2017年12月16日
拓馬篇前記−美弥9
デイルは黙りこくってしまった。その風貌はさながらロダンの考える人である。口元への手の当て方や当てる手の左右がちがっていても、美弥はそう感じた。
彼は思考整理の時間を美弥たちに頂戴した。その間、律子は手を組んだりさすったりして落ち着きがない。律子の挙動の原因は美弥にある。見かけ上は心優しい男性を、妹が糾弾したことにやきもきしているのだ。美弥は静寂が姉の動揺を煽るのではないかと思い、口を開く。
「お姉ちゃん、なにを心配してるの」
「だって、美弥が失礼なことを……」
「ホントのことじゃないの。すこししゃべっただけの相手を『信じる』だなんて、カンタンに言ってくれるのは世間知らずか詐欺師くらいよ」
美弥は現実にありうるのはその二者だと思った。もう一つ、深い洞察力により他人の人間性を見抜く人もいるだろうとは思っている。だがそんな人間はだいたい心理学者か人生経験豊富な老人に限定される。高校の教員だと自己紹介する青年にはあてはまらないと考えた。
美弥が取りあげた二者はどちらも批判的なレッテルだ。「世間知らず」のほうが道徳心が肯定されるだけいくらかマシに見える。ただし、美弥はデイルを「世間知らず」とは判断していない。
デイルの年頃は三十歳前後。どう見ても美弥たちより年長だ。その態度は冷静沈着で、どこか達観した気配がある。話中に「元上司」という単語があったことから察するに、職務経験もちゃんとある。これらの要素は彼が渡世に無知な人間だと結びつかなかった。おまけに、彼の年齢では正確無比な人間観察ができるとも思えない。それゆえ美弥の口調は意識的に荒々しくなり、律子が「彼に失礼なことを言った」のだと美弥の言動を案ずるのだ。
美弥の認識にはデイルが自分たちを騙そうとする男だという認識があった。だがもし相手が人のよさそうな老人や中年の女性、あるいは幼子であったら、美弥はこれほどの敵愾心を掻きたてられなかったろう。
(男だから……疑ってる?)
大人の男性というその一点で、デイルがお人好しである可能性を破棄している。それは大いなる偏見だ。
「また、そんな言いかた……」
律子は妹の主張に否定的だ。そればかりか悲愴な面持ちでいる。美弥が不和を拡大させることを嫌がっているのだろう。美弥は自分の言動が姉を悲しませる状況に胸が痛んだ。
(でも……はっきりさせなきゃ。もう、だまされたくないでしょ)
律子に寄ってくる男は金銭目当ての時もある。そういった相手になると美弥の勘はにぶる。相手のほうが人心のなんたるかを心得たプロだからだ。そんな連中がいるからこそ、人の良さそうにふるまう学校関係者が、敵ではないという確信がほしかった。
ここまでこき下ろされた相手が沸点の低いやからであれば「出て行け」と絶交宣言をしそうなところだ。だがデイルは美弥の追撃を聞かなかったかのようにポーズを維持する。思考中ゆえに姉妹のやり取りは耳に届かなかったのかもしれない。彼はそこまで真剣に物思いにふけっている。その理由は美弥にも律子にもわからなかった。
(この人も、私みたいにきつく他人にあたったらしいけど……)
自分のことがわかるはずがないと、彼を良く思ってくれた人物に言った──そのようにデイルは説明する。これほど美弥が彼に楯突いても負の感情をもらさない人が、他者を攻撃した。美弥はどうにもその光景がうかびにくい。
(私に合わせてるようには、見えない)
「あなたの気持ちはわかる」といった、同調を演出する人種は存在する。浅薄な慣れあいは美弥の嫌悪するところだ。デイルの思考時間の長さから考えるに、美弥の仲間意識を得るための行動ではなさそうだった。
重たい空気の中、マイペースな男性がおもてを上げた。またもうっすら笑みをつくっている。
「ミウラリツコという芸能人について、私はあまり存じあげていません」
デイルは美弥の質問にやっと答えはじめる。彼の長考のおおもとである出来事は取りあげないらしい。
「ですが、不慣れな土地にすむ妹を心配する姉……その姉を必死に守ろうとする妹のことなら、知っています。その妹はいまも、姉を害する危険のある男を見張っています」
デイルは自身のことも他人事のように言う。美弥は彼の推察が的外れでないと思い、口をはさまない。
「姉がわるい男にだまされ続けたせいなのでしょう。妹は男嫌いになってしまい、姉と自分に関わる男すべてが姉妹をだまそうとする人に見えています。その反応が、妹の新生活に影を落とすことにならないかと、姉はいっそう心配しています」
「影を落とす?」
美弥は率直に疑問点をあげた。話者は口角を上げる。
「たとえば妹が、彼女の授業を受けもつ教師と険悪な仲になることです」
美弥は盲点を突かれた。デイルは学校の教員だと確定している。美弥が彼の授業に参加するのだとしたら、彼との関係を決裂させることは得策ではない。ひとたび憎みあえば相手の顔を見るだけでもつらくなる。そんな苦々しい気分を抱えた学校生活を、これからすごすのか。
(学校に行くことがイヤになりそう……)
美弥は姉のために警戒することで、みずからの環境を悪化させようとしているのだ。そして、その環境は律子の暮らしとは直接の関係をもたない。
「私があなたにつっかかっても、お姉ちゃんの不安を増やすだけ……」
「そうです」
「だから、ヘンなことを言う相手にも波風を立てずにやり過ごせってこと?」
「私以外の教師にはそうなさったほうがよいでしょう」
「あなたはいいの? 詐欺師だとか言われちゃってても」
「かまいません。批判や侮辱の言葉は聞き慣れています。なにより、貴女の冷ややかな態度には愛情がこもっていますから、ほほえましいです」
美弥の辛辣さを好意的に捉えているらしい。美弥は彼がマゾヒズムでないかと気味悪がる。
「……ヘンタイ?」
「私の言う愛情とは貴女からお姉さんに向かう感情のことです。貴女は姉を大切にするがゆえに、私に反発したのでしょう?」
「それは、そう、ね……」
美弥は不必要な攻撃を加えてしまったことに恥じ入った。デイルは美弥の勘違いを捨て置く。
「この目で見て、二人の絆は固いと感じました。お二人はお互いの幸せを望んでいるのでしょう。互いを思えばこそ、お姉さんが不倫という退廃的な行為に走るとは考えられません。それが、私が貴女たちの潔白を信じる根拠です」
デイルは姉妹の絆を証拠として提示した。くわえて美弥の好戦的な物言いの原因を列挙し、そのどれもが美弥のうなずける解答をくりだした。姉が妻子ある男性を誘惑するはずがないことは、美弥がいちばん知っている。亡き母と美弥は、律子に健全で幸福な家庭をもってほしいと願った。そのことを律子も承知している。
美弥はデイルがれっきとした人物眼をもつ男性だと認めた。美弥が非礼をわびようとした時、律子が「ごめんなさい」と先んじて謝罪する。
「妹がピリピリするの、わたしのせいなんです。わたしがしっかりしてないから、美弥がやりすぎなくらい他人を警戒してしまうんです。どうか、美弥をわるく思わないでください」
「私は気にしていません。もともと校長から『男嫌いな女子生徒』だと忠告を受けていました。男性教師では対応がむずかしいだろう、とも」
「はい、ほんとうに……」
「授業がはじまる前に、どんな生徒なのかわかることができてよかったです」
デイルは依然として前向きな姿勢だ。
「妹さんがお姉さんを守る目的で異性に対して苛烈になるのなら、お姉さんがいない学校では彼女の男嫌いが多少おさまるんじゃないでしょうか」
「そう、だといいですけど……」
「そう言われても実感がわきませんよね。自分がいない時の家族のふるまいなど」
デイルがなごやかに会話を続ける。美弥との遺恨は完全に残さないつもりのようだ。
(いえ……この人、私と対決してた感覚さえないのかも……)
歯の生えそろわぬ子猫が手に噛みついてきた──彼の視点ではその程度の舌戦だったのかもしれない。美弥はこの男性と対等の立場でいられなかった自分をなさけなく思いながらも、彼の寛大さに敬意を感じた。
彼は思考整理の時間を美弥たちに頂戴した。その間、律子は手を組んだりさすったりして落ち着きがない。律子の挙動の原因は美弥にある。見かけ上は心優しい男性を、妹が糾弾したことにやきもきしているのだ。美弥は静寂が姉の動揺を煽るのではないかと思い、口を開く。
「お姉ちゃん、なにを心配してるの」
「だって、美弥が失礼なことを……」
「ホントのことじゃないの。すこししゃべっただけの相手を『信じる』だなんて、カンタンに言ってくれるのは世間知らずか詐欺師くらいよ」
美弥は現実にありうるのはその二者だと思った。もう一つ、深い洞察力により他人の人間性を見抜く人もいるだろうとは思っている。だがそんな人間はだいたい心理学者か人生経験豊富な老人に限定される。高校の教員だと自己紹介する青年にはあてはまらないと考えた。
美弥が取りあげた二者はどちらも批判的なレッテルだ。「世間知らず」のほうが道徳心が肯定されるだけいくらかマシに見える。ただし、美弥はデイルを「世間知らず」とは判断していない。
デイルの年頃は三十歳前後。どう見ても美弥たちより年長だ。その態度は冷静沈着で、どこか達観した気配がある。話中に「元上司」という単語があったことから察するに、職務経験もちゃんとある。これらの要素は彼が渡世に無知な人間だと結びつかなかった。おまけに、彼の年齢では正確無比な人間観察ができるとも思えない。それゆえ美弥の口調は意識的に荒々しくなり、律子が「彼に失礼なことを言った」のだと美弥の言動を案ずるのだ。
美弥の認識にはデイルが自分たちを騙そうとする男だという認識があった。だがもし相手が人のよさそうな老人や中年の女性、あるいは幼子であったら、美弥はこれほどの敵愾心を掻きたてられなかったろう。
(男だから……疑ってる?)
大人の男性というその一点で、デイルがお人好しである可能性を破棄している。それは大いなる偏見だ。
「また、そんな言いかた……」
律子は妹の主張に否定的だ。そればかりか悲愴な面持ちでいる。美弥が不和を拡大させることを嫌がっているのだろう。美弥は自分の言動が姉を悲しませる状況に胸が痛んだ。
(でも……はっきりさせなきゃ。もう、だまされたくないでしょ)
律子に寄ってくる男は金銭目当ての時もある。そういった相手になると美弥の勘はにぶる。相手のほうが人心のなんたるかを心得たプロだからだ。そんな連中がいるからこそ、人の良さそうにふるまう学校関係者が、敵ではないという確信がほしかった。
ここまでこき下ろされた相手が沸点の低いやからであれば「出て行け」と絶交宣言をしそうなところだ。だがデイルは美弥の追撃を聞かなかったかのようにポーズを維持する。思考中ゆえに姉妹のやり取りは耳に届かなかったのかもしれない。彼はそこまで真剣に物思いにふけっている。その理由は美弥にも律子にもわからなかった。
(この人も、私みたいにきつく他人にあたったらしいけど……)
自分のことがわかるはずがないと、彼を良く思ってくれた人物に言った──そのようにデイルは説明する。これほど美弥が彼に楯突いても負の感情をもらさない人が、他者を攻撃した。美弥はどうにもその光景がうかびにくい。
(私に合わせてるようには、見えない)
「あなたの気持ちはわかる」といった、同調を演出する人種は存在する。浅薄な慣れあいは美弥の嫌悪するところだ。デイルの思考時間の長さから考えるに、美弥の仲間意識を得るための行動ではなさそうだった。
重たい空気の中、マイペースな男性がおもてを上げた。またもうっすら笑みをつくっている。
「ミウラリツコという芸能人について、私はあまり存じあげていません」
デイルは美弥の質問にやっと答えはじめる。彼の長考のおおもとである出来事は取りあげないらしい。
「ですが、不慣れな土地にすむ妹を心配する姉……その姉を必死に守ろうとする妹のことなら、知っています。その妹はいまも、姉を害する危険のある男を見張っています」
デイルは自身のことも他人事のように言う。美弥は彼の推察が的外れでないと思い、口をはさまない。
「姉がわるい男にだまされ続けたせいなのでしょう。妹は男嫌いになってしまい、姉と自分に関わる男すべてが姉妹をだまそうとする人に見えています。その反応が、妹の新生活に影を落とすことにならないかと、姉はいっそう心配しています」
「影を落とす?」
美弥は率直に疑問点をあげた。話者は口角を上げる。
「たとえば妹が、彼女の授業を受けもつ教師と険悪な仲になることです」
美弥は盲点を突かれた。デイルは学校の教員だと確定している。美弥が彼の授業に参加するのだとしたら、彼との関係を決裂させることは得策ではない。ひとたび憎みあえば相手の顔を見るだけでもつらくなる。そんな苦々しい気分を抱えた学校生活を、これからすごすのか。
(学校に行くことがイヤになりそう……)
美弥は姉のために警戒することで、みずからの環境を悪化させようとしているのだ。そして、その環境は律子の暮らしとは直接の関係をもたない。
「私があなたにつっかかっても、お姉ちゃんの不安を増やすだけ……」
「そうです」
「だから、ヘンなことを言う相手にも波風を立てずにやり過ごせってこと?」
「私以外の教師にはそうなさったほうがよいでしょう」
「あなたはいいの? 詐欺師だとか言われちゃってても」
「かまいません。批判や侮辱の言葉は聞き慣れています。なにより、貴女の冷ややかな態度には愛情がこもっていますから、ほほえましいです」
美弥の辛辣さを好意的に捉えているらしい。美弥は彼がマゾヒズムでないかと気味悪がる。
「……ヘンタイ?」
「私の言う愛情とは貴女からお姉さんに向かう感情のことです。貴女は姉を大切にするがゆえに、私に反発したのでしょう?」
「それは、そう、ね……」
美弥は不必要な攻撃を加えてしまったことに恥じ入った。デイルは美弥の勘違いを捨て置く。
「この目で見て、二人の絆は固いと感じました。お二人はお互いの幸せを望んでいるのでしょう。互いを思えばこそ、お姉さんが不倫という退廃的な行為に走るとは考えられません。それが、私が貴女たちの潔白を信じる根拠です」
デイルは姉妹の絆を証拠として提示した。くわえて美弥の好戦的な物言いの原因を列挙し、そのどれもが美弥のうなずける解答をくりだした。姉が妻子ある男性を誘惑するはずがないことは、美弥がいちばん知っている。亡き母と美弥は、律子に健全で幸福な家庭をもってほしいと願った。そのことを律子も承知している。
美弥はデイルがれっきとした人物眼をもつ男性だと認めた。美弥が非礼をわびようとした時、律子が「ごめんなさい」と先んじて謝罪する。
「妹がピリピリするの、わたしのせいなんです。わたしがしっかりしてないから、美弥がやりすぎなくらい他人を警戒してしまうんです。どうか、美弥をわるく思わないでください」
「私は気にしていません。もともと校長から『男嫌いな女子生徒』だと忠告を受けていました。男性教師では対応がむずかしいだろう、とも」
「はい、ほんとうに……」
「授業がはじまる前に、どんな生徒なのかわかることができてよかったです」
デイルは依然として前向きな姿勢だ。
「妹さんがお姉さんを守る目的で異性に対して苛烈になるのなら、お姉さんがいない学校では彼女の男嫌いが多少おさまるんじゃないでしょうか」
「そう、だといいですけど……」
「そう言われても実感がわきませんよね。自分がいない時の家族のふるまいなど」
デイルがなごやかに会話を続ける。美弥との遺恨は完全に残さないつもりのようだ。
(いえ……この人、私と対決してた感覚さえないのかも……)
歯の生えそろわぬ子猫が手に噛みついてきた──彼の視点ではその程度の舌戦だったのかもしれない。美弥はこの男性と対等の立場でいられなかった自分をなさけなく思いながらも、彼の寛大さに敬意を感じた。
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