新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2017年10月13日
拓馬篇前記−習一1
──今度の期末考査、受けなかったら留年ですよ。
不快感を顔いっぱいに漏らす女教師が警告した。通知相手は実力考査をすっぽかした男子生徒。名前を小田切習一といった。彼は放課後に呼出しを受け、空き教室にて試験のやり直しをした。この言葉は個別試験の終了時に放たれた。
習一は口答えをしなかった。その反応は教師の言い分をもっともだと思ったわけでも、自分のあやまちを反省したのでもない。ひとえに、早く解放されたかった。なのに教師は習一の煮え切らない態度を「悔い改めた」と手応えを感じたかのような笑みをつくった。退屈な時間の最後に見られた滑稽なシーンだった。
(留年か、それもいいな)
教師の意図に反して、習一は格好の目標を得た気がした。現在の習一は高校二年生。順調にいけば大学受験を控える三年生になる。というのも習一が所属する雒英(らくえい)高校は進学校だ。ほとんどの生徒が名声のある大学進学を目指す。習一も入学当初はそのつもりだった。今はどうやれば周囲の大人を辟易させ、消耗させられるかということばかり研究を重ねている。それが目下の重要な報復だ。自分を進学率アップの駒としか見ぬ教師陣と、自分をひたすらに侮蔑の対象とする父親への。
習一は校内の者に絡まれないようにまっすぐ外へ出る。急いで行かねばならぬ場所はないが、ひとまず学校から離れようと思った。ぐずぐずしていてはめんどうなやつが現れるのだ。
暖色の光に照らされた校門にはだれもいない。帰宅部はとっくに帰り、部活動をする生徒はまだ学校に残っているからだろう。気兼ねなく通過する。
「お、来たな」
習一はおもわず肩を震わせた。人の姿がないのに声が聞こえる。
「後ろだ、後ろ」
振りかえれば校門の柱の前で中年の教師がしゃがんでいる。これが習一の警戒していた、めんどうなやつだ。姓を掛尾。二年生の一クラスを受け持つが習一の担任ではない。
「そんなヤな顔するなって」
丈の長いコートを着た掛尾はむくっと立ち上がった。彼の手には古ぼけた本がある。習一はその背表紙に見覚えがあった。長らく名著と評される海外小説の翻訳本だ。記憶が確かなら、その本の保管場所は職員室付近にある本棚だろう。
本を持つ掛尾の手は赤らんでいる。外気温の低さを考慮し、掛尾は長時間ここにいたのだと習一は推測する。
「オレを出待ちしてたのか」
習一は掛尾の手をじっと見ながら言った。寒さのせいで感覚が鈍っていそうな皮膚の色だ。
「天気がいいから外で読書だ。おかげで五ページ進んだぞ」
「手がかじかむまでやることか?」
「集中するとちょっとの寒さくらい気にならんさ」
集中して読んでもたった五ページか、と習一はツッコミそうになった。言うより早く「冗談はこれぐらいにしとくか」と掛尾が雑談を終わらせる。その声に重々しさがある。習一の気持ちも重く沈んだ。
「小田切、冬休みの間になにかあったのか?」
習一は答えない。他人に打ち明けても、解決の見込みがないとわかっていた。
「ここ一ヶ月のお前はやっぱり変だ」
似たようなことを他の教師にも言われた。だが決定的に異なる部分がある。語気に非難の色がない。掛尾は習一の変貌には並みならぬ経緯があったと信じているらしい。
「どうしたら、少し前の小田切にもどれるんだ?」
どう、と聞かれて習一は両親の会話が頭をよぎる。あの時、あの場所に自分が近寄らなければ、今も愚直に優等生を演じていたにちがいない。そのほうが幸福であったのか、習一にはわからない。
「……記憶を消せたら、かな」
掛尾の耳にギリギリ届く小声でつぶやく。都合よく嫌な記憶だけを消す解決法は現実にはありえない。習一は空想的な言葉の意味を追究される前に駆けだした。掛尾にあれこれ聞かれては煩わしいから逃げる。そう思わせるに足る対応はできたはずだ。
(もう、後には引けない)
もっと確実に、自分は以前の自分にもどらないことを見せつける方法はないか。仲間のいる場所へ着くまでの時間を、その模索に費やす。そうすることで掛尾との問答中に生まれた居たたまれない気持ちを押し包んだ。
不快感を顔いっぱいに漏らす女教師が警告した。通知相手は実力考査をすっぽかした男子生徒。名前を小田切習一といった。彼は放課後に呼出しを受け、空き教室にて試験のやり直しをした。この言葉は個別試験の終了時に放たれた。
習一は口答えをしなかった。その反応は教師の言い分をもっともだと思ったわけでも、自分のあやまちを反省したのでもない。ひとえに、早く解放されたかった。なのに教師は習一の煮え切らない態度を「悔い改めた」と手応えを感じたかのような笑みをつくった。退屈な時間の最後に見られた滑稽なシーンだった。
(留年か、それもいいな)
教師の意図に反して、習一は格好の目標を得た気がした。現在の習一は高校二年生。順調にいけば大学受験を控える三年生になる。というのも習一が所属する雒英(らくえい)高校は進学校だ。ほとんどの生徒が名声のある大学進学を目指す。習一も入学当初はそのつもりだった。今はどうやれば周囲の大人を辟易させ、消耗させられるかということばかり研究を重ねている。それが目下の重要な報復だ。自分を進学率アップの駒としか見ぬ教師陣と、自分をひたすらに侮蔑の対象とする父親への。
習一は校内の者に絡まれないようにまっすぐ外へ出る。急いで行かねばならぬ場所はないが、ひとまず学校から離れようと思った。ぐずぐずしていてはめんどうなやつが現れるのだ。
暖色の光に照らされた校門にはだれもいない。帰宅部はとっくに帰り、部活動をする生徒はまだ学校に残っているからだろう。気兼ねなく通過する。
「お、来たな」
習一はおもわず肩を震わせた。人の姿がないのに声が聞こえる。
「後ろだ、後ろ」
振りかえれば校門の柱の前で中年の教師がしゃがんでいる。これが習一の警戒していた、めんどうなやつだ。姓を掛尾。二年生の一クラスを受け持つが習一の担任ではない。
「そんなヤな顔するなって」
丈の長いコートを着た掛尾はむくっと立ち上がった。彼の手には古ぼけた本がある。習一はその背表紙に見覚えがあった。長らく名著と評される海外小説の翻訳本だ。記憶が確かなら、その本の保管場所は職員室付近にある本棚だろう。
本を持つ掛尾の手は赤らんでいる。外気温の低さを考慮し、掛尾は長時間ここにいたのだと習一は推測する。
「オレを出待ちしてたのか」
習一は掛尾の手をじっと見ながら言った。寒さのせいで感覚が鈍っていそうな皮膚の色だ。
「天気がいいから外で読書だ。おかげで五ページ進んだぞ」
「手がかじかむまでやることか?」
「集中するとちょっとの寒さくらい気にならんさ」
集中して読んでもたった五ページか、と習一はツッコミそうになった。言うより早く「冗談はこれぐらいにしとくか」と掛尾が雑談を終わらせる。その声に重々しさがある。習一の気持ちも重く沈んだ。
「小田切、冬休みの間になにかあったのか?」
習一は答えない。他人に打ち明けても、解決の見込みがないとわかっていた。
「ここ一ヶ月のお前はやっぱり変だ」
似たようなことを他の教師にも言われた。だが決定的に異なる部分がある。語気に非難の色がない。掛尾は習一の変貌には並みならぬ経緯があったと信じているらしい。
「どうしたら、少し前の小田切にもどれるんだ?」
どう、と聞かれて習一は両親の会話が頭をよぎる。あの時、あの場所に自分が近寄らなければ、今も愚直に優等生を演じていたにちがいない。そのほうが幸福であったのか、習一にはわからない。
「……記憶を消せたら、かな」
掛尾の耳にギリギリ届く小声でつぶやく。都合よく嫌な記憶だけを消す解決法は現実にはありえない。習一は空想的な言葉の意味を追究される前に駆けだした。掛尾にあれこれ聞かれては煩わしいから逃げる。そう思わせるに足る対応はできたはずだ。
(もう、後には引けない)
もっと確実に、自分は以前の自分にもどらないことを見せつける方法はないか。仲間のいる場所へ着くまでの時間を、その模索に費やす。そうすることで掛尾との問答中に生まれた居たたまれない気持ちを押し包んだ。
タグ:習一
【このカテゴリーの最新記事】
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
2017年10月12日
拓馬篇−* ★
*
日が暮れゆくころ。男は店舗と住居が混在する通りを進んだ。すれちがう人々は暖かい衣服に身を包んでいる。男は寒暖の感覚にうといが、周囲の者に合わせた格好をしていた。しかしそれでも男は好奇と畏怖が入りまじる視線を感じてきた。そこへいたる道中も現在も、人々が男を注目する。その理由を男はよくわかっていた。自身の風貌が特異なのだ。背と、髪と、肌と、目とが、この国の標準とかけ離れる。それらの外見が目立たなくなるよう帽子を被ったものの、あまり効果は体感できなかった。
ひとり、男に対する強い好奇を放つ者が歩いてくる。その者は厚手のコートを羽織り、ニット帽子を被った子どもだ。年頃は十代の後半。大抵その年齢になると男女の違いがはっきりしやすくなるものだ。だが生地の厚い服装を着ているせいで、少年と少女の区別がつきにくかった。
性別不明の若者は紙袋を大事そうに抱えていた。それでいて視線は男に向かっている。年若いがゆえの好奇心なのだろう。男は若者から物怖じしない無邪気さを感じた。その性情は男が普段庇護する存在と似ており、男は若者に心惹かれるものがあった。
男と若者の距離が縮まる。若者は猫のように射ていた視線をふっと逸らした。凝視していることを男に気付かれれば失礼にあたると配慮したらしい。
二人は最接近し、たがいに相手を無視しようとした。二人のすれ違いざまに足音以外の音が鳴った。重量の軽い金属が硬い物にぶつかる音だ。男がうつむく。アスファルトの地面に蓋付きの懐中時計が落ちていた。若者がいち早くしゃがむ。
「これ、お兄さんのものですよね?」
柔和な声だ。男は若者の性別が女だと確信した。少女が時計を拾い、その側面のでっぱりをおさえる。蓋がぱかっと開いた。少女はうれしそうに「よかった」と言う。
「ちゃんとうごいてますよ」
少女は時計を男にも見せた。たしかに針は正常に動いている。男は胸の内で「時計はうごいている」という言葉を繰り返した。しかし反芻してばかりでいては不審がられる。少女に返答せねばならない。男は突いて出る言葉がつとめて善人に聞こえるよう心掛ける。
「ありがとう。これは私の大切なものだ」
男はそう答え、時計を返してもらった。穏便なやり取りは成功した。これでこの場を立ち去ろうとする──が、後ろ髪を引かれてしまう。そのとまどいは少女の態度によって生まれた。彼女はまだ足を止めている。
「その時計、指してる時刻がめちゃくちゃですよ」
男は時計の盤面に注目した。針は現在とはまったく無関係な時刻を指し示している。
「わたしが直してみましょうか?」
少女の親切心は落し物を拾うだけにとどまらない。その厚意に男は感じ入るものがあった。しかし彼女の申し出をことわる。
「いつもは止まっている時計だ。これでいい、じきに止まる」
「そう……だからお兄さんは複雑な顔をしてるの?」
男が予期しない問いだった。過去に男の微妙な表情を読み取った者は数少ない。
「うれしいのと悲しい気持ちが混ざってるみたい」
思いがけない言葉を得た男はだまっていた。どう返事をしてよいかわからなかったのだ。
「……変なこと言った? それじゃ、その時計は大事にしてね」
少女は離れていく。男はしばらく少女を見送った。そして彼女の姿を見失わぬうちに時計を見る。針は止まっていた。男はこの状態に困惑している。針が止まる事態は自分が少女に述べた通りのこと。とはいえ、この現象は一度も体験したことがなかった。時計は壊れておらず、電池が古いわけでもないのだ。多くの被験者は時計の蓋を開けられないか、針が稼働しつづける時計を返してきた。少女は過去の例に見ない時計を、男に与えてきたのだ。
男は未知の現象について思い悩むのをやめた。次に形無き仲間に語りかける。
『あの娘を追え。勘付かれないようにな』
男は少女が去った逆の道を歩く。男の目的は達成された。あとは人目につかぬ場所へ移動し、仲間の報告を待つのみ。その胸中に抱く思いは、なにもない。男はそう信じた。
日が暮れゆくころ。男は店舗と住居が混在する通りを進んだ。すれちがう人々は暖かい衣服に身を包んでいる。男は寒暖の感覚にうといが、周囲の者に合わせた格好をしていた。しかしそれでも男は好奇と畏怖が入りまじる視線を感じてきた。そこへいたる道中も現在も、人々が男を注目する。その理由を男はよくわかっていた。自身の風貌が特異なのだ。背と、髪と、肌と、目とが、この国の標準とかけ離れる。それらの外見が目立たなくなるよう帽子を被ったものの、あまり効果は体感できなかった。
ひとり、男に対する強い好奇を放つ者が歩いてくる。その者は厚手のコートを羽織り、ニット帽子を被った子どもだ。年頃は十代の後半。大抵その年齢になると男女の違いがはっきりしやすくなるものだ。だが生地の厚い服装を着ているせいで、少年と少女の区別がつきにくかった。
性別不明の若者は紙袋を大事そうに抱えていた。それでいて視線は男に向かっている。年若いがゆえの好奇心なのだろう。男は若者から物怖じしない無邪気さを感じた。その性情は男が普段庇護する存在と似ており、男は若者に心惹かれるものがあった。
男と若者の距離が縮まる。若者は猫のように射ていた視線をふっと逸らした。凝視していることを男に気付かれれば失礼にあたると配慮したらしい。
二人は最接近し、たがいに相手を無視しようとした。二人のすれ違いざまに足音以外の音が鳴った。重量の軽い金属が硬い物にぶつかる音だ。男がうつむく。アスファルトの地面に蓋付きの懐中時計が落ちていた。若者がいち早くしゃがむ。
「これ、お兄さんのものですよね?」
柔和な声だ。男は若者の性別が女だと確信した。少女が時計を拾い、その側面のでっぱりをおさえる。蓋がぱかっと開いた。少女はうれしそうに「よかった」と言う。
「ちゃんとうごいてますよ」
少女は時計を男にも見せた。たしかに針は正常に動いている。男は胸の内で「時計はうごいている」という言葉を繰り返した。しかし反芻してばかりでいては不審がられる。少女に返答せねばならない。男は突いて出る言葉がつとめて善人に聞こえるよう心掛ける。
「ありがとう。これは私の大切なものだ」
男はそう答え、時計を返してもらった。穏便なやり取りは成功した。これでこの場を立ち去ろうとする──が、後ろ髪を引かれてしまう。そのとまどいは少女の態度によって生まれた。彼女はまだ足を止めている。
「その時計、指してる時刻がめちゃくちゃですよ」
男は時計の盤面に注目した。針は現在とはまったく無関係な時刻を指し示している。
「わたしが直してみましょうか?」
少女の親切心は落し物を拾うだけにとどまらない。その厚意に男は感じ入るものがあった。しかし彼女の申し出をことわる。
「いつもは止まっている時計だ。これでいい、じきに止まる」
「そう……だからお兄さんは複雑な顔をしてるの?」
男が予期しない問いだった。過去に男の微妙な表情を読み取った者は数少ない。
「うれしいのと悲しい気持ちが混ざってるみたい」
思いがけない言葉を得た男はだまっていた。どう返事をしてよいかわからなかったのだ。
「……変なこと言った? それじゃ、その時計は大事にしてね」
少女は離れていく。男はしばらく少女を見送った。そして彼女の姿を見失わぬうちに時計を見る。針は止まっていた。男はこの状態に困惑している。針が止まる事態は自分が少女に述べた通りのこと。とはいえ、この現象は一度も体験したことがなかった。時計は壊れておらず、電池が古いわけでもないのだ。多くの被験者は時計の蓋を開けられないか、針が稼働しつづける時計を返してきた。少女は過去の例に見ない時計を、男に与えてきたのだ。
男は未知の現象について思い悩むのをやめた。次に形無き仲間に語りかける。
『あの娘を追え。勘付かれないようにな』
男は少女が去った逆の道を歩く。男の目的は達成された。あとは人目につかぬ場所へ移動し、仲間の報告を待つのみ。その胸中に抱く思いは、なにもない。男はそう信じた。
タグ:拓馬