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2017年10月30日
拓馬篇前記ー実澄8
実澄がレイコに手作りをすすめたのはレジンアクセサリーだった。雑貨屋では既製品が陳列され、その片隅に曜日限定の体験コーナーが設けてある。そこで特製の樹脂小物を作るつもりだったが──
「これ、かわいい!」
レイコは出来合いのものに一目ぼれした。猫の顔を模した金色の空枠にレジンを注いだペンダントだ。レジンで描いたイラストにヒゲは無く、顔の下半分が白っぽく、簡略化された口だか鼻が細長い逆三角形になっている。そのデザインはミミズクのようにも見えた。そこがレイコには「かわったネコちゃん!」だとして希少価値を見出したらしい。売り物をレイコが気に入り、購入する方向性で落ち着いてしまった。
買うだけでは実澄は物足りなかった。別種の体験コーナーにはほかにマグカップの絵付けがある。利用客はおらず、すぐに着手できそうだ。
「ねえ、カップに絵を描いてみない?」
青年が「私にデザインのセンスはない」と嫌々ながらも合意を得る。急遽カップ作りを進めた。作業台の座席につき、三つの白いカップに平等に三人の手を加える。レイコは思ったままに動物やオレンジ色の太陽などを描き、実澄は店にあるイラスト見本を見ながらレイコがつくった空白に絵を描き、絵がヘタだと主張する青年は文字を書いた。アルファベットで、カップの裏底には三人の名前を記し、それぞれのカップの持ち主となる者の名前をコップの最下段に書く。そうしてオーブンレンジによる焼き付けを待った。待ち時間は三十分。三人は最後の雑談をした。思いのほか、青年が一連の体験について興味を示す。
「焼き付け……というと専用の窯を使うのかと思った」
「それは本格的なお店ね。ここは家庭でもできることをやるの」
「ミスミは家でやれない事情があるのか?」
「道具をそろえるのがね……一回やっておしまいにするなら、こういうお店でやったほうがお手軽でしょう? 余った専用のペンや絵の具の処分にも困るし」
「そうか、道具の片付けと管理が問題か」
青年は整理整頓の観点で実澄の考えに同調した。「片付け」の単語が出ると、それまで上機嫌だったレイコがしょんぼりする。
「おかたづけ……してない」
「あのマンションの部屋のこと?」
「うん、本とかおもちゃ、ちらかったまま……おかあさんにまた、おこられる」
レイコは作業台にあごをのせる。これからくるであろう叱責を思うと気分が落ちこんでしまった。実澄はそのわかりやすい感情の変化が愛らしいと感じる。
「だいじょうぶ、お母さんはレイコちゃんがお片付けできなかった理由をわかってるもの」
「そうかなぁ……」
「それにね、お母さんが叱ることには良いこともあるの」
「ほんとに〜?」
レイコは頬を机にくっつけ、疑いのまなざしを実澄にそそいだ。
「本当。レイコちゃんはこうして元気でいるけれど、これって奇跡なのよ。銀くんがいなかったら大ケガをしてた。いまごろはたぶん『痛い痛い』と言って、ずっと病院のベッドで寝てたのよ」
「いたいの、ヤダなぁ」
「だけどお母さんが真剣に叱ってくれたから、もう危ないことはしないと思えるのよね?」
「うん、こわいもん」
「ほら、レイコちゃんは大ケガをしないですむ方法を見つけたでしょ。お母さんの言い付けを守るから、ケガをせずに元気でいられるの」
「でもミスミ、おにいちゃんにはちがうこといってなかった?」
たしかに実澄は青年に「親の言うことばかり聞いてはダメ」といった話をした。なかなか鋭い指摘だと感心する。
「いいツッコミだわ。それはね、銀くんがもう大人だからよ。なにをしていいか、悪いかを一人でも考えられる年頃なの。このぐらい大きくなったらね、親の言うことをつっぱねちゃってもいいの!」
「いいの? おかあさんやおとうさんにきらわれない?」
「ちょっとカゲキなことを言うけどね、嫌われてもいいとわたしは思う。子どもはいずれ、親から離れていくものなんだから」
「あたし、はなれたくない……」
「レイコちゃんはあと十年くらい、ご両親と一緒にいたらいいでしょうね。十年経った頃にはきっと、物事の善し悪しがわかってくる。レイコちゃんは賢いから」
「えへへー」
褒められたレイコが機嫌を直し、しゃきっと背を伸ばした。靴のない足をぶらぶらさせる。きょろきょろと周りを見て、自身の母を見つける。
「あ、おかあさん!」
レイコは靴がないのをおかまいなしに床を駆けた。すると「あー、汚いでしょ!」と母の叱りを受ける。レイコはにっこりした顔で「ごめんなさい」と謝った。
「これ、かわいい!」
レイコは出来合いのものに一目ぼれした。猫の顔を模した金色の空枠にレジンを注いだペンダントだ。レジンで描いたイラストにヒゲは無く、顔の下半分が白っぽく、簡略化された口だか鼻が細長い逆三角形になっている。そのデザインはミミズクのようにも見えた。そこがレイコには「かわったネコちゃん!」だとして希少価値を見出したらしい。売り物をレイコが気に入り、購入する方向性で落ち着いてしまった。
買うだけでは実澄は物足りなかった。別種の体験コーナーにはほかにマグカップの絵付けがある。利用客はおらず、すぐに着手できそうだ。
「ねえ、カップに絵を描いてみない?」
青年が「私にデザインのセンスはない」と嫌々ながらも合意を得る。急遽カップ作りを進めた。作業台の座席につき、三つの白いカップに平等に三人の手を加える。レイコは思ったままに動物やオレンジ色の太陽などを描き、実澄は店にあるイラスト見本を見ながらレイコがつくった空白に絵を描き、絵がヘタだと主張する青年は文字を書いた。アルファベットで、カップの裏底には三人の名前を記し、それぞれのカップの持ち主となる者の名前をコップの最下段に書く。そうしてオーブンレンジによる焼き付けを待った。待ち時間は三十分。三人は最後の雑談をした。思いのほか、青年が一連の体験について興味を示す。
「焼き付け……というと専用の窯を使うのかと思った」
「それは本格的なお店ね。ここは家庭でもできることをやるの」
「ミスミは家でやれない事情があるのか?」
「道具をそろえるのがね……一回やっておしまいにするなら、こういうお店でやったほうがお手軽でしょう? 余った専用のペンや絵の具の処分にも困るし」
「そうか、道具の片付けと管理が問題か」
青年は整理整頓の観点で実澄の考えに同調した。「片付け」の単語が出ると、それまで上機嫌だったレイコがしょんぼりする。
「おかたづけ……してない」
「あのマンションの部屋のこと?」
「うん、本とかおもちゃ、ちらかったまま……おかあさんにまた、おこられる」
レイコは作業台にあごをのせる。これからくるであろう叱責を思うと気分が落ちこんでしまった。実澄はそのわかりやすい感情の変化が愛らしいと感じる。
「だいじょうぶ、お母さんはレイコちゃんがお片付けできなかった理由をわかってるもの」
「そうかなぁ……」
「それにね、お母さんが叱ることには良いこともあるの」
「ほんとに〜?」
レイコは頬を机にくっつけ、疑いのまなざしを実澄にそそいだ。
「本当。レイコちゃんはこうして元気でいるけれど、これって奇跡なのよ。銀くんがいなかったら大ケガをしてた。いまごろはたぶん『痛い痛い』と言って、ずっと病院のベッドで寝てたのよ」
「いたいの、ヤダなぁ」
「だけどお母さんが真剣に叱ってくれたから、もう危ないことはしないと思えるのよね?」
「うん、こわいもん」
「ほら、レイコちゃんは大ケガをしないですむ方法を見つけたでしょ。お母さんの言い付けを守るから、ケガをせずに元気でいられるの」
「でもミスミ、おにいちゃんにはちがうこといってなかった?」
たしかに実澄は青年に「親の言うことばかり聞いてはダメ」といった話をした。なかなか鋭い指摘だと感心する。
「いいツッコミだわ。それはね、銀くんがもう大人だからよ。なにをしていいか、悪いかを一人でも考えられる年頃なの。このぐらい大きくなったらね、親の言うことをつっぱねちゃってもいいの!」
「いいの? おかあさんやおとうさんにきらわれない?」
「ちょっとカゲキなことを言うけどね、嫌われてもいいとわたしは思う。子どもはいずれ、親から離れていくものなんだから」
「あたし、はなれたくない……」
「レイコちゃんはあと十年くらい、ご両親と一緒にいたらいいでしょうね。十年経った頃にはきっと、物事の善し悪しがわかってくる。レイコちゃんは賢いから」
「えへへー」
褒められたレイコが機嫌を直し、しゃきっと背を伸ばした。靴のない足をぶらぶらさせる。きょろきょろと周りを見て、自身の母を見つける。
「あ、おかあさん!」
レイコは靴がないのをおかまいなしに床を駆けた。すると「あー、汚いでしょ!」と母の叱りを受ける。レイコはにっこりした顔で「ごめんなさい」と謝った。
タグ:実澄
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2017年10月29日
拓馬篇前記ー実澄7
実澄たちは一時間近く喫茶店で過ごした。店を出ると外は薄暗くなっていて、街灯がともりはじめる。雪は止みつつあったが寒さは増していた。
青年に抱えられたレイコは寒そうに体をちぢこめている。実澄が貸したニット帽子とマフラーだけではレイコの体、特に足は寒さをしのげない。実澄は少女を心配し、彼女が履く靴下をなでた。数分前に暖かい店内にいたというのに、温かさはもう感じない。
「アクセサリー作り、やめましょうか……お家の人が帰ってきてるかもしれないし」
実澄は自分で発した言葉によって、あらたな気がかりな点が浮き彫りになる。レイコの保護は実澄が勝手にやっていること。その旨を誰にも伝えていない。予定より早くレイコの保護者が帰宅した場合、いるはずの子どもが不在であれば慌てるに決まっている。その手落ちに今になって気付いた。レイコのいた部屋の玄関にでも書置きを残すべきだったのだ。
実澄が失態を感じているとは露知らず、レイコは「えー」と嫌がった。彼女はまだ遊んでいたいらしい。その思いを実澄はむげにしたくないのだが、一度マンションに戻らねば気が済まない。
「ミスミ、少しだけレイコを預かってほしい」
青年がいきなり実澄にレイコを差し出してきた。
「どこに行くにせよ、レイコのこの格好は良くないんだろう?」
「ええ、そうだけど……」
実澄は青年に言われるままにレイコを抱き上げた。ずっしりとした重さは何年も前に経験したものと似ている。子どもにすべてを託される責任と充実感が再来した。
(うれしい、けど……やっぱりキツい)
この状態を十数分と維持するのはやはり無理、と実澄は自身の非力さを痛感した。
身軽になった青年は黒いジャケットを脱いだ。もともと見えていた群青の半袖シャツの下に灰色の長袖インナーがのぞく。その格好は春か秋での適切な格好だ。
「この上着をレイコに着させよう。マフラーは足元にくるめば、なんとかならないか」
「でも、今度はあなたが──」
「寒いのは平気だ。この程度で参るようなヤワな体じゃない」
青年が着るインナーは彼のたくましい体のラインを浮き上がらせている。頑丈にはちがいないという説得力があった。
「うん……ありがとう」
実澄は青年にレイコを預けた。その際にマフラーを取る。レイコの体温が残るマフラーを、彼女の膝から下の部分に巻いた。ずり落ちないよう、膝に近いほうのマフラーの端を折り返す。
「レイコちゃん、寒くない?」
「うん、あったかい!」
黒の上着ですっぽり包まれたレイコが元気よく答える。急場の防寒対策はやり終えた。
「ね、お家の人がマンションにいるかどうか、一度見てみましょうよ」
「いたら、おわかれ?」
レイコは名残惜しそうにたずねる。実澄は不確実な可能性を挙げることにした。
「もし親御さんが『いいよ』と言ってくれたら、お店に行きましょ」
「おかあさんが……いうかなぁ」
「ところで、何時まで遊びにきたお家にいられるの?」
「おとまりするの。だからなんじでもいい」
「そう。だったらレイコちゃんのお母さん次第ね」
レイコは「むー」と不満げな声を鳴らす。どうも彼女の母親は実澄ほどゆるい人物ではないようだ。
三人は来た道をもどることに決めた。だが数歩進んだところで青年が足を止める。彼は後方を振りむく。
「あれは、レイコの知り合いか?」
ランニングをしているかのように走る女性がやって来た。だがその服装はとても運動用には見えない。動きにくそうな、裾の長いコートを羽織っている。
「銀くんはどうしてそう思ったの?」
「あの女性が『レイコ』と何度もつぶやいているように聞こえた」
それを聞いたレイコは「おかあさん?」と声を張り上げた。急いでいる女性が立ち止まり、「レイコ?」と聞き返す。
「レイコ! なんで部屋で待っていないの?」
女性が駆けてくる。実澄と青年の顔を交互に見て、「あなたたちは?」と不審そうに質問した。実澄はほがらかな笑顔をつくる。
「わたしたち、レイコちゃんを預かっていたんです。この子、マンションの部屋にもどれなくなっていて」
「どうして? あそこはオートロックもないのに」
女性は見るからに警戒心をあらわにする。実澄は喫茶店の店員が「人攫い」と疑ってきた苦い体験を髣髴した。経緯を説明しても信じてもらえなさそうな雰囲気の中、青年は「レイコがベランダから落ちた」と言う。
「野良猫を触ろうとして、ベランダの柵を渡った時に転落した。そこで私たちが保護した」
「猫? そんなはずない。あの部屋には飼い猫がいる! その子と遊びたいからレイコは出かけなかったのに」
「貴女がどう思おうとそれが事実だ」
青年の堂々とした態度を前にして、女性は威勢が削がれる。女性が「本当なの?」とレイコに聞いた。レイコはこっくりうなずく。
「ほんと。だって、あのおうちのネコちゃんはにげちゃうんだもん」
レイコがおびえたふうに答えた。女性は肩をいからせて「バカ!」と一喝する。
「だからってベランダに出ちゃダメでしょ! 危ないって言ったじゃない!」
くぅん、と犬のような悲しげな声をレイコが出した。
「電話をかけてもぜんぜん出ないから来てみたら! バカなことして他人様に迷惑かけてたの?」
「えぅ……」
レイコはいまにも泣きだしそうだ。実澄は女性の叱責をもっともだと思いながらも、その仲裁をする。
「それくらいで充分だと思いますよ。レイコちゃん、もう柵にはのぼらないよね?」
「……うん。しない」
「危ないこと、やらないもんね?」
「うん」
「うん、いい子」
実澄はレイコの頭をなでた。ニット帽子のてっぺんに付けた房がゆれる。レイコの母が「それ……」とつぶやく。
「あなたたちが、この子が寒くならないようにと、貸してたんですか?」
「ええ、そうです。ありあわせのものですけど」
レイコの母は上着を着ていない青年を見、頭を深く下げる。
「すいません! いろいろ娘によくしてもらったのに、疑ってかかったりして」
「いいんです、娘さんを大事に想ってのことだと思いますから」
「そう、でしょうか……?」
双方のわだかまりが解け、青年が「どうする」と実澄に問う。
「この場でレイコを引き渡すか? それとも私がマンションまで送るか」
レイコは「え……」と小さな抗議をした。実澄はレイコの母に少女の思いを伝える。
「あの、これから雑貨屋さんでレイコちゃんとアクセサリーを作る約束をしたんです。約束を守らせてもらってもいいでしょうか?」
レイコの母は戸惑う。娘に「したいの?」と聞くとレイコはひかえめにうなずく。
「ねえ、おねがい。もうミスミとおにいちゃんにあえないかもしれないから……」
レイコは声をふるわせつつ懇願した。レイコの母が深いため息をつく。
「そのお店、なんて名前で、どこにあるんです?」
「え?」
実澄とレイコの声が重なった。レイコの母がぽりぽりと頭をかく。
「あとで迎えに行きますよ。レイコの上着と靴を持って!」
恥ずかしそうにレイコの母が言い、レイコは「おかあさんだいすき!」と屈託なく答えた。
青年に抱えられたレイコは寒そうに体をちぢこめている。実澄が貸したニット帽子とマフラーだけではレイコの体、特に足は寒さをしのげない。実澄は少女を心配し、彼女が履く靴下をなでた。数分前に暖かい店内にいたというのに、温かさはもう感じない。
「アクセサリー作り、やめましょうか……お家の人が帰ってきてるかもしれないし」
実澄は自分で発した言葉によって、あらたな気がかりな点が浮き彫りになる。レイコの保護は実澄が勝手にやっていること。その旨を誰にも伝えていない。予定より早くレイコの保護者が帰宅した場合、いるはずの子どもが不在であれば慌てるに決まっている。その手落ちに今になって気付いた。レイコのいた部屋の玄関にでも書置きを残すべきだったのだ。
実澄が失態を感じているとは露知らず、レイコは「えー」と嫌がった。彼女はまだ遊んでいたいらしい。その思いを実澄はむげにしたくないのだが、一度マンションに戻らねば気が済まない。
「ミスミ、少しだけレイコを預かってほしい」
青年がいきなり実澄にレイコを差し出してきた。
「どこに行くにせよ、レイコのこの格好は良くないんだろう?」
「ええ、そうだけど……」
実澄は青年に言われるままにレイコを抱き上げた。ずっしりとした重さは何年も前に経験したものと似ている。子どもにすべてを託される責任と充実感が再来した。
(うれしい、けど……やっぱりキツい)
この状態を十数分と維持するのはやはり無理、と実澄は自身の非力さを痛感した。
身軽になった青年は黒いジャケットを脱いだ。もともと見えていた群青の半袖シャツの下に灰色の長袖インナーがのぞく。その格好は春か秋での適切な格好だ。
「この上着をレイコに着させよう。マフラーは足元にくるめば、なんとかならないか」
「でも、今度はあなたが──」
「寒いのは平気だ。この程度で参るようなヤワな体じゃない」
青年が着るインナーは彼のたくましい体のラインを浮き上がらせている。頑丈にはちがいないという説得力があった。
「うん……ありがとう」
実澄は青年にレイコを預けた。その際にマフラーを取る。レイコの体温が残るマフラーを、彼女の膝から下の部分に巻いた。ずり落ちないよう、膝に近いほうのマフラーの端を折り返す。
「レイコちゃん、寒くない?」
「うん、あったかい!」
黒の上着ですっぽり包まれたレイコが元気よく答える。急場の防寒対策はやり終えた。
「ね、お家の人がマンションにいるかどうか、一度見てみましょうよ」
「いたら、おわかれ?」
レイコは名残惜しそうにたずねる。実澄は不確実な可能性を挙げることにした。
「もし親御さんが『いいよ』と言ってくれたら、お店に行きましょ」
「おかあさんが……いうかなぁ」
「ところで、何時まで遊びにきたお家にいられるの?」
「おとまりするの。だからなんじでもいい」
「そう。だったらレイコちゃんのお母さん次第ね」
レイコは「むー」と不満げな声を鳴らす。どうも彼女の母親は実澄ほどゆるい人物ではないようだ。
三人は来た道をもどることに決めた。だが数歩進んだところで青年が足を止める。彼は後方を振りむく。
「あれは、レイコの知り合いか?」
ランニングをしているかのように走る女性がやって来た。だがその服装はとても運動用には見えない。動きにくそうな、裾の長いコートを羽織っている。
「銀くんはどうしてそう思ったの?」
「あの女性が『レイコ』と何度もつぶやいているように聞こえた」
それを聞いたレイコは「おかあさん?」と声を張り上げた。急いでいる女性が立ち止まり、「レイコ?」と聞き返す。
「レイコ! なんで部屋で待っていないの?」
女性が駆けてくる。実澄と青年の顔を交互に見て、「あなたたちは?」と不審そうに質問した。実澄はほがらかな笑顔をつくる。
「わたしたち、レイコちゃんを預かっていたんです。この子、マンションの部屋にもどれなくなっていて」
「どうして? あそこはオートロックもないのに」
女性は見るからに警戒心をあらわにする。実澄は喫茶店の店員が「人攫い」と疑ってきた苦い体験を髣髴した。経緯を説明しても信じてもらえなさそうな雰囲気の中、青年は「レイコがベランダから落ちた」と言う。
「野良猫を触ろうとして、ベランダの柵を渡った時に転落した。そこで私たちが保護した」
「猫? そんなはずない。あの部屋には飼い猫がいる! その子と遊びたいからレイコは出かけなかったのに」
「貴女がどう思おうとそれが事実だ」
青年の堂々とした態度を前にして、女性は威勢が削がれる。女性が「本当なの?」とレイコに聞いた。レイコはこっくりうなずく。
「ほんと。だって、あのおうちのネコちゃんはにげちゃうんだもん」
レイコがおびえたふうに答えた。女性は肩をいからせて「バカ!」と一喝する。
「だからってベランダに出ちゃダメでしょ! 危ないって言ったじゃない!」
くぅん、と犬のような悲しげな声をレイコが出した。
「電話をかけてもぜんぜん出ないから来てみたら! バカなことして他人様に迷惑かけてたの?」
「えぅ……」
レイコはいまにも泣きだしそうだ。実澄は女性の叱責をもっともだと思いながらも、その仲裁をする。
「それくらいで充分だと思いますよ。レイコちゃん、もう柵にはのぼらないよね?」
「……うん。しない」
「危ないこと、やらないもんね?」
「うん」
「うん、いい子」
実澄はレイコの頭をなでた。ニット帽子のてっぺんに付けた房がゆれる。レイコの母が「それ……」とつぶやく。
「あなたたちが、この子が寒くならないようにと、貸してたんですか?」
「ええ、そうです。ありあわせのものですけど」
レイコの母は上着を着ていない青年を見、頭を深く下げる。
「すいません! いろいろ娘によくしてもらったのに、疑ってかかったりして」
「いいんです、娘さんを大事に想ってのことだと思いますから」
「そう、でしょうか……?」
双方のわだかまりが解け、青年が「どうする」と実澄に問う。
「この場でレイコを引き渡すか? それとも私がマンションまで送るか」
レイコは「え……」と小さな抗議をした。実澄はレイコの母に少女の思いを伝える。
「あの、これから雑貨屋さんでレイコちゃんとアクセサリーを作る約束をしたんです。約束を守らせてもらってもいいでしょうか?」
レイコの母は戸惑う。娘に「したいの?」と聞くとレイコはひかえめにうなずく。
「ねえ、おねがい。もうミスミとおにいちゃんにあえないかもしれないから……」
レイコは声をふるわせつつ懇願した。レイコの母が深いため息をつく。
「そのお店、なんて名前で、どこにあるんです?」
「え?」
実澄とレイコの声が重なった。レイコの母がぽりぽりと頭をかく。
「あとで迎えに行きますよ。レイコの上着と靴を持って!」
恥ずかしそうにレイコの母が言い、レイコは「おかあさんだいすき!」と屈託なく答えた。
タグ:実澄