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2018年12月12日

習一篇草稿−4章

1
 正午を過ぎたころ、習一たちは動物を見終えた。近くの公園に行くと手ごろな木陰に銀髪の少女が待機していた。二メートル四方の敷物の上にバスケットと水筒、そして彼女が常用するリュックサックがある。習一たちは膝を抱えて座る少女に合流した。
「今日のお昼ごはん、手作りのサンドイッチだよ」
 バスケットの蓋を開けると、中はラップにくるんだサンドイッチがすし詰め状態になっていた。エリーは水筒のコップに飲み物を注ぎ、習一に渡す。
「これ、ふつうのお茶。ぜんぶシューイチのものだから、好きなだけのんでね」
 習一はぐいっと茶を飲み干した。冷たい液体がさらさらと胃へ落ちるのを感じる。習一は入園以降、水を口にしておらず喉はカラカラになっていた。だがのどをうるおす機会は何度もあった。教師が自動販売機の前を通過する際に「なにか飲みますか」と尋ねたが、習一はかたくなに拒否した。熱気で汗を流す習一とは違って、教師は常に涼しげな顔をする。相手が飲料を欲さぬうちに習一が彼の厚意に屈するのは、なんだか悔しい気がした。
 習一が二杯目の冷茶をコップに入れる。水筒を動かすたびに氷の粒同士がぶつかった。
「そんなに喉が渇いていましたか」
 その声には渇きを自己申告しなかった者への非難はない。他者へのいたわりが欠けていたという自責の念が微量に含んでいた。習一はコップ越しの冷気を手に感じながら「あんたが気にすることじゃない」とぶっきらぼうに告げた。教師は頭を横にふる。
「脱水症状や熱中症で倒れてからでは遅いのです。私とエリーは暑さ寒さに鈍いので、私どもに合わせていては貴方の体がもちませんよ」
「寒いのも平気だと? おまえら、どういう土地で育ったんだ」
 色黒な者が多い熱帯地方出身ならば日本の猛暑に耐えうるかもしれない。だが彼らは概して寒冷な気候に不慣れだ。寒暑両方を苦手とする人間はいても、逆は通常いない。
「出身地……涼しい土地だったと思います。長袖で過ごす人が多かったようですから」
「他人基準でしか判断できねえのか?」
「そうですね。おおまかに温度は感じられるのですけど、それが人体にどれほどの影響を与えるかを知るには、他者の様子を参考にしています」
「変なの……機械が自動判別する時にやりそうな方法だな」
 習一は空けたコップを敷物の上に置き、手つかずのサンドイッチを手にした。前回食べたサンドイッチは白いパンだったが、今回は茶色の焦げ目がついている。
「今日は時間によゆうがあったからトーストしたの。前よりおいしくなってる、のかな」
 エリーはリュックサックの中を探ってタンブラーを二つ出した。
「これはわたしたちのごはんね」
 一つを教師に手渡した。タンブラーの容量は目測五百ミリリットル。それだけで大の男の腹が満たせるとは思えない。
「サンドイッチも食うんだろ?」
 習一が教師に尋ね、「いくつかはもらいます」と返答があった。しかし銀髪の彼らがバスケットに手を伸ばすことはなく、飲料を飲むだけだ。
「この少食ぶりで、よくそんな図体になれたな」
「体型と食事にも少々事情がありまして。後日お教えします」
 今は話せないというお決まりの文句だ。習一は軽く流した。話題変えなのかエリーが動物園を見物した感想を習一に聞くので「真夏に動物園に来るもんじゃない」と答えた。
「シューイチ、暑くてつらかったの?」
「オレはまだ平気だ。動物がどいつもこいつも、だらけていやがった」
 暑さにやられ、猛獣の長たるライオンや虎までもが地べたをごろついた。その様子には威厳が欠片もない。想像にたがわぬ生活を保ったのは元々の動きが緩慢なゾウやプールがあるペンギンなどに限定され、それ以外の動物は気だるそうだった。本日は曇天であり、比較的気温が低いため過ごしやすいのだが、毛皮をまとった動物には些細な差のようだ。
「元気な動物を見るには適さない時期だったのかもしれませんね」
 教師は習一に同調した。
「私はのんびりした彼らを見るのも楽しめましたが、貴方は物足りませんでしたか」
「さあ……動物園はあんまり来ないところだからな。退屈はしてない」
 習一は次々に用済みのラップを丸めて自身の足元に並べた。サンドイッチの具材は前より種類が豊富になり、あぶった鶏肉を小さく切ったタイプが一番美味だった。その評価をぽろっと口に出すとエリーが「やっぱりミスミは料理上手なんだ」と言う。
「ミスミ、てのはだれだ?」
「シドがシューイチのごはんのたよりにしてる人。もう一人、てつだってくれてる人がいるんだけどね。そうそう、明日から三日間の夕飯もミスミがつくってくれるって」
 少女の説明を教師が引きつぎ、学校の補習を終えた夕方はオヤマダという家へ訪問して夕食をとると言った。朝昼の食事もオヤマダ家の者が用意するのだと教師は述べる。
「オダギリさんの口に合った家庭料理のようですし、問題はないと思います」
「その家の連中はあんたの教え子の父兄……なんだろ。教師が個人的に自宅訪問していいのか?」
「校長の許可が下りていますから公認です」
「オレのことを、才穎の校長に?」
「はい。校長もオヤマダさんたちも、貴方への支援には協力的です」
「物好きがいるもんだな。補習が終わった後は……オレとそいつらの縁は切れるのか?」
「どうでしょうね。状況に合わせて、また食事の用意を頼むかもしれません。補習を終えて片が付くことは学校の事情だけです。家庭のほうは手つかずですから」
 言いにくいことをぽんぽん言うやつだ、という思いを習一は胸の内にとどめた。一番の問題は満足に食事もできない家庭環境にある。
「私は一度に複数のことをこなせません。家のことは補習を終えたあとで考えましょう」
「考えたって無駄だ。あの頑固オヤジをどうこうできるわけがない」
「その件は後日に取り組むとして、今日の午後の予定ですが──」
 風呂屋に行こう、と教師は言い出した。その計画自体は昨日提案されていたものだが。
「こんな真っ昼間にか?」
「食事処や休憩所があるリラクゼーション施設です。そこで夜までゆったりしようかと思います。着替えは服屋でそろえましょう」
 またも習一と縁遠い場所へ行くことになった。冷房のある室内で長時間過ごす分には体の負担は少ない。習一は教師の計画に乗った。

2
 習一が残した昼食は銀髪の二人がたいらげた。水筒やバスケットはエリーが回収して去る。彼女は風呂屋には同行しないという。しかし、教師の着替えを後で届けるそうだ。
「あいつを使いっぱにしてていいのか? オレだったらいい加減、うんざりするぞ」
「エリーは嫌なことを嫌だと言える子ですよ。それと貴方が思う以上に彼女は身軽です」
 軽業師的な運動能力は習一も認めるところだ。だがその言い方は物を運ぶための行き来が苦にならないことを指す。教師の扱うバイク以上に機敏に動ける乗り物を少女が使うようには見えないのだが。習一はこの疑問をぶつけてみたがはぐらかされた。
 習一たちは服を買いに量販店へ行った。適当に安くて無難なデザインの衣類を一ひろいと、タオルを数枚選ぶ。習一は購入時に率直な疑問をぶつけた。
「あんたの着替えも買えば手っ取りばやくすむんじゃないか」
「それも考えましたが、服決めに手間取るおそれがあったのでやめました」
「なんだぁ? 買う服をすぐに決められないのか。案外、女みたいなやつだな」
「女性の迷いは『どの服が自分に似合うか』を選りすぐっての結果でしょう。私は服の良し悪しがわからないのです。ファッションセンスはありませんから」
 教師は服に興味がなさすぎて選べない性質らしい。スーツ姿を見るかぎりは持ち前の容姿もあいまって、野暮ったい男性には見えない。習一はこの告白を半信半疑で聞き流した。
 購入した衣類は店名のロゴを印刷した袋に店員が入れる。その袋は一時、リアボックスにしまう。そして目的の風呂屋へ向かった。この時の習一は自分が汗臭いと感じたが、前方の教師は洗剤の匂いを放っていた。
(気温がわからなくて服のよしあしもわからん、か……)
 飲食も発汗も満足におこなえぬ男。彼はロボットなのではないか、とそんな仮想を思いつく。物語の世界では描かれることだ。人とそっくりな機械が人間社会にまぎれて一騒動を起こす。その行動が人にとって善であったり悪であったり、傾向はまばらだ。善人に扮した悪役のケースもある。この男は真実、どういう人物なのだろうか。
 疑おうと思えばいくらでも嫌疑はかけられる。善人を装う悪人は吐き捨てるほどいるだろう。そう仮定すると、教師は習一を懐柔したあとで我欲を満たすなにかを得る。よくある目当ては金銭だろうが、習一の父が息子のために身銭を切るはずはない。そう、教師はなにも得しないのだ。習一を更生させるにせよ謀るにせよ、見返りは皆無。
(バカバカしい……大体、こいつの妹も知り合いの警官もお人好しだろ)
 不満一つ言わずに教師に従う少女と、話し相手の毒気をぬく温和な警官。この二人が教師の仲間だ。人物の内面はその交友相手によって見抜けるという。全員が詐欺師ならば例外だが、習一と同年の少女に高度な腹芸はできないだろう。習一は疑心暗鬼を頓挫した。
 到着した風呂屋はあまり大きいという印象のない建物だ。和風の建築物の中は小奇麗な宿泊所のようでもあった。二人は脱いだ靴を下足箱に入れる。教師が受付の店員に話しかけ、財布から紙切れを出した。それは紙幣ではなくこの店の回数券だ。
「ここによく来るのか?」
「いえ、初めてです。回数券は譲ってもらいました」
 教師は提供者には言及しなかった。習一はその人物をなんとなく、自分に食事を用意してくれる人たちだと思った。二人は空気の冷えた店内を進む。手ぶらの教師は「エリーを待ちます」と別行動をし、習一は一人で男湯ののれんをくぐった。脱衣場のロッカーに荷物を置く。新品の衣類の包装を外し、風呂あがりにすぐ着れる準備をした。脱いだ服は服屋でもらった袋に詰める。教師が「着ていた服は袋に入れて、あとで私にください」と言ってきたのだ。衣類を洗濯して返すという申し出を受けて、習一は口答えせずに従った。
 必要かどうかわからないタオルを一枚持って浴場に入る。しかし大多数の利用客が局部を隠さずに奔放にしていた。風呂屋側のルールでは「タオルを湯船につけないでください」とあったので、タオルを持ち込まないほうが望ましいのかもしれない。
 習一はまず全身にシャワーを浴びた。備え付けの液体石けんで体を洗い、汚れが落ちたあとで湯船を選ぶ。内湯には人が多くいたので露天へ行き、無人の壺湯に入った。巨大な壺の中に入る経験はついぞない。人体が沈むごとにあふれ出る湯をじっと見ながら、肩までつかった。湯に入れられないタオルは頭に乗せる。規則を破っても今さら習一は気にしないが、現在は生真面目な保護者がいる。穏便に過ごせるよう心掛けた。今の己の格好がよくある入浴者のスタイルと同じになったことに、しばらく経ったあとで気付いた。
 絶え間なく湯を注ぐ竹筒を眺めた。時間の流れが遅くなったかのような現実離れした空間にいる。のぼせてきた気がすると浴槽をあがった。次に底の浅い風呂へ入り、高所より落ちる湯を肩に当てる。まだ明るい空を見つつ、体の熱がゆるく下がるのを待った。
 近くの露天風呂からじゃぶんと音が鳴る。誰か入浴したと思った習一が見てみると例の教師だった。彼も頭にタオルを置いていた。外国人風の者には稀有な姿である。サングラスはかけておらず、青い目が露出する。西洋人の特色らしき瞳の色だ。習一はなぜか体がすくんだ。
「風呂を利用されているようでなによりです」
 異人が視線を逸らした。習一への関心はとぼしい。浴場では習一と行動を共にしないようだ。習一もこの状況下で他人が付きっきりにいられては気色が悪い。教師の心中を推し量り、習一は屋内の風呂へ向かった。内湯は茶色の湯が張られ、薬湯のおもむきがある。客入りの良さからうかがうに、体によい成分があるのだろう。習一は健康をおもんばかって人々の隙間にもぐりこんだ。湯から微妙な鉄の匂いを感じる。あまりいい香りではないな、と思い、長居をせずに上がった。シャワーを浴びて風呂の湯を流し、脱衣場に行く。新品の乾いたタオルで体を拭いた。下半身だけ服を着て扇風機の風に当たる。湯上りに出る汗がおさまった頃にシャツを着た。そのまま脱衣場を出ようとした時、呼び止められる。
「オダギリさん、髪がぬれていますよ」
 習一が振りむくとそこに半裸の教師がいた。首にタオルをかけた状態だった。
「ほっときゃ乾くだろ」
「衛生的に良くありません。ドライヤーを使いましょう」
 習一が教師の提言を無視してのれんに手をかけた。その手首を浅黒い手がつかむ。
「ものの数分で終わります。ついてきてください」
 教師の連行を食らい、習一は洗面台の前に座った。壁に設置した大きな鏡が後方の教師の所作を映す。彼はドライヤーの機械音を鳴らし、生ぬるい風を習一の髪に当てる。風に煽られて動くのは脱色した髪の部分。黒い根元は染髪した部分と明確に色が分かれていた。
「髪が伸びていますね。風呂屋を早めに出て、散髪しに行きますか?」
「今日はもういい。疲れた」
「わかりました。せっかくですし、今日はここでゆっくりしていきましょう」
 鏡ごしに見える教師の顔は穏やかだ。彼はどんな思いで縁もゆかりもない子どもの世話をするのだろう。習一は黙って人工的な風を頭部に受け続けた。

3
 学校の補習を受ける日になった。今日も銀髪の教師は習一に同行する。制服に着替えた習一が玄関を出てすぐに銀色の頭髪を発見した。今日の彼は薄黄色のネクタイを首に巻き、銀色のタイピンでシャツに留めている。そのタイピンには三粒のカラーストーンがはめてあった。一般的に見ないデザインだ。オーダーメイド製の品だろうか。
「オダギリさん、おはようございます。これから三日間の補習、私が同伴します」
 決定事項を復唱された。習一はうなずく。昨日一昨日と教師と共に過ごした経験上、特筆すべき彼への不満は抱かなかった。この後の数日も似たようなものだと楽観視した。
 補習の開始時刻より早く教室へ入る。無人の一室で、習一は教師に手渡された朝食を口にした。朝食は昼食の弁当と一緒にトートバッグに入っていた。昨日の朝食と同じメニューだが、それで充分である。おにぎりは毎日食べても飽きないし、なにより味付けがうまかった。料理下手な習一の母親ではこの品質を毎日保てまい、と胸の内で比較した。
 習一に同行する教師は来客用の玄関を通って補習の会場へ来た。学校の備品のスリッパをペタペタ言わせて歩く様子は少し不恰好だ。しかし彼がスリッパの音や形状に不満を募らせる素振りはない。ただ一言「歩きづらいですね」とスリッパを履いた足を上げてみせる。底の長さが足りず、かかとがはみ出ていた。
 廊下がガヤガヤと人の話し声や靴音でにぎやかになる。生徒が登校しているのだ。この高校は進学校なだけあって夏休みも一定の期間、授業を行なう。単位や成績には関係しない、気楽な内容だ。しかし休みを返上しての学習には意欲が削がれる者がおり、名門への進学を考えない者は途中で抜けることもあるようだった。
 習一のいる教室に生徒が二人入室する。親しげな男女は習一と他校の教師を一目見て表情を凍らせた。当然の反応だ。校内一の不良と見知らぬ男性が同室者なのだ。習一はそっぽを向き、男女に対して無関心でいた。銀髪の教師は男女に軽く挨拶をする。
「私はオダギリさんのお目付け役です。私たちのことはお気になさらず、補習を受けてくださいね」
 教師は親切極まりない声色で、おびえ気味の生徒をなだめた。彼らはとなり合った席に着く。女子のほうはちらちらと習一のいる席に視線をやったが、習一は無視を決めこんだ。
 室外の喧騒が落ちつき、補習を行なう教師がやって来る。習一とは気の合う社会科担当の掛尾だ。色黒の教師が中年に一礼する。
「カケオ先生、今日から三日間の補習をよろしくお願いします」
「それじゃまるでシド先生が補習を受ける生徒みたいじゃないか。まあ、先生のことは他の教師にも言ってある。フツーにしててくれればいい」
 掛尾は続いて補習と課題の説明をした。補習は掛尾以外の教師も担当する。課題は今週中に掛尾に提出する。赤点のない科目の補習は受けなくてよい──三つめの説明は習一以外の生徒に向けた言葉だ。期末試験を受けなかった習一は全日補習を受けねばならない。
 補習がはじまると掛尾はプリントの問題文に補足したり、空欄の答えを生徒に質問したりする。習一は事もなげに答えるが、男女はしどろもどろに誤答を発していた。
 二時限分の授業を終えると掛尾は退室した。次に来た教師は習一の担任だ。年かさは四十近い三十歳代だというが精神的な年齢は銀髪の教師より低い。相手は無表情を繕いつつも、棘のある視線を習一と銀髪の教師に投げる。習一は極力担任の顔を見ないようにした。
 担任は一時間だけ教鞭をとり、昼までの残り一時間は別の教師がおこなった。科目内容は同じである。掛尾のように二時間続きでやればいいものを半分を他人に任せた。好意的に見れば他の授業の都合で抜けたのだろうが、落ちこぼれの面倒を看たくないというのが習一の見立てだった。
 昼休憩の時間になり、習一は弁当を机の上に出した。さりげなく銀髪の男を見ると彼はノートに何か書き付けている。その文字列は黒板に書かれた文言と解説者の余談だった。
「あんたが、なんで生徒の真似事をする?」
「せっかくですから復習させてもらいました。生徒の立場になるのは希少な体験です」
 ひとたび教員免許を取ってしまえば高校レベルの学習は不要ではないか、と習一は思った。この勤勉な教師に「変人だな」と感想をもらす。
「こんなもん、あんたにゃいらねえ知識だろ」
「なにごとも学んで無駄になるものはありませんよ」
 もっともらしいことを教師は言う。習一は聞き流して昼食に手をかけた。その時、がらがらと教室の戸を開く。開けた者は同じクラスの男子生徒だ。白壁という、成績優良児ではないが赤点を取るほど学が無いわけでもない男だ。
「おお、ちゃんといるんだな!」
 そこそこに体格の良い男子が鞄を提げて入室する。彼は習一の隣席に鞄を置き、サングラスをかけた男に握手を求める。
「おれは白壁といいます。あなたがシド先生ですね。お噂はかねがね聞いています」
 教師は戸惑いながらも白壁の手を握った。白壁はさらにもう片方の手で教師の手を固く握る。熱のこもった歓迎だ。男子の両手に解放された教師は不思議そうに相手の顔を見た。
「どなたから私のことを聞きましたか?」
「先生が補習に来ることは掛尾先生に聞きました。先生自体は以前から知っています」
 白壁は得意気な笑顔で着席する。教師が「才穎の生徒とお知り合いですか」と尋ねるとうなずき、「センタニさんのご友人でしょうか」と言われると目を見開く。
「どうしてあいつとおれが友だちだとわかるんです?」
「お二人に通じるものを感じました。センタニさんも礼儀正しく武芸に長じた生徒です」
「おれが武芸家だとわかるんですか?」
「立ち居振るまいを見ると、ある程度はわかります」
 白壁がなにやら感動した様子で「先生は評判通りの人みたいですね!」と嬉々として言った。彼は教師目当てで来たのだと習一は判断し、黙々と弁当を食べる。自然と耳に入ってきた会話をまとめると、白壁には才穎高校に通う古馴染みが最低二人いる。教師が言うセンタニとは別に女子の友人もいて、彼女がシド先生なる英語教師について情報提供していたという。シドという若手教師がいかに強く、優しく、かっこよく、そして底知れぬ怖さを持つかを聞かされたそうだ。「怖い」の部分は習一の興味を惹いた。
「『怖い』っつうのは、どういうところを指してるんだ?」
 白壁が意外そうに口ごもる。
「え……それは、小田切さんが一番よく知ってるんじゃないか?」
 習一は田淵が知らせた事件のことだと理解した。だが習一自身が女子相手に喧嘩をする事態はめずらしい。白壁の知人女子は別件を述べているのではないかと思った。
「そういや、記憶がところどころ抜けてるんだっけか。忘れてるほうがいいのかもな」
 白壁は具体的な教師の怖さを述べない。本人がいる手前、軽々しく言えないのだろう。習一は自身の不良仲間も銀髪の教師に畏怖したことを思い出して、質問は重ねなかった。

4
 午後の補習が終わる。習一は用済みの課題プリントを掛尾に提出して校舎を離れた。多くの生徒は午前中に授業を終えて帰宅したが、校舎には部活動に励む生徒がまだ残る。目立つ銀髪の教師への注目を集める前に立ち去りたかった。習一は正門で教師と合流する。
「夕飯にはまだ時間があります。少し時間をつぶしましょうか」
 教師は習一に行きたい場所の有無を尋ね、習一はつっけんどんに「ない」と答える。すると教師は予想外な行き先を提案した。
「ゲームセンターに行きましょう。欲しい景品があります」
「あんたが? 本当に?」
「正確には他の方がほしがっている物です。以前に挑戦してみて、全く取れなかったと言っていました。オダギリさんはクレーンゲームが得意ですか?」
「いや……あんまりやらない。ほしいと思うもんがなくってな。観戦ばっかりだ」
「そうですか。得意でしたら貴方に代行してもらおうかと思っていましたが」
「あんなもん、店側がゲットしにくくしてるに決まってる。絶対取ろうなんて思うなよ」
「はい、引き際をわきまえます」
 真面目くさった受け答えをする輩がゲームにヒートアップする光景は想像できない。習一は不要な助言を与えたと思った。二人は習一が通い慣れた遊興所にたどり着く。二階建ての施設からもれる音が街路にも伝わっていた。教師は一階にあるプライズコーナーにまっすぐ向かう。その的確な歩行は、ここは彼が初めて訪れた場所ではないことを意味した。
「プレイしたこと、あるのか?」
「こちらの店では一度もありません」
「そのわりには迷いがないな」
「下見は行ないました。景品の形状と取り方の種類を知ると事前の対策が楽になります」
「たかがゲームにも予習かよ」
「女子供に景品を渡さないゲーム相手です。生半可な気持ちで挑めば玉砕必至でしょう」
 つまり教師に泣きついた人物は女性か子どもだ。その無念を晴らすことに彼は静かに躍起になっている。つくづく他人のために生きたがる男なのだと習一は呆れた。
 景品を押しこめたゲーム機には種々様々なグッズが並ぶ。人気のある漫画およびゲームのキャラクターを模した人形やぬいぐるみのほか、市販の菓子を景品仕様にした大型の菓子などが取得対象だ。教師はクレーンを操作する台に手を置いた。そのゲーム機の景品は長方形の箱だ。箱の中身は忍者らしきデザインの人形。手に鉤爪を装備した覆面男である。
「忍者……? なんの作品のやつだ」
「幕末を舞台にしたアクションゲームだそうです。家庭用ゲームなので、ゲームセンターでは遊べないようですね」
 教師は丹念に景品と景品の落下口をいろんな角度から見た。この機種は左手前に大きな穴があり、右側には幅の細くなった穴が設けられ、景品が橋のように穴の上に横倒しで置いてある。プレイヤ―の正面に見える箱の底の幅は右側の穴より大きく、細い穴からは落とせない仕組みだ。二本脚のアームの出入り用に空けた穴らしい。穴と景品の間には小さく切った段ボールが敷かれ、赤字で線と「初期位置」の文字が書いてあった。店が提示する初期位置と現在の景品の位置はずれており、二センチほど左の大穴に近い。
「ここまで運んで、諦めた人がいるのですね。普通にやっても動かせないのでしょう」
 教師は小銭を出して投入する。正攻法ではかなわないと宣言した通り、真っ正直にアームで景品をつかむ方法はとらない。箱の端に落下するアームの先端を押し当てたり、アームをわざと景品の上を通りこして左右に開くアームの動きで押し出したりした。だが目に見えての進展はなく、箱が傾いても元通りの位置に戻るか、アームが箱の重量に負けて逆に押し返されていた。雲行きが怪しくなってきたものの、プレイヤーの表情に変化はない。
 初期投入から景品獲得のチャンスが残り一回になり、彼は深い息を吐いた。
「……今から見たことは、他の人には黙っていてください」
 小声で発した言葉はゲーム機が鳴らす音に半分かき消された。かろうじて聞こえた要求を習一が理解した時、漫然とした意識を正す。教師の最後のプレイは景品を正直につかみに行った。倒れた箱の側面をアームの両端が引っ掛ける。箱が斜めに持ちあがったが力の弱い腕は箱を置いて定位置に戻ろうとする。その時、アームと箱の接触面に黒い影が伸びた。
「え……?」
 習一は初め、猫が忍びこんだのかと思った。黒猫が景品の出入口に侵入してゲーム機の中にいると。しかし違った。機体をどの方向から見ても棒状の黒い物体が穴の下から伸びるのみ。生き物の胴体や頭は発見できない。謎の黒いものは役立たずのアームの代わりに箱を支え、落下口まで動かす。カコン、という落下音が響き、教師は目的物を手にした。
「なんとか取れましたね。汚れないうちに届けに行きましょう」
 異常などなにもなかったかのように教師は場を離れる。習一は本当の景品の取得者について問い詰めたが、教師は決まり文句の「記憶が戻ったあとで話します」でお茶を濁した。
 怪奇現象を目の当たりにして習一は心中穏やかにいられず、教師に詰問を続けるも効果はなかった。ゲームセンターを発ったあと、教師は先ほどの現象をはぐらかすようにゲームに興じた経緯を説明した。教師は忍者の人形を求める人物に会ったことがなく、その人物がほしがるからあげたいと言った依頼主が彼の教え子だという。この教え子こそが習一に食事を用意する一家の娘であり、習一が夕飯に相伴させてもらう家の者だ。
「私は彼女から多大な恩を受けています。少しずつ、恩に報いたいのです」
 教師は作り物の忍者の顔を見つめる。習一は意地悪い指摘を一つ思いついた。
「どんな不正をやってでもか?」
 教師は顔を上げた。その顔は習一を見ないで、前方を見据える。
「たしかに先程、ズルをしました。褒められた行為ではないと思います」
「あんたを責めはしない。店が根性の悪い設定にしなきゃ、やらずに済んだだろうしな」
 教師がいくらか話を聞く姿勢になった、と踏んだ習一は棄却された質問を繰り返した。
「あの時に出てきた黒いやつは何者だ? あとで話すんなら今教えてくれたっていいだろ」
「失くした記憶がもどればわかりますよ。貴方は以前に同じものを見たのですから」
「じゃあ、さっきのやつをもう一度見せてくれ。それで思い出すかもしれん」
「今はできません。別の場所へ移ってしまいました」
「そいつは生き物なのか?」
「ええ、そうです。いずれきちんと教えます。焦らないでください。貴方は他に解決すべき問題を抱えているのですから」
 答える気がないなら思わせぶりなものを見せなければいいのにと習一は心の中でこぼした。教師は遊興に慣れた習一の助力を期待したのだろうが結果的に居なくとも同じだった。

5
 教師の案内により、習一は小山田と書かれた表札のある一軒家を訪問した。玄関の靴箱の上に花が飾ってある。オレンジやピンク色などの明るい色調の花びらが印象的だ。
「この花、もしかして……病院でもらった……」
「貴方がエリーにあげた花です。少し数と花弁が減りましたが、まだ咲いています」
「オレがもらってから一週間くらい経ってるぞ。この暑さでよく傷まないな」
「こまめに手入れをすると夏場でも長持ちするそうですよ。切り花を延命する道具もあるといいます」
 二人が話していると家の者が一人、廊下に現れた。長い黒髪をポニーテールにまとめた、目つきの鋭い少女だ。習一はその顔立ちに既視感を覚えた。教師が少女に会釈する。
「オヤマダさん、お邪魔します」
「はーい、先生もオダさんも遠慮なく入ってね」
 眼孔に似合わず、声音は柔らかい感じがした。年齢的に彼女が教師の教え子なのだろう。女子生徒は教師の手中にあるパッケージを見て笑顔になる。
「先生はなんでもできるんだね」
「実力では取れませんでした。最後にあの子に助太刀をしてもらって得たものです」
「そういうのもできるの? 景品が取れ放題になっちゃうね」
 吊り目の女子は教師の異能力を容認する。習一は知らない事情を把握しているのだ。
(こいつから聞き出すのもアリ、か?)
 口の堅い教師に代わって情報源となりうる相手だ。習一が彼女の長い黒髪をじっと見つめると不意に黒い粒がにゅるっと出現した。目をこらすと粒はすぐに無くなる。
(なんだ? あの教師が呼んだのと同じやつか?)
 聞いても教えてくれそうにない異常について、習一は胸に秘めておいた。
 銀髪の男は景品の話を続け、ズルはしたくない、と告げて女子の同意を得る。
「お店が立ちいかなくなったらまずいもんね。こういう頼みごとはもうしない」
 この生徒も我欲がとぼしい性分らしい。習一の不良仲間の田淵なら、元手が少なく済むほど転売でぼろ儲けできると言って飛びつきそうな話題なのだが。
(育った環境の差かね)
 玄関先に活けた切り花への丁重な扱いといい、この家の人々は習一の身近な人間とは異なる気がした。同時に、彼女らと親しい教師は詐欺師とは程遠い人物だと認めた。
 三人はふすまを開けた先の和室に入る。冷房の利いた畳の部屋には長方形の木製のちゃぶ台が据えてあった。ちゃぶ台の周りに並べた座布団に習一と教師は座る。案内主は立ったまま、習一から弁当の入ったトートバッグを受け取った。
「冷たいジュースを飲む? それともお茶?」
「冷えた茶がいい」
 了解した女子生徒は教師に飲料の希望を聞かなかった。習一は、彼女が教師の好みの飲み物を事前に承知しているから聞く必要がないのだと見做した。
 束ね髪の女子は戸を開けっ放しにした隣りの台所へ行った。ほどなくして氷と茶を注いだガラスのコップを持ってくる。茶は一杯のみ。習一はこの対応がしっくりこない。二人の客のうち、片方のみをもてなす行為は非常識だ。
「この教師の分は?」
 習一が他者の処遇を気にかけると女子の目に丸みが帯びた。予想外の言葉だったらしい。
「私の分はいりません。オダギリさん、お気遣いありがとうございます」
「……礼を言うことかよ」
 顔に熱を感じた習一は冷茶をがぶがぶ飲んだ。昨日の昼食時のような渇きは感じていない。身体を冷やす目的で摂取した。空のコップをちゃぶ台に置くと女子が回収する。
「体にいいジュースがあるよ。飲んでみてね」
 二杯めに赤紫色の液体の入ったコップが現れた。習一が一口飲むと少し酸味がある甘いジュースだった。なにかの果物から抽出した飲料水らしいが、習一は特定できなかった。
 客をもてなし終えた女子が座り、机上に置いた忍者の箱を検分する。
「これがフィギュアかぁ。忍者好きな外国人でなくってもいいなーと思うね」
「オヤマダさんの分も必要でしたか」
「そんなことないよ。スペースをムダにとっちゃうし、掃除がめんどくさくなるし」
 そう言いつつも小山田は忍者に熱い視線を送った。欲しいことは欲しいのだと見てわかる顔だ。その面構えを最近目にしたような、という習一の思いが口に出た。
「どこかで見た顔なんだよな……」
「テレビで見たんじゃないかな。アイドルの樺島融子と似てるってよく言われる」
「いや……近頃、直接見た覚えがある。あんたの顔そのまんま、じゃない気はする」
 習一の疑惑に対して教師が「ノブさんのことですね」と答える。
「三日前にお好み焼屋へ行ったでしょう。あの時の中年の店員がオヤマダさんの父です」
 言われて習一は和風の飲食店での出来事を思い出した。教師と親しげだった恰幅のよい中年男性。あの男も鋭い眼孔を有したが、人となりは明朗かつ善人の雰囲気があった。
「ああ、そうか。オレの弁当はあの人の娘が作ってるんだったな」
 両者の目鼻立ちは共通する。輪郭には男女の差があり、娘はほっそりしたキツネ顔だ。「顎のあたりは似なくてよかったな」といつもなら腹の中に留める感想がついて出た。父似の女子は不満たらたらに「全部お母さん似がよかった」とむくれる。母似な習一は自分の遺伝が微妙に肯定されたような心持ちになった。
「そうそう、このゲームを一緒にやってみる?」
 小山田は人形の箱をつつく。その景品の原典は家庭用ゲームだと教師が紹介していた。
「時間制限は晩ごはんができるまで」
「お前と対戦するのか?」
「いんや、コンピュータ相手。オフラインならボコボコに負けることはないからさ」
 家の中で遊ぶテレビゲームは久しぶりだ。父親と隔絶する前は自宅にもあった。素行の良好な友人と共だって熱狂したことも、むなしく脳裏に浮かんだ。テレビとその台に収納した現行機の電源が入る。習一は小山田が手渡すコントローラーを物珍しそうに触った。
「物語を追っていこう。まだ進めてない話が残ってる」
「このゲームを買って、日が浅いのか?」
「けっこう前に貰ったものなんだけど、お店の手伝いがあると時間がね……」
「手伝い? 父親と同じ店か?」
「ううん、オカマオーナーのお店。オダさんはシド先生と食べに行ったんでしょう」
 通算、教師とは二箇所の喫茶店を利用した。一つはチェーン店、一つは独自の店構えと経営スタイルの店だった。どちらもオカマという個性的な店員が勤労していた覚えはない。
「食パンやらサラダやらが食べ放題の店か? あそこにオカマなんていたのか」
「背が高くて、胸がバイーンと出たウェイトレスは見なかった?」
「いたけど……あいつが、男?」
 妖艶な給仕だった。あの柔弱な身体は男性特有の骨ばった体躯とかけ離れているのだが。
「そう、あの外見でタマ付き」
 小山田は習一の混乱をよそに、コントローラーを操作してゲーム画面を切り替えていく。彼女があれやこれやとプレイ上のアドバイスをするものの、助言は習一の耳を通り抜けた。

6
 習一は二十分近く、人形と同じ忍者を操った。忍者の背中を見続ける三人称視点にて、ゲームの操作感に少しずつ慣れてくる。画面を上下二分割にしての二人同時プレイはアーケードゲームでは見ない遊び方であり、新鮮味があった。
 小山田は母親らしき人物に呼ばれた。ゲームを中断し、コントローラーを教師に渡す。教師は経験がないからと拒んだ。だが「食わず嫌いはよくないよ。これも勉強!」と押し切られ、教師は彼女のプレイを引き継いだ。彼の担当の画面は弓使いの手と武器が画面に映る一人称視点。任意に視点を切り替えられる仕組みだが、彼はそのまま弓使いを動かす。左右に歩く、その場で跳ねる、矢をつがえて撃つ動作を一通り試した。弓矢の攻撃は高い命中率で敵に当たる。その精度はゲームの持ち主である小山田と同格かそれ以上だ。
「未経験ってウソだろ?」
「いえ……オヤマダさんのお手本を見たおかげで少しできるようです」
「じゃああれだ、シューティングはやったことあるんだな」
「いえ……関連する経験というと、弓術を習ったことでしょうか」
 本物の弓の腕前がゲームにも反映されるという発想を、習一はにわかに信じられなかった。かと言って教師が隠れゲーマーなようにも見えず、とりあえず射撃の話題は不問にしてゲームを進行した。一戦が終わると教師は「続けますか?」と習一に尋ねる。
「んー、やめとくか。あんたはこういうの、嫌いなんだろ」
「嫌い、ではありませんが……オダギリさんの楽しみが減ってしまうのではないかと」
「あんたの腕なら足でまといにならねえよ」
 習一は教師にプレイ続行をもとめた。ここでゲームを終了させると夕飯までの過ごし方がわからない。かと言って一人でゲームをやれば自分のスキルの荒さをつぶさに観察される。ならばこのまま時間がくるまで二人プレイをしたら精神的によいように思えた。
 戦場を踏破すると、カチャカチャと陶器がこすれ合う音が鳴った。小山田が取り皿と料理を手にしてやってくる。もうじき夕飯だと知った習一たちは遊戯をやめた。機器を元あった状態に片付ける。食事のジャマになる人形はテレビの脇に移動させた。食卓に現れた夕飯の菜は大皿にのった煮物、唐揚げ、サラダ。豆腐がのった小皿は四つあった。この家の住民は最低三人いる。台所で料理を作る女性と、それを手伝う娘と、娘の父。晩餐に加わる習一の分を合わせて四つ。教師の食べる分は除外してあるらしい。
「ばーちゃん、ご飯よそってくれてありがと」
 小山田は新たな人物の存在を示唆した。彼女は横長の楕円の盆を持って居間に入る。その後ろに腰のくだけた老婆がついてきた。足首の布地がきゅっとしまったもんぺを履いた老人だ。まぶたが垂れた老婆は銀髪の教師の隣にためらいなく座る。家族ぐるみの親交があるのか──と習一が思いかけた時、「ノブさん」と老婆は教師に話しかける。
「今日のノブさんはお仕事が早くおわったんだねえ」
 老婆が呼ぶ人名は教師の固有名詞ではない。教師の言によれば、老婆の息子にあたる人物の呼称だ。背丈だけは共通する両者を混同しているというのか。
「今日は仕事が休みでした。ところでノブさんは家で夕食をとらないのでしょうか?」
「ノブは遅番だよ。日がかわる前に帰ってくるかねえ」
 老婆は奇妙なことに質問された息子の状況について普通に答える。教師をノブ自身だと思いこむ痴呆状態ではないらしい。老婆は習一を一目みて「おやまあ」と柔らかく驚いた。
「かわいらしいマサさんだこと。キリちゃんのお友だちかい?」
 「マサ」の名が己を指すことを習一は理解できたが、どう返答してよいやら困惑する。すかさず教師が会話に入った。
「この男の子の名前はオダギリシュウイチさんです。お孫さんの学友ではありませんが、夕食にご相伴させてください」
「そうかい。じゃあシュウくんだね」
 老婆は習一の略称を名付けた。習一はあだ名で呼ばれることに抵抗はないので、訂正はやめた。少なくとも他人の呼称よりは確実に良い。
「たーんと食べておいき。今はノブがいないから食べそびれることはないよ」
 横幅のあった中年は見た目にたがわず大食漢のようだ。彼が同席する食事の際は出方をうかがって食を抑えべきか、と習一は注意事項を思いついた。
 老婆が喋る間、小山田は白米の入った茶碗を食卓に並べおえて台所に行った。次に湯気のたつ黒塗りの茶碗を運び、同様に並べる。茶碗は五つあった。
「お吸い物は先生も飲んでね。具はわたしが切ったよ」
 汁物の中には刻んだネギと油揚げが浮かぶ。小山田は再び台所に行き、彼女と入れ替わりで母親らしき中年の女性が来る。おそらく四十代なのだろうが、少々幼い感じの丸い目と皺のないふっくらした頬が実年齢以上に若く見えた。教師が女性に一礼する。
「ミスミさん、お食事の用意をしていただいてありがとうございます」
「いえいえ、だいぶお待たせしちゃったわね。さ、ご飯を食べましょう!」
 ミスミは食卓に重ねた取り皿を配布し、皿に箸をのせる。箸が行きわたるとカラフルなプラスチックのお椀にサラダを盛って配る。そのどれもが教師の分を省いていた。
「シド先生のご飯は娘が用意してるの。もう少し待っててくださいね」
「はい。皆さん、どうぞお先に召し上がっていてください」
 教師と小山田を除く夕飯が始まる。習一はじっとミスミを見た。キツネ顔の娘とは全く方向性の違う造形だ。どう見ても娘は父似だとわかる。父親と娘を並べれば尚そう感じるだろう。それが子を宿せぬ父親にとってどれほど喜ばしいことか、娘にはわかるまい。
(ブサイクでもねえのに顔に文句言うなんざ、ぜいたくだ)
 小山田が「母親に似たかった」と言うのも一理あり、ミスミは美人の部類だ。より多くの人が好むであろう優しげな顔である。とはいえアイドルと似るという小山田も、間接的だが世間一般が認める顔立ちのはずだ。彼女が父似の顔を嫌悪する理由には美醜以外の要因がある。それがなんであれ、父の実の子という証を持つ者を習一はうらやましく感じた。
「習一くん、で合ってる? ガーベラをくれてありがとう」
 物思いにふけっていた習一は急に話しかけられて驚いた。そして耳慣れぬ単語に戸惑う。
「え……ガーベラ?」
「玄関に飾ってある花のこと。エリーちゃんが持ってきてくれたの。あなたが『花好きの人に渡して』と言ったから、うちに届けてくれたんですって」
 確かにそんなことを言った気がする、と習一はおぼろげに思い出した。適当に発した依頼を、エリーは完璧に遂行したのだ。普通の人では夏場の一週間、切り花を咲かせ続けられなかっただろう。花の知識がない習一はその長生きの秘訣が気になった。
「あの花……どう世話したらあんなに長く咲けるんだ?」
「えっと、花束を受け取った時は少ししおれていたから、水をたくさん吸わせて元気にさせたの。一本ずつ新聞紙でくるんで、水を張ったバケツにいれて半日置いて……」
 ミスミは切り花の生け方を語る。おおよそ習一の理解が及ぶ分野ではないが、手間暇をかけて花を生き永らえさせていることは伝わった。生け花講義の最中に小山田が現れる。手に箸とおにぎりをのせた皿と、輪切りにした野菜を盛った皿がある。
「はいこれ、先生のご飯。足りなかったら言ってね。漬物はまだまだあるから」
「充分です。ありがたくいただきます」
 教師は箸を親指と人差し指の間にはさみ、両手のひらを合わせた。外国人のくせに日本の風習に律儀だ、と習一は内心つっこんだ。彼専用の漬物は点々とぬかが付いている。それを見ていると小山田が「食べたい?」と聞く。
「うちの糠漬け、わたしとお母さんとお婆ちゃん制作の三種類あるよ。味見する?」
「いや、いい。お前の夕飯が冷めちまう」
「あ、けっこう気をつかってくれてるんだね」
 小山田は空いた座布団に座る。彼女が教師や母親との会話を弾ませるおかげで習一は会話に加わらずに済んだ。居心地の悪さはなかったものの、不和を匂わせない人物交流のありようは習一の目には奇異に映った。

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posted by 三利実巳 at 00:00 | Comment(0) | 習一篇草稿

2018年12月11日

習一篇草稿−3章

1
 習一は外気の熱にうだりながら、黒灰色のシャツを見失わないように歩いた。銀髪の教師は進行方向を見つつも習一を置き去りにしない歩調を保つ。朝、ともに歩いた時の速度を正確に覚えたのか。あるいは他人の気配の遠近を察せるのだろう。どちらも常人離れした技能ではあるが、過去に習一を武力で凌駕したという男にはできそうな気がした。
 教師はめぼしい飲食店の前を通り、和風な店へと近づく。その店の分類を習一は知らない。教師は引戸をがらがらと開けた。屋内の喧騒が解き放たれ、入店客への挨拶が威勢よく飛び交う。二人を出迎えた者はねずみ色の頭巾を被った中年だ。身長は教師とほぼ同じだが恰幅はいい。黒の前掛けの横幅が微妙に足りず、紺色の作務衣が少しはみ出ていた。
「いらっしゃい! 先生、今日は一人か?」
「いえ、連れが一人います」
 図体の大きい店員は上体を横へずらし、教師の後ろにいる習一を発見した。彼の目尻は吊り上がっている。射るような視線を習一は感じた。ただし敵意は含まれていない。
「ん? 見たことない子だな。才穎高校の子か?」
「いえ、別の学校の生徒です。しばらく勉強のお手伝いを──」
「あ〜、そういや娘が言ってたな。先生が他校の男子の世話するからその子のメシをつくるって」
 昨日のサンドイッチはこの店員の娘の手によるもの。そうと知った習一はむずがゆい思いをした。なんとなく自身の母親に近い、年長の人物が作った食事だと想定していた。
(同い年くらいのやつが、か……)
 なんの見返りもない善意を振りまく同輩がいる。習一は空手部の同級生の名を髣髴し、次いでその曇りのない眼を思い出した。
 教師とは仲の良さそうな店員が席を案内する。そこは一面に鉄板を乗せた四人掛けのテーブルだった。油と小麦粉が焼ける匂いが充満する店はお好み焼屋であり、酒を片手に粉物をほおばる客もいた。店員は注文が決まったら呼んでほしいと言い、厨房へ去る。教師がテーブルのメニュー立てにある冊子を取り、習一に手渡した。
「食べられるだけ頼んでください。代金は私が支払います」
「あんたはまた食わないのか?」
「はい。腹は減っていません」
「朝のパンだけじゃ足りないだろ。オレの飯代を肩代わりするために無理してるのか?」
「金銭には困っていません。ただの体質です」
 メニューを見ようとしない習一に代わって、教師がもう一つのメニュー表を開く。
「具の好物が特にないようでしたら、ミックス玉がよさそうですね。いろんな具が少量ずつ入っているそうです。たくさんの味を楽しめますよ」
 習一がメニューを見るとミックス玉とは同種の中で最も価格が高く、量は二人前だ。
「これ、二人分だって書いてあるぞ」
「昼を食べていませんから大丈夫でしょう。それとも、お好み焼きは苦手ですか」
「べつに嫌いじゃないが……量による」
「残してもかまいません。私が処理します」
「わかった。じゃあそれ一つ、頼む」
 教師は店員が他客への品運びを終えて厨房へ行くところを声掛けする。立ち止まった者はひょろ長い背格好の青年だった。年齢は二十代。彼も灰色の手ぬぐいを頭に巻き、黒いエプロンを掛けている。前掛けの下は若者らしい私服だ。頭巾と前掛けがこの店の制服のようだ。若い店員に教師が注文をつけ、店員は伝票を復唱したのちに厨房へ帰る。入れ替わりで中年の店員が現れた。習一たちに氷水を提供する。
「そいじゃ、鉄板を熱くするんで触らないようにしてくれよ」
 店員は身を屈め、テーブル横のつまみをひねった。鉄板の加熱が始まる。店内の冷房を打ち消す熱気が徐々に生まれた。鉄板には幾重にもヘラが当たった薄い線が走る。年季の入った店なのだろう。習一は今までこの店を素通りするばかりで入店したことがなく、お好み焼き屋であることは知らずにいた。それは仲間内のグルメ評にはあがらなかったせいだ。うまいともまずいとも評価されない料理に多大な期待を寄せることはやめた。
 ふたたび細長い体型の店員が現れる。彼は黒塗りの丼のような器と、ヘラを置いた二枚の取り皿を盆に乗せて運ぶ。習一たちに料理のもとを提供すると、すぐに他の客のもとへ馳せ参じた。
 教師が調味料と一緒にならんでいた油を手にし、鉄板に垂らす。油をヘラで薄く一面に引いた。音と細かい気泡を立てて油が熱される。熱した油の上に丼に入った薄黄色の液状を敷いた。小麦粉を溶いた液体にはとうもろこしの粒や丸まった海老、白いイカなど色々な具材が混じっている。教師は丼に残った具をヘラで掻きだし、円形に広がった溶液に落とした。その手際を見るかぎり、料理下手には思えない。
「あんた、お好み焼きを作るのは得意なのか?」
「いえ、初めは何度も失敗しました。練習したおかげで人並みに焼けます」
「へー、それでお好み焼きを食ったことは?」
「……あまり、ありません」
「あんたは何なら食えるんだよ?」
「好き嫌いはありません。私の滋養になる食べ物の種類が極端に少ないのです」
「食べ物のアレルギーが多くて、食えるもんが少ないってことか?」
「アレルギー症状は出ません。本当に、栄養をとれる食べ物が限られるのです」
「? じゃあ胃が受け付けないのか?」
「どう言ってよいものやら……この説明も貴方の記憶がもどったあとにさせてください」
 教師は習一の疑問を解消させない返答をしたまま、お好み焼きの制作に集中した。彼は正直に答えているようだが、習一の常識に当てはめた解釈では真相にたどりつけない。特定の食べ物のみを胃が吸収するのでも、アレルギーがあって飲食に制限がかかるわけでもない。それ以外に好悪の情なく偏食に走る理由は、習一には思いつけなかった。
 教師は小麦粉が固まってきた円状の板を二つのヘラで持ち上げてひっくり返す。表に返った側には茶色の焦げ目が出来上がっている。
「今日はこの店を含めて三か所、訪れましたね。疲れましたか?」
「ああ……やっぱり暑い時に歩きまわると疲れる」
「わかりました。明日は一か所に留めましょう。喫茶店に長時間いてもかまいませんか」
「昨日、それをやった。なんとも思わねえよ」
「それは結構。明日は貴方が昨日過ごした喫茶店で課題をこなしましょうか」
「これだけ頑張ってやっても、オレ一人でちゃんとやるとは思えねえか」
「貴方を信じないのではありません。オダギリさんの身を案じているのです」
「オレのことが心配? なにを気にしてんだ」
「貴方の父親のことです」
 習一は胸を衝かれた。習一が最も苦悩する物事を教師は臆することなく提示する。習一は教師をにらんだ。黄色のサングラスの向こうにある目は一途に料理を見つめていた。

2
「貴方は以前、町中を放浪する不良少年だった、という認識で合っていますか?」
「ああ、そうだ。この辺に住んでる連中にけむたがられる、人間のできそこないだよ」
「そのように己を卑下してはいけません」
 凛とした叱責だった。習一は口をつぐむ。
「貴方はきちんとした人間です。その証拠に昨日も今日も、長い時間を課題に向き合ってこれたでしょう。胸を張ってください。自分は頑張れた、と」
「気休めはいい。それで、父親についてどこまで知ってるんだ」
 教師は平たい小麦粉の塊をもう一度ひっくり返す。両面に茶色の焦げ目がついた塊をヘラで半分に割き、火の通り具合を見る。
「そろそろ焼けますね」
「父親の話をしながら夕飯か。あんまり食えたもんじゃないな」
「では別に話題にしましょう」
「いや、とっとと教えてくれ。それを聞いたら食う」
 教師は上半身を横へ倒し、鉄板の熱を弱めた。夕飯が焦げないための配慮だ。
「厳格な裁判官だそうで、情状酌量はあまりお好きでないとか。罪は罪としていかなる事情があれど罰するべきだというお考えの方だとお聞きしました」
「よく、知ってるな……」
「情報通な知人がいるので調べてもらいました。わかったのは表面的な情報だけですがね。長男である貴方とは不仲続きだと知れましたが、原因はわかりませんでした。あとは雒英高校の掛尾先生に教えてもらった話ですと、前年度を境に貴方の素行が荒れ始めた、と。その時に父親と激しい衝突があったのではありませんか」
「そうだよ、だからどうした? もめる原因がわかれば仲直りできると思ってんのか」
 習一は底意地悪く聞いた。教師は軽く頭を横にふる。
「いいえ、私が知りたいのは貴方の父親が貴方を嫌うという事実です。貴方が家にいたがらないのは父親のせいでしょう。父親がいなければ貴方は日が落ちる前に、安心して家に帰ることができる。登校時刻に家族に顔をあわせて学校へ行ける。違いますか?」
 教師の指摘は合っている。習一は父が眠るか仕事でいない時に家に帰り、父が出勤した後で出かける用意をする。常に父親と家の中で遭遇しないことに注意を払って過ごしてきた。父さえいないのなら母も妹も習一には無害な存在だ。
「父親がわが子を目の仇にする事情は察しかねます。ですが貴方を非行に走らせた元凶である以上、その存在を除かなければ貴方に真っ当な高校生活は送れません」
「あんたはオレじゃなくてオレの父親がダメ人間だって言うのか?」
「極論でいえばその通りです。貴方は元来、まじめな性格なのだと思います。そうでない人はプリントの山を解き続ける苦行に耐えられません。きっと弱音を吐いて逃げ出そうとします。ですが、貴方はエリーにも不満をもらしませんでしたね」
「……逃げたって他にやることがないからな。どうせ暇ならつまんねえ勉強でもやるさ」
「暇があれば勉強に励む、とは優等生らしい発想ですね」
「こんな落第生にゃ似合わねえ言葉だ、ってえ皮肉か?」
「いえ、貴方は周囲の人間に恵まれれば現在も優等生でいたはずです。その気性をねじ曲げた原因が父親なのですから、父親に親としての問題点があります。貴方を普通の生徒へ教化するにはまず、父親をどうにかしなくてはなりません」
 教師は火を通したお好み焼きを食べやすいサイズに分けつつ、感慨深い言葉を連ねる。習一が心のどこかで誰かに言ってほしかった述懐だ。しかし根本的な解決法は見出せない。
「父親をどうにかする、ったって、あの頑固オヤジは死ぬまであのままだろうよ」
「はい。貴方が父親と一緒にいても互いに傷つくばかり。どちらかが離れるべきでしょう」
「家を出るならオレのほうだ。でも一人で生活できるか? 中卒じゃどこも雇わないぞ」
「厳しいでしょうね。ですので……私が貴方の一人暮らしを支援しようと考えています」
「あんたが? オレが、一学期の試験に合格できたあとも?」
「はい、周りの協力と貴方の気持ちがそろえば可能だと思います」
 習一はしげしげとヘラを握る男を見た。彼が場当たり的な綺麗ごとを述べたようには見えない。ごく自然に、真摯な態度を保持している。
「今すぐに、とはいきませんが……この夏休みの期間中になんらかの落としどころをつけたいと思っています。オダギリさんの家庭環境は不健全です。補習を受け終えてからでかまいません。今後の身の置き方を考えてみてください」
 教師は毛先の短い筆が入った調味料の蓋を外し、ソースをお好み焼きに塗りつける。焦げ茶色に染まった生地に習一はマヨネーズとかつおぶしをかけて食べ始めた。

3
 習一は平凡な喫茶店での朝食をすっきりたいらげた。食事中、教師に聞きそびれていたことが何度も頭によぎる。この店が先日、田淵と会った店だったせいだ。給仕が空の皿を下げたあとで銀髪の教師に尋ねる。
「なぁあんた、背がデカくて銀髪で色黒な男を知ってるか?」
 教師はブックカバーをかけた本を閉じる。彼はやはり飲食をとる気配がなかった。
「その男とは私以外の人物ですね?」
「そうだ。オレの仲間は銀髪とは言ってなくて、帽子を被ったオバケ男だと言ってたが」
「オバケですか。ユニークな表現をするお友達ですね」
 教師は微笑んだ。幽霊じみた存在を疑う様子はない。
「その男、あんたの仲間か?」
「ええ、そうです。私と同じ志を持つ同胞ですよ。帽子を被るオバケが銀髪だという情報は誰が提供したのですか?」
「誰も言っちゃいない。光葉というヤクザっぽい男が捜してたヤツかと思ったんだ。あんたの仲間、ヤクザ連中には有名なのか?」
「名が知れているかどうかわかりません。ただ、接触はありました。私ともども恩ある方がおりまして、その方を護衛した時に」
「それが無敗のバケモノ、と言われる由来か」
「そんな呼び名が付いていましたか。初めて耳にしました」
 全くの他人事のように教師が淡く驚いた。習一は質問を続ける。
「光葉は男みたいに背が高い銀髪の女のことも聞いてきた。それもあんたの仲間か?」
 教師は目を丸くした。銀髪の女の存在が知れ渡る状況は想定外だったらしい。
「そう、ですか。見ている人はいるものですね」
「知ってるんだな?」
「はい。その女も……私の仲間です」
「けっこう大所帯なんだな。そんなに銀髪な連中がいたら目立つと思うんだが」
「だから帽子を被るのですよ。私は仕事上、帽子を着用できないので諦めています」
「エリーはなにも被ってなかったが、あいつはいいのか?」
「今はいいのです。なるべく人目に付かないようにしていますから」
「オレと半日一緒にいたことがあっても、か?」
「はい。目立っていなかったでしょう?」
 習一はわだかまりが解けない事実だ。この喫茶店で出会った田淵は、少女が同席しないも同然の態度を通した。この現象を不審に思った習一の質問には「気配を消してるから」と少女は簡単に答えた。習一以外の人間が見ても気付かぬ特殊能力でもあるというのか。
「納得がいかないようですね。いずれわかります」
「いずれ、か。まあどうでもいい。ヤクザもどきな男には会ってないか?」
「どんな人物か、特徴を教えてもらえますか」
「背はあんたより高くてゴツい感じで、日焼けした金髪野郎だ。白スーツを着てたな」
「会っていませんね。真夏に人捜しは重労働でしょうし、諦めてくれればよいのですが」
「それもそうだな。カンカン照りの時に外を歩きたくねえ」
 光葉は人捜しに飽いて己がネグラへ戻ったのだろう。そう見做して習一は今日の課題をテーブルに並べた。残り少ないので参考とする教科書の数も少ない。昨日は教科書なしだったために解かなかった問題も、今日は参考資料が手元にある。早速取りかかった。
 教師は習一が目的を果たす作業に入ったのを確認し、彼もノートと筆記具を机に置いた。何を書き留めるのかと習一は興味がわき、じっとノートを見た。教師が視線に気付く。
「これは私の日記です。近頃は立てこんでいたので手つかずでした」
「人前で日記書くのは恥ずかしくないか?」
「その日の出来事と自分の考えを記すだけです。他人に見られて恥だとは思いません」
「ふーん。じゃあオレが見ても怒らないんだな?」
「ええ、読みたければどうぞ。見ますか?」
「やめとく。あんたのことはどーでもいいからな」
「そうですね。貴方が必要とする情報は少ないでしょうし、それが賢明です」
 習一は引き続きプリントの設問を解く。教師はまだ手を動かさないでいる。
「そのままの状態で聞いてください。今後の予定を伝えておきます。今日の昼前に、貴方が目覚めた時に会った警官がここへ来ます。目的は簡単な状況確認です」
 本日、警官が来訪する。彼と習一が会ってから今日で一週間が過ぎた。様子観察をするには遅くも早くもない頃合いだ。
「同時に彼の交通手段をお借りして、明日は遠出しようと思っています」
「どこに行く気なんだ?」
 習一は顔をうつむいたまま問う。教師の指示通り、課題の片手間の会話姿勢を保った。
「動物園です。明日の天気は曇り、気温が低めらしいので、万全の体調でない貴方でも園内を見学できると思います」
 習一は動物園にはあまり縁がない。幼稚園や小学校に通った時に遠足で訪れたきり、私的に見物したことはなかった。遊びには飽きた習一でも真新しい発見と体験ができそうな場所だ。
「朝食と昼食は知り合いにつくってもらいます。食事の心配はいりません」
「そんなところに行く理由はなんだ? 補習には全然関係ないだろ」
「気晴らしです。ずっと机に向かい続けていては心身ともに良くありません。あとに三日間の補習が控えていますから、今のうちに休んでおくと良いかと」
「休むのに動物園? どういう理屈だ」
「動物を見ていると和みませんか?」
 変なことを言い出すやつだ、と思って習一は顔を上げた。しかし教師は真顔でいる。本気でそう思っているらしい。
「さあ……あんまり意識して見たことがなくて、わからない」
「動物が嫌いでないのならよろしいです。夕方は大衆浴場で休もうと考えています。着替えは一式購入しましょう。これが明日の計画です。貴方の希望があれば変更しますが」
「いや……やりたいことはない」
「では明日は動物園ですね。どんな子がいるのか楽しみです」
 落ち着いた大人には似合わぬ無邪気な感想だ。教師は喜色に満ちている。
「もしかして、動物好きか?」
「そうです。もっぱら犬猫のような毛むくじゃらな動物が愛らしいと感じますけど、そうではない象などの動物も興味深いと思います」
「へー、意外だな。趣味のない仕事人間かと思ってたぜ」
「動物への関心は……個人的な感情ですね。それは趣味だと言えるのかもしれません」
 教師は開いたノートに何かを書いた。習一との会話の中で記録したい事柄が出たようだ。習一も顔を伏せて解答を続けた。

4
 喫茶店の客足が増え、昼飯時が迫る。教師の話では昼食の前に警官が来るが、と思った習一は外の様子を見た。窓際の席ゆえに人と車の往来がよく見える。警官は車かバイクに乗ることは教師の話から予測できた。安くはない乗り物を貸せるとなると、教師と警官は親しい間柄のようだ。おまけにこの炎天下の中、徒歩を強いられても厭わぬ相手だ。あの警官もまた、教師の仲間と言える存在なのだ。
 道路上を走る白い影があった。滑空する白い鳥だ。その形状は習一の記憶に新しい。
「え……白いカラス?」
 入院中に遭遇した白い羽毛の烏だ。全身真っ白な烏は希少生物であり、そうそう頻繁に出会えるものではない。なのに、白の烏は道路上を滑空する。その後ろに続くのが一台のバイクだった。乗り手は顔半分を防護レンズで覆うヘルメットを被る。人相はよくわからないが、学生の夏服のようなシャツとスラックスを履いた様子から男性だとわかった。
 白の烏は習一の視界から飛び去る。習一は呆然とし、なんの変哲もない往来を見続けた。
「白いカラスが見えましたか」
 低く安心感のある声によって習一は我に返る。その声には奇妙な言動への不信感がない。
「ああ、見えた。病院にいる時にも一回見たんだ。最近、このあたりに引越してきたのかな」
「いえ、あのカラスは警官の所有物です」
「警官のペットぉ? ずいぶんとレアな生き物を飼ってるんだな」
「他にも変わった動物をお持ちの方です。お願いすればいろいろ見せてくれますよ」
「ふーん。それはどうでもいい。あの警官がお出ましになったってことなのか?」
「はい、出迎えにいきます。しばらく待っていてください」
 教師は日記帳を閉じ、店を出た。無防備な日記が習一の眼下にある。盗み見るに値しないと思い、手をださずにおいた。三分ほど経過すると教師が一人の男性を伴ってきた。その男性は習一が入院中、初めて目にした人物。名字を露木と名乗った警官だ。彼はヘルメットを小脇に抱え、反対の手には物が入った白いビニール袋を提げている。
「やぁお待たせ。習一くん、元気そうにしていて良かったよ」
 露木は教師が座るソファの隣に腰を下ろした。ヘルメットは座席の空いたスペースに置き、持っていた袋は教師へ手渡す。
「せっかくだから薬、受け取ってよ。在庫全部っつってもまた作れるんだから」
「本当にいいのですか? シズカさんの分がなくては……」
「もうちょっと飲みやすく改良するんだ。クラさんと一緒に研究してみるつもり」
 教師は露木に軽く頭を下げて「ありがたく頂戴します」と律儀に礼をのべ、自身の鞄へ袋を納めた。その薬とは二人とも使用の機会のあるものらしい。露木が習一に顔を向ける。
「課題のほうはどうだい、うまく合格できそうかな?」
「もうすぐ終わる。あとは補習に出席するだけ」
「うん、そうか。提出期限が来週末の宿題をもう済ませちゃうんだから、エライねえ」
「べつに偉くない。この先生が見張りをよこしてまでオレに強制したせいだ」
「シドさん側の見張りはあるだろうけど、きみは文句言わずにやってるんだろ? そこがエライんだよ。おれなら『もうむり』とか『明日にしよう』とか言っちゃいそうでね」
 露木はさっぱりした笑顔を見せる。銀髪の教師よりはとっつきやすい大人だと習一は肌で感じた。年のころは二十代半ばだが、精神的には習一との隔たりがない。露木が特別幼いのではない。習一が変に世間擦れして少年らしさを失っただけだ。加えて教師が三十歳足らずのくせに老成している。そのせいで年齢的に近い大人二人が同世代に見えなかった。
「明日はシドさんの運転で動物園に行くんだってね。熱中症にならないように、飲み物をシドさんにねだるんだよ。彼は独身貴族で、お金に余裕があるからね」
 露木は冗談半分な助言をする。
「こんな時、おこづかい制のお父さんは財布の中身がさびしくても子どもにジュースを買ってあげなきゃいけないんだから、大変だ。おれの兄貴もそのうちそうなるかな」
 露木は温和な笑顔を浮かべつつ、テーブルの端に立てかけたメニューを取る。
「おれはここでご飯を食べる気なんだけど、お邪魔してても大丈夫かな」
「好きにしてくれ」
「ありがとう。どれにしようか……うちのご飯は野菜が多くってねー」
 職業が警官だとは信じがたい呑気さで露木はメニューをめくり、雑談をし続けた。自分が住む家は寺であること、元々両親は住職ではなかったが不慮の災害で家を失くし、親戚の寺に住まわせてもらっていること、その親戚の娘と自分の兄が子どもの頃からの許嫁同士であり現在は結婚していること、といった身の上話を習一は聞かされた。
 露木が昼食を注文するついでに習一も食事することにし、食べる間も彼は話を弾ませた。昼食中の露木は教師について熱心に話す。教師は今年の四月に初めて教師になった新人であること、シドの名前は教え子がつけたあだ名であり本名の頭文字を取ったということ、その教え子は樺島というアイドルとそっくりな顔をしていること、教え子と教師は親密な仲であること、校長が二人の仲を後押しすることなどを教師自らの弁解も交えて語った。

5
 露木に再会した翌朝、習一は自室で休んでいた。教師が朝食を届けると言って自室での待機を指示したのだ。目が覚めて寝台の上をごろつき、窓の外のくもり空を眺め、次に昨日解きおえたプリントを見た。露木が長話を済ませて帰ったあとに教師に丸点けをしてもらったものだ。誤答を修正すべき箇所もすべて確認が終わっている。あとは補習を受けに登校したおりに教師へ提出して課題完了となる。鞄の中身を整理し、登校の準備を万全にしておいた。着ていく制服も昨日の夜のうちに回収した。今日にでも学校へ行けるほどに支度は整っている。明日の用意を点検したのち、今日の外出のために衣服を着替えた。
 開いた窓から人があらわれ、軽々と桟を乗り越えて入室する。いつもの銀髪の少女だ。
「シューイチ、ごはんもってきた」
 少女は背負ったリュックサックを机の上に乗せる。荷物から取り出したものはまたも水色の布。布地の下には握り拳大のなにかがシルエットとして存在する。
「おにぎりをつくってもらった。あと、飲みものはこれ」
 少女はおにぎりの包みを机に置き、新たに紙パックを見せる。市販の野菜ジュースだ。
「食べおわるまでまってる」
 少女がその場に座りこんだ。習一は勉強机の椅子に座り、彼女が届けた朝食を口にする。布にくるまれたおにぎりは二つあり、透明なラップで包装してあった。海苔を巻いたおにぎりには点々とふりかけが混ざっていて、中央部にはかつおぶしを醤油にひたしたおかかがある。もう一つは種のない梅干しが具のおにぎりだった。二つの握り飯を完食し、ジュースを飲んで潰すと少女が立ちあがった。習一は彼女に声をかける。
「お前はエリーって言うんだろ。お前も動物園に行くのか?」
「いかない。お昼ごはんができたら、あとでとどけにいく」
 習一たちが遊覧に行く間も少女は無償の奉仕活動を続けるようだ。その従順さを健気だと習一は思った。だが遊びたい盛りの子どもには不満が噴出しそうな雑事だ。
「すっと使いぱしりにされてて、つまんなくないか?」
「ぜんぜん。動物は今日じゃなくても見れるもん」
 エリーは習一の質問をこともなげに流す。強がりのようには見えなかった。
 少女はおにぎりを保護したラップを広げ、その上で空の紙パックを小さく畳む。二枚の使用済みラップで紙パックを包み、布と一緒にリュックサックへ入れた。
「でかけよ。シドがまってる」
「父親が起きてると思う。見つかったらすぐに出れねえぞ」
「わたしがちょっとのあいだ、うごけなくしてくる」
 エリーが窓から飛び降りた。なにをする気だ、と習一は不審がりながら窓を閉める。一応の所持金をズボンのポケットに入れて部屋を出た。一階の居間には椅子に腰かける父の姿がある。目は閉じており、二度寝をしているらしい。エリーが手をくだすまでもなく鬼の目を盗むことができた。習一は堂々と靴を履き、玄関を出た。
 昨日と同じく銀髪の教師が道路上で待っていた。彼は習一の姿を見るとエンジン音を鳴らす。露木に借りたバイクを稼働したのだ。そうして彼は露木のヘルメットを被った。習一が鉄格子をのけると彼はもう一つのヘルメットを手にする。
「これを被ってください」
 予備のヘルメットに風よけのレンズはない。習一は黙ってそれを被り、もみあげから顎の下までを伝うベルトのクリップを留めた。教師は普通自動二輪の機体へまたがる。その後方には人一人が座れる幅があり、空席の後ろには低い背もたれのような箱が設置してあった。箱はリアボックスと呼ぶらしい。箱の中に荷物を入れることができ、一度使い出したら外せないと露木は利便性を説いていた。外観は不恰好になってしまうが、習一も教師も見てくれを気にしないので外されないままだ。習一は教師と箱の間に自身の体をおさめた。
「私の体に捕まっていてください。安全運転を心掛けますが、何が起きるかわかりません。手を離さないようにお願いします」
 慎重な勧告にしたがい、習一は成人男性の腹部に両腕を巻いた。喧嘩以外に他人に触れることは滅多になく、いいようのない心持ちが生じる。敵意ではなく、好意でもない気持ちで他者にくっつく。今の自分の心境が良いものか悪いものかさえ、わからなくなった。
 習一の動揺を置き去りにしてバイクは発進する。習一は流れゆく実家を見つめ、その家屋が視界になくなっても視線を変えなかった。

6
「ひざに乗せます。じっとしていてください」
 茶や白などの毛玉が放たれた区画があり、その場を取りかこむベンチに習一が座っていた。習一の太ももへ、教師が捕まえた獣が乗る。動物に慣れていない習一はおっかなびっくりで、自身の体へ着陸する獣を見つめた。短い四肢を人の足に乗せた獣は三毛猫と似た毛皮を持つ。白と茶と黒で彩られた獣の顔は間が抜けていた。その平和ボケした面構えにたがわぬ大人しさで、太ももの上にじっと居座る。この獣の種類はモルモットという。
「なでてみてください。このように」
 教師の色黒な手が毛皮に触れる。後頭部から背中まで、数回に渡って一方通行を繰り返した。何百何千という来園客をもてなしたであろう獣は泰然自若の面持ちでいる。
(このデブネズミの方が度胸があるってのか?)
 習一は小動物に臆する自分を腹立たしく思い、獣の丸い背をわしわしと手のひらでこすった。荒いなで方をされても獣は離れない。この程度の摩擦は経験済みらしい。
「大人しい子ですね。では、私も一匹預かってきます」
 教師は再び、小さな獣たちが待機する囲いの中へ両手を入れた。次に捕まえた獣の毛はクリーム色だ。胴体を褐色の手に抱かれた毛玉は鼻をひくつかせ、習一の目の前へやってくる。教師は習一の隣に座り、その膝に単色の獣を置いた。片手で獣の尻をそっとおさえつつ、まんべんなく毛皮を触る。そうするうちにクリームの獣は前足を捕獲者の腹へ押しつけて立った。教師は両手で獣の脇を持つ。獣の尻を片腕の肘の内側に乗せ、胸の前に抱いた。空いた片方の手でその頭をなでる。獣を愛でる教師の表情はほころび、慈愛に満ちていた。習一相手には見せなかった顔だ。よほどの動物好きなのだろう。
「動物をさわってて、楽しいか?」
 習一は適当に三毛のモルモットの毛皮をいじりながら質問する。教師が「はい」と視線を獣に注いだまま答えた。習一はふん、と鼻をならす。
「こんなすっとぼけた顔した連中の、なにがいいんだ?」
「顔はどんなのでもかまいません。柔らかい毛と体、愛らしい仕草にまっすぐな心根を持った子はみな、かわいいものです」
「ふーん、じゃ、オレみてえなヒネクレ者は嫌いなわけだ」
「人と動物は違いますよ」
 教師が真剣な表情で言った。彼は獣を自身の太ももに下ろし、習一を見る。
「愛玩動物は愛らしさ一つで一生をまっとうできる者が数多くいます。それが彼らの役目です。人はそういきません。生きる術と知恵を身に着ける必要がありますし、その手伝いをするのが私の役目です。生徒を選り好みして指導にあたることはできません」
 謹厳な回答だ。習一は獣の柔軟な肢体を指圧のごとく押しつつ、口をゆがめる。
「聞こえのいいこと言ったって、やっぱり素直なやつは扱いやすいし聞き分けのないやつはメンドクセーだろ?」
「職務上の苦楽はあまり考えたことがありません」
「きれいごとはいらない。聖人面してても嫌いなやつはいるだろ、と言ってるんだ」
「いることはいますが、オダギリさんはその範疇にありませんよ」
 難敵の認識がないことに習一は期待外れのような、胸がすいたような気持ちになった。
「貴方は自分を性根の曲がった問題児だと思っているようですね」
「思うもなにも、周りはみんなそう扱ってるだろ」
「私も『みんな』のうちに含まれていますか?」
 習一は黙った。この男の胸中は知れないが習一を疎んじる素振りは一度もなかった。家族や学校の連中とは違うのだ。習一は一言「わかんねえ」とつぶやく。教師が微笑する。
「それは、貴方が私を敵だと思っていない、ということでしょうか?」
「……いまのとこ、な。それで、いつまでこいつを触っていればいいんだ?」
 習一は三毛の毛並みをわざと逆立ててなでた。小動物を嫌う理由はないものの、モルモット目当てに集まる人だかりができつつある現状に不快を覚えていた。子ども連れの親がこぞって囲いに群がり、獣の捕獲に熱中する。他人の捕獲風景を見るに、逃走を図る獣に難儀する人がいる。人々が獣に夢中になるのはまだいい。狙い通りに獣を得た者が習一たちと同じベンチに座り、その関心が次第に隣席の習一と連れの教師に向かうことが嫌だった。親子や兄弟には決して見えぬ二人を、どう勘ぐられるものかと習一は気が気でなかった。
「わかりました。次はまだ見ていない動物を見に行きましょう」
 教師は習一が気分を悪くしていることを察知したようで、クリーム色の獣を胸に抱いて席を立つ。その背中には斜めにかけるショルダーバッグがある。バイクの走行中は後部座席にいる習一の邪魔にならぬよう、バイクの荷物入れに収納していた。
 獣の返却をする前に、教師はモルモットの居住区にへばりつく女性と小さい女の子に声をかける。逃げる獣を捕まえられずにいる親子に、手中にあるモルモットを渡そうというのだ。親子がベンチに座ると教師は娘の膝に獣を乗せる。習一にしたのと同じ行為だ。娘はよろこんで獣の背中をなで回し、母親は教師に謝辞を述べた。もどってきた教師は習一に手をさしのべて「その子を返してきましょうか」と聞く。
「それぐらい、自分でやる」
 万事を他人任せにするのは鈍くさいやつのすることだ、と習一は考え、獣のもちもちした胴を両手で抱えた。三毛を囲いの中へ放つ。拘束が解かれた獣は藁のじゅうたんに頭を突っこみ、ひとときの自由を満喫する。習一は教師が水場に行くのを追いかけた。
 動物に触れる前と後はかならず手を洗うように、との注意書きにそって、二人は液体せっけんを泡立てる。手がまんべんなく白い泡にまみれたあと、水で泡と汚れを流した。習一はぬれた手を適当に服でぬぐうが、教師は持参のハンカチで拭く。彼は水気をふき取った指に白い宝石のついた指輪をはめた。それは平素より彼が身に着ける装飾品であり、一度めの手洗いの際に外していた。触れた動物にケガをさせてはいけないから、という気遣いゆえにポケットに隠したものだ。
(動物にもバカ丁寧なんだな)
 男らしくない細かい配慮だと思う反面、そんな男に養われる家族やペットは幸福な生き方ができるのだろうとひそかに感じた。

タグ:習一
posted by 三利実巳 at 00:00 | Comment(0) | 習一篇草稿
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