2018年12月09日
習一篇草稿−2章上
1
習一は授業の終わりまで座席に残った。久々の学校の風当たりと病み上がりの体力の乏しさゆえに、放課後は疲労が蓄積する。寄り道せずに帰宅し、体を洗ったあとは自室で休んだ。食欲はわかず、そのまま朝になる。起床を促したのは窓を叩く音だった。銀髪の少女が窓の縁におり、習一は窓を開ける。少女がまたも土足で部屋に踏み入れる。
「今日も学校にいこう。終業式なんだって」
「そうか。もう、夏休みになるのか」
「半日でおわるから、プリントをいくつかえらんで、すずしいところでとこうよ」
「オレが課題を進めるのを、お前が見張るのか?」
「うん。シドも明日、てつだう。はやくおわらせようね。そしたらいっぱいあそべる」
「遊ぶ、ねえ……」
習一は手近な遊びという遊びは不良生活でやり尽くした。どれも子供だましであり、心は満たされなかった。遊ぶ行為が勉学に励んだ報酬に釣り合うとは感じにくい。
「はやく学校についたら、そこでもプリントがこなせるよね。さっそくでかけよう」
「まだ飯を食ってないんだが」
「家族はいま、朝ごはんをつくってくれてる?」
家事を担当する母は習一の朝食を作らない。作っても息子は食べにこないからだ。一般的な家庭と異なる事情に直面して、習一は「いや……」と顔をそむける。すると少女はいつもの調子でリュックサックを床に下ろし、中に両手をつっこむ。ごそごそと作業したのちに白いものを出した。それはラップに包んだサンドイッチだ。
「んじゃ、これを朝ごはんにしよう」
朝食の包装には値札及びバーコードのシールがない。お手製の品だ。
「シューイチのお昼ごはんようにつくってもらった。でもお昼はお店でも食べられるね」
言って少女はサンドイッチをまたリュックサックの中へもどす。
「これは学校についたらあげる。いっしょにいこう」
少女が窓を通って外へ行く。習一は溜息を吐いたのち、制服に着替えた。先日渡されたクリアファイルを一つ鞄に入れて家を出る。家族がリビングにいたが挨拶はせず、早歩きで駆け抜けた。昨日と同じく少女が門の外で待っていた。
習一は後ろに見張り役が控えた状態で学校を目指した。平常時の登校時刻より早いせいもあって熱気は弱く、爽やかな気分で登校できた。正門の前で少女は止まる。水色の布で包んだサンドイッチと細長いステンレス製の水筒を習一に手渡す。
「終業式がおわったらここでまってる」
監視役は去った。習一は水筒を小脇に抱え、鞄と水色の包みを手に持つ。人気のない生徒玄関を通り、教室へ向かう。他の教室には数人の生徒を見かけたが、自分のクラスは誰もいなかった。昨日腰を落ち着けた席へ座り、もらった弁当の包みを広げる。サンドイッチの具はツナとレタス、卵、ハムとチーズ、とごく普通だ。イチゴのジャムを塗っただけのものもある。それぞれ二つずつあり、一袋八枚切りの食パンを丸々使ったサンドイッチのようだ。ツナサンドを一切れ食べると味はありふれたもの。マヨネーズであえたツナとしゃきしゃきしたレタスの食感がある。昨晩何も食べなかったせいか、普通な食事が口の中に染み渡った。一口、二口と次々ほおばる。二切れめを食べかかる頃には口の中の水分が減って飲みこみが悪くなり、水筒の茶を蓋代わりのコップに入れる。飲むと冷たい茶が喉をすっと流れていく感触がわかった。
(手料理……いつ食ったっけ?)
手作りの食事を長い間口にしなかった。習一は他の生徒の当たり前を、自分が享受することに妙な感覚を覚えた。そしてこの食事は誰が用意したものか推測する。
習一に食べ物を届けた少女は「作ってもらった」と言った。彼女の作ではない。では彼女を手配した教師が作ったのだろうか。万事を無難にやりそうな男ゆえ、料理ができても驚きはしない。しかし「もらった」という他人行儀な表現は第三者の存在を匂わせた。
銀髪の彼ら以外にも習一の支援者がいる。その仮説を胸に秘め、四種のパンを一つずつ平らげた。満腹には達しないものの、半分は昼食用に残しておく。己のために弁当を作った者がいるという、誰とは知れぬ存在の実感を惜しく感じた。
用済みのラップをくしゃくしゃに丸め、室内の片隅にあるゴミ箱へ捨てる。蓋をどけて見た中身は空っぽだった。掃除をきちんとこなす生徒がいる証拠だ。他校の生徒の雑談で「ゴミ箱にゴミがあふれてて使えない」と耳にしたことを思い出す。そんな事態は起こりえない学校なのだ──習一という異端児を除いて。
廊下からキュキュっという足音が響く。滑り止めのゴムがすれた時によく鳴る、生徒が常用する靴音だ。誰かが登校してきたのだ。習一は自席につき、食糧を鞄に収めた。入れかわりにクリアファイルと筆記用具を出す。ファイルの中には数枚のプリントをステープラで留めた束が三種類あった。国語と数学と英語。どれも二年生の一学期で学んだ範囲らしい。習一が去年に学習した部分だ。習一は初めに数学に手をつけることにした。自分がどれほど記憶を保持しているか、最もわかりやすく判定できる科目だ。
筆箱の中をかきわけてシャープペンシルを探す。かちゃかちゃと鳴る文具の音に足音も重なった。廊下で発生した音源が室内へと移る。生徒が入室したとわかった習一は少し首を動かし、目の端で人影を探った。影はゆっくりと習一に近付いてくる。
「小田切さん、おはよう。ずいぶん早いんだな」
入室者はまるで普通の生徒と接するかのごとく習一に挨拶をした。そんな物好きは学年に一人いる。習一は生徒を正視した。身長一八〇センチほどの体格の良い男子だ。彼は習一の一つ年下だが同じクラスの同級生。名字を白壁という。変な名前だと思ったが最後、習一は彼の名を忘却できないでいた。
「ああ、あんたもな」
無愛想に返答し、プリントに視線をもどす。無関心を装う習一に白壁は屈さず、隣席に座る。そこは彼の席ではない。それは昨日の授業に参加した習一がよく知っていた。
「そのプリント、夏休みの宿題じゃないな」
全くの敵意も警戒もなしに会話を続けられて、習一は少し混乱する。他の生徒は不良な習一を腫れ物のように危険視し、関わろうとしない。白壁は感性が常人離れしているのか、習一の数少ない一学期の登校日にも今の調子で話しかけてきた。喧嘩の強い習一の怒りを買っても平気だという自信があっての行動だ、と習一は声には出さず思った。彼は中学時代の空手の好成績を評価されて入学を果たした噂がある。
「おれは朝練をしに来たんだが今日はないのを失念していた。物覚えが悪くていかんな」
白壁は習一が会話に加わらないのを不愉快とせず、しゃべり続ける。
「小田切さんはその課題をこなしに早く登校したのか? 家じゃ、集中できないか」
「なんで、それを聞く?」
「親と仲が悪いから……荒れてるって聞いたんでな」
それは真実だ。習一は親への憎しみから悪事を厭わぬ悪童へ転向した。その事情を誰から聞いたか、およその見当はつく。それは昨日、ただ一人習一を気にかけた教師だ。
「他人が口出しすることじゃないが、もったいないな。荒れる前の成績はトップだったんだって? すごく出来がいいんだな。下から数えたほうが早いおれとは大違いだ」
白壁が空手バカだという評判は習一も聞いていた。とはいえ、落第生になるほど馬鹿でもなさそうだった。健全な肉体と精神を持つ男子は「なのに」と声を低める。
「わざと留年して親に恥をかかせて……今はそれで気が済むんだろうけど、せっかくの自分の将来をダメにするの、惜しくないか?」
習一は答えない。白壁の主張は全くの正論だと熟知している。己の愚行は自分自身がよくわかる。だが、それ以外にできる抵抗の手段がなかった。
「親だけじゃない。ここの教師もどうか、というやつはいる。そいつらに刃向ってるだけじゃ、自分のためになってないと思うんだ。なあ、小田切さんは本当はなにがしたい? おれが空手に打ち込むような、やりがいのあることはないのかな」
「ないな、なにも……どれもつまんねえよ」
白壁の言葉がわずらわしいのだが邪険に扱えなかった。彼は真っ正直に習一の身を案じている。善意を悪意で振り払えるほど、習一は悪に染まっていなかった。ふたたび黙して問題を解く。やむかたなし、といった様子で白壁は席を立った。
「才穎高校には寮があるんだとさ。先生たちは結構おもしろいらしいし、そこなら小田切さんの居場所が見つかるかもしれないな」
白壁は暗に習一の一人立ちを勧め、自席へ着いた。習一は頭を起こして彼の姿をはっきりと捉える。前列の席に座る生徒の背はしゃんとしていて、広かった。
2
終業式を無事終えた後、習一は逃げるように校舎を離れた。正門の柱の前で銀髪の少女が待ちぼうけていた、習一が校門を出ると「お昼ごはん、どうする?」との打診を受ける。
「今朝もらったもんが残ってる。デパートに行って涼みながら食う」
「それで足りる?」
「……さあ。喫茶店でプリントを片付けて、腹が減ったら何か注文するかな」
「うん、それいいね」
日射はアスファルトを焼きつくし、遠景を歪めていた。近道を試み、乗用車の通行の隙間をついて道路を渡った。
到着したデパートには出入りする客が少なかった。夕方になれば人がどっと押し寄せる。習一の目当ては客が休憩する椅子だ。ここには規模が小さいながらもフードコートがあり、そこで座席を得る。休日の昼間でもなければ利用客で埋まることのない場所だ。この場で宿題をするつもりはない。他の席を区切る衝立がなく、机のスペースも狭い場では集中しづらいのだ。
誰かが座ったであろう、机と椅子が離れたままの席がある。そこに少女が腰をおろした。習一はその隣の席に座り、残しておいた弁当を広げた。少女はデパートが物珍しいようで、周囲をきょろきょろ見ている。習一と世間話をする気はないらしい。それは習一としてもありがたいことだった。
食事を終え、空になったラップをゴミ箱へ捨てる。弁当を包んでいた布を四角に畳み、水筒と一緒に鞄へ入れた。習一の片付けを見た少女が席を立つ。次なる目的地は一戸建てのチェーン店だ。デパートで体に補充した冷気を失う前に到達できた。赤と茶を基調としたレンガ屋敷風の店に入ろうとすると「さきに入ってて」と少女が言い、姿を消した。習一は彼女の行動を不思議に思いながらも、入口の取っ手を押した。店員の案内を受け、四人掛けのテーブル席に座る。冷房の空気にさらされたソファはひんやりしていた。
習一は銀髪の少女が姿をくらます理由を考えた。彼女が習一と一緒にいてはできないこと。習一は冷えたテーブルに手を置いて、一つの想像にたどりつく。
(シドってやつと連絡してんのか?)
これには一人、得心がいった。習一が式典に参加したこと、今から課題を処理しようとすることを知らせるのだ。これらの経過状況はあの教師が気を揉むはず。彼の思惑通りの行動をこなす習一に恥じる箇所はない。教師が望む勉学に集中するためにも飲料を確保しに席を立った。
習一が無料の冷水を氷と共にコップにそそぐ最中、少女は帰ってきた。彼女は瞬時に習一の姿を認め、習一の鞄のあるテーブルへ迷わず歩いた。習一は彼女の分の水も必要だろうか、と考える。だが余計な世話かもしれぬと思い、自分のコップだけを持ってソファに座った。
少女はソファの端にいた。リュックサックをひざの上に置いて、ブックカバーのついた文庫本を読む。彼女とは斜めに対面した状態で習一も勉強道具を机に広げた。朝に中断した数学の問題を解答する。両者は一言も発さずに各々の世界へ没入した。
二人の静寂を打ち破る者が一人、あらわれる。
「オダさん! 元気になったんスね!」
無邪気な子どもの名残りをもつ声が習一に届いた。目線を上げれば他校の知り合いがいる。短く刈り上げた頭髪以外は平凡な外見だ。彼は感情の起伏が激しく、一度沸点まで加熱すると歯止めが利かなくなるクセがあるが、今は屈託のない笑顔を作る。
「ああ、田淵は変わんねえな。今日は一人か? あとの二人はどうした」
刈り上げ髪の男子は急激に浮かない顔をする。田淵には同じ学校の悪友が二人おり、みな習一とは不良仲間。暇ができれば三人は固まって活動しているのだと習一は考えていた。
「……もう不良はやめたって、更生しちゃったんスよ」
習一は眉を上げた。彼らとて習一同様、周囲との衝突があってならず者に身を落とした。やすやすと心を入れ替えるはずはない。習一がいない一ヶ月間に変化が起きたというのか。
「どういうワケがあったんだ? オレが眠りほうけてる間に、なにが起きた?」
田淵は申し訳なさそうに眉や口を顔の中央に寄せる。ごく当たり前のように銀髪の少女の隣に座った。彼の視線はテーブルに落ちている。
「最初のきっかけは、才穎高校の教師っスよ」
「銀髪の……?」
「そう! あの銀髪野郎、オダさんの首を締めあげて気絶させやがった。そんで『こうなりたくなかったら真面目に生きろ』と言ってさ……おれたち、すっかりブルっちまった」
習一には身におぼえのない出来事だ。それを正直に打ち明けるのは悪手だと感じた。殺人未遂にひとしい暴力をふるわれていながら、記憶に留めていないのはおかしなことだ。伝聞でしか事情を知らぬ掛尾はともかく、その場にいた当事者は情報提供そっちのけで混乱しかねない。習一は知ったかぶりをしておいた。
「おれはオダさんがやられるとこを見てなかったんスけど、やり取りは聞こえてました。ほかの二人は現場を見てて、教師にガン飛ばされたから、おれよりずっとビビってて」
うつむいていた田淵が上目づかいで習一の顔色を確かめ、また視線を下にやった。
「オダさんが『連中に仕返しをする』と計画を練っても、みんな気が乗らなかった。イライラするオダさんは怖いけど、あの銀髪はもっと怖い。だからずるずる計画を延ばして……」
習一は話者を怖がらせないよう、顔色を変えずに黙った。男子は格上な少年をちらりと見て、また過去を述べる。
「ある日、変な男が現れたんス。『才穎高校の生徒に報復する気はあるのか』と聞いてきて……ない、と言ったらいなくなった。ほかの二人も同じ夜に同じ男が同じことを聞いて消えたと言って、もう不気味で。だって、いつの間にか知らない男が部屋にいたんスよ。音もなく侵入できるやつってオバケしかいないでしょ? そんなやつ、逆らっても勝ち目ないっスよ。そいつが現れたあとにオダさんが入院しちまったし、もうこれ潮時だなって」
「銀髪の言うことを聞かなけりゃ自分らも危ない……と感じたわけか」
「ハイ……情けないでしょうけど、それが本音です。おれたち、あんなおっかない思いをしてまで不良はやりたくないっス……」
幽霊などと非科学的な存在を習一は鵜呑みにしない。だが興味をそそる語句が顕在した。
「『オバケみたいな男』は銀髪の教師とは違うのか?」
才穎高校の生徒への復讐を果たされて困るのは銀髪の教師。現段階の話において、幽霊男は全くの部外者のはずだ。
「え? ハイ、別人っス。二人もおれと同じ男を言ってたし、まちがいないっスよ。スゲーむきむきでデケエ男でした。黒っぽい肌は銀髪と似てましたけど、体は別モンっス」
「髪の色はどうだった?」
「髪は……印象に残ってないっス。みんなも『帽子を被ってた』と言ってました」
仮に幽霊じみた男の髪が銀色であれば、ある推測が成り立つ。病院に押しかけてきたヤクザ風の男が捜し求める、彼と同様の屈強な大男だ。その男が田淵たちの部屋に無断訪問した男と同一だとしたら。光葉が得た、銀髪かつ色黒の大男がこの地域にいるというタレコミは正しい。おまけに、その大男は帽子を常用すると光葉は言った。
「あのう……オダさん、オバケ男の正体に心当たりがあるんスか?」
「ああ、そいつと手を組んでるらしい男に会う予定だ。そんときにちょっと聞いてみる」
習一が軽い気持ちで発した提案に、田淵は色めきたつ。
「ひょっとしてあの暴力教師に? 危ないっスよ、またやられちまうっス!」
「平気だ。もう病院で一回会ってる」
田淵が上体をのけぞって驚愕した。手ごわい敵と遭遇して、なんともない状態がよほど信じられないようだ。
「病院で会っただけじゃない、これからオレの復学の手伝いをするんだとよ。ご丁寧に補習の話をこぎつけて、面倒な課題をプレゼントしてくれやがったぜ」
習一は解答途中の数学のプリントを掲げた。田淵がちんぷんかんぷんであろう問題を凝視する間、習一は彼の隣席の少女に目をやる。彼女は二人の会話を耳にしていないかのように読書に没頭していた。少女による話題提供が期待できないと習一は悟る。
「今はあの銀髪がオレの味方らしいぞ。もし町中で会ってもビビるこたぁねえ」
「まじっスか? でも、あいつは真面目に生きればなにもしない、と言ってたしな……」
田淵は半信半疑で目を泳がせる。習一は教師にまつわる話題を切り上げようとした。
「ところで、お前は飯を食いに来たのか?」
「あ、ハイ。テキトーに涼しいところで食おうかな、と……でもオダさんのジャマしちゃまずいっスね。オダさんも真面目にしよう、と思ったからガンバってるんでしょ?」
「どうだかな。ま、飯を食いたいなら違う席か店に移ってくれ。お前といると進まねえ」
田淵が片手を後頭部にあてて「すんません」と目を細める。そうして店を出ていった。彼は最後まで銀髪の少女について言及をしなかった。本当に気付かなかったのだろうか。
「なぁ、さっきの野郎、お前を完全に無視してたよな」
「うん。気配、なくしてるせい」
「そういうもんか? 絶対視界に入ってたと思ったんだが」
「すぎたことはいいから、がんぱって問題をといてね」
少女は課題の進行を急かす。習一は冷たいやつだと評を下した。しかし課題をこなさねばあとで大変な目に遭うのは自明の理。仕方なく中断していた解答を再開した。
3
習一は日没を過ぎても喫茶店に居座った。時間を経るごとに通路を行き交う人が替わる様子を尻目に、手持ちの課題をすべて解いた。この場でできる役目を果たすと、きゅるきゅる鳴る腹を鎮める目的で料理を頼んだ。同席者の銀髪の少女にもメニューを見せて夕飯をすすめたが、彼女は遠慮した。習一を出迎えたあとの少女は水すら口にしていない。
(飯を食えねえのか? 宗教でそんなのあったな……)
どこぞの宗教では昼以降、食事を禁じることがあるという。そんな戒律を遵守する敬虔な宗教家でなかったとしても相手は女。減量目的で食事を控えることも予想して、習一は自分一人だけの夕食をとった。昨日今日と穀物類の食事が多かったので、栄養の均衡を考慮してメインの肉料理以外にサラダも食う。肉体が十全な状態にならないうちは別段好きでもない野菜を摂取するのが身の為だ、と自己判断した。
同じ系列ならどの店も同じ味の料理をたいらげ、習一は氷が飲料に変じた水を飲んだ。クッションのきいた背もたれに寄りかかって天井を見た。喫茶店に長居し、腹がすけば料理を注文をする。そんな過ごし方は以前によくあった。それはこの地域一の難関校と呼び声高い、現在所属する高校への受験勉強に励んでいた時だ。
当時、母は息子を塾へ通わせてはどうか、と父にすすめたが「中学程度の勉強に塾は必要ない」と一蹴された。習一には自習が自分にできる学力向上の手段だった。家の中では能天気な妹が騒がしく、彼女が寝入る夜以外は自室での勉強がはかどらない。喫茶店以外に近隣の図書館に行くこともあったが、食事をとりに移動するたびに荷物を整理する手間が煩わしかった。また利用客が大勢いると使える机のスペースが手狭になるのを嫌い、喫茶店に足しげく通った。優等生であったころの自分と、落第を免れるために一仕事を終えた自分が重なる。習一はその対比を鼻で笑った。
「そろそろおうちにかえる?」
習一は我に返った。その提案を受理するには気が重いのだが、そうするべきだとも理解できる。現在こなせる課題は無くなった。腹を満たした時点で喫茶店に留まる理由はない。
「あしたはシドが一日、シューイチにつきそうの。今晩のうちにゆっくり休もうね」
「ああ……お前は明日、来ないのか?」
「うん。でも、シドによばれたらくるよ」
少女は本をリュックサックの中へしまった。習一も荷物を片付け、忘れ物がないことを机上とその下、ソファを一瞥して確かめる。少女が「ごはんのお金わたそうか」と言うので首を横に振った。
会計を終えると少女は店内におらず、軒先で彼女を見つける。習一は正門での邂逅と同じく、少女に声をかけずに歩いた。アスファルトは日中の熱を溜めこみ、ほんのり熱を放出する。多少蒸し暑いが昼間とは段違いに涼しい。習一はゆるい歩調で家を目指した。
家の居間には電灯が点いていた。家主はもう帰宅した頃か。妹は学習塾に行って不在だろう。そう考えながら鉄格子に触れた。
「そうそう、サンドイッチをくるんでた布と水筒、ちょうだい」
習一は借り物があることを思い出し、鞄に手を入れた。畳んだの布と軽くなった水筒を少女に返す。水筒はちゃぽん、と茶が揺らぐ音を立てた。
リュックサックのファスナーを閉めた少女は背に荷物を担ぎ、じっと習一を見た。
「なんだよ、早いとこお前も帰れ」
「おうちに入るところをみとどけて、って言われてる」
「蚊が飛びまわる時期に野宿なんかしねえよ」
そう吐き捨てた習一は家の敷地内に入り、玄関へと足を踏みこむ。手に汗がにじむのがわかった。暑さの影響ではない。緊張しているのだ。靴を乱雑に脱ぎすて、電灯に照らされた廊下を一直線に進む。フローリング張りの居間からテレビの音が鳴っていた。
脱衣場の戸に鍵を閉め、服を脱ぐ。汗を吸った制服のポケットを空にしたのちに室内の洗濯機へ放りこんだ。洗濯物は乾燥後、脱衣場の棚にしまわれる。体を洗ったら棚にある衣類を着て自室にもどる。それがいつものやり方だった。
習一は簡単にシャワーを浴びる。液体石けんを泡立てて体を洗い、ふと風呂場の鏡に注目した。昨日や院内の浴場では意識する余裕がなかった映写だ。そこに映る顔はやつれていた。おもな原因は一ヶ月の絶食だろう。習一は貧相な顔だと思った。以前は獣じみた勢いがにじみ出ていたはずだが、すっかり毒気を抜かれたようだ。攻撃性を失った面構えの次に頭髪が目についた。髪の根元が黒く、それ以外は脱色した色でいるアンバランスさに苦笑する。いっそ田淵のように髪を刈って黒髪にするか、と思案した。
伸びた髪を洗い、泡を流して風呂場を出る。タオルで全身をわしわしと拭いた。濡れたタオルを洗濯機に投げ入れ、新しい服に着替える。生乾きの髪をそのままにして鞄をつかみ、居間の横を素通りする。テレビの音は聞こえなかった。
「おい、待て」
階段に足を着けた時に男の声がした。習一は踏みとどまり、声の主に一応従う。
「散々迷惑をかけておいて挨拶もなしか?」
怒りと叱責が混合した、重圧を感じさせる物言いだった。習一は首だけを動かして男を見る。居間の入り口に中年が立っていた。ネクタイは首に巻いていないが、まだスーツ姿でいる。
「お前が夜遊びなんぞするから入院するはめになったんだ。入院費だって馬鹿にならんのだぞ……聞いているのか?」
習一は男の問いを無視した。とんとん、と上階へのぼると足音が二重になる。突然習一の片足は動かなくなった。男が足首をつかんでいる。
「いつまで醜態をさらし続ける気だ? 親に礼や謝罪の一つぐらい言えないのか!」
男の憤怒が表出する。足首を握る手に圧がかかった。習一は拘束された足を上下左右に振ってみるが、男の手は離れない。
「なんとか言ったらどうなんだ、この──」
「金食い虫の恥さらし。そう言いたいのか?」
男は目をかっと見開き、口ごもる。開口一番で聞けた言葉が図星を突いたらしい。
「毎度毎度、金と体面が大事なんだな。いっそ金で優秀な息子を買ったらどうだ?」
男はわなわなと全身を震わせる。その顔は醜くゆがんだ。
「きっとあんたの薄っぺらい自尊心をくすぐってくれるだろうよ」
「親を馬鹿にする皮肉ばっかりこきやがって!」
習一を捕縛する手が乱暴に動く。習一は階段のへりをつかむ。転倒を防げたが状況は悪い。平時なら体力面で勝る相手といえど今は病み上がり。このままでは逆上した男に体勢を崩され、演劇でしばしば行なわれる階段落ちを演じるはめになる。あれは芝居でも相当痛いことをどこかで耳にした。衝撃から身を守る肉が薄い者では殊更痛いだろう。どう打開すべきか──男の怒りを鎮める手段は思いつくものの、実行の意欲は微塵も湧かなかった。
がたん、と重い物がぶつかる音がした。なぜか足の呪縛が解かれる。習一がふりむくと男が両手で頭を押さえ、苦痛に耐えていた。その足元には油絵の絵画がある。それは習一の物心ついた時から階段の壁に飾られていた絵だ。丈夫な金属製のワイヤーで吊るしてあり、経年劣化で落下する代物ではない。地震が起きていないのに、と習一は不思議がる一方で好機だと思った。悶絶する男を放置して二階の自室へ入る。鍵をかけ、深い息を吐いた。
(運が、よかったな……)
鞄を適当に放り投げ、自身の体も寝台へぽすんと投げた。
習一は授業の終わりまで座席に残った。久々の学校の風当たりと病み上がりの体力の乏しさゆえに、放課後は疲労が蓄積する。寄り道せずに帰宅し、体を洗ったあとは自室で休んだ。食欲はわかず、そのまま朝になる。起床を促したのは窓を叩く音だった。銀髪の少女が窓の縁におり、習一は窓を開ける。少女がまたも土足で部屋に踏み入れる。
「今日も学校にいこう。終業式なんだって」
「そうか。もう、夏休みになるのか」
「半日でおわるから、プリントをいくつかえらんで、すずしいところでとこうよ」
「オレが課題を進めるのを、お前が見張るのか?」
「うん。シドも明日、てつだう。はやくおわらせようね。そしたらいっぱいあそべる」
「遊ぶ、ねえ……」
習一は手近な遊びという遊びは不良生活でやり尽くした。どれも子供だましであり、心は満たされなかった。遊ぶ行為が勉学に励んだ報酬に釣り合うとは感じにくい。
「はやく学校についたら、そこでもプリントがこなせるよね。さっそくでかけよう」
「まだ飯を食ってないんだが」
「家族はいま、朝ごはんをつくってくれてる?」
家事を担当する母は習一の朝食を作らない。作っても息子は食べにこないからだ。一般的な家庭と異なる事情に直面して、習一は「いや……」と顔をそむける。すると少女はいつもの調子でリュックサックを床に下ろし、中に両手をつっこむ。ごそごそと作業したのちに白いものを出した。それはラップに包んだサンドイッチだ。
「んじゃ、これを朝ごはんにしよう」
朝食の包装には値札及びバーコードのシールがない。お手製の品だ。
「シューイチのお昼ごはんようにつくってもらった。でもお昼はお店でも食べられるね」
言って少女はサンドイッチをまたリュックサックの中へもどす。
「これは学校についたらあげる。いっしょにいこう」
少女が窓を通って外へ行く。習一は溜息を吐いたのち、制服に着替えた。先日渡されたクリアファイルを一つ鞄に入れて家を出る。家族がリビングにいたが挨拶はせず、早歩きで駆け抜けた。昨日と同じく少女が門の外で待っていた。
習一は後ろに見張り役が控えた状態で学校を目指した。平常時の登校時刻より早いせいもあって熱気は弱く、爽やかな気分で登校できた。正門の前で少女は止まる。水色の布で包んだサンドイッチと細長いステンレス製の水筒を習一に手渡す。
「終業式がおわったらここでまってる」
監視役は去った。習一は水筒を小脇に抱え、鞄と水色の包みを手に持つ。人気のない生徒玄関を通り、教室へ向かう。他の教室には数人の生徒を見かけたが、自分のクラスは誰もいなかった。昨日腰を落ち着けた席へ座り、もらった弁当の包みを広げる。サンドイッチの具はツナとレタス、卵、ハムとチーズ、とごく普通だ。イチゴのジャムを塗っただけのものもある。それぞれ二つずつあり、一袋八枚切りの食パンを丸々使ったサンドイッチのようだ。ツナサンドを一切れ食べると味はありふれたもの。マヨネーズであえたツナとしゃきしゃきしたレタスの食感がある。昨晩何も食べなかったせいか、普通な食事が口の中に染み渡った。一口、二口と次々ほおばる。二切れめを食べかかる頃には口の中の水分が減って飲みこみが悪くなり、水筒の茶を蓋代わりのコップに入れる。飲むと冷たい茶が喉をすっと流れていく感触がわかった。
(手料理……いつ食ったっけ?)
手作りの食事を長い間口にしなかった。習一は他の生徒の当たり前を、自分が享受することに妙な感覚を覚えた。そしてこの食事は誰が用意したものか推測する。
習一に食べ物を届けた少女は「作ってもらった」と言った。彼女の作ではない。では彼女を手配した教師が作ったのだろうか。万事を無難にやりそうな男ゆえ、料理ができても驚きはしない。しかし「もらった」という他人行儀な表現は第三者の存在を匂わせた。
銀髪の彼ら以外にも習一の支援者がいる。その仮説を胸に秘め、四種のパンを一つずつ平らげた。満腹には達しないものの、半分は昼食用に残しておく。己のために弁当を作った者がいるという、誰とは知れぬ存在の実感を惜しく感じた。
用済みのラップをくしゃくしゃに丸め、室内の片隅にあるゴミ箱へ捨てる。蓋をどけて見た中身は空っぽだった。掃除をきちんとこなす生徒がいる証拠だ。他校の生徒の雑談で「ゴミ箱にゴミがあふれてて使えない」と耳にしたことを思い出す。そんな事態は起こりえない学校なのだ──習一という異端児を除いて。
廊下からキュキュっという足音が響く。滑り止めのゴムがすれた時によく鳴る、生徒が常用する靴音だ。誰かが登校してきたのだ。習一は自席につき、食糧を鞄に収めた。入れかわりにクリアファイルと筆記用具を出す。ファイルの中には数枚のプリントをステープラで留めた束が三種類あった。国語と数学と英語。どれも二年生の一学期で学んだ範囲らしい。習一が去年に学習した部分だ。習一は初めに数学に手をつけることにした。自分がどれほど記憶を保持しているか、最もわかりやすく判定できる科目だ。
筆箱の中をかきわけてシャープペンシルを探す。かちゃかちゃと鳴る文具の音に足音も重なった。廊下で発生した音源が室内へと移る。生徒が入室したとわかった習一は少し首を動かし、目の端で人影を探った。影はゆっくりと習一に近付いてくる。
「小田切さん、おはよう。ずいぶん早いんだな」
入室者はまるで普通の生徒と接するかのごとく習一に挨拶をした。そんな物好きは学年に一人いる。習一は生徒を正視した。身長一八〇センチほどの体格の良い男子だ。彼は習一の一つ年下だが同じクラスの同級生。名字を白壁という。変な名前だと思ったが最後、習一は彼の名を忘却できないでいた。
「ああ、あんたもな」
無愛想に返答し、プリントに視線をもどす。無関心を装う習一に白壁は屈さず、隣席に座る。そこは彼の席ではない。それは昨日の授業に参加した習一がよく知っていた。
「そのプリント、夏休みの宿題じゃないな」
全くの敵意も警戒もなしに会話を続けられて、習一は少し混乱する。他の生徒は不良な習一を腫れ物のように危険視し、関わろうとしない。白壁は感性が常人離れしているのか、習一の数少ない一学期の登校日にも今の調子で話しかけてきた。喧嘩の強い習一の怒りを買っても平気だという自信があっての行動だ、と習一は声には出さず思った。彼は中学時代の空手の好成績を評価されて入学を果たした噂がある。
「おれは朝練をしに来たんだが今日はないのを失念していた。物覚えが悪くていかんな」
白壁は習一が会話に加わらないのを不愉快とせず、しゃべり続ける。
「小田切さんはその課題をこなしに早く登校したのか? 家じゃ、集中できないか」
「なんで、それを聞く?」
「親と仲が悪いから……荒れてるって聞いたんでな」
それは真実だ。習一は親への憎しみから悪事を厭わぬ悪童へ転向した。その事情を誰から聞いたか、およその見当はつく。それは昨日、ただ一人習一を気にかけた教師だ。
「他人が口出しすることじゃないが、もったいないな。荒れる前の成績はトップだったんだって? すごく出来がいいんだな。下から数えたほうが早いおれとは大違いだ」
白壁が空手バカだという評判は習一も聞いていた。とはいえ、落第生になるほど馬鹿でもなさそうだった。健全な肉体と精神を持つ男子は「なのに」と声を低める。
「わざと留年して親に恥をかかせて……今はそれで気が済むんだろうけど、せっかくの自分の将来をダメにするの、惜しくないか?」
習一は答えない。白壁の主張は全くの正論だと熟知している。己の愚行は自分自身がよくわかる。だが、それ以外にできる抵抗の手段がなかった。
「親だけじゃない。ここの教師もどうか、というやつはいる。そいつらに刃向ってるだけじゃ、自分のためになってないと思うんだ。なあ、小田切さんは本当はなにがしたい? おれが空手に打ち込むような、やりがいのあることはないのかな」
「ないな、なにも……どれもつまんねえよ」
白壁の言葉がわずらわしいのだが邪険に扱えなかった。彼は真っ正直に習一の身を案じている。善意を悪意で振り払えるほど、習一は悪に染まっていなかった。ふたたび黙して問題を解く。やむかたなし、といった様子で白壁は席を立った。
「才穎高校には寮があるんだとさ。先生たちは結構おもしろいらしいし、そこなら小田切さんの居場所が見つかるかもしれないな」
白壁は暗に習一の一人立ちを勧め、自席へ着いた。習一は頭を起こして彼の姿をはっきりと捉える。前列の席に座る生徒の背はしゃんとしていて、広かった。
2
終業式を無事終えた後、習一は逃げるように校舎を離れた。正門の柱の前で銀髪の少女が待ちぼうけていた、習一が校門を出ると「お昼ごはん、どうする?」との打診を受ける。
「今朝もらったもんが残ってる。デパートに行って涼みながら食う」
「それで足りる?」
「……さあ。喫茶店でプリントを片付けて、腹が減ったら何か注文するかな」
「うん、それいいね」
日射はアスファルトを焼きつくし、遠景を歪めていた。近道を試み、乗用車の通行の隙間をついて道路を渡った。
到着したデパートには出入りする客が少なかった。夕方になれば人がどっと押し寄せる。習一の目当ては客が休憩する椅子だ。ここには規模が小さいながらもフードコートがあり、そこで座席を得る。休日の昼間でもなければ利用客で埋まることのない場所だ。この場で宿題をするつもりはない。他の席を区切る衝立がなく、机のスペースも狭い場では集中しづらいのだ。
誰かが座ったであろう、机と椅子が離れたままの席がある。そこに少女が腰をおろした。習一はその隣の席に座り、残しておいた弁当を広げた。少女はデパートが物珍しいようで、周囲をきょろきょろ見ている。習一と世間話をする気はないらしい。それは習一としてもありがたいことだった。
食事を終え、空になったラップをゴミ箱へ捨てる。弁当を包んでいた布を四角に畳み、水筒と一緒に鞄へ入れた。習一の片付けを見た少女が席を立つ。次なる目的地は一戸建てのチェーン店だ。デパートで体に補充した冷気を失う前に到達できた。赤と茶を基調としたレンガ屋敷風の店に入ろうとすると「さきに入ってて」と少女が言い、姿を消した。習一は彼女の行動を不思議に思いながらも、入口の取っ手を押した。店員の案内を受け、四人掛けのテーブル席に座る。冷房の空気にさらされたソファはひんやりしていた。
習一は銀髪の少女が姿をくらます理由を考えた。彼女が習一と一緒にいてはできないこと。習一は冷えたテーブルに手を置いて、一つの想像にたどりつく。
(シドってやつと連絡してんのか?)
これには一人、得心がいった。習一が式典に参加したこと、今から課題を処理しようとすることを知らせるのだ。これらの経過状況はあの教師が気を揉むはず。彼の思惑通りの行動をこなす習一に恥じる箇所はない。教師が望む勉学に集中するためにも飲料を確保しに席を立った。
習一が無料の冷水を氷と共にコップにそそぐ最中、少女は帰ってきた。彼女は瞬時に習一の姿を認め、習一の鞄のあるテーブルへ迷わず歩いた。習一は彼女の分の水も必要だろうか、と考える。だが余計な世話かもしれぬと思い、自分のコップだけを持ってソファに座った。
少女はソファの端にいた。リュックサックをひざの上に置いて、ブックカバーのついた文庫本を読む。彼女とは斜めに対面した状態で習一も勉強道具を机に広げた。朝に中断した数学の問題を解答する。両者は一言も発さずに各々の世界へ没入した。
二人の静寂を打ち破る者が一人、あらわれる。
「オダさん! 元気になったんスね!」
無邪気な子どもの名残りをもつ声が習一に届いた。目線を上げれば他校の知り合いがいる。短く刈り上げた頭髪以外は平凡な外見だ。彼は感情の起伏が激しく、一度沸点まで加熱すると歯止めが利かなくなるクセがあるが、今は屈託のない笑顔を作る。
「ああ、田淵は変わんねえな。今日は一人か? あとの二人はどうした」
刈り上げ髪の男子は急激に浮かない顔をする。田淵には同じ学校の悪友が二人おり、みな習一とは不良仲間。暇ができれば三人は固まって活動しているのだと習一は考えていた。
「……もう不良はやめたって、更生しちゃったんスよ」
習一は眉を上げた。彼らとて習一同様、周囲との衝突があってならず者に身を落とした。やすやすと心を入れ替えるはずはない。習一がいない一ヶ月間に変化が起きたというのか。
「どういうワケがあったんだ? オレが眠りほうけてる間に、なにが起きた?」
田淵は申し訳なさそうに眉や口を顔の中央に寄せる。ごく当たり前のように銀髪の少女の隣に座った。彼の視線はテーブルに落ちている。
「最初のきっかけは、才穎高校の教師っスよ」
「銀髪の……?」
「そう! あの銀髪野郎、オダさんの首を締めあげて気絶させやがった。そんで『こうなりたくなかったら真面目に生きろ』と言ってさ……おれたち、すっかりブルっちまった」
習一には身におぼえのない出来事だ。それを正直に打ち明けるのは悪手だと感じた。殺人未遂にひとしい暴力をふるわれていながら、記憶に留めていないのはおかしなことだ。伝聞でしか事情を知らぬ掛尾はともかく、その場にいた当事者は情報提供そっちのけで混乱しかねない。習一は知ったかぶりをしておいた。
「おれはオダさんがやられるとこを見てなかったんスけど、やり取りは聞こえてました。ほかの二人は現場を見てて、教師にガン飛ばされたから、おれよりずっとビビってて」
うつむいていた田淵が上目づかいで習一の顔色を確かめ、また視線を下にやった。
「オダさんが『連中に仕返しをする』と計画を練っても、みんな気が乗らなかった。イライラするオダさんは怖いけど、あの銀髪はもっと怖い。だからずるずる計画を延ばして……」
習一は話者を怖がらせないよう、顔色を変えずに黙った。男子は格上な少年をちらりと見て、また過去を述べる。
「ある日、変な男が現れたんス。『才穎高校の生徒に報復する気はあるのか』と聞いてきて……ない、と言ったらいなくなった。ほかの二人も同じ夜に同じ男が同じことを聞いて消えたと言って、もう不気味で。だって、いつの間にか知らない男が部屋にいたんスよ。音もなく侵入できるやつってオバケしかいないでしょ? そんなやつ、逆らっても勝ち目ないっスよ。そいつが現れたあとにオダさんが入院しちまったし、もうこれ潮時だなって」
「銀髪の言うことを聞かなけりゃ自分らも危ない……と感じたわけか」
「ハイ……情けないでしょうけど、それが本音です。おれたち、あんなおっかない思いをしてまで不良はやりたくないっス……」
幽霊などと非科学的な存在を習一は鵜呑みにしない。だが興味をそそる語句が顕在した。
「『オバケみたいな男』は銀髪の教師とは違うのか?」
才穎高校の生徒への復讐を果たされて困るのは銀髪の教師。現段階の話において、幽霊男は全くの部外者のはずだ。
「え? ハイ、別人っス。二人もおれと同じ男を言ってたし、まちがいないっスよ。スゲーむきむきでデケエ男でした。黒っぽい肌は銀髪と似てましたけど、体は別モンっス」
「髪の色はどうだった?」
「髪は……印象に残ってないっス。みんなも『帽子を被ってた』と言ってました」
仮に幽霊じみた男の髪が銀色であれば、ある推測が成り立つ。病院に押しかけてきたヤクザ風の男が捜し求める、彼と同様の屈強な大男だ。その男が田淵たちの部屋に無断訪問した男と同一だとしたら。光葉が得た、銀髪かつ色黒の大男がこの地域にいるというタレコミは正しい。おまけに、その大男は帽子を常用すると光葉は言った。
「あのう……オダさん、オバケ男の正体に心当たりがあるんスか?」
「ああ、そいつと手を組んでるらしい男に会う予定だ。そんときにちょっと聞いてみる」
習一が軽い気持ちで発した提案に、田淵は色めきたつ。
「ひょっとしてあの暴力教師に? 危ないっスよ、またやられちまうっス!」
「平気だ。もう病院で一回会ってる」
田淵が上体をのけぞって驚愕した。手ごわい敵と遭遇して、なんともない状態がよほど信じられないようだ。
「病院で会っただけじゃない、これからオレの復学の手伝いをするんだとよ。ご丁寧に補習の話をこぎつけて、面倒な課題をプレゼントしてくれやがったぜ」
習一は解答途中の数学のプリントを掲げた。田淵がちんぷんかんぷんであろう問題を凝視する間、習一は彼の隣席の少女に目をやる。彼女は二人の会話を耳にしていないかのように読書に没頭していた。少女による話題提供が期待できないと習一は悟る。
「今はあの銀髪がオレの味方らしいぞ。もし町中で会ってもビビるこたぁねえ」
「まじっスか? でも、あいつは真面目に生きればなにもしない、と言ってたしな……」
田淵は半信半疑で目を泳がせる。習一は教師にまつわる話題を切り上げようとした。
「ところで、お前は飯を食いに来たのか?」
「あ、ハイ。テキトーに涼しいところで食おうかな、と……でもオダさんのジャマしちゃまずいっスね。オダさんも真面目にしよう、と思ったからガンバってるんでしょ?」
「どうだかな。ま、飯を食いたいなら違う席か店に移ってくれ。お前といると進まねえ」
田淵が片手を後頭部にあてて「すんません」と目を細める。そうして店を出ていった。彼は最後まで銀髪の少女について言及をしなかった。本当に気付かなかったのだろうか。
「なぁ、さっきの野郎、お前を完全に無視してたよな」
「うん。気配、なくしてるせい」
「そういうもんか? 絶対視界に入ってたと思ったんだが」
「すぎたことはいいから、がんぱって問題をといてね」
少女は課題の進行を急かす。習一は冷たいやつだと評を下した。しかし課題をこなさねばあとで大変な目に遭うのは自明の理。仕方なく中断していた解答を再開した。
3
習一は日没を過ぎても喫茶店に居座った。時間を経るごとに通路を行き交う人が替わる様子を尻目に、手持ちの課題をすべて解いた。この場でできる役目を果たすと、きゅるきゅる鳴る腹を鎮める目的で料理を頼んだ。同席者の銀髪の少女にもメニューを見せて夕飯をすすめたが、彼女は遠慮した。習一を出迎えたあとの少女は水すら口にしていない。
(飯を食えねえのか? 宗教でそんなのあったな……)
どこぞの宗教では昼以降、食事を禁じることがあるという。そんな戒律を遵守する敬虔な宗教家でなかったとしても相手は女。減量目的で食事を控えることも予想して、習一は自分一人だけの夕食をとった。昨日今日と穀物類の食事が多かったので、栄養の均衡を考慮してメインの肉料理以外にサラダも食う。肉体が十全な状態にならないうちは別段好きでもない野菜を摂取するのが身の為だ、と自己判断した。
同じ系列ならどの店も同じ味の料理をたいらげ、習一は氷が飲料に変じた水を飲んだ。クッションのきいた背もたれに寄りかかって天井を見た。喫茶店に長居し、腹がすけば料理を注文をする。そんな過ごし方は以前によくあった。それはこの地域一の難関校と呼び声高い、現在所属する高校への受験勉強に励んでいた時だ。
当時、母は息子を塾へ通わせてはどうか、と父にすすめたが「中学程度の勉強に塾は必要ない」と一蹴された。習一には自習が自分にできる学力向上の手段だった。家の中では能天気な妹が騒がしく、彼女が寝入る夜以外は自室での勉強がはかどらない。喫茶店以外に近隣の図書館に行くこともあったが、食事をとりに移動するたびに荷物を整理する手間が煩わしかった。また利用客が大勢いると使える机のスペースが手狭になるのを嫌い、喫茶店に足しげく通った。優等生であったころの自分と、落第を免れるために一仕事を終えた自分が重なる。習一はその対比を鼻で笑った。
「そろそろおうちにかえる?」
習一は我に返った。その提案を受理するには気が重いのだが、そうするべきだとも理解できる。現在こなせる課題は無くなった。腹を満たした時点で喫茶店に留まる理由はない。
「あしたはシドが一日、シューイチにつきそうの。今晩のうちにゆっくり休もうね」
「ああ……お前は明日、来ないのか?」
「うん。でも、シドによばれたらくるよ」
少女は本をリュックサックの中へしまった。習一も荷物を片付け、忘れ物がないことを机上とその下、ソファを一瞥して確かめる。少女が「ごはんのお金わたそうか」と言うので首を横に振った。
会計を終えると少女は店内におらず、軒先で彼女を見つける。習一は正門での邂逅と同じく、少女に声をかけずに歩いた。アスファルトは日中の熱を溜めこみ、ほんのり熱を放出する。多少蒸し暑いが昼間とは段違いに涼しい。習一はゆるい歩調で家を目指した。
家の居間には電灯が点いていた。家主はもう帰宅した頃か。妹は学習塾に行って不在だろう。そう考えながら鉄格子に触れた。
「そうそう、サンドイッチをくるんでた布と水筒、ちょうだい」
習一は借り物があることを思い出し、鞄に手を入れた。畳んだの布と軽くなった水筒を少女に返す。水筒はちゃぽん、と茶が揺らぐ音を立てた。
リュックサックのファスナーを閉めた少女は背に荷物を担ぎ、じっと習一を見た。
「なんだよ、早いとこお前も帰れ」
「おうちに入るところをみとどけて、って言われてる」
「蚊が飛びまわる時期に野宿なんかしねえよ」
そう吐き捨てた習一は家の敷地内に入り、玄関へと足を踏みこむ。手に汗がにじむのがわかった。暑さの影響ではない。緊張しているのだ。靴を乱雑に脱ぎすて、電灯に照らされた廊下を一直線に進む。フローリング張りの居間からテレビの音が鳴っていた。
脱衣場の戸に鍵を閉め、服を脱ぐ。汗を吸った制服のポケットを空にしたのちに室内の洗濯機へ放りこんだ。洗濯物は乾燥後、脱衣場の棚にしまわれる。体を洗ったら棚にある衣類を着て自室にもどる。それがいつものやり方だった。
習一は簡単にシャワーを浴びる。液体石けんを泡立てて体を洗い、ふと風呂場の鏡に注目した。昨日や院内の浴場では意識する余裕がなかった映写だ。そこに映る顔はやつれていた。おもな原因は一ヶ月の絶食だろう。習一は貧相な顔だと思った。以前は獣じみた勢いがにじみ出ていたはずだが、すっかり毒気を抜かれたようだ。攻撃性を失った面構えの次に頭髪が目についた。髪の根元が黒く、それ以外は脱色した色でいるアンバランスさに苦笑する。いっそ田淵のように髪を刈って黒髪にするか、と思案した。
伸びた髪を洗い、泡を流して風呂場を出る。タオルで全身をわしわしと拭いた。濡れたタオルを洗濯機に投げ入れ、新しい服に着替える。生乾きの髪をそのままにして鞄をつかみ、居間の横を素通りする。テレビの音は聞こえなかった。
「おい、待て」
階段に足を着けた時に男の声がした。習一は踏みとどまり、声の主に一応従う。
「散々迷惑をかけておいて挨拶もなしか?」
怒りと叱責が混合した、重圧を感じさせる物言いだった。習一は首だけを動かして男を見る。居間の入り口に中年が立っていた。ネクタイは首に巻いていないが、まだスーツ姿でいる。
「お前が夜遊びなんぞするから入院するはめになったんだ。入院費だって馬鹿にならんのだぞ……聞いているのか?」
習一は男の問いを無視した。とんとん、と上階へのぼると足音が二重になる。突然習一の片足は動かなくなった。男が足首をつかんでいる。
「いつまで醜態をさらし続ける気だ? 親に礼や謝罪の一つぐらい言えないのか!」
男の憤怒が表出する。足首を握る手に圧がかかった。習一は拘束された足を上下左右に振ってみるが、男の手は離れない。
「なんとか言ったらどうなんだ、この──」
「金食い虫の恥さらし。そう言いたいのか?」
男は目をかっと見開き、口ごもる。開口一番で聞けた言葉が図星を突いたらしい。
「毎度毎度、金と体面が大事なんだな。いっそ金で優秀な息子を買ったらどうだ?」
男はわなわなと全身を震わせる。その顔は醜くゆがんだ。
「きっとあんたの薄っぺらい自尊心をくすぐってくれるだろうよ」
「親を馬鹿にする皮肉ばっかりこきやがって!」
習一を捕縛する手が乱暴に動く。習一は階段のへりをつかむ。転倒を防げたが状況は悪い。平時なら体力面で勝る相手といえど今は病み上がり。このままでは逆上した男に体勢を崩され、演劇でしばしば行なわれる階段落ちを演じるはめになる。あれは芝居でも相当痛いことをどこかで耳にした。衝撃から身を守る肉が薄い者では殊更痛いだろう。どう打開すべきか──男の怒りを鎮める手段は思いつくものの、実行の意欲は微塵も湧かなかった。
がたん、と重い物がぶつかる音がした。なぜか足の呪縛が解かれる。習一がふりむくと男が両手で頭を押さえ、苦痛に耐えていた。その足元には油絵の絵画がある。それは習一の物心ついた時から階段の壁に飾られていた絵だ。丈夫な金属製のワイヤーで吊るしてあり、経年劣化で落下する代物ではない。地震が起きていないのに、と習一は不思議がる一方で好機だと思った。悶絶する男を放置して二階の自室へ入る。鍵をかけ、深い息を吐いた。
(運が、よかったな……)
鞄を適当に放り投げ、自身の体も寝台へぽすんと投げた。
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