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2018年12月14日

習一篇草稿−6章

1
 夕飯時になると習一たちは猫らを別室へ移動させた。手作りの居住地と、購入したという猫用のトイレも一緒に運びおえ、小山田家の食卓が始まる。仕事のあったノブは途中から加わり、食後のデザートがあると知って喜んだ。彼は精神的な年齢でいうと小山田家の中で一番幼いかもしれない、と習一は裏表のない中年を評した。だが担任とは異なる幼さだ。向こうは身勝手な幼稚さがあるのに対して、ノブは周囲の者を尊重した上で少年の心を発揮する。目下な娘と対等な接し方をするあたりが顕著だ。
(こういう親がいりゃ、いい子ちゃんに育つわな)
 父と顔立ちの似た娘を見て思う。母と祖母もまた温和な性格ゆえに、性根の曲がる機会はなかったのだろう。絵に描いたような幸福な家庭だ。不公平、の単語が頭をかすめた。
 計十五個あったケーキ類は六人に均等に分配した。教師は一つだけでいいと言って四個余り、それらは小山田家の明朝のデザートに取っておく。残りを見た小山田が「チーズは茶トラでチョコは黒猫っぽいね」としょうもない置き換えをした。この女子は視界に猫がいない時も頭には猫が住みついている。こいつも動物好きか、と習一は内心呆れた。
 人間の飲食が済み、教師らが猫の様子を確認しにいった。居間にもどると元気があり余る子猫二匹を引き入れる。ダンボールの中で眠る母猫と茶トラの安眠目的で連れ出したという。猫用トイレ等を買うついでに得たおもちゃで、一家と教師が代わる代わる子猫をあやした。当初、野良猫の飼育に難色を示したミスミは笑顔で子猫を見守る。その喜色は猫や動物嫌いの人間には浮かべられないものだ。彼女もペットの愛育にはやぶさかではないのだろう。あの時の拒絶は純粋に、愛情をかけた対象が先立つもろさを嫌うようだった。
 教師が猫とのたわむれに満足がいったあと、習一たち客分は小山田家を出た。夜道をいく習一の足運びは鈍重だ。教師が「もう少し外をぶらつきますか」と聞いてきた。
「いや、いい。あんたに行きたいところがあるなら別だけど」
「特にありません。では、行きましょうか」
 実直な教師は無為な寄り道を提案しなかった。帰宅したくない気持ちを察したのなら本屋にでも連れていってくれればいいのに、と習一は自分で断っておきながら不服に思った。
「……明日は、あんたはどうするんだ」
「予定を決めていません。また、オヤマダさんの家で猫と遊ぼうかと」
「本当に好きなんだな」
「貴方も嫌いではないのでしょう。猫も、あの家族も」
 習一はひねた返答が思いつけない。かわりに正鵠を得てはいない正直な言葉を選ぶ。
「そう……だな。あそこは猫にもいい環境だろうよ」
「オヤマダ家の子になってみますか?」
「なにを、トチ狂ったことを抜かしやがるんだ」
 教師は足を止めた。半身を習一に向ける。
「冗談は言っていません。あの家庭は貴方が過ごしやすい場所だと思います」
「数回限りの客だったから良くしてくれただけだ。他人を養う余裕なんかないだろ」
「無関係な人を何年も世話することは難しいでしょう。ですが、自力で生活できるまでの期間でしたら前例があります」
 一昨日の話題にあがったマサという人物のことだ。そうわかった習一は口を閉じた。
「もちろん、貴方が父親と腹を割って話して、仲直りできればそれが一番よいです」
「……言うだけなら簡単だな」
「それほどに血筋の問題は根深いですか」
 習一は全身が粟立った。なぜ、この男の口からその言葉が出るのか。喉の奥が詰まり、問いただすことができない。習一は黄色のレンズを凝視した。まっしろになった頭の活動はすぐに復活せず、教師と目が合った状態で立ち尽くす。
「図星、と見てよろしいでしょうか」
 澄みきった声が習一の平常心を喚起する。習一はうつむいて「なにが」と虚勢を張った。
「貴方が、裁判官である父親の血を引いていないということです」
「なんで、そう思った?」
「確証はありません。オヤマダさんが『もしかしたら』と勘で教えてくれました」
 習一と女子生徒が会ったのは三日間だけ。この短期間にそんなサインは送っていない。
「どういう発想だ?」
「女性特有の洞察力といいましょうか……メス猫が複数のオスの子を産めると言った時に貴方が急に不機嫌になった、と彼女が言っていました」
 それが嫡出でないこととどう繋がる、と習一が指摘する間なく教師は説明を続ける。
「どうして貴方が猫の特性に嫌悪するのかとオヤマダさんが考えた結果、多数の異性と関係を持つ女性が嫌いなのではないか、と思ったそうです。ではなぜ多情な女性を嫌うのか。女性に強い関心やこだわりはなさそうな貴方が、異性に貞潔を厳しく求めるようには見えない。ならば、不貞な女性のせいで不利益をこうむっているのではないか、と」
「ぶっ飛んだ推理だな。倫理もへったくれもねえ動物と人間が同じなわけないだろうに」
「根拠は猫の件一つではありません。貴方が初めてミスミさんに会い、夕食を食べた時にも少し機嫌が悪くなったそうですね。これはミスミさんがおっしゃったことだそうです」
「そんなこと……」
 ない、と言うのを思い留まった。娘が「似たかった」という対象が現れた時、習一はなんと感じたか。父に似た子をうらやみ、その幸運を不運だと見做す相手をさげすんだ。
「オヤマダ家の料理が貴方の味覚に合うことは私が知っています。料理以外で貴方が不満に思ったこと……それは、なんですか?」
 習一は下くちびるを噛んだ。だがこのまま黙っているのが癪で、質問し返すことにした。
「小山田はどう解釈した?」
「貴方が母親という存在に苦手意識を持っている、と。正確にはミスミさんがそのように受け止めたのを、オヤマダさんが信じました」
「ふん、そりゃあ外れだ。オレがムカついたのは小山田のほう。自分が恵まれてることを知らねえで、わがまま言ってやがったからな」
 習一はずかずかと歩き、教師の前を行く。自宅に到着するまで二人の会話はなかった。

2
 習一は自宅の玄関を開ける前に後ろを見た。敷地内を守る塀と塀の間に設けた鉄格子の奥に、銀髪の男性が立つ。彼は習一が帰宅する現場を確認できるまで、ああして見守る気だ。まるで幼い子どもが寝付くまでかたわらにいる親のよう。その視線を断ち切るため、習一は玄関に入る。一目散に風呂場へ行って制服を脱ぎたいと思った。
「ずっと無視するつもりか?」
 恨みがましい声が習一の耳に絡みついた。習一は早歩きで居間の付近を離れようとする。
「暗くなるまで遊びほうけて、まだ懲りないか。そんなだから入院したんだろうが!」
 中年の怒声とフローリングを踏み鳴らす足音が接近する。乱暴な手が肩をつかんだ。
(殴る気か……今日は我慢してやる)
 この数日間を平穏に過ごした代償だ。習一は奥歯を噛みしめ、目を閉じた。しかし打撃は受けなかった。中年の戸惑う声が聞こえる。
「なんだ、お前は! 不法侵入だぞ!」
 習一がまぶたを開くと、銀色に光る頭髪が目についた。途端に体の硬直が解ける。教師が父の暴行を未然に防いだのだ。浅黒い手は中年が振り上げた右手首をかたく握る。中年は彼の束縛を逃れようとして右腕を動かすが、筋肉質な手腕は微動だにしない。
「どんな理由があるにせよ、親が子に暴力をふるって良しとするルールはありません。まずは言葉を交わしましょう」
 緊迫した状況にあっても教師は理性的だ。その態度が余計に中年を苛立たせた。
「若造が知ったふうな口をきくな! 父親に断りもなく、息子を連れまわしおって!」
「貴方の許可をとらなかった非礼は詫びます。ですがこの数日、彼が非行に走るような真似はいたしておりません。そこは誤解しないでいただきたい」
 中年は習一への関心が薄れ、若き教師をにらみつける。敵視する対象が変わったと知った教師は拘束を解いた。中年は自由になった腕を大仰に振り、身なりを整える。
「役所や警察の者じゃないくせに、なぜ息子にかまう?」
「お子さんが健やかに生活できるよう、とり計らっています」
「報酬なしでか? 信用ならんな」
「ツユキという警官が御夫人に事情を伝えたはずです。お聞きになっていませんか?」
「そんなこと、どう信じろというんだ! 他校の教師が見ず知らずの子どもを指導してなんの得がある。目的を言え!」
 習一は忌々しげに笑った。父は習一と同じ疑い方をしている。似なくていい部分を似てしまったのだ。鼻で笑う習一を中年がねめつける。
「お前もお前だ。こんな怪しい男と一緒にいて、また悪さをする気なんだろう。こんな髪を染めたチンピラまがいの──」
「その銀髪は地毛だ」
 訂正を受けた父は教師へ視線を移す。教師は眉を上げ、習一の弁護を意外そうに聞いた。父は非難のあてが外れた挽回に「髪はどうでもいい!」と叫び、握りこぶしをつくる。
「雒英の教師とは話がついている。息子の落第はもう免れたわけだな? きみの役目は終わった。早く帰るんだ! 二度とうちの敷居をまたぐな」
「いいえ、私の責務は残っています。貴方の暴力行為は見過ごせません。それこそ市役所か警察に相談して、貴方の指導監督なり息子さんの保護なりを依頼する必要があります」
「証拠もないのに役人が動くと思うのか。浅知恵だな」
「裁判所に勤める裁判官に家庭内暴力の疑いがある、と知れ渡ってもよろしいのですか」
 父は口をゆがめ、眉間にしわを寄せる。外聞を気にかける中年には耳に痛い指摘だ。しかし父は屈さない。
「司法に携わる者としがない高校教師、世間はどちらを信用すると思っている?」
「それはわかりません。ですが一つだけ、確証があります」
 父が「なんだ?」と吐き捨てる。侮蔑の情をぶつけられた教師は不敵な微笑を見せた。
「貴方も私も、間違いを犯さずに生きられる聖人ではないということです」
 笑みを嘲笑だと捉えた父はわなわなと震える。「出ていけ」とくぐもった声が命じた。
「聞こえなかったか。今すぐにこの家を出ていけ! 警察を呼ぶぞ!」
 罵声をあびた教師は逆上した中年ではなく、習一に目を合わせた。
「私はこれでお暇します。オダギリさんはどうしますか?」
 いつもの調子で習一に尋ねてくる。どこへ行く、なにをする、なにを食べる。それらの質問に習一が答えを出さない時、教師が代わりに決定した。それらは全て、習一には良い、または悪くないと考慮したすえに提示された選択だった。そう理解できたがゆえに習一は承諾した。
 だが今の問いは違う。習一の自己決断ができないなら、彼は父の命令に応じて一人で去るだろう。それが習一にとって最悪の行動だとわかっていても。
「……出ていくよ」
 ぽつんと習一は自分の意思を口にした。いずれそうしなければならないと考えていたことだ。ひとたび宣言してしまうと、ずいぶん体が軽くなった気がした。二度と足を付けないかもしれぬ廊下を踏みしめ、脇目もふらずに外を目指す。靴を履き直し、玄関の戸を開けて振り返った。父はあんぐりと口を開けている。
「これで邪魔者は消える。今晩はぞんぶんに祝杯をあげるこった」
 戸を強く押し、習一は玄関を出た。早歩きで光ある場所から離れる。いつもは時間経過で閉まる戸の音が鳴らなかった。教師の「失礼します」という律儀な挨拶が聞こえたので、彼が戸を静かに閉めたようだった。

3
 習一はあてもなく歩いた。どこかへ行こうという明確な目標は出ない。無心に、何も考えないようにと、無意味に急ぐ。やみくもに移動するうち、自分以外の足音が常について回ることに気付いた。習一が立ち止まると追跡者の物音もやんだ。後ろを見れば体格の良い男性のシルエットがそこにある。
「どこまでついてくる気だ?」
「オダギリさんが一晩過ごす場所を決めるまで、同行します」
「駅の待ち合い所やコインランドリーで寝るかもしれんぜ」
「そこではぐっすり眠れますか?」
「そんなわけあるか。硬い椅子の上で熟睡できやしねえよ」
 父に弁論で勝ったくせにトンチンカンなやつだ、と習一はむしゃくしゃした。
「では布団のある寝床を望まれるのですね」
 言うまでもない理想条件を教師は問う。習一は馬鹿げているとは思いつつ返答する。
「布団はそのへんに落ちてないだろ。あっても虫が湧いていそうだ」
「清潔な寝床は私が提供しましょう。どうです、私についてきませんか?」
「どこへ行くんだ?」
「私の下宿先です。今日のところはそこで手を打ってください」
 教師の部屋で寝泊まりする。そこに彼の妹分も住むのだろうか。
「エリーもいるのか?」
「彼女はほかに厄介になるお宅があります。いたりいなかったりしますね。オダギリさんはエリーと一緒にいたいのですか?」
「いや、あの子とあんたは家族みたいだから聞いただけだ。そんな色ボケた発想はない」
 教師の頭部が揺れる。首をかしげたように見えた。
「色ボケ……? 私は貴方がエリーに気を許していることを言ったのですけど」
「オレが?」
 教師の目には習一が銀髪の少女に心を開くものだと映っている。習一にその実感はないが、教師よりは警戒していない自覚があった。
「外で立ち話もなんですから、私の部屋へ行きましょう。蚊に刺される前に」
「ああ……わかった。あんたの世話になる」
「一つ、よろしいでしょうか」
 話がまとまったのになにを言い出すのやら、と習一は耳を傾ける。
「私のことはシドと呼んでください。私はこの呼び名を気に入っています」
「なんだ、そんなことか。気がむいたら呼んでやる」
 習一は一宿の恩人に不遜な了承をした。その物言いが礼儀知らずだとわかりつつも「わかった、そう呼ぶ」とは明言できなかった。相手は周囲から先生の尊称付きで呼ばれている。習一が出会った人物では、彼を名前だけで呼ぶ者はエリーのみ。習一も呼び捨てにしてよいのだろうが、近親者が使う呼び方を乱用する気になれない。白壁のように他校の教師にもかまわず「先生」と慕う純朴さもない。「あんた」という人代名詞がもっとも習一の気質に合致する。シドに投げた台詞は習一にとって最大限の前向きな表明だった。
 シドが習一の言い方を不快に感じた様子はなく、淡々と下宿先に案内する。その仮住まいは才穎高校の経営者が建てたアパートだと語った。該当者は少ないが同学校に通う生徒も住むという。一人暮らしをする高校生は存在するのだ。
(オレも……早く住む所を見つけないとな)
 居候を頼める身内はいない。住居費を払う資金も持ち合わせていない。どうやって一人暮らしを成立させるか、と考えると途方に暮れた。過去にも空想した一連の流れだ。そのたびに自分には無理だと思い、実家に縛られるのを父への反抗の機会とした。息の詰まる生活との別離を決心した今、すぐにでも金策と住居の手配を考えるべきだ。
 生活の目途が立つまでは教師に頼らざるをえない。おそらく彼もそのつもりだ。浮浪児を放置すれば、窃盗恐喝といった犯罪行為に走る事態は想像がつく。警官を友とする人物が犯罪者予備軍をみすみす見逃しはしないだろう。
(こいつがオレを守るワケはきっと、他の連中のためなんだ)
 習一を憐れんでの善行ではない。他者への被害を防ぐ自衛策だ。そう考えると厚意に甘んじる引け目は薄れた。同時にその推察が真実を捉えていないのではないかと訴える異物が胸の奥に住みつく。異物に対峙する気力は持てなかった。
 シドはアパートの自室の扉を開け、暗い部屋の照明を点ける。玄関の奥には部屋を仕切る戸があった。その戸も開いて電灯をともす。習一が一番に目にしたものは仕事机とその上にある寝台──ロフトベッドだ。高さのあるベッドに合わせて部屋の天井も高くなっている。
「少し部屋の整理をします。その間、体を流してください。着替えは出しておきます」
 着の身着のまま家を出た習一には寝泊まりする用意がない。しかし、かろうじて習一の衣服一式はこの部屋主に預けてあった。
「あんた、こうなるとわかってたな」
 シドはリモコンを操作して冷房を入れる。彼は黙って習一を見た。
「だから風呂屋に行かせて、着替えを確保したのか。オレをいつでも迎えられるように」
 思えば律儀な彼が洗濯物を一向に返さないのは不自然だった。現在は一年でもっとも洗濯物が乾きやすい季節。一日経てば返却できたはずである。彼はこの三日間をわざわざ習一の家先に出向いたのだから、もののついでに衣類を持ってこれた。あるいは便利屋なエリーに届けさせることだってできただろう。
「……貴方は父親と距離を置くべきだと考えていました。宿泊所が私の部屋か、オヤマダさんの家が良いかわかりませんが、衣食住に関しては不自由させません」
「なんのために、オレなんかの世話を焼く?」
「今はお答えしかねます。かわりにこれだけは言っておきましょう。貴方が安定した生活を過ごせるようになるまで、私は貴方とともにいます。貴方が私を信用しなかったとしても、自分の行動は変えません」
「わかった、理由は聞かない。けどこれは教えろ。オレを助けて、見返りはあるのか?」
「罪滅ぼし……一種の自己満足です。私の道楽だと考えてもらってかまいません」
「罪、ねえ」
 習一は意味深な台詞を放置し、部屋主に従って脱衣場に足を踏み入れる。そこは洗面台があり、その隣りのくぼんだ壁に埋まるようにして洗濯機が設置してあった。シドはプラスチック製の洗濯かごを指して「ここに脱いだ服を入れてください」と言い、居間へもどった。習一は制服のポケットの中身を出す。手近な棚に私物を置いて服を脱ぎ、かごに放って浴室へ入った。シャワーから出る水がお湯になるのを待ちつつ、一室の状態を確認する。男性の一人部屋ともなると掃除が行き届かないだろうと覚悟していたが、予想外に綺麗だ。鏡に水垢はついていない。水場によくある赤カビもない。目地につきものな黒い汚れも見当たらない。風呂屋やホテルと同等に清潔な風呂場だと習一は感じた。
(オレが来ると思って、掃除したのか?」
 一般的に教員は休暇が少ないと聞く。一人暮らしの教師が日常的に家事をぬかりなくこなす様子は想像しにくい。浮浪少年を保護する目的で、労を割いたのだろうか。
(クソ真面目そうだからな。普段からこうなんだろ、きっと)
 習一はそう思いこんだ。ひとえに、他人が自分に尽くしている、という発想から逃れるためだ。お湯を体にかけ、シャンプー類を使って汚れを落とした。
 浴室を出てすぐの棚に、先ほどはなかった衣類があった。衣類の上にあるタオルで水気をふき取り、畳まれていた服を着る。リビングに出ると涼しい空気がたちこめていた。居住者の姿はない。上のほうから物音がして、習一は天井をあおいだ。
(二階がある……?)
 部屋の上部には間口の広い押入れのような場所がある。そこからシドの顔が現れた。
「今晩はこちらに寝てもらいます。布団を敷いたので眠る準備ができたら上がってください」
 シドは前屈みになって立ち、壁に設置したスロープに手をかけながら階段を降りる。その階段は収納棚だ。大小様々な四角の空洞があり、その中に本やテレビが置いてある。ロフトベッドといい、とにかく空間を最大限に活用しようという造りの部屋だ。賃貸の部屋で、個人がこれほど無駄のない内装に設計できるだろうか。
「このアパートはぜんぶ、こういう部屋なのか?」
「ええ、家具家電とロフトつきです」
「へえ、その階段にできる棚は経営者のセンスか」
「そうです。体重が重いと上り下りの最中に壊れないか心配になりますけどね」
「あんたが乗っててなんともないんなら、安心だ」
 習一はロフト部屋に上がろうとした。しかし習一の濡れた髪と歯みがきの未完了をシドが指摘し、洗面所へ習一を連行する。用意してあった新品の歯ブラシと歯磨き粉を使い、習一がしぶしぶ歯磨きをはじめた。その間、シドが湿った頭髪にドライヤーの風を当てる。
(こいつ、子どもを育てたことあんのか?)
 この甲斐甲斐しさはズブの素人にできない芸当だ。彼には年齢の離れた妹分がいるため、その面倒をみるうちにつちかった手際かもしれない。
(オレはぜんぜん、妹に手をかけなかったな)
 妹の身支度を整えたり子守りを頼まれたりした思い出はない。妹の身の回りの雑事は両親がすべてやった。特に父は妹を溺愛し、習一に妹を託す指示は出さなかった。子どもがやる世話はつたなくて目に余ったのかもしれないが、本当は信用ならなかったのだろう。
(他人に自分の子を預けるようなもんだ。それも憎んでた男の……)
 これ以上の思考は中止した。鏡に映る自分の顔が情けなくなったと感じたせいだ。世話人に気取られなかったと信じて、口腔内をすすいだ。

4
 習一は掃除機の音で目覚めた。現在いる空間の壁には床のすぐ上に小窓があり、そこから光が差しこむ。その明るさは日の出から数時間が経過したことを予想させた。
 ロフト部屋は人がまっすぐ立てないほどに天井が低い。この場での移動は腰を曲げて歩くか、四つん這いになる。習一は四肢をついて動いた。ロフト部屋と居室との境目には蛇腹折りの硬いカーテンがあり、昨晩は空調の冷風を遮断せぬよう半分開けていた。習一はカーテンを全開にする。初めに黒灰色のシャツが見え、次に掃除機のノズルがすべる光景が見える。ほこりを吸い取る音が止み、清掃人が顔を上げた。連日、目にするサングラスがある。
「おはようございます。昨夜は眠れましたか」
 習一は素っ気なく返事をしておいた。部屋主は掃除機を持ち上げて玄関へと姿を消す。階段を降りた習一は開放されたベランダに注目する。物干し竿に制服のズボンがハンガーにかかった状態で干されていた。他の洗濯物はなく、単品で洗われたらしい。
(クリーニングに出した……ら、こんな早くもどってこないし、干さなくていいよな)
 他の服とまとめて洗濯機で洗えばいいのに、と効率の悪さを胸中でなじった。一点干しを行なった者は脱衣場に行き、脱水した衣類を入れた洗濯かごを抱えてくる。シドはベランダに出て衣類を干す。その背中に、習一はつい先ほど感じた疑念をぶつけた。
「なんでズボンだけ先に洗ったんだ?」
「手洗いが機械の洗濯より早く終わりました」
 シドは物干し竿と洗濯かごの二方向にのみ顔を向けつつ答えた。
「オレの制服だけ? あんたのズボンは?」
「洗濯機で洗えるタイプですので、いつも自動洗濯しています。学校の制服ズボンは替えがききませんから安全な方法で洗いました」
「そんな手間のかかることを……」
「私は掃除と洗濯が好きです。これくらいの作業は負担になりません」
 シドは洗濯ネットに入れた衣類を取り出す。それは制服のシャツだ。多少ねじれた箇所はあるが、畳まれていたあとが残る。
「洗う前にも畳むのか?」
「こうするとシワになりにくいのだそうです」
「デカイ体しといて、マメなことやるんだな」
「大事な制服ですから。それはそうと顔を洗ってはどうです。朝食をとりに行きますよ」
「どこで食う気だ?」
「最初に私と一緒に行った喫茶店です」
「オカマがいるっていう店か」
「そういう覚え方が適切なのかわかりませんが、そこで合っています」
 目下の行動計画を聞いた習一は洗面所に行き、顔に水をぱしゃぱしゃかける。朝の洗顔はしなくとも気にならない性分だが、そのことで保護者にそむく意義はないので指示を聞いた。
 ぞんぶんに水を浴びたあとは洗面台に掛けたタオルで顔を拭く。水気を取った顔を鏡に映すと、少しこけていた頬が幾分ぷっくりしている。この一週間、シドの手引きで栄養を摂取しつづけた成果だ。退院したての頃は心身ともに萎えた状態だったのが、目に見えて回復した。唯一、もどらないものは不特定多数に向かう敵愾心(てきがいしん)だ。
(飼い馴らされた犬になっちまったか?)
 別人かと思うほどに習一は他者への反抗が減った。憑き物が落ちたかのごとくあらゆるものを受け入れる心構えができた気がする。その原因は推理するまでもなくあの男にある。
(変だな……あんな真面目くさった、獣贔屓野郎に……)
 改心させられている、と考えるのを頭をぶるぶるふって打ち消した。
 ノーネクタイの同室者と共に外出し、徒歩で個人経営の喫茶店に行く。照りつく太陽は熱く、習一が洗った顔に汗が流れた。夏場は朝洗顔の意味がないと思った。
 数日ぶりの喫茶店内は客数が少なかった。レジの店員はボーイッシュな女性のままだが、客を案内する給仕は小山田だ。習一は噂のオカマ従業員の姿がないのを不審に思う。
「やたら胸のデカイ男女は、いないのか?」
「オーナーはモデルのお仕事中だよ。ちょっと日取りがわるかったね」
 その表現は習一がオカマ目当てに来たかのようだ。習一は「べつに会いたかねえよ」と毒づいた。
 習一はドリンクの注文を終え、取り放題のサラダや卵を皿に盛って食べる。同席者は店内の雑誌コーナーにあった新聞紙を広げる。黄色のサングラスや変わった髪色がなければ普通のビジネスマンだ。様になるくつろぎぶりを前にして習一は声をかけるのをためらい、顔見知りの給仕が飲み物と食べ物を届けるまで無言でいた。
 深緑色のエプロンをかけた小山田が厨房へ去る。シドは自分の食事を習一の皿に分けた。彼の意識が習一に向いたのを見計らい、習一は一番に気兼ねする事柄をぶつける。
「オレをとっとと部屋から出したいだろ。そんなにのんびりしてていいのか」
「貴方が納得のいく身の振り方を決めるまで待ちます。その間の生活費はご心配なく」
「いつまで待つ気だ? 何年も居候されて、平気だっていうのか」
「貴方はきっと一年経たないうちに決断します。それだけの知恵が備わっていますから」
「ずいぶん買い被ってくれるな。オレは親と喧嘩してウダウダ一年無駄にした野郎だぞ」
「以前はそうすることが父への反抗になると思ったのでしょう? その行為が優柔不断だとか、愚かだということにはなりません。貴方の価値観がそうさせたのだと思います」
 シドは皿を置いた。食材の量が増した皿を習一の前に移動させる。
「貴方は以前の貴方がしなかった行動を選んでいます。価値観が揺れ動く最中なのです。今後悔いが残らない決定ができるよう、それだけを考えてください。私にかかる労苦は全く考えなくてよろしいのです」
 シドは再び新聞の記事をながめた。習一は譲渡された食べ物をばりばり食う。どうにか相手の涼しい顔を崩せないものかと思案し、下手をすれば自分が窮する話題を思いついた。
「あんたは自分の父親を覚えているか?」
 習一の記憶が確かならば、シドにとっての親は彼が主と呼ぶ相手。性別は知らないが、ひとまず父親として話を振った。シドはわずかに眉を上げて習一の顔をじっと見た。唐突な質問に不快を示す様子はない。彼は彼自身の父に対する嫌悪感を持たないようだ。
「親にあたる方は一人いますが……父親ではない気がします」
「なんだ、その言い方。あんたのご主人様はオカマか?」
「見た目で性別がわかる方ではなかったもので」
「ますますわからねえ。男か女かも知らない相手を、本当に親だと思えるのか」
「そう、ですね……普通は親とは呼べないのでしょう」
 彼の視線は左手の指に落ちた。白い宝石がついた指輪を見ている。
「この指輪を私に与えたことくらいですね。あの方にとって……私が特別だという証は」
 習一の家庭以上に複雑な背景があるらしい。習一は深く踏み入ってよい事情かどうかと悩み、黙った。生まれついての従者とは、昔の奴隷制度を匂わせる出自だ。習一の家庭事情を鼻で笑い飛ばせるほどの過酷な環境で育ったのではないか。
「……あんたは、オレをとんだ甘ったれだと思うんだろうな」
「そんなことはありません。人が感じる幸不幸は性格嗜好と同じく、優劣をつけられません。他者への隷属は貴方には耐えがたい苦行でしょうが、私は抵抗がなかったのです」
「人の子どもになるのも適材適所、てか」
「親は自分の意思では選べませんからね。育ての親と折り合いがつかない人は必ずいます。その場合は一人立ちするか、馬の合う保護者を見つけられたらよいのですが──」
 ああそうだ、とシドは何かをひらめいた。
「局地的な状況ではありますが、私が父のように感じた男性はいます。武術の師匠です」
「あんたに弓を教えたやつか?」
「はい、弓以外にも様々な武器の扱いを教わりました。一対一で打ち合う時はなんとも思わなかったのですけど、初めて弓を習う際……言いようのない感覚を覚えました」
 シドは両手をすっと動かし、弓をつがえる姿勢をとる。
「彼が背後から私の手を握り、弦の引き方を教えました。その時に私は安心したのです」
 空想の弓を置いた彼は手のひらを見つめる。ほんの少し、嬉しそうだった。
「彼のそばにいる間は、私に降りかかる危険を彼が取り払ってくれる。いま考えてみると、そんなふうに感じたのだと思います」
 この発言に習一は違和感を覚えた。かように強く、自立した男に、守護者を得て安心する感覚が本当にあるのか。
「師匠に守られてて嬉しいと思えるか? あんたにとっちゃわずらわしいんじゃないか」
「当時の私は右も左もわからない赤子同然でした。戦う術も、他者と接する方法も知らない。無知な私に最善の方法を指導する師匠は太陽にも等しい存在です」
「ふーん、ずいぶん懐いてるんだな、その師匠って男に」
 シドは申し訳なさそうに伏し目がちになる。
「いえ……武術の師匠にはあまり敬慕の情を抱きませんでした。彼は武芸の腕は一流ですが、人格者には程遠い方です。私がいつも慕っていたのは……ケイという女性です」
「恋人か?」
 シドは微笑みながら頭を横にふった。
「いいえ、彼女も私の師匠です。彼女からは体術と一般常識を習いました。私が間違いを犯せば叱り、正しい行ないをすれば褒める。善悪の判断を教えてくれた……大事な親です。母親と呼べる年齢差はありませんでしたがね」
「じゃ、姉貴ってとこか」
「はい。私は手のかかる弟でした」
 習一は昔話の背景を大まかに想像した。シドが武術の指導を受けた時はまだ弱々しい少年だった。親と呼んで差し支えない中高年の男に師事して体を鍛え、姉に相当する若い女性に品行を正してもらい、それらの過程を経て現在のシドを形作った。彼は元から強靭かつ理性的な男性だったのではない。周囲の人間がそうなるように育てたのだ。
「彼女たちとの修業は大変でしたが……とても充実していましたよ」
 回顧者は目を細める。その言葉は一点の曇りもない本音だと習一に認めさせた。実の親がおらずとも満ち足りた人生は送れる。だがその実現は個人の力だけでは成就困難。出会う人々に恵まれたがゆえに、足ることを知る彼がうまれた。
(こいつが才穎じゃなくて、うちの高校に来ていたら……)
 ありもしない世界を思考するのがバカらしい。習一は席を立ち、無言でトイレへ入った。

5
 シドは習一の私服をどうするか尋ねてきた。新たに買うか、エリーに自室から取って来てもらうか。習一は後者を選び、二人は朝食を終えるとまっすぐ下宿先へもどった。シドは来客があると習一に伝えており、部屋へ到着すると鍵が開いていた。室内は冷気がたちこめる。玄関を入ってすぐ横の部屋で物音がした。「アニキ〜」という間延びした声が聞こえる。習一はまだ探険していない一室から、茶色のフワフワしたウニ頭がにゅっと出た。
「お客さん用のお箸が足りないっす! 買い足しに……」
 茶髪の少年が習一を視認し、笑顔で一礼する。その表情には初対面の者に対する警戒や気後れが一切なかった。
「おいら、イチカと言います! アニキとはファミリーなんです!」
 習一はシドの顔を見上げて「家族?」と聞く。シドは「ものの例えです」と受け流した。
 イチカがいた場所は天井の低い台所だった。シドが食器棚にある新品の箸を出すことでイチカの要求に応える。イチカを台所においたまま、二人は居間へ入った。絨毯の上に今朝は見なかった、正方形の座卓がある。四人囲んでぎりぎり食事ができるサイズだ。その周りにシドが座るので習一も倣う。部屋の片隅には大きな横鞄が置かれていた。イチカの所有物だろう。習一はイチカが自分をすんなり客と認識したことが引っ掛かる。
「あいつ、オレがあんたんとこに転がりこんだことを知ってんのか?」
「はい。外食とオヤマダ家頼りの飲食はどうかと思い、数日の食事の用意を頼みました」
「どういう関係だ? だいぶ仲良いみたいだな」
「イチカさんは私の知人の娘さんです」
「え、娘? 女?」
 聞きたい答え以外の部分に習一は困惑した。シドは笑って「女性ですよ」と言い直す。
「幼いころから周りは男性ばかりだったそうで、言葉遣いと服装は男性寄りですけど」
「なんだか性別のわからんやつがよく出てくるな……」
「今日不在だった喫茶店の店員のことですか」
「あとレジの店員もな。女なんだろうけど初めは男かと思った」
「店長さんですか。彼女も中性的な方ですね」
「店長? オカマがオーナーなんじゃ」
「オーナーは店舗を所有する出資者です。店を管理する責任者を別に置くこともできます」
「それはわかるが……オーナーが店で働いていたら普通、そいつが店長にならねえか?」
「ご夫婦で経営していますから、負担を分けたんじゃないでしょうか」
「あのオカマが、女と結婚してる?」
 習一はまたもや混乱した。女にしか見えぬほどに肉体を女へ改造した男はよく男に興味を持つ。男に異性として見てほしいから外見をいじるのだろう。女と恋愛をするのなら女に化けなくてよいのだ。浅い見識とはいえ習一はそのように認識していた。
 シドは習一の心中がわからないと言いたげに眉を少々ひそめる。
「男性と女性ですから、それほど変わった事情だとは思いませんが」
「額面通りに見りゃそうだけどさ……ニセモンの胸を作った野郎が、女に走るか?」
「私は特殊な性別に属する方々への知識が欠けていますので、わかりません」
「オレだってよく知らねえよ。性別不詳のやつらはオレと無関係だ」
 別室より「ヒトのこと言えるんすか〜」と揶揄する声が飛ぶ。イチカが茶の入ったプラスチックのコップを卓上に置き、彼女も座卓を囲んだ。
「オダのアニキも女の子みたいっす。言われません?」
「オレが? 中学にあがるまでは間違われたけど、今はねえな」
「そんなに髪長いのに?」
「骨格でわかるだろ」
「骨太の女子だと言われたら信じちゃうっす。顔きれいだし。いっぺん女装してみる?」
 イチカが満面の笑みで習一の顔を凝視する。いきなり「あ!」と驚いた。
「ほっぺにおデキができてるっす! お肌のケア、やってます?」
「女々しいことはやらねえ」
「今は男も美肌を追求する時代っす! アニキ、おいらの化粧水と乳液はあるよね?」
 シドは「たしか洗面台の棚に」と脱衣場を指さした。イチカがくちびるをタコの口のように尖らせる。
「『たしか』って、昨日今日の洗顔のあとに勧めてあげなかったんすか?」
「はい。男性ですし、いらぬ世話かと思いまして」
「かー、もう! アニキも昭和の男みたいに古臭いんだから!」
「面目ありません」
 大の男が少女に堅苦しく謝罪する様子がおかしくて、習一は吹き出した。機嫌を損ねていたイチカが一転して笑い顔になる。
「いい顔してるっす。アニキ、この笑顔を見たことある?」
「ええ、一度は」
「不器用なアニキにしたら上出来っす! どうやって笑かしたんすか」
「オヤマダさんの家にいる猫です。オダギリさんがエサをあげた、その時に」
「な〜んだ、アニキ一人の力じゃなかったんすね」
「猫は人を和ませる天性のプロフェッショナルです。私では逆立ちしてもかないません」
「わんちゃんも癒し系っすよね?」
「犬もですね。人と慣れ親しんでいる動物全般がそうです。オヤマダ家に猫が現れなかったら、犬を飼っているお宅へオダギリさんをお連れしようかとも考えていました」
「どんなわんちゃん?」
「白黒の中型犬です。人懐っこくて優しい子ですよ」
 二人はたわいもないお喋りを続ける。明日はどこへ出かけるか相談しあい、仕事机にあるノートパソコンを使ってめぼしい場所を探した。習一は暇つぶしにテレビをつけ、今後の外出予定を二人に丸投げした。習一自身は遊んでいる場合ではないと思うのだが、この二人に言っても通じそうにないのでやめた。
(今ごろ、学校の連中は夏季講習やってんのかな)
 習一が補習を受ける期間にも成績良好な生徒は授業に参加した。彼らの登校は三日間では済まない。赤点保持者の補習がたった三日で終わる理由は、夏休みの授業に教師陣が専念するためだ。落ちこぼれに目をかけても利益はない。その切り捨て方がいっそ清々しい。
(ま、見捨ててくれりゃ楽でありがたい)
 その考えは習一に利にならない者への正直な思いだ。利害が一致した者同士、関わらないのが得策だ。二学期以降もこじれた関係を続けるかすっぱり身を引くかと考える。
(いまは学校なんかよりも住む場所だよな)
 いつまでも他人の居室にあがり込んではいられない。親との仲直りなどという夢想をする前に、自立する手段を模索すべきだ。習一の胸中を知ってか知らずか、遊興先を決める二人はひたすら習一に背を向けつつ案を出した。遊園地や美術館といった定番の遊覧場所が出て、最終的にイチカがプール行きを決定した。水着が実家にもない習一は反対したが、新規購入しに外出するはめになった。シドも遊泳には消極的だったものの、遊行の主導権はイチカにあったので抗議らしい抗議をしなかった。
 昼食はイチカ手製の薬味入りそうめんだった。ご飯を食べたあと、三人は近くのデパートへ向かう。外は吸う息で鼻孔が温まるほどに気温が高い。店内の冷房を浴びた時は息を吹き返す心地がした。習一は衣服売り場の商品を見て、自身の着替えの件を思い出した。エリーが自宅から取ってくるという話が今朝あったが、彼女は昼になっても現れなかった。
「なぁ、オレの服って……」
「つい今しがた、エリーが私の部屋に届けてくれました。オヤマダさんの家にも寄っていたので、時間がかかったようです。ご心配おかけしましたね」
「いつそんな連絡してたんだ? 補習を抜けた時も、電話を使ってなかったろ」
「専用の無線機のようなものがあります。お見せすることはできません」
「ふーん。……ところで、あいつは遊びに誘わないのか?」
「はい。あの子は遊びに関心がないですし、ほかに頼みたいことがありますから」
「なにを頼んでるんだ?」
「人捜しです。捜すと言っても会いたくはない相手ですけど」
 シドは矛盾をはらんだ物言いをする。その真意が習一にはつかめず、イチカの顔色をうかがった。イチカも事情を知らないとばかりに首を横にふる。
「でも、アニキがやることにはちゃーんと意味があるっすよ」
 ね、とイチカがシドに念を押す。絶大の信頼を寄せられたシドは黙して笑った。

6
 三人は遊泳に必要なものを買いそろえた。帰る前にイチカがアイスを食べたいと言って、ソフトクリームを二つ購入する。一つは習一に、一つはイチカ自身が口にする。冷菓を摂取することで帰路の炎天下は紛らわせた。道中、イチカが自分のソフトクリームをシドに食べさせる。シドは遠慮したが「アニキの体のためっす!」とイチカが強く勧めるのに屈した。暑さにやられる男じゃないが、と汗一つかかないシドを見て習一は不思議がった。
 もどった部屋には習一の服の入った布袋と扇風機が置いてあった。エリーが届けた物だろうが、扇風機は習一の希望にない品だ。習一は「こいつはどこから?」とシドに聞く。
「オヤマダさんに貰ったものです。ロフト部屋にオダギリさんが寝泊まりする状況をエリーが伝えたら、きっと熱がこもるから必要だと言ってくれました」
「いいのか? あいつの家だって使うだろ」
「押入れにあった扇風機だそうです。現在は別の性能のよいものを使うようですよ」
 扇風機は表面の色落ち具合から年数の経ったものだとわかる。廃棄寸前であろう道具を譲り受けるのは気負いしない。シドは扇風機の首を上下左右に動かし、可動域を確認する。
「問題は設置箇所ですね。ロフトに運んで使うか、下から空気を循環させるか」
「下に置いときゃいいんじゃねえか。風呂あがりに涼みたい時なんかも使える」
「それだとイチカさんも使えますね」
 暫定的に扇風機を階段兼用棚の前に置いた。イチカがさっそく扇風機の風にあたって体を冷やす。習一はエリーが選択した自分の服を点検した。どれも夏用の薄着だ。春秋用の長袖はない。習一の長期にわたる出奔は想定していないらしい。
(前に、夏休みが終わるまでにどうにかしたいと言ってたか)
 購入品を使用者三種に仕分けするシドの横顔を見つつ、習一は彼の発言を思い出した。シドの計画はどこまで達成できたのだろう。初めから習一の保護を視野に入れていたようだが、現状維持で終わらせるとは思えない。
(そういや、なんでこいつと一緒にいるようになったんだっけ?)
 昨日まではシドが習一の復学を支援する名目で、休日を問わず外出し続けた。当初の目的は学校とも家族とのいざこざとも違う。習一がなくしたという記憶の復元が先立っていた。かれこれ一週間、シドと過ごす日々を送ってきたものの、成果はまだない。
「いつになったらオレの記憶はもどる?」
 シドは脈絡のない質問を受けたにも関わらず、微笑んだ。
「そうですね……もう少しアクティプに動いてよい頃合いかもしれません」
「アクティブぅ?」
「貴方を入院に追いやった張本人に会います」
 習一の背すじがしゃきっと伸びる。いきなりの問いにふさわしいと言えばふさわしい、突拍子ない案には少々肝を冷やした。犯罪者への面会は体験する機会がない。配慮に長けたシドの手配ならば習一に危険はないとはいえ、悪人と正面切って会うことは度胸がいる。
「会うって……刑務所で?」
「場所は違いますが、警官の管理下に置かれた相手ですから怖がらなくていいですよ」
「警官の……んじゃ、留置場か」
「準備ができたら改めて話します。面会の際はシズカさんに同席してもらいましょう」
「あんたは?」
 シドは悲しそうに眉をひそめた。今まで空気のごとき自然体で習一に付き添ってきた者が、罪人との対面においては同行を渋っているようだ。
「私も……同席します。そうです、犯人とは顔を合わせるだけにしましょう」
 言ってシドは習一の分のサンダルや水着入れを差し出した。そして明日使うタオルを取りに脱衣場へ行く。習一は彼の反応の理由が気になり、またしてもイチカに疑念の視線を向けた。イチカは困った顔をして「おいらの口から言えないっす」とだけ答える。
「とにかく、明日は泳いで楽しむっす! 今日の夕飯は元気のつくもんを作るっすよ〜」
 イチカは扇風機の風を止め、室内の戸を開けて台所へ行った。習一はタグが外された遊泳の道具はそのままにし、エリーが届けた衣服を一時的な自室へ運んだ。

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posted by 三利実巳 at 00:00 | Comment(0) | 習一篇草稿

2018年12月13日

習一篇草稿−5章

1
 夕飯後は小山田手製のクッキーを食べ、習一は満腹になった。この菓子は教師も「おいしいです」と言ってよく手をつけた。彼の夕飯の握り飯と糠漬けは二つとも小山田の手作りであり、そのことを習一が指摘すると小山田が笑う。
「先生はね、わたしの手で作ったものがおいしいんだって。味付けが失敗してても『おいしい』って言うんだから、味オンチなのかな」
 聞きようによるとのろけ話だ。習一は教師に疑いの眼差しをそそぐ。教師は苦笑いした。
「オヤマダさんの手料理は私の舌に合っています。他意はありませんよ」
「べっつに、教師と教え子が好き合ったってオレはなんとも思わねえよ」
「そうでは、ありません」
 教師は否定する。それきり二人の関係への言及はなくなった。
 夜九時まで長居をし、習一と教師は小山田家を離れた。別れ際、小山田が余ったクッキーを小袋につめて手土産にした。明日は三時のおやつ用に焼いて用意しておく、と彼女は告げる。そのころは補習中だと教えると「焼き上げの時間を調整するよ」と了解した。
 習一が帰路につく間も教師はついてくる。晩餐に加わった家庭について、当人を目前にしての質問がはばかられた疑問を習一はぶつけてみた。
「あそこの婆さん、あんたの名前を間違えてたな。なんで間違いを受け入れたんだ?」
「カエデさんは固有名詞が覚えづらいのだそうです。ですが、ちゃんと人の区別はついておいでです。私を『ノブさん』と呼ぶのは壮年以上の男性を指していました」
「オレのことを『マサ』と呼んだのは?」
「ハタチ前後の若い男性の呼び名、だと思います」
「めんどくさい呼び方だな……普通に『おっさん』や『兄ちゃん』じゃダメなのか」
「呼び名の元になる人物がいるのですよ」
「ノブってのは婆さんの息子なんだろう。マサは誰だ?」
「ノブさんが勤めるお店に、細身の男性店員がいたでしょう。あの方です」
 習一の注文品を届けた店員だ。上背はあるが体格が良いとは言えない男だった。
「あのヒョロイ男か。そいつと小山田家はどういう関係なんだ?」
「ノブさんが店じまいをする時に……マサさんが残飯を探す現場を発見したそうです」
「へ? 残飯?」
 習一が端的に想像したマサという男は元浮浪者だ。教師は説明を続ける。
「ノブさんはマサさんを保護しました。しばらくオヤマダさんの家に住み、お店で働いて、ある程度の貯金ができてからはアパート暮らしをしていると聞きました」
「その人、住む場所がなくて放浪してたのか?」
「はい、マサさんは帰る家がなかったそうです。原因は親との不仲です。子の意思を無視して自分勝手な人生設計を歩ませようとする父親に反抗し、勘当同然で家を離れたと」
 習一は冷水を被ったかのように、はっとした。ひ弱そうな男性が果断な行動に出、自由を得た。その自由は周囲の助けによって得たものだ。一人ですべてやろうと考え、無理だと諦め続けた者とは違う。取るに足らなかった青年像が燦々たる輝きを持ち始めた。
「マサさんと今度、話してみますか?」
「藪から棒に、なにを言い出すんだ」
「興味をお持ちになったのでしょう。親の呪縛から逃れた人物の生き様を」
「アホ抜かせ。そんな行き当たりばったりな野郎の話が参考になるもんか。ノブと会わなかったらとっくに野垂れ死んでただろ」
 習一は自分が思う率直な意見をぶつけた。この主張も本心の一つだ。
「オダギリさんの考えはもっともです。ですが貴方も、ノブさんと会っているのですよ」
 つまり、ノブに助けを求めたなら習一も一人立ちができると暗示している。その言葉は習一に希望を掲げる反面、半身を失くすような虚無感も与えた。
「最初から赤の他人頼りで、うまくいくってのか? そんな甘い見通しで……」
 この批判は自己の虚無を突くものではないと、習一は発したあとで自覚した。
「うまくいかないとも、今より良い未来を迎えるとも決まっていません。可能性は未知数です。オダギリさんが思い描く理想には、どういった行動を選ぶと近づくでしょうか?」
 習一は答えない。答えの候補は自分の中にあるが、口に出そうとすると二の足を踏んだ。

2
 二日めの補習は初っ端に教師が「急用が入りました」と途中退室する。だが三十分足らずでもどってきた。昼休憩には白壁が同席し、銀髪の教師と雑談を行なう。白壁は他校の教師に憧憬を抱くようで「おれも才穎高校に行けばよかったな」とこぼした。
 補習が終わると二人はすぐに小山田家へ向かった。玄関先の花はお辞儀をするように茎が曲がり、数枚の花弁が辺りに落ちている。散る寸前の容態だ。
「オダギリさんと再会するまで、持ちこたえてくれたのですね」
「こんなに丁寧に扱わなくてよかったんだ。ヤクザもどきがくれた花なんだから」
「誰が持っていた物であっても、美しい花には変わりないでしょう?」
「しおれた花が『美しい』のかよ」
「美しさを知るために必要な姿です。『散るゆえによりて咲くころあれば珍しきなり』」
 突然放たれる古典めいた文言に、習一は眉をひそめた。
「室町の能役者、世阿弥の言葉です。『風姿花伝』をご存知ありませんか?」
「名前ぐらいは知ってる。内容は知らねえ」
「この言葉は、花が散るからこそ咲く花の美しさを感じられる、といった意味です。花の命は短いので咲く間は人々がもてはやします。花見がそうですね、期間限定のイベントに人がこぞって集まります。これが一年中咲く植物でしたら、いつでも見れると思って珍重しなくなるでしょう。花が咲くことと散ることは一セットで、美しいのだと思います」
 習一は説明を理解できたが、やはり素直な感心は示せずにひねくれた言葉が出る。
「服のセンスがわからないと言ってるやつが、美しいのどうのがわかるのか?」
「美醜の観念は私になくとも、生命の息吹や尊さを感じる感性はあります。いいものをお見せしましょう」
 教師は小山田家の断りなく居間のふすまを開ける。和室のすみに昨日はなかったダンボールの箱があった。その箱は小刻みに動く。「なんだ、あれ」と習一はずかずか歩み寄り、箱を見下ろす。敷き詰めたタオルの上に獣が複数いた。体の大きな猫が一匹、手のひらサイズの猫が三匹。全員がそれぞれ違う模様の毛皮だ。大人の猫は頭から尻尾までの上半分が焦げ茶色の縞模様で、口元から足先までの下半分が白い。習一は大きい猫を指さす。
「……この家の猫か?」
「いいえ、野良猫です。鳴き声がしたので縁側の下を見ると、この親子がいたそうです。母親は胸に傷を負い、弱っていたので保護しました。キュートな猫たちですが、今日は可愛がらないでおきましょう。彼女らの負担になりますから」
 母猫の白い胸元は黒ずみ、毛が固まっている。包帯や絆創膏などの治療の痕跡はない。
「傷口はもうふさがってたのか?」
「ええ、まあ……オヤマダさんたちが病院に診せに行ったはずですし、手当てが必要なかったのでしょう。ただ、体力の消耗が激しいようで動きまわれないそうです」
 ダンボールが独りでに動く原因は子どもの猫にあった。子らは寝そべる母の周りでせわしなく動いている。三匹とも毛皮の種類は違うのに目の色は同じ青。灰色がかったような、あるいは紫色が少し混じったような不思議な青色だ。
「子猫の目、みんな青色なんだな」
「キトンブルーと言います。生後間もない子猫はみな、青い目なのだそうです」
 宝石にありそうな深みのある青色だ。これが教師の言う美しさだろうか。
「……で、いいものってのは猫のことか?」
「はい」
「花の美しい云々の話と関係あるか?」
「ありますよ。この子猫たちが母猫を助けたのですから」
 なんのことだ、と習一が不審がった時に小山田が入室する。彼女はクッキーを山盛りにした皿と冷茶の入ったコップをちゃぶ台に置いた。同時におしぼりを二つ並べる。
「おまたせー。食べる前に手を拭いてね」
 習一は菓子よりも猫に興味があったため食卓にもどらなかった。小山田がにんまり笑う。
「シュウちゃんも動物好きなの?」
「なんだ、シュウちゃんって。お前は昨日、オレを『オダさん』と言ってなかったか」
「ばーちゃんが『シュウくん』と呼んだから、それにならってる。周りが名前を呼んでないと、ばーちゃんは覚えられないの」
 習一がカエデという老婆に「マサさん」と呼ばれないようにする彼女なりの配慮らしい。習一は犬猫の愛称のような彼女の呼び方に引っ掛かりを感じつつ、抗議はやめた。
 教師も焼き菓子は放置して猫たちを眺める。視線を感じた母猫は目を開けた。しかしすぐにまぶたを閉じ、浅眠の姿勢にもどる。小山田は「性格変わったのかな」と一人ごちた。
「たまーに外で見かけたときは警戒心が強かったんだけど、いまはのんびり屋だね」
 猫らは外敵が不在かつ空調の効いた屋内に居を得ている。この家の者たちが敵でないとわかったなら、母猫の態度はいたく合理的だ。子猫が独り立ちできる月齢になるまではその愛嬌を武器にして、人間に養ってもらうのが賢いやり方だろう。
 習一は母猫にいらぬ心労を与えないように、長方形の座卓の周りに座った。教師たちも同様に囲む。小山田が猫を主題にして話しはじめた。
「縁側の下に籠城するキジシロママ、わたしらには威嚇するのに先生には全然しなかったよね。なにが違うんだろ?」
「ん? この教師が猫どもを捕まえたのか?」
「そう。エリーから連絡してもらってシド先生を呼んだんだよ。補習中なのにごめんね」
「もともと、こいつは補習に出なくていいんだ。好きなだけ呼び出せ」
 習一は補習授業中のことを思い返した。教師に連絡を受け取る素振りがあっただろうか。電話での会話はしておらず、連絡を通知する電子機器を操作した様子もなかったような気がした。なにより「急用ができた」と離席した教師は二十分から三十分の間で帰還した。雒英高校から小山田家までの往復だけで、それぐらいの時間は潰れるのではないか。人間を警戒する猫の捕獲時間はない。猫が威嚇する相手を選ぶこと以上に、教師には不可解な点が多い。習一はそれらの謎を解消したかったが、また返答を先延ばしにされそうだったのでやめた。
「そういや、子猫が母猫を救ったってのはどういう意味だ?」
 クッキーが運ばれたことで中断した会話を習一は再開させた。これには小山田が答える。
「猫たちが家の下にいるってこと、教えてくれたのは子猫の鳴き声だった。母猫は鳴く元気がなかったみたい。威嚇も牙を見せるだけでね」
 子猫が居所を知らせていなかったら、母猫は衰弱死していた可能性があった。教師はほほえんで猫のいるダンボールを見つめる。
「母猫は、命が尽きかけていたようです。それでも生きたいと願う一心で回復しました。幼い子を守りたかったのでしょうね」
 教師の主張は、母猫が子のために気力をふり絞って生き永らえたことを意味するようだ。習一はいい話に流れを持っていく雰囲気に水を差した。
「本当にこの母猫の子なのか? 一匹は父方の遺伝だろうが、残り二匹は全然違うぞ」
 子猫の柄は全身が薄いオレンジ色の縞模様と、黒色と茶色が混じるまだらと、全身が真っ黒の三匹。いずれも母猫の毛皮とは異なる。教師は「たしかに奇妙ですね」と同調する。
「猫の遺伝形態はよく知りませんが……ヘテロ同士の交配により、両親には発現しなかった遺伝が現れる劣性ホモが複数いるのでしょうか」
「先生が言ってることは、たとえば親が白猫同士なのに黒猫が生まれるって話?」
 小山田は急な生物学講座をむりなく受け入れている。彼女も劣等生ではないようだ。
「人間だとA型とB型の親からO型の子が生まれるのも同じ理屈なんでしょう」
「そうです。ただし、生物の基礎知識では劣性ホモの発現の在り方は一種類しか学びません。これだけでは理解が追いつきませんね」
「あんまり難しく考えなくていいんだよ。メス猫は複数のオス猫の子を宿せるんだもの」
 習一は胸をえぐられる。親に似ない者は外部の種によって生まれた者。全くその通りだ。
「キジシロママは美人だね。きっといっぱい男が言い寄ってきたんだよ」
 のほほんと言い放つ仮説が習一に影を落とした。小山田は習一の顔をのぞきこみ、「クッキーが冷める前に食べよう」と勧める。三人はやっとおやつに手を付け始めた。

3
 二日めの晩餐は野良猫を同室者にしたままとった。母猫は変わらずダンボールの中で休み、餌用に茹でた鶏肉やイモを少しずつかじっては眠る。猫が食べてよいものは教師が図書館におもむいて調べあげた。調査には一時間強かかっており、普通の所要時間だった。
 今日の夕飯には家主のノブが同席する。彼は習一への歓迎の言葉をかけた際、猫のそばで大声をあげるなと娘に警告された。以降のノブはワントーン下がった声調で喋る。
「弱ってた野良猫、いっぺん家にあげちまったら飼わなきゃならんかな?」
 彼はとなりの妻の顔色をうかがう。妻の表情はくもった。
「猫ちゃんは早く亡くなってしまうじゃない。その時、とってもつらい思いをするわ」
 わたしはイヤよ、と柔和な女性が拒絶する。習一はその態度が腑に落ちなかった。この場にいる誰よりも動物を憐れみ、かわいがる姿が似合うというのに。
 ノブは妻に「そうか」と一言答えた。小山田はしょげた顔をする。カエデはゆっくり箸を運び、話を聞いているのかさえわからない。家族間の話し合いに教師が介入する。
「炎天下の中、母猫が幼子を外で育てることは大変でしょう。この子たちが一人立ちできるお手伝いを、一緒にやりませんか?」
「この家で飼うってこと?」
「引き取る方を探すのもいいですね。この子たちをこのまま放り出すのはしのびない」
「……そうね、子猫が蒸し焼けになったらかわいそうだわ」
 同じく子を持つ母の同情を買い、猫一家は小山田家に一時在籍することに決まった。教師は猫にあげてよい食べもの以外の知識も吸収してきたらしく、母猫の体力が回復したら体を洗うこと、動物病院で詳しい検査をしてもらうことなど提案する。それらにかかる経費はすべて教師が負担すると言い、ノブは断る。
「うちの敷地内に入ってきた猫のことなんだ。先生ばかりに押し付けられんよ」
「猫たちの保護は私が無理強いさせてしまったのでは……」
「んなことぁない。この家の下から引っ張りだそうとした時にはもう、おれらが責任持たなきゃいけねえと思ったからな」
「……お優しいのですね」
 ノブが照れくさそうに頭をかく。
「庭に死骸が転がってちゃ、寝覚めわるいだろ? おれが気分よーく過ごしたいからするんだ。優しいのとはちがう」
 教師はノブの主張を受け入れ、野良猫の処遇の話題がおさまった。習一は好奇の念がおさえられず、ノブに問う。
「マサって人の時も、そうだったのか?」
 ノブは吊り目を丸くした。習一は質問内容の補足をする。
「浮浪者が食うもんと住むところに困ってたのをあんたが助けたと聞いた。それも猫と同じで、放っておいたら罪悪感が湧くから?」
「……ま、そうだな。だけど、そんなことを考えるのはいつも行動したあとだ。その場に立った時は全然考えちゃいねえ」
「じゃあ、どうして?」
「『助けてくれ』ってツラをしてたから、かな」
 ノブは神妙な面持ちの上にむりやり笑顔をかぶせた。
「猫たちは表情が読めねえけど、鳴き声がな、痛々しかった。『だれかお母さんを助けて』と必死に喋ってたんだろうな。茶トラのやつなんか、母猫の傷口をなめて治そうとしてたんだ。あんなにチビなのによ」
 幼くても獣であっても家族の身を案じる感情がある。その思いに応えた母の気丈さ。相互関係にある思いやりの心を、教師は美しいと評価したのだと習一は納得した。
「生きようとするやつらを応援したい。それはおれの道楽だ。やりたいからやるだけ! こんなオッサンが『他人の役に立ちたい』とかいう大義名分を持っちゃいないんだよ」
「……オレは、どんなふうに見える?」
 我ながらくだらないことを尋ねた、と習一は自己嫌悪に陥る。だが、どうしても聞きたかった。藁にもすがる溺死しかかった弱者に映るかどうか。
「さぁ……やんちゃ盛りの男の子ってとこだな。もっと飯食って肉を付けるといいぞ」
 一介の少年との評を下された。習一は内心、普通の男子が無関係な人間の家に来るものか、と指摘する。ノブはふざけて「この肉を分けてやりたいくらいだ」と腹の肉をつかむ。娘が「オヤジの夕飯を抜きにして、その分をあげたらいい」手厳しい助言をした。親子のたわいない言い合いを傍観すればよいものを、習一は我慢ならずに再度問う。
「本当に、それだけか?」
 習一は真剣な顔をしたつもりだが、ノブは破顔する。
「ああ、そうだとも。おれが特別なにかしなくたって、やっていけるさ」
「そんなやつが赤の他人に食事を用意してもらうと思うか?」
「だってなぁ、習一くんにはもうシド先生がついてるもんな」
 習一は腹の奥が温かくなるのを感じた。すきっ腹に熱い汁物を入れた時の感触に似ているが、夕食の汁物はとうに飲み干していた。
 ノブの笑みが教師に向いた。教師は昨日と同じく小山田の握り飯と糠漬けを食す。
「先生が料理のできる人だったら、うちに頼らなかっただろ?」
「いえ……オダギリさんは腹を満たす以外に、大事なものを受け取っていると思います」
「ふーん? まあなんでもいいさ。飯食いたい時でもゲームやりたい時でも、遊びにきたらいい。おれは賑やかなほうが好きだからな!」
 ノブの大声のせいで母猫が鳴き声をあげる。ノブは本日二度目の娘の叱りを受けた。

4
 補習の最終日は赤点保有者の男女が昼休憩の時に去った。それまでに片方が不在の時間もあった。補習最後は習一一人が必要とする科目が集まるよう調整してあるらしい。
 休憩時にまたも白壁は来た。彼は今日が教師に会える最後の日だと言って名残惜しがる。
「シド先生にお会いして早三日。武芸の指導を受けずに別れてしまうのが残念です」
「こちらの空手部は強豪なのでしょう。私の教えは必要ありません」
「いいえ! おれは去年の試合で、才穎の生徒に負けました。今年はあいつが出場しなかったけれど、いまのおれがあいつに勝てる自信はないんです。確信を持てるまで、先生のようなツワモノに鍛えてほしいと思ってます!」
「学ぶ意欲のある方への指導を惜しみたくないのですが、いかんせん、私が取り組むことが残っていますので……」
「補習は今日で終わると聞きました。……進級以外の問題も切りこんでいくんですか?」
 白壁はおずおずと教師の顔色をうかがって尋ねた。教師は「そうです」と簡単に答える。
「オダギリさんの生活環境を整えないままでは、同じことが繰り返されると思います。もっとも、彼自身に改善の意思がなかった場合は私の空回りになりますが」
 教師は弁当箱をつつく習一をちらりと見る。習一は鼻を鳴らし、二人の会話を静聴した。
「それはありがたい! なにせ、担任がことなかれ主義な人で……頼れないんです。親御さんからの電話を受け取った時も愚痴ってたらしいですよ」
「どんな内容の電話だったか、お聞きになりましたか?」
「『なぜ休日にも銀髪のスーツ姿の男が息子を外へ連れていくんだ』という質問だったと。掛尾先生が代わりに答えて、その場はしのげたそうです。その時に『なんで問題児ばっかり』ともらしてたとか」
「『ばっかり』? 他にどの生徒を指しているんでしょうか」
「同じ補習を受けてたカップルです。色恋にふけって勉強しなかったせいで、赤点とりまくったみたいで……」
「その二人は通う高校をまちがえましたね。才穎なら校長がとりなしてくれたでしょう」
 教師は真面目な顔をして不可解な言葉を口走った。白壁はなぜか「やっぱり」と言う。
「話にはよく聞いていますけど、カップルには甘い学校なんですか?」
「恋人の疑いがかかっている人も対象です。かく言う私も、任された職務を放置したのを校長は咎めませんでした」
「先生が仕事をすっぽかすなんて、どんな大事があったんです?」
「野暮用です。私の知人の警官が学校に来ていたので……その方に用事がありました」
 露木のことだ、と習一は思い立ち、会話に加わる。
「坊主の警官か? そいつがなにをしに才穎に来たんだ」
 白壁が「ボウズ?」と坊主頭を想像したのを誰も触れず、教師は目を伏せて神妙にする。
「とても大切な用事でした。私がこうして過ごすのもあの方のおかげです。そうでなかったら、私はこの国を去っていました。その話はのちのちお教えします」
 白壁は「七月末で退職の予定だったんですよね」と訳知り顔で言う。教師は間を置いて「そうです」と肯定した。だが退職理由などは述べなかった。
 雑談のすえ、午後の補習が始まった。白壁は退室し、習一と銀髪の教師の二人が居残る。午後の補習担当者は習一の印象が薄い、どうでもよい女性教師だった。奇異な風体の習一たちに尻込みする気色があったものの、彼女は滞りなく職務を全うした。習一らが優等生と変わらぬ受講態度をつらぬいたおかげだ。
「プリントをすべて提出してしまいましょう」
 教師は習一が職員室へ立ち寄るのを同行する。最後の最後で習一が責務を投げ出さぬよう見張るのだ。これまでの苦行をおじゃんにするバカは普通いないが、突発的な行動を起こす可能性は否定できない。習一自身、出会う人物によっては理にそぐわぬ決断をとるだろうと思っていた。案の定、職員室には提出物を受理する掛尾はおらず、担任が在席する。習一は後方の教師の顔色をうかがった。
「カケオ先生がいらっしゃいませんね。先生の机の上に置いておきますか?」
「なんか締まらねえな」
「では担任のほうに提出しましょう。最終的にはあの方が確認をとって成績を出します。カケオ先生は中継ぎ役ですから、カケオ先生にこだわらなくともよいのです」
「お互いに顔合わせるの、イヤなんだがな」
「わかりました。私が代わりに行きます」
「いいのか? こんな甘ったれたわがままを聞いて」
「なにかの拍子に取っ組みあいになってはいけませんので」
 習一の性情をかえりみての代行だ。習一は教師のリアリストぶりに感心しつつ、プリントをおさめたクリアファイルを手放した。異邦人が「失礼します」の挨拶とともに職員室へ入る。習一は廊下で待った。すぐに終わるだろう、と予測したが思いのほか待たされた。

5
 教師は五分以上の時間を職員室で過ごした。彼が廊下にあらわれた時、空になったクリアファイルを手にして「これで終わりましたよ」と習一に報告する。
「だいぶ時間を食ったな。なんか言われたのか?」
「貴方への非難は言われていませんので、安心してください」
「あんたは、どうなんだ?」
「中傷だと受け取るべき言葉はありませんでした」
 教師はゆっくり歩きだす。彼なりに足音を立てないスリッパ歩行を編み出し、初日のパタパタという音は軽減している。習一は後を追い「世間話してたのか?」と食い下がった。
「質問されました。『受け持ちの生徒に関わらない教員をどう思っているか』と」
「なんだあいつ、自分がやってることに罪悪感でもあんのか」
「そうなのでしょうかね。私はいま一つ、あの人の感情が読み取れませんでした」
「なんて答えた? あんたと正反対なやつだろう。『理解できない』とでも言ったか」
「どのような人相手でも、その行動に至る理由を知ればそれなりに理解はできます。共感できるかどうか、は別ですがね」
「あんたはあいつをどう理解したと言うんだ?」
「あの人は家庭のある身です。日々の職務に追われていては、オダギリさんのような生徒に手が回らないのも致し方ないと答えました」
 この教師自身の信条とは異なる言葉だ。習一は不快感をあらわにする。
「おべっかかよ。周りと当たり障りなくやろうって魂胆か?」
「ウソはついていません。たとえば妻子のある男性が、休日返上で落ちこぼれの生徒を激励したとします。それは教師としてはすばらしい行動です。けれども、家族はどう思うでしょう。父と遊べない子は寂しがります。妻も夫の愛情を感じられなくては不満を抱くでしょう」
「だから、はみ出し者の生徒なんぞ放っておけ、てか?」
「それも数ある方法の一つです。他人が強いるべき事柄ではありません。ですから、私は言葉を添えました」
 階段を下りていた教師が習一を見上げた。
「『家族に誇れる仕事をできていると思うなら、そのままでいい』と」
 質問者の良心に問う返答だ。習一は皮肉めいて笑う。
「あんたも性格悪いな。自分を正しいと思ってる野郎が、自分のことをどう思うか、なんて聞くわきゃねえだろ」
「そうですか。私の考えが至りませんでした」
 本気とも冗談にも見える微笑で教師が言う。その人を食った態度に習一は安心感を覚えた。他人の耳を心地よくさせることばかり言う軽薄な輩ではないと信用できたのだ。二人は一度別れ、正門で合流して学校を離れた。
 教師は小山田家へ行く前にケーキ屋に寄り道した。日々世話になっている一家への返礼用にケーキを購入しようと言う。
「サイズにはホールとピースがありますね。オダギリさんの食べたいものはどれですか」
「オレはなんでもいい。ピースをいろいろ買って、好きなのを選んでもらえよ」
「なるほど。では何個頼みましょうか。ノブさんはあればあるほど食べそうですが……」
「あそこは四人家族だろ。このケーキは小さいし、十個はあるといいんじゃねえか」
 習一は悠長に構えた教師に口出しして購入を急がせた。女性客の多い店内に長居する気は毛頭ない。男性かつ変な髪の色の二人組は非常に目立ち、店員と客の注目を一身に集めている。習一一人への関心なら耐えるものの、教師こみの好奇は居心地が悪い。
(野郎のカップルってのが世の中にあるらしいしな……)
 親子でも友人でもない二人に掛かる嫌疑はそれではないか、と習一は不安がった。習一に趣味がないとはいえ、周囲の女子は他人の思いを知らずに想像を膨らませることがある。
(こいつは……大丈夫だよな。たぶん……)
 銀髪の教師は女子生徒との熱愛疑惑が浮上する程度に健全な男。教育者の観点では恥知らずと難癖をつけられかねないが、習一にはむしろ安心材料である。
 女性の視線に無頓着な教師はショーケースの商品をじっくり見る。「どれを複数買いましょうか」とまだ購入に踏み切らない。
「ピースを全種類二つずつ、それでいいだろ?」
 声を荒げないよう心掛けつつ、習一は大ざっぱな提案をする。教師は承諾し、女性店員に同じ注文を述べた。店には七種類のピースのケーキがあり、習一が提示した数を超える。薄黄色の紙箱に店員が商品を詰めていき、頼まなかったシュークリームが同梱された。
「オーダーにない品物が入ったようですが」
「あの、十点以上お買い上げの方に無料でサービスしているんです」
 そう告げた店員がはにかむ。習一は店内の大小さまざまな張り紙をぱっと見て、店員が言う制度がどこにも記載されないのを確かめた。教師は素直に店員の言葉を受け入れ、代金を支払う。お釣りを渡す際に店員は客の手にそっと自分の手を支えた。教師は礼を言って店をあとにする。習一はその背に話しかけた。
「あの店員、あんたに気があったのかもな」
「なぜ、そう思うのですか?」
「たくさん買った客にオマケがつく売り方をしてるなら、客の目につきやすい場所に書いておくだろ。そんなの全然なかったぞ」
「それはそうですね。お得なサービス目当てに多数品物を買う客がいると店は儲かります。たまたま多く買った人を対象としたやり方では利益になりにくい」
「オレに言われるまで、本当に変だと思わなかったのか?」
「はい。ケーキ屋にはあまり訪れませんし、細事にこだわらないもので」
「お気楽な性格してんな……」
 習一は教師の鈍感さを羨ましく思った。彼は他者の視線も隠された本音も意に介さない。あくまで表面化した表情と言動で物事を判断する。腹の探り合いには無縁な大人だ。担任に言ったという「家族に誇れる仕事をしているか」の文言は裏表のない本心かもしれない。
(ゴチャゴチャ考えないですむなら、そっちが楽なのか?)
 だが周囲に害をなす者がいればたちまち食い物にされる。その危険は見過ごせなかった。

6
 小山田家に到着したなり、成猫が玄関へ突進してきた。教師がすねで猫の行く手をさえぎり、ひるんだ隙にその首根っこを押さえる。脱走をはかった猫は尻が濡れていた。
 廊下の奥からゴム手袋を両手にはめた小山田があらわれる。
「キジシロママったらお風呂を嫌がっちゃって。びっくりさせてごめん」
「私がやりましょう。オダギリさん、このケーキの箱を台所へ運んでおいてください」
 習一は紙箱の底を両手で持った。教師が猫のうなじをつかみ上げ、濡れた尻をもう片方の手で支える。抱かれた猫は逃走の威勢がどこへ行ったのか、彼の胸にすっぽり収まった。
 二人が猫の体を洗う間、習一は台所へ入る。そこにミスミがいた。彼女は野菜を細切れに刻む手を止め、習一に笑顔で出迎えた。習一はどきまぎしつつも箱を見せて「ケーキを買ってきた」と最低限の報告をする。
「まあ、ケーキ? いいわねえ、最近食べてなかったわ。それは今、おやつで食べる? それとも晩ごはんのデザート?」
「みんな忙しいから、あとがいいと思う」
「じゃあ冷蔵庫に入れておきましょうか」
 ミスミは手をさっと蛇口の水で洗い、タオルで拭いたのちに冷蔵庫を開けた。中の整理をして広い空きスペースをつくり、ケーキの入った紙箱を収納する。戸を閉める際に茶のポットを取り、コップに注いで習一に渡した。
「お茶がいいのよね?」
 昨日までの注文を覚えていることに習一は驚いた。同時に彼女の手際の良さに感心する。習一の母親は素早い行動が苦手である。おっとりした雰囲気のミスミも同類だろうと推し測っていたが、失礼な思いこみだと認識を改めた。習一はうなずいただけでコップをもらい、台所の隣室へ入る。台所と居間を隔てるダンボールの柵をまたいだ先に、動く毛玉があった。昨日保護された子猫だ。習一は幼い獣たちを踏まないようにして、空いた座布団に座る。固まってひしめく猫らを観察した。彼らも座布団を軸にして、その周りにいる。近くの座布団にはひざ掛け用の毛布がくちゃくちゃな状態で置いてあった。
(親猫が風呂に行ってるってことは……こいつらも体を洗ったのか?)
 入浴を拒否する力のない子どもなら、動物に不慣れな者でもやり遂げられるだろう。習一は興味本位で一匹手にのせ、その体を嗅いでみる。微かに石けんの良い匂いがした。洗浄済みだとわかると子猫が群がる座布団の上に返却した。すると手放した猫は鳴きはじめる。つられて他二匹もわめき出した。合唱する毛玉は続々と習一の足をよじ登ってくる。あぐらをかいたくるぶしに乗り、ふくらはぎをつたって太ももに到達する。三匹は温もりを恋しがり、熱源のある物体に近寄ってきたらしい。空調は適温を保っていて肌寒くはないのだが。
「親がくるまで、だからな」
 習一は猫の座布団になるのを了承した。まだら模様の猫に目を惹かれ、その毛色をためつすがめつする。よく見ると茶色の部分は縞模様。全身明るい茶色の兄弟猫に黒色を所々足したような柄だ。この二匹は色が違えど母から縞模様の毛皮を受け継いでいる。一方、全く似ていないのは黒猫だ。ヒゲも爪も黒い猫は習一のももの上で丸くなった。
(白猫同士から黒猫が生まれる、とか言ったか)
 昨日の小山田が述べた雑学を思い出し、これらの子猫たちは共通した父親を持つ可能性がありそうだと思えてきた。黒猫の行方不明になった目を探していると、ごお、という風の音が聞こえた。外で突風が吹いたにしては音量が一定している。人工的に発生する音だ。台所の換気扇が回ったのか、と思ったが音が不鮮明。発生元は戸を開けっ放しにした隣室ではない。他に風が起きることといえば。現在の状況に関連した風についてひらめき、習一自身が体験した風呂屋の出来事も連動して思い出した。
 風が鳴り止み、廊下からトタトタと軽い足音が響く。続いて人間の足音も発生し、ふすまが開いた。尻尾が乾ききらない母猫がまっしぐらに子猫に駆け寄る。母猫は習一のひざに前足をつき、子どもらの体をなめる。母猫の胸元にあった汚れはきれいに落ちて、ふさふさとした純白の被毛になった。猫の美しい毛並みを復活させた人々が座布団に座る。
「匂いが変わっても自分の子だってわかってるね、よかった」
 子猫二匹はおぼつかない足取りで人体から離れ、母猫の腹に顔をあてる。母猫は四角い座卓の下で授乳を始めた。すぴすぴ眠る黒猫は依然として習一の太ももを下敷きにする。
「こいつ、起こしたほうがいいか?」
 習一は食事にありつけない子猫を案じた。小山田は「今日はずっとママと一緒だから平気」と言って睡眠を優先させた。彼女は座卓の下をのぞき、親子の様子を見る。
「ママに赤毛の部分……ある? この微妙に赤っぽいところが、そうなのかな」
 母猫の毛皮に着目している。小山田は急にママの語頭に「キジシロ」を付けなくなった。
「キジシロっていう種類じゃなかったのか?」
 習一の問いに教師が「その可能性があります」と答える。
「キジシロとはキジ猫、またの名をキジトラ猫に白い体毛が混ざった子の総称です。キジ猫というのは、毛を黒くする遺伝子と縞模様をつくる遺伝子が優性に出た猫のことです。その体毛がメスの雉と似ているのでこの呼び名が定着したと言われています」
「それがどうしたんだ?」
「この母体から茶トラの子猫……オレンジ色の毛の子は、基本的に生まれないのです」
「こいつら、よその猫の子だって言うのか? でも母猫が乳あげてるぞ」
「この猫たちに血のつながりはあると思います。理論上、母猫が茶色の遺伝子Oを持っていると茶トラが生まれます。ところで、男女にXとYの染色体があるのはご存知ですね?」
 またしても生物の授業が開講する。知識のある習一は「知ってる」と臆面なく答えた。
「そのXに茶色遺伝子が付属します。伴性遺伝というやつですね。オスはO一つで茶トラになりますが、メスはOが二つあって初めて茶トラになります。メスの場合、片方がOだと茶色に黒色が混じったり、白色を加えた三毛になったりするそうです」
「オスはかならず父親のYを貰うから、父側の茶色遺伝子は関係ねえわけだ」
「はい、そうです。ただし、猫は細胞分裂の過程で遺伝子の不活性が起きるそうで、理論通りにいかない時もあるらしいです」
「へー、じゃあこの真っ黒はどうなんだ?」
「黒猫は縞模様をつくるA遺伝子と部分的に毛を白くするS遺伝子が共に劣性、かつ黒色を発現するB遺伝子が優性だった時に生まれると言います。母猫は黒色遺伝子を持っているようですから、あとは父猫が劣性の遺伝子を持つ個体であればよいと」
「親父が黒猫じゃなくてもいいんだな」
「そういうことです。ちなみに全身を白色の体毛にするW遺伝子が最も優位です。遺伝子型によっては白いメス猫がいろんな体毛の子を産むそうですよ」
「だから白猫の両親から黒猫が生まれることがある、と」
「そうです。ですから……親に似ない子は存在するんです」
 教師の結論部分が習一にはひどく優しい声色に聞こえた。それは動物好きな者が猫への愛情をこめた台詞だ。習一は妙な気分を払拭する目的で、あらたな疑問をとりあげる。
「そういや、いつそんな専門的なことを知ったんだ? 猫が食えるもんを調べた時か」
「ええ、まあ、そうです。猫の遺伝研究が載った本を見たのはエリーですけどね。私が行った最寄りの図書館には置いてありませんでした」
「あいつが調べて、あんたに教えた?」
「あの子は読解力が足りていません。それらしいページを……私に見せてくれました」
「本を借りたかコピーしたのか。子猫の親がどんなのでもいいだろうに御苦労なこった」
 教師はさびしげな目を小山田に向けた。小山田は一瞬困ったような顔をしたが、ぱっと表情を明るくする。
「ママ用のおやつを買ってきたよ。シュウちゃん、あげてみない?」
 小山田は収納棚から縦長の袋を出した。ジャーキーを一本、習一に持たせる。習一は不自然な話題変えだと思ったが、ひとまずおやつを母猫へ近づけた。本当は三毛だった猫が棒状のエサにおののいて顔を引き、鼻をぴくつかせる。匂いでそれが食料だとわかると先端を噛んだ。かじかじ噛んで味わったあと、両前足でジャーキーを奪い、大事そうに抱えて食べる。そのかぶり付き具合はおやつを気に入った証拠だろう。三者の顔がゆるんだ。
「なんだ、かわいいとこあるじゃねえか」
 人間に媚びを売らず、他者の善意を拒みがちだった猫が手渡しのエサに食い付いた。少しずつ打ち解けている実感が湧いて、習一は久しぶりに嫌味のない笑みがもれた。

タグ:習一
posted by 三利実巳 at 00:00 | Comment(0) | 習一篇草稿
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