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2017年11月07日
拓馬篇前記−八巻1
休日の昼下がり。八巻は病衣の上にカーディガンを羽織った姿で院内の中庭を歩いた。葉のない木々が生え、通り道が灰色のアスファルトで舗装された殺風景な場所だ。ほかに延々散歩しても人の迷惑にならぬ場所がない。季節柄、寒冷な二月といえどもお日様の暖かさを頼りに運動する。この時間帯の日差しは春の陽気に近い。風が吹かなければ一足早い春が来たような熱気であり、気分も高揚した。
除去手術を施すための入院生活は今日で最後。術後に痛んだ患部はなんともない。明日からまた自宅へもどり、リハビリをしに通院する。八巻の素人考えではもう自主訓練のみでよいと思う。しかし担当の理学療法士が慎重な性格ゆえに継続することになった。
(普通なら死んでた人間、だそうだからな……)
八巻は高校の男性教師であるかたわら、バイクのツーリングを趣味としている。その趣味のせいで半年前、大事故に巻き込まれた──というのが周囲の証言から推測できること。加害者にあたる運送業の人物が大型トラックを運転していたことはまちがいない。救急車を呼んでくれた親切な人がそう言ったのだから。だが八巻本人は自身の記憶がどこまで真実なのかわからなかった。事故の直後、不可思議な現象に遭遇したせいだ。
『生きたいと願え。そうすれば助ける』
どんな声だったか覚えていない。この時の八巻に痛覚はなく、かけられたの言葉の意図は瞬時に理解できなかった。喋ろうにも、体を動かそうにも、自分の意思がちっとも自身の体に反映されない。体の自由が利かないのを知り、己が死に瀕しているのだとやっと悟った。
死を間際にして、ひたすらに「死にたくない」と懇願した。あとあと振り返れば「この緊急事態になにを当たり前なことを言うんだ」と相手に言ってみたい気もする。全身血まみれの怪我人が助けを乞わぬはずがないだろう、と。
奇妙な声に反抗しなかったおかげなのか、八巻は九死に一生を得た。失血死しかねない量の血をまとったにも関わらず、救急隊員による処置を受けるころには裂傷が数か所ふさがっていたという。救急隊員がそう判断した主な根拠は二点。大量出血するような傷口が無く、すべての血を口から吐いたにしては内臓や血管の損傷が軽すぎたのだ。
八巻本人の血がべっとり付着した肌周辺の服が大きく裂けていた。そのことから、救急車がかけつけた時点で致命傷は癒えていたという非現実的な結論に達した。それは医学的にありえぬ見地だ。それゆえ事故現場に流れた出血量について、八巻の治療のうえでは無かったことにされた。
だが命に大事ない傷はがぜん酷いありさまだった。全体の骨がひび割れ、折れ、体外へ突き出てしまった部位があったという。尖った骨がいくつか内臓に刺さっていたのを切開手術で取り払ったとも言われた。怪我の具合も手術の情景もすべて、八巻の意識外での出来事だ。八巻は他人事のように、あとになってそれらを知った。
目覚めた時は病院の個室のベッドに伏せていた。事故後十日を経過した覚醒だ。昏睡中、母は息子が植物状態になるのではとオロオロしたそうだ。心配性な母のことだから、医者が漏らした数パーセントもあるかどうかしれない可能性を、数十パーセントに引き上げたのだろう。
しかし医者が不穏なことを口走らなかったわけではない。以前のような運動能力まで回復する保証はできないと、そう言われたこともある。つまりは後遺症だ。まだ三十路にもいたらぬアウトドア派の人間には辛い宣告だった。
しばらくはめっぽう打ちひしがれてしまい、「あの日に出かけなかったら」、「もっと早く帰宅していれば」と後悔した。冷静になって考えるとそれらは虫のよい、タラレバだ。都合よく事故の起きる日だけ、遠乗りに出かける意欲をなくす何かか起きるはずもない。天気のよい、休日で、これという用事がなければ、愛車とともにひとっ走りしてくる。それが八巻という男だった。現在はバイクが御臨終してしまったので遠出しようにもできないが。それは復職後に新しいのを見繕おうと考えている。後遺症が出なかった今では「もうバイクに乗らない」という方針が無しとなった。母は「もう乗らなきゃいいのに」と呆れていたが、生きがいには変えられない。
医者は八巻の回復力を驚嘆し、その回復速度を若さに起因するものと考えた。だが八巻は自分一人の治癒能力が優れるのではないと思う。それは事故当時の謎の声も関係するが、またべつに不思議な体験をした。
「妖精さん……」
八巻は勝手に名付けたあだ名をつぶやく。その名は院内で奇妙な体験をした際に見惚れた女性を指した。
除去手術を施すための入院生活は今日で最後。術後に痛んだ患部はなんともない。明日からまた自宅へもどり、リハビリをしに通院する。八巻の素人考えではもう自主訓練のみでよいと思う。しかし担当の理学療法士が慎重な性格ゆえに継続することになった。
(普通なら死んでた人間、だそうだからな……)
八巻は高校の男性教師であるかたわら、バイクのツーリングを趣味としている。その趣味のせいで半年前、大事故に巻き込まれた──というのが周囲の証言から推測できること。加害者にあたる運送業の人物が大型トラックを運転していたことはまちがいない。救急車を呼んでくれた親切な人がそう言ったのだから。だが八巻本人は自身の記憶がどこまで真実なのかわからなかった。事故の直後、不可思議な現象に遭遇したせいだ。
『生きたいと願え。そうすれば助ける』
どんな声だったか覚えていない。この時の八巻に痛覚はなく、かけられたの言葉の意図は瞬時に理解できなかった。喋ろうにも、体を動かそうにも、自分の意思がちっとも自身の体に反映されない。体の自由が利かないのを知り、己が死に瀕しているのだとやっと悟った。
死を間際にして、ひたすらに「死にたくない」と懇願した。あとあと振り返れば「この緊急事態になにを当たり前なことを言うんだ」と相手に言ってみたい気もする。全身血まみれの怪我人が助けを乞わぬはずがないだろう、と。
奇妙な声に反抗しなかったおかげなのか、八巻は九死に一生を得た。失血死しかねない量の血をまとったにも関わらず、救急隊員による処置を受けるころには裂傷が数か所ふさがっていたという。救急隊員がそう判断した主な根拠は二点。大量出血するような傷口が無く、すべての血を口から吐いたにしては内臓や血管の損傷が軽すぎたのだ。
八巻本人の血がべっとり付着した肌周辺の服が大きく裂けていた。そのことから、救急車がかけつけた時点で致命傷は癒えていたという非現実的な結論に達した。それは医学的にありえぬ見地だ。それゆえ事故現場に流れた出血量について、八巻の治療のうえでは無かったことにされた。
だが命に大事ない傷はがぜん酷いありさまだった。全体の骨がひび割れ、折れ、体外へ突き出てしまった部位があったという。尖った骨がいくつか内臓に刺さっていたのを切開手術で取り払ったとも言われた。怪我の具合も手術の情景もすべて、八巻の意識外での出来事だ。八巻は他人事のように、あとになってそれらを知った。
目覚めた時は病院の個室のベッドに伏せていた。事故後十日を経過した覚醒だ。昏睡中、母は息子が植物状態になるのではとオロオロしたそうだ。心配性な母のことだから、医者が漏らした数パーセントもあるかどうかしれない可能性を、数十パーセントに引き上げたのだろう。
しかし医者が不穏なことを口走らなかったわけではない。以前のような運動能力まで回復する保証はできないと、そう言われたこともある。つまりは後遺症だ。まだ三十路にもいたらぬアウトドア派の人間には辛い宣告だった。
しばらくはめっぽう打ちひしがれてしまい、「あの日に出かけなかったら」、「もっと早く帰宅していれば」と後悔した。冷静になって考えるとそれらは虫のよい、タラレバだ。都合よく事故の起きる日だけ、遠乗りに出かける意欲をなくす何かか起きるはずもない。天気のよい、休日で、これという用事がなければ、愛車とともにひとっ走りしてくる。それが八巻という男だった。現在はバイクが御臨終してしまったので遠出しようにもできないが。それは復職後に新しいのを見繕おうと考えている。後遺症が出なかった今では「もうバイクに乗らない」という方針が無しとなった。母は「もう乗らなきゃいいのに」と呆れていたが、生きがいには変えられない。
医者は八巻の回復力を驚嘆し、その回復速度を若さに起因するものと考えた。だが八巻は自分一人の治癒能力が優れるのではないと思う。それは事故当時の謎の声も関係するが、またべつに不思議な体験をした。
「妖精さん……」
八巻は勝手に名付けたあだ名をつぶやく。その名は院内で奇妙な体験をした際に見惚れた女性を指した。
タグ:八巻
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2017年11月06日
拓馬篇前記−実澄11
実澄は青年に出会った時のことを娘に話した。ベランダから転落する少女を助けた、たくましい体つきの若者だったと。弱者の窮地を救ったヒーローだが、本人はその巨躯や怪力を良く思っていないことなども教えた。ヒーローものが好きな娘は「カッコいいね」と称賛する。
「なんだかヘラクレスみたい」
「ギリシャ神話の?」
「うん、赤ん坊のヘラクレスが蛇を絞め殺した話があるでしょ? あんなふうに、生まれつき英雄になる力を持った人かもね」
青年が否定的だった能力を最大限にプラスに言い表している。実澄はそのポジティブさに感化される。
「今度会ったらそう言ってあげましょ」
「きっと悪い気はしないと思うよ。ヒーローは人気者だもん」
「ただ気負いしちゃわないかちょっと心配。英雄はたくさんの悪者と戦うんだもの、大変よね」
「うん、ヘラクレスの選んだ道はそうだよ」
娘は児童書で学んだ英雄譚を語る。半神の勇者はみずからの意思で、困難ばかりだが後世に名声を残せる生き方を選択した。その時に彼が捨てさった生き方は、楽だがつまらない悪の道。その二種類の選択肢はそれぞれ女性の姿に具現化し、ヘラクレスの前に現れたという。
(銀くんは、簡単に割り切れる選択ができなさそうね……)
青年が悩む行動とは、どれが正義だと断言できはしないだろう。あの心優しい青年が従いきれぬ指示を出す親がいる。その親のやり方はなにかが歪んでいるにちがいない。だが親の思いにそむけば不孝、あるいは不義不忠という別種の罪悪感を背負いこむことになる。
「でもヘラクレスもだらしなくてさー。勇者になる道を進むと決めたはいいけど、女の人とイチャイチャして子どもを三人こさえて。義母のヘラのせいで家族を死なせたのをきっかけに、やっとこ本格的な怪物退治をしていくんだよ。桃太郎だったら『鬼退治する』と宣言したあと、キビ団子が腐らないうちに仲間をゲットして、鬼が島に行ってるのにね」
娘は西洋の勇者が本懐を遂げずに平穏にすごした期間を「鬼が島に何往復できるかわからないね」とからかった。実澄はその例えを不謹慎だと感じる。まだ名声を得ていない人物にも家庭を持つ自由はあるし、その幸福な家庭を失った反動によって唯一無比の勇者になれもしたのだと思ったからだ。このように考えた結果、実澄は娘とは別の解釈をする。
「……めぐまれた能力を持つ人だって、スムーズに事が運ぶわけじゃないんだわ」
家族を失う大事件を乗り越え、神話の勇者は永遠の栄誉を獲得した。それほどの衝撃が銀髪の青年の身にも起きれば、彼は誰にも恥じることのない生き方へ転身できるのだろうか。
(だけど、それはとても辛いこと……)
不運の英雄のように絶望の底から這い上がれたしても、そこから今までの労苦に見合う幸福を得られる保証はどこにもない。幸福が訪れなければ、ただ苦労を重ね続けた不幸な人になってしまう。その生き様は容易に他者へ望めるものではなかった。
「ところでお母さん、その新聞紙はなに?」
「え? これ、マグカップなの」
実澄は胸に抱く新聞紙の包みを握った。包みごしに硬い陶器の感触がある。これがマグカップ作りの思い出だ。
「絵を描けるやつを、やってきたの?」
「そう。三人の合作で、三人分ね」
「へー、ちょうどよかったね。気になってたことがやれて」
娘は母の欲求が満たされたことをよしとする。実澄はその意見を是としつつも、自分以外の者への利点を見いだす。
(ときどきこれを見て、思い出してくれるかしら)
青年は今日の出来事を「勉強になった」と言っていた。そう悪くはない記憶になるだろう。この過去が、青年の苦しみをやわらげる糧となってほしい。そのように願った。
長々と語らっていると自宅が見えてきた。娘が急に「今日のこと、オヤジにも話すの?」と尋ねた。実澄はその意味がよくわからない。
「言うけど、どうして?」
「いやさ、妻が若い男を連れまわしてたなんて、あらぬ誤解を受けそうじゃない?」
「バッカなこと気にするのね。小学生くらいの女の子付きよ?」
「まあそうなんだけど。話す時は女の子を優先的に出そうね。男の人のことだけしゃべったらオヤジはビックリするかもよ」
「それは『懐中時計の人』の話をした時のことを言ってるの?」
娘は数日前、道端で見知らぬ背の高い男性と接触した。そのやり取りをその日の夕食時に話したら、夫が「お前も男を引っ掛けるようになったか」と揶揄したのだ。冗談だとわかっているとはいえ、娘は快く思っていない。
「カッコいいかどうかもよくわかんなかったのにさー」
「黒ずくめで、帽子を被ってて、大柄な人だったかしら? あら、それってもしかして──」
よくよく娘の体験談を深めていくと、娘も実澄が会った青年と遭遇したのだとわかった。
「あらら、今日はじめてこの土地に来たみたいに言ってたのに、もう見学済みだったのね」
「回りきれなかったお店とか観光スポットがあったんでない?」
「そんなめぼしい場所がこのへんにかたまってるかしらね」
実澄はほどよく田舎な地元を若干卑下しながら、青年との再会の希望があることを内心よろこんだ。
(好き勝手にしゃべっちゃったし、それでまずいことが起きてたらわたしが責任とらなきゃ)
青年は自己表現が得意ではなさそうだった。かような人物には周囲の者の助けがきっと必要になる。実澄は今回、青年に与えた言葉が彼を救済する確信がない。うまくいかなければその都度修正を加えるべきだと考えた。
(会えた時のために、勉強しておこうかな)
複雑な人間関係の対処法を説く書籍は世の中にごまんとある。手始めに家にある本を読んでみる目標を立て、実澄は灯りが煌々と光る自宅へ入った。
「なんだかヘラクレスみたい」
「ギリシャ神話の?」
「うん、赤ん坊のヘラクレスが蛇を絞め殺した話があるでしょ? あんなふうに、生まれつき英雄になる力を持った人かもね」
青年が否定的だった能力を最大限にプラスに言い表している。実澄はそのポジティブさに感化される。
「今度会ったらそう言ってあげましょ」
「きっと悪い気はしないと思うよ。ヒーローは人気者だもん」
「ただ気負いしちゃわないかちょっと心配。英雄はたくさんの悪者と戦うんだもの、大変よね」
「うん、ヘラクレスの選んだ道はそうだよ」
娘は児童書で学んだ英雄譚を語る。半神の勇者はみずからの意思で、困難ばかりだが後世に名声を残せる生き方を選択した。その時に彼が捨てさった生き方は、楽だがつまらない悪の道。その二種類の選択肢はそれぞれ女性の姿に具現化し、ヘラクレスの前に現れたという。
(銀くんは、簡単に割り切れる選択ができなさそうね……)
青年が悩む行動とは、どれが正義だと断言できはしないだろう。あの心優しい青年が従いきれぬ指示を出す親がいる。その親のやり方はなにかが歪んでいるにちがいない。だが親の思いにそむけば不孝、あるいは不義不忠という別種の罪悪感を背負いこむことになる。
「でもヘラクレスもだらしなくてさー。勇者になる道を進むと決めたはいいけど、女の人とイチャイチャして子どもを三人こさえて。義母のヘラのせいで家族を死なせたのをきっかけに、やっとこ本格的な怪物退治をしていくんだよ。桃太郎だったら『鬼退治する』と宣言したあと、キビ団子が腐らないうちに仲間をゲットして、鬼が島に行ってるのにね」
娘は西洋の勇者が本懐を遂げずに平穏にすごした期間を「鬼が島に何往復できるかわからないね」とからかった。実澄はその例えを不謹慎だと感じる。まだ名声を得ていない人物にも家庭を持つ自由はあるし、その幸福な家庭を失った反動によって唯一無比の勇者になれもしたのだと思ったからだ。このように考えた結果、実澄は娘とは別の解釈をする。
「……めぐまれた能力を持つ人だって、スムーズに事が運ぶわけじゃないんだわ」
家族を失う大事件を乗り越え、神話の勇者は永遠の栄誉を獲得した。それほどの衝撃が銀髪の青年の身にも起きれば、彼は誰にも恥じることのない生き方へ転身できるのだろうか。
(だけど、それはとても辛いこと……)
不運の英雄のように絶望の底から這い上がれたしても、そこから今までの労苦に見合う幸福を得られる保証はどこにもない。幸福が訪れなければ、ただ苦労を重ね続けた不幸な人になってしまう。その生き様は容易に他者へ望めるものではなかった。
「ところでお母さん、その新聞紙はなに?」
「え? これ、マグカップなの」
実澄は胸に抱く新聞紙の包みを握った。包みごしに硬い陶器の感触がある。これがマグカップ作りの思い出だ。
「絵を描けるやつを、やってきたの?」
「そう。三人の合作で、三人分ね」
「へー、ちょうどよかったね。気になってたことがやれて」
娘は母の欲求が満たされたことをよしとする。実澄はその意見を是としつつも、自分以外の者への利点を見いだす。
(ときどきこれを見て、思い出してくれるかしら)
青年は今日の出来事を「勉強になった」と言っていた。そう悪くはない記憶になるだろう。この過去が、青年の苦しみをやわらげる糧となってほしい。そのように願った。
長々と語らっていると自宅が見えてきた。娘が急に「今日のこと、オヤジにも話すの?」と尋ねた。実澄はその意味がよくわからない。
「言うけど、どうして?」
「いやさ、妻が若い男を連れまわしてたなんて、あらぬ誤解を受けそうじゃない?」
「バッカなこと気にするのね。小学生くらいの女の子付きよ?」
「まあそうなんだけど。話す時は女の子を優先的に出そうね。男の人のことだけしゃべったらオヤジはビックリするかもよ」
「それは『懐中時計の人』の話をした時のことを言ってるの?」
娘は数日前、道端で見知らぬ背の高い男性と接触した。そのやり取りをその日の夕食時に話したら、夫が「お前も男を引っ掛けるようになったか」と揶揄したのだ。冗談だとわかっているとはいえ、娘は快く思っていない。
「カッコいいかどうかもよくわかんなかったのにさー」
「黒ずくめで、帽子を被ってて、大柄な人だったかしら? あら、それってもしかして──」
よくよく娘の体験談を深めていくと、娘も実澄が会った青年と遭遇したのだとわかった。
「あらら、今日はじめてこの土地に来たみたいに言ってたのに、もう見学済みだったのね」
「回りきれなかったお店とか観光スポットがあったんでない?」
「そんなめぼしい場所がこのへんにかたまってるかしらね」
実澄はほどよく田舎な地元を若干卑下しながら、青年との再会の希望があることを内心よろこんだ。
(好き勝手にしゃべっちゃったし、それでまずいことが起きてたらわたしが責任とらなきゃ)
青年は自己表現が得意ではなさそうだった。かような人物には周囲の者の助けがきっと必要になる。実澄は今回、青年に与えた言葉が彼を救済する確信がない。うまくいかなければその都度修正を加えるべきだと考えた。
(会えた時のために、勉強しておこうかな)
複雑な人間関係の対処法を説く書籍は世の中にごまんとある。手始めに家にある本を読んでみる目標を立て、実澄は灯りが煌々と光る自宅へ入った。
タグ:実澄