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2017年10月23日
拓馬篇前記ー実澄2
実澄は喫茶店へ歩を進めていたが、青年に抱えられるレイコの足を見るとべつの行き先を思いつく。
「靴、買ったほうがいいのかしら」
少女は靴下を履いているが、足をちぢこめていた。毛布代わりにくるまるマフラーの布地内に足先をおさめようとしているらしい。寒がるレイコは「いらない」と言う。
「クツがあったら、一人であるくんでしょ?」
「ええ、そうね。そしたら銀くんがレイコちゃんを抱っこしないでいいし」
「やだ。だっこがいい」
レイコは纏ったマフラーの下から青年の胸元をつかむ。実澄に被らされた桃色のニット帽子を、彼の太い首に押し付けた。実澄は少女の甘えっぷりに微笑ましくなる。
「あらら、ずいぶん銀くんになついちゃったのね」
青年の容姿は、はたから見ると威圧的でおそろしい。それは彼が高身長かつ筋骨隆々な外見の影響であり、本人の性格とは無関係。そのことが先入観のない子どもにはわかっているのだ。
「おとうさんとおかあさん、やってくれないもん」
レイコはぶすくれた。七、八歳くらいの子どもであれば、もう抱っこは卒業させるべきだと考える親もいるだろう。実澄は母親代表として少女の不満を減らそうとする。
「レイコちゃんは大きくなってきてるもの。抱っこをしたくてもなかなかできないわ」
「ちがうの、おとうとが生まれたせいなの」
いままで自身に注がれていた愛が他者へと移る。その不平を募らせる長男長女の話は無数にある。実澄も耳にする経験があった。実澄はそういった長子に対するタブーな反応を避けながら言葉を選ぶ。
「下の兄弟ができるとお姉ちゃんは甘えづらいのよね」
「しってるの?」
「そういう話は聞くのよ。うちの近所のお姉ちゃんも弟ができた時はそうで……でもいまは逆ね」
「ぎゃくって?」
「いまじゃ弟くんがしっかり者なの。ペットの犬の世話をするし、家事はお姉ちゃんより上手にできるから、お姉ちゃんのほうが家族に甘えてるらしくて。その家のお母さんは『情けない』と言ってた」
レイコは落ちこんだように「なさけないって、わるいことだよね?」と聞いてくる。実澄は真面目ぶってうなずく。
「そうね、いいことではないでしょうね」
「やだなぁ、わるい子になるの……」
「だけどお父さんやお母さんに全然甘えないのもよくないのよ。レイコちゃんが我慢しすぎてるんじゃないかって、みんな心配になるの」
「でも、『がまんしなさい』って言われる……」
「それはきっと我慢したほうがいいタイミングなのよ」
「がまんしなくていいのは?」
「うーん、親御さんが弟くんから目を離せて、のんびりくつろいでいる時かしらね」
「むずかしいよ……」
「そう、いいタイミングを見分けるのは難しい。だからお姉ちゃんは大変なんだと思う」
「うん」
「『お姉ちゃん』をがんばってるレイコちゃんはえらいね」
実澄は少女を片腕で軽々持つ青年に視線をうごかす。女二人が会話する間、彼はちっとも参入してこない。
「……この子を抱えてもらってていい?」
「かまわない。この程度の重さは平気だ」
「運んでもらうだけじゃなくてね、しばらく『お兄ちゃん』になってほしいの」
「どういう意味──」
「年上の兄弟がいない長女ちゃんはよく『お兄ちゃんがほしかった』って言うじゃない?」
「いや、知らない」
「そお? でもレイコちゃんは銀くんに甘えたがってる。あなたがいいのよ」
実澄は「ねーっ」と同意を求めるようにレイコの頭を帽子ごしになでる。レイコは満足げに鼻を鳴らした。
青年は自身の空いた手を上げ、まじまじと見た。そしてその手でレイコの後頭部を支える。
「こういうことを、やれと?」
「うん、いいわね。でも無理しなくていいの。あなたは自然体でいても、きっと子どもがよろこぶから」
青年は納得がいかなさそうに口をつぐむ。実澄は彼が優しい性根である自覚がないのだと説明したかったが、喫茶店が目前になったので後回しにした。
「あの店に?」
「ええ、入りましょ」
実澄がガラス戸を開けて先導する。出入口のマットを踏むと呼鈴のような音が鳴った。入店客の案内をしに女性店員が現れる。実澄の娘くらいの少女だ。
「いらっしゃ……」
店員はレイコを抱き上げた青年におののいている。実澄は笑って「ちょっとコワモテな連れですよね」と店員の反応を受け流す。
「三名なんですけど、席はあります?」
「は、はい。こちらです……」
実澄たちは窓際のテーブルに案内された。ソファにレイコが降ろされる。その隣りに青年が座るかと思いきや、彼はテーブルを離れる。
「銀くん、どうしたの?」
「少し、用がある」
「トイレ?」
「そんなところだ」
青年はレジカウンターへ向かった。実澄は彼がトイレの場所を聞きにいったのかと思い、かまわずレイコの隣りに座る。
「さ、なにを頼みましょうか。夕飯が食べられなくなるといけないから、軽くね」
実澄はメニュー表を開き、子どもの好きそうなデザート類をレイコに見せた。
「靴、買ったほうがいいのかしら」
少女は靴下を履いているが、足をちぢこめていた。毛布代わりにくるまるマフラーの布地内に足先をおさめようとしているらしい。寒がるレイコは「いらない」と言う。
「クツがあったら、一人であるくんでしょ?」
「ええ、そうね。そしたら銀くんがレイコちゃんを抱っこしないでいいし」
「やだ。だっこがいい」
レイコは纏ったマフラーの下から青年の胸元をつかむ。実澄に被らされた桃色のニット帽子を、彼の太い首に押し付けた。実澄は少女の甘えっぷりに微笑ましくなる。
「あらら、ずいぶん銀くんになついちゃったのね」
青年の容姿は、はたから見ると威圧的でおそろしい。それは彼が高身長かつ筋骨隆々な外見の影響であり、本人の性格とは無関係。そのことが先入観のない子どもにはわかっているのだ。
「おとうさんとおかあさん、やってくれないもん」
レイコはぶすくれた。七、八歳くらいの子どもであれば、もう抱っこは卒業させるべきだと考える親もいるだろう。実澄は母親代表として少女の不満を減らそうとする。
「レイコちゃんは大きくなってきてるもの。抱っこをしたくてもなかなかできないわ」
「ちがうの、おとうとが生まれたせいなの」
いままで自身に注がれていた愛が他者へと移る。その不平を募らせる長男長女の話は無数にある。実澄も耳にする経験があった。実澄はそういった長子に対するタブーな反応を避けながら言葉を選ぶ。
「下の兄弟ができるとお姉ちゃんは甘えづらいのよね」
「しってるの?」
「そういう話は聞くのよ。うちの近所のお姉ちゃんも弟ができた時はそうで……でもいまは逆ね」
「ぎゃくって?」
「いまじゃ弟くんがしっかり者なの。ペットの犬の世話をするし、家事はお姉ちゃんより上手にできるから、お姉ちゃんのほうが家族に甘えてるらしくて。その家のお母さんは『情けない』と言ってた」
レイコは落ちこんだように「なさけないって、わるいことだよね?」と聞いてくる。実澄は真面目ぶってうなずく。
「そうね、いいことではないでしょうね」
「やだなぁ、わるい子になるの……」
「だけどお父さんやお母さんに全然甘えないのもよくないのよ。レイコちゃんが我慢しすぎてるんじゃないかって、みんな心配になるの」
「でも、『がまんしなさい』って言われる……」
「それはきっと我慢したほうがいいタイミングなのよ」
「がまんしなくていいのは?」
「うーん、親御さんが弟くんから目を離せて、のんびりくつろいでいる時かしらね」
「むずかしいよ……」
「そう、いいタイミングを見分けるのは難しい。だからお姉ちゃんは大変なんだと思う」
「うん」
「『お姉ちゃん』をがんばってるレイコちゃんはえらいね」
実澄は少女を片腕で軽々持つ青年に視線をうごかす。女二人が会話する間、彼はちっとも参入してこない。
「……この子を抱えてもらってていい?」
「かまわない。この程度の重さは平気だ」
「運んでもらうだけじゃなくてね、しばらく『お兄ちゃん』になってほしいの」
「どういう意味──」
「年上の兄弟がいない長女ちゃんはよく『お兄ちゃんがほしかった』って言うじゃない?」
「いや、知らない」
「そお? でもレイコちゃんは銀くんに甘えたがってる。あなたがいいのよ」
実澄は「ねーっ」と同意を求めるようにレイコの頭を帽子ごしになでる。レイコは満足げに鼻を鳴らした。
青年は自身の空いた手を上げ、まじまじと見た。そしてその手でレイコの後頭部を支える。
「こういうことを、やれと?」
「うん、いいわね。でも無理しなくていいの。あなたは自然体でいても、きっと子どもがよろこぶから」
青年は納得がいかなさそうに口をつぐむ。実澄は彼が優しい性根である自覚がないのだと説明したかったが、喫茶店が目前になったので後回しにした。
「あの店に?」
「ええ、入りましょ」
実澄がガラス戸を開けて先導する。出入口のマットを踏むと呼鈴のような音が鳴った。入店客の案内をしに女性店員が現れる。実澄の娘くらいの少女だ。
「いらっしゃ……」
店員はレイコを抱き上げた青年におののいている。実澄は笑って「ちょっとコワモテな連れですよね」と店員の反応を受け流す。
「三名なんですけど、席はあります?」
「は、はい。こちらです……」
実澄たちは窓際のテーブルに案内された。ソファにレイコが降ろされる。その隣りに青年が座るかと思いきや、彼はテーブルを離れる。
「銀くん、どうしたの?」
「少し、用がある」
「トイレ?」
「そんなところだ」
青年はレジカウンターへ向かった。実澄は彼がトイレの場所を聞きにいったのかと思い、かまわずレイコの隣りに座る。
「さ、なにを頼みましょうか。夕飯が食べられなくなるといけないから、軽くね」
実澄はメニュー表を開き、子どもの好きそうなデザート類をレイコに見せた。
タグ:実澄
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2017年10月22日
拓馬篇前記−実澄1
寒々しい曇り空を中年の女性が見上げた。天気予報によると降水確率は半々。家を出た時よりも雲は濃くなったように見える。
(降ってくる前に帰りましょ)
スノーブーツを履いた足を心持ち速くうごかした。だがロングスカートが開く範囲はせまい。スカートのすそがパタパタとあおぐ。
(ズボンのほうがよかった? でもどうせ短足だものね)
彼女は背が小さいほうだ。それが娘にも遺伝したのを申し訳なく思っていた。父親に似たならそこそこ見栄えのする高身長になれただろうに、と。だが娘は「全部お母さん似がいい」と言う。その言葉がいくらか彼女の悔いを薄めた。
目のまえに白い綿花が落ちる。それは季節柄、空から落ちてくるものだ。女性は空をふたたび見る。
(やっぱり雪が……あら?)
視界の端に雪花とはべつの動くものをとらえる。町中の背景に溶けこんだマンションの上階に子どもの姿があった。小学校低学年くらいだろうか。ベランダにいる子どもの視線は、転落防止用にもうけた柵にある。そこには猫がいた。
(あのお宅の猫かしら)
猫は柵の上を器用に歩く。子どもは猫を追いかけるが、隣室続きのベランダに設置した仕切り板にはばまれた。猫は隣室の敷地内にあるベランダの柵へ渡る。子どもは板の向こう側へ懸命に手を伸ばすが猫には届かない。すると子どもはベランダにある椅子だかプランターだかに上がり、柵の上を四つん這いになって渡りはじめた。
(あぶない!)
女性は叫びそうになるのを我慢した。大声を出すことで子どもがびっくりし、転落するおそれがあったためだ。子どもは中層住宅の高さにいた。打ち所が悪ければ最悪の事態になりうる。
不慮の事故を想定した女性はベランダの下へ駆けた。ベランダは車が一台通れるほどの小道に面していて、部外者が立ち入っても平気な位置関係にある。万一、子どもが転落しても受け止められるように待機するのだ。ひ弱な女の身で、あれだけの大きさの子をキャッチしきれるとは思えないながらも、見過ごすことはできなかった。
人間の非常事態にも関わらず雪は落ちてくる。子どもの黒い髪に白い雪が乗った。あの様子では柵にも雪が積もり、解けて、水になる。その自然現象は子どもの行動をいっそう危なくさせた。
子どもが仕切り板を超えたあたりで猫が止まる。猫は自分を追いかけてくる子どもに振り返り、ベランダの敷地内に下りた。子どももそこへ着地しようとして体をよじらせる。ようやく安全な場所へ移ってくれた、と女性は安んじた。その安堵は一瞬しかもたなかった。
子どもがバランスを崩す。その重心は不運にも柵の外側にかたむく。まだ女性は落下予測地点に到達できていない。子どもの両手が柵から離れた時、女性は悲鳴をあげた。
その時、突風がなびいた。黒いなにかが女性の眼前をさえぎる。それは広い背中だった。
「?……」
黒の一部分を構成する帽子がはがれた。銀色の頭髪がむきだしになる。その人物は女性の目指していた位置へいち早くたどりつき、子どもを抱きとめた。よくよく見れば体躯のたくましい男性だ。彼が子どもを救出した。そうとわかった女性は緊張が解け、ひざに手をついた。
「はぁ〜、よかった……」
女性は地面に落ちた帽子を目にする。鍔の広い帽子を拾い、男性に返そうとした。
「あの、これ……」
女性は子どもを片腕で抱える人物の正面姿を見た。まず日本人とは異なる青い瞳が目に入る。その瞳と銀色の髪と褐色の肌の組み合わせはめずらしい。老いて白髪に変じた白人が日焼けすればこうなるかもしれないが、彼はせいぜい二十代前半の若者だった。
背の高い青年が銀色のこうべを垂れた。お辞儀かと女性は思ったが、数秒経っても頭が上がらない。もしや「頭に帽子をのせろ」という仕草かと察し、その通りにした。青年は背すじを正す。
「……帽子を拾ってくれて、ありがとう」
話しぶりが朴訥だが発声は流暢な日本語だ。女性は気安くなり、笑顔になる。
「お礼を言うのはこっちよ。子どもを助けてくれたんだもの」
「……あまり長話はできない」
「え?」
「この子は部屋着のままだ。体が冷える」
子どもはセーターとズボン姿だ。靴はなく、外を出歩ける状態ではない。
「あ、そうね。はやくお家にもどらなきゃ。何号室か、わかる?」
子どもは「わかるけど……」と言いよどむ。
「カギ、かかってるの。おるすばんしてて……」
「お家の人はいつごろ帰ってくるの?」
「ゆうがたの音楽がなるくらい、っていわれた」
定時の防災のチャイムまで二時間以上ある。その間、屋外で待つことは無理だ。
「んー、このあたりに仲良しの人はいる?」
「ううん、あたし、このへんの子じゃないの。あそびにきたから……」
「そう……じゃあお家の人が帰るまで、おばさんの家にいるのはどう?」
この提案には青年が難色を示す。
「それなら私はここで別れる。貴女の家には行けない」
「どうして? なにか用事があるの?」
「急ぎの用はないが、他人の家にあがることは控えたい」
彼がいなくては女性が裸足の子どもを抱いて移動することになる。二十キロはありそうな子どもを連れ回す体力は女性にない。この体格の良い青年の同行が必要だ。
「それじゃ、お店で時間を潰すのはいいのかしら?」
青年がうなずいた。子どもも「いいよ」と言う。意見の一致を得た女性はにっこり笑い、首に巻いたマフラーを外す。
「決まりね。わたしは実澄(みすみ)、あなたはなんていうお名前なの?」
「レイコっていうの」
実澄は半分に細長く折っていたマフラーを広げ、レイコを包む。
「きれいな音の名前ね。そうだ、この帽子も」
頭に被っていた手編みのボンボンニットをレイコに与える。小さな子どもには大きすぎて目が隠れてしまう。実澄は帽子の端を折りたたみつつ「お兄さんは?」と尋ねた。
「……ギン、とよく呼ばれた」
「あだ名なの?」
「そうだ、この髪だから」
「うちの子も、あなたを見たら『ギンくん』って呼びそうだわ。きれいな髪の色だもの」
なぜか青年は悲しそうに目元をくもらせた。くん付けは気に障ったのだろうか。
「えっと、『ギンくん』と呼ぶのはまずいのかしら?」
「いや、いい。その呼び方はひどく、なつかしかった」
青年はそれ以上説明しない。あまり話したくないのだろう。
「積もる話はあとにしましょう、ね。わたしの奢りで喫茶店に行きましょ」
接点のなかった三人が連れだって歩いた。道行く人はその奇異さに目を向けていくが、実澄もレイコも、気にとめずに談笑した。
(降ってくる前に帰りましょ)
スノーブーツを履いた足を心持ち速くうごかした。だがロングスカートが開く範囲はせまい。スカートのすそがパタパタとあおぐ。
(ズボンのほうがよかった? でもどうせ短足だものね)
彼女は背が小さいほうだ。それが娘にも遺伝したのを申し訳なく思っていた。父親に似たならそこそこ見栄えのする高身長になれただろうに、と。だが娘は「全部お母さん似がいい」と言う。その言葉がいくらか彼女の悔いを薄めた。
目のまえに白い綿花が落ちる。それは季節柄、空から落ちてくるものだ。女性は空をふたたび見る。
(やっぱり雪が……あら?)
視界の端に雪花とはべつの動くものをとらえる。町中の背景に溶けこんだマンションの上階に子どもの姿があった。小学校低学年くらいだろうか。ベランダにいる子どもの視線は、転落防止用にもうけた柵にある。そこには猫がいた。
(あのお宅の猫かしら)
猫は柵の上を器用に歩く。子どもは猫を追いかけるが、隣室続きのベランダに設置した仕切り板にはばまれた。猫は隣室の敷地内にあるベランダの柵へ渡る。子どもは板の向こう側へ懸命に手を伸ばすが猫には届かない。すると子どもはベランダにある椅子だかプランターだかに上がり、柵の上を四つん這いになって渡りはじめた。
(あぶない!)
女性は叫びそうになるのを我慢した。大声を出すことで子どもがびっくりし、転落するおそれがあったためだ。子どもは中層住宅の高さにいた。打ち所が悪ければ最悪の事態になりうる。
不慮の事故を想定した女性はベランダの下へ駆けた。ベランダは車が一台通れるほどの小道に面していて、部外者が立ち入っても平気な位置関係にある。万一、子どもが転落しても受け止められるように待機するのだ。ひ弱な女の身で、あれだけの大きさの子をキャッチしきれるとは思えないながらも、見過ごすことはできなかった。
人間の非常事態にも関わらず雪は落ちてくる。子どもの黒い髪に白い雪が乗った。あの様子では柵にも雪が積もり、解けて、水になる。その自然現象は子どもの行動をいっそう危なくさせた。
子どもが仕切り板を超えたあたりで猫が止まる。猫は自分を追いかけてくる子どもに振り返り、ベランダの敷地内に下りた。子どももそこへ着地しようとして体をよじらせる。ようやく安全な場所へ移ってくれた、と女性は安んじた。その安堵は一瞬しかもたなかった。
子どもがバランスを崩す。その重心は不運にも柵の外側にかたむく。まだ女性は落下予測地点に到達できていない。子どもの両手が柵から離れた時、女性は悲鳴をあげた。
その時、突風がなびいた。黒いなにかが女性の眼前をさえぎる。それは広い背中だった。
「?……」
黒の一部分を構成する帽子がはがれた。銀色の頭髪がむきだしになる。その人物は女性の目指していた位置へいち早くたどりつき、子どもを抱きとめた。よくよく見れば体躯のたくましい男性だ。彼が子どもを救出した。そうとわかった女性は緊張が解け、ひざに手をついた。
「はぁ〜、よかった……」
女性は地面に落ちた帽子を目にする。鍔の広い帽子を拾い、男性に返そうとした。
「あの、これ……」
女性は子どもを片腕で抱える人物の正面姿を見た。まず日本人とは異なる青い瞳が目に入る。その瞳と銀色の髪と褐色の肌の組み合わせはめずらしい。老いて白髪に変じた白人が日焼けすればこうなるかもしれないが、彼はせいぜい二十代前半の若者だった。
背の高い青年が銀色のこうべを垂れた。お辞儀かと女性は思ったが、数秒経っても頭が上がらない。もしや「頭に帽子をのせろ」という仕草かと察し、その通りにした。青年は背すじを正す。
「……帽子を拾ってくれて、ありがとう」
話しぶりが朴訥だが発声は流暢な日本語だ。女性は気安くなり、笑顔になる。
「お礼を言うのはこっちよ。子どもを助けてくれたんだもの」
「……あまり長話はできない」
「え?」
「この子は部屋着のままだ。体が冷える」
子どもはセーターとズボン姿だ。靴はなく、外を出歩ける状態ではない。
「あ、そうね。はやくお家にもどらなきゃ。何号室か、わかる?」
子どもは「わかるけど……」と言いよどむ。
「カギ、かかってるの。おるすばんしてて……」
「お家の人はいつごろ帰ってくるの?」
「ゆうがたの音楽がなるくらい、っていわれた」
定時の防災のチャイムまで二時間以上ある。その間、屋外で待つことは無理だ。
「んー、このあたりに仲良しの人はいる?」
「ううん、あたし、このへんの子じゃないの。あそびにきたから……」
「そう……じゃあお家の人が帰るまで、おばさんの家にいるのはどう?」
この提案には青年が難色を示す。
「それなら私はここで別れる。貴女の家には行けない」
「どうして? なにか用事があるの?」
「急ぎの用はないが、他人の家にあがることは控えたい」
彼がいなくては女性が裸足の子どもを抱いて移動することになる。二十キロはありそうな子どもを連れ回す体力は女性にない。この体格の良い青年の同行が必要だ。
「それじゃ、お店で時間を潰すのはいいのかしら?」
青年がうなずいた。子どもも「いいよ」と言う。意見の一致を得た女性はにっこり笑い、首に巻いたマフラーを外す。
「決まりね。わたしは実澄(みすみ)、あなたはなんていうお名前なの?」
「レイコっていうの」
実澄は半分に細長く折っていたマフラーを広げ、レイコを包む。
「きれいな音の名前ね。そうだ、この帽子も」
頭に被っていた手編みのボンボンニットをレイコに与える。小さな子どもには大きすぎて目が隠れてしまう。実澄は帽子の端を折りたたみつつ「お兄さんは?」と尋ねた。
「……ギン、とよく呼ばれた」
「あだ名なの?」
「そうだ、この髪だから」
「うちの子も、あなたを見たら『ギンくん』って呼びそうだわ。きれいな髪の色だもの」
なぜか青年は悲しそうに目元をくもらせた。くん付けは気に障ったのだろうか。
「えっと、『ギンくん』と呼ぶのはまずいのかしら?」
「いや、いい。その呼び方はひどく、なつかしかった」
青年はそれ以上説明しない。あまり話したくないのだろう。
「積もる話はあとにしましょう、ね。わたしの奢りで喫茶店に行きましょ」
接点のなかった三人が連れだって歩いた。道行く人はその奇異さに目を向けていくが、実澄もレイコも、気にとめずに談笑した。
タグ:実澄