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2018年12月10日
習一篇草稿−2章下
4
掛布団の上に寝た習一は薄く目を開けた。日はもう上がっている。いまは何時だろう、とうつろな目でベッド棚の上の置き時計を見る。針は七時半を指す。次に窓の外を眺めた。青い空に浮かぶ白い雲同士が折り重なる。その下部に太い灰色の筋ができた。
(銀色……)
灰の帯が銀髪の教師と少女を連想させた。彼らは今日も習一の監視を続ける。本日は男の方が終日同伴するとも聞いた。今日はどこへ行かされるやら、と取りとめもないことを考え、まぶたを落とした。二度寝は数分を経たずして阻害される。例の銀髪の少女が窓を叩く。彼女の登頂ルートはもはや気にならなくなっていた。習一が窓を開けると少女は靴を履いたまま部屋へ入った。今日の彼女は荷物を担いでいない。
「シューイチ、おはよう。今日はシドがくるよ」
「それを伝えに、土足で他人の部屋に押し入るのか?」
「えーと、ほかに伝えたいことがあって。今日こなすプリント以外に、昨日といたプリントを持ってきてね。シドが採点するの。あと、プリントの解答は教科書を見てやっていいんだって。家庭科や芸術の問題はやりにくいと思うから、教科書ももっていこう」
「教科書も? かさばるな、そりゃ……」
「教科書がいるプリントと、なくてもいいプリントをえらんだらどう? 昨日のシューイチ、なにも見なくてもかけてたよね」
「まあ……昔取った杵柄、ってやつな」
「んじゃ、したくしてね。わすれものがないように気をつけて」
習一は勉強机の本棚を眺める。ぎっしり詰まった棚には授業で使う教科書と、よく宿題に指定される問題集が区分けして並ぶ。使用頻度の少ない芸術等の教科書は棚の隅に追いやられていた。教材に対する扱いは優等生時分と変わらず、使いやすく整理してある。
(昔からのクセは抜けねえな……)
悪辣な学生になりきれぬ証拠は一時放置し、クリアファイルの中をあらためる。今日やると決めた科目と時間が余った時用の予備を鞄に詰め、必要になりそうな教科書も同梱する。次に夏用の衣類をクローゼットから探り、着替える。部屋を出ると二階の階段側の壁にあった絵画は外れたままだと気付いた。階段にもなく、どこかへ運ばれたらしい。
(ま、どうでもいいか)
昨晩習一につかみかかった男が現れないうちに玄関へ向かう。昨日脱いだ靴はきれいに揃えられていた。靴を履いて戸を開けると、鉄格子の奥に長身の男の後ろ姿が見えた。
(あいつは……)
黒いシャツの袖を腕まくりした男だ。習一が初めて会った時と同じ姿でいる。習一が鉄格子に手をかけると、銀髪の男が習一に黄色のサングラスを向けた。
「四日ほど会っていませんでしたね。私のことは覚えておいでですか?」
「あんたみたいな目立つ人間、忘れねえよ」
「そうですか。忘れていないと聞けて安心しました。では行きましょう」
「どこに行くんだ?」
「まずは朝食を食べに行きます。希望はありますか? なければ私が店を選びますが」
「あんたの好きなところでいい。オレは食べ物の好き嫌いはしないほうだ」
「よい返事です。さて、歩きますよ」
銀髪の教師はビジネス鞄を手に提げて移動する。習一は自分を起こした少女が彼のそばにいないことを不審に思った。
「オレの部屋に来てた女の子はどこへ行ったんだ?」
「この町のどこかにいると思います。私が呼べば来てくれますよ。会いたいのですか?」
「いや、別に会いたくはないが……オレと話して、すぐにいなくなっちまったのか?」
「はい、この場に残る必要がなかったもので」
「良いように使いぱしりにしてるんだな。あんたとどういう関係だ?」
「血縁関係は不確かですが、表向きは妹ということにしています」
「あれだけ似てんのに血の繋がりがないかもだって? どういう家庭で育ったんだ」
「家庭と呼べるものは私たちにありません。あるのは主従関係。エリーは従者仲間です」
「エリー? それがあの子の名前か」
昨日は半日近く一緒にいたというのに、彼女の名前を知らなかった。そのことに習一は今になって気付く。教師はふりむきざま、口元をやんわり横に引いた。
「不便な思いをさせたようですね。彼女は自己紹介することに慣れていません。あとで教えておきます。初対面の人には自分の名を伝えるように、と」
習一が少女の名を知らないことで発生した不都合はない。彼女とは最低限の会話のみで過ごした。名を呼びあう場面はなかったのだ。
「あ、いや……どうせ名前を知ってても呼ぶかわかんねえし、なんともない。それよか、家庭がない従者ってなんだよ?」
「言葉通りです。物心がついた時から私たちは主(あるじ)に従い、主を親として慕いました。けれど、主は幼子をあやして育てるといった行為をしなかったと思います」
教師の説明は習一の既存の知識では理解が及ばない。身寄りのない子どもを集めて育てる孤児院出身というバックボーンではなさそうだ。習一は首をかしげた。
「ご主人の命令に従って生きてるんだろ? 高校の教師をやってんのもその命令か」
「初めはそうでした。今は違います。主の命令に逸脱した日々を……これから送ろうとしています」
「オレの復帰の手伝いが命令違反なのか?」
「それもそうですが、貴方個人のために主に背こうとしたのではありません。なにがきっかけか、と聞きたいかもしれませんが、まだ答えられません」
「へいへい、お得意の『記憶がもどったら話す』か。だがな、オレが忘れちまったことを知り合い連中が教えてきたぞ。あんたの思い通りにならなくて残念だったな」
習一は教師の意に反する出来事を意地悪に言った。教師は「それは結構なことです」と答え、進行方向へ向きなおる。
「私が説明を渋るのは貴方に納得してもらえないと考えたからです。親しい御仁の言葉なら、すんなりと胸に落ちるでしょう。貴方と親交のない私にはできないことです」
教師のもったいぶりは、習一に知られてはまずいと考えての行動ではない。理解できる基盤のない者になにを言っても無駄だ、という観点で口を閉ざしている。他意はないのだろうが、自身を飲みこみの悪い魯鈍な者として扱うさまに習一は口をへの字にした。
「無理にわからせようとして、貴方を惑わせたくはありません。まず先に家庭と学習環境を整えて、しかるのちにきちんとお教えします。もちろん、記憶が復活すれば順序は入れ替わるでしょう。その予定でよろしいですか?」
教師は合理的な判断のもと、習一に接している。無駄を嫌う習一には異議を突きつける箇所が思いあたらなかった。一学期の成績を決定づける期限は今月中。遅くとも来月の頭までだろう。それまでに及第にこぎつく努力を果たせなければ三度目の高校二年生を迎えてしまう。この状況下において、自分と教師との確執を知る私事は後回しでよい。
「わかった。とにかく今は学校のことを片付けておくんだろ」
「はい。それが先決です。そのために栄養を補給しておきましょう」
二人は会話を一区切りつけた。習一が案内された場所は主要道路から少し外れた喫茶店だ。外装はどのチェーン店とも一致しない、個人経営の店らしい。一般的な店の始業時刻前だというのに、窓越しに見える店内にはテーブルでくつろぐ客が数人点在した。
5
入店した直後、ちりんちりんと鈴の音が鳴った。習一が木製の戸を見ると、戸の上部に付いた戸当りの部分に鈴が複数垂れている。鈴を吊るす紐には装飾をなすリボンが結んであり、女性的な店構えだと感じた。入口付近には店内の壁と、格子状の高い木製の衝立が左右にそびえる。入店者はまっすぐにレジへと進む構造だ。レジにいる小柄な男性──に思えたが、それは少年のような風貌の女性だ。深緑色のエプロンを掛けた女性店員が笑顔で客を接待する。店員は現在の料金形態は前払いだと言い、その言葉通りに教師が支払いをする。店員が横を向いた先に彼女と同じエプロンを着用する長身の女性がいた。
「二名様、こちらの席へどうぞ〜」
女性にしては低い声で給仕が言う。彼女の緑のエプロンの下には黒と白でデザインしたスカート丈の短いエプロンドレスを着ており、レジの店員とは雰囲気が著しく異なる。そもそもエプロンを二重にする意図がわからない。奇怪なファッションを堂々と客に見せる女性は場違いなほど妖艶な体つきでいる。エプロンを大きく前へ突き出す胸部とさらけ出た太ももが、喫茶店全体をいかがわしい店だと思わせた。
色気を強調する女性は教師を店内のテーブルへ案内した。どういうつもりでこの店を選んだのか、と習一は先導者の男の横顔をのぞく。彼は微妙にしかめ面をしている。教師も風俗嬢もどきの店員を不快に感じたようだ。
給仕に言われるまま、習一たちは壁側のテーブルを挟んで座った。給仕がテーブルに二人分のフォークと箸の入った細い籠を置き、座席の壁側にあるメニュースタンドへ手を伸ばす。ぶ厚い曲線を描く胸が卓上に浮いた。あまり凝視するのもなんだ、と習一は自身の視線を給仕の動く手に固定する。彼女はメニューを取り、机上に置く。
「お好きな飲み物を一つ選んでね。ワンドリンク制なの。この中の飲み物一つと、ソーセージとお惣菜パン二個をお一人に届けます。ほかはご自分で好きなだけとってね」
「ほか?」
「ええ、食パンやサラダが食べ放題よ。フリードリンクもあるの。お得でしょう?」
給仕は愛想のいい笑顔をして習一と教師に同意を求めた。教師は「そうですね」と気のない返事をする。給仕は無愛想な客にはめげず、ドリンクの注文を要求する。教師は無難にコーヒーを頼み、習一はフルーツソーダという変わった名称のジュースに決めた。オーダーをとった給仕はしゃなりしゃなりと歩き、カウンターの奥へと消えた。
習一が店内を見ればカウンター沿いに取り放題の食品が並んでいた。大量の食パンが入った籠や、野菜を千切りにしたサラダとそれにかけるドレッシング、炒り卵が入った器、ティーポッドなどを置いた机がある。習一はそれらの前を通ったのだが、給仕の異様さに全意識を注いだせいで気付かなかった。
「あちらにあるものは自分で取って飲み食いするようですね。行ってきてはどうです?」
「あんたはいいのか?」
「はい。これから運ばれてくるもの次第で考えます」
「量が多かったらやめとこう、てか。オレもそうするか。バカスカ食える調子じゃない」
「オダギリさんは健康面を考えて、サラダと卵を召しあがったらよいかと思いますが」
その意見は習一も同感だが、教師に言われるのは不思議な心地がした。
「親みてえなことを言うんだな」
「親? それは世間一般的な親のことですか。それともご自身の親のことでしょうか」
生真面目な顔をして教師が問う。習一は面食らった。深く考えずに発した言葉の真意を尋ねられるとは思ってもみなかったのだ。自分はどういう思考のもとにそう告げたのだろう。少なくとも習一の父親は除外できる。父のことを思うと芋づる式に昨晩の出来事が脳裏によみがえった。苦々しいものが口内にこみあげる。習一は噴き出る記憶をかき消すために席を立ち、荒々しく歩く。バイキング形式の食事を皿にかき集めた。山盛りになった皿の上に栄養によいというゴマを含んだドレッシングを野菜と卵の別なくかけ、席にもどった。その頃には艶めかしい給仕がトレイを運び、習一たちの飲食物をテーブルに並べていた。食事を配り終えた給仕は勤務中の定位置につかず、銀髪の教師に笑いかける。
「キリちゃんが言ってたとおりの男前ね。先生もモデルをやってみたらどう? 絶対、若いコからマダムまで気に入られるわよ」
「衆目にさらされる仕事は遠慮します。私はささやかに暮らしたいですから」
「まだ二十七なんでしょ? ご隠居みたいなこと言ってちゃもったいないわ。若いうちはいろんな可能性を試してみなくっちゃ」
「今のところ、教員生活に満足できています。ほかの職業を試す必要はありません」
「あら、でも一ヶ月ヒマなんでしょう。その間に挑戦してもいいんじゃないかしら」
「……御縁があれば、考えます」
「わたしから口利きしてもいいのよ」
教師は返答に困った。その反応を給仕は楽しげに見る。習一は卵入りサラダをもしゃもしゃ食いつつ両者のやり取りを見物した。給仕はモデル業をしているらしい。その職に見合う端正な顔と身体を有している。ただ一つの欠点は声。聞こえようによっては男性に思える低さだ。外見の美麗さのみを求められるモデル業にはピッタリの人材かもしれない。
カウンターに控える店員が給仕を呼んだ。呼び声に応じて給仕は立ち去る。モデルの誘いを断りきれずにいた教師は安堵し、湯気の立つコーヒーを口にふくんだ。習一も大きなグラスを手にする。習一が注文したサイダーは透明な炭酸飲料のはずだが、届いたものは濁っていた。フルーツ、という品名があったものの果物とわかる物体は見えず、グラスの中に赤や青の粒が浮かぶ。ストローを挿して飲んでみるとサイダーの味以外に、複数の果物の味と香りが広がった。果物を細かくしてサイダーで割った飲み物だ。習一は取ってきたサラダと交互に飲み食いして、腹は満ちないのに充足した気分になった。
教師は箸を握り、二本のソーセージと異なる惣菜パンが乗った皿をつつく。食べるのか、と習一は思ったが違った。彼は焼き目のついたソーセージを持ち上げ、片方の同じ食べ物を盛った皿へ移す。ソーセージの量が倍になった皿を習一の前へと出した。
「このくらいは食べられるでしょう。遠慮なくどうぞ」
「そんなデカい体をしてるくせに、食わねえのか?」
「はい。貴方には早く体力をもどしてほしいですから、私の分も食べてください」
教師は手持ちの本を読み始め、パンにも手をつけないでいる。彼自身はコーヒー一杯で朝食が済むようだ。常人以上に恵まれた体だというのに、その骨と筋肉は何からできたものかと習一は奇妙に感じた。そういえば彼の妹分も全く飲食行為を見せなかった。
「エリー……ってやつも全然飲まないし食わなかったな。二人とも、少食か?」
「はい、そうです。生活するのに不自由はしませんので安心してください」
教師は再び本に目を落とす。その状態で習一の食事が終わるのを待つつもりだ。習一は厚意を受け入れ、増えた焼きソーセージをかじった。焼いたことで香ばしさが増し、うまいと感じた。取り放題の食品とは段違いに旨みを感じる品だ。独り占めするのは少し気が引けて、自身の分け前を譲渡した相手の顔をちらっと見る。彼は習一の飲食に対して無関心だ。習一は彼が口に入れるはずだった朝食をとった。
習一が満腹になり、一服したところで教師とともに喫茶店を離れた。つまるところ店は普通の飲食店であり、給仕一人が異色な風貌と態度で勤務するだけだった。モデル云々というので彼女は有名人なのだろうが、習一は知らぬ人物だ。教師は給仕と共通の知人がいたようで、そのことを習一が尋ねると「教え子がこの店の手伝いをしています」と返答があった。会計をした店員かと聞くと違うと言われ、その他に教え子らしき若い店員は見なかった。非番の日だったか客に見えない裏方なのだと思い、習一は深追いしなかった。
6
習一たちは大きな図書館へついた。開館時間にはまだ早く、閉館の立札が透明な自動扉の奥に置かれる。扉の付近には開錠を待つ人がいた。
群青の前掛けを着た司書が館内から登場し、ロックを解除すると扉が左右に開いた。司書が立札を引っ込めるのを待たずして利用客が入館する。教師もまた「それでは行きましょう」と習一に入館をすすめた。
二人は本棚と机が並ぶ広間へ入った。独特の匂いが満ちる。年数を経た書物が発する匂いだと習一は思った。教師が木製の長机に鞄を置いたので習一も反対側の席に陣取る。
「オレが解いた課題、あんたが答え合わせするんだって?」
私語を慎むべき図書館内にいるのを考慮して、習一は声を小さくした。
「自己採点するのでもかまいませんが、いかがします?」
「あんたにやってもらったらその分早く終わる」
「おっしゃる通りです。では私が正誤の確認をしましょう。終わったら解答とともに返します。間違った箇所は解答欄の付近に正しい答えを記入してください」
習一は教師にクリアファイルを渡した。彼の鞄から似たクリアファイルが出る。それが解答の一覧のようだ。習一も椅子に座ってプリントと教科書を机上に並べる。以後、両者は黙々と作業に没頭した。教師は赤ペンをキュッと鳴らして紙上に丸をつける。一枚めが終わると紙をめくり、またペンを鳴らす。その行為は一束十分前後で済んだ。丸点けの終わったプリントの上に解答の紙を乗せ、習一との間の机上に置く。その行為は三回行われた。習一が何時間もかけたものを教師は三十分程度で見納める。
「丸点けは終わりました。確認のタイミングは貴方に任せます」
習一は手を止めて顔を上げた。採点者の顔には黄色いレンズの眼鏡がかかったままだ。
「学校でもそのサングラスをかけたまんま、採点をやってんのか?」
「いえ、普段は外します。他の色ペンと混同するおそれがありますからね。今日は赤ペンのみ持ってきたので、間違えません」
「じゃあ学校ではサングラスをかけたり外したりすんのか」
「はい」
「めんどくさいことやってんな。んなモン、なくたっていいだろ」
「私はわずらわしいと思いません。ですが、貴方と同じようにサングラスを不要だと指摘した教え子はいます。それが普通の感覚なのでしょうね」
そう言って教師は静かに椅子を後ろに引き、立った。
「なにするんだ?」
「せっかく図書館に来たのですから本を読みます。オダギリさんもお好きなものを読んでいいですよ。切羽つまる状況ではありませんので、適度に息抜きしてください」
悠長な助言をした教師は書架の群れへ身を投じた。本が好きなやつなのか、と習一は喫茶店での彼と昨日の少女の様子をふりかえりながら思った。少女は習一がプリントに向かう時は本を読んでいたものの、習一が昼食を食べる時は周囲を眺めていた。彼女自身は待ち時間に率先して本を読みたい、と欲する読書家ではなさそうだ。おそらくは、習一の勉学を見守る間は本を読めと教師に言われ、素直に実行していたのだろう。
習一は己に課された問題を解く。教師は図書館の本を読んでもいいと言ったが、そんな余裕はない。鞄の重さを増やす教材は本日限りの運送にすべく、教科書を持ってきた教科のプリントを始末する。教科書を自室に置いてきたプリントは後日に回しても負担はない。そのような優先順位を設けて取り組んだ。
十五分ほどして習一の監督者がもどる。三冊の本を机に置き、うち一冊を開く。それらは心理学にまつわる内容の表題だった。大人が子どもの行動原理を知るための本、子の目線で親の実態を見つめる本。年代を問わず普遍的な人の心情を解き明したという題名の本。
(オレの目の前でオレ対策すんのか?)
三冊すべてが習一への対応手段を学ぶ選出のように思えた。しかし教師は子どもとその親に密に接する職務だ。習一を御するだけに万全を尽くすつもりはないだろう。その気があるなら習一と関わる日までに学習しただろうし、対象の目の前で大っぴらに学ばない。習一は自分が教師の立場に置かれた場合を考え、自身の初めの仮説を棄てた。
習一が問題数が少なめだった束を一つ仕上げ、美術の教科書を閉じる。芸術科目は音楽との二択で授業を選ぶ。音感のない習一は消去法で美術を選択していた。教師が丸点けを完了して置いた三束の横へ、束をひょいと運ぶ。教師が読書を中断して赤ペンを手にする。ペンが走る音を聞きつつ、習一は休む間なく体育の教科書を開いた。五教科以外の実技科目は総じて問題数が少なく、前日こなした課題未満の分量。正午を過ぎるころに解答は終了できた。教師が目を通した課題の束の横に家庭科のプリントを置き、教師は本を閉じた。
「もう昼食の時間ですね。腹の具合はどうです?」
「減ってない。あんたはどうなんだ? パンとコーヒーだけで足りるのか」
「私も空腹ではありません。貴方が食事をとりにいく間、私が荷物の番をしますが」
「いい。きっちり三食食わなくても平気だ。とっとと課題をやっつけてやる」
「わかりました。早めに切り上げて夕食をしっかり食べる心積もりでいましょう」
「夕飯も食いに行くのか?」
「はい。私は料理ができませんから」
教師の告白はつまり、前日のサンドイッチの制作者が彼ではないことを明かしている。では誰が作ったのか、という質問が習一の喉に出掛かり、飲みこんだ。現状関係のない雑談は避けるべきだと、この場の雰囲気と手持ちの課題の残量を考慮した。
二人は昼食をとらず、午前中と同じことを午後にも繰り返した。習一は残りの五教科の理科と社会科のうち、教科書を持参した政治経済に苦戦する。教科書にない作文の解答を要求する問いでつまづいたのだ。機械的に教科書の説明を抜き出したり入れ替えたりして解ける出題ではない。出題の該当範囲にあたる教科書部分を読み返し、きっとこういう事だろうと自分なりに解釈して文章を組み立てた。快調な出だしだった午前の課題とは反対に、鈍重な進捗に突きあたる。習一は嫌気がさして、関心を周囲へ移した。
館内には試験勉強に励む若者や、余生をもて余すかのような老人が新聞を読むほか、長机の端に親子連れがいた。父らしき男性と小学校低学年に見える男の子が向かい合って机に座り、各々が鉛筆を片手にして何ごとか言う。男の子は不平不満を募らせた表情で、薄い問題集を開いている。柔らかい顔つきの男性が喋り終えて、子は休んでいた手を動かす。もう飽きた、帰りたいなどの不服は言いくるめられたのだろう。父親のほうも分厚い本を開いてノートに書きつける作業を再開した。なぜか習一は頬の筋肉が刺激されるのを感じた。笑ったのだ。あの親子を見て。それに気づいた時、どうして笑ったのだか自分でよくわからないでいた。だが不思議と悪い気はしない。以前はそういった仲の良い親子風景を見せつけられれば、なぜ自分はああでないのだと無性にやりきれなくなっていた。今もそのわだかまりが全く生まれないわけではない。だが快の心持ちがより前面に感じられ、不快はその陰へと追いやられる。その心境の変化の要因は特定できない。あえて言うなれば、入院生活で習一が失った体力と闘争心と一緒に、負を感じとる感情も弱まった。悪い憑き物が落ちたように、習一の感受性を一般的なものへ寄りもどしたのかもしれない。
長考がすぎたのか、習一が我を取りもどした時に教師と目が合った。彼は習一の異変を感じたようだ。習一が気まずそうに眉をしかめると彼はなにも見なかった風体で読書をする。それからの習一は顔を上げず、視線は机上の移動に限定した。
太陽が赤みをうっすら帯びる時間帯になり、習一は朝のうちに腹に貯めた食料が完全に尽きるのを感じた。参考資料が手元にあるプリントはすべて解き終え、教師による確認も終わった。教師がペンを走らせた紙の束は積み重なったままだ。誤答の確認は自室でも簡単にできる、と踏んだ習一が放置していた。習一は教科書なしで解くプリントを前にして、ふと考える。補習の開始日は明々後日。明日と明後日は習一の予定がない。もし教師が一日および二日間とも習一の近辺にはべるのなら、間違いを訂正するだけのプリントをまた持ち運ぶ必要がある。であれば今のうちに片付けておけば効率が良い。自分が先に済ませる事柄を決定するため、習一は図書を読みふける教師に質問を投げる。
「あんたの見張り、明日も明後日もやる気か?」
「はい。明日も今日と同じように課題に励んでもらうつもりです。明後日は課題の進み具合によって予定を変えます」
「プリントは明日には全部終わるな。それなら間違いの確認をやっとくか……」
「確認が終わったら知らせてください」
教師は男女の思考の違いについての本に目を落とす。彼は一度めに取ってきた三冊を読み終え、返却して新たに図書を複数持ってきた。タイトルは違えど人間の心理にまつわる解説本ばかり読みあさっている。職業柄、念頭に入れるべき知識なのだろうが、そこまで念入りに知る必要がこの男にあるのだろうか。
習一は銀髪の教師とは二日程度しか顔を合わせていないとはいえ、その二日で固まった人物像は温厚篤実な紳士。彼が世間一般的な失言や失態を引き起こす様子は想像しにくい。むろん初対面では習一の癇に障るワードを出していたのだが、それは習一に必須な事柄だった。あれで習一が怒り狂ったなら、常識においてこちらの感性や理解に問題がありそうな気がした。
得てして、他者から見てすでに一人前の域に到達しても「まだ不足がある」と学びを深める者がいる一方、本当に知識を備えるべき者は「意味のないこと」と捨て置き、自己の瑕疵をさらに拡張させていくものなのかもしれない。習一が頭に浮かべる後者は紛れもなく父親だった。
習一は四色ボールペンの青色で正答を書き続け、教師が手を下したプリントすべてを見終わった。教師の顔を見ると彼は無言で立ち、本を携えて長机を離れる。習一はクリアファイルに紙の束を入れ、筆箱とともに鞄の中へ収めた。鞄にしまった教科書の背を触り、持参した冊数に差がないことを確かめる。私物がなくなった机を見つめ、教師の帰還を待った。ほどなくして一時的な保護者が姿を見せる。教師が黒鞄の持ち手を握った。
「外へ行きましょう」
二人は半日過ごした公共施設を発った。館外へ出た教師は足を止める。
「夕飯の希望はありますか?」
「ない。あんたの好きにしてくれ」
「わかりました。私のあとについて来てください」
習一は行き先を尋ねずに、髪を暗い朱に染める教師を追いかけた。教師は習一の家とは反対の方向へ向かう。その方角にはパン屋やラーメン屋など食べ物関係の店が居並ぶ。そのどれかが夕食になるのだと習一はあらかじめ想定した。
掛布団の上に寝た習一は薄く目を開けた。日はもう上がっている。いまは何時だろう、とうつろな目でベッド棚の上の置き時計を見る。針は七時半を指す。次に窓の外を眺めた。青い空に浮かぶ白い雲同士が折り重なる。その下部に太い灰色の筋ができた。
(銀色……)
灰の帯が銀髪の教師と少女を連想させた。彼らは今日も習一の監視を続ける。本日は男の方が終日同伴するとも聞いた。今日はどこへ行かされるやら、と取りとめもないことを考え、まぶたを落とした。二度寝は数分を経たずして阻害される。例の銀髪の少女が窓を叩く。彼女の登頂ルートはもはや気にならなくなっていた。習一が窓を開けると少女は靴を履いたまま部屋へ入った。今日の彼女は荷物を担いでいない。
「シューイチ、おはよう。今日はシドがくるよ」
「それを伝えに、土足で他人の部屋に押し入るのか?」
「えーと、ほかに伝えたいことがあって。今日こなすプリント以外に、昨日といたプリントを持ってきてね。シドが採点するの。あと、プリントの解答は教科書を見てやっていいんだって。家庭科や芸術の問題はやりにくいと思うから、教科書ももっていこう」
「教科書も? かさばるな、そりゃ……」
「教科書がいるプリントと、なくてもいいプリントをえらんだらどう? 昨日のシューイチ、なにも見なくてもかけてたよね」
「まあ……昔取った杵柄、ってやつな」
「んじゃ、したくしてね。わすれものがないように気をつけて」
習一は勉強机の本棚を眺める。ぎっしり詰まった棚には授業で使う教科書と、よく宿題に指定される問題集が区分けして並ぶ。使用頻度の少ない芸術等の教科書は棚の隅に追いやられていた。教材に対する扱いは優等生時分と変わらず、使いやすく整理してある。
(昔からのクセは抜けねえな……)
悪辣な学生になりきれぬ証拠は一時放置し、クリアファイルの中をあらためる。今日やると決めた科目と時間が余った時用の予備を鞄に詰め、必要になりそうな教科書も同梱する。次に夏用の衣類をクローゼットから探り、着替える。部屋を出ると二階の階段側の壁にあった絵画は外れたままだと気付いた。階段にもなく、どこかへ運ばれたらしい。
(ま、どうでもいいか)
昨晩習一につかみかかった男が現れないうちに玄関へ向かう。昨日脱いだ靴はきれいに揃えられていた。靴を履いて戸を開けると、鉄格子の奥に長身の男の後ろ姿が見えた。
(あいつは……)
黒いシャツの袖を腕まくりした男だ。習一が初めて会った時と同じ姿でいる。習一が鉄格子に手をかけると、銀髪の男が習一に黄色のサングラスを向けた。
「四日ほど会っていませんでしたね。私のことは覚えておいでですか?」
「あんたみたいな目立つ人間、忘れねえよ」
「そうですか。忘れていないと聞けて安心しました。では行きましょう」
「どこに行くんだ?」
「まずは朝食を食べに行きます。希望はありますか? なければ私が店を選びますが」
「あんたの好きなところでいい。オレは食べ物の好き嫌いはしないほうだ」
「よい返事です。さて、歩きますよ」
銀髪の教師はビジネス鞄を手に提げて移動する。習一は自分を起こした少女が彼のそばにいないことを不審に思った。
「オレの部屋に来てた女の子はどこへ行ったんだ?」
「この町のどこかにいると思います。私が呼べば来てくれますよ。会いたいのですか?」
「いや、別に会いたくはないが……オレと話して、すぐにいなくなっちまったのか?」
「はい、この場に残る必要がなかったもので」
「良いように使いぱしりにしてるんだな。あんたとどういう関係だ?」
「血縁関係は不確かですが、表向きは妹ということにしています」
「あれだけ似てんのに血の繋がりがないかもだって? どういう家庭で育ったんだ」
「家庭と呼べるものは私たちにありません。あるのは主従関係。エリーは従者仲間です」
「エリー? それがあの子の名前か」
昨日は半日近く一緒にいたというのに、彼女の名前を知らなかった。そのことに習一は今になって気付く。教師はふりむきざま、口元をやんわり横に引いた。
「不便な思いをさせたようですね。彼女は自己紹介することに慣れていません。あとで教えておきます。初対面の人には自分の名を伝えるように、と」
習一が少女の名を知らないことで発生した不都合はない。彼女とは最低限の会話のみで過ごした。名を呼びあう場面はなかったのだ。
「あ、いや……どうせ名前を知ってても呼ぶかわかんねえし、なんともない。それよか、家庭がない従者ってなんだよ?」
「言葉通りです。物心がついた時から私たちは主(あるじ)に従い、主を親として慕いました。けれど、主は幼子をあやして育てるといった行為をしなかったと思います」
教師の説明は習一の既存の知識では理解が及ばない。身寄りのない子どもを集めて育てる孤児院出身というバックボーンではなさそうだ。習一は首をかしげた。
「ご主人の命令に従って生きてるんだろ? 高校の教師をやってんのもその命令か」
「初めはそうでした。今は違います。主の命令に逸脱した日々を……これから送ろうとしています」
「オレの復帰の手伝いが命令違反なのか?」
「それもそうですが、貴方個人のために主に背こうとしたのではありません。なにがきっかけか、と聞きたいかもしれませんが、まだ答えられません」
「へいへい、お得意の『記憶がもどったら話す』か。だがな、オレが忘れちまったことを知り合い連中が教えてきたぞ。あんたの思い通りにならなくて残念だったな」
習一は教師の意に反する出来事を意地悪に言った。教師は「それは結構なことです」と答え、進行方向へ向きなおる。
「私が説明を渋るのは貴方に納得してもらえないと考えたからです。親しい御仁の言葉なら、すんなりと胸に落ちるでしょう。貴方と親交のない私にはできないことです」
教師のもったいぶりは、習一に知られてはまずいと考えての行動ではない。理解できる基盤のない者になにを言っても無駄だ、という観点で口を閉ざしている。他意はないのだろうが、自身を飲みこみの悪い魯鈍な者として扱うさまに習一は口をへの字にした。
「無理にわからせようとして、貴方を惑わせたくはありません。まず先に家庭と学習環境を整えて、しかるのちにきちんとお教えします。もちろん、記憶が復活すれば順序は入れ替わるでしょう。その予定でよろしいですか?」
教師は合理的な判断のもと、習一に接している。無駄を嫌う習一には異議を突きつける箇所が思いあたらなかった。一学期の成績を決定づける期限は今月中。遅くとも来月の頭までだろう。それまでに及第にこぎつく努力を果たせなければ三度目の高校二年生を迎えてしまう。この状況下において、自分と教師との確執を知る私事は後回しでよい。
「わかった。とにかく今は学校のことを片付けておくんだろ」
「はい。それが先決です。そのために栄養を補給しておきましょう」
二人は会話を一区切りつけた。習一が案内された場所は主要道路から少し外れた喫茶店だ。外装はどのチェーン店とも一致しない、個人経営の店らしい。一般的な店の始業時刻前だというのに、窓越しに見える店内にはテーブルでくつろぐ客が数人点在した。
5
入店した直後、ちりんちりんと鈴の音が鳴った。習一が木製の戸を見ると、戸の上部に付いた戸当りの部分に鈴が複数垂れている。鈴を吊るす紐には装飾をなすリボンが結んであり、女性的な店構えだと感じた。入口付近には店内の壁と、格子状の高い木製の衝立が左右にそびえる。入店者はまっすぐにレジへと進む構造だ。レジにいる小柄な男性──に思えたが、それは少年のような風貌の女性だ。深緑色のエプロンを掛けた女性店員が笑顔で客を接待する。店員は現在の料金形態は前払いだと言い、その言葉通りに教師が支払いをする。店員が横を向いた先に彼女と同じエプロンを着用する長身の女性がいた。
「二名様、こちらの席へどうぞ〜」
女性にしては低い声で給仕が言う。彼女の緑のエプロンの下には黒と白でデザインしたスカート丈の短いエプロンドレスを着ており、レジの店員とは雰囲気が著しく異なる。そもそもエプロンを二重にする意図がわからない。奇怪なファッションを堂々と客に見せる女性は場違いなほど妖艶な体つきでいる。エプロンを大きく前へ突き出す胸部とさらけ出た太ももが、喫茶店全体をいかがわしい店だと思わせた。
色気を強調する女性は教師を店内のテーブルへ案内した。どういうつもりでこの店を選んだのか、と習一は先導者の男の横顔をのぞく。彼は微妙にしかめ面をしている。教師も風俗嬢もどきの店員を不快に感じたようだ。
給仕に言われるまま、習一たちは壁側のテーブルを挟んで座った。給仕がテーブルに二人分のフォークと箸の入った細い籠を置き、座席の壁側にあるメニュースタンドへ手を伸ばす。ぶ厚い曲線を描く胸が卓上に浮いた。あまり凝視するのもなんだ、と習一は自身の視線を給仕の動く手に固定する。彼女はメニューを取り、机上に置く。
「お好きな飲み物を一つ選んでね。ワンドリンク制なの。この中の飲み物一つと、ソーセージとお惣菜パン二個をお一人に届けます。ほかはご自分で好きなだけとってね」
「ほか?」
「ええ、食パンやサラダが食べ放題よ。フリードリンクもあるの。お得でしょう?」
給仕は愛想のいい笑顔をして習一と教師に同意を求めた。教師は「そうですね」と気のない返事をする。給仕は無愛想な客にはめげず、ドリンクの注文を要求する。教師は無難にコーヒーを頼み、習一はフルーツソーダという変わった名称のジュースに決めた。オーダーをとった給仕はしゃなりしゃなりと歩き、カウンターの奥へと消えた。
習一が店内を見ればカウンター沿いに取り放題の食品が並んでいた。大量の食パンが入った籠や、野菜を千切りにしたサラダとそれにかけるドレッシング、炒り卵が入った器、ティーポッドなどを置いた机がある。習一はそれらの前を通ったのだが、給仕の異様さに全意識を注いだせいで気付かなかった。
「あちらにあるものは自分で取って飲み食いするようですね。行ってきてはどうです?」
「あんたはいいのか?」
「はい。これから運ばれてくるもの次第で考えます」
「量が多かったらやめとこう、てか。オレもそうするか。バカスカ食える調子じゃない」
「オダギリさんは健康面を考えて、サラダと卵を召しあがったらよいかと思いますが」
その意見は習一も同感だが、教師に言われるのは不思議な心地がした。
「親みてえなことを言うんだな」
「親? それは世間一般的な親のことですか。それともご自身の親のことでしょうか」
生真面目な顔をして教師が問う。習一は面食らった。深く考えずに発した言葉の真意を尋ねられるとは思ってもみなかったのだ。自分はどういう思考のもとにそう告げたのだろう。少なくとも習一の父親は除外できる。父のことを思うと芋づる式に昨晩の出来事が脳裏によみがえった。苦々しいものが口内にこみあげる。習一は噴き出る記憶をかき消すために席を立ち、荒々しく歩く。バイキング形式の食事を皿にかき集めた。山盛りになった皿の上に栄養によいというゴマを含んだドレッシングを野菜と卵の別なくかけ、席にもどった。その頃には艶めかしい給仕がトレイを運び、習一たちの飲食物をテーブルに並べていた。食事を配り終えた給仕は勤務中の定位置につかず、銀髪の教師に笑いかける。
「キリちゃんが言ってたとおりの男前ね。先生もモデルをやってみたらどう? 絶対、若いコからマダムまで気に入られるわよ」
「衆目にさらされる仕事は遠慮します。私はささやかに暮らしたいですから」
「まだ二十七なんでしょ? ご隠居みたいなこと言ってちゃもったいないわ。若いうちはいろんな可能性を試してみなくっちゃ」
「今のところ、教員生活に満足できています。ほかの職業を試す必要はありません」
「あら、でも一ヶ月ヒマなんでしょう。その間に挑戦してもいいんじゃないかしら」
「……御縁があれば、考えます」
「わたしから口利きしてもいいのよ」
教師は返答に困った。その反応を給仕は楽しげに見る。習一は卵入りサラダをもしゃもしゃ食いつつ両者のやり取りを見物した。給仕はモデル業をしているらしい。その職に見合う端正な顔と身体を有している。ただ一つの欠点は声。聞こえようによっては男性に思える低さだ。外見の美麗さのみを求められるモデル業にはピッタリの人材かもしれない。
カウンターに控える店員が給仕を呼んだ。呼び声に応じて給仕は立ち去る。モデルの誘いを断りきれずにいた教師は安堵し、湯気の立つコーヒーを口にふくんだ。習一も大きなグラスを手にする。習一が注文したサイダーは透明な炭酸飲料のはずだが、届いたものは濁っていた。フルーツ、という品名があったものの果物とわかる物体は見えず、グラスの中に赤や青の粒が浮かぶ。ストローを挿して飲んでみるとサイダーの味以外に、複数の果物の味と香りが広がった。果物を細かくしてサイダーで割った飲み物だ。習一は取ってきたサラダと交互に飲み食いして、腹は満ちないのに充足した気分になった。
教師は箸を握り、二本のソーセージと異なる惣菜パンが乗った皿をつつく。食べるのか、と習一は思ったが違った。彼は焼き目のついたソーセージを持ち上げ、片方の同じ食べ物を盛った皿へ移す。ソーセージの量が倍になった皿を習一の前へと出した。
「このくらいは食べられるでしょう。遠慮なくどうぞ」
「そんなデカい体をしてるくせに、食わねえのか?」
「はい。貴方には早く体力をもどしてほしいですから、私の分も食べてください」
教師は手持ちの本を読み始め、パンにも手をつけないでいる。彼自身はコーヒー一杯で朝食が済むようだ。常人以上に恵まれた体だというのに、その骨と筋肉は何からできたものかと習一は奇妙に感じた。そういえば彼の妹分も全く飲食行為を見せなかった。
「エリー……ってやつも全然飲まないし食わなかったな。二人とも、少食か?」
「はい、そうです。生活するのに不自由はしませんので安心してください」
教師は再び本に目を落とす。その状態で習一の食事が終わるのを待つつもりだ。習一は厚意を受け入れ、増えた焼きソーセージをかじった。焼いたことで香ばしさが増し、うまいと感じた。取り放題の食品とは段違いに旨みを感じる品だ。独り占めするのは少し気が引けて、自身の分け前を譲渡した相手の顔をちらっと見る。彼は習一の飲食に対して無関心だ。習一は彼が口に入れるはずだった朝食をとった。
習一が満腹になり、一服したところで教師とともに喫茶店を離れた。つまるところ店は普通の飲食店であり、給仕一人が異色な風貌と態度で勤務するだけだった。モデル云々というので彼女は有名人なのだろうが、習一は知らぬ人物だ。教師は給仕と共通の知人がいたようで、そのことを習一が尋ねると「教え子がこの店の手伝いをしています」と返答があった。会計をした店員かと聞くと違うと言われ、その他に教え子らしき若い店員は見なかった。非番の日だったか客に見えない裏方なのだと思い、習一は深追いしなかった。
6
習一たちは大きな図書館へついた。開館時間にはまだ早く、閉館の立札が透明な自動扉の奥に置かれる。扉の付近には開錠を待つ人がいた。
群青の前掛けを着た司書が館内から登場し、ロックを解除すると扉が左右に開いた。司書が立札を引っ込めるのを待たずして利用客が入館する。教師もまた「それでは行きましょう」と習一に入館をすすめた。
二人は本棚と机が並ぶ広間へ入った。独特の匂いが満ちる。年数を経た書物が発する匂いだと習一は思った。教師が木製の長机に鞄を置いたので習一も反対側の席に陣取る。
「オレが解いた課題、あんたが答え合わせするんだって?」
私語を慎むべき図書館内にいるのを考慮して、習一は声を小さくした。
「自己採点するのでもかまいませんが、いかがします?」
「あんたにやってもらったらその分早く終わる」
「おっしゃる通りです。では私が正誤の確認をしましょう。終わったら解答とともに返します。間違った箇所は解答欄の付近に正しい答えを記入してください」
習一は教師にクリアファイルを渡した。彼の鞄から似たクリアファイルが出る。それが解答の一覧のようだ。習一も椅子に座ってプリントと教科書を机上に並べる。以後、両者は黙々と作業に没頭した。教師は赤ペンをキュッと鳴らして紙上に丸をつける。一枚めが終わると紙をめくり、またペンを鳴らす。その行為は一束十分前後で済んだ。丸点けの終わったプリントの上に解答の紙を乗せ、習一との間の机上に置く。その行為は三回行われた。習一が何時間もかけたものを教師は三十分程度で見納める。
「丸点けは終わりました。確認のタイミングは貴方に任せます」
習一は手を止めて顔を上げた。採点者の顔には黄色いレンズの眼鏡がかかったままだ。
「学校でもそのサングラスをかけたまんま、採点をやってんのか?」
「いえ、普段は外します。他の色ペンと混同するおそれがありますからね。今日は赤ペンのみ持ってきたので、間違えません」
「じゃあ学校ではサングラスをかけたり外したりすんのか」
「はい」
「めんどくさいことやってんな。んなモン、なくたっていいだろ」
「私はわずらわしいと思いません。ですが、貴方と同じようにサングラスを不要だと指摘した教え子はいます。それが普通の感覚なのでしょうね」
そう言って教師は静かに椅子を後ろに引き、立った。
「なにするんだ?」
「せっかく図書館に来たのですから本を読みます。オダギリさんもお好きなものを読んでいいですよ。切羽つまる状況ではありませんので、適度に息抜きしてください」
悠長な助言をした教師は書架の群れへ身を投じた。本が好きなやつなのか、と習一は喫茶店での彼と昨日の少女の様子をふりかえりながら思った。少女は習一がプリントに向かう時は本を読んでいたものの、習一が昼食を食べる時は周囲を眺めていた。彼女自身は待ち時間に率先して本を読みたい、と欲する読書家ではなさそうだ。おそらくは、習一の勉学を見守る間は本を読めと教師に言われ、素直に実行していたのだろう。
習一は己に課された問題を解く。教師は図書館の本を読んでもいいと言ったが、そんな余裕はない。鞄の重さを増やす教材は本日限りの運送にすべく、教科書を持ってきた教科のプリントを始末する。教科書を自室に置いてきたプリントは後日に回しても負担はない。そのような優先順位を設けて取り組んだ。
十五分ほどして習一の監督者がもどる。三冊の本を机に置き、うち一冊を開く。それらは心理学にまつわる内容の表題だった。大人が子どもの行動原理を知るための本、子の目線で親の実態を見つめる本。年代を問わず普遍的な人の心情を解き明したという題名の本。
(オレの目の前でオレ対策すんのか?)
三冊すべてが習一への対応手段を学ぶ選出のように思えた。しかし教師は子どもとその親に密に接する職務だ。習一を御するだけに万全を尽くすつもりはないだろう。その気があるなら習一と関わる日までに学習しただろうし、対象の目の前で大っぴらに学ばない。習一は自分が教師の立場に置かれた場合を考え、自身の初めの仮説を棄てた。
習一が問題数が少なめだった束を一つ仕上げ、美術の教科書を閉じる。芸術科目は音楽との二択で授業を選ぶ。音感のない習一は消去法で美術を選択していた。教師が丸点けを完了して置いた三束の横へ、束をひょいと運ぶ。教師が読書を中断して赤ペンを手にする。ペンが走る音を聞きつつ、習一は休む間なく体育の教科書を開いた。五教科以外の実技科目は総じて問題数が少なく、前日こなした課題未満の分量。正午を過ぎるころに解答は終了できた。教師が目を通した課題の束の横に家庭科のプリントを置き、教師は本を閉じた。
「もう昼食の時間ですね。腹の具合はどうです?」
「減ってない。あんたはどうなんだ? パンとコーヒーだけで足りるのか」
「私も空腹ではありません。貴方が食事をとりにいく間、私が荷物の番をしますが」
「いい。きっちり三食食わなくても平気だ。とっとと課題をやっつけてやる」
「わかりました。早めに切り上げて夕食をしっかり食べる心積もりでいましょう」
「夕飯も食いに行くのか?」
「はい。私は料理ができませんから」
教師の告白はつまり、前日のサンドイッチの制作者が彼ではないことを明かしている。では誰が作ったのか、という質問が習一の喉に出掛かり、飲みこんだ。現状関係のない雑談は避けるべきだと、この場の雰囲気と手持ちの課題の残量を考慮した。
二人は昼食をとらず、午前中と同じことを午後にも繰り返した。習一は残りの五教科の理科と社会科のうち、教科書を持参した政治経済に苦戦する。教科書にない作文の解答を要求する問いでつまづいたのだ。機械的に教科書の説明を抜き出したり入れ替えたりして解ける出題ではない。出題の該当範囲にあたる教科書部分を読み返し、きっとこういう事だろうと自分なりに解釈して文章を組み立てた。快調な出だしだった午前の課題とは反対に、鈍重な進捗に突きあたる。習一は嫌気がさして、関心を周囲へ移した。
館内には試験勉強に励む若者や、余生をもて余すかのような老人が新聞を読むほか、長机の端に親子連れがいた。父らしき男性と小学校低学年に見える男の子が向かい合って机に座り、各々が鉛筆を片手にして何ごとか言う。男の子は不平不満を募らせた表情で、薄い問題集を開いている。柔らかい顔つきの男性が喋り終えて、子は休んでいた手を動かす。もう飽きた、帰りたいなどの不服は言いくるめられたのだろう。父親のほうも分厚い本を開いてノートに書きつける作業を再開した。なぜか習一は頬の筋肉が刺激されるのを感じた。笑ったのだ。あの親子を見て。それに気づいた時、どうして笑ったのだか自分でよくわからないでいた。だが不思議と悪い気はしない。以前はそういった仲の良い親子風景を見せつけられれば、なぜ自分はああでないのだと無性にやりきれなくなっていた。今もそのわだかまりが全く生まれないわけではない。だが快の心持ちがより前面に感じられ、不快はその陰へと追いやられる。その心境の変化の要因は特定できない。あえて言うなれば、入院生活で習一が失った体力と闘争心と一緒に、負を感じとる感情も弱まった。悪い憑き物が落ちたように、習一の感受性を一般的なものへ寄りもどしたのかもしれない。
長考がすぎたのか、習一が我を取りもどした時に教師と目が合った。彼は習一の異変を感じたようだ。習一が気まずそうに眉をしかめると彼はなにも見なかった風体で読書をする。それからの習一は顔を上げず、視線は机上の移動に限定した。
太陽が赤みをうっすら帯びる時間帯になり、習一は朝のうちに腹に貯めた食料が完全に尽きるのを感じた。参考資料が手元にあるプリントはすべて解き終え、教師による確認も終わった。教師がペンを走らせた紙の束は積み重なったままだ。誤答の確認は自室でも簡単にできる、と踏んだ習一が放置していた。習一は教科書なしで解くプリントを前にして、ふと考える。補習の開始日は明々後日。明日と明後日は習一の予定がない。もし教師が一日および二日間とも習一の近辺にはべるのなら、間違いを訂正するだけのプリントをまた持ち運ぶ必要がある。であれば今のうちに片付けておけば効率が良い。自分が先に済ませる事柄を決定するため、習一は図書を読みふける教師に質問を投げる。
「あんたの見張り、明日も明後日もやる気か?」
「はい。明日も今日と同じように課題に励んでもらうつもりです。明後日は課題の進み具合によって予定を変えます」
「プリントは明日には全部終わるな。それなら間違いの確認をやっとくか……」
「確認が終わったら知らせてください」
教師は男女の思考の違いについての本に目を落とす。彼は一度めに取ってきた三冊を読み終え、返却して新たに図書を複数持ってきた。タイトルは違えど人間の心理にまつわる解説本ばかり読みあさっている。職業柄、念頭に入れるべき知識なのだろうが、そこまで念入りに知る必要がこの男にあるのだろうか。
習一は銀髪の教師とは二日程度しか顔を合わせていないとはいえ、その二日で固まった人物像は温厚篤実な紳士。彼が世間一般的な失言や失態を引き起こす様子は想像しにくい。むろん初対面では習一の癇に障るワードを出していたのだが、それは習一に必須な事柄だった。あれで習一が怒り狂ったなら、常識においてこちらの感性や理解に問題がありそうな気がした。
得てして、他者から見てすでに一人前の域に到達しても「まだ不足がある」と学びを深める者がいる一方、本当に知識を備えるべき者は「意味のないこと」と捨て置き、自己の瑕疵をさらに拡張させていくものなのかもしれない。習一が頭に浮かべる後者は紛れもなく父親だった。
習一は四色ボールペンの青色で正答を書き続け、教師が手を下したプリントすべてを見終わった。教師の顔を見ると彼は無言で立ち、本を携えて長机を離れる。習一はクリアファイルに紙の束を入れ、筆箱とともに鞄の中へ収めた。鞄にしまった教科書の背を触り、持参した冊数に差がないことを確かめる。私物がなくなった机を見つめ、教師の帰還を待った。ほどなくして一時的な保護者が姿を見せる。教師が黒鞄の持ち手を握った。
「外へ行きましょう」
二人は半日過ごした公共施設を発った。館外へ出た教師は足を止める。
「夕飯の希望はありますか?」
「ない。あんたの好きにしてくれ」
「わかりました。私のあとについて来てください」
習一は行き先を尋ねずに、髪を暗い朱に染める教師を追いかけた。教師は習一の家とは反対の方向へ向かう。その方角にはパン屋やラーメン屋など食べ物関係の店が居並ぶ。そのどれかが夕食になるのだと習一はあらかじめ想定した。
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2018年12月09日
習一篇草稿−2章上
1
習一は授業の終わりまで座席に残った。久々の学校の風当たりと病み上がりの体力の乏しさゆえに、放課後は疲労が蓄積する。寄り道せずに帰宅し、体を洗ったあとは自室で休んだ。食欲はわかず、そのまま朝になる。起床を促したのは窓を叩く音だった。銀髪の少女が窓の縁におり、習一は窓を開ける。少女がまたも土足で部屋に踏み入れる。
「今日も学校にいこう。終業式なんだって」
「そうか。もう、夏休みになるのか」
「半日でおわるから、プリントをいくつかえらんで、すずしいところでとこうよ」
「オレが課題を進めるのを、お前が見張るのか?」
「うん。シドも明日、てつだう。はやくおわらせようね。そしたらいっぱいあそべる」
「遊ぶ、ねえ……」
習一は手近な遊びという遊びは不良生活でやり尽くした。どれも子供だましであり、心は満たされなかった。遊ぶ行為が勉学に励んだ報酬に釣り合うとは感じにくい。
「はやく学校についたら、そこでもプリントがこなせるよね。さっそくでかけよう」
「まだ飯を食ってないんだが」
「家族はいま、朝ごはんをつくってくれてる?」
家事を担当する母は習一の朝食を作らない。作っても息子は食べにこないからだ。一般的な家庭と異なる事情に直面して、習一は「いや……」と顔をそむける。すると少女はいつもの調子でリュックサックを床に下ろし、中に両手をつっこむ。ごそごそと作業したのちに白いものを出した。それはラップに包んだサンドイッチだ。
「んじゃ、これを朝ごはんにしよう」
朝食の包装には値札及びバーコードのシールがない。お手製の品だ。
「シューイチのお昼ごはんようにつくってもらった。でもお昼はお店でも食べられるね」
言って少女はサンドイッチをまたリュックサックの中へもどす。
「これは学校についたらあげる。いっしょにいこう」
少女が窓を通って外へ行く。習一は溜息を吐いたのち、制服に着替えた。先日渡されたクリアファイルを一つ鞄に入れて家を出る。家族がリビングにいたが挨拶はせず、早歩きで駆け抜けた。昨日と同じく少女が門の外で待っていた。
習一は後ろに見張り役が控えた状態で学校を目指した。平常時の登校時刻より早いせいもあって熱気は弱く、爽やかな気分で登校できた。正門の前で少女は止まる。水色の布で包んだサンドイッチと細長いステンレス製の水筒を習一に手渡す。
「終業式がおわったらここでまってる」
監視役は去った。習一は水筒を小脇に抱え、鞄と水色の包みを手に持つ。人気のない生徒玄関を通り、教室へ向かう。他の教室には数人の生徒を見かけたが、自分のクラスは誰もいなかった。昨日腰を落ち着けた席へ座り、もらった弁当の包みを広げる。サンドイッチの具はツナとレタス、卵、ハムとチーズ、とごく普通だ。イチゴのジャムを塗っただけのものもある。それぞれ二つずつあり、一袋八枚切りの食パンを丸々使ったサンドイッチのようだ。ツナサンドを一切れ食べると味はありふれたもの。マヨネーズであえたツナとしゃきしゃきしたレタスの食感がある。昨晩何も食べなかったせいか、普通な食事が口の中に染み渡った。一口、二口と次々ほおばる。二切れめを食べかかる頃には口の中の水分が減って飲みこみが悪くなり、水筒の茶を蓋代わりのコップに入れる。飲むと冷たい茶が喉をすっと流れていく感触がわかった。
(手料理……いつ食ったっけ?)
手作りの食事を長い間口にしなかった。習一は他の生徒の当たり前を、自分が享受することに妙な感覚を覚えた。そしてこの食事は誰が用意したものか推測する。
習一に食べ物を届けた少女は「作ってもらった」と言った。彼女の作ではない。では彼女を手配した教師が作ったのだろうか。万事を無難にやりそうな男ゆえ、料理ができても驚きはしない。しかし「もらった」という他人行儀な表現は第三者の存在を匂わせた。
銀髪の彼ら以外にも習一の支援者がいる。その仮説を胸に秘め、四種のパンを一つずつ平らげた。満腹には達しないものの、半分は昼食用に残しておく。己のために弁当を作った者がいるという、誰とは知れぬ存在の実感を惜しく感じた。
用済みのラップをくしゃくしゃに丸め、室内の片隅にあるゴミ箱へ捨てる。蓋をどけて見た中身は空っぽだった。掃除をきちんとこなす生徒がいる証拠だ。他校の生徒の雑談で「ゴミ箱にゴミがあふれてて使えない」と耳にしたことを思い出す。そんな事態は起こりえない学校なのだ──習一という異端児を除いて。
廊下からキュキュっという足音が響く。滑り止めのゴムがすれた時によく鳴る、生徒が常用する靴音だ。誰かが登校してきたのだ。習一は自席につき、食糧を鞄に収めた。入れかわりにクリアファイルと筆記用具を出す。ファイルの中には数枚のプリントをステープラで留めた束が三種類あった。国語と数学と英語。どれも二年生の一学期で学んだ範囲らしい。習一が去年に学習した部分だ。習一は初めに数学に手をつけることにした。自分がどれほど記憶を保持しているか、最もわかりやすく判定できる科目だ。
筆箱の中をかきわけてシャープペンシルを探す。かちゃかちゃと鳴る文具の音に足音も重なった。廊下で発生した音源が室内へと移る。生徒が入室したとわかった習一は少し首を動かし、目の端で人影を探った。影はゆっくりと習一に近付いてくる。
「小田切さん、おはよう。ずいぶん早いんだな」
入室者はまるで普通の生徒と接するかのごとく習一に挨拶をした。そんな物好きは学年に一人いる。習一は生徒を正視した。身長一八〇センチほどの体格の良い男子だ。彼は習一の一つ年下だが同じクラスの同級生。名字を白壁という。変な名前だと思ったが最後、習一は彼の名を忘却できないでいた。
「ああ、あんたもな」
無愛想に返答し、プリントに視線をもどす。無関心を装う習一に白壁は屈さず、隣席に座る。そこは彼の席ではない。それは昨日の授業に参加した習一がよく知っていた。
「そのプリント、夏休みの宿題じゃないな」
全くの敵意も警戒もなしに会話を続けられて、習一は少し混乱する。他の生徒は不良な習一を腫れ物のように危険視し、関わろうとしない。白壁は感性が常人離れしているのか、習一の数少ない一学期の登校日にも今の調子で話しかけてきた。喧嘩の強い習一の怒りを買っても平気だという自信があっての行動だ、と習一は声には出さず思った。彼は中学時代の空手の好成績を評価されて入学を果たした噂がある。
「おれは朝練をしに来たんだが今日はないのを失念していた。物覚えが悪くていかんな」
白壁は習一が会話に加わらないのを不愉快とせず、しゃべり続ける。
「小田切さんはその課題をこなしに早く登校したのか? 家じゃ、集中できないか」
「なんで、それを聞く?」
「親と仲が悪いから……荒れてるって聞いたんでな」
それは真実だ。習一は親への憎しみから悪事を厭わぬ悪童へ転向した。その事情を誰から聞いたか、およその見当はつく。それは昨日、ただ一人習一を気にかけた教師だ。
「他人が口出しすることじゃないが、もったいないな。荒れる前の成績はトップだったんだって? すごく出来がいいんだな。下から数えたほうが早いおれとは大違いだ」
白壁が空手バカだという評判は習一も聞いていた。とはいえ、落第生になるほど馬鹿でもなさそうだった。健全な肉体と精神を持つ男子は「なのに」と声を低める。
「わざと留年して親に恥をかかせて……今はそれで気が済むんだろうけど、せっかくの自分の将来をダメにするの、惜しくないか?」
習一は答えない。白壁の主張は全くの正論だと熟知している。己の愚行は自分自身がよくわかる。だが、それ以外にできる抵抗の手段がなかった。
「親だけじゃない。ここの教師もどうか、というやつはいる。そいつらに刃向ってるだけじゃ、自分のためになってないと思うんだ。なあ、小田切さんは本当はなにがしたい? おれが空手に打ち込むような、やりがいのあることはないのかな」
「ないな、なにも……どれもつまんねえよ」
白壁の言葉がわずらわしいのだが邪険に扱えなかった。彼は真っ正直に習一の身を案じている。善意を悪意で振り払えるほど、習一は悪に染まっていなかった。ふたたび黙して問題を解く。やむかたなし、といった様子で白壁は席を立った。
「才穎高校には寮があるんだとさ。先生たちは結構おもしろいらしいし、そこなら小田切さんの居場所が見つかるかもしれないな」
白壁は暗に習一の一人立ちを勧め、自席へ着いた。習一は頭を起こして彼の姿をはっきりと捉える。前列の席に座る生徒の背はしゃんとしていて、広かった。
2
終業式を無事終えた後、習一は逃げるように校舎を離れた。正門の柱の前で銀髪の少女が待ちぼうけていた、習一が校門を出ると「お昼ごはん、どうする?」との打診を受ける。
「今朝もらったもんが残ってる。デパートに行って涼みながら食う」
「それで足りる?」
「……さあ。喫茶店でプリントを片付けて、腹が減ったら何か注文するかな」
「うん、それいいね」
日射はアスファルトを焼きつくし、遠景を歪めていた。近道を試み、乗用車の通行の隙間をついて道路を渡った。
到着したデパートには出入りする客が少なかった。夕方になれば人がどっと押し寄せる。習一の目当ては客が休憩する椅子だ。ここには規模が小さいながらもフードコートがあり、そこで座席を得る。休日の昼間でもなければ利用客で埋まることのない場所だ。この場で宿題をするつもりはない。他の席を区切る衝立がなく、机のスペースも狭い場では集中しづらいのだ。
誰かが座ったであろう、机と椅子が離れたままの席がある。そこに少女が腰をおろした。習一はその隣の席に座り、残しておいた弁当を広げた。少女はデパートが物珍しいようで、周囲をきょろきょろ見ている。習一と世間話をする気はないらしい。それは習一としてもありがたいことだった。
食事を終え、空になったラップをゴミ箱へ捨てる。弁当を包んでいた布を四角に畳み、水筒と一緒に鞄へ入れた。習一の片付けを見た少女が席を立つ。次なる目的地は一戸建てのチェーン店だ。デパートで体に補充した冷気を失う前に到達できた。赤と茶を基調としたレンガ屋敷風の店に入ろうとすると「さきに入ってて」と少女が言い、姿を消した。習一は彼女の行動を不思議に思いながらも、入口の取っ手を押した。店員の案内を受け、四人掛けのテーブル席に座る。冷房の空気にさらされたソファはひんやりしていた。
習一は銀髪の少女が姿をくらます理由を考えた。彼女が習一と一緒にいてはできないこと。習一は冷えたテーブルに手を置いて、一つの想像にたどりつく。
(シドってやつと連絡してんのか?)
これには一人、得心がいった。習一が式典に参加したこと、今から課題を処理しようとすることを知らせるのだ。これらの経過状況はあの教師が気を揉むはず。彼の思惑通りの行動をこなす習一に恥じる箇所はない。教師が望む勉学に集中するためにも飲料を確保しに席を立った。
習一が無料の冷水を氷と共にコップにそそぐ最中、少女は帰ってきた。彼女は瞬時に習一の姿を認め、習一の鞄のあるテーブルへ迷わず歩いた。習一は彼女の分の水も必要だろうか、と考える。だが余計な世話かもしれぬと思い、自分のコップだけを持ってソファに座った。
少女はソファの端にいた。リュックサックをひざの上に置いて、ブックカバーのついた文庫本を読む。彼女とは斜めに対面した状態で習一も勉強道具を机に広げた。朝に中断した数学の問題を解答する。両者は一言も発さずに各々の世界へ没入した。
二人の静寂を打ち破る者が一人、あらわれる。
「オダさん! 元気になったんスね!」
無邪気な子どもの名残りをもつ声が習一に届いた。目線を上げれば他校の知り合いがいる。短く刈り上げた頭髪以外は平凡な外見だ。彼は感情の起伏が激しく、一度沸点まで加熱すると歯止めが利かなくなるクセがあるが、今は屈託のない笑顔を作る。
「ああ、田淵は変わんねえな。今日は一人か? あとの二人はどうした」
刈り上げ髪の男子は急激に浮かない顔をする。田淵には同じ学校の悪友が二人おり、みな習一とは不良仲間。暇ができれば三人は固まって活動しているのだと習一は考えていた。
「……もう不良はやめたって、更生しちゃったんスよ」
習一は眉を上げた。彼らとて習一同様、周囲との衝突があってならず者に身を落とした。やすやすと心を入れ替えるはずはない。習一がいない一ヶ月間に変化が起きたというのか。
「どういうワケがあったんだ? オレが眠りほうけてる間に、なにが起きた?」
田淵は申し訳なさそうに眉や口を顔の中央に寄せる。ごく当たり前のように銀髪の少女の隣に座った。彼の視線はテーブルに落ちている。
「最初のきっかけは、才穎高校の教師っスよ」
「銀髪の……?」
「そう! あの銀髪野郎、オダさんの首を締めあげて気絶させやがった。そんで『こうなりたくなかったら真面目に生きろ』と言ってさ……おれたち、すっかりブルっちまった」
習一には身におぼえのない出来事だ。それを正直に打ち明けるのは悪手だと感じた。殺人未遂にひとしい暴力をふるわれていながら、記憶に留めていないのはおかしなことだ。伝聞でしか事情を知らぬ掛尾はともかく、その場にいた当事者は情報提供そっちのけで混乱しかねない。習一は知ったかぶりをしておいた。
「おれはオダさんがやられるとこを見てなかったんスけど、やり取りは聞こえてました。ほかの二人は現場を見てて、教師にガン飛ばされたから、おれよりずっとビビってて」
うつむいていた田淵が上目づかいで習一の顔色を確かめ、また視線を下にやった。
「オダさんが『連中に仕返しをする』と計画を練っても、みんな気が乗らなかった。イライラするオダさんは怖いけど、あの銀髪はもっと怖い。だからずるずる計画を延ばして……」
習一は話者を怖がらせないよう、顔色を変えずに黙った。男子は格上な少年をちらりと見て、また過去を述べる。
「ある日、変な男が現れたんス。『才穎高校の生徒に報復する気はあるのか』と聞いてきて……ない、と言ったらいなくなった。ほかの二人も同じ夜に同じ男が同じことを聞いて消えたと言って、もう不気味で。だって、いつの間にか知らない男が部屋にいたんスよ。音もなく侵入できるやつってオバケしかいないでしょ? そんなやつ、逆らっても勝ち目ないっスよ。そいつが現れたあとにオダさんが入院しちまったし、もうこれ潮時だなって」
「銀髪の言うことを聞かなけりゃ自分らも危ない……と感じたわけか」
「ハイ……情けないでしょうけど、それが本音です。おれたち、あんなおっかない思いをしてまで不良はやりたくないっス……」
幽霊などと非科学的な存在を習一は鵜呑みにしない。だが興味をそそる語句が顕在した。
「『オバケみたいな男』は銀髪の教師とは違うのか?」
才穎高校の生徒への復讐を果たされて困るのは銀髪の教師。現段階の話において、幽霊男は全くの部外者のはずだ。
「え? ハイ、別人っス。二人もおれと同じ男を言ってたし、まちがいないっスよ。スゲーむきむきでデケエ男でした。黒っぽい肌は銀髪と似てましたけど、体は別モンっス」
「髪の色はどうだった?」
「髪は……印象に残ってないっス。みんなも『帽子を被ってた』と言ってました」
仮に幽霊じみた男の髪が銀色であれば、ある推測が成り立つ。病院に押しかけてきたヤクザ風の男が捜し求める、彼と同様の屈強な大男だ。その男が田淵たちの部屋に無断訪問した男と同一だとしたら。光葉が得た、銀髪かつ色黒の大男がこの地域にいるというタレコミは正しい。おまけに、その大男は帽子を常用すると光葉は言った。
「あのう……オダさん、オバケ男の正体に心当たりがあるんスか?」
「ああ、そいつと手を組んでるらしい男に会う予定だ。そんときにちょっと聞いてみる」
習一が軽い気持ちで発した提案に、田淵は色めきたつ。
「ひょっとしてあの暴力教師に? 危ないっスよ、またやられちまうっス!」
「平気だ。もう病院で一回会ってる」
田淵が上体をのけぞって驚愕した。手ごわい敵と遭遇して、なんともない状態がよほど信じられないようだ。
「病院で会っただけじゃない、これからオレの復学の手伝いをするんだとよ。ご丁寧に補習の話をこぎつけて、面倒な課題をプレゼントしてくれやがったぜ」
習一は解答途中の数学のプリントを掲げた。田淵がちんぷんかんぷんであろう問題を凝視する間、習一は彼の隣席の少女に目をやる。彼女は二人の会話を耳にしていないかのように読書に没頭していた。少女による話題提供が期待できないと習一は悟る。
「今はあの銀髪がオレの味方らしいぞ。もし町中で会ってもビビるこたぁねえ」
「まじっスか? でも、あいつは真面目に生きればなにもしない、と言ってたしな……」
田淵は半信半疑で目を泳がせる。習一は教師にまつわる話題を切り上げようとした。
「ところで、お前は飯を食いに来たのか?」
「あ、ハイ。テキトーに涼しいところで食おうかな、と……でもオダさんのジャマしちゃまずいっスね。オダさんも真面目にしよう、と思ったからガンバってるんでしょ?」
「どうだかな。ま、飯を食いたいなら違う席か店に移ってくれ。お前といると進まねえ」
田淵が片手を後頭部にあてて「すんません」と目を細める。そうして店を出ていった。彼は最後まで銀髪の少女について言及をしなかった。本当に気付かなかったのだろうか。
「なぁ、さっきの野郎、お前を完全に無視してたよな」
「うん。気配、なくしてるせい」
「そういうもんか? 絶対視界に入ってたと思ったんだが」
「すぎたことはいいから、がんぱって問題をといてね」
少女は課題の進行を急かす。習一は冷たいやつだと評を下した。しかし課題をこなさねばあとで大変な目に遭うのは自明の理。仕方なく中断していた解答を再開した。
3
習一は日没を過ぎても喫茶店に居座った。時間を経るごとに通路を行き交う人が替わる様子を尻目に、手持ちの課題をすべて解いた。この場でできる役目を果たすと、きゅるきゅる鳴る腹を鎮める目的で料理を頼んだ。同席者の銀髪の少女にもメニューを見せて夕飯をすすめたが、彼女は遠慮した。習一を出迎えたあとの少女は水すら口にしていない。
(飯を食えねえのか? 宗教でそんなのあったな……)
どこぞの宗教では昼以降、食事を禁じることがあるという。そんな戒律を遵守する敬虔な宗教家でなかったとしても相手は女。減量目的で食事を控えることも予想して、習一は自分一人だけの夕食をとった。昨日今日と穀物類の食事が多かったので、栄養の均衡を考慮してメインの肉料理以外にサラダも食う。肉体が十全な状態にならないうちは別段好きでもない野菜を摂取するのが身の為だ、と自己判断した。
同じ系列ならどの店も同じ味の料理をたいらげ、習一は氷が飲料に変じた水を飲んだ。クッションのきいた背もたれに寄りかかって天井を見た。喫茶店に長居し、腹がすけば料理を注文をする。そんな過ごし方は以前によくあった。それはこの地域一の難関校と呼び声高い、現在所属する高校への受験勉強に励んでいた時だ。
当時、母は息子を塾へ通わせてはどうか、と父にすすめたが「中学程度の勉強に塾は必要ない」と一蹴された。習一には自習が自分にできる学力向上の手段だった。家の中では能天気な妹が騒がしく、彼女が寝入る夜以外は自室での勉強がはかどらない。喫茶店以外に近隣の図書館に行くこともあったが、食事をとりに移動するたびに荷物を整理する手間が煩わしかった。また利用客が大勢いると使える机のスペースが手狭になるのを嫌い、喫茶店に足しげく通った。優等生であったころの自分と、落第を免れるために一仕事を終えた自分が重なる。習一はその対比を鼻で笑った。
「そろそろおうちにかえる?」
習一は我に返った。その提案を受理するには気が重いのだが、そうするべきだとも理解できる。現在こなせる課題は無くなった。腹を満たした時点で喫茶店に留まる理由はない。
「あしたはシドが一日、シューイチにつきそうの。今晩のうちにゆっくり休もうね」
「ああ……お前は明日、来ないのか?」
「うん。でも、シドによばれたらくるよ」
少女は本をリュックサックの中へしまった。習一も荷物を片付け、忘れ物がないことを机上とその下、ソファを一瞥して確かめる。少女が「ごはんのお金わたそうか」と言うので首を横に振った。
会計を終えると少女は店内におらず、軒先で彼女を見つける。習一は正門での邂逅と同じく、少女に声をかけずに歩いた。アスファルトは日中の熱を溜めこみ、ほんのり熱を放出する。多少蒸し暑いが昼間とは段違いに涼しい。習一はゆるい歩調で家を目指した。
家の居間には電灯が点いていた。家主はもう帰宅した頃か。妹は学習塾に行って不在だろう。そう考えながら鉄格子に触れた。
「そうそう、サンドイッチをくるんでた布と水筒、ちょうだい」
習一は借り物があることを思い出し、鞄に手を入れた。畳んだの布と軽くなった水筒を少女に返す。水筒はちゃぽん、と茶が揺らぐ音を立てた。
リュックサックのファスナーを閉めた少女は背に荷物を担ぎ、じっと習一を見た。
「なんだよ、早いとこお前も帰れ」
「おうちに入るところをみとどけて、って言われてる」
「蚊が飛びまわる時期に野宿なんかしねえよ」
そう吐き捨てた習一は家の敷地内に入り、玄関へと足を踏みこむ。手に汗がにじむのがわかった。暑さの影響ではない。緊張しているのだ。靴を乱雑に脱ぎすて、電灯に照らされた廊下を一直線に進む。フローリング張りの居間からテレビの音が鳴っていた。
脱衣場の戸に鍵を閉め、服を脱ぐ。汗を吸った制服のポケットを空にしたのちに室内の洗濯機へ放りこんだ。洗濯物は乾燥後、脱衣場の棚にしまわれる。体を洗ったら棚にある衣類を着て自室にもどる。それがいつものやり方だった。
習一は簡単にシャワーを浴びる。液体石けんを泡立てて体を洗い、ふと風呂場の鏡に注目した。昨日や院内の浴場では意識する余裕がなかった映写だ。そこに映る顔はやつれていた。おもな原因は一ヶ月の絶食だろう。習一は貧相な顔だと思った。以前は獣じみた勢いがにじみ出ていたはずだが、すっかり毒気を抜かれたようだ。攻撃性を失った面構えの次に頭髪が目についた。髪の根元が黒く、それ以外は脱色した色でいるアンバランスさに苦笑する。いっそ田淵のように髪を刈って黒髪にするか、と思案した。
伸びた髪を洗い、泡を流して風呂場を出る。タオルで全身をわしわしと拭いた。濡れたタオルを洗濯機に投げ入れ、新しい服に着替える。生乾きの髪をそのままにして鞄をつかみ、居間の横を素通りする。テレビの音は聞こえなかった。
「おい、待て」
階段に足を着けた時に男の声がした。習一は踏みとどまり、声の主に一応従う。
「散々迷惑をかけておいて挨拶もなしか?」
怒りと叱責が混合した、重圧を感じさせる物言いだった。習一は首だけを動かして男を見る。居間の入り口に中年が立っていた。ネクタイは首に巻いていないが、まだスーツ姿でいる。
「お前が夜遊びなんぞするから入院するはめになったんだ。入院費だって馬鹿にならんのだぞ……聞いているのか?」
習一は男の問いを無視した。とんとん、と上階へのぼると足音が二重になる。突然習一の片足は動かなくなった。男が足首をつかんでいる。
「いつまで醜態をさらし続ける気だ? 親に礼や謝罪の一つぐらい言えないのか!」
男の憤怒が表出する。足首を握る手に圧がかかった。習一は拘束された足を上下左右に振ってみるが、男の手は離れない。
「なんとか言ったらどうなんだ、この──」
「金食い虫の恥さらし。そう言いたいのか?」
男は目をかっと見開き、口ごもる。開口一番で聞けた言葉が図星を突いたらしい。
「毎度毎度、金と体面が大事なんだな。いっそ金で優秀な息子を買ったらどうだ?」
男はわなわなと全身を震わせる。その顔は醜くゆがんだ。
「きっとあんたの薄っぺらい自尊心をくすぐってくれるだろうよ」
「親を馬鹿にする皮肉ばっかりこきやがって!」
習一を捕縛する手が乱暴に動く。習一は階段のへりをつかむ。転倒を防げたが状況は悪い。平時なら体力面で勝る相手といえど今は病み上がり。このままでは逆上した男に体勢を崩され、演劇でしばしば行なわれる階段落ちを演じるはめになる。あれは芝居でも相当痛いことをどこかで耳にした。衝撃から身を守る肉が薄い者では殊更痛いだろう。どう打開すべきか──男の怒りを鎮める手段は思いつくものの、実行の意欲は微塵も湧かなかった。
がたん、と重い物がぶつかる音がした。なぜか足の呪縛が解かれる。習一がふりむくと男が両手で頭を押さえ、苦痛に耐えていた。その足元には油絵の絵画がある。それは習一の物心ついた時から階段の壁に飾られていた絵だ。丈夫な金属製のワイヤーで吊るしてあり、経年劣化で落下する代物ではない。地震が起きていないのに、と習一は不思議がる一方で好機だと思った。悶絶する男を放置して二階の自室へ入る。鍵をかけ、深い息を吐いた。
(運が、よかったな……)
鞄を適当に放り投げ、自身の体も寝台へぽすんと投げた。
習一は授業の終わりまで座席に残った。久々の学校の風当たりと病み上がりの体力の乏しさゆえに、放課後は疲労が蓄積する。寄り道せずに帰宅し、体を洗ったあとは自室で休んだ。食欲はわかず、そのまま朝になる。起床を促したのは窓を叩く音だった。銀髪の少女が窓の縁におり、習一は窓を開ける。少女がまたも土足で部屋に踏み入れる。
「今日も学校にいこう。終業式なんだって」
「そうか。もう、夏休みになるのか」
「半日でおわるから、プリントをいくつかえらんで、すずしいところでとこうよ」
「オレが課題を進めるのを、お前が見張るのか?」
「うん。シドも明日、てつだう。はやくおわらせようね。そしたらいっぱいあそべる」
「遊ぶ、ねえ……」
習一は手近な遊びという遊びは不良生活でやり尽くした。どれも子供だましであり、心は満たされなかった。遊ぶ行為が勉学に励んだ報酬に釣り合うとは感じにくい。
「はやく学校についたら、そこでもプリントがこなせるよね。さっそくでかけよう」
「まだ飯を食ってないんだが」
「家族はいま、朝ごはんをつくってくれてる?」
家事を担当する母は習一の朝食を作らない。作っても息子は食べにこないからだ。一般的な家庭と異なる事情に直面して、習一は「いや……」と顔をそむける。すると少女はいつもの調子でリュックサックを床に下ろし、中に両手をつっこむ。ごそごそと作業したのちに白いものを出した。それはラップに包んだサンドイッチだ。
「んじゃ、これを朝ごはんにしよう」
朝食の包装には値札及びバーコードのシールがない。お手製の品だ。
「シューイチのお昼ごはんようにつくってもらった。でもお昼はお店でも食べられるね」
言って少女はサンドイッチをまたリュックサックの中へもどす。
「これは学校についたらあげる。いっしょにいこう」
少女が窓を通って外へ行く。習一は溜息を吐いたのち、制服に着替えた。先日渡されたクリアファイルを一つ鞄に入れて家を出る。家族がリビングにいたが挨拶はせず、早歩きで駆け抜けた。昨日と同じく少女が門の外で待っていた。
習一は後ろに見張り役が控えた状態で学校を目指した。平常時の登校時刻より早いせいもあって熱気は弱く、爽やかな気分で登校できた。正門の前で少女は止まる。水色の布で包んだサンドイッチと細長いステンレス製の水筒を習一に手渡す。
「終業式がおわったらここでまってる」
監視役は去った。習一は水筒を小脇に抱え、鞄と水色の包みを手に持つ。人気のない生徒玄関を通り、教室へ向かう。他の教室には数人の生徒を見かけたが、自分のクラスは誰もいなかった。昨日腰を落ち着けた席へ座り、もらった弁当の包みを広げる。サンドイッチの具はツナとレタス、卵、ハムとチーズ、とごく普通だ。イチゴのジャムを塗っただけのものもある。それぞれ二つずつあり、一袋八枚切りの食パンを丸々使ったサンドイッチのようだ。ツナサンドを一切れ食べると味はありふれたもの。マヨネーズであえたツナとしゃきしゃきしたレタスの食感がある。昨晩何も食べなかったせいか、普通な食事が口の中に染み渡った。一口、二口と次々ほおばる。二切れめを食べかかる頃には口の中の水分が減って飲みこみが悪くなり、水筒の茶を蓋代わりのコップに入れる。飲むと冷たい茶が喉をすっと流れていく感触がわかった。
(手料理……いつ食ったっけ?)
手作りの食事を長い間口にしなかった。習一は他の生徒の当たり前を、自分が享受することに妙な感覚を覚えた。そしてこの食事は誰が用意したものか推測する。
習一に食べ物を届けた少女は「作ってもらった」と言った。彼女の作ではない。では彼女を手配した教師が作ったのだろうか。万事を無難にやりそうな男ゆえ、料理ができても驚きはしない。しかし「もらった」という他人行儀な表現は第三者の存在を匂わせた。
銀髪の彼ら以外にも習一の支援者がいる。その仮説を胸に秘め、四種のパンを一つずつ平らげた。満腹には達しないものの、半分は昼食用に残しておく。己のために弁当を作った者がいるという、誰とは知れぬ存在の実感を惜しく感じた。
用済みのラップをくしゃくしゃに丸め、室内の片隅にあるゴミ箱へ捨てる。蓋をどけて見た中身は空っぽだった。掃除をきちんとこなす生徒がいる証拠だ。他校の生徒の雑談で「ゴミ箱にゴミがあふれてて使えない」と耳にしたことを思い出す。そんな事態は起こりえない学校なのだ──習一という異端児を除いて。
廊下からキュキュっという足音が響く。滑り止めのゴムがすれた時によく鳴る、生徒が常用する靴音だ。誰かが登校してきたのだ。習一は自席につき、食糧を鞄に収めた。入れかわりにクリアファイルと筆記用具を出す。ファイルの中には数枚のプリントをステープラで留めた束が三種類あった。国語と数学と英語。どれも二年生の一学期で学んだ範囲らしい。習一が去年に学習した部分だ。習一は初めに数学に手をつけることにした。自分がどれほど記憶を保持しているか、最もわかりやすく判定できる科目だ。
筆箱の中をかきわけてシャープペンシルを探す。かちゃかちゃと鳴る文具の音に足音も重なった。廊下で発生した音源が室内へと移る。生徒が入室したとわかった習一は少し首を動かし、目の端で人影を探った。影はゆっくりと習一に近付いてくる。
「小田切さん、おはよう。ずいぶん早いんだな」
入室者はまるで普通の生徒と接するかのごとく習一に挨拶をした。そんな物好きは学年に一人いる。習一は生徒を正視した。身長一八〇センチほどの体格の良い男子だ。彼は習一の一つ年下だが同じクラスの同級生。名字を白壁という。変な名前だと思ったが最後、習一は彼の名を忘却できないでいた。
「ああ、あんたもな」
無愛想に返答し、プリントに視線をもどす。無関心を装う習一に白壁は屈さず、隣席に座る。そこは彼の席ではない。それは昨日の授業に参加した習一がよく知っていた。
「そのプリント、夏休みの宿題じゃないな」
全くの敵意も警戒もなしに会話を続けられて、習一は少し混乱する。他の生徒は不良な習一を腫れ物のように危険視し、関わろうとしない。白壁は感性が常人離れしているのか、習一の数少ない一学期の登校日にも今の調子で話しかけてきた。喧嘩の強い習一の怒りを買っても平気だという自信があっての行動だ、と習一は声には出さず思った。彼は中学時代の空手の好成績を評価されて入学を果たした噂がある。
「おれは朝練をしに来たんだが今日はないのを失念していた。物覚えが悪くていかんな」
白壁は習一が会話に加わらないのを不愉快とせず、しゃべり続ける。
「小田切さんはその課題をこなしに早く登校したのか? 家じゃ、集中できないか」
「なんで、それを聞く?」
「親と仲が悪いから……荒れてるって聞いたんでな」
それは真実だ。習一は親への憎しみから悪事を厭わぬ悪童へ転向した。その事情を誰から聞いたか、およその見当はつく。それは昨日、ただ一人習一を気にかけた教師だ。
「他人が口出しすることじゃないが、もったいないな。荒れる前の成績はトップだったんだって? すごく出来がいいんだな。下から数えたほうが早いおれとは大違いだ」
白壁が空手バカだという評判は習一も聞いていた。とはいえ、落第生になるほど馬鹿でもなさそうだった。健全な肉体と精神を持つ男子は「なのに」と声を低める。
「わざと留年して親に恥をかかせて……今はそれで気が済むんだろうけど、せっかくの自分の将来をダメにするの、惜しくないか?」
習一は答えない。白壁の主張は全くの正論だと熟知している。己の愚行は自分自身がよくわかる。だが、それ以外にできる抵抗の手段がなかった。
「親だけじゃない。ここの教師もどうか、というやつはいる。そいつらに刃向ってるだけじゃ、自分のためになってないと思うんだ。なあ、小田切さんは本当はなにがしたい? おれが空手に打ち込むような、やりがいのあることはないのかな」
「ないな、なにも……どれもつまんねえよ」
白壁の言葉がわずらわしいのだが邪険に扱えなかった。彼は真っ正直に習一の身を案じている。善意を悪意で振り払えるほど、習一は悪に染まっていなかった。ふたたび黙して問題を解く。やむかたなし、といった様子で白壁は席を立った。
「才穎高校には寮があるんだとさ。先生たちは結構おもしろいらしいし、そこなら小田切さんの居場所が見つかるかもしれないな」
白壁は暗に習一の一人立ちを勧め、自席へ着いた。習一は頭を起こして彼の姿をはっきりと捉える。前列の席に座る生徒の背はしゃんとしていて、広かった。
2
終業式を無事終えた後、習一は逃げるように校舎を離れた。正門の柱の前で銀髪の少女が待ちぼうけていた、習一が校門を出ると「お昼ごはん、どうする?」との打診を受ける。
「今朝もらったもんが残ってる。デパートに行って涼みながら食う」
「それで足りる?」
「……さあ。喫茶店でプリントを片付けて、腹が減ったら何か注文するかな」
「うん、それいいね」
日射はアスファルトを焼きつくし、遠景を歪めていた。近道を試み、乗用車の通行の隙間をついて道路を渡った。
到着したデパートには出入りする客が少なかった。夕方になれば人がどっと押し寄せる。習一の目当ては客が休憩する椅子だ。ここには規模が小さいながらもフードコートがあり、そこで座席を得る。休日の昼間でもなければ利用客で埋まることのない場所だ。この場で宿題をするつもりはない。他の席を区切る衝立がなく、机のスペースも狭い場では集中しづらいのだ。
誰かが座ったであろう、机と椅子が離れたままの席がある。そこに少女が腰をおろした。習一はその隣の席に座り、残しておいた弁当を広げた。少女はデパートが物珍しいようで、周囲をきょろきょろ見ている。習一と世間話をする気はないらしい。それは習一としてもありがたいことだった。
食事を終え、空になったラップをゴミ箱へ捨てる。弁当を包んでいた布を四角に畳み、水筒と一緒に鞄へ入れた。習一の片付けを見た少女が席を立つ。次なる目的地は一戸建てのチェーン店だ。デパートで体に補充した冷気を失う前に到達できた。赤と茶を基調としたレンガ屋敷風の店に入ろうとすると「さきに入ってて」と少女が言い、姿を消した。習一は彼女の行動を不思議に思いながらも、入口の取っ手を押した。店員の案内を受け、四人掛けのテーブル席に座る。冷房の空気にさらされたソファはひんやりしていた。
習一は銀髪の少女が姿をくらます理由を考えた。彼女が習一と一緒にいてはできないこと。習一は冷えたテーブルに手を置いて、一つの想像にたどりつく。
(シドってやつと連絡してんのか?)
これには一人、得心がいった。習一が式典に参加したこと、今から課題を処理しようとすることを知らせるのだ。これらの経過状況はあの教師が気を揉むはず。彼の思惑通りの行動をこなす習一に恥じる箇所はない。教師が望む勉学に集中するためにも飲料を確保しに席を立った。
習一が無料の冷水を氷と共にコップにそそぐ最中、少女は帰ってきた。彼女は瞬時に習一の姿を認め、習一の鞄のあるテーブルへ迷わず歩いた。習一は彼女の分の水も必要だろうか、と考える。だが余計な世話かもしれぬと思い、自分のコップだけを持ってソファに座った。
少女はソファの端にいた。リュックサックをひざの上に置いて、ブックカバーのついた文庫本を読む。彼女とは斜めに対面した状態で習一も勉強道具を机に広げた。朝に中断した数学の問題を解答する。両者は一言も発さずに各々の世界へ没入した。
二人の静寂を打ち破る者が一人、あらわれる。
「オダさん! 元気になったんスね!」
無邪気な子どもの名残りをもつ声が習一に届いた。目線を上げれば他校の知り合いがいる。短く刈り上げた頭髪以外は平凡な外見だ。彼は感情の起伏が激しく、一度沸点まで加熱すると歯止めが利かなくなるクセがあるが、今は屈託のない笑顔を作る。
「ああ、田淵は変わんねえな。今日は一人か? あとの二人はどうした」
刈り上げ髪の男子は急激に浮かない顔をする。田淵には同じ学校の悪友が二人おり、みな習一とは不良仲間。暇ができれば三人は固まって活動しているのだと習一は考えていた。
「……もう不良はやめたって、更生しちゃったんスよ」
習一は眉を上げた。彼らとて習一同様、周囲との衝突があってならず者に身を落とした。やすやすと心を入れ替えるはずはない。習一がいない一ヶ月間に変化が起きたというのか。
「どういうワケがあったんだ? オレが眠りほうけてる間に、なにが起きた?」
田淵は申し訳なさそうに眉や口を顔の中央に寄せる。ごく当たり前のように銀髪の少女の隣に座った。彼の視線はテーブルに落ちている。
「最初のきっかけは、才穎高校の教師っスよ」
「銀髪の……?」
「そう! あの銀髪野郎、オダさんの首を締めあげて気絶させやがった。そんで『こうなりたくなかったら真面目に生きろ』と言ってさ……おれたち、すっかりブルっちまった」
習一には身におぼえのない出来事だ。それを正直に打ち明けるのは悪手だと感じた。殺人未遂にひとしい暴力をふるわれていながら、記憶に留めていないのはおかしなことだ。伝聞でしか事情を知らぬ掛尾はともかく、その場にいた当事者は情報提供そっちのけで混乱しかねない。習一は知ったかぶりをしておいた。
「おれはオダさんがやられるとこを見てなかったんスけど、やり取りは聞こえてました。ほかの二人は現場を見てて、教師にガン飛ばされたから、おれよりずっとビビってて」
うつむいていた田淵が上目づかいで習一の顔色を確かめ、また視線を下にやった。
「オダさんが『連中に仕返しをする』と計画を練っても、みんな気が乗らなかった。イライラするオダさんは怖いけど、あの銀髪はもっと怖い。だからずるずる計画を延ばして……」
習一は話者を怖がらせないよう、顔色を変えずに黙った。男子は格上な少年をちらりと見て、また過去を述べる。
「ある日、変な男が現れたんス。『才穎高校の生徒に報復する気はあるのか』と聞いてきて……ない、と言ったらいなくなった。ほかの二人も同じ夜に同じ男が同じことを聞いて消えたと言って、もう不気味で。だって、いつの間にか知らない男が部屋にいたんスよ。音もなく侵入できるやつってオバケしかいないでしょ? そんなやつ、逆らっても勝ち目ないっスよ。そいつが現れたあとにオダさんが入院しちまったし、もうこれ潮時だなって」
「銀髪の言うことを聞かなけりゃ自分らも危ない……と感じたわけか」
「ハイ……情けないでしょうけど、それが本音です。おれたち、あんなおっかない思いをしてまで不良はやりたくないっス……」
幽霊などと非科学的な存在を習一は鵜呑みにしない。だが興味をそそる語句が顕在した。
「『オバケみたいな男』は銀髪の教師とは違うのか?」
才穎高校の生徒への復讐を果たされて困るのは銀髪の教師。現段階の話において、幽霊男は全くの部外者のはずだ。
「え? ハイ、別人っス。二人もおれと同じ男を言ってたし、まちがいないっスよ。スゲーむきむきでデケエ男でした。黒っぽい肌は銀髪と似てましたけど、体は別モンっス」
「髪の色はどうだった?」
「髪は……印象に残ってないっス。みんなも『帽子を被ってた』と言ってました」
仮に幽霊じみた男の髪が銀色であれば、ある推測が成り立つ。病院に押しかけてきたヤクザ風の男が捜し求める、彼と同様の屈強な大男だ。その男が田淵たちの部屋に無断訪問した男と同一だとしたら。光葉が得た、銀髪かつ色黒の大男がこの地域にいるというタレコミは正しい。おまけに、その大男は帽子を常用すると光葉は言った。
「あのう……オダさん、オバケ男の正体に心当たりがあるんスか?」
「ああ、そいつと手を組んでるらしい男に会う予定だ。そんときにちょっと聞いてみる」
習一が軽い気持ちで発した提案に、田淵は色めきたつ。
「ひょっとしてあの暴力教師に? 危ないっスよ、またやられちまうっス!」
「平気だ。もう病院で一回会ってる」
田淵が上体をのけぞって驚愕した。手ごわい敵と遭遇して、なんともない状態がよほど信じられないようだ。
「病院で会っただけじゃない、これからオレの復学の手伝いをするんだとよ。ご丁寧に補習の話をこぎつけて、面倒な課題をプレゼントしてくれやがったぜ」
習一は解答途中の数学のプリントを掲げた。田淵がちんぷんかんぷんであろう問題を凝視する間、習一は彼の隣席の少女に目をやる。彼女は二人の会話を耳にしていないかのように読書に没頭していた。少女による話題提供が期待できないと習一は悟る。
「今はあの銀髪がオレの味方らしいぞ。もし町中で会ってもビビるこたぁねえ」
「まじっスか? でも、あいつは真面目に生きればなにもしない、と言ってたしな……」
田淵は半信半疑で目を泳がせる。習一は教師にまつわる話題を切り上げようとした。
「ところで、お前は飯を食いに来たのか?」
「あ、ハイ。テキトーに涼しいところで食おうかな、と……でもオダさんのジャマしちゃまずいっスね。オダさんも真面目にしよう、と思ったからガンバってるんでしょ?」
「どうだかな。ま、飯を食いたいなら違う席か店に移ってくれ。お前といると進まねえ」
田淵が片手を後頭部にあてて「すんません」と目を細める。そうして店を出ていった。彼は最後まで銀髪の少女について言及をしなかった。本当に気付かなかったのだろうか。
「なぁ、さっきの野郎、お前を完全に無視してたよな」
「うん。気配、なくしてるせい」
「そういうもんか? 絶対視界に入ってたと思ったんだが」
「すぎたことはいいから、がんぱって問題をといてね」
少女は課題の進行を急かす。習一は冷たいやつだと評を下した。しかし課題をこなさねばあとで大変な目に遭うのは自明の理。仕方なく中断していた解答を再開した。
3
習一は日没を過ぎても喫茶店に居座った。時間を経るごとに通路を行き交う人が替わる様子を尻目に、手持ちの課題をすべて解いた。この場でできる役目を果たすと、きゅるきゅる鳴る腹を鎮める目的で料理を頼んだ。同席者の銀髪の少女にもメニューを見せて夕飯をすすめたが、彼女は遠慮した。習一を出迎えたあとの少女は水すら口にしていない。
(飯を食えねえのか? 宗教でそんなのあったな……)
どこぞの宗教では昼以降、食事を禁じることがあるという。そんな戒律を遵守する敬虔な宗教家でなかったとしても相手は女。減量目的で食事を控えることも予想して、習一は自分一人だけの夕食をとった。昨日今日と穀物類の食事が多かったので、栄養の均衡を考慮してメインの肉料理以外にサラダも食う。肉体が十全な状態にならないうちは別段好きでもない野菜を摂取するのが身の為だ、と自己判断した。
同じ系列ならどの店も同じ味の料理をたいらげ、習一は氷が飲料に変じた水を飲んだ。クッションのきいた背もたれに寄りかかって天井を見た。喫茶店に長居し、腹がすけば料理を注文をする。そんな過ごし方は以前によくあった。それはこの地域一の難関校と呼び声高い、現在所属する高校への受験勉強に励んでいた時だ。
当時、母は息子を塾へ通わせてはどうか、と父にすすめたが「中学程度の勉強に塾は必要ない」と一蹴された。習一には自習が自分にできる学力向上の手段だった。家の中では能天気な妹が騒がしく、彼女が寝入る夜以外は自室での勉強がはかどらない。喫茶店以外に近隣の図書館に行くこともあったが、食事をとりに移動するたびに荷物を整理する手間が煩わしかった。また利用客が大勢いると使える机のスペースが手狭になるのを嫌い、喫茶店に足しげく通った。優等生であったころの自分と、落第を免れるために一仕事を終えた自分が重なる。習一はその対比を鼻で笑った。
「そろそろおうちにかえる?」
習一は我に返った。その提案を受理するには気が重いのだが、そうするべきだとも理解できる。現在こなせる課題は無くなった。腹を満たした時点で喫茶店に留まる理由はない。
「あしたはシドが一日、シューイチにつきそうの。今晩のうちにゆっくり休もうね」
「ああ……お前は明日、来ないのか?」
「うん。でも、シドによばれたらくるよ」
少女は本をリュックサックの中へしまった。習一も荷物を片付け、忘れ物がないことを机上とその下、ソファを一瞥して確かめる。少女が「ごはんのお金わたそうか」と言うので首を横に振った。
会計を終えると少女は店内におらず、軒先で彼女を見つける。習一は正門での邂逅と同じく、少女に声をかけずに歩いた。アスファルトは日中の熱を溜めこみ、ほんのり熱を放出する。多少蒸し暑いが昼間とは段違いに涼しい。習一はゆるい歩調で家を目指した。
家の居間には電灯が点いていた。家主はもう帰宅した頃か。妹は学習塾に行って不在だろう。そう考えながら鉄格子に触れた。
「そうそう、サンドイッチをくるんでた布と水筒、ちょうだい」
習一は借り物があることを思い出し、鞄に手を入れた。畳んだの布と軽くなった水筒を少女に返す。水筒はちゃぽん、と茶が揺らぐ音を立てた。
リュックサックのファスナーを閉めた少女は背に荷物を担ぎ、じっと習一を見た。
「なんだよ、早いとこお前も帰れ」
「おうちに入るところをみとどけて、って言われてる」
「蚊が飛びまわる時期に野宿なんかしねえよ」
そう吐き捨てた習一は家の敷地内に入り、玄関へと足を踏みこむ。手に汗がにじむのがわかった。暑さの影響ではない。緊張しているのだ。靴を乱雑に脱ぎすて、電灯に照らされた廊下を一直線に進む。フローリング張りの居間からテレビの音が鳴っていた。
脱衣場の戸に鍵を閉め、服を脱ぐ。汗を吸った制服のポケットを空にしたのちに室内の洗濯機へ放りこんだ。洗濯物は乾燥後、脱衣場の棚にしまわれる。体を洗ったら棚にある衣類を着て自室にもどる。それがいつものやり方だった。
習一は簡単にシャワーを浴びる。液体石けんを泡立てて体を洗い、ふと風呂場の鏡に注目した。昨日や院内の浴場では意識する余裕がなかった映写だ。そこに映る顔はやつれていた。おもな原因は一ヶ月の絶食だろう。習一は貧相な顔だと思った。以前は獣じみた勢いがにじみ出ていたはずだが、すっかり毒気を抜かれたようだ。攻撃性を失った面構えの次に頭髪が目についた。髪の根元が黒く、それ以外は脱色した色でいるアンバランスさに苦笑する。いっそ田淵のように髪を刈って黒髪にするか、と思案した。
伸びた髪を洗い、泡を流して風呂場を出る。タオルで全身をわしわしと拭いた。濡れたタオルを洗濯機に投げ入れ、新しい服に着替える。生乾きの髪をそのままにして鞄をつかみ、居間の横を素通りする。テレビの音は聞こえなかった。
「おい、待て」
階段に足を着けた時に男の声がした。習一は踏みとどまり、声の主に一応従う。
「散々迷惑をかけておいて挨拶もなしか?」
怒りと叱責が混合した、重圧を感じさせる物言いだった。習一は首だけを動かして男を見る。居間の入り口に中年が立っていた。ネクタイは首に巻いていないが、まだスーツ姿でいる。
「お前が夜遊びなんぞするから入院するはめになったんだ。入院費だって馬鹿にならんのだぞ……聞いているのか?」
習一は男の問いを無視した。とんとん、と上階へのぼると足音が二重になる。突然習一の片足は動かなくなった。男が足首をつかんでいる。
「いつまで醜態をさらし続ける気だ? 親に礼や謝罪の一つぐらい言えないのか!」
男の憤怒が表出する。足首を握る手に圧がかかった。習一は拘束された足を上下左右に振ってみるが、男の手は離れない。
「なんとか言ったらどうなんだ、この──」
「金食い虫の恥さらし。そう言いたいのか?」
男は目をかっと見開き、口ごもる。開口一番で聞けた言葉が図星を突いたらしい。
「毎度毎度、金と体面が大事なんだな。いっそ金で優秀な息子を買ったらどうだ?」
男はわなわなと全身を震わせる。その顔は醜くゆがんだ。
「きっとあんたの薄っぺらい自尊心をくすぐってくれるだろうよ」
「親を馬鹿にする皮肉ばっかりこきやがって!」
習一を捕縛する手が乱暴に動く。習一は階段のへりをつかむ。転倒を防げたが状況は悪い。平時なら体力面で勝る相手といえど今は病み上がり。このままでは逆上した男に体勢を崩され、演劇でしばしば行なわれる階段落ちを演じるはめになる。あれは芝居でも相当痛いことをどこかで耳にした。衝撃から身を守る肉が薄い者では殊更痛いだろう。どう打開すべきか──男の怒りを鎮める手段は思いつくものの、実行の意欲は微塵も湧かなかった。
がたん、と重い物がぶつかる音がした。なぜか足の呪縛が解かれる。習一がふりむくと男が両手で頭を押さえ、苦痛に耐えていた。その足元には油絵の絵画がある。それは習一の物心ついた時から階段の壁に飾られていた絵だ。丈夫な金属製のワイヤーで吊るしてあり、経年劣化で落下する代物ではない。地震が起きていないのに、と習一は不思議がる一方で好機だと思った。悶絶する男を放置して二階の自室へ入る。鍵をかけ、深い息を吐いた。
(運が、よかったな……)
鞄を適当に放り投げ、自身の体も寝台へぽすんと投げた。
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