2018年12月11日
習一篇草稿−3章
1
習一は外気の熱にうだりながら、黒灰色のシャツを見失わないように歩いた。銀髪の教師は進行方向を見つつも習一を置き去りにしない歩調を保つ。朝、ともに歩いた時の速度を正確に覚えたのか。あるいは他人の気配の遠近を察せるのだろう。どちらも常人離れした技能ではあるが、過去に習一を武力で凌駕したという男にはできそうな気がした。
教師はめぼしい飲食店の前を通り、和風な店へと近づく。その店の分類を習一は知らない。教師は引戸をがらがらと開けた。屋内の喧騒が解き放たれ、入店客への挨拶が威勢よく飛び交う。二人を出迎えた者はねずみ色の頭巾を被った中年だ。身長は教師とほぼ同じだが恰幅はいい。黒の前掛けの横幅が微妙に足りず、紺色の作務衣が少しはみ出ていた。
「いらっしゃい! 先生、今日は一人か?」
「いえ、連れが一人います」
図体の大きい店員は上体を横へずらし、教師の後ろにいる習一を発見した。彼の目尻は吊り上がっている。射るような視線を習一は感じた。ただし敵意は含まれていない。
「ん? 見たことない子だな。才穎高校の子か?」
「いえ、別の学校の生徒です。しばらく勉強のお手伝いを──」
「あ〜、そういや娘が言ってたな。先生が他校の男子の世話するからその子のメシをつくるって」
昨日のサンドイッチはこの店員の娘の手によるもの。そうと知った習一はむずがゆい思いをした。なんとなく自身の母親に近い、年長の人物が作った食事だと想定していた。
(同い年くらいのやつが、か……)
なんの見返りもない善意を振りまく同輩がいる。習一は空手部の同級生の名を髣髴し、次いでその曇りのない眼を思い出した。
教師とは仲の良さそうな店員が席を案内する。そこは一面に鉄板を乗せた四人掛けのテーブルだった。油と小麦粉が焼ける匂いが充満する店はお好み焼屋であり、酒を片手に粉物をほおばる客もいた。店員は注文が決まったら呼んでほしいと言い、厨房へ去る。教師がテーブルのメニュー立てにある冊子を取り、習一に手渡した。
「食べられるだけ頼んでください。代金は私が支払います」
「あんたはまた食わないのか?」
「はい。腹は減っていません」
「朝のパンだけじゃ足りないだろ。オレの飯代を肩代わりするために無理してるのか?」
「金銭には困っていません。ただの体質です」
メニューを見ようとしない習一に代わって、教師がもう一つのメニュー表を開く。
「具の好物が特にないようでしたら、ミックス玉がよさそうですね。いろんな具が少量ずつ入っているそうです。たくさんの味を楽しめますよ」
習一がメニューを見るとミックス玉とは同種の中で最も価格が高く、量は二人前だ。
「これ、二人分だって書いてあるぞ」
「昼を食べていませんから大丈夫でしょう。それとも、お好み焼きは苦手ですか」
「べつに嫌いじゃないが……量による」
「残してもかまいません。私が処理します」
「わかった。じゃあそれ一つ、頼む」
教師は店員が他客への品運びを終えて厨房へ行くところを声掛けする。立ち止まった者はひょろ長い背格好の青年だった。年齢は二十代。彼も灰色の手ぬぐいを頭に巻き、黒いエプロンを掛けている。前掛けの下は若者らしい私服だ。頭巾と前掛けがこの店の制服のようだ。若い店員に教師が注文をつけ、店員は伝票を復唱したのちに厨房へ帰る。入れ替わりで中年の店員が現れた。習一たちに氷水を提供する。
「そいじゃ、鉄板を熱くするんで触らないようにしてくれよ」
店員は身を屈め、テーブル横のつまみをひねった。鉄板の加熱が始まる。店内の冷房を打ち消す熱気が徐々に生まれた。鉄板には幾重にもヘラが当たった薄い線が走る。年季の入った店なのだろう。習一は今までこの店を素通りするばかりで入店したことがなく、お好み焼き屋であることは知らずにいた。それは仲間内のグルメ評にはあがらなかったせいだ。うまいともまずいとも評価されない料理に多大な期待を寄せることはやめた。
ふたたび細長い体型の店員が現れる。彼は黒塗りの丼のような器と、ヘラを置いた二枚の取り皿を盆に乗せて運ぶ。習一たちに料理のもとを提供すると、すぐに他の客のもとへ馳せ参じた。
教師が調味料と一緒にならんでいた油を手にし、鉄板に垂らす。油をヘラで薄く一面に引いた。音と細かい気泡を立てて油が熱される。熱した油の上に丼に入った薄黄色の液状を敷いた。小麦粉を溶いた液体にはとうもろこしの粒や丸まった海老、白いイカなど色々な具材が混じっている。教師は丼に残った具をヘラで掻きだし、円形に広がった溶液に落とした。その手際を見るかぎり、料理下手には思えない。
「あんた、お好み焼きを作るのは得意なのか?」
「いえ、初めは何度も失敗しました。練習したおかげで人並みに焼けます」
「へー、それでお好み焼きを食ったことは?」
「……あまり、ありません」
「あんたは何なら食えるんだよ?」
「好き嫌いはありません。私の滋養になる食べ物の種類が極端に少ないのです」
「食べ物のアレルギーが多くて、食えるもんが少ないってことか?」
「アレルギー症状は出ません。本当に、栄養をとれる食べ物が限られるのです」
「? じゃあ胃が受け付けないのか?」
「どう言ってよいものやら……この説明も貴方の記憶がもどったあとにさせてください」
教師は習一の疑問を解消させない返答をしたまま、お好み焼きの制作に集中した。彼は正直に答えているようだが、習一の常識に当てはめた解釈では真相にたどりつけない。特定の食べ物のみを胃が吸収するのでも、アレルギーがあって飲食に制限がかかるわけでもない。それ以外に好悪の情なく偏食に走る理由は、習一には思いつけなかった。
教師は小麦粉が固まってきた円状の板を二つのヘラで持ち上げてひっくり返す。表に返った側には茶色の焦げ目が出来上がっている。
「今日はこの店を含めて三か所、訪れましたね。疲れましたか?」
「ああ……やっぱり暑い時に歩きまわると疲れる」
「わかりました。明日は一か所に留めましょう。喫茶店に長時間いてもかまいませんか」
「昨日、それをやった。なんとも思わねえよ」
「それは結構。明日は貴方が昨日過ごした喫茶店で課題をこなしましょうか」
「これだけ頑張ってやっても、オレ一人でちゃんとやるとは思えねえか」
「貴方を信じないのではありません。オダギリさんの身を案じているのです」
「オレのことが心配? なにを気にしてんだ」
「貴方の父親のことです」
習一は胸を衝かれた。習一が最も苦悩する物事を教師は臆することなく提示する。習一は教師をにらんだ。黄色のサングラスの向こうにある目は一途に料理を見つめていた。
2
「貴方は以前、町中を放浪する不良少年だった、という認識で合っていますか?」
「ああ、そうだ。この辺に住んでる連中にけむたがられる、人間のできそこないだよ」
「そのように己を卑下してはいけません」
凛とした叱責だった。習一は口をつぐむ。
「貴方はきちんとした人間です。その証拠に昨日も今日も、長い時間を課題に向き合ってこれたでしょう。胸を張ってください。自分は頑張れた、と」
「気休めはいい。それで、父親についてどこまで知ってるんだ」
教師は平たい小麦粉の塊をもう一度ひっくり返す。両面に茶色の焦げ目がついた塊をヘラで半分に割き、火の通り具合を見る。
「そろそろ焼けますね」
「父親の話をしながら夕飯か。あんまり食えたもんじゃないな」
「では別に話題にしましょう」
「いや、とっとと教えてくれ。それを聞いたら食う」
教師は上半身を横へ倒し、鉄板の熱を弱めた。夕飯が焦げないための配慮だ。
「厳格な裁判官だそうで、情状酌量はあまりお好きでないとか。罪は罪としていかなる事情があれど罰するべきだというお考えの方だとお聞きしました」
「よく、知ってるな……」
「情報通な知人がいるので調べてもらいました。わかったのは表面的な情報だけですがね。長男である貴方とは不仲続きだと知れましたが、原因はわかりませんでした。あとは雒英高校の掛尾先生に教えてもらった話ですと、前年度を境に貴方の素行が荒れ始めた、と。その時に父親と激しい衝突があったのではありませんか」
「そうだよ、だからどうした? もめる原因がわかれば仲直りできると思ってんのか」
習一は底意地悪く聞いた。教師は軽く頭を横にふる。
「いいえ、私が知りたいのは貴方の父親が貴方を嫌うという事実です。貴方が家にいたがらないのは父親のせいでしょう。父親がいなければ貴方は日が落ちる前に、安心して家に帰ることができる。登校時刻に家族に顔をあわせて学校へ行ける。違いますか?」
教師の指摘は合っている。習一は父が眠るか仕事でいない時に家に帰り、父が出勤した後で出かける用意をする。常に父親と家の中で遭遇しないことに注意を払って過ごしてきた。父さえいないのなら母も妹も習一には無害な存在だ。
「父親がわが子を目の仇にする事情は察しかねます。ですが貴方を非行に走らせた元凶である以上、その存在を除かなければ貴方に真っ当な高校生活は送れません」
「あんたはオレじゃなくてオレの父親がダメ人間だって言うのか?」
「極論でいえばその通りです。貴方は元来、まじめな性格なのだと思います。そうでない人はプリントの山を解き続ける苦行に耐えられません。きっと弱音を吐いて逃げ出そうとします。ですが、貴方はエリーにも不満をもらしませんでしたね」
「……逃げたって他にやることがないからな。どうせ暇ならつまんねえ勉強でもやるさ」
「暇があれば勉強に励む、とは優等生らしい発想ですね」
「こんな落第生にゃ似合わねえ言葉だ、ってえ皮肉か?」
「いえ、貴方は周囲の人間に恵まれれば現在も優等生でいたはずです。その気性をねじ曲げた原因が父親なのですから、父親に親としての問題点があります。貴方を普通の生徒へ教化するにはまず、父親をどうにかしなくてはなりません」
教師は火を通したお好み焼きを食べやすいサイズに分けつつ、感慨深い言葉を連ねる。習一が心のどこかで誰かに言ってほしかった述懐だ。しかし根本的な解決法は見出せない。
「父親をどうにかする、ったって、あの頑固オヤジは死ぬまであのままだろうよ」
「はい。貴方が父親と一緒にいても互いに傷つくばかり。どちらかが離れるべきでしょう」
「家を出るならオレのほうだ。でも一人で生活できるか? 中卒じゃどこも雇わないぞ」
「厳しいでしょうね。ですので……私が貴方の一人暮らしを支援しようと考えています」
「あんたが? オレが、一学期の試験に合格できたあとも?」
「はい、周りの協力と貴方の気持ちがそろえば可能だと思います」
習一はしげしげとヘラを握る男を見た。彼が場当たり的な綺麗ごとを述べたようには見えない。ごく自然に、真摯な態度を保持している。
「今すぐに、とはいきませんが……この夏休みの期間中になんらかの落としどころをつけたいと思っています。オダギリさんの家庭環境は不健全です。補習を受け終えてからでかまいません。今後の身の置き方を考えてみてください」
教師は毛先の短い筆が入った調味料の蓋を外し、ソースをお好み焼きに塗りつける。焦げ茶色に染まった生地に習一はマヨネーズとかつおぶしをかけて食べ始めた。
3
習一は平凡な喫茶店での朝食をすっきりたいらげた。食事中、教師に聞きそびれていたことが何度も頭によぎる。この店が先日、田淵と会った店だったせいだ。給仕が空の皿を下げたあとで銀髪の教師に尋ねる。
「なぁあんた、背がデカくて銀髪で色黒な男を知ってるか?」
教師はブックカバーをかけた本を閉じる。彼はやはり飲食をとる気配がなかった。
「その男とは私以外の人物ですね?」
「そうだ。オレの仲間は銀髪とは言ってなくて、帽子を被ったオバケ男だと言ってたが」
「オバケですか。ユニークな表現をするお友達ですね」
教師は微笑んだ。幽霊じみた存在を疑う様子はない。
「その男、あんたの仲間か?」
「ええ、そうです。私と同じ志を持つ同胞ですよ。帽子を被るオバケが銀髪だという情報は誰が提供したのですか?」
「誰も言っちゃいない。光葉というヤクザっぽい男が捜してたヤツかと思ったんだ。あんたの仲間、ヤクザ連中には有名なのか?」
「名が知れているかどうかわかりません。ただ、接触はありました。私ともども恩ある方がおりまして、その方を護衛した時に」
「それが無敗のバケモノ、と言われる由来か」
「そんな呼び名が付いていましたか。初めて耳にしました」
全くの他人事のように教師が淡く驚いた。習一は質問を続ける。
「光葉は男みたいに背が高い銀髪の女のことも聞いてきた。それもあんたの仲間か?」
教師は目を丸くした。銀髪の女の存在が知れ渡る状況は想定外だったらしい。
「そう、ですか。見ている人はいるものですね」
「知ってるんだな?」
「はい。その女も……私の仲間です」
「けっこう大所帯なんだな。そんなに銀髪な連中がいたら目立つと思うんだが」
「だから帽子を被るのですよ。私は仕事上、帽子を着用できないので諦めています」
「エリーはなにも被ってなかったが、あいつはいいのか?」
「今はいいのです。なるべく人目に付かないようにしていますから」
「オレと半日一緒にいたことがあっても、か?」
「はい。目立っていなかったでしょう?」
習一はわだかまりが解けない事実だ。この喫茶店で出会った田淵は、少女が同席しないも同然の態度を通した。この現象を不審に思った習一の質問には「気配を消してるから」と少女は簡単に答えた。習一以外の人間が見ても気付かぬ特殊能力でもあるというのか。
「納得がいかないようですね。いずれわかります」
「いずれ、か。まあどうでもいい。ヤクザもどきな男には会ってないか?」
「どんな人物か、特徴を教えてもらえますか」
「背はあんたより高くてゴツい感じで、日焼けした金髪野郎だ。白スーツを着てたな」
「会っていませんね。真夏に人捜しは重労働でしょうし、諦めてくれればよいのですが」
「それもそうだな。カンカン照りの時に外を歩きたくねえ」
光葉は人捜しに飽いて己がネグラへ戻ったのだろう。そう見做して習一は今日の課題をテーブルに並べた。残り少ないので参考とする教科書の数も少ない。昨日は教科書なしだったために解かなかった問題も、今日は参考資料が手元にある。早速取りかかった。
教師は習一が目的を果たす作業に入ったのを確認し、彼もノートと筆記具を机に置いた。何を書き留めるのかと習一は興味がわき、じっとノートを見た。教師が視線に気付く。
「これは私の日記です。近頃は立てこんでいたので手つかずでした」
「人前で日記書くのは恥ずかしくないか?」
「その日の出来事と自分の考えを記すだけです。他人に見られて恥だとは思いません」
「ふーん。じゃあオレが見ても怒らないんだな?」
「ええ、読みたければどうぞ。見ますか?」
「やめとく。あんたのことはどーでもいいからな」
「そうですね。貴方が必要とする情報は少ないでしょうし、それが賢明です」
習一は引き続きプリントの設問を解く。教師はまだ手を動かさないでいる。
「そのままの状態で聞いてください。今後の予定を伝えておきます。今日の昼前に、貴方が目覚めた時に会った警官がここへ来ます。目的は簡単な状況確認です」
本日、警官が来訪する。彼と習一が会ってから今日で一週間が過ぎた。様子観察をするには遅くも早くもない頃合いだ。
「同時に彼の交通手段をお借りして、明日は遠出しようと思っています」
「どこに行く気なんだ?」
習一は顔をうつむいたまま問う。教師の指示通り、課題の片手間の会話姿勢を保った。
「動物園です。明日の天気は曇り、気温が低めらしいので、万全の体調でない貴方でも園内を見学できると思います」
習一は動物園にはあまり縁がない。幼稚園や小学校に通った時に遠足で訪れたきり、私的に見物したことはなかった。遊びには飽きた習一でも真新しい発見と体験ができそうな場所だ。
「朝食と昼食は知り合いにつくってもらいます。食事の心配はいりません」
「そんなところに行く理由はなんだ? 補習には全然関係ないだろ」
「気晴らしです。ずっと机に向かい続けていては心身ともに良くありません。あとに三日間の補習が控えていますから、今のうちに休んでおくと良いかと」
「休むのに動物園? どういう理屈だ」
「動物を見ていると和みませんか?」
変なことを言い出すやつだ、と思って習一は顔を上げた。しかし教師は真顔でいる。本気でそう思っているらしい。
「さあ……あんまり意識して見たことがなくて、わからない」
「動物が嫌いでないのならよろしいです。夕方は大衆浴場で休もうと考えています。着替えは一式購入しましょう。これが明日の計画です。貴方の希望があれば変更しますが」
「いや……やりたいことはない」
「では明日は動物園ですね。どんな子がいるのか楽しみです」
落ち着いた大人には似合わぬ無邪気な感想だ。教師は喜色に満ちている。
「もしかして、動物好きか?」
「そうです。もっぱら犬猫のような毛むくじゃらな動物が愛らしいと感じますけど、そうではない象などの動物も興味深いと思います」
「へー、意外だな。趣味のない仕事人間かと思ってたぜ」
「動物への関心は……個人的な感情ですね。それは趣味だと言えるのかもしれません」
教師は開いたノートに何かを書いた。習一との会話の中で記録したい事柄が出たようだ。習一も顔を伏せて解答を続けた。
4
喫茶店の客足が増え、昼飯時が迫る。教師の話では昼食の前に警官が来るが、と思った習一は外の様子を見た。窓際の席ゆえに人と車の往来がよく見える。警官は車かバイクに乗ることは教師の話から予測できた。安くはない乗り物を貸せるとなると、教師と警官は親しい間柄のようだ。おまけにこの炎天下の中、徒歩を強いられても厭わぬ相手だ。あの警官もまた、教師の仲間と言える存在なのだ。
道路上を走る白い影があった。滑空する白い鳥だ。その形状は習一の記憶に新しい。
「え……白いカラス?」
入院中に遭遇した白い羽毛の烏だ。全身真っ白な烏は希少生物であり、そうそう頻繁に出会えるものではない。なのに、白の烏は道路上を滑空する。その後ろに続くのが一台のバイクだった。乗り手は顔半分を防護レンズで覆うヘルメットを被る。人相はよくわからないが、学生の夏服のようなシャツとスラックスを履いた様子から男性だとわかった。
白の烏は習一の視界から飛び去る。習一は呆然とし、なんの変哲もない往来を見続けた。
「白いカラスが見えましたか」
低く安心感のある声によって習一は我に返る。その声には奇妙な言動への不信感がない。
「ああ、見えた。病院にいる時にも一回見たんだ。最近、このあたりに引越してきたのかな」
「いえ、あのカラスは警官の所有物です」
「警官のペットぉ? ずいぶんとレアな生き物を飼ってるんだな」
「他にも変わった動物をお持ちの方です。お願いすればいろいろ見せてくれますよ」
「ふーん。それはどうでもいい。あの警官がお出ましになったってことなのか?」
「はい、出迎えにいきます。しばらく待っていてください」
教師は日記帳を閉じ、店を出た。無防備な日記が習一の眼下にある。盗み見るに値しないと思い、手をださずにおいた。三分ほど経過すると教師が一人の男性を伴ってきた。その男性は習一が入院中、初めて目にした人物。名字を露木と名乗った警官だ。彼はヘルメットを小脇に抱え、反対の手には物が入った白いビニール袋を提げている。
「やぁお待たせ。習一くん、元気そうにしていて良かったよ」
露木は教師が座るソファの隣に腰を下ろした。ヘルメットは座席の空いたスペースに置き、持っていた袋は教師へ手渡す。
「せっかくだから薬、受け取ってよ。在庫全部っつってもまた作れるんだから」
「本当にいいのですか? シズカさんの分がなくては……」
「もうちょっと飲みやすく改良するんだ。クラさんと一緒に研究してみるつもり」
教師は露木に軽く頭を下げて「ありがたく頂戴します」と律儀に礼をのべ、自身の鞄へ袋を納めた。その薬とは二人とも使用の機会のあるものらしい。露木が習一に顔を向ける。
「課題のほうはどうだい、うまく合格できそうかな?」
「もうすぐ終わる。あとは補習に出席するだけ」
「うん、そうか。提出期限が来週末の宿題をもう済ませちゃうんだから、エライねえ」
「べつに偉くない。この先生が見張りをよこしてまでオレに強制したせいだ」
「シドさん側の見張りはあるだろうけど、きみは文句言わずにやってるんだろ? そこがエライんだよ。おれなら『もうむり』とか『明日にしよう』とか言っちゃいそうでね」
露木はさっぱりした笑顔を見せる。銀髪の教師よりはとっつきやすい大人だと習一は肌で感じた。年のころは二十代半ばだが、精神的には習一との隔たりがない。露木が特別幼いのではない。習一が変に世間擦れして少年らしさを失っただけだ。加えて教師が三十歳足らずのくせに老成している。そのせいで年齢的に近い大人二人が同世代に見えなかった。
「明日はシドさんの運転で動物園に行くんだってね。熱中症にならないように、飲み物をシドさんにねだるんだよ。彼は独身貴族で、お金に余裕があるからね」
露木は冗談半分な助言をする。
「こんな時、おこづかい制のお父さんは財布の中身がさびしくても子どもにジュースを買ってあげなきゃいけないんだから、大変だ。おれの兄貴もそのうちそうなるかな」
露木は温和な笑顔を浮かべつつ、テーブルの端に立てかけたメニューを取る。
「おれはここでご飯を食べる気なんだけど、お邪魔してても大丈夫かな」
「好きにしてくれ」
「ありがとう。どれにしようか……うちのご飯は野菜が多くってねー」
職業が警官だとは信じがたい呑気さで露木はメニューをめくり、雑談をし続けた。自分が住む家は寺であること、元々両親は住職ではなかったが不慮の災害で家を失くし、親戚の寺に住まわせてもらっていること、その親戚の娘と自分の兄が子どもの頃からの許嫁同士であり現在は結婚していること、といった身の上話を習一は聞かされた。
露木が昼食を注文するついでに習一も食事することにし、食べる間も彼は話を弾ませた。昼食中の露木は教師について熱心に話す。教師は今年の四月に初めて教師になった新人であること、シドの名前は教え子がつけたあだ名であり本名の頭文字を取ったということ、その教え子は樺島というアイドルとそっくりな顔をしていること、教え子と教師は親密な仲であること、校長が二人の仲を後押しすることなどを教師自らの弁解も交えて語った。
5
露木に再会した翌朝、習一は自室で休んでいた。教師が朝食を届けると言って自室での待機を指示したのだ。目が覚めて寝台の上をごろつき、窓の外のくもり空を眺め、次に昨日解きおえたプリントを見た。露木が長話を済ませて帰ったあとに教師に丸点けをしてもらったものだ。誤答を修正すべき箇所もすべて確認が終わっている。あとは補習を受けに登校したおりに教師へ提出して課題完了となる。鞄の中身を整理し、登校の準備を万全にしておいた。着ていく制服も昨日の夜のうちに回収した。今日にでも学校へ行けるほどに支度は整っている。明日の用意を点検したのち、今日の外出のために衣服を着替えた。
開いた窓から人があらわれ、軽々と桟を乗り越えて入室する。いつもの銀髪の少女だ。
「シューイチ、ごはんもってきた」
少女は背負ったリュックサックを机の上に乗せる。荷物から取り出したものはまたも水色の布。布地の下には握り拳大のなにかがシルエットとして存在する。
「おにぎりをつくってもらった。あと、飲みものはこれ」
少女はおにぎりの包みを机に置き、新たに紙パックを見せる。市販の野菜ジュースだ。
「食べおわるまでまってる」
少女がその場に座りこんだ。習一は勉強机の椅子に座り、彼女が届けた朝食を口にする。布にくるまれたおにぎりは二つあり、透明なラップで包装してあった。海苔を巻いたおにぎりには点々とふりかけが混ざっていて、中央部にはかつおぶしを醤油にひたしたおかかがある。もう一つは種のない梅干しが具のおにぎりだった。二つの握り飯を完食し、ジュースを飲んで潰すと少女が立ちあがった。習一は彼女に声をかける。
「お前はエリーって言うんだろ。お前も動物園に行くのか?」
「いかない。お昼ごはんができたら、あとでとどけにいく」
習一たちが遊覧に行く間も少女は無償の奉仕活動を続けるようだ。その従順さを健気だと習一は思った。だが遊びたい盛りの子どもには不満が噴出しそうな雑事だ。
「すっと使いぱしりにされてて、つまんなくないか?」
「ぜんぜん。動物は今日じゃなくても見れるもん」
エリーは習一の質問をこともなげに流す。強がりのようには見えなかった。
少女はおにぎりを保護したラップを広げ、その上で空の紙パックを小さく畳む。二枚の使用済みラップで紙パックを包み、布と一緒にリュックサックへ入れた。
「でかけよ。シドがまってる」
「父親が起きてると思う。見つかったらすぐに出れねえぞ」
「わたしがちょっとのあいだ、うごけなくしてくる」
エリーが窓から飛び降りた。なにをする気だ、と習一は不審がりながら窓を閉める。一応の所持金をズボンのポケットに入れて部屋を出た。一階の居間には椅子に腰かける父の姿がある。目は閉じており、二度寝をしているらしい。エリーが手をくだすまでもなく鬼の目を盗むことができた。習一は堂々と靴を履き、玄関を出た。
昨日と同じく銀髪の教師が道路上で待っていた。彼は習一の姿を見るとエンジン音を鳴らす。露木に借りたバイクを稼働したのだ。そうして彼は露木のヘルメットを被った。習一が鉄格子をのけると彼はもう一つのヘルメットを手にする。
「これを被ってください」
予備のヘルメットに風よけのレンズはない。習一は黙ってそれを被り、もみあげから顎の下までを伝うベルトのクリップを留めた。教師は普通自動二輪の機体へまたがる。その後方には人一人が座れる幅があり、空席の後ろには低い背もたれのような箱が設置してあった。箱はリアボックスと呼ぶらしい。箱の中に荷物を入れることができ、一度使い出したら外せないと露木は利便性を説いていた。外観は不恰好になってしまうが、習一も教師も見てくれを気にしないので外されないままだ。習一は教師と箱の間に自身の体をおさめた。
「私の体に捕まっていてください。安全運転を心掛けますが、何が起きるかわかりません。手を離さないようにお願いします」
慎重な勧告にしたがい、習一は成人男性の腹部に両腕を巻いた。喧嘩以外に他人に触れることは滅多になく、いいようのない心持ちが生じる。敵意ではなく、好意でもない気持ちで他者にくっつく。今の自分の心境が良いものか悪いものかさえ、わからなくなった。
習一の動揺を置き去りにしてバイクは発進する。習一は流れゆく実家を見つめ、その家屋が視界になくなっても視線を変えなかった。
6
「ひざに乗せます。じっとしていてください」
茶や白などの毛玉が放たれた区画があり、その場を取りかこむベンチに習一が座っていた。習一の太ももへ、教師が捕まえた獣が乗る。動物に慣れていない習一はおっかなびっくりで、自身の体へ着陸する獣を見つめた。短い四肢を人の足に乗せた獣は三毛猫と似た毛皮を持つ。白と茶と黒で彩られた獣の顔は間が抜けていた。その平和ボケした面構えにたがわぬ大人しさで、太ももの上にじっと居座る。この獣の種類はモルモットという。
「なでてみてください。このように」
教師の色黒な手が毛皮に触れる。後頭部から背中まで、数回に渡って一方通行を繰り返した。何百何千という来園客をもてなしたであろう獣は泰然自若の面持ちでいる。
(このデブネズミの方が度胸があるってのか?)
習一は小動物に臆する自分を腹立たしく思い、獣の丸い背をわしわしと手のひらでこすった。荒いなで方をされても獣は離れない。この程度の摩擦は経験済みらしい。
「大人しい子ですね。では、私も一匹預かってきます」
教師は再び、小さな獣たちが待機する囲いの中へ両手を入れた。次に捕まえた獣の毛はクリーム色だ。胴体を褐色の手に抱かれた毛玉は鼻をひくつかせ、習一の目の前へやってくる。教師は習一の隣に座り、その膝に単色の獣を置いた。片手で獣の尻をそっとおさえつつ、まんべんなく毛皮を触る。そうするうちにクリームの獣は前足を捕獲者の腹へ押しつけて立った。教師は両手で獣の脇を持つ。獣の尻を片腕の肘の内側に乗せ、胸の前に抱いた。空いた片方の手でその頭をなでる。獣を愛でる教師の表情はほころび、慈愛に満ちていた。習一相手には見せなかった顔だ。よほどの動物好きなのだろう。
「動物をさわってて、楽しいか?」
習一は適当に三毛のモルモットの毛皮をいじりながら質問する。教師が「はい」と視線を獣に注いだまま答えた。習一はふん、と鼻をならす。
「こんなすっとぼけた顔した連中の、なにがいいんだ?」
「顔はどんなのでもかまいません。柔らかい毛と体、愛らしい仕草にまっすぐな心根を持った子はみな、かわいいものです」
「ふーん、じゃ、オレみてえなヒネクレ者は嫌いなわけだ」
「人と動物は違いますよ」
教師が真剣な表情で言った。彼は獣を自身の太ももに下ろし、習一を見る。
「愛玩動物は愛らしさ一つで一生をまっとうできる者が数多くいます。それが彼らの役目です。人はそういきません。生きる術と知恵を身に着ける必要がありますし、その手伝いをするのが私の役目です。生徒を選り好みして指導にあたることはできません」
謹厳な回答だ。習一は獣の柔軟な肢体を指圧のごとく押しつつ、口をゆがめる。
「聞こえのいいこと言ったって、やっぱり素直なやつは扱いやすいし聞き分けのないやつはメンドクセーだろ?」
「職務上の苦楽はあまり考えたことがありません」
「きれいごとはいらない。聖人面してても嫌いなやつはいるだろ、と言ってるんだ」
「いることはいますが、オダギリさんはその範疇にありませんよ」
難敵の認識がないことに習一は期待外れのような、胸がすいたような気持ちになった。
「貴方は自分を性根の曲がった問題児だと思っているようですね」
「思うもなにも、周りはみんなそう扱ってるだろ」
「私も『みんな』のうちに含まれていますか?」
習一は黙った。この男の胸中は知れないが習一を疎んじる素振りは一度もなかった。家族や学校の連中とは違うのだ。習一は一言「わかんねえ」とつぶやく。教師が微笑する。
「それは、貴方が私を敵だと思っていない、ということでしょうか?」
「……いまのとこ、な。それで、いつまでこいつを触っていればいいんだ?」
習一は三毛の毛並みをわざと逆立ててなでた。小動物を嫌う理由はないものの、モルモット目当てに集まる人だかりができつつある現状に不快を覚えていた。子ども連れの親がこぞって囲いに群がり、獣の捕獲に熱中する。他人の捕獲風景を見るに、逃走を図る獣に難儀する人がいる。人々が獣に夢中になるのはまだいい。狙い通りに獣を得た者が習一たちと同じベンチに座り、その関心が次第に隣席の習一と連れの教師に向かうことが嫌だった。親子や兄弟には決して見えぬ二人を、どう勘ぐられるものかと習一は気が気でなかった。
「わかりました。次はまだ見ていない動物を見に行きましょう」
教師は習一が気分を悪くしていることを察知したようで、クリーム色の獣を胸に抱いて席を立つ。その背中には斜めにかけるショルダーバッグがある。バイクの走行中は後部座席にいる習一の邪魔にならぬよう、バイクの荷物入れに収納していた。
獣の返却をする前に、教師はモルモットの居住区にへばりつく女性と小さい女の子に声をかける。逃げる獣を捕まえられずにいる親子に、手中にあるモルモットを渡そうというのだ。親子がベンチに座ると教師は娘の膝に獣を乗せる。習一にしたのと同じ行為だ。娘はよろこんで獣の背中をなで回し、母親は教師に謝辞を述べた。もどってきた教師は習一に手をさしのべて「その子を返してきましょうか」と聞く。
「それぐらい、自分でやる」
万事を他人任せにするのは鈍くさいやつのすることだ、と習一は考え、獣のもちもちした胴を両手で抱えた。三毛を囲いの中へ放つ。拘束が解かれた獣は藁のじゅうたんに頭を突っこみ、ひとときの自由を満喫する。習一は教師が水場に行くのを追いかけた。
動物に触れる前と後はかならず手を洗うように、との注意書きにそって、二人は液体せっけんを泡立てる。手がまんべんなく白い泡にまみれたあと、水で泡と汚れを流した。習一はぬれた手を適当に服でぬぐうが、教師は持参のハンカチで拭く。彼は水気をふき取った指に白い宝石のついた指輪をはめた。それは平素より彼が身に着ける装飾品であり、一度めの手洗いの際に外していた。触れた動物にケガをさせてはいけないから、という気遣いゆえにポケットに隠したものだ。
(動物にもバカ丁寧なんだな)
男らしくない細かい配慮だと思う反面、そんな男に養われる家族やペットは幸福な生き方ができるのだろうとひそかに感じた。
習一は外気の熱にうだりながら、黒灰色のシャツを見失わないように歩いた。銀髪の教師は進行方向を見つつも習一を置き去りにしない歩調を保つ。朝、ともに歩いた時の速度を正確に覚えたのか。あるいは他人の気配の遠近を察せるのだろう。どちらも常人離れした技能ではあるが、過去に習一を武力で凌駕したという男にはできそうな気がした。
教師はめぼしい飲食店の前を通り、和風な店へと近づく。その店の分類を習一は知らない。教師は引戸をがらがらと開けた。屋内の喧騒が解き放たれ、入店客への挨拶が威勢よく飛び交う。二人を出迎えた者はねずみ色の頭巾を被った中年だ。身長は教師とほぼ同じだが恰幅はいい。黒の前掛けの横幅が微妙に足りず、紺色の作務衣が少しはみ出ていた。
「いらっしゃい! 先生、今日は一人か?」
「いえ、連れが一人います」
図体の大きい店員は上体を横へずらし、教師の後ろにいる習一を発見した。彼の目尻は吊り上がっている。射るような視線を習一は感じた。ただし敵意は含まれていない。
「ん? 見たことない子だな。才穎高校の子か?」
「いえ、別の学校の生徒です。しばらく勉強のお手伝いを──」
「あ〜、そういや娘が言ってたな。先生が他校の男子の世話するからその子のメシをつくるって」
昨日のサンドイッチはこの店員の娘の手によるもの。そうと知った習一はむずがゆい思いをした。なんとなく自身の母親に近い、年長の人物が作った食事だと想定していた。
(同い年くらいのやつが、か……)
なんの見返りもない善意を振りまく同輩がいる。習一は空手部の同級生の名を髣髴し、次いでその曇りのない眼を思い出した。
教師とは仲の良さそうな店員が席を案内する。そこは一面に鉄板を乗せた四人掛けのテーブルだった。油と小麦粉が焼ける匂いが充満する店はお好み焼屋であり、酒を片手に粉物をほおばる客もいた。店員は注文が決まったら呼んでほしいと言い、厨房へ去る。教師がテーブルのメニュー立てにある冊子を取り、習一に手渡した。
「食べられるだけ頼んでください。代金は私が支払います」
「あんたはまた食わないのか?」
「はい。腹は減っていません」
「朝のパンだけじゃ足りないだろ。オレの飯代を肩代わりするために無理してるのか?」
「金銭には困っていません。ただの体質です」
メニューを見ようとしない習一に代わって、教師がもう一つのメニュー表を開く。
「具の好物が特にないようでしたら、ミックス玉がよさそうですね。いろんな具が少量ずつ入っているそうです。たくさんの味を楽しめますよ」
習一がメニューを見るとミックス玉とは同種の中で最も価格が高く、量は二人前だ。
「これ、二人分だって書いてあるぞ」
「昼を食べていませんから大丈夫でしょう。それとも、お好み焼きは苦手ですか」
「べつに嫌いじゃないが……量による」
「残してもかまいません。私が処理します」
「わかった。じゃあそれ一つ、頼む」
教師は店員が他客への品運びを終えて厨房へ行くところを声掛けする。立ち止まった者はひょろ長い背格好の青年だった。年齢は二十代。彼も灰色の手ぬぐいを頭に巻き、黒いエプロンを掛けている。前掛けの下は若者らしい私服だ。頭巾と前掛けがこの店の制服のようだ。若い店員に教師が注文をつけ、店員は伝票を復唱したのちに厨房へ帰る。入れ替わりで中年の店員が現れた。習一たちに氷水を提供する。
「そいじゃ、鉄板を熱くするんで触らないようにしてくれよ」
店員は身を屈め、テーブル横のつまみをひねった。鉄板の加熱が始まる。店内の冷房を打ち消す熱気が徐々に生まれた。鉄板には幾重にもヘラが当たった薄い線が走る。年季の入った店なのだろう。習一は今までこの店を素通りするばかりで入店したことがなく、お好み焼き屋であることは知らずにいた。それは仲間内のグルメ評にはあがらなかったせいだ。うまいともまずいとも評価されない料理に多大な期待を寄せることはやめた。
ふたたび細長い体型の店員が現れる。彼は黒塗りの丼のような器と、ヘラを置いた二枚の取り皿を盆に乗せて運ぶ。習一たちに料理のもとを提供すると、すぐに他の客のもとへ馳せ参じた。
教師が調味料と一緒にならんでいた油を手にし、鉄板に垂らす。油をヘラで薄く一面に引いた。音と細かい気泡を立てて油が熱される。熱した油の上に丼に入った薄黄色の液状を敷いた。小麦粉を溶いた液体にはとうもろこしの粒や丸まった海老、白いイカなど色々な具材が混じっている。教師は丼に残った具をヘラで掻きだし、円形に広がった溶液に落とした。その手際を見るかぎり、料理下手には思えない。
「あんた、お好み焼きを作るのは得意なのか?」
「いえ、初めは何度も失敗しました。練習したおかげで人並みに焼けます」
「へー、それでお好み焼きを食ったことは?」
「……あまり、ありません」
「あんたは何なら食えるんだよ?」
「好き嫌いはありません。私の滋養になる食べ物の種類が極端に少ないのです」
「食べ物のアレルギーが多くて、食えるもんが少ないってことか?」
「アレルギー症状は出ません。本当に、栄養をとれる食べ物が限られるのです」
「? じゃあ胃が受け付けないのか?」
「どう言ってよいものやら……この説明も貴方の記憶がもどったあとにさせてください」
教師は習一の疑問を解消させない返答をしたまま、お好み焼きの制作に集中した。彼は正直に答えているようだが、習一の常識に当てはめた解釈では真相にたどりつけない。特定の食べ物のみを胃が吸収するのでも、アレルギーがあって飲食に制限がかかるわけでもない。それ以外に好悪の情なく偏食に走る理由は、習一には思いつけなかった。
教師は小麦粉が固まってきた円状の板を二つのヘラで持ち上げてひっくり返す。表に返った側には茶色の焦げ目が出来上がっている。
「今日はこの店を含めて三か所、訪れましたね。疲れましたか?」
「ああ……やっぱり暑い時に歩きまわると疲れる」
「わかりました。明日は一か所に留めましょう。喫茶店に長時間いてもかまいませんか」
「昨日、それをやった。なんとも思わねえよ」
「それは結構。明日は貴方が昨日過ごした喫茶店で課題をこなしましょうか」
「これだけ頑張ってやっても、オレ一人でちゃんとやるとは思えねえか」
「貴方を信じないのではありません。オダギリさんの身を案じているのです」
「オレのことが心配? なにを気にしてんだ」
「貴方の父親のことです」
習一は胸を衝かれた。習一が最も苦悩する物事を教師は臆することなく提示する。習一は教師をにらんだ。黄色のサングラスの向こうにある目は一途に料理を見つめていた。
2
「貴方は以前、町中を放浪する不良少年だった、という認識で合っていますか?」
「ああ、そうだ。この辺に住んでる連中にけむたがられる、人間のできそこないだよ」
「そのように己を卑下してはいけません」
凛とした叱責だった。習一は口をつぐむ。
「貴方はきちんとした人間です。その証拠に昨日も今日も、長い時間を課題に向き合ってこれたでしょう。胸を張ってください。自分は頑張れた、と」
「気休めはいい。それで、父親についてどこまで知ってるんだ」
教師は平たい小麦粉の塊をもう一度ひっくり返す。両面に茶色の焦げ目がついた塊をヘラで半分に割き、火の通り具合を見る。
「そろそろ焼けますね」
「父親の話をしながら夕飯か。あんまり食えたもんじゃないな」
「では別に話題にしましょう」
「いや、とっとと教えてくれ。それを聞いたら食う」
教師は上半身を横へ倒し、鉄板の熱を弱めた。夕飯が焦げないための配慮だ。
「厳格な裁判官だそうで、情状酌量はあまりお好きでないとか。罪は罪としていかなる事情があれど罰するべきだというお考えの方だとお聞きしました」
「よく、知ってるな……」
「情報通な知人がいるので調べてもらいました。わかったのは表面的な情報だけですがね。長男である貴方とは不仲続きだと知れましたが、原因はわかりませんでした。あとは雒英高校の掛尾先生に教えてもらった話ですと、前年度を境に貴方の素行が荒れ始めた、と。その時に父親と激しい衝突があったのではありませんか」
「そうだよ、だからどうした? もめる原因がわかれば仲直りできると思ってんのか」
習一は底意地悪く聞いた。教師は軽く頭を横にふる。
「いいえ、私が知りたいのは貴方の父親が貴方を嫌うという事実です。貴方が家にいたがらないのは父親のせいでしょう。父親がいなければ貴方は日が落ちる前に、安心して家に帰ることができる。登校時刻に家族に顔をあわせて学校へ行ける。違いますか?」
教師の指摘は合っている。習一は父が眠るか仕事でいない時に家に帰り、父が出勤した後で出かける用意をする。常に父親と家の中で遭遇しないことに注意を払って過ごしてきた。父さえいないのなら母も妹も習一には無害な存在だ。
「父親がわが子を目の仇にする事情は察しかねます。ですが貴方を非行に走らせた元凶である以上、その存在を除かなければ貴方に真っ当な高校生活は送れません」
「あんたはオレじゃなくてオレの父親がダメ人間だって言うのか?」
「極論でいえばその通りです。貴方は元来、まじめな性格なのだと思います。そうでない人はプリントの山を解き続ける苦行に耐えられません。きっと弱音を吐いて逃げ出そうとします。ですが、貴方はエリーにも不満をもらしませんでしたね」
「……逃げたって他にやることがないからな。どうせ暇ならつまんねえ勉強でもやるさ」
「暇があれば勉強に励む、とは優等生らしい発想ですね」
「こんな落第生にゃ似合わねえ言葉だ、ってえ皮肉か?」
「いえ、貴方は周囲の人間に恵まれれば現在も優等生でいたはずです。その気性をねじ曲げた原因が父親なのですから、父親に親としての問題点があります。貴方を普通の生徒へ教化するにはまず、父親をどうにかしなくてはなりません」
教師は火を通したお好み焼きを食べやすいサイズに分けつつ、感慨深い言葉を連ねる。習一が心のどこかで誰かに言ってほしかった述懐だ。しかし根本的な解決法は見出せない。
「父親をどうにかする、ったって、あの頑固オヤジは死ぬまであのままだろうよ」
「はい。貴方が父親と一緒にいても互いに傷つくばかり。どちらかが離れるべきでしょう」
「家を出るならオレのほうだ。でも一人で生活できるか? 中卒じゃどこも雇わないぞ」
「厳しいでしょうね。ですので……私が貴方の一人暮らしを支援しようと考えています」
「あんたが? オレが、一学期の試験に合格できたあとも?」
「はい、周りの協力と貴方の気持ちがそろえば可能だと思います」
習一はしげしげとヘラを握る男を見た。彼が場当たり的な綺麗ごとを述べたようには見えない。ごく自然に、真摯な態度を保持している。
「今すぐに、とはいきませんが……この夏休みの期間中になんらかの落としどころをつけたいと思っています。オダギリさんの家庭環境は不健全です。補習を受け終えてからでかまいません。今後の身の置き方を考えてみてください」
教師は毛先の短い筆が入った調味料の蓋を外し、ソースをお好み焼きに塗りつける。焦げ茶色に染まった生地に習一はマヨネーズとかつおぶしをかけて食べ始めた。
3
習一は平凡な喫茶店での朝食をすっきりたいらげた。食事中、教師に聞きそびれていたことが何度も頭によぎる。この店が先日、田淵と会った店だったせいだ。給仕が空の皿を下げたあとで銀髪の教師に尋ねる。
「なぁあんた、背がデカくて銀髪で色黒な男を知ってるか?」
教師はブックカバーをかけた本を閉じる。彼はやはり飲食をとる気配がなかった。
「その男とは私以外の人物ですね?」
「そうだ。オレの仲間は銀髪とは言ってなくて、帽子を被ったオバケ男だと言ってたが」
「オバケですか。ユニークな表現をするお友達ですね」
教師は微笑んだ。幽霊じみた存在を疑う様子はない。
「その男、あんたの仲間か?」
「ええ、そうです。私と同じ志を持つ同胞ですよ。帽子を被るオバケが銀髪だという情報は誰が提供したのですか?」
「誰も言っちゃいない。光葉というヤクザっぽい男が捜してたヤツかと思ったんだ。あんたの仲間、ヤクザ連中には有名なのか?」
「名が知れているかどうかわかりません。ただ、接触はありました。私ともども恩ある方がおりまして、その方を護衛した時に」
「それが無敗のバケモノ、と言われる由来か」
「そんな呼び名が付いていましたか。初めて耳にしました」
全くの他人事のように教師が淡く驚いた。習一は質問を続ける。
「光葉は男みたいに背が高い銀髪の女のことも聞いてきた。それもあんたの仲間か?」
教師は目を丸くした。銀髪の女の存在が知れ渡る状況は想定外だったらしい。
「そう、ですか。見ている人はいるものですね」
「知ってるんだな?」
「はい。その女も……私の仲間です」
「けっこう大所帯なんだな。そんなに銀髪な連中がいたら目立つと思うんだが」
「だから帽子を被るのですよ。私は仕事上、帽子を着用できないので諦めています」
「エリーはなにも被ってなかったが、あいつはいいのか?」
「今はいいのです。なるべく人目に付かないようにしていますから」
「オレと半日一緒にいたことがあっても、か?」
「はい。目立っていなかったでしょう?」
習一はわだかまりが解けない事実だ。この喫茶店で出会った田淵は、少女が同席しないも同然の態度を通した。この現象を不審に思った習一の質問には「気配を消してるから」と少女は簡単に答えた。習一以外の人間が見ても気付かぬ特殊能力でもあるというのか。
「納得がいかないようですね。いずれわかります」
「いずれ、か。まあどうでもいい。ヤクザもどきな男には会ってないか?」
「どんな人物か、特徴を教えてもらえますか」
「背はあんたより高くてゴツい感じで、日焼けした金髪野郎だ。白スーツを着てたな」
「会っていませんね。真夏に人捜しは重労働でしょうし、諦めてくれればよいのですが」
「それもそうだな。カンカン照りの時に外を歩きたくねえ」
光葉は人捜しに飽いて己がネグラへ戻ったのだろう。そう見做して習一は今日の課題をテーブルに並べた。残り少ないので参考とする教科書の数も少ない。昨日は教科書なしだったために解かなかった問題も、今日は参考資料が手元にある。早速取りかかった。
教師は習一が目的を果たす作業に入ったのを確認し、彼もノートと筆記具を机に置いた。何を書き留めるのかと習一は興味がわき、じっとノートを見た。教師が視線に気付く。
「これは私の日記です。近頃は立てこんでいたので手つかずでした」
「人前で日記書くのは恥ずかしくないか?」
「その日の出来事と自分の考えを記すだけです。他人に見られて恥だとは思いません」
「ふーん。じゃあオレが見ても怒らないんだな?」
「ええ、読みたければどうぞ。見ますか?」
「やめとく。あんたのことはどーでもいいからな」
「そうですね。貴方が必要とする情報は少ないでしょうし、それが賢明です」
習一は引き続きプリントの設問を解く。教師はまだ手を動かさないでいる。
「そのままの状態で聞いてください。今後の予定を伝えておきます。今日の昼前に、貴方が目覚めた時に会った警官がここへ来ます。目的は簡単な状況確認です」
本日、警官が来訪する。彼と習一が会ってから今日で一週間が過ぎた。様子観察をするには遅くも早くもない頃合いだ。
「同時に彼の交通手段をお借りして、明日は遠出しようと思っています」
「どこに行く気なんだ?」
習一は顔をうつむいたまま問う。教師の指示通り、課題の片手間の会話姿勢を保った。
「動物園です。明日の天気は曇り、気温が低めらしいので、万全の体調でない貴方でも園内を見学できると思います」
習一は動物園にはあまり縁がない。幼稚園や小学校に通った時に遠足で訪れたきり、私的に見物したことはなかった。遊びには飽きた習一でも真新しい発見と体験ができそうな場所だ。
「朝食と昼食は知り合いにつくってもらいます。食事の心配はいりません」
「そんなところに行く理由はなんだ? 補習には全然関係ないだろ」
「気晴らしです。ずっと机に向かい続けていては心身ともに良くありません。あとに三日間の補習が控えていますから、今のうちに休んでおくと良いかと」
「休むのに動物園? どういう理屈だ」
「動物を見ていると和みませんか?」
変なことを言い出すやつだ、と思って習一は顔を上げた。しかし教師は真顔でいる。本気でそう思っているらしい。
「さあ……あんまり意識して見たことがなくて、わからない」
「動物が嫌いでないのならよろしいです。夕方は大衆浴場で休もうと考えています。着替えは一式購入しましょう。これが明日の計画です。貴方の希望があれば変更しますが」
「いや……やりたいことはない」
「では明日は動物園ですね。どんな子がいるのか楽しみです」
落ち着いた大人には似合わぬ無邪気な感想だ。教師は喜色に満ちている。
「もしかして、動物好きか?」
「そうです。もっぱら犬猫のような毛むくじゃらな動物が愛らしいと感じますけど、そうではない象などの動物も興味深いと思います」
「へー、意外だな。趣味のない仕事人間かと思ってたぜ」
「動物への関心は……個人的な感情ですね。それは趣味だと言えるのかもしれません」
教師は開いたノートに何かを書いた。習一との会話の中で記録したい事柄が出たようだ。習一も顔を伏せて解答を続けた。
4
喫茶店の客足が増え、昼飯時が迫る。教師の話では昼食の前に警官が来るが、と思った習一は外の様子を見た。窓際の席ゆえに人と車の往来がよく見える。警官は車かバイクに乗ることは教師の話から予測できた。安くはない乗り物を貸せるとなると、教師と警官は親しい間柄のようだ。おまけにこの炎天下の中、徒歩を強いられても厭わぬ相手だ。あの警官もまた、教師の仲間と言える存在なのだ。
道路上を走る白い影があった。滑空する白い鳥だ。その形状は習一の記憶に新しい。
「え……白いカラス?」
入院中に遭遇した白い羽毛の烏だ。全身真っ白な烏は希少生物であり、そうそう頻繁に出会えるものではない。なのに、白の烏は道路上を滑空する。その後ろに続くのが一台のバイクだった。乗り手は顔半分を防護レンズで覆うヘルメットを被る。人相はよくわからないが、学生の夏服のようなシャツとスラックスを履いた様子から男性だとわかった。
白の烏は習一の視界から飛び去る。習一は呆然とし、なんの変哲もない往来を見続けた。
「白いカラスが見えましたか」
低く安心感のある声によって習一は我に返る。その声には奇妙な言動への不信感がない。
「ああ、見えた。病院にいる時にも一回見たんだ。最近、このあたりに引越してきたのかな」
「いえ、あのカラスは警官の所有物です」
「警官のペットぉ? ずいぶんとレアな生き物を飼ってるんだな」
「他にも変わった動物をお持ちの方です。お願いすればいろいろ見せてくれますよ」
「ふーん。それはどうでもいい。あの警官がお出ましになったってことなのか?」
「はい、出迎えにいきます。しばらく待っていてください」
教師は日記帳を閉じ、店を出た。無防備な日記が習一の眼下にある。盗み見るに値しないと思い、手をださずにおいた。三分ほど経過すると教師が一人の男性を伴ってきた。その男性は習一が入院中、初めて目にした人物。名字を露木と名乗った警官だ。彼はヘルメットを小脇に抱え、反対の手には物が入った白いビニール袋を提げている。
「やぁお待たせ。習一くん、元気そうにしていて良かったよ」
露木は教師が座るソファの隣に腰を下ろした。ヘルメットは座席の空いたスペースに置き、持っていた袋は教師へ手渡す。
「せっかくだから薬、受け取ってよ。在庫全部っつってもまた作れるんだから」
「本当にいいのですか? シズカさんの分がなくては……」
「もうちょっと飲みやすく改良するんだ。クラさんと一緒に研究してみるつもり」
教師は露木に軽く頭を下げて「ありがたく頂戴します」と律儀に礼をのべ、自身の鞄へ袋を納めた。その薬とは二人とも使用の機会のあるものらしい。露木が習一に顔を向ける。
「課題のほうはどうだい、うまく合格できそうかな?」
「もうすぐ終わる。あとは補習に出席するだけ」
「うん、そうか。提出期限が来週末の宿題をもう済ませちゃうんだから、エライねえ」
「べつに偉くない。この先生が見張りをよこしてまでオレに強制したせいだ」
「シドさん側の見張りはあるだろうけど、きみは文句言わずにやってるんだろ? そこがエライんだよ。おれなら『もうむり』とか『明日にしよう』とか言っちゃいそうでね」
露木はさっぱりした笑顔を見せる。銀髪の教師よりはとっつきやすい大人だと習一は肌で感じた。年のころは二十代半ばだが、精神的には習一との隔たりがない。露木が特別幼いのではない。習一が変に世間擦れして少年らしさを失っただけだ。加えて教師が三十歳足らずのくせに老成している。そのせいで年齢的に近い大人二人が同世代に見えなかった。
「明日はシドさんの運転で動物園に行くんだってね。熱中症にならないように、飲み物をシドさんにねだるんだよ。彼は独身貴族で、お金に余裕があるからね」
露木は冗談半分な助言をする。
「こんな時、おこづかい制のお父さんは財布の中身がさびしくても子どもにジュースを買ってあげなきゃいけないんだから、大変だ。おれの兄貴もそのうちそうなるかな」
露木は温和な笑顔を浮かべつつ、テーブルの端に立てかけたメニューを取る。
「おれはここでご飯を食べる気なんだけど、お邪魔してても大丈夫かな」
「好きにしてくれ」
「ありがとう。どれにしようか……うちのご飯は野菜が多くってねー」
職業が警官だとは信じがたい呑気さで露木はメニューをめくり、雑談をし続けた。自分が住む家は寺であること、元々両親は住職ではなかったが不慮の災害で家を失くし、親戚の寺に住まわせてもらっていること、その親戚の娘と自分の兄が子どもの頃からの許嫁同士であり現在は結婚していること、といった身の上話を習一は聞かされた。
露木が昼食を注文するついでに習一も食事することにし、食べる間も彼は話を弾ませた。昼食中の露木は教師について熱心に話す。教師は今年の四月に初めて教師になった新人であること、シドの名前は教え子がつけたあだ名であり本名の頭文字を取ったということ、その教え子は樺島というアイドルとそっくりな顔をしていること、教え子と教師は親密な仲であること、校長が二人の仲を後押しすることなどを教師自らの弁解も交えて語った。
5
露木に再会した翌朝、習一は自室で休んでいた。教師が朝食を届けると言って自室での待機を指示したのだ。目が覚めて寝台の上をごろつき、窓の外のくもり空を眺め、次に昨日解きおえたプリントを見た。露木が長話を済ませて帰ったあとに教師に丸点けをしてもらったものだ。誤答を修正すべき箇所もすべて確認が終わっている。あとは補習を受けに登校したおりに教師へ提出して課題完了となる。鞄の中身を整理し、登校の準備を万全にしておいた。着ていく制服も昨日の夜のうちに回収した。今日にでも学校へ行けるほどに支度は整っている。明日の用意を点検したのち、今日の外出のために衣服を着替えた。
開いた窓から人があらわれ、軽々と桟を乗り越えて入室する。いつもの銀髪の少女だ。
「シューイチ、ごはんもってきた」
少女は背負ったリュックサックを机の上に乗せる。荷物から取り出したものはまたも水色の布。布地の下には握り拳大のなにかがシルエットとして存在する。
「おにぎりをつくってもらった。あと、飲みものはこれ」
少女はおにぎりの包みを机に置き、新たに紙パックを見せる。市販の野菜ジュースだ。
「食べおわるまでまってる」
少女がその場に座りこんだ。習一は勉強机の椅子に座り、彼女が届けた朝食を口にする。布にくるまれたおにぎりは二つあり、透明なラップで包装してあった。海苔を巻いたおにぎりには点々とふりかけが混ざっていて、中央部にはかつおぶしを醤油にひたしたおかかがある。もう一つは種のない梅干しが具のおにぎりだった。二つの握り飯を完食し、ジュースを飲んで潰すと少女が立ちあがった。習一は彼女に声をかける。
「お前はエリーって言うんだろ。お前も動物園に行くのか?」
「いかない。お昼ごはんができたら、あとでとどけにいく」
習一たちが遊覧に行く間も少女は無償の奉仕活動を続けるようだ。その従順さを健気だと習一は思った。だが遊びたい盛りの子どもには不満が噴出しそうな雑事だ。
「すっと使いぱしりにされてて、つまんなくないか?」
「ぜんぜん。動物は今日じゃなくても見れるもん」
エリーは習一の質問をこともなげに流す。強がりのようには見えなかった。
少女はおにぎりを保護したラップを広げ、その上で空の紙パックを小さく畳む。二枚の使用済みラップで紙パックを包み、布と一緒にリュックサックへ入れた。
「でかけよ。シドがまってる」
「父親が起きてると思う。見つかったらすぐに出れねえぞ」
「わたしがちょっとのあいだ、うごけなくしてくる」
エリーが窓から飛び降りた。なにをする気だ、と習一は不審がりながら窓を閉める。一応の所持金をズボンのポケットに入れて部屋を出た。一階の居間には椅子に腰かける父の姿がある。目は閉じており、二度寝をしているらしい。エリーが手をくだすまでもなく鬼の目を盗むことができた。習一は堂々と靴を履き、玄関を出た。
昨日と同じく銀髪の教師が道路上で待っていた。彼は習一の姿を見るとエンジン音を鳴らす。露木に借りたバイクを稼働したのだ。そうして彼は露木のヘルメットを被った。習一が鉄格子をのけると彼はもう一つのヘルメットを手にする。
「これを被ってください」
予備のヘルメットに風よけのレンズはない。習一は黙ってそれを被り、もみあげから顎の下までを伝うベルトのクリップを留めた。教師は普通自動二輪の機体へまたがる。その後方には人一人が座れる幅があり、空席の後ろには低い背もたれのような箱が設置してあった。箱はリアボックスと呼ぶらしい。箱の中に荷物を入れることができ、一度使い出したら外せないと露木は利便性を説いていた。外観は不恰好になってしまうが、習一も教師も見てくれを気にしないので外されないままだ。習一は教師と箱の間に自身の体をおさめた。
「私の体に捕まっていてください。安全運転を心掛けますが、何が起きるかわかりません。手を離さないようにお願いします」
慎重な勧告にしたがい、習一は成人男性の腹部に両腕を巻いた。喧嘩以外に他人に触れることは滅多になく、いいようのない心持ちが生じる。敵意ではなく、好意でもない気持ちで他者にくっつく。今の自分の心境が良いものか悪いものかさえ、わからなくなった。
習一の動揺を置き去りにしてバイクは発進する。習一は流れゆく実家を見つめ、その家屋が視界になくなっても視線を変えなかった。
6
「ひざに乗せます。じっとしていてください」
茶や白などの毛玉が放たれた区画があり、その場を取りかこむベンチに習一が座っていた。習一の太ももへ、教師が捕まえた獣が乗る。動物に慣れていない習一はおっかなびっくりで、自身の体へ着陸する獣を見つめた。短い四肢を人の足に乗せた獣は三毛猫と似た毛皮を持つ。白と茶と黒で彩られた獣の顔は間が抜けていた。その平和ボケした面構えにたがわぬ大人しさで、太ももの上にじっと居座る。この獣の種類はモルモットという。
「なでてみてください。このように」
教師の色黒な手が毛皮に触れる。後頭部から背中まで、数回に渡って一方通行を繰り返した。何百何千という来園客をもてなしたであろう獣は泰然自若の面持ちでいる。
(このデブネズミの方が度胸があるってのか?)
習一は小動物に臆する自分を腹立たしく思い、獣の丸い背をわしわしと手のひらでこすった。荒いなで方をされても獣は離れない。この程度の摩擦は経験済みらしい。
「大人しい子ですね。では、私も一匹預かってきます」
教師は再び、小さな獣たちが待機する囲いの中へ両手を入れた。次に捕まえた獣の毛はクリーム色だ。胴体を褐色の手に抱かれた毛玉は鼻をひくつかせ、習一の目の前へやってくる。教師は習一の隣に座り、その膝に単色の獣を置いた。片手で獣の尻をそっとおさえつつ、まんべんなく毛皮を触る。そうするうちにクリームの獣は前足を捕獲者の腹へ押しつけて立った。教師は両手で獣の脇を持つ。獣の尻を片腕の肘の内側に乗せ、胸の前に抱いた。空いた片方の手でその頭をなでる。獣を愛でる教師の表情はほころび、慈愛に満ちていた。習一相手には見せなかった顔だ。よほどの動物好きなのだろう。
「動物をさわってて、楽しいか?」
習一は適当に三毛のモルモットの毛皮をいじりながら質問する。教師が「はい」と視線を獣に注いだまま答えた。習一はふん、と鼻をならす。
「こんなすっとぼけた顔した連中の、なにがいいんだ?」
「顔はどんなのでもかまいません。柔らかい毛と体、愛らしい仕草にまっすぐな心根を持った子はみな、かわいいものです」
「ふーん、じゃ、オレみてえなヒネクレ者は嫌いなわけだ」
「人と動物は違いますよ」
教師が真剣な表情で言った。彼は獣を自身の太ももに下ろし、習一を見る。
「愛玩動物は愛らしさ一つで一生をまっとうできる者が数多くいます。それが彼らの役目です。人はそういきません。生きる術と知恵を身に着ける必要がありますし、その手伝いをするのが私の役目です。生徒を選り好みして指導にあたることはできません」
謹厳な回答だ。習一は獣の柔軟な肢体を指圧のごとく押しつつ、口をゆがめる。
「聞こえのいいこと言ったって、やっぱり素直なやつは扱いやすいし聞き分けのないやつはメンドクセーだろ?」
「職務上の苦楽はあまり考えたことがありません」
「きれいごとはいらない。聖人面してても嫌いなやつはいるだろ、と言ってるんだ」
「いることはいますが、オダギリさんはその範疇にありませんよ」
難敵の認識がないことに習一は期待外れのような、胸がすいたような気持ちになった。
「貴方は自分を性根の曲がった問題児だと思っているようですね」
「思うもなにも、周りはみんなそう扱ってるだろ」
「私も『みんな』のうちに含まれていますか?」
習一は黙った。この男の胸中は知れないが習一を疎んじる素振りは一度もなかった。家族や学校の連中とは違うのだ。習一は一言「わかんねえ」とつぶやく。教師が微笑する。
「それは、貴方が私を敵だと思っていない、ということでしょうか?」
「……いまのとこ、な。それで、いつまでこいつを触っていればいいんだ?」
習一は三毛の毛並みをわざと逆立ててなでた。小動物を嫌う理由はないものの、モルモット目当てに集まる人だかりができつつある現状に不快を覚えていた。子ども連れの親がこぞって囲いに群がり、獣の捕獲に熱中する。他人の捕獲風景を見るに、逃走を図る獣に難儀する人がいる。人々が獣に夢中になるのはまだいい。狙い通りに獣を得た者が習一たちと同じベンチに座り、その関心が次第に隣席の習一と連れの教師に向かうことが嫌だった。親子や兄弟には決して見えぬ二人を、どう勘ぐられるものかと習一は気が気でなかった。
「わかりました。次はまだ見ていない動物を見に行きましょう」
教師は習一が気分を悪くしていることを察知したようで、クリーム色の獣を胸に抱いて席を立つ。その背中には斜めにかけるショルダーバッグがある。バイクの走行中は後部座席にいる習一の邪魔にならぬよう、バイクの荷物入れに収納していた。
獣の返却をする前に、教師はモルモットの居住区にへばりつく女性と小さい女の子に声をかける。逃げる獣を捕まえられずにいる親子に、手中にあるモルモットを渡そうというのだ。親子がベンチに座ると教師は娘の膝に獣を乗せる。習一にしたのと同じ行為だ。娘はよろこんで獣の背中をなで回し、母親は教師に謝辞を述べた。もどってきた教師は習一に手をさしのべて「その子を返してきましょうか」と聞く。
「それぐらい、自分でやる」
万事を他人任せにするのは鈍くさいやつのすることだ、と習一は考え、獣のもちもちした胴を両手で抱えた。三毛を囲いの中へ放つ。拘束が解かれた獣は藁のじゅうたんに頭を突っこみ、ひとときの自由を満喫する。習一は教師が水場に行くのを追いかけた。
動物に触れる前と後はかならず手を洗うように、との注意書きにそって、二人は液体せっけんを泡立てる。手がまんべんなく白い泡にまみれたあと、水で泡と汚れを流した。習一はぬれた手を適当に服でぬぐうが、教師は持参のハンカチで拭く。彼は水気をふき取った指に白い宝石のついた指輪をはめた。それは平素より彼が身に着ける装飾品であり、一度めの手洗いの際に外していた。触れた動物にケガをさせてはいけないから、という気遣いゆえにポケットに隠したものだ。
(動物にもバカ丁寧なんだな)
男らしくない細かい配慮だと思う反面、そんな男に養われる家族やペットは幸福な生き方ができるのだろうとひそかに感じた。
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