない憎悪を抱えていました」
「あんたはご主人様の気持ちを聞かなかったのか?」
「一度は質問しました。ですが教えてもらえませんでした。『いずれわかる』と……」
「はん、あんたがオレに言ってた『記憶がもどったら話す』と同じだな」
「そう、ですね。主は……私が主と同じ考えに行きつくのを待っていたように思います。私の記憶は、私が人型に変化するまでの期間が抜け落ちています。失くした思い出の中に、あの方の苦しみを共有する何かがあったのでしょう。ですが私はあの方の心を理解する前に……離れてしまった」
シドは左手にある指輪を見つめた。その指輪は主が贈ったものだという。この世界においては肉体同様レプリカなのだろうが、それを常に身に着ける心理からは、彼が忠誠心を失っていないと予想が立つ。だが彼はもう、仕える者の手駒にならない。そうわかる言動は今宵だけで何度もしていた。相反する行為のどれもが彼の本心だ。理屈通りにはいかない、ちぐはぐな姿はとても人間臭かった。
「……オレはバケモンに喰われて死んだはずだ。なんで生きてる?」
「異界へは精神だけが移動します。貴方が喰われた時の肉体は、私の力がつくった偽物です。同胞は私の力と貴方の持つ活力を餌にしました」
「体はこっちに置いたままだから、死ななかった、と?」
「そうです。ですが死なないという保証はありません。私の恩師のケイはこの世界の少し昔の人です。彼女は異界で亡くなり……以後、姿を現しませんでした。異界での死が疑似的な体験なら、彼女は再びあちらに訪れたと思います」
「おい、それって……オレも本当に死んだ可能性があるってことじゃ」
「それはないと思います。オダギリさんと同じ状況下で落命しなかった先例が十ありますから」
「オレが例外だったらどうしたよ?」
「その時は私と心中していただくということで、不運を嘆いてもらおうかと」
「しん、じゅう?」
さらっと発した言葉は彼に自決の計画があったことを匂わせた。
「私は最終的に、ツユキさんに消されるつもりでした。それは教員の生活を過ごすうちに固まってきた願望です」
「人さらいを……気に病んでいたのか。でも、死ぬようなことか? オレ以外の被害者はみんな、普通に生きているんだろ」
「こちらでは公(おおやけ)に目立つ被害を出しませんでしたが、元いた世界では死人が続出しました。私はお尋ね者なのです。そのことを、ツユキさんも承知なさっていたのですが……」
「あの警官が、こっちで教師のふりをずっとしろとでも言ったか?」
「大元はツユキさんの発案ですね。正確には、あちらの被害者の生き残りとお話しして私の処遇を決めてもらいました。消息をつかめた一人が……教師業の継続が贖罪になるとおっしゃったのです。その方は恵まれない子どもを育てることに人生を捧げていますから──」
「オレを保護することがあんたの罪を帳消しにする第一歩になるわけか」
「そうとも言えますが、私は貴方に不当な仕打ちをしたのですからその謝罪ですね。これは『子どもを助ける』という契約の履行とは別物だと思っています」
「じゃ、オレがどうなったらあんたの謝罪はおさまって、どっからが罪の償いになるんだ?」
「そう言われてみると……明確な線引きはできませんね。私も、よくわかりません」
習一が思うに、彼の目標である「夏休みの期間中に習一の生活を健全にする」というのが自主的な行動の範囲であり、それ以降の交流は他者に命じられた行為に値するのだろう。どっちがどうであれシドが習一に良くしてくれることに変わりない。習一は次の話題をふる。
「あんたが犯した罪はぜんぶ、ご主人様に従ってのことか?」
「そうです。私もエリーも、あの方に仕えるために存在する。そのように信じて努力してきたのですが……」
「そりゃ無理があるな。あんたは……悪人になりきれない。もともとが犯罪者向きの性格をしてないんだよ」
青い目が習一を見る。その目は優しげだ。
「この短期間で、よく見抜きますね。貴方は聡明だ」
「あんたほどわかりやすい野郎もいない。露木の警戒をそらす手段とはいえ、教師になって小山田に近付いたら情が移るとは考えなかったのか?」
「数ある生徒のうちの一人、であれば大丈夫だと思いました。やはり、というか……あの子も私を気にかけてしまって、ただの他人ではいられなくなりました」
「『やはり』ってどういうことだ?」
「彼女の中には同胞が住んでいます」
「中に……あの黒いやつが?」
「そうです。私とは別の役目を負う仲間でした。自我は欠けた個体だったのですが、現在は主命に背いてオヤマダさんと共存しています。その同胞と共にあり続けるうちに、彼女も私たちに親しみを覚えるようになった……のだと思います」
「彼女『も』? あんたは最初っから小山田が好きだったのかよ」
さんざん恋心はないと否定してきた主張をくつがえす告白だ。彼は首をひねる。
「どう捉えてもらってもかまいません。実を言うと、教師として潜入する前から迷いはありました。その時は彼女とその親への憐れみが先立っていましたが」
「『憐れみ』だぁ? キーワードを小出しにすんのやめろ。とっとと全部言いやがれ」
他人の興味を持続させる方法なのだろうが、まだるっこしいと感じた習一はいらいらした。シドは「貴方とは直接関わりのない話ですが」と警告する。
「私はある特殊な力を持つ人物を捜しています。その判定方法は……私がかけた術を解除できるかどうかを見ます。時を止めた時計の針を動かす──それが合否の判定方法です。オヤマダ以前にも同じ試験を行なった子はいました。彼らのうち、針を動かし続ける時計を渡してくれた人たちを私は攫いました。ですがオヤマダさんは違います。返却された時計は……時間が経つと針が止まったのです」
「電池切れじゃないのか?」
「いいえ、私が術を解けば針は動きました。彼女は術の効果を一時的に無効にする力を備えていたのです。その特別な力が、主の求めるものではないかと思いました」
小山田はこうしてシドの試験に合格した。折を見て彼女を連れ去ろうとしたものの、彼女の友人が「怪しい霊がいる」と露木に連絡したために実行は阻止された。シドが今後の計画を再編していたころ、小さな少女が高所より転落する現場に出くわした。その子を助けた際に同じく助けに入ろうとした女性に感謝された。その女性が小山田の母親だ。
「自分の子ではないのに、ミスミさんはとても喜んでいました。ベランダから落ちた女の子の家族が帰宅するまで私たちがその子の面倒を看ることになり、その時にミスミさんの話を聞きました」
ミスミの人助けへの熱意について質問すると、彼女は身の上を語ったという。
「ミスミさんは、お子さんを次々に亡くしていました。そのせいで他人の子どもであっても傷つく様子を見るのが怖いのだとおっしゃいました」
習一はミスミが野良猫の飼育には否定的だったことを連想した。我が子が先に逝く辛さを経験したせいで、寿命の短いペットを飼うことが怖くなったのだろう。だが──
「娘は生きてるじゃねえか」
「ええ、そうです。あの子は同胞が見逃したおかげで生きのびました」
「『見逃した』……?」
シドが連れ去った人間は化け物に喰われても死ななかった。それがミスミの子たちになると生死に関わるという。
「こっちの人間を拉致していっても、普通は死なないんだろ?」
「私の場合はそうです。しかし同胞はそれぞれに能力と役割が違います。私はおもに人間生活に溶けこんで標的を攫う役目を持ちました。ミスミさんの子を狙った同胞は、他者の頼みを聞いて魂を刈りとる役目を担っていました。この同胞はいわば『死神』です」
シドを超える攻撃的な化け物がいる。習一は黒い異形姿のエリーを脳裏に浮かべた。
「死神が連れ去った人は、もとの肉体と精神を繋ぐ糸を切られてしまい、生還できなくなる……と、私は理屈をこねてみましたが、実際のところはよくわかりません」
習一はがくっと肩を落とした。適当なことをぬかすシドをにらみつける。
「お前な、仲間のやってることくらいきちっと把握しとけ!」
「同胞自身もよくわからないでしていたことです。ご容赦ください」
「死神は襲った人間を覚えてねえのかよ」
「先ほども言いましたが、自我のはっきりしない個体なのです。こちらとあちらの生き物を区別しませんし、どれだけの命を刈ったかも数えていません」
「え? 『先ほど』?」
シドの同胞の話は、エリー以外だと小山田の体内に住まう者が一体だけあがった。
「はい。死神は……オヤマダさんが野良猫に手招きするような呼びかけに応じて、彼女に取り憑きました。以後はひっそりと、彼女と一緒に生きています。私が話しかけると簡単な返答をする程度には自己も生まれていました」
小山田は黒い異形を目の前にしても動じなかった。そこには二点の不審な箇所がある。
「なんで小山田はビビらなかったんだ? いや、それよかどうして死神に気付けた? あいつの目は普通なんだろ」
「彼女には死神とは別に憑いている何かがいます。『クロスケ』と名付けたそれと勘違いしたそうです。このクロスケは彼女の幼馴染が存在を教えていました」
「じゃあなぜ死神がいるとわかった? そいつがわざわざ姿をあらわしたのか」
「半分正解です。生物に接触をはかる際、姿を消した我々は相手に見える時があります。強い害意を持つとその危険が高くなる……それは怪談話に出る幽霊も同じでしょう?」
「まあ……そうかもな。幽霊が見えるタイプじゃねえのに、悪霊にばったり会ったら姿が見えたとかいう、ホントかウソかわからん話はな」
「我々の場合は当てはまります。おいそれと悪事が働けないよう、働いたとしても足がつくように、この世界はできています。ですから私は不意打ちか、闇に乗じて目的を遂行していました。死神はそういう対策を思いつけません。思考しないがゆえに……赤子にも非情になれた」
シドは急に立った。おもむろに座卓に歩み寄り、日記を回収する。
「同胞はもう死神ではありません。他に、よい呼び名があればいいのですけど」
そう言って勉強机の回転椅子に座った。思いついたことを日記に書く気らしい。その姿勢が話を終えようとする意思表示に見えて、習一は少し寂しく感じた。質疑応答をはじめる前は聞かなかったであろう質問が口に出る。
「エリーやシドって名前は誰が付けたんだ?」
「オヤマダさんです」
「なら、あいつに名付け親になってもらえばいい。同居人なんだしな」
シドは笑って「それがいいですね」と同調した。彼は机に向かい、書き物をする態勢になる。その状態でも習一が話しかければ延々答えるだろう。だが習一は思いつく限りの重要な質問を聞き終えた。常温になった茶を飲み干し、そのまま寝床へあがろうとした。
「歯は磨きましたか?」
シドが机に向かったまま尋ねた。習一は黙って洗面台へ行く。歯磨きのために部屋の照明を点けると、鏡には口の端がわずかに上がる自分がいた。
5
暗い廊下に光源が一つあった。そこから母の声が聞こえる。
『習一、学年で一位をとったんですって』
わがことのように誇らしげだった。この口調から察するに話し相手は父だ。
『この成績を維持できたらどの大学でも狙えると、先生がおっしゃっていたのよ』
三者面談では担任にそう言われた。進学を目指す者にはこれ以上ない評価だ。習一は父の称賛をひそかに期待した。だが父の声は一向に聞こえない。
『……どうして、嬉しくないの?』
母のか細い落胆の声がもれる。
『あなたはいつもそう。あの子が満点をとったテストを見せてきても全然喜ばないで……一言くらいほめてあげてもいいじゃない』
『ほめなくていい。あいつはできて当たり前だ』
『習一は天才児じゃありません。努力して、いい成績をとるんです。そのがんばりを認めて』
『あいつは血統がいいんだ。あの男の血に感謝するんだな』
習一の思考は止まった。父がなにを意図した発言をしているのか、わからない。
『またそんなことを……あの子が聞いたらどんな思いをするか、考えたことがあるの?』
母の返答も習一の理解を超えた。父の言葉はこの時、はじめて出した妄言ではないのだ。
『納得するんじゃないか。父親に顔も頭も似なかったことを』
『顔はたまたま私に似ただけよ』
『ああ、顔はお前似だな。それはよかったよ。カミジョウに似たんじゃ美形にならない』
カミジョウ、とは母が語る回想に登場した名前だ。写真を見せられたこともある。醜男ではないが麗人でもない、ふくよかな男性だった。それらの情報は決まって父が不在の際に見聞きした。彼は父と母の共通の友人であり、母とは懇意な仲だったという。
『頭だって少し物覚えがよかったのを、あの子なりに鍛えたから雒英に入れたんです』
『あれが「少し」なものか。たった一度教えたことでもしっかり覚えるうえに、抜け目ない観察力がある。カミジョウもそうだった』
『あなただって賢いじゃないの。難関の司法試験に合格してるのよ』
『あいつは一発で合格したんだぞ。俺が一度滑ったのを、カミジョウは簡単に乗り越えていった』
『二回めでちゃんと受かったでしょう。一回の結果なんて、その時の運次第──』
『バカを言え!』
父がいきり立つ。その悪声には己の自信を粉砕する人物への憎悪があった。
『あいつは急に「海外の仕事をしたい」と言い出して、ほんの数ヶ月で英語と中国語の資格を取ったんだ。中国語なんぞ必須単位だけ習っていたやつが……』
友人の優秀さを肯定する裏に、醜い嫉妬が凝り固まっている。
『やつはお前に海外行きの話をすぐにしなかったそうだな。なんでか、わかるか?』
『……知りません、そんなの』
『自分の恋人が、法曹界に入る男を夫にしようと考える女だと思わなかったからだ。どんな生き方でも応援してくれると自惚れていたわけだな。あいつは自分のこととなると勘が鈍る……そんなところも習一は似た』
『あの子が父親に認めてほしくて頑張ってるのを、わかってて冷たくするの? そんなにあの人も習一も憎いなら、どうして検査をしないの』
『カミジョウの子だとわかったら、お前は習一を連れて家を出ていくんだろう? 独り身のあいつは歓迎するとも。大企業に勤めていて羽振りがいいんだ、お前もいい再婚相手だと思うはずだ。……思い通りにはさせん。お前たちだけ幸せになってたまるか!』
『だったら習一をどうしたいの?』
『養ってやる。自分が不出来な人間だという劣等感を抱きながら、一生過ごせばいい』
父の下卑た笑いが響いた。だがこれは真実ではない。脳が手を加えた作り話だ。習一はまどろみの中、己だけが見える非現実の世界を漂流していたと理解した。どこまでが本当にあった両親の会話だかおぼろげだ。
(ほかにも言ってたことがあったかな……カミジョウって人のこと)
知り得た情報はまだある。ただ、父の嫌疑を聞いた時に知ったこととはかぎらない。
母の昔話には母と父が学生結婚を果たしたという一段がある。その際に様々な事情を覚えた。どれも母の口伝であり、母の都合の良い部分が切り取られていた。
(いい人、みたいだったな……)
両親の友人は明朗、かつ才識にめぐまれながらも他者に驕ることはなかったという。父とは性格がまったく異なる男性だ。合わない二人が学生生活をともに過ごせた要因は、ひとえに友人の度量の広さによるのだろう。
(オレみたいなやつでも、仲良くしてくれんのか?)
そのような空想は過去に何度も出現した。実の父親との疑いのある人物が、行き場のない自分を庇護してくれる。そんな自分勝手な夢想を、最近はめぐらせていなかった。
(もう……いるもんな、オレの保護者)
習一の身を案じる男がいる。彼がどんな障害でも取り去ってくれる。その事実を掛け値なしに信じる気持ちが芽生えてきた──
(いまじゃ、ない。もっと前からだ)
信頼はとうにあった。その心に蓋を閉めていただけなのだ。蓋に気付いていながら知らぬふりを続けてきた。それは少し前のシドも同じだ。
彼は絶対たる主人への忠誠ゆえに自身の感情を押し殺し、望まぬ犯罪に手を染めた。だが小山田とその家族との関わりが、彼の蓋を取り払うきっかけになった。
(あの教師は小山田がいなかったらここにいないし、オレも不良のままだった。結果的にみんながいいほうへ転んでる……のか?)
長考に飽きた習一はまぶたを開けた。室内は薄暗い。日がのぼりきらない早朝に目が覚めたのだ。二度寝をしようと寝返りを打ったところ、階下から光が漏れる。習一は物音を立てないよう移動し、居間の様子を見た。またベッド下の机には煌々とライトが点いている。ライトの光は縦長の陰影を座卓の上にまで形作る。その影は部屋主のものだ。
(いっつも寝ないでなにやってんだ?)
好奇が眠気に勝り、習一はロフト部屋をおりた。
6
習一はそろりそろりと慎重に階段を下りた。しかしどうしても足場がきしむ。習一の起床を部屋主が察知したはずだが、彼は作業を止めない。大方、用足しに起きたとでも思ったのだろう。習一は座卓のそばに座った。昨晩使用したコップは片付けられている。
「お早いのですね。あまり眠れませんでしたか?」
シドが椅子をキィっと動かした。彼はいつものサングラスをかけていない。直射日光の入らぬ室内なのだから日除け眼鏡を着用しなくて当然なのだが、習一は変だと感じた。
「べつに、目が冴えただけだ。あんたこそ寝なくて平気なのか?」
「私は力の補給さえ万全であれば眠らなくてよいのです」
「『力の補給』はどうやるんだよ。やっぱり……人を?」
自身の体験の断片がよみがえり、身震いした。シドは習一の恐怖を払うかのように表情を和らげる。
「昨夜、イチカさんを眠らせた方法です。元気を分けてもらうと眠くなる方が多いんですよ。私もエリーも、流血沙汰はやりません」
「そう、か……オレは別のやつにやられたんだな」
「はい。それともう一つ、栄養の摂り方がありまして……」
シドが机の引き出しを開けた。透明な瓶が仕事机の上に置かれる。瓶には黒い丸薬がぎっしり詰まっていた。
「これはツユキさん特製の栄養剤です。彼も白いカラスなどを呼び出すと力を消耗しますから、その回復用に作り置きなさっているそうです」
「オレが見た白いカラスもあんたと同じ、こことちがう世界から来てるのか?」
「そのように考えてよろしいです」
習一は瓶を手にとって観察した。あの露木が作る薬剤には人を傷つけて得る材料は混入しないだろう。シドは他人に危害を加えずに生活できるのだ。習一は一安心し、瓶を机にもどす。
「それで、あんたは寝ないでなにをしてたんだ?」
「生活費の試算をしています」
「なんだ、やっぱりオレがいるとカツカツなんじゃねえか?」
「これは……オダギリさんが一人で生活することを想定した計算です」
シドはノートパソコンを片手に持ち、習一に見せた。画面に数字の羅列が表示してある。
「一人暮らしをする大学生の生活費の平均値を参考にしました。加えて学校に通うとなると、教材費や修学旅行などの出費もありますから……」
「オレにこれだけ稼げ、と言いたいんだな?」
「いえ、私が負担します。高校生生活の残りの約一年半、私の貯金でまかなえることがわかりました。貴方は安心して勉学にいそしんでください」
「安心して、っつってもな……」
このまま家出状態で新学期を迎えたなら、親との軋轢(あつれき)が教師連中に問題視される。とても勉強に身が入る環境ではない。
「雒英高校は貴方が通いたくない学校ですか?」
シドがわかりきったことを尋ねる。これは確認だ。習一は口をつぐみ、うなずいた。
「では転校しましょう。才穎高校はいかがです? 常識では推し量れない人がいますけど、心優しい方が多いですよ」
「オレ個人で決められるか? 学校側がオレみてえな問題児を抱えたくないだろ」
「たった今、言ったでしょう。常識が通用しない人がいると。それは校長です」
習一は才穎高校の評判を思い出す。ありえない基準で入学者を選定する、色物高校。
「オレが校長のおめがねにかなう、と?」
「はい。その素質は備えているように思います」
「どういう審査なんだ?」
「ありていに言えば異性にもてる人物が好まれます。くしくも私は風貌の立派な男性を模して、採用と相成りました」
「見てくれのよさでか? それじゃアイドル養成所じゃねえかよ」
「外見はファクターです。ようは校長がお好きな恋愛騒動を起こす逸材だと思わせることが大事です」
「オレは女に興味ないぞ。男にもねえけど」
「私も同じです。言い換えると周りが勝手に騒いでくれればよいのです。校長も含めて」
「おめでたい学長だな……ま、そのぐらいおバカなほうがオレに合ってるかもしんねえ」
珍しく習一は好意的な返答をした。事実、中退をしないのならこの教師が在籍する学校に行ってはどうだろうと薄々思っていた。はじめは白壁に促されたのを頭の片隅に追いやっていたが、シドとの交流を重ねるにつれて現実味を帯びてきた。
(こいつがいるんならきっと、いい学校なんだろう)
小山田も過去に習一と敵対したとはいえ現在は普通に接している。彼女は習一のせいで傷を負ったのをおくびにも出さず、食事の用意をした。彼女の友人も後腐れがなさそうだ。たとえ習一を敵視する者がいても、不要な争いを避けたがるシドが釘をさすだろう。
シドはパソコンを机に置いた。くるっと椅子を回して習一と顔を合わす。
「残るは親御さんの件ですね」
習一の眉間に力がこもる。多くの事柄に整理がついても、父と対決する心構えは万全でない。
「もし差しつかえなければ……なぜ貴方の父親がわが子を憎むのか、教えてくれますか?」
「それを知って、どうなる?」
「和解の道を探るにはまず、真相を明らかにせねばならないと思います」
「和解なんかできっこねえよ。オレは、本当の息子じゃないんだ」
習一は腹をくくった。質問者はすでに他言無用の素性をさらけ出したのだ。自分もその誠意に応えねばならないという義務感が芽生えた。聞き手は顔色を変えずに黙っている。
「はっきりした根拠はないみたいだけどな。そんな話を夫婦喧嘩の時に聞いた」
「貴方の母親に不貞行為があったのですか?」
「それは知らない。オレが知ってるのは両親の結婚前に、母親に恋人がいたってことだ」
習一は直接会ったことのない人物に思いを馳せる。
「その恋人は父親の友人だった。この二人が付きあってることはあいつもわかってた。相手の男が海外の仕事に就こうとしたら母親と別れて、あいつがかあさんと一緒になった。すぐに二人は結婚して、オレが生まれた。妊娠期間が前の恋人のいた時期と被るから、疑われてる」
「遺伝子の検査で父親が判明するでしょう。どうして不明なままにしておくのです」
「それがあいつのバカなとこなんだよ。出産後すぐ検査すりゃあいいものを、その時は自分の子だと疑いもしなかったそうだ。看護師どもが『お父さん似ですね』と言ってきて、その気になってたらしい。オレ、母親似なのにな」
実父でない可能性のある男を「あいつ」と呼び名を固定して習一は説明を続ける。
「あいつがオレを本当の子じゃない、と思ったのはオレが物心ついてから。頭が回り過ぎるところが、あいつの友人に似ていたんだとよ。一つ疑うとなにもかも疑わしくなる。だから、オレはあいつに冷たくされた記憶ばっかり残ってる。そんなに疑うなら調べりゃいいとはあいつもわかってるはずだ。でも、やらないんだ。本当の子だったからって急に態度を変えられるもんじゃない。思いこみだけでオレをいじめられればそれで満足なんだ」
もしも息子が実の子だと判明した時、父はピエロに成り下がる。その可能性をおそれて真実をあきらかにできないのだとも考えられた。
「あいつの友人は切れ者だった。見た目はぼーっとしてるのに毎回成績が上位で、司法試験に一発合格したんだとさ。あいつは一度落ちたから余計にみじめだったんだろ。オレが高校でいい成績をとったら、あいつは言った。『やっぱりあの男の息子なのか』ってよ」
その言葉は両親の口論の後日に出てきた。すでに父は息子に隠し立てする意欲がなくなっていたのだ。
「必死に勉強していい成績をとれば……親はみんな喜ぶもんだと信じてた。まちがってないだろ? 自分の子がバカだから喜ぶ親はかなりの変人だ」
「はい。世間一般的には、その通りです」
「いい成績を見せても渋い顔をすんのは『その程度で喜ぶな』と、高い目標をオレに期待してるからだと思ってた。けど全然違った。あいつはオレが秀才だと言われるたびにオレを憎んでいた。あいつの上を行った友人が時間を越えて、また自分を笑い者にする──」
この推測は習一がカミジョウの子だと断定した上で成り立つ。習一は想像を膨らませる。
「形を変えた友人を痛めつけて、プライドをずたずたにしてやれば、初めて勝ったことになる──そういう思考だ、あいつは。人の好いあんたにゃ死んでもわからないだろうよ」
習一で鼻で笑った。愚かな父親と、その父に媚びてきた己への嘲笑だ。
「あいつは妹を溺愛してる。妹はいま、中学生だ。塾に行ってても成績はせいぜい中くらい。塾に通う前は下の中だった。オレの時は『中学生が塾なんぞ行かなくていい』とぬかしてたくせに、妹になったら金に糸目をつけないでいやがる。勉強のできない子どものほうが可愛いんだろうな。自分の子だと安心できるから」
「……根が深い確執ですね」
傾聴していた聞き手が控えめに感想を述べる。ほとんどが習一の憶測でしかないことを、彼が否定するかと習一は思っていた。人間の醜さを持たぬ異形に「そんなことはない」と諭された時は受け入れるつもりだった。だが、シドは習一の洞察を全面的に支持する。習一は胸に小さな懐炉が入りこんだような温かみが広がるのを感じた。
「オダギリさんは父親との共存ができないことはわかりました。では、貴方はどうしたいですか? 自分を虐げてきた父親への復讐を果たしたいのでしょうか」
「やりたい、つったらあんたはどうする?」
「法に抵触しない範囲で、加担しましょう」
真顔で答える様子に、習一は声をあげて笑った。目の端に熱いしずくが溜まる。
「もう、どうでもよくなっちまったよ。無駄に疲れるだけで……なにも変わりゃしない」
「でしたら、これからどうします?」
「最低限、別居することは伝えなきゃな。あと学校を替えるのも……学費、どうすっかな」
「才穎高校の学費も私がなんとかできます」
「あんたに頼りっぱなしは癪だ。放課後に稼げるとこ、知らないか?」
シドがベランダに顔をむけて黙考する。その隙に習一は目をこすった。
「心当たりがあります。オヤマダさんに確認してみましょう」
「お好み焼屋で働くのか?」
「いえ、そちらは人手が足りているそうです。もう一つのお店のほうです」
小山田と関わりのある店。勘付いた習一はその店に抵抗があるとわかる渋面を作った。
「大丈夫ですよ。店長さんや店の仕事は普通なんですから」
シドは机の端にあったサングラスを取り、定位置にかけた。光葉の攻撃を受けたまま公園に置き去りにしたかと思われたが、きっちり回収していたようだ。
「さて、オダギリさんのご両親は早起きな方たちでしょうか?」
「どうかな。失踪していた息子が帰宅するのは早いほうがいいと思うが」
「そうですね。では支度しましょう」
シドはメモ帳の紙をちぎり、書置きを用意する。紙には「散歩に行きます」とあった。
「散歩のノリで行く気か?」
「はい。そのくらいの気持ちでいましょう。殴りこみに行くのではありませんから」
「オレはまぁ、殴り合ってもいいんだけどな」
「拳が心を通い合わせるツールになるのでしたら、止めはしません」
「んな漫画みたいな美談にもっていけねえよ」
シドはロフト下の壁際に立った。その壁はクローゼットの戸だ。がらがらと戸を動かし、中にあったタイピン付きのネクタイを取る。以前にも見た、三つの宝石がついたタイピンだ。習一はそれが彼の趣味だとは思えなかった。
「そのタイピン、貰いもんか?」
「ええ、オヤマダさんから頂いたものです。私が……この世界に残る証ですよ」
シドはタイピンを大切そうになでたあと、ネクタイを締めた。
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