新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2017年10月17日
拓馬篇前記−拓馬5
拓馬はヤマダを無事に家まで送りとどけた。懇意であるヤマダの家族とは会わず、すぐに帰宅する。玄関には白黒の飼い犬が待っていた。ほどほどに撫でてやる。皮膚に近い内側の毛は温かいが、外側の被毛は冷えている。
「もー部屋に入っとけ、な」
拓馬はリビングの戸を開けた。入室せずに立っていると犬がみずから暖かい室内へ入る。利口なやつだ。尻尾が引き戸のレール上を通過した頃合いに拓馬も進む。はたと足を止めた。ほかにも部屋へ入れるべきものがある。ヤマダがくれたパンだ。拓馬は下足棚の上に仮置きした紙袋をつかむ。
(今日中に食べないとな)
廃棄のタイミングを二度逃したものだ。明日になったら本当に棄てるはめになるかもしれない。リビング続きの台所にいる母に紙袋を見せ、その旨を伝えたあと、拓馬は自室へ行った。
自分専用のパソコンデスクの椅子に座った。連絡相手は就業時間の不安定な警官である。まずは話せる状況なのか確認する目的で携帯電話を操作した。電話はかけずに文章で伝えておき、返信を待つ。
拓馬はシズカと込み入った会話をする時はパソコンでやり取りすると決めていた。その支度としてパソコンの電源を入れるのはもちろんのこと、足元に設置した電気ヒーターを稼働し、椅子の背もたれにかけた室内用の上着を羽織った。
今日のシズカが携帯電話さえ確認できない可能性もある。時間を浪費しないために学校の宿題をやっておこうと拓馬は思った。数学の問題を解こうとして鞄を探す。するとパソコンからピコピコと電子音が鳴った。拓馬を通信相手として登録する者が鳴らす音だ。
拓馬はパソコンにヘッドホンを接続し、それを耳にあてた。
『こんばんは、拓馬くん。どんなことがあったか詳しく話せるかい』
拓馬はシズカに今日あったことを洗いざらい打ち明けた。一通り話し終え、シズカが不良との格闘を『豪儀だね』と感嘆する。拓馬は恥ずかしくなる。
「そこは問題じゃあないんです」
『わかってる。大きな体の男の人と、黒い生き物が危ないかもしれないってことだね』
「危険なのかわからないですけど、シズカさんには報告しておきたかったんです」
『うん、きみはおれが見えない人外も見えるからね。なんでも言ってくれるとありがたい』
「それで、どうします? ほうっておいても大丈夫だとは思うけど」
ヤマダが人外を引き連れることはたびたびあった。彼女は生まれつき異形に好かれるタイプだ。その魅力につられて亡くなった人物がついてきたり、妖怪のような生き物がくっついたりする。時間が経てば人外たちはヤマダに飽きて去っていく。放置してもよいのだが、あまり相手がしつこく居座るとヤマダが体調不良を起こす。その点、シズカに依頼すれば早期に人外を追い払える。拓馬はその判断を仰いだ。
『ヤマダさんにはアオちゃんを送るよ。茶色のワンコだ。それと拓馬くんには探索も兼ねてウーちゃんを預けよう。こっちは猫だ』
シズカが派遣するのは普通の動物ではない。彼が友と称する、化け物の類だ。この世界とは異なる世界へ訪れた際にシズカが仲間にした生物であり、世界を超えて呼び出すことができる。その能力は異世界においてありふれたものだという。ただしこちらの世界で使いこなす人は少ないそうだ。
『いっぺん二体とも拓馬くんの部屋に行かせる。着いたらおしえてね』
シズカの声が遠のいた。拓馬は一度ヘッドホンを外す。シズカの使いは部屋の窓に現れるため、窓をながめた。
(シズカさん、真剣に聞いてくれたな)
今日出会った人外はあまり危険性がないように拓馬には感じられた。そのことはシズカに伝えてある。本当に厄介な場合、拓馬が存在を見抜いた程度ではいなくならないのだ。
(何日かすぎたら猫たちに帰ってもらおう)
シズカと拓馬の家は離れている。シズカは隣県の人だ。普通の交通手段では最低でも一時間かかるだろう。だがシズカの使いには尋常でない速度で移動できる個体がいた。
五分と経たぬうちに部屋の窓に白く丸いものがひょっこり現れる。鳥の頭だ。形はカラスに似ている。その左右に黒猫と茶色のサモエド似の尨犬(むくいぬ)も並んだ。拓馬はヘッドホンを装着する。
「三体来ました。白いカラスのほかに、犬と猫です」
『よし、じゃあカラス以外がそっちに残るよ』
カラスと犬は窓から消える。黒猫が窓のガラスをすりぬけてきた。
「猫は、ずっと俺のとこにいるんですか?」
『今晩は念のために居させてくれ。なにも起きなかったら調査に回すから』
「はい、わかりました」
『ヤマダさんが不安がっているなら、彼女にもこのことは伝えてほしい。かわいいワンコがそばで守ってるってね』
「見えもさわれもしないのに『かわいい』犬がいると知らせたら、あいつは生殺しの気分になりますよ」
シズカの友らは通常、人には見えない姿で活動する。幽霊と同じだ。幽霊との違いは常人にも見える姿に変化できること。その変化は生身の動物に擬態するか危険物と相対した時に限定された。
『あはは、そのへんのニュアンスは拓馬くんに任せるよ。じゃ、ほかにおれに言うことはないかな?』
「はい、どうもありがとうございます」
『じゃあね、おやすみー』
通信は切れた。拓馬はパソコンの稼働を終了させる。あとにはベッドの端に座る黒猫が残った。布団やシーツに物が乗るとその近辺にシワが寄るはずだが、猫の回りにはない。それがこの動物に実体がないことを証明した。
「もー部屋に入っとけ、な」
拓馬はリビングの戸を開けた。入室せずに立っていると犬がみずから暖かい室内へ入る。利口なやつだ。尻尾が引き戸のレール上を通過した頃合いに拓馬も進む。はたと足を止めた。ほかにも部屋へ入れるべきものがある。ヤマダがくれたパンだ。拓馬は下足棚の上に仮置きした紙袋をつかむ。
(今日中に食べないとな)
廃棄のタイミングを二度逃したものだ。明日になったら本当に棄てるはめになるかもしれない。リビング続きの台所にいる母に紙袋を見せ、その旨を伝えたあと、拓馬は自室へ行った。
自分専用のパソコンデスクの椅子に座った。連絡相手は就業時間の不安定な警官である。まずは話せる状況なのか確認する目的で携帯電話を操作した。電話はかけずに文章で伝えておき、返信を待つ。
拓馬はシズカと込み入った会話をする時はパソコンでやり取りすると決めていた。その支度としてパソコンの電源を入れるのはもちろんのこと、足元に設置した電気ヒーターを稼働し、椅子の背もたれにかけた室内用の上着を羽織った。
今日のシズカが携帯電話さえ確認できない可能性もある。時間を浪費しないために学校の宿題をやっておこうと拓馬は思った。数学の問題を解こうとして鞄を探す。するとパソコンからピコピコと電子音が鳴った。拓馬を通信相手として登録する者が鳴らす音だ。
拓馬はパソコンにヘッドホンを接続し、それを耳にあてた。
『こんばんは、拓馬くん。どんなことがあったか詳しく話せるかい』
拓馬はシズカに今日あったことを洗いざらい打ち明けた。一通り話し終え、シズカが不良との格闘を『豪儀だね』と感嘆する。拓馬は恥ずかしくなる。
「そこは問題じゃあないんです」
『わかってる。大きな体の男の人と、黒い生き物が危ないかもしれないってことだね』
「危険なのかわからないですけど、シズカさんには報告しておきたかったんです」
『うん、きみはおれが見えない人外も見えるからね。なんでも言ってくれるとありがたい』
「それで、どうします? ほうっておいても大丈夫だとは思うけど」
ヤマダが人外を引き連れることはたびたびあった。彼女は生まれつき異形に好かれるタイプだ。その魅力につられて亡くなった人物がついてきたり、妖怪のような生き物がくっついたりする。時間が経てば人外たちはヤマダに飽きて去っていく。放置してもよいのだが、あまり相手がしつこく居座るとヤマダが体調不良を起こす。その点、シズカに依頼すれば早期に人外を追い払える。拓馬はその判断を仰いだ。
『ヤマダさんにはアオちゃんを送るよ。茶色のワンコだ。それと拓馬くんには探索も兼ねてウーちゃんを預けよう。こっちは猫だ』
シズカが派遣するのは普通の動物ではない。彼が友と称する、化け物の類だ。この世界とは異なる世界へ訪れた際にシズカが仲間にした生物であり、世界を超えて呼び出すことができる。その能力は異世界においてありふれたものだという。ただしこちらの世界で使いこなす人は少ないそうだ。
『いっぺん二体とも拓馬くんの部屋に行かせる。着いたらおしえてね』
シズカの声が遠のいた。拓馬は一度ヘッドホンを外す。シズカの使いは部屋の窓に現れるため、窓をながめた。
(シズカさん、真剣に聞いてくれたな)
今日出会った人外はあまり危険性がないように拓馬には感じられた。そのことはシズカに伝えてある。本当に厄介な場合、拓馬が存在を見抜いた程度ではいなくならないのだ。
(何日かすぎたら猫たちに帰ってもらおう)
シズカと拓馬の家は離れている。シズカは隣県の人だ。普通の交通手段では最低でも一時間かかるだろう。だがシズカの使いには尋常でない速度で移動できる個体がいた。
五分と経たぬうちに部屋の窓に白く丸いものがひょっこり現れる。鳥の頭だ。形はカラスに似ている。その左右に黒猫と茶色のサモエド似の尨犬(むくいぬ)も並んだ。拓馬はヘッドホンを装着する。
「三体来ました。白いカラスのほかに、犬と猫です」
『よし、じゃあカラス以外がそっちに残るよ』
カラスと犬は窓から消える。黒猫が窓のガラスをすりぬけてきた。
「猫は、ずっと俺のとこにいるんですか?」
『今晩は念のために居させてくれ。なにも起きなかったら調査に回すから』
「はい、わかりました」
『ヤマダさんが不安がっているなら、彼女にもこのことは伝えてほしい。かわいいワンコがそばで守ってるってね』
「見えもさわれもしないのに『かわいい』犬がいると知らせたら、あいつは生殺しの気分になりますよ」
シズカの友らは通常、人には見えない姿で活動する。幽霊と同じだ。幽霊との違いは常人にも見える姿に変化できること。その変化は生身の動物に擬態するか危険物と相対した時に限定された。
『あはは、そのへんのニュアンスは拓馬くんに任せるよ。じゃ、ほかにおれに言うことはないかな?』
「はい、どうもありがとうございます」
『じゃあね、おやすみー』
通信は切れた。拓馬はパソコンの稼働を終了させる。あとにはベッドの端に座る黒猫が残った。布団やシーツに物が乗るとその近辺にシワが寄るはずだが、猫の回りにはない。それがこの動物に実体がないことを証明した。
タグ:拓馬
【このカテゴリーの最新記事】
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
2017年10月16日
拓馬篇前記−拓馬4
拓馬は自宅のリビングにいた。心境は上の空。床に座り、ボーダーコリーにそっくりな雑種犬とたわむれている。
白黒の中型犬は拓馬の投げたボールを追いかける。ボールを口にくわえては拓馬のもとにもどり、またボールを投げるよう催促する。その繰り返しだ。拓馬の関心は犬になく、今日の出来事にある。
(他校の生徒とケンカしたって……先生にバレるかな?)
教員に知られれば、高確率で学校の品位を落とす行為をしたと判断される。そして咎められるだろう。罰として親を呼び出されたり、停学処分を受けたりと、自分たちが不良相当の扱いを受けるかもしれない。
(学校の連中がどう思おうとかまやしないけど……)
家族を心配させることは避けたい。とくに父は拓馬を不憫がっている。ことさら父の心労を増やす真似はしたくなかった。
(私服だったから『才穎高校の生徒がやった』と気付く人はいない。でも、あの校長はあなどれないしな)
拓馬が通う高校の校長は地獄耳で有名だ。同じクラス内の生徒も知らない生徒同士の交際まで把握するという。情報収集能力の高さは校長の嗜好の偏りにつき、おもに恋話にばかり活用された。
本来、校長は生徒との関わり合いを教師に委ねる存在。生徒との接点が少ない校長が、単独で生徒の恋愛事情を知りうるはずはない。そのため、校内に情報提供者がいるとの噂がまことしやかに流れた。教員は生徒の情事を報告するよう義務付けられているとか、各学年に一人は校長に加担する生徒がいるのだとか。程度の低いスパイものの物語のような憶測が飛び交う。なにが真実であろうと恋愛に無関心な拓馬には無害な情報能力だ。正直なところ、どうでもよかった。
しかし恋愛脳の校長とて学校の長である。普段は趣味に費やす力を、まっとうに教育方面で発揮することは充分に考えられる。
(いつバレるかビクつくよか、白状して一発怒られたほうがスッキリするかな)
いっそ周知の事実になればよいと開き直った。父は拓馬が乱暴者でないことを知っているし、話せばちゃんと理解してくれるのだ。
拓馬は手に握ったボールを自分の頭上へ投げる。やや前方へと上がったボールは、飼い犬がキャッチしやすい位置へ落下していく。落下地点で犬が待機しているだろう、と予測したがボールは床を跳ねた。遊び相手のいないボールは跳躍力を弱めていき、最終的に転がる。
(トーマ? もう飽きたのか)
リビングの引き戸は犬が通れるだけの幅が開いていた。飼い犬が自力で戸を開けることはままある。閉めることまで意識が回らないのが困りものだ。
廊下から冷たい空気が侵入する。拓馬は冷気を遮断しようと思い、腰をあげる。そこへ呼鈴が鳴った。来客だ。
(人を出迎えにいったか)
拓馬の予想は的中した。人感センサー付き照明の点灯した玄関を犬が見つめている。人間には聞こえぬ外からの足音などで気配を察知し、先回りしたのだ。その尻尾はゆっくり左右に揺れた。
すりガラスをはめこんだ玄関の戸が開く。そこには防寒着で身を包んだヤマダがいた。彼女が立つ背景は自然界が放つ光を失っている。
「ヤマダ、日が暮れたらうちには来ないんじゃなかったか?」
「ちょっと遅れちゃったね。でもパンは見つかったんだよ」
ヤマダは手にした紙袋を拓馬に差し出した。拓馬が中身を見てみると真っ黒いパンが目につく。これが姉の所望していた竹炭入りのパンだ。
「うわ、ホントに黒いな」
「うん、炭が混ざってるからそんな色になるんだとか。健康にはいいらしいよ」
両手の空いたヤマダは犬の背中や首をなでている。犬の尻尾はせわしなく揺れた。
「炭も竹も、食べようとする人がいるんだな」
「『健康』を売りにしたら欲しがる人はいっぱいいるんじゃない?」
拓馬はパンの入った袋を下足の棚に置いた。玄関に並べた自分の靴を履く。
「パンのお礼に家まで送ってく」
「そのカッコでいいの?」
「近いから平気だ」
送るまでもない距離なのだが、ほかに彼女の足労に報いる方法は思いつかない。ヤマダは「また来るからね」と犬の両頬をむにむに揉んだ。彼女が拓馬宅へ訪問する目当てはかなりの割合で犬にあった。ヤマダにとっては犬とのふれあいが充分な報酬に値するのかもしれないが、拓馬はそのことに触れなかった。
ヤマダが先に外へ出て拓馬があとに続く。玄関先の照明のおかげで確認できる道に、光を吸収する黒い物体があった。拓馬は警戒する。しかしヤマダはそのまま直進しようとした。拓馬はとっさに彼女の腕を引く。
「待て、変なのがいる」
「え、どこに?」
ヤマダの目は異変を捉えていない。同じ体験は過去に数えきれないほどあった。
またたくまに黒い異形がサーッとその場を引いた。照明は見慣れた通路をいつも通りに照らしている。
「……もう、どっかに行ったみたいだ」
「なんだろね、今日は……」
ヤマダの「今日は」発言を受けた拓馬は不良とのもめ事を連想した。それが本日一番の大事件だ。だがあれはある程度予想ができたこと。異形が出現する現象とは同列にできない。
(べつのことを言ってる? ……あ)
事件のさなかに拓馬が見かけた男を想起した。学校側の処分方法に気を揉んだかわりに、すっかり忘却していた対象だ。
「デパートの男はともかく、いまのやつはお前を追いかけてきたのかもしんないな」
何者も拓馬を追跡していないことは、犬の散歩の時にわかっていた。
「んー、また変なのに気に入られたかな?」
「あとでシズカさんに伝えてみるか」
シズカとは拓馬が信頼する知人のあだ名だ。表面上は普通の警官だが、不可解な事件に取り組むすべを持っている。ヤマダも拓馬の提案に同調し、二人はヤマダ宅へ向かった。
白黒の中型犬は拓馬の投げたボールを追いかける。ボールを口にくわえては拓馬のもとにもどり、またボールを投げるよう催促する。その繰り返しだ。拓馬の関心は犬になく、今日の出来事にある。
(他校の生徒とケンカしたって……先生にバレるかな?)
教員に知られれば、高確率で学校の品位を落とす行為をしたと判断される。そして咎められるだろう。罰として親を呼び出されたり、停学処分を受けたりと、自分たちが不良相当の扱いを受けるかもしれない。
(学校の連中がどう思おうとかまやしないけど……)
家族を心配させることは避けたい。とくに父は拓馬を不憫がっている。ことさら父の心労を増やす真似はしたくなかった。
(私服だったから『才穎高校の生徒がやった』と気付く人はいない。でも、あの校長はあなどれないしな)
拓馬が通う高校の校長は地獄耳で有名だ。同じクラス内の生徒も知らない生徒同士の交際まで把握するという。情報収集能力の高さは校長の嗜好の偏りにつき、おもに恋話にばかり活用された。
本来、校長は生徒との関わり合いを教師に委ねる存在。生徒との接点が少ない校長が、単独で生徒の恋愛事情を知りうるはずはない。そのため、校内に情報提供者がいるとの噂がまことしやかに流れた。教員は生徒の情事を報告するよう義務付けられているとか、各学年に一人は校長に加担する生徒がいるのだとか。程度の低いスパイものの物語のような憶測が飛び交う。なにが真実であろうと恋愛に無関心な拓馬には無害な情報能力だ。正直なところ、どうでもよかった。
しかし恋愛脳の校長とて学校の長である。普段は趣味に費やす力を、まっとうに教育方面で発揮することは充分に考えられる。
(いつバレるかビクつくよか、白状して一発怒られたほうがスッキリするかな)
いっそ周知の事実になればよいと開き直った。父は拓馬が乱暴者でないことを知っているし、話せばちゃんと理解してくれるのだ。
拓馬は手に握ったボールを自分の頭上へ投げる。やや前方へと上がったボールは、飼い犬がキャッチしやすい位置へ落下していく。落下地点で犬が待機しているだろう、と予測したがボールは床を跳ねた。遊び相手のいないボールは跳躍力を弱めていき、最終的に転がる。
(トーマ? もう飽きたのか)
リビングの引き戸は犬が通れるだけの幅が開いていた。飼い犬が自力で戸を開けることはままある。閉めることまで意識が回らないのが困りものだ。
廊下から冷たい空気が侵入する。拓馬は冷気を遮断しようと思い、腰をあげる。そこへ呼鈴が鳴った。来客だ。
(人を出迎えにいったか)
拓馬の予想は的中した。人感センサー付き照明の点灯した玄関を犬が見つめている。人間には聞こえぬ外からの足音などで気配を察知し、先回りしたのだ。その尻尾はゆっくり左右に揺れた。
すりガラスをはめこんだ玄関の戸が開く。そこには防寒着で身を包んだヤマダがいた。彼女が立つ背景は自然界が放つ光を失っている。
「ヤマダ、日が暮れたらうちには来ないんじゃなかったか?」
「ちょっと遅れちゃったね。でもパンは見つかったんだよ」
ヤマダは手にした紙袋を拓馬に差し出した。拓馬が中身を見てみると真っ黒いパンが目につく。これが姉の所望していた竹炭入りのパンだ。
「うわ、ホントに黒いな」
「うん、炭が混ざってるからそんな色になるんだとか。健康にはいいらしいよ」
両手の空いたヤマダは犬の背中や首をなでている。犬の尻尾はせわしなく揺れた。
「炭も竹も、食べようとする人がいるんだな」
「『健康』を売りにしたら欲しがる人はいっぱいいるんじゃない?」
拓馬はパンの入った袋を下足の棚に置いた。玄関に並べた自分の靴を履く。
「パンのお礼に家まで送ってく」
「そのカッコでいいの?」
「近いから平気だ」
送るまでもない距離なのだが、ほかに彼女の足労に報いる方法は思いつかない。ヤマダは「また来るからね」と犬の両頬をむにむに揉んだ。彼女が拓馬宅へ訪問する目当てはかなりの割合で犬にあった。ヤマダにとっては犬とのふれあいが充分な報酬に値するのかもしれないが、拓馬はそのことに触れなかった。
ヤマダが先に外へ出て拓馬があとに続く。玄関先の照明のおかげで確認できる道に、光を吸収する黒い物体があった。拓馬は警戒する。しかしヤマダはそのまま直進しようとした。拓馬はとっさに彼女の腕を引く。
「待て、変なのがいる」
「え、どこに?」
ヤマダの目は異変を捉えていない。同じ体験は過去に数えきれないほどあった。
またたくまに黒い異形がサーッとその場を引いた。照明は見慣れた通路をいつも通りに照らしている。
「……もう、どっかに行ったみたいだ」
「なんだろね、今日は……」
ヤマダの「今日は」発言を受けた拓馬は不良とのもめ事を連想した。それが本日一番の大事件だ。だがあれはある程度予想ができたこと。異形が出現する現象とは同列にできない。
(べつのことを言ってる? ……あ)
事件のさなかに拓馬が見かけた男を想起した。学校側の処分方法に気を揉んだかわりに、すっかり忘却していた対象だ。
「デパートの男はともかく、いまのやつはお前を追いかけてきたのかもしんないな」
何者も拓馬を追跡していないことは、犬の散歩の時にわかっていた。
「んー、また変なのに気に入られたかな?」
「あとでシズカさんに伝えてみるか」
シズカとは拓馬が信頼する知人のあだ名だ。表面上は普通の警官だが、不可解な事件に取り組むすべを持っている。ヤマダも拓馬の提案に同調し、二人はヤマダ宅へ向かった。
タグ:拓馬