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2018年12月10日

習一篇草稿−2章下

4
 掛布団の上に寝た習一は薄く目を開けた。日はもう上がっている。いまは何時だろう、とうつろな目でベッド棚の上の置き時計を見る。針は七時半を指す。次に窓の外を眺めた。青い空に浮かぶ白い雲同士が折り重なる。その下部に太い灰色の筋ができた。
(銀色……)
 灰の帯が銀髪の教師と少女を連想させた。彼らは今日も習一の監視を続ける。本日は男の方が終日同伴するとも聞いた。今日はどこへ行かされるやら、と取りとめもないことを考え、まぶたを落とした。二度寝は数分を経たずして阻害される。例の銀髪の少女が窓を叩く。彼女の登頂ルートはもはや気にならなくなっていた。習一が窓を開けると少女は靴を履いたまま部屋へ入った。今日の彼女は荷物を担いでいない。
「シューイチ、おはよう。今日はシドがくるよ」
「それを伝えに、土足で他人の部屋に押し入るのか?」
「えーと、ほかに伝えたいことがあって。今日こなすプリント以外に、昨日といたプリントを持ってきてね。シドが採点するの。あと、プリントの解答は教科書を見てやっていいんだって。家庭科や芸術の問題はやりにくいと思うから、教科書ももっていこう」
「教科書も? かさばるな、そりゃ……」
「教科書がいるプリントと、なくてもいいプリントをえらんだらどう? 昨日のシューイチ、なにも見なくてもかけてたよね」
「まあ……昔取った杵柄、ってやつな」
「んじゃ、したくしてね。わすれものがないように気をつけて」
 習一は勉強机の本棚を眺める。ぎっしり詰まった棚には授業で使う教科書と、よく宿題に指定される問題集が区分けして並ぶ。使用頻度の少ない芸術等の教科書は棚の隅に追いやられていた。教材に対する扱いは優等生時分と変わらず、使いやすく整理してある。
(昔からのクセは抜けねえな……)
 悪辣な学生になりきれぬ証拠は一時放置し、クリアファイルの中をあらためる。今日やると決めた科目と時間が余った時用の予備を鞄に詰め、必要になりそうな教科書も同梱する。次に夏用の衣類をクローゼットから探り、着替える。部屋を出ると二階の階段側の壁にあった絵画は外れたままだと気付いた。階段にもなく、どこかへ運ばれたらしい。
(ま、どうでもいいか)
 昨晩習一につかみかかった男が現れないうちに玄関へ向かう。昨日脱いだ靴はきれいに揃えられていた。靴を履いて戸を開けると、鉄格子の奥に長身の男の後ろ姿が見えた。
(あいつは……)
 黒いシャツの袖を腕まくりした男だ。習一が初めて会った時と同じ姿でいる。習一が鉄格子に手をかけると、銀髪の男が習一に黄色のサングラスを向けた。
「四日ほど会っていませんでしたね。私のことは覚えておいでですか?」
「あんたみたいな目立つ人間、忘れねえよ」
「そうですか。忘れていないと聞けて安心しました。では行きましょう」
「どこに行くんだ?」
「まずは朝食を食べに行きます。希望はありますか? なければ私が店を選びますが」
「あんたの好きなところでいい。オレは食べ物の好き嫌いはしないほうだ」
「よい返事です。さて、歩きますよ」
 銀髪の教師はビジネス鞄を手に提げて移動する。習一は自分を起こした少女が彼のそばにいないことを不審に思った。
「オレの部屋に来てた女の子はどこへ行ったんだ?」
「この町のどこかにいると思います。私が呼べば来てくれますよ。会いたいのですか?」
「いや、別に会いたくはないが……オレと話して、すぐにいなくなっちまったのか?」
「はい、この場に残る必要がなかったもので」
「良いように使いぱしりにしてるんだな。あんたとどういう関係だ?」
「血縁関係は不確かですが、表向きは妹ということにしています」
「あれだけ似てんのに血の繋がりがないかもだって? どういう家庭で育ったんだ」
「家庭と呼べるものは私たちにありません。あるのは主従関係。エリーは従者仲間です」
「エリー? それがあの子の名前か」
 昨日は半日近く一緒にいたというのに、彼女の名前を知らなかった。そのことに習一は今になって気付く。教師はふりむきざま、口元をやんわり横に引いた。
「不便な思いをさせたようですね。彼女は自己紹介することに慣れていません。あとで教えておきます。初対面の人には自分の名を伝えるように、と」
 習一が少女の名を知らないことで発生した不都合はない。彼女とは最低限の会話のみで過ごした。名を呼びあう場面はなかったのだ。
「あ、いや……どうせ名前を知ってても呼ぶかわかんねえし、なんともない。それよか、家庭がない従者ってなんだよ?」
「言葉通りです。物心がついた時から私たちは主(あるじ)に従い、主を親として慕いました。けれど、主は幼子をあやして育てるといった行為をしなかったと思います」
 教師の説明は習一の既存の知識では理解が及ばない。身寄りのない子どもを集めて育てる孤児院出身というバックボーンではなさそうだ。習一は首をかしげた。
「ご主人の命令に従って生きてるんだろ? 高校の教師をやってんのもその命令か」
「初めはそうでした。今は違います。主の命令に逸脱した日々を……これから送ろうとしています」
「オレの復帰の手伝いが命令違反なのか?」
「それもそうですが、貴方個人のために主に背こうとしたのではありません。なにがきっかけか、と聞きたいかもしれませんが、まだ答えられません」
「へいへい、お得意の『記憶がもどったら話す』か。だがな、オレが忘れちまったことを知り合い連中が教えてきたぞ。あんたの思い通りにならなくて残念だったな」
 習一は教師の意に反する出来事を意地悪に言った。教師は「それは結構なことです」と答え、進行方向へ向きなおる。
「私が説明を渋るのは貴方に納得してもらえないと考えたからです。親しい御仁の言葉なら、すんなりと胸に落ちるでしょう。貴方と親交のない私にはできないことです」
 教師のもったいぶりは、習一に知られてはまずいと考えての行動ではない。理解できる基盤のない者になにを言っても無駄だ、という観点で口を閉ざしている。他意はないのだろうが、自身を飲みこみの悪い魯鈍な者として扱うさまに習一は口をへの字にした。
「無理にわからせようとして、貴方を惑わせたくはありません。まず先に家庭と学習環境を整えて、しかるのちにきちんとお教えします。もちろん、記憶が復活すれば順序は入れ替わるでしょう。その予定でよろしいですか?」
 教師は合理的な判断のもと、習一に接している。無駄を嫌う習一には異議を突きつける箇所が思いあたらなかった。一学期の成績を決定づける期限は今月中。遅くとも来月の頭までだろう。それまでに及第にこぎつく努力を果たせなければ三度目の高校二年生を迎えてしまう。この状況下において、自分と教師との確執を知る私事は後回しでよい。
「わかった。とにかく今は学校のことを片付けておくんだろ」
「はい。それが先決です。そのために栄養を補給しておきましょう」
 二人は会話を一区切りつけた。習一が案内された場所は主要道路から少し外れた喫茶店だ。外装はどのチェーン店とも一致しない、個人経営の店らしい。一般的な店の始業時刻前だというのに、窓越しに見える店内にはテーブルでくつろぐ客が数人点在した。

5
 入店した直後、ちりんちりんと鈴の音が鳴った。習一が木製の戸を見ると、戸の上部に付いた戸当りの部分に鈴が複数垂れている。鈴を吊るす紐には装飾をなすリボンが結んであり、女性的な店構えだと感じた。入口付近には店内の壁と、格子状の高い木製の衝立が左右にそびえる。入店者はまっすぐにレジへと進む構造だ。レジにいる小柄な男性──に思えたが、それは少年のような風貌の女性だ。深緑色のエプロンを掛けた女性店員が笑顔で客を接待する。店員は現在の料金形態は前払いだと言い、その言葉通りに教師が支払いをする。店員が横を向いた先に彼女と同じエプロンを着用する長身の女性がいた。
「二名様、こちらの席へどうぞ〜」
 女性にしては低い声で給仕が言う。彼女の緑のエプロンの下には黒と白でデザインしたスカート丈の短いエプロンドレスを着ており、レジの店員とは雰囲気が著しく異なる。そもそもエプロンを二重にする意図がわからない。奇怪なファッションを堂々と客に見せる女性は場違いなほど妖艶な体つきでいる。エプロンを大きく前へ突き出す胸部とさらけ出た太ももが、喫茶店全体をいかがわしい店だと思わせた。
 色気を強調する女性は教師を店内のテーブルへ案内した。どういうつもりでこの店を選んだのか、と習一は先導者の男の横顔をのぞく。彼は微妙にしかめ面をしている。教師も風俗嬢もどきの店員を不快に感じたようだ。
 給仕に言われるまま、習一たちは壁側のテーブルを挟んで座った。給仕がテーブルに二人分のフォークと箸の入った細い籠を置き、座席の壁側にあるメニュースタンドへ手を伸ばす。ぶ厚い曲線を描く胸が卓上に浮いた。あまり凝視するのもなんだ、と習一は自身の視線を給仕の動く手に固定する。彼女はメニューを取り、机上に置く。
「お好きな飲み物を一つ選んでね。ワンドリンク制なの。この中の飲み物一つと、ソーセージとお惣菜パン二個をお一人に届けます。ほかはご自分で好きなだけとってね」
「ほか?」
「ええ、食パンやサラダが食べ放題よ。フリードリンクもあるの。お得でしょう?」
 給仕は愛想のいい笑顔をして習一と教師に同意を求めた。教師は「そうですね」と気のない返事をする。給仕は無愛想な客にはめげず、ドリンクの注文を要求する。教師は無難にコーヒーを頼み、習一はフルーツソーダという変わった名称のジュースに決めた。オーダーをとった給仕はしゃなりしゃなりと歩き、カウンターの奥へと消えた。
 習一が店内を見ればカウンター沿いに取り放題の食品が並んでいた。大量の食パンが入った籠や、野菜を千切りにしたサラダとそれにかけるドレッシング、炒り卵が入った器、ティーポッドなどを置いた机がある。習一はそれらの前を通ったのだが、給仕の異様さに全意識を注いだせいで気付かなかった。
「あちらにあるものは自分で取って飲み食いするようですね。行ってきてはどうです?」
「あんたはいいのか?」
「はい。これから運ばれてくるもの次第で考えます」
「量が多かったらやめとこう、てか。オレもそうするか。バカスカ食える調子じゃない」
「オダギリさんは健康面を考えて、サラダと卵を召しあがったらよいかと思いますが」
 その意見は習一も同感だが、教師に言われるのは不思議な心地がした。
「親みてえなことを言うんだな」
「親? それは世間一般的な親のことですか。それともご自身の親のことでしょうか」
 生真面目な顔をして教師が問う。習一は面食らった。深く考えずに発した言葉の真意を尋ねられるとは思ってもみなかったのだ。自分はどういう思考のもとにそう告げたのだろう。少なくとも習一の父親は除外できる。父のことを思うと芋づる式に昨晩の出来事が脳裏によみがえった。苦々しいものが口内にこみあげる。習一は噴き出る記憶をかき消すために席を立ち、荒々しく歩く。バイキング形式の食事を皿にかき集めた。山盛りになった皿の上に栄養によいというゴマを含んだドレッシングを野菜と卵の別なくかけ、席にもどった。その頃には艶めかしい給仕がトレイを運び、習一たちの飲食物をテーブルに並べていた。食事を配り終えた給仕は勤務中の定位置につかず、銀髪の教師に笑いかける。
「キリちゃんが言ってたとおりの男前ね。先生もモデルをやってみたらどう? 絶対、若いコからマダムまで気に入られるわよ」
「衆目にさらされる仕事は遠慮します。私はささやかに暮らしたいですから」
「まだ二十七なんでしょ? ご隠居みたいなこと言ってちゃもったいないわ。若いうちはいろんな可能性を試してみなくっちゃ」
「今のところ、教員生活に満足できています。ほかの職業を試す必要はありません」
「あら、でも一ヶ月ヒマなんでしょう。その間に挑戦してもいいんじゃないかしら」
「……御縁があれば、考えます」
「わたしから口利きしてもいいのよ」
 教師は返答に困った。その反応を給仕は楽しげに見る。習一は卵入りサラダをもしゃもしゃ食いつつ両者のやり取りを見物した。給仕はモデル業をしているらしい。その職に見合う端正な顔と身体を有している。ただ一つの欠点は声。聞こえようによっては男性に思える低さだ。外見の美麗さのみを求められるモデル業にはピッタリの人材かもしれない。
 カウンターに控える店員が給仕を呼んだ。呼び声に応じて給仕は立ち去る。モデルの誘いを断りきれずにいた教師は安堵し、湯気の立つコーヒーを口にふくんだ。習一も大きなグラスを手にする。習一が注文したサイダーは透明な炭酸飲料のはずだが、届いたものは濁っていた。フルーツ、という品名があったものの果物とわかる物体は見えず、グラスの中に赤や青の粒が浮かぶ。ストローを挿して飲んでみるとサイダーの味以外に、複数の果物の味と香りが広がった。果物を細かくしてサイダーで割った飲み物だ。習一は取ってきたサラダと交互に飲み食いして、腹は満ちないのに充足した気分になった。
 教師は箸を握り、二本のソーセージと異なる惣菜パンが乗った皿をつつく。食べるのか、と習一は思ったが違った。彼は焼き目のついたソーセージを持ち上げ、片方の同じ食べ物を盛った皿へ移す。ソーセージの量が倍になった皿を習一の前へと出した。
「このくらいは食べられるでしょう。遠慮なくどうぞ」
「そんなデカい体をしてるくせに、食わねえのか?」
「はい。貴方には早く体力をもどしてほしいですから、私の分も食べてください」
 教師は手持ちの本を読み始め、パンにも手をつけないでいる。彼自身はコーヒー一杯で朝食が済むようだ。常人以上に恵まれた体だというのに、その骨と筋肉は何からできたものかと習一は奇妙に感じた。そういえば彼の妹分も全く飲食行為を見せなかった。
「エリー……ってやつも全然飲まないし食わなかったな。二人とも、少食か?」
「はい、そうです。生活するのに不自由はしませんので安心してください」
 教師は再び本に目を落とす。その状態で習一の食事が終わるのを待つつもりだ。習一は厚意を受け入れ、増えた焼きソーセージをかじった。焼いたことで香ばしさが増し、うまいと感じた。取り放題の食品とは段違いに旨みを感じる品だ。独り占めするのは少し気が引けて、自身の分け前を譲渡した相手の顔をちらっと見る。彼は習一の飲食に対して無関心だ。習一は彼が口に入れるはずだった朝食をとった。
 習一が満腹になり、一服したところで教師とともに喫茶店を離れた。つまるところ店は普通の飲食店であり、給仕一人が異色な風貌と態度で勤務するだけだった。モデル云々というので彼女は有名人なのだろうが、習一は知らぬ人物だ。教師は給仕と共通の知人がいたようで、そのことを習一が尋ねると「教え子がこの店の手伝いをしています」と返答があった。会計をした店員かと聞くと違うと言われ、その他に教え子らしき若い店員は見なかった。非番の日だったか客に見えない裏方なのだと思い、習一は深追いしなかった。

6
 習一たちは大きな図書館へついた。開館時間にはまだ早く、閉館の立札が透明な自動扉の奥に置かれる。扉の付近には開錠を待つ人がいた。
 群青の前掛けを着た司書が館内から登場し、ロックを解除すると扉が左右に開いた。司書が立札を引っ込めるのを待たずして利用客が入館する。教師もまた「それでは行きましょう」と習一に入館をすすめた。
 二人は本棚と机が並ぶ広間へ入った。独特の匂いが満ちる。年数を経た書物が発する匂いだと習一は思った。教師が木製の長机に鞄を置いたので習一も反対側の席に陣取る。
「オレが解いた課題、あんたが答え合わせするんだって?」
 私語を慎むべき図書館内にいるのを考慮して、習一は声を小さくした。
「自己採点するのでもかまいませんが、いかがします?」
「あんたにやってもらったらその分早く終わる」
「おっしゃる通りです。では私が正誤の確認をしましょう。終わったら解答とともに返します。間違った箇所は解答欄の付近に正しい答えを記入してください」
 習一は教師にクリアファイルを渡した。彼の鞄から似たクリアファイルが出る。それが解答の一覧のようだ。習一も椅子に座ってプリントと教科書を机上に並べる。以後、両者は黙々と作業に没頭した。教師は赤ペンをキュッと鳴らして紙上に丸をつける。一枚めが終わると紙をめくり、またペンを鳴らす。その行為は一束十分前後で済んだ。丸点けの終わったプリントの上に解答の紙を乗せ、習一との間の机上に置く。その行為は三回行われた。習一が何時間もかけたものを教師は三十分程度で見納める。
「丸点けは終わりました。確認のタイミングは貴方に任せます」
 習一は手を止めて顔を上げた。採点者の顔には黄色いレンズの眼鏡がかかったままだ。
「学校でもそのサングラスをかけたまんま、採点をやってんのか?」
「いえ、普段は外します。他の色ペンと混同するおそれがありますからね。今日は赤ペンのみ持ってきたので、間違えません」
「じゃあ学校ではサングラスをかけたり外したりすんのか」
「はい」
「めんどくさいことやってんな。んなモン、なくたっていいだろ」
「私はわずらわしいと思いません。ですが、貴方と同じようにサングラスを不要だと指摘した教え子はいます。それが普通の感覚なのでしょうね」
 そう言って教師は静かに椅子を後ろに引き、立った。
「なにするんだ?」
「せっかく図書館に来たのですから本を読みます。オダギリさんもお好きなものを読んでいいですよ。切羽つまる状況ではありませんので、適度に息抜きしてください」
 悠長な助言をした教師は書架の群れへ身を投じた。本が好きなやつなのか、と習一は喫茶店での彼と昨日の少女の様子をふりかえりながら思った。少女は習一がプリントに向かう時は本を読んでいたものの、習一が昼食を食べる時は周囲を眺めていた。彼女自身は待ち時間に率先して本を読みたい、と欲する読書家ではなさそうだ。おそらくは、習一の勉学を見守る間は本を読めと教師に言われ、素直に実行していたのだろう。
 習一は己に課された問題を解く。教師は図書館の本を読んでもいいと言ったが、そんな余裕はない。鞄の重さを増やす教材は本日限りの運送にすべく、教科書を持ってきた教科のプリントを始末する。教科書を自室に置いてきたプリントは後日に回しても負担はない。そのような優先順位を設けて取り組んだ。
 十五分ほどして習一の監督者がもどる。三冊の本を机に置き、うち一冊を開く。それらは心理学にまつわる内容の表題だった。大人が子どもの行動原理を知るための本、子の目線で親の実態を見つめる本。年代を問わず普遍的な人の心情を解き明したという題名の本。
(オレの目の前でオレ対策すんのか?)
 三冊すべてが習一への対応手段を学ぶ選出のように思えた。しかし教師は子どもとその親に密に接する職務だ。習一を御するだけに万全を尽くすつもりはないだろう。その気があるなら習一と関わる日までに学習しただろうし、対象の目の前で大っぴらに学ばない。習一は自分が教師の立場に置かれた場合を考え、自身の初めの仮説を棄てた。
 習一が問題数が少なめだった束を一つ仕上げ、美術の教科書を閉じる。芸術科目は音楽との二択で授業を選ぶ。音感のない習一は消去法で美術を選択していた。教師が丸点けを完了して置いた三束の横へ、束をひょいと運ぶ。教師が読書を中断して赤ペンを手にする。ペンが走る音を聞きつつ、習一は休む間なく体育の教科書を開いた。五教科以外の実技科目は総じて問題数が少なく、前日こなした課題未満の分量。正午を過ぎるころに解答は終了できた。教師が目を通した課題の束の横に家庭科のプリントを置き、教師は本を閉じた。
「もう昼食の時間ですね。腹の具合はどうです?」
「減ってない。あんたはどうなんだ? パンとコーヒーだけで足りるのか」
「私も空腹ではありません。貴方が食事をとりにいく間、私が荷物の番をしますが」
「いい。きっちり三食食わなくても平気だ。とっとと課題をやっつけてやる」
「わかりました。早めに切り上げて夕食をしっかり食べる心積もりでいましょう」
「夕飯も食いに行くのか?」
「はい。私は料理ができませんから」
 教師の告白はつまり、前日のサンドイッチの制作者が彼ではないことを明かしている。では誰が作ったのか、という質問が習一の喉に出掛かり、飲みこんだ。現状関係のない雑談は避けるべきだと、この場の雰囲気と手持ちの課題の残量を考慮した。
 二人は昼食をとらず、午前中と同じことを午後にも繰り返した。習一は残りの五教科の理科と社会科のうち、教科書を持参した政治経済に苦戦する。教科書にない作文の解答を要求する問いでつまづいたのだ。機械的に教科書の説明を抜き出したり入れ替えたりして解ける出題ではない。出題の該当範囲にあたる教科書部分を読み返し、きっとこういう事だろうと自分なりに解釈して文章を組み立てた。快調な出だしだった午前の課題とは反対に、鈍重な進捗に突きあたる。習一は嫌気がさして、関心を周囲へ移した。
 館内には試験勉強に励む若者や、余生をもて余すかのような老人が新聞を読むほか、長机の端に親子連れがいた。父らしき男性と小学校低学年に見える男の子が向かい合って机に座り、各々が鉛筆を片手にして何ごとか言う。男の子は不平不満を募らせた表情で、薄い問題集を開いている。柔らかい顔つきの男性が喋り終えて、子は休んでいた手を動かす。もう飽きた、帰りたいなどの不服は言いくるめられたのだろう。父親のほうも分厚い本を開いてノートに書きつける作業を再開した。なぜか習一は頬の筋肉が刺激されるのを感じた。笑ったのだ。あの親子を見て。それに気づいた時、どうして笑ったのだか自分でよくわからないでいた。だが不思議と悪い気はしない。以前はそういった仲の良い親子風景を見せつけられれば、なぜ自分はああでないのだと無性にやりきれなくなっていた。今もそのわだかまりが全く生まれないわけではない。だが快の心持ちがより前面に感じられ、不快はその陰へと追いやられる。その心境の変化の要因は特定できない。あえて言うなれば、入院生活で習一が失った体力と闘争心と一緒に、負を感じとる感情も弱まった。悪い憑き物が落ちたように、習一の感受性を一般的なものへ寄りもどしたのかもしれない。
 長考がすぎたのか、習一が我を取りもどした時に教師と目が合った。彼は習一の異変を感じたようだ。習一が気まずそうに眉をしかめると彼はなにも見なかった風体で読書をする。それからの習一は顔を上げず、視線は机上の移動に限定した。
 太陽が赤みをうっすら帯びる時間帯になり、習一は朝のうちに腹に貯めた食料が完全に尽きるのを感じた。参考資料が手元にあるプリントはすべて解き終え、教師による確認も終わった。教師がペンを走らせた紙の束は積み重なったままだ。誤答の確認は自室でも簡単にできる、と踏んだ習一が放置していた。習一は教科書なしで解くプリントを前にして、ふと考える。補習の開始日は明々後日。明日と明後日は習一の予定がない。もし教師が一日および二日間とも習一の近辺にはべるのなら、間違いを訂正するだけのプリントをまた持ち運ぶ必要がある。であれば今のうちに片付けておけば効率が良い。自分が先に済ませる事柄を決定するため、習一は図書を読みふける教師に質問を投げる。
「あんたの見張り、明日も明後日もやる気か?」
「はい。明日も今日と同じように課題に励んでもらうつもりです。明後日は課題の進み具合によって予定を変えます」
「プリントは明日には全部終わるな。それなら間違いの確認をやっとくか……」
「確認が終わったら知らせてください」
 教師は男女の思考の違いについての本に目を落とす。彼は一度めに取ってきた三冊を読み終え、返却して新たに図書を複数持ってきた。タイトルは違えど人間の心理にまつわる解説本ばかり読みあさっている。職業柄、念頭に入れるべき知識なのだろうが、そこまで念入りに知る必要がこの男にあるのだろうか。
 習一は銀髪の教師とは二日程度しか顔を合わせていないとはいえ、その二日で固まった人物像は温厚篤実な紳士。彼が世間一般的な失言や失態を引き起こす様子は想像しにくい。むろん初対面では習一の癇に障るワードを出していたのだが、それは習一に必須な事柄だった。あれで習一が怒り狂ったなら、常識においてこちらの感性や理解に問題がありそうな気がした。
 得てして、他者から見てすでに一人前の域に到達しても「まだ不足がある」と学びを深める者がいる一方、本当に知識を備えるべき者は「意味のないこと」と捨て置き、自己の瑕疵をさらに拡張させていくものなのかもしれない。習一が頭に浮かべる後者は紛れもなく父親だった。
 習一は四色ボールペンの青色で正答を書き続け、教師が手を下したプリントすべてを見終わった。教師の顔を見ると彼は無言で立ち、本を携えて長机を離れる。習一はクリアファイルに紙の束を入れ、筆箱とともに鞄の中へ収めた。鞄にしまった教科書の背を触り、持参した冊数に差がないことを確かめる。私物がなくなった机を見つめ、教師の帰還を待った。ほどなくして一時的な保護者が姿を見せる。教師が黒鞄の持ち手を握った。
「外へ行きましょう」
 二人は半日過ごした公共施設を発った。館外へ出た教師は足を止める。
「夕飯の希望はありますか?」
「ない。あんたの好きにしてくれ」
「わかりました。私のあとについて来てください」
 習一は行き先を尋ねずに、髪を暗い朱に染める教師を追いかけた。教師は習一の家とは反対の方向へ向かう。その方角にはパン屋やラーメン屋など食べ物関係の店が居並ぶ。そのどれかが夕食になるのだと習一はあらかじめ想定した。

タグ:習一
posted by 三利実巳 at 00:00 | Comment(0) | 習一篇草稿
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