2018年12月13日
習一篇草稿−5章
1
夕飯後は小山田手製のクッキーを食べ、習一は満腹になった。この菓子は教師も「おいしいです」と言ってよく手をつけた。彼の夕飯の握り飯と糠漬けは二つとも小山田の手作りであり、そのことを習一が指摘すると小山田が笑う。
「先生はね、わたしの手で作ったものがおいしいんだって。味付けが失敗してても『おいしい』って言うんだから、味オンチなのかな」
聞きようによるとのろけ話だ。習一は教師に疑いの眼差しをそそぐ。教師は苦笑いした。
「オヤマダさんの手料理は私の舌に合っています。他意はありませんよ」
「べっつに、教師と教え子が好き合ったってオレはなんとも思わねえよ」
「そうでは、ありません」
教師は否定する。それきり二人の関係への言及はなくなった。
夜九時まで長居をし、習一と教師は小山田家を離れた。別れ際、小山田が余ったクッキーを小袋につめて手土産にした。明日は三時のおやつ用に焼いて用意しておく、と彼女は告げる。そのころは補習中だと教えると「焼き上げの時間を調整するよ」と了解した。
習一が帰路につく間も教師はついてくる。晩餐に加わった家庭について、当人を目前にしての質問がはばかられた疑問を習一はぶつけてみた。
「あそこの婆さん、あんたの名前を間違えてたな。なんで間違いを受け入れたんだ?」
「カエデさんは固有名詞が覚えづらいのだそうです。ですが、ちゃんと人の区別はついておいでです。私を『ノブさん』と呼ぶのは壮年以上の男性を指していました」
「オレのことを『マサ』と呼んだのは?」
「ハタチ前後の若い男性の呼び名、だと思います」
「めんどくさい呼び方だな……普通に『おっさん』や『兄ちゃん』じゃダメなのか」
「呼び名の元になる人物がいるのですよ」
「ノブってのは婆さんの息子なんだろう。マサは誰だ?」
「ノブさんが勤めるお店に、細身の男性店員がいたでしょう。あの方です」
習一の注文品を届けた店員だ。上背はあるが体格が良いとは言えない男だった。
「あのヒョロイ男か。そいつと小山田家はどういう関係なんだ?」
「ノブさんが店じまいをする時に……マサさんが残飯を探す現場を発見したそうです」
「へ? 残飯?」
習一が端的に想像したマサという男は元浮浪者だ。教師は説明を続ける。
「ノブさんはマサさんを保護しました。しばらくオヤマダさんの家に住み、お店で働いて、ある程度の貯金ができてからはアパート暮らしをしていると聞きました」
「その人、住む場所がなくて放浪してたのか?」
「はい、マサさんは帰る家がなかったそうです。原因は親との不仲です。子の意思を無視して自分勝手な人生設計を歩ませようとする父親に反抗し、勘当同然で家を離れたと」
習一は冷水を被ったかのように、はっとした。ひ弱そうな男性が果断な行動に出、自由を得た。その自由は周囲の助けによって得たものだ。一人ですべてやろうと考え、無理だと諦め続けた者とは違う。取るに足らなかった青年像が燦々たる輝きを持ち始めた。
「マサさんと今度、話してみますか?」
「藪から棒に、なにを言い出すんだ」
「興味をお持ちになったのでしょう。親の呪縛から逃れた人物の生き様を」
「アホ抜かせ。そんな行き当たりばったりな野郎の話が参考になるもんか。ノブと会わなかったらとっくに野垂れ死んでただろ」
習一は自分が思う率直な意見をぶつけた。この主張も本心の一つだ。
「オダギリさんの考えはもっともです。ですが貴方も、ノブさんと会っているのですよ」
つまり、ノブに助けを求めたなら習一も一人立ちができると暗示している。その言葉は習一に希望を掲げる反面、半身を失くすような虚無感も与えた。
「最初から赤の他人頼りで、うまくいくってのか? そんな甘い見通しで……」
この批判は自己の虚無を突くものではないと、習一は発したあとで自覚した。
「うまくいかないとも、今より良い未来を迎えるとも決まっていません。可能性は未知数です。オダギリさんが思い描く理想には、どういった行動を選ぶと近づくでしょうか?」
習一は答えない。答えの候補は自分の中にあるが、口に出そうとすると二の足を踏んだ。
2
二日めの補習は初っ端に教師が「急用が入りました」と途中退室する。だが三十分足らずでもどってきた。昼休憩には白壁が同席し、銀髪の教師と雑談を行なう。白壁は他校の教師に憧憬を抱くようで「おれも才穎高校に行けばよかったな」とこぼした。
補習が終わると二人はすぐに小山田家へ向かった。玄関先の花はお辞儀をするように茎が曲がり、数枚の花弁が辺りに落ちている。散る寸前の容態だ。
「オダギリさんと再会するまで、持ちこたえてくれたのですね」
「こんなに丁寧に扱わなくてよかったんだ。ヤクザもどきがくれた花なんだから」
「誰が持っていた物であっても、美しい花には変わりないでしょう?」
「しおれた花が『美しい』のかよ」
「美しさを知るために必要な姿です。『散るゆえによりて咲くころあれば珍しきなり』」
突然放たれる古典めいた文言に、習一は眉をひそめた。
「室町の能役者、世阿弥の言葉です。『風姿花伝』をご存知ありませんか?」
「名前ぐらいは知ってる。内容は知らねえ」
「この言葉は、花が散るからこそ咲く花の美しさを感じられる、といった意味です。花の命は短いので咲く間は人々がもてはやします。花見がそうですね、期間限定のイベントに人がこぞって集まります。これが一年中咲く植物でしたら、いつでも見れると思って珍重しなくなるでしょう。花が咲くことと散ることは一セットで、美しいのだと思います」
習一は説明を理解できたが、やはり素直な感心は示せずにひねくれた言葉が出る。
「服のセンスがわからないと言ってるやつが、美しいのどうのがわかるのか?」
「美醜の観念は私になくとも、生命の息吹や尊さを感じる感性はあります。いいものをお見せしましょう」
教師は小山田家の断りなく居間のふすまを開ける。和室のすみに昨日はなかったダンボールの箱があった。その箱は小刻みに動く。「なんだ、あれ」と習一はずかずか歩み寄り、箱を見下ろす。敷き詰めたタオルの上に獣が複数いた。体の大きな猫が一匹、手のひらサイズの猫が三匹。全員がそれぞれ違う模様の毛皮だ。大人の猫は頭から尻尾までの上半分が焦げ茶色の縞模様で、口元から足先までの下半分が白い。習一は大きい猫を指さす。
「……この家の猫か?」
「いいえ、野良猫です。鳴き声がしたので縁側の下を見ると、この親子がいたそうです。母親は胸に傷を負い、弱っていたので保護しました。キュートな猫たちですが、今日は可愛がらないでおきましょう。彼女らの負担になりますから」
母猫の白い胸元は黒ずみ、毛が固まっている。包帯や絆創膏などの治療の痕跡はない。
「傷口はもうふさがってたのか?」
「ええ、まあ……オヤマダさんたちが病院に診せに行ったはずですし、手当てが必要なかったのでしょう。ただ、体力の消耗が激しいようで動きまわれないそうです」
ダンボールが独りでに動く原因は子どもの猫にあった。子らは寝そべる母の周りでせわしなく動いている。三匹とも毛皮の種類は違うのに目の色は同じ青。灰色がかったような、あるいは紫色が少し混じったような不思議な青色だ。
「子猫の目、みんな青色なんだな」
「キトンブルーと言います。生後間もない子猫はみな、青い目なのだそうです」
宝石にありそうな深みのある青色だ。これが教師の言う美しさだろうか。
「……で、いいものってのは猫のことか?」
「はい」
「花の美しい云々の話と関係あるか?」
「ありますよ。この子猫たちが母猫を助けたのですから」
なんのことだ、と習一が不審がった時に小山田が入室する。彼女はクッキーを山盛りにした皿と冷茶の入ったコップをちゃぶ台に置いた。同時におしぼりを二つ並べる。
「おまたせー。食べる前に手を拭いてね」
習一は菓子よりも猫に興味があったため食卓にもどらなかった。小山田がにんまり笑う。
「シュウちゃんも動物好きなの?」
「なんだ、シュウちゃんって。お前は昨日、オレを『オダさん』と言ってなかったか」
「ばーちゃんが『シュウくん』と呼んだから、それにならってる。周りが名前を呼んでないと、ばーちゃんは覚えられないの」
習一がカエデという老婆に「マサさん」と呼ばれないようにする彼女なりの配慮らしい。習一は犬猫の愛称のような彼女の呼び方に引っ掛かりを感じつつ、抗議はやめた。
教師も焼き菓子は放置して猫たちを眺める。視線を感じた母猫は目を開けた。しかしすぐにまぶたを閉じ、浅眠の姿勢にもどる。小山田は「性格変わったのかな」と一人ごちた。
「たまーに外で見かけたときは警戒心が強かったんだけど、いまはのんびり屋だね」
猫らは外敵が不在かつ空調の効いた屋内に居を得ている。この家の者たちが敵でないとわかったなら、母猫の態度はいたく合理的だ。子猫が独り立ちできる月齢になるまではその愛嬌を武器にして、人間に養ってもらうのが賢いやり方だろう。
習一は母猫にいらぬ心労を与えないように、長方形の座卓の周りに座った。教師たちも同様に囲む。小山田が猫を主題にして話しはじめた。
「縁側の下に籠城するキジシロママ、わたしらには威嚇するのに先生には全然しなかったよね。なにが違うんだろ?」
「ん? この教師が猫どもを捕まえたのか?」
「そう。エリーから連絡してもらってシド先生を呼んだんだよ。補習中なのにごめんね」
「もともと、こいつは補習に出なくていいんだ。好きなだけ呼び出せ」
習一は補習授業中のことを思い返した。教師に連絡を受け取る素振りがあっただろうか。電話での会話はしておらず、連絡を通知する電子機器を操作した様子もなかったような気がした。なにより「急用ができた」と離席した教師は二十分から三十分の間で帰還した。雒英高校から小山田家までの往復だけで、それぐらいの時間は潰れるのではないか。人間を警戒する猫の捕獲時間はない。猫が威嚇する相手を選ぶこと以上に、教師には不可解な点が多い。習一はそれらの謎を解消したかったが、また返答を先延ばしにされそうだったのでやめた。
「そういや、子猫が母猫を救ったってのはどういう意味だ?」
クッキーが運ばれたことで中断した会話を習一は再開させた。これには小山田が答える。
「猫たちが家の下にいるってこと、教えてくれたのは子猫の鳴き声だった。母猫は鳴く元気がなかったみたい。威嚇も牙を見せるだけでね」
子猫が居所を知らせていなかったら、母猫は衰弱死していた可能性があった。教師はほほえんで猫のいるダンボールを見つめる。
「母猫は、命が尽きかけていたようです。それでも生きたいと願う一心で回復しました。幼い子を守りたかったのでしょうね」
教師の主張は、母猫が子のために気力をふり絞って生き永らえたことを意味するようだ。習一はいい話に流れを持っていく雰囲気に水を差した。
「本当にこの母猫の子なのか? 一匹は父方の遺伝だろうが、残り二匹は全然違うぞ」
子猫の柄は全身が薄いオレンジ色の縞模様と、黒色と茶色が混じるまだらと、全身が真っ黒の三匹。いずれも母猫の毛皮とは異なる。教師は「たしかに奇妙ですね」と同調する。
「猫の遺伝形態はよく知りませんが……ヘテロ同士の交配により、両親には発現しなかった遺伝が現れる劣性ホモが複数いるのでしょうか」
「先生が言ってることは、たとえば親が白猫同士なのに黒猫が生まれるって話?」
小山田は急な生物学講座をむりなく受け入れている。彼女も劣等生ではないようだ。
「人間だとA型とB型の親からO型の子が生まれるのも同じ理屈なんでしょう」
「そうです。ただし、生物の基礎知識では劣性ホモの発現の在り方は一種類しか学びません。これだけでは理解が追いつきませんね」
「あんまり難しく考えなくていいんだよ。メス猫は複数のオス猫の子を宿せるんだもの」
習一は胸をえぐられる。親に似ない者は外部の種によって生まれた者。全くその通りだ。
「キジシロママは美人だね。きっといっぱい男が言い寄ってきたんだよ」
のほほんと言い放つ仮説が習一に影を落とした。小山田は習一の顔をのぞきこみ、「クッキーが冷める前に食べよう」と勧める。三人はやっとおやつに手を付け始めた。
3
二日めの晩餐は野良猫を同室者にしたままとった。母猫は変わらずダンボールの中で休み、餌用に茹でた鶏肉やイモを少しずつかじっては眠る。猫が食べてよいものは教師が図書館におもむいて調べあげた。調査には一時間強かかっており、普通の所要時間だった。
今日の夕飯には家主のノブが同席する。彼は習一への歓迎の言葉をかけた際、猫のそばで大声をあげるなと娘に警告された。以降のノブはワントーン下がった声調で喋る。
「弱ってた野良猫、いっぺん家にあげちまったら飼わなきゃならんかな?」
彼はとなりの妻の顔色をうかがう。妻の表情はくもった。
「猫ちゃんは早く亡くなってしまうじゃない。その時、とってもつらい思いをするわ」
わたしはイヤよ、と柔和な女性が拒絶する。習一はその態度が腑に落ちなかった。この場にいる誰よりも動物を憐れみ、かわいがる姿が似合うというのに。
ノブは妻に「そうか」と一言答えた。小山田はしょげた顔をする。カエデはゆっくり箸を運び、話を聞いているのかさえわからない。家族間の話し合いに教師が介入する。
「炎天下の中、母猫が幼子を外で育てることは大変でしょう。この子たちが一人立ちできるお手伝いを、一緒にやりませんか?」
「この家で飼うってこと?」
「引き取る方を探すのもいいですね。この子たちをこのまま放り出すのはしのびない」
「……そうね、子猫が蒸し焼けになったらかわいそうだわ」
同じく子を持つ母の同情を買い、猫一家は小山田家に一時在籍することに決まった。教師は猫にあげてよい食べもの以外の知識も吸収してきたらしく、母猫の体力が回復したら体を洗うこと、動物病院で詳しい検査をしてもらうことなど提案する。それらにかかる経費はすべて教師が負担すると言い、ノブは断る。
「うちの敷地内に入ってきた猫のことなんだ。先生ばかりに押し付けられんよ」
「猫たちの保護は私が無理強いさせてしまったのでは……」
「んなことぁない。この家の下から引っ張りだそうとした時にはもう、おれらが責任持たなきゃいけねえと思ったからな」
「……お優しいのですね」
ノブが照れくさそうに頭をかく。
「庭に死骸が転がってちゃ、寝覚めわるいだろ? おれが気分よーく過ごしたいからするんだ。優しいのとはちがう」
教師はノブの主張を受け入れ、野良猫の処遇の話題がおさまった。習一は好奇の念がおさえられず、ノブに問う。
「マサって人の時も、そうだったのか?」
ノブは吊り目を丸くした。習一は質問内容の補足をする。
「浮浪者が食うもんと住むところに困ってたのをあんたが助けたと聞いた。それも猫と同じで、放っておいたら罪悪感が湧くから?」
「……ま、そうだな。だけど、そんなことを考えるのはいつも行動したあとだ。その場に立った時は全然考えちゃいねえ」
「じゃあ、どうして?」
「『助けてくれ』ってツラをしてたから、かな」
ノブは神妙な面持ちの上にむりやり笑顔をかぶせた。
「猫たちは表情が読めねえけど、鳴き声がな、痛々しかった。『だれかお母さんを助けて』と必死に喋ってたんだろうな。茶トラのやつなんか、母猫の傷口をなめて治そうとしてたんだ。あんなにチビなのによ」
幼くても獣であっても家族の身を案じる感情がある。その思いに応えた母の気丈さ。相互関係にある思いやりの心を、教師は美しいと評価したのだと習一は納得した。
「生きようとするやつらを応援したい。それはおれの道楽だ。やりたいからやるだけ! こんなオッサンが『他人の役に立ちたい』とかいう大義名分を持っちゃいないんだよ」
「……オレは、どんなふうに見える?」
我ながらくだらないことを尋ねた、と習一は自己嫌悪に陥る。だが、どうしても聞きたかった。藁にもすがる溺死しかかった弱者に映るかどうか。
「さぁ……やんちゃ盛りの男の子ってとこだな。もっと飯食って肉を付けるといいぞ」
一介の少年との評を下された。習一は内心、普通の男子が無関係な人間の家に来るものか、と指摘する。ノブはふざけて「この肉を分けてやりたいくらいだ」と腹の肉をつかむ。娘が「オヤジの夕飯を抜きにして、その分をあげたらいい」手厳しい助言をした。親子のたわいない言い合いを傍観すればよいものを、習一は我慢ならずに再度問う。
「本当に、それだけか?」
習一は真剣な顔をしたつもりだが、ノブは破顔する。
「ああ、そうだとも。おれが特別なにかしなくたって、やっていけるさ」
「そんなやつが赤の他人に食事を用意してもらうと思うか?」
「だってなぁ、習一くんにはもうシド先生がついてるもんな」
習一は腹の奥が温かくなるのを感じた。すきっ腹に熱い汁物を入れた時の感触に似ているが、夕食の汁物はとうに飲み干していた。
ノブの笑みが教師に向いた。教師は昨日と同じく小山田の握り飯と糠漬けを食す。
「先生が料理のできる人だったら、うちに頼らなかっただろ?」
「いえ……オダギリさんは腹を満たす以外に、大事なものを受け取っていると思います」
「ふーん? まあなんでもいいさ。飯食いたい時でもゲームやりたい時でも、遊びにきたらいい。おれは賑やかなほうが好きだからな!」
ノブの大声のせいで母猫が鳴き声をあげる。ノブは本日二度目の娘の叱りを受けた。
4
補習の最終日は赤点保有者の男女が昼休憩の時に去った。それまでに片方が不在の時間もあった。補習最後は習一一人が必要とする科目が集まるよう調整してあるらしい。
休憩時にまたも白壁は来た。彼は今日が教師に会える最後の日だと言って名残惜しがる。
「シド先生にお会いして早三日。武芸の指導を受けずに別れてしまうのが残念です」
「こちらの空手部は強豪なのでしょう。私の教えは必要ありません」
「いいえ! おれは去年の試合で、才穎の生徒に負けました。今年はあいつが出場しなかったけれど、いまのおれがあいつに勝てる自信はないんです。確信を持てるまで、先生のようなツワモノに鍛えてほしいと思ってます!」
「学ぶ意欲のある方への指導を惜しみたくないのですが、いかんせん、私が取り組むことが残っていますので……」
「補習は今日で終わると聞きました。……進級以外の問題も切りこんでいくんですか?」
白壁はおずおずと教師の顔色をうかがって尋ねた。教師は「そうです」と簡単に答える。
「オダギリさんの生活環境を整えないままでは、同じことが繰り返されると思います。もっとも、彼自身に改善の意思がなかった場合は私の空回りになりますが」
教師は弁当箱をつつく習一をちらりと見る。習一は鼻を鳴らし、二人の会話を静聴した。
「それはありがたい! なにせ、担任がことなかれ主義な人で……頼れないんです。親御さんからの電話を受け取った時も愚痴ってたらしいですよ」
「どんな内容の電話だったか、お聞きになりましたか?」
「『なぜ休日にも銀髪のスーツ姿の男が息子を外へ連れていくんだ』という質問だったと。掛尾先生が代わりに答えて、その場はしのげたそうです。その時に『なんで問題児ばっかり』ともらしてたとか」
「『ばっかり』? 他にどの生徒を指しているんでしょうか」
「同じ補習を受けてたカップルです。色恋にふけって勉強しなかったせいで、赤点とりまくったみたいで……」
「その二人は通う高校をまちがえましたね。才穎なら校長がとりなしてくれたでしょう」
教師は真面目な顔をして不可解な言葉を口走った。白壁はなぜか「やっぱり」と言う。
「話にはよく聞いていますけど、カップルには甘い学校なんですか?」
「恋人の疑いがかかっている人も対象です。かく言う私も、任された職務を放置したのを校長は咎めませんでした」
「先生が仕事をすっぽかすなんて、どんな大事があったんです?」
「野暮用です。私の知人の警官が学校に来ていたので……その方に用事がありました」
露木のことだ、と習一は思い立ち、会話に加わる。
「坊主の警官か? そいつがなにをしに才穎に来たんだ」
白壁が「ボウズ?」と坊主頭を想像したのを誰も触れず、教師は目を伏せて神妙にする。
「とても大切な用事でした。私がこうして過ごすのもあの方のおかげです。そうでなかったら、私はこの国を去っていました。その話はのちのちお教えします」
白壁は「七月末で退職の予定だったんですよね」と訳知り顔で言う。教師は間を置いて「そうです」と肯定した。だが退職理由などは述べなかった。
雑談のすえ、午後の補習が始まった。白壁は退室し、習一と銀髪の教師の二人が居残る。午後の補習担当者は習一の印象が薄い、どうでもよい女性教師だった。奇異な風体の習一たちに尻込みする気色があったものの、彼女は滞りなく職務を全うした。習一らが優等生と変わらぬ受講態度をつらぬいたおかげだ。
「プリントをすべて提出してしまいましょう」
教師は習一が職員室へ立ち寄るのを同行する。最後の最後で習一が責務を投げ出さぬよう見張るのだ。これまでの苦行をおじゃんにするバカは普通いないが、突発的な行動を起こす可能性は否定できない。習一自身、出会う人物によっては理にそぐわぬ決断をとるだろうと思っていた。案の定、職員室には提出物を受理する掛尾はおらず、担任が在席する。習一は後方の教師の顔色をうかがった。
「カケオ先生がいらっしゃいませんね。先生の机の上に置いておきますか?」
「なんか締まらねえな」
「では担任のほうに提出しましょう。最終的にはあの方が確認をとって成績を出します。カケオ先生は中継ぎ役ですから、カケオ先生にこだわらなくともよいのです」
「お互いに顔合わせるの、イヤなんだがな」
「わかりました。私が代わりに行きます」
「いいのか? こんな甘ったれたわがままを聞いて」
「なにかの拍子に取っ組みあいになってはいけませんので」
習一の性情をかえりみての代行だ。習一は教師のリアリストぶりに感心しつつ、プリントをおさめたクリアファイルを手放した。異邦人が「失礼します」の挨拶とともに職員室へ入る。習一は廊下で待った。すぐに終わるだろう、と予測したが思いのほか待たされた。
5
教師は五分以上の時間を職員室で過ごした。彼が廊下にあらわれた時、空になったクリアファイルを手にして「これで終わりましたよ」と習一に報告する。
「だいぶ時間を食ったな。なんか言われたのか?」
「貴方への非難は言われていませんので、安心してください」
「あんたは、どうなんだ?」
「中傷だと受け取るべき言葉はありませんでした」
教師はゆっくり歩きだす。彼なりに足音を立てないスリッパ歩行を編み出し、初日のパタパタという音は軽減している。習一は後を追い「世間話してたのか?」と食い下がった。
「質問されました。『受け持ちの生徒に関わらない教員をどう思っているか』と」
「なんだあいつ、自分がやってることに罪悪感でもあんのか」
「そうなのでしょうかね。私はいま一つ、あの人の感情が読み取れませんでした」
「なんて答えた? あんたと正反対なやつだろう。『理解できない』とでも言ったか」
「どのような人相手でも、その行動に至る理由を知ればそれなりに理解はできます。共感できるかどうか、は別ですがね」
「あんたはあいつをどう理解したと言うんだ?」
「あの人は家庭のある身です。日々の職務に追われていては、オダギリさんのような生徒に手が回らないのも致し方ないと答えました」
この教師自身の信条とは異なる言葉だ。習一は不快感をあらわにする。
「おべっかかよ。周りと当たり障りなくやろうって魂胆か?」
「ウソはついていません。たとえば妻子のある男性が、休日返上で落ちこぼれの生徒を激励したとします。それは教師としてはすばらしい行動です。けれども、家族はどう思うでしょう。父と遊べない子は寂しがります。妻も夫の愛情を感じられなくては不満を抱くでしょう」
「だから、はみ出し者の生徒なんぞ放っておけ、てか?」
「それも数ある方法の一つです。他人が強いるべき事柄ではありません。ですから、私は言葉を添えました」
階段を下りていた教師が習一を見上げた。
「『家族に誇れる仕事をできていると思うなら、そのままでいい』と」
質問者の良心に問う返答だ。習一は皮肉めいて笑う。
「あんたも性格悪いな。自分を正しいと思ってる野郎が、自分のことをどう思うか、なんて聞くわきゃねえだろ」
「そうですか。私の考えが至りませんでした」
本気とも冗談にも見える微笑で教師が言う。その人を食った態度に習一は安心感を覚えた。他人の耳を心地よくさせることばかり言う軽薄な輩ではないと信用できたのだ。二人は一度別れ、正門で合流して学校を離れた。
教師は小山田家へ行く前にケーキ屋に寄り道した。日々世話になっている一家への返礼用にケーキを購入しようと言う。
「サイズにはホールとピースがありますね。オダギリさんの食べたいものはどれですか」
「オレはなんでもいい。ピースをいろいろ買って、好きなのを選んでもらえよ」
「なるほど。では何個頼みましょうか。ノブさんはあればあるほど食べそうですが……」
「あそこは四人家族だろ。このケーキは小さいし、十個はあるといいんじゃねえか」
習一は悠長に構えた教師に口出しして購入を急がせた。女性客の多い店内に長居する気は毛頭ない。男性かつ変な髪の色の二人組は非常に目立ち、店員と客の注目を一身に集めている。習一一人への関心なら耐えるものの、教師こみの好奇は居心地が悪い。
(野郎のカップルってのが世の中にあるらしいしな……)
親子でも友人でもない二人に掛かる嫌疑はそれではないか、と習一は不安がった。習一に趣味がないとはいえ、周囲の女子は他人の思いを知らずに想像を膨らませることがある。
(こいつは……大丈夫だよな。たぶん……)
銀髪の教師は女子生徒との熱愛疑惑が浮上する程度に健全な男。教育者の観点では恥知らずと難癖をつけられかねないが、習一にはむしろ安心材料である。
女性の視線に無頓着な教師はショーケースの商品をじっくり見る。「どれを複数買いましょうか」とまだ購入に踏み切らない。
「ピースを全種類二つずつ、それでいいだろ?」
声を荒げないよう心掛けつつ、習一は大ざっぱな提案をする。教師は承諾し、女性店員に同じ注文を述べた。店には七種類のピースのケーキがあり、習一が提示した数を超える。薄黄色の紙箱に店員が商品を詰めていき、頼まなかったシュークリームが同梱された。
「オーダーにない品物が入ったようですが」
「あの、十点以上お買い上げの方に無料でサービスしているんです」
そう告げた店員がはにかむ。習一は店内の大小さまざまな張り紙をぱっと見て、店員が言う制度がどこにも記載されないのを確かめた。教師は素直に店員の言葉を受け入れ、代金を支払う。お釣りを渡す際に店員は客の手にそっと自分の手を支えた。教師は礼を言って店をあとにする。習一はその背に話しかけた。
「あの店員、あんたに気があったのかもな」
「なぜ、そう思うのですか?」
「たくさん買った客にオマケがつく売り方をしてるなら、客の目につきやすい場所に書いておくだろ。そんなの全然なかったぞ」
「それはそうですね。お得なサービス目当てに多数品物を買う客がいると店は儲かります。たまたま多く買った人を対象としたやり方では利益になりにくい」
「オレに言われるまで、本当に変だと思わなかったのか?」
「はい。ケーキ屋にはあまり訪れませんし、細事にこだわらないもので」
「お気楽な性格してんな……」
習一は教師の鈍感さを羨ましく思った。彼は他者の視線も隠された本音も意に介さない。あくまで表面化した表情と言動で物事を判断する。腹の探り合いには無縁な大人だ。担任に言ったという「家族に誇れる仕事をしているか」の文言は裏表のない本心かもしれない。
(ゴチャゴチャ考えないですむなら、そっちが楽なのか?)
だが周囲に害をなす者がいればたちまち食い物にされる。その危険は見過ごせなかった。
6
小山田家に到着したなり、成猫が玄関へ突進してきた。教師がすねで猫の行く手をさえぎり、ひるんだ隙にその首根っこを押さえる。脱走をはかった猫は尻が濡れていた。
廊下の奥からゴム手袋を両手にはめた小山田があらわれる。
「キジシロママったらお風呂を嫌がっちゃって。びっくりさせてごめん」
「私がやりましょう。オダギリさん、このケーキの箱を台所へ運んでおいてください」
習一は紙箱の底を両手で持った。教師が猫のうなじをつかみ上げ、濡れた尻をもう片方の手で支える。抱かれた猫は逃走の威勢がどこへ行ったのか、彼の胸にすっぽり収まった。
二人が猫の体を洗う間、習一は台所へ入る。そこにミスミがいた。彼女は野菜を細切れに刻む手を止め、習一に笑顔で出迎えた。習一はどきまぎしつつも箱を見せて「ケーキを買ってきた」と最低限の報告をする。
「まあ、ケーキ? いいわねえ、最近食べてなかったわ。それは今、おやつで食べる? それとも晩ごはんのデザート?」
「みんな忙しいから、あとがいいと思う」
「じゃあ冷蔵庫に入れておきましょうか」
ミスミは手をさっと蛇口の水で洗い、タオルで拭いたのちに冷蔵庫を開けた。中の整理をして広い空きスペースをつくり、ケーキの入った紙箱を収納する。戸を閉める際に茶のポットを取り、コップに注いで習一に渡した。
「お茶がいいのよね?」
昨日までの注文を覚えていることに習一は驚いた。同時に彼女の手際の良さに感心する。習一の母親は素早い行動が苦手である。おっとりした雰囲気のミスミも同類だろうと推し測っていたが、失礼な思いこみだと認識を改めた。習一はうなずいただけでコップをもらい、台所の隣室へ入る。台所と居間を隔てるダンボールの柵をまたいだ先に、動く毛玉があった。昨日保護された子猫だ。習一は幼い獣たちを踏まないようにして、空いた座布団に座る。固まってひしめく猫らを観察した。彼らも座布団を軸にして、その周りにいる。近くの座布団にはひざ掛け用の毛布がくちゃくちゃな状態で置いてあった。
(親猫が風呂に行ってるってことは……こいつらも体を洗ったのか?)
入浴を拒否する力のない子どもなら、動物に不慣れな者でもやり遂げられるだろう。習一は興味本位で一匹手にのせ、その体を嗅いでみる。微かに石けんの良い匂いがした。洗浄済みだとわかると子猫が群がる座布団の上に返却した。すると手放した猫は鳴きはじめる。つられて他二匹もわめき出した。合唱する毛玉は続々と習一の足をよじ登ってくる。あぐらをかいたくるぶしに乗り、ふくらはぎをつたって太ももに到達する。三匹は温もりを恋しがり、熱源のある物体に近寄ってきたらしい。空調は適温を保っていて肌寒くはないのだが。
「親がくるまで、だからな」
習一は猫の座布団になるのを了承した。まだら模様の猫に目を惹かれ、その毛色をためつすがめつする。よく見ると茶色の部分は縞模様。全身明るい茶色の兄弟猫に黒色を所々足したような柄だ。この二匹は色が違えど母から縞模様の毛皮を受け継いでいる。一方、全く似ていないのは黒猫だ。ヒゲも爪も黒い猫は習一のももの上で丸くなった。
(白猫同士から黒猫が生まれる、とか言ったか)
昨日の小山田が述べた雑学を思い出し、これらの子猫たちは共通した父親を持つ可能性がありそうだと思えてきた。黒猫の行方不明になった目を探していると、ごお、という風の音が聞こえた。外で突風が吹いたにしては音量が一定している。人工的に発生する音だ。台所の換気扇が回ったのか、と思ったが音が不鮮明。発生元は戸を開けっ放しにした隣室ではない。他に風が起きることといえば。現在の状況に関連した風についてひらめき、習一自身が体験した風呂屋の出来事も連動して思い出した。
風が鳴り止み、廊下からトタトタと軽い足音が響く。続いて人間の足音も発生し、ふすまが開いた。尻尾が乾ききらない母猫がまっしぐらに子猫に駆け寄る。母猫は習一のひざに前足をつき、子どもらの体をなめる。母猫の胸元にあった汚れはきれいに落ちて、ふさふさとした純白の被毛になった。猫の美しい毛並みを復活させた人々が座布団に座る。
「匂いが変わっても自分の子だってわかってるね、よかった」
子猫二匹はおぼつかない足取りで人体から離れ、母猫の腹に顔をあてる。母猫は四角い座卓の下で授乳を始めた。すぴすぴ眠る黒猫は依然として習一の太ももを下敷きにする。
「こいつ、起こしたほうがいいか?」
習一は食事にありつけない子猫を案じた。小山田は「今日はずっとママと一緒だから平気」と言って睡眠を優先させた。彼女は座卓の下をのぞき、親子の様子を見る。
「ママに赤毛の部分……ある? この微妙に赤っぽいところが、そうなのかな」
母猫の毛皮に着目している。小山田は急にママの語頭に「キジシロ」を付けなくなった。
「キジシロっていう種類じゃなかったのか?」
習一の問いに教師が「その可能性があります」と答える。
「キジシロとはキジ猫、またの名をキジトラ猫に白い体毛が混ざった子の総称です。キジ猫というのは、毛を黒くする遺伝子と縞模様をつくる遺伝子が優性に出た猫のことです。その体毛がメスの雉と似ているのでこの呼び名が定着したと言われています」
「それがどうしたんだ?」
「この母体から茶トラの子猫……オレンジ色の毛の子は、基本的に生まれないのです」
「こいつら、よその猫の子だって言うのか? でも母猫が乳あげてるぞ」
「この猫たちに血のつながりはあると思います。理論上、母猫が茶色の遺伝子Oを持っていると茶トラが生まれます。ところで、男女にXとYの染色体があるのはご存知ですね?」
またしても生物の授業が開講する。知識のある習一は「知ってる」と臆面なく答えた。
「そのXに茶色遺伝子が付属します。伴性遺伝というやつですね。オスはO一つで茶トラになりますが、メスはOが二つあって初めて茶トラになります。メスの場合、片方がOだと茶色に黒色が混じったり、白色を加えた三毛になったりするそうです」
「オスはかならず父親のYを貰うから、父側の茶色遺伝子は関係ねえわけだ」
「はい、そうです。ただし、猫は細胞分裂の過程で遺伝子の不活性が起きるそうで、理論通りにいかない時もあるらしいです」
「へー、じゃあこの真っ黒はどうなんだ?」
「黒猫は縞模様をつくるA遺伝子と部分的に毛を白くするS遺伝子が共に劣性、かつ黒色を発現するB遺伝子が優性だった時に生まれると言います。母猫は黒色遺伝子を持っているようですから、あとは父猫が劣性の遺伝子を持つ個体であればよいと」
「親父が黒猫じゃなくてもいいんだな」
「そういうことです。ちなみに全身を白色の体毛にするW遺伝子が最も優位です。遺伝子型によっては白いメス猫がいろんな体毛の子を産むそうですよ」
「だから白猫の両親から黒猫が生まれることがある、と」
「そうです。ですから……親に似ない子は存在するんです」
教師の結論部分が習一にはひどく優しい声色に聞こえた。それは動物好きな者が猫への愛情をこめた台詞だ。習一は妙な気分を払拭する目的で、あらたな疑問をとりあげる。
「そういや、いつそんな専門的なことを知ったんだ? 猫が食えるもんを調べた時か」
「ええ、まあ、そうです。猫の遺伝研究が載った本を見たのはエリーですけどね。私が行った最寄りの図書館には置いてありませんでした」
「あいつが調べて、あんたに教えた?」
「あの子は読解力が足りていません。それらしいページを……私に見せてくれました」
「本を借りたかコピーしたのか。子猫の親がどんなのでもいいだろうに御苦労なこった」
教師はさびしげな目を小山田に向けた。小山田は一瞬困ったような顔をしたが、ぱっと表情を明るくする。
「ママ用のおやつを買ってきたよ。シュウちゃん、あげてみない?」
小山田は収納棚から縦長の袋を出した。ジャーキーを一本、習一に持たせる。習一は不自然な話題変えだと思ったが、ひとまずおやつを母猫へ近づけた。本当は三毛だった猫が棒状のエサにおののいて顔を引き、鼻をぴくつかせる。匂いでそれが食料だとわかると先端を噛んだ。かじかじ噛んで味わったあと、両前足でジャーキーを奪い、大事そうに抱えて食べる。そのかぶり付き具合はおやつを気に入った証拠だろう。三者の顔がゆるんだ。
「なんだ、かわいいとこあるじゃねえか」
人間に媚びを売らず、他者の善意を拒みがちだった猫が手渡しのエサに食い付いた。少しずつ打ち解けている実感が湧いて、習一は久しぶりに嫌味のない笑みがもれた。
夕飯後は小山田手製のクッキーを食べ、習一は満腹になった。この菓子は教師も「おいしいです」と言ってよく手をつけた。彼の夕飯の握り飯と糠漬けは二つとも小山田の手作りであり、そのことを習一が指摘すると小山田が笑う。
「先生はね、わたしの手で作ったものがおいしいんだって。味付けが失敗してても『おいしい』って言うんだから、味オンチなのかな」
聞きようによるとのろけ話だ。習一は教師に疑いの眼差しをそそぐ。教師は苦笑いした。
「オヤマダさんの手料理は私の舌に合っています。他意はありませんよ」
「べっつに、教師と教え子が好き合ったってオレはなんとも思わねえよ」
「そうでは、ありません」
教師は否定する。それきり二人の関係への言及はなくなった。
夜九時まで長居をし、習一と教師は小山田家を離れた。別れ際、小山田が余ったクッキーを小袋につめて手土産にした。明日は三時のおやつ用に焼いて用意しておく、と彼女は告げる。そのころは補習中だと教えると「焼き上げの時間を調整するよ」と了解した。
習一が帰路につく間も教師はついてくる。晩餐に加わった家庭について、当人を目前にしての質問がはばかられた疑問を習一はぶつけてみた。
「あそこの婆さん、あんたの名前を間違えてたな。なんで間違いを受け入れたんだ?」
「カエデさんは固有名詞が覚えづらいのだそうです。ですが、ちゃんと人の区別はついておいでです。私を『ノブさん』と呼ぶのは壮年以上の男性を指していました」
「オレのことを『マサ』と呼んだのは?」
「ハタチ前後の若い男性の呼び名、だと思います」
「めんどくさい呼び方だな……普通に『おっさん』や『兄ちゃん』じゃダメなのか」
「呼び名の元になる人物がいるのですよ」
「ノブってのは婆さんの息子なんだろう。マサは誰だ?」
「ノブさんが勤めるお店に、細身の男性店員がいたでしょう。あの方です」
習一の注文品を届けた店員だ。上背はあるが体格が良いとは言えない男だった。
「あのヒョロイ男か。そいつと小山田家はどういう関係なんだ?」
「ノブさんが店じまいをする時に……マサさんが残飯を探す現場を発見したそうです」
「へ? 残飯?」
習一が端的に想像したマサという男は元浮浪者だ。教師は説明を続ける。
「ノブさんはマサさんを保護しました。しばらくオヤマダさんの家に住み、お店で働いて、ある程度の貯金ができてからはアパート暮らしをしていると聞きました」
「その人、住む場所がなくて放浪してたのか?」
「はい、マサさんは帰る家がなかったそうです。原因は親との不仲です。子の意思を無視して自分勝手な人生設計を歩ませようとする父親に反抗し、勘当同然で家を離れたと」
習一は冷水を被ったかのように、はっとした。ひ弱そうな男性が果断な行動に出、自由を得た。その自由は周囲の助けによって得たものだ。一人ですべてやろうと考え、無理だと諦め続けた者とは違う。取るに足らなかった青年像が燦々たる輝きを持ち始めた。
「マサさんと今度、話してみますか?」
「藪から棒に、なにを言い出すんだ」
「興味をお持ちになったのでしょう。親の呪縛から逃れた人物の生き様を」
「アホ抜かせ。そんな行き当たりばったりな野郎の話が参考になるもんか。ノブと会わなかったらとっくに野垂れ死んでただろ」
習一は自分が思う率直な意見をぶつけた。この主張も本心の一つだ。
「オダギリさんの考えはもっともです。ですが貴方も、ノブさんと会っているのですよ」
つまり、ノブに助けを求めたなら習一も一人立ちができると暗示している。その言葉は習一に希望を掲げる反面、半身を失くすような虚無感も与えた。
「最初から赤の他人頼りで、うまくいくってのか? そんな甘い見通しで……」
この批判は自己の虚無を突くものではないと、習一は発したあとで自覚した。
「うまくいかないとも、今より良い未来を迎えるとも決まっていません。可能性は未知数です。オダギリさんが思い描く理想には、どういった行動を選ぶと近づくでしょうか?」
習一は答えない。答えの候補は自分の中にあるが、口に出そうとすると二の足を踏んだ。
2
二日めの補習は初っ端に教師が「急用が入りました」と途中退室する。だが三十分足らずでもどってきた。昼休憩には白壁が同席し、銀髪の教師と雑談を行なう。白壁は他校の教師に憧憬を抱くようで「おれも才穎高校に行けばよかったな」とこぼした。
補習が終わると二人はすぐに小山田家へ向かった。玄関先の花はお辞儀をするように茎が曲がり、数枚の花弁が辺りに落ちている。散る寸前の容態だ。
「オダギリさんと再会するまで、持ちこたえてくれたのですね」
「こんなに丁寧に扱わなくてよかったんだ。ヤクザもどきがくれた花なんだから」
「誰が持っていた物であっても、美しい花には変わりないでしょう?」
「しおれた花が『美しい』のかよ」
「美しさを知るために必要な姿です。『散るゆえによりて咲くころあれば珍しきなり』」
突然放たれる古典めいた文言に、習一は眉をひそめた。
「室町の能役者、世阿弥の言葉です。『風姿花伝』をご存知ありませんか?」
「名前ぐらいは知ってる。内容は知らねえ」
「この言葉は、花が散るからこそ咲く花の美しさを感じられる、といった意味です。花の命は短いので咲く間は人々がもてはやします。花見がそうですね、期間限定のイベントに人がこぞって集まります。これが一年中咲く植物でしたら、いつでも見れると思って珍重しなくなるでしょう。花が咲くことと散ることは一セットで、美しいのだと思います」
習一は説明を理解できたが、やはり素直な感心は示せずにひねくれた言葉が出る。
「服のセンスがわからないと言ってるやつが、美しいのどうのがわかるのか?」
「美醜の観念は私になくとも、生命の息吹や尊さを感じる感性はあります。いいものをお見せしましょう」
教師は小山田家の断りなく居間のふすまを開ける。和室のすみに昨日はなかったダンボールの箱があった。その箱は小刻みに動く。「なんだ、あれ」と習一はずかずか歩み寄り、箱を見下ろす。敷き詰めたタオルの上に獣が複数いた。体の大きな猫が一匹、手のひらサイズの猫が三匹。全員がそれぞれ違う模様の毛皮だ。大人の猫は頭から尻尾までの上半分が焦げ茶色の縞模様で、口元から足先までの下半分が白い。習一は大きい猫を指さす。
「……この家の猫か?」
「いいえ、野良猫です。鳴き声がしたので縁側の下を見ると、この親子がいたそうです。母親は胸に傷を負い、弱っていたので保護しました。キュートな猫たちですが、今日は可愛がらないでおきましょう。彼女らの負担になりますから」
母猫の白い胸元は黒ずみ、毛が固まっている。包帯や絆創膏などの治療の痕跡はない。
「傷口はもうふさがってたのか?」
「ええ、まあ……オヤマダさんたちが病院に診せに行ったはずですし、手当てが必要なかったのでしょう。ただ、体力の消耗が激しいようで動きまわれないそうです」
ダンボールが独りでに動く原因は子どもの猫にあった。子らは寝そべる母の周りでせわしなく動いている。三匹とも毛皮の種類は違うのに目の色は同じ青。灰色がかったような、あるいは紫色が少し混じったような不思議な青色だ。
「子猫の目、みんな青色なんだな」
「キトンブルーと言います。生後間もない子猫はみな、青い目なのだそうです」
宝石にありそうな深みのある青色だ。これが教師の言う美しさだろうか。
「……で、いいものってのは猫のことか?」
「はい」
「花の美しい云々の話と関係あるか?」
「ありますよ。この子猫たちが母猫を助けたのですから」
なんのことだ、と習一が不審がった時に小山田が入室する。彼女はクッキーを山盛りにした皿と冷茶の入ったコップをちゃぶ台に置いた。同時におしぼりを二つ並べる。
「おまたせー。食べる前に手を拭いてね」
習一は菓子よりも猫に興味があったため食卓にもどらなかった。小山田がにんまり笑う。
「シュウちゃんも動物好きなの?」
「なんだ、シュウちゃんって。お前は昨日、オレを『オダさん』と言ってなかったか」
「ばーちゃんが『シュウくん』と呼んだから、それにならってる。周りが名前を呼んでないと、ばーちゃんは覚えられないの」
習一がカエデという老婆に「マサさん」と呼ばれないようにする彼女なりの配慮らしい。習一は犬猫の愛称のような彼女の呼び方に引っ掛かりを感じつつ、抗議はやめた。
教師も焼き菓子は放置して猫たちを眺める。視線を感じた母猫は目を開けた。しかしすぐにまぶたを閉じ、浅眠の姿勢にもどる。小山田は「性格変わったのかな」と一人ごちた。
「たまーに外で見かけたときは警戒心が強かったんだけど、いまはのんびり屋だね」
猫らは外敵が不在かつ空調の効いた屋内に居を得ている。この家の者たちが敵でないとわかったなら、母猫の態度はいたく合理的だ。子猫が独り立ちできる月齢になるまではその愛嬌を武器にして、人間に養ってもらうのが賢いやり方だろう。
習一は母猫にいらぬ心労を与えないように、長方形の座卓の周りに座った。教師たちも同様に囲む。小山田が猫を主題にして話しはじめた。
「縁側の下に籠城するキジシロママ、わたしらには威嚇するのに先生には全然しなかったよね。なにが違うんだろ?」
「ん? この教師が猫どもを捕まえたのか?」
「そう。エリーから連絡してもらってシド先生を呼んだんだよ。補習中なのにごめんね」
「もともと、こいつは補習に出なくていいんだ。好きなだけ呼び出せ」
習一は補習授業中のことを思い返した。教師に連絡を受け取る素振りがあっただろうか。電話での会話はしておらず、連絡を通知する電子機器を操作した様子もなかったような気がした。なにより「急用ができた」と離席した教師は二十分から三十分の間で帰還した。雒英高校から小山田家までの往復だけで、それぐらいの時間は潰れるのではないか。人間を警戒する猫の捕獲時間はない。猫が威嚇する相手を選ぶこと以上に、教師には不可解な点が多い。習一はそれらの謎を解消したかったが、また返答を先延ばしにされそうだったのでやめた。
「そういや、子猫が母猫を救ったってのはどういう意味だ?」
クッキーが運ばれたことで中断した会話を習一は再開させた。これには小山田が答える。
「猫たちが家の下にいるってこと、教えてくれたのは子猫の鳴き声だった。母猫は鳴く元気がなかったみたい。威嚇も牙を見せるだけでね」
子猫が居所を知らせていなかったら、母猫は衰弱死していた可能性があった。教師はほほえんで猫のいるダンボールを見つめる。
「母猫は、命が尽きかけていたようです。それでも生きたいと願う一心で回復しました。幼い子を守りたかったのでしょうね」
教師の主張は、母猫が子のために気力をふり絞って生き永らえたことを意味するようだ。習一はいい話に流れを持っていく雰囲気に水を差した。
「本当にこの母猫の子なのか? 一匹は父方の遺伝だろうが、残り二匹は全然違うぞ」
子猫の柄は全身が薄いオレンジ色の縞模様と、黒色と茶色が混じるまだらと、全身が真っ黒の三匹。いずれも母猫の毛皮とは異なる。教師は「たしかに奇妙ですね」と同調する。
「猫の遺伝形態はよく知りませんが……ヘテロ同士の交配により、両親には発現しなかった遺伝が現れる劣性ホモが複数いるのでしょうか」
「先生が言ってることは、たとえば親が白猫同士なのに黒猫が生まれるって話?」
小山田は急な生物学講座をむりなく受け入れている。彼女も劣等生ではないようだ。
「人間だとA型とB型の親からO型の子が生まれるのも同じ理屈なんでしょう」
「そうです。ただし、生物の基礎知識では劣性ホモの発現の在り方は一種類しか学びません。これだけでは理解が追いつきませんね」
「あんまり難しく考えなくていいんだよ。メス猫は複数のオス猫の子を宿せるんだもの」
習一は胸をえぐられる。親に似ない者は外部の種によって生まれた者。全くその通りだ。
「キジシロママは美人だね。きっといっぱい男が言い寄ってきたんだよ」
のほほんと言い放つ仮説が習一に影を落とした。小山田は習一の顔をのぞきこみ、「クッキーが冷める前に食べよう」と勧める。三人はやっとおやつに手を付け始めた。
3
二日めの晩餐は野良猫を同室者にしたままとった。母猫は変わらずダンボールの中で休み、餌用に茹でた鶏肉やイモを少しずつかじっては眠る。猫が食べてよいものは教師が図書館におもむいて調べあげた。調査には一時間強かかっており、普通の所要時間だった。
今日の夕飯には家主のノブが同席する。彼は習一への歓迎の言葉をかけた際、猫のそばで大声をあげるなと娘に警告された。以降のノブはワントーン下がった声調で喋る。
「弱ってた野良猫、いっぺん家にあげちまったら飼わなきゃならんかな?」
彼はとなりの妻の顔色をうかがう。妻の表情はくもった。
「猫ちゃんは早く亡くなってしまうじゃない。その時、とってもつらい思いをするわ」
わたしはイヤよ、と柔和な女性が拒絶する。習一はその態度が腑に落ちなかった。この場にいる誰よりも動物を憐れみ、かわいがる姿が似合うというのに。
ノブは妻に「そうか」と一言答えた。小山田はしょげた顔をする。カエデはゆっくり箸を運び、話を聞いているのかさえわからない。家族間の話し合いに教師が介入する。
「炎天下の中、母猫が幼子を外で育てることは大変でしょう。この子たちが一人立ちできるお手伝いを、一緒にやりませんか?」
「この家で飼うってこと?」
「引き取る方を探すのもいいですね。この子たちをこのまま放り出すのはしのびない」
「……そうね、子猫が蒸し焼けになったらかわいそうだわ」
同じく子を持つ母の同情を買い、猫一家は小山田家に一時在籍することに決まった。教師は猫にあげてよい食べもの以外の知識も吸収してきたらしく、母猫の体力が回復したら体を洗うこと、動物病院で詳しい検査をしてもらうことなど提案する。それらにかかる経費はすべて教師が負担すると言い、ノブは断る。
「うちの敷地内に入ってきた猫のことなんだ。先生ばかりに押し付けられんよ」
「猫たちの保護は私が無理強いさせてしまったのでは……」
「んなことぁない。この家の下から引っ張りだそうとした時にはもう、おれらが責任持たなきゃいけねえと思ったからな」
「……お優しいのですね」
ノブが照れくさそうに頭をかく。
「庭に死骸が転がってちゃ、寝覚めわるいだろ? おれが気分よーく過ごしたいからするんだ。優しいのとはちがう」
教師はノブの主張を受け入れ、野良猫の処遇の話題がおさまった。習一は好奇の念がおさえられず、ノブに問う。
「マサって人の時も、そうだったのか?」
ノブは吊り目を丸くした。習一は質問内容の補足をする。
「浮浪者が食うもんと住むところに困ってたのをあんたが助けたと聞いた。それも猫と同じで、放っておいたら罪悪感が湧くから?」
「……ま、そうだな。だけど、そんなことを考えるのはいつも行動したあとだ。その場に立った時は全然考えちゃいねえ」
「じゃあ、どうして?」
「『助けてくれ』ってツラをしてたから、かな」
ノブは神妙な面持ちの上にむりやり笑顔をかぶせた。
「猫たちは表情が読めねえけど、鳴き声がな、痛々しかった。『だれかお母さんを助けて』と必死に喋ってたんだろうな。茶トラのやつなんか、母猫の傷口をなめて治そうとしてたんだ。あんなにチビなのによ」
幼くても獣であっても家族の身を案じる感情がある。その思いに応えた母の気丈さ。相互関係にある思いやりの心を、教師は美しいと評価したのだと習一は納得した。
「生きようとするやつらを応援したい。それはおれの道楽だ。やりたいからやるだけ! こんなオッサンが『他人の役に立ちたい』とかいう大義名分を持っちゃいないんだよ」
「……オレは、どんなふうに見える?」
我ながらくだらないことを尋ねた、と習一は自己嫌悪に陥る。だが、どうしても聞きたかった。藁にもすがる溺死しかかった弱者に映るかどうか。
「さぁ……やんちゃ盛りの男の子ってとこだな。もっと飯食って肉を付けるといいぞ」
一介の少年との評を下された。習一は内心、普通の男子が無関係な人間の家に来るものか、と指摘する。ノブはふざけて「この肉を分けてやりたいくらいだ」と腹の肉をつかむ。娘が「オヤジの夕飯を抜きにして、その分をあげたらいい」手厳しい助言をした。親子のたわいない言い合いを傍観すればよいものを、習一は我慢ならずに再度問う。
「本当に、それだけか?」
習一は真剣な顔をしたつもりだが、ノブは破顔する。
「ああ、そうだとも。おれが特別なにかしなくたって、やっていけるさ」
「そんなやつが赤の他人に食事を用意してもらうと思うか?」
「だってなぁ、習一くんにはもうシド先生がついてるもんな」
習一は腹の奥が温かくなるのを感じた。すきっ腹に熱い汁物を入れた時の感触に似ているが、夕食の汁物はとうに飲み干していた。
ノブの笑みが教師に向いた。教師は昨日と同じく小山田の握り飯と糠漬けを食す。
「先生が料理のできる人だったら、うちに頼らなかっただろ?」
「いえ……オダギリさんは腹を満たす以外に、大事なものを受け取っていると思います」
「ふーん? まあなんでもいいさ。飯食いたい時でもゲームやりたい時でも、遊びにきたらいい。おれは賑やかなほうが好きだからな!」
ノブの大声のせいで母猫が鳴き声をあげる。ノブは本日二度目の娘の叱りを受けた。
4
補習の最終日は赤点保有者の男女が昼休憩の時に去った。それまでに片方が不在の時間もあった。補習最後は習一一人が必要とする科目が集まるよう調整してあるらしい。
休憩時にまたも白壁は来た。彼は今日が教師に会える最後の日だと言って名残惜しがる。
「シド先生にお会いして早三日。武芸の指導を受けずに別れてしまうのが残念です」
「こちらの空手部は強豪なのでしょう。私の教えは必要ありません」
「いいえ! おれは去年の試合で、才穎の生徒に負けました。今年はあいつが出場しなかったけれど、いまのおれがあいつに勝てる自信はないんです。確信を持てるまで、先生のようなツワモノに鍛えてほしいと思ってます!」
「学ぶ意欲のある方への指導を惜しみたくないのですが、いかんせん、私が取り組むことが残っていますので……」
「補習は今日で終わると聞きました。……進級以外の問題も切りこんでいくんですか?」
白壁はおずおずと教師の顔色をうかがって尋ねた。教師は「そうです」と簡単に答える。
「オダギリさんの生活環境を整えないままでは、同じことが繰り返されると思います。もっとも、彼自身に改善の意思がなかった場合は私の空回りになりますが」
教師は弁当箱をつつく習一をちらりと見る。習一は鼻を鳴らし、二人の会話を静聴した。
「それはありがたい! なにせ、担任がことなかれ主義な人で……頼れないんです。親御さんからの電話を受け取った時も愚痴ってたらしいですよ」
「どんな内容の電話だったか、お聞きになりましたか?」
「『なぜ休日にも銀髪のスーツ姿の男が息子を外へ連れていくんだ』という質問だったと。掛尾先生が代わりに答えて、その場はしのげたそうです。その時に『なんで問題児ばっかり』ともらしてたとか」
「『ばっかり』? 他にどの生徒を指しているんでしょうか」
「同じ補習を受けてたカップルです。色恋にふけって勉強しなかったせいで、赤点とりまくったみたいで……」
「その二人は通う高校をまちがえましたね。才穎なら校長がとりなしてくれたでしょう」
教師は真面目な顔をして不可解な言葉を口走った。白壁はなぜか「やっぱり」と言う。
「話にはよく聞いていますけど、カップルには甘い学校なんですか?」
「恋人の疑いがかかっている人も対象です。かく言う私も、任された職務を放置したのを校長は咎めませんでした」
「先生が仕事をすっぽかすなんて、どんな大事があったんです?」
「野暮用です。私の知人の警官が学校に来ていたので……その方に用事がありました」
露木のことだ、と習一は思い立ち、会話に加わる。
「坊主の警官か? そいつがなにをしに才穎に来たんだ」
白壁が「ボウズ?」と坊主頭を想像したのを誰も触れず、教師は目を伏せて神妙にする。
「とても大切な用事でした。私がこうして過ごすのもあの方のおかげです。そうでなかったら、私はこの国を去っていました。その話はのちのちお教えします」
白壁は「七月末で退職の予定だったんですよね」と訳知り顔で言う。教師は間を置いて「そうです」と肯定した。だが退職理由などは述べなかった。
雑談のすえ、午後の補習が始まった。白壁は退室し、習一と銀髪の教師の二人が居残る。午後の補習担当者は習一の印象が薄い、どうでもよい女性教師だった。奇異な風体の習一たちに尻込みする気色があったものの、彼女は滞りなく職務を全うした。習一らが優等生と変わらぬ受講態度をつらぬいたおかげだ。
「プリントをすべて提出してしまいましょう」
教師は習一が職員室へ立ち寄るのを同行する。最後の最後で習一が責務を投げ出さぬよう見張るのだ。これまでの苦行をおじゃんにするバカは普通いないが、突発的な行動を起こす可能性は否定できない。習一自身、出会う人物によっては理にそぐわぬ決断をとるだろうと思っていた。案の定、職員室には提出物を受理する掛尾はおらず、担任が在席する。習一は後方の教師の顔色をうかがった。
「カケオ先生がいらっしゃいませんね。先生の机の上に置いておきますか?」
「なんか締まらねえな」
「では担任のほうに提出しましょう。最終的にはあの方が確認をとって成績を出します。カケオ先生は中継ぎ役ですから、カケオ先生にこだわらなくともよいのです」
「お互いに顔合わせるの、イヤなんだがな」
「わかりました。私が代わりに行きます」
「いいのか? こんな甘ったれたわがままを聞いて」
「なにかの拍子に取っ組みあいになってはいけませんので」
習一の性情をかえりみての代行だ。習一は教師のリアリストぶりに感心しつつ、プリントをおさめたクリアファイルを手放した。異邦人が「失礼します」の挨拶とともに職員室へ入る。習一は廊下で待った。すぐに終わるだろう、と予測したが思いのほか待たされた。
5
教師は五分以上の時間を職員室で過ごした。彼が廊下にあらわれた時、空になったクリアファイルを手にして「これで終わりましたよ」と習一に報告する。
「だいぶ時間を食ったな。なんか言われたのか?」
「貴方への非難は言われていませんので、安心してください」
「あんたは、どうなんだ?」
「中傷だと受け取るべき言葉はありませんでした」
教師はゆっくり歩きだす。彼なりに足音を立てないスリッパ歩行を編み出し、初日のパタパタという音は軽減している。習一は後を追い「世間話してたのか?」と食い下がった。
「質問されました。『受け持ちの生徒に関わらない教員をどう思っているか』と」
「なんだあいつ、自分がやってることに罪悪感でもあんのか」
「そうなのでしょうかね。私はいま一つ、あの人の感情が読み取れませんでした」
「なんて答えた? あんたと正反対なやつだろう。『理解できない』とでも言ったか」
「どのような人相手でも、その行動に至る理由を知ればそれなりに理解はできます。共感できるかどうか、は別ですがね」
「あんたはあいつをどう理解したと言うんだ?」
「あの人は家庭のある身です。日々の職務に追われていては、オダギリさんのような生徒に手が回らないのも致し方ないと答えました」
この教師自身の信条とは異なる言葉だ。習一は不快感をあらわにする。
「おべっかかよ。周りと当たり障りなくやろうって魂胆か?」
「ウソはついていません。たとえば妻子のある男性が、休日返上で落ちこぼれの生徒を激励したとします。それは教師としてはすばらしい行動です。けれども、家族はどう思うでしょう。父と遊べない子は寂しがります。妻も夫の愛情を感じられなくては不満を抱くでしょう」
「だから、はみ出し者の生徒なんぞ放っておけ、てか?」
「それも数ある方法の一つです。他人が強いるべき事柄ではありません。ですから、私は言葉を添えました」
階段を下りていた教師が習一を見上げた。
「『家族に誇れる仕事をできていると思うなら、そのままでいい』と」
質問者の良心に問う返答だ。習一は皮肉めいて笑う。
「あんたも性格悪いな。自分を正しいと思ってる野郎が、自分のことをどう思うか、なんて聞くわきゃねえだろ」
「そうですか。私の考えが至りませんでした」
本気とも冗談にも見える微笑で教師が言う。その人を食った態度に習一は安心感を覚えた。他人の耳を心地よくさせることばかり言う軽薄な輩ではないと信用できたのだ。二人は一度別れ、正門で合流して学校を離れた。
教師は小山田家へ行く前にケーキ屋に寄り道した。日々世話になっている一家への返礼用にケーキを購入しようと言う。
「サイズにはホールとピースがありますね。オダギリさんの食べたいものはどれですか」
「オレはなんでもいい。ピースをいろいろ買って、好きなのを選んでもらえよ」
「なるほど。では何個頼みましょうか。ノブさんはあればあるほど食べそうですが……」
「あそこは四人家族だろ。このケーキは小さいし、十個はあるといいんじゃねえか」
習一は悠長に構えた教師に口出しして購入を急がせた。女性客の多い店内に長居する気は毛頭ない。男性かつ変な髪の色の二人組は非常に目立ち、店員と客の注目を一身に集めている。習一一人への関心なら耐えるものの、教師こみの好奇は居心地が悪い。
(野郎のカップルってのが世の中にあるらしいしな……)
親子でも友人でもない二人に掛かる嫌疑はそれではないか、と習一は不安がった。習一に趣味がないとはいえ、周囲の女子は他人の思いを知らずに想像を膨らませることがある。
(こいつは……大丈夫だよな。たぶん……)
銀髪の教師は女子生徒との熱愛疑惑が浮上する程度に健全な男。教育者の観点では恥知らずと難癖をつけられかねないが、習一にはむしろ安心材料である。
女性の視線に無頓着な教師はショーケースの商品をじっくり見る。「どれを複数買いましょうか」とまだ購入に踏み切らない。
「ピースを全種類二つずつ、それでいいだろ?」
声を荒げないよう心掛けつつ、習一は大ざっぱな提案をする。教師は承諾し、女性店員に同じ注文を述べた。店には七種類のピースのケーキがあり、習一が提示した数を超える。薄黄色の紙箱に店員が商品を詰めていき、頼まなかったシュークリームが同梱された。
「オーダーにない品物が入ったようですが」
「あの、十点以上お買い上げの方に無料でサービスしているんです」
そう告げた店員がはにかむ。習一は店内の大小さまざまな張り紙をぱっと見て、店員が言う制度がどこにも記載されないのを確かめた。教師は素直に店員の言葉を受け入れ、代金を支払う。お釣りを渡す際に店員は客の手にそっと自分の手を支えた。教師は礼を言って店をあとにする。習一はその背に話しかけた。
「あの店員、あんたに気があったのかもな」
「なぜ、そう思うのですか?」
「たくさん買った客にオマケがつく売り方をしてるなら、客の目につきやすい場所に書いておくだろ。そんなの全然なかったぞ」
「それはそうですね。お得なサービス目当てに多数品物を買う客がいると店は儲かります。たまたま多く買った人を対象としたやり方では利益になりにくい」
「オレに言われるまで、本当に変だと思わなかったのか?」
「はい。ケーキ屋にはあまり訪れませんし、細事にこだわらないもので」
「お気楽な性格してんな……」
習一は教師の鈍感さを羨ましく思った。彼は他者の視線も隠された本音も意に介さない。あくまで表面化した表情と言動で物事を判断する。腹の探り合いには無縁な大人だ。担任に言ったという「家族に誇れる仕事をしているか」の文言は裏表のない本心かもしれない。
(ゴチャゴチャ考えないですむなら、そっちが楽なのか?)
だが周囲に害をなす者がいればたちまち食い物にされる。その危険は見過ごせなかった。
6
小山田家に到着したなり、成猫が玄関へ突進してきた。教師がすねで猫の行く手をさえぎり、ひるんだ隙にその首根っこを押さえる。脱走をはかった猫は尻が濡れていた。
廊下の奥からゴム手袋を両手にはめた小山田があらわれる。
「キジシロママったらお風呂を嫌がっちゃって。びっくりさせてごめん」
「私がやりましょう。オダギリさん、このケーキの箱を台所へ運んでおいてください」
習一は紙箱の底を両手で持った。教師が猫のうなじをつかみ上げ、濡れた尻をもう片方の手で支える。抱かれた猫は逃走の威勢がどこへ行ったのか、彼の胸にすっぽり収まった。
二人が猫の体を洗う間、習一は台所へ入る。そこにミスミがいた。彼女は野菜を細切れに刻む手を止め、習一に笑顔で出迎えた。習一はどきまぎしつつも箱を見せて「ケーキを買ってきた」と最低限の報告をする。
「まあ、ケーキ? いいわねえ、最近食べてなかったわ。それは今、おやつで食べる? それとも晩ごはんのデザート?」
「みんな忙しいから、あとがいいと思う」
「じゃあ冷蔵庫に入れておきましょうか」
ミスミは手をさっと蛇口の水で洗い、タオルで拭いたのちに冷蔵庫を開けた。中の整理をして広い空きスペースをつくり、ケーキの入った紙箱を収納する。戸を閉める際に茶のポットを取り、コップに注いで習一に渡した。
「お茶がいいのよね?」
昨日までの注文を覚えていることに習一は驚いた。同時に彼女の手際の良さに感心する。習一の母親は素早い行動が苦手である。おっとりした雰囲気のミスミも同類だろうと推し測っていたが、失礼な思いこみだと認識を改めた。習一はうなずいただけでコップをもらい、台所の隣室へ入る。台所と居間を隔てるダンボールの柵をまたいだ先に、動く毛玉があった。昨日保護された子猫だ。習一は幼い獣たちを踏まないようにして、空いた座布団に座る。固まってひしめく猫らを観察した。彼らも座布団を軸にして、その周りにいる。近くの座布団にはひざ掛け用の毛布がくちゃくちゃな状態で置いてあった。
(親猫が風呂に行ってるってことは……こいつらも体を洗ったのか?)
入浴を拒否する力のない子どもなら、動物に不慣れな者でもやり遂げられるだろう。習一は興味本位で一匹手にのせ、その体を嗅いでみる。微かに石けんの良い匂いがした。洗浄済みだとわかると子猫が群がる座布団の上に返却した。すると手放した猫は鳴きはじめる。つられて他二匹もわめき出した。合唱する毛玉は続々と習一の足をよじ登ってくる。あぐらをかいたくるぶしに乗り、ふくらはぎをつたって太ももに到達する。三匹は温もりを恋しがり、熱源のある物体に近寄ってきたらしい。空調は適温を保っていて肌寒くはないのだが。
「親がくるまで、だからな」
習一は猫の座布団になるのを了承した。まだら模様の猫に目を惹かれ、その毛色をためつすがめつする。よく見ると茶色の部分は縞模様。全身明るい茶色の兄弟猫に黒色を所々足したような柄だ。この二匹は色が違えど母から縞模様の毛皮を受け継いでいる。一方、全く似ていないのは黒猫だ。ヒゲも爪も黒い猫は習一のももの上で丸くなった。
(白猫同士から黒猫が生まれる、とか言ったか)
昨日の小山田が述べた雑学を思い出し、これらの子猫たちは共通した父親を持つ可能性がありそうだと思えてきた。黒猫の行方不明になった目を探していると、ごお、という風の音が聞こえた。外で突風が吹いたにしては音量が一定している。人工的に発生する音だ。台所の換気扇が回ったのか、と思ったが音が不鮮明。発生元は戸を開けっ放しにした隣室ではない。他に風が起きることといえば。現在の状況に関連した風についてひらめき、習一自身が体験した風呂屋の出来事も連動して思い出した。
風が鳴り止み、廊下からトタトタと軽い足音が響く。続いて人間の足音も発生し、ふすまが開いた。尻尾が乾ききらない母猫がまっしぐらに子猫に駆け寄る。母猫は習一のひざに前足をつき、子どもらの体をなめる。母猫の胸元にあった汚れはきれいに落ちて、ふさふさとした純白の被毛になった。猫の美しい毛並みを復活させた人々が座布団に座る。
「匂いが変わっても自分の子だってわかってるね、よかった」
子猫二匹はおぼつかない足取りで人体から離れ、母猫の腹に顔をあてる。母猫は四角い座卓の下で授乳を始めた。すぴすぴ眠る黒猫は依然として習一の太ももを下敷きにする。
「こいつ、起こしたほうがいいか?」
習一は食事にありつけない子猫を案じた。小山田は「今日はずっとママと一緒だから平気」と言って睡眠を優先させた。彼女は座卓の下をのぞき、親子の様子を見る。
「ママに赤毛の部分……ある? この微妙に赤っぽいところが、そうなのかな」
母猫の毛皮に着目している。小山田は急にママの語頭に「キジシロ」を付けなくなった。
「キジシロっていう種類じゃなかったのか?」
習一の問いに教師が「その可能性があります」と答える。
「キジシロとはキジ猫、またの名をキジトラ猫に白い体毛が混ざった子の総称です。キジ猫というのは、毛を黒くする遺伝子と縞模様をつくる遺伝子が優性に出た猫のことです。その体毛がメスの雉と似ているのでこの呼び名が定着したと言われています」
「それがどうしたんだ?」
「この母体から茶トラの子猫……オレンジ色の毛の子は、基本的に生まれないのです」
「こいつら、よその猫の子だって言うのか? でも母猫が乳あげてるぞ」
「この猫たちに血のつながりはあると思います。理論上、母猫が茶色の遺伝子Oを持っていると茶トラが生まれます。ところで、男女にXとYの染色体があるのはご存知ですね?」
またしても生物の授業が開講する。知識のある習一は「知ってる」と臆面なく答えた。
「そのXに茶色遺伝子が付属します。伴性遺伝というやつですね。オスはO一つで茶トラになりますが、メスはOが二つあって初めて茶トラになります。メスの場合、片方がOだと茶色に黒色が混じったり、白色を加えた三毛になったりするそうです」
「オスはかならず父親のYを貰うから、父側の茶色遺伝子は関係ねえわけだ」
「はい、そうです。ただし、猫は細胞分裂の過程で遺伝子の不活性が起きるそうで、理論通りにいかない時もあるらしいです」
「へー、じゃあこの真っ黒はどうなんだ?」
「黒猫は縞模様をつくるA遺伝子と部分的に毛を白くするS遺伝子が共に劣性、かつ黒色を発現するB遺伝子が優性だった時に生まれると言います。母猫は黒色遺伝子を持っているようですから、あとは父猫が劣性の遺伝子を持つ個体であればよいと」
「親父が黒猫じゃなくてもいいんだな」
「そういうことです。ちなみに全身を白色の体毛にするW遺伝子が最も優位です。遺伝子型によっては白いメス猫がいろんな体毛の子を産むそうですよ」
「だから白猫の両親から黒猫が生まれることがある、と」
「そうです。ですから……親に似ない子は存在するんです」
教師の結論部分が習一にはひどく優しい声色に聞こえた。それは動物好きな者が猫への愛情をこめた台詞だ。習一は妙な気分を払拭する目的で、あらたな疑問をとりあげる。
「そういや、いつそんな専門的なことを知ったんだ? 猫が食えるもんを調べた時か」
「ええ、まあ、そうです。猫の遺伝研究が載った本を見たのはエリーですけどね。私が行った最寄りの図書館には置いてありませんでした」
「あいつが調べて、あんたに教えた?」
「あの子は読解力が足りていません。それらしいページを……私に見せてくれました」
「本を借りたかコピーしたのか。子猫の親がどんなのでもいいだろうに御苦労なこった」
教師はさびしげな目を小山田に向けた。小山田は一瞬困ったような顔をしたが、ぱっと表情を明るくする。
「ママ用のおやつを買ってきたよ。シュウちゃん、あげてみない?」
小山田は収納棚から縦長の袋を出した。ジャーキーを一本、習一に持たせる。習一は不自然な話題変えだと思ったが、ひとまずおやつを母猫へ近づけた。本当は三毛だった猫が棒状のエサにおののいて顔を引き、鼻をぴくつかせる。匂いでそれが食料だとわかると先端を噛んだ。かじかじ噛んで味わったあと、両前足でジャーキーを奪い、大事そうに抱えて食べる。そのかぶり付き具合はおやつを気に入った証拠だろう。三者の顔がゆるんだ。
「なんだ、かわいいとこあるじゃねえか」
人間に媚びを売らず、他者の善意を拒みがちだった猫が手渡しのエサに食い付いた。少しずつ打ち解けている実感が湧いて、習一は久しぶりに嫌味のない笑みがもれた。
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