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2017年11月10日
拓馬篇前記−八巻3
(半年……長かったな)
八巻は怪我の治療のために半年の期間を休職した。我ながら時間を浪費してしまったと感じる。その大半は妖精さんと名付けた謎の美女にうつつを抜かしていた。教師の体面上、とても生徒には言えないことだ。
八巻の担当は二年生と三年生の社会科の授業。進学に向けて学んでいく大切な時間を、共有できなかったことは悔やまれる。生徒たちは八巻のことを「おもしろい先生」と慕ってくれていた。
(代わりに入ったという先生は、うまくやってるんだろうか?)
不幸中のさいわいにして、八巻が交通事故を起こした時期は夏休み。休み明けまでに新たな社会科教師が採用され、生徒たちへの影響は軽微ですんだ。授業期間中に休職したなら、きっと八巻に配分された授業はしばらく自習時間にされただろう。
ピンチヒッターの新任教師はこれが初めての教員生活だという。目の肥えた上級生に新人をあてがうのはリスキーだ。万一、彼の指導力が不十分なせいで生徒の学習がはかどらず、志望の学校に入れなかったと言われれば大問題である。そのため彼は一年生の担当に回され、他のベテランの教師が上級生の授業を受け持った。
これらの変更による生徒たちの不満の声はあがらなかったらしい。八巻がいなくても業務が回っていくことはありがたい反面、どこか期待外れの感もあった。
(いまの一年生を来年度から見守る、か)
八巻はもともと現一年生との接点が少ない。校長の依頼は具体的にどういうポジションでの職務なのか、まだ聞いていない。一クラスの担任になるのか、その副担任か、あるいはこれといってクラスを受け持たないフリーか。半年とはいえブランクのある八巻では、年齢の若さもあって担任を務めるには力不足。可能性があるのは副担任くらいだ。
(副担……はだれが担任でもいけそうだ)
基本的に担任は次年度へ移行すると、進級した学年かつ同じ組を担当する。一年一組の担任は来年だと二年一組の担任になるという具合に。一年生のクラスは四組あり、そのうちの三人の担任は優しい人たち。残り一人は気難しい女性なのだが、悪い人ではない。八巻は一年生の担任たちのだれとも苦手意識を持っていなかった。
(退院したら、一度校長に聞いてみよう)
校長もどういった差配が最良なのか考えあぐねているのかもしれない。こちらから話を持ちかけ、互いの認識の穴を埋めておくべきだと判断した。
八巻は足に疲労を感じた。中庭を何周したか数えていないが、かなり運動した手応えがある。もう屋内へ入ろう。そう思って出入口のガラス戸を探す。一面ガラス張りの壁に目を滑らす中、奇妙な人影が視界に入った。
二度見してみればガラスの向こうに人がいた。その目は普通の日本人にはない輝きがある。
「妖精さん……」
八巻は思わず駆け寄った。ガラスに両手をつき、外国人風の人物に食い入る。明らかに青い瞳を持つ人だ。
青い瞳の人物は灰色のパンツスーツ姿の女性。鍔つきの黒い帽子を被っており、男性に見まごうほどの長身だ。その顔は八巻がかつて、夜中に起きる怪現象の正体をつかんだ時に見た顔とそっくりだ。意外にも肌が焼けていた。暗がりでは肌の色まで印象に残らなかったようだ。しかし美人にはちがいない。
スーツ姿の女性は無感情な面持ちだ。八巻がベッタリとガラスにへばりついても平然としていた。八巻と視線を合わせた途端、ぷいっと顔を背ける。女性はすたすたとロビーの方向へ進んでいった。八巻は手元のガラスをバンバン叩いてみたが、彼女はまったく振り返らない。
(追いかけなくては……!)
八巻は病棟への出入り口のガラス戸を見つけた。走る勢いのまま体当たりをかます。運悪く移動中の事務員にその乱暴な行為を目撃される。
「あぶないでしょう!」
中高年の職員にたしなめられてしまった。注意を受けるやり取りのうちに女性を見失う。
(この機会を逃がしてなるものか!)
八巻は駆けだす。だがそれもまた事務員の制止をかけられる行動だった。これ以上忠告されぬよう、逸る気持ちを抑えながら早歩きで移動した。
八巻は怪我の治療のために半年の期間を休職した。我ながら時間を浪費してしまったと感じる。その大半は妖精さんと名付けた謎の美女にうつつを抜かしていた。教師の体面上、とても生徒には言えないことだ。
八巻の担当は二年生と三年生の社会科の授業。進学に向けて学んでいく大切な時間を、共有できなかったことは悔やまれる。生徒たちは八巻のことを「おもしろい先生」と慕ってくれていた。
(代わりに入ったという先生は、うまくやってるんだろうか?)
不幸中のさいわいにして、八巻が交通事故を起こした時期は夏休み。休み明けまでに新たな社会科教師が採用され、生徒たちへの影響は軽微ですんだ。授業期間中に休職したなら、きっと八巻に配分された授業はしばらく自習時間にされただろう。
ピンチヒッターの新任教師はこれが初めての教員生活だという。目の肥えた上級生に新人をあてがうのはリスキーだ。万一、彼の指導力が不十分なせいで生徒の学習がはかどらず、志望の学校に入れなかったと言われれば大問題である。そのため彼は一年生の担当に回され、他のベテランの教師が上級生の授業を受け持った。
これらの変更による生徒たちの不満の声はあがらなかったらしい。八巻がいなくても業務が回っていくことはありがたい反面、どこか期待外れの感もあった。
(いまの一年生を来年度から見守る、か)
八巻はもともと現一年生との接点が少ない。校長の依頼は具体的にどういうポジションでの職務なのか、まだ聞いていない。一クラスの担任になるのか、その副担任か、あるいはこれといってクラスを受け持たないフリーか。半年とはいえブランクのある八巻では、年齢の若さもあって担任を務めるには力不足。可能性があるのは副担任くらいだ。
(副担……はだれが担任でもいけそうだ)
基本的に担任は次年度へ移行すると、進級した学年かつ同じ組を担当する。一年一組の担任は来年だと二年一組の担任になるという具合に。一年生のクラスは四組あり、そのうちの三人の担任は優しい人たち。残り一人は気難しい女性なのだが、悪い人ではない。八巻は一年生の担任たちのだれとも苦手意識を持っていなかった。
(退院したら、一度校長に聞いてみよう)
校長もどういった差配が最良なのか考えあぐねているのかもしれない。こちらから話を持ちかけ、互いの認識の穴を埋めておくべきだと判断した。
八巻は足に疲労を感じた。中庭を何周したか数えていないが、かなり運動した手応えがある。もう屋内へ入ろう。そう思って出入口のガラス戸を探す。一面ガラス張りの壁に目を滑らす中、奇妙な人影が視界に入った。
二度見してみればガラスの向こうに人がいた。その目は普通の日本人にはない輝きがある。
「妖精さん……」
八巻は思わず駆け寄った。ガラスに両手をつき、外国人風の人物に食い入る。明らかに青い瞳を持つ人だ。
青い瞳の人物は灰色のパンツスーツ姿の女性。鍔つきの黒い帽子を被っており、男性に見まごうほどの長身だ。その顔は八巻がかつて、夜中に起きる怪現象の正体をつかんだ時に見た顔とそっくりだ。意外にも肌が焼けていた。暗がりでは肌の色まで印象に残らなかったようだ。しかし美人にはちがいない。
スーツ姿の女性は無感情な面持ちだ。八巻がベッタリとガラスにへばりついても平然としていた。八巻と視線を合わせた途端、ぷいっと顔を背ける。女性はすたすたとロビーの方向へ進んでいった。八巻は手元のガラスをバンバン叩いてみたが、彼女はまったく振り返らない。
(追いかけなくては……!)
八巻は病棟への出入り口のガラス戸を見つけた。走る勢いのまま体当たりをかます。運悪く移動中の事務員にその乱暴な行為を目撃される。
「あぶないでしょう!」
中高年の職員にたしなめられてしまった。注意を受けるやり取りのうちに女性を見失う。
(この機会を逃がしてなるものか!)
八巻は駆けだす。だがそれもまた事務員の制止をかけられる行動だった。これ以上忠告されぬよう、逸る気持ちを抑えながら早歩きで移動した。
タグ:八巻
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2017年11月09日
拓馬篇前記−八巻2
八巻が事故に遭った後の約一か月間、夜中に異変が起きた。眠る八巻に何者かがぺたぺたと触ってくるのだ。触れる箇所はきまって顔。それ以外の箇所は触られても気付かなかったのかもしれない。当時の八巻は体のいたるところにギプスや包帯を巻いたミイラ男だったからだ。
寝込みをねらったいたずらは不定期に起きた。八巻は当初、宿直の看護師がちょっかいをかけている、と予想を立てた。年配の女性看護師に聞いてみたところ「そんなことをするはずないじゃありませんか」とにべもなく否定された。偉丈夫を自負する八巻はすこし傷ついたが、どうも本当らしかった。
受け答えの冷たい看護師は内面まで冷えておらず、八巻の予想を真摯に受け止めた。宿直を担当した看護師の勤務状況と事件当夜の日を照らし合わせ、これといって怪しい勤務者が浮かび上がらないことを証明した。誰が夜勤をしていようとも事件は発生したのだ。看護師たちの無実を知り、容疑者は医療関係者から外れた。
次に同じ入院患者が怪しくなる。しかし八巻のいる階は動きに制限のかかる者が多い。八巻と似たような重傷の者や、もはや寝たきりを強いられる者など。彼らが八巻の個室に侵入する可能性は低かった。
犯人の正体はつかめないが、ほかに明らかになることがあった。怪現象が起きたその翌朝は多くの入院患者がよく寝坊するのだ。というのも看護師は毎朝、患者の体温や血圧を測りに回る。その時に相対した患者の様子を見て「最近みんながだるそう」だと言った。反対に八巻は体調も怪我の具合も前日より良くなっていた。まるで周りの患者の元気を少しずつ分けてもらったかのように。
八巻一人が元気であることを、看護師たちは別段不審がらなかった。八巻は病院に搬送された時からすでに異常な回復力を見せつけていたのだ。たかだか朝の目覚めがよいくらいでは異常のうちに含まれなかったのだろう。
その頃の八巻は夜な夜な枕元に立つ存在をあきらかにしたくなった。両手が自由に動くようになると、腕の骨折が残る左手で懐中電灯を握り、布団に忍ばせた。腕自体が動かせる右手は相手を拘束するために空ける。そうして謎の人物の到来を待った。
患者が寝静まる夜、例によって何者かが八巻の頬に接触した。八巻はその手首をつかみ、灯りをつきつけると──女性の顔があった。鼻筋の通った、青い瞳の、端正な顔つき。年かさは八巻と同程度に見えた。八巻は瞬時に「美しい」と思い、今なお目に焼きついている。
女性の美顔をじっくりとは鑑賞できなかった。彼女は八巻の手を振りはらい、即座に闇に消えた。その時に走りさる足音はまったく鳴らなかった。女性は、ほんとうに消えたのだった。
幽霊か物の怪か──と常人なら不気味がるだろう。八巻はそれを「妖精さん」として歓迎した。おそらくは彼女が八巻の怪我の回復を早めてくれた。もしかすると事故直後の声もあの女性が発したのかもしれない。きっとあの時に瀕死の八巻に目をつけ、入院後も八巻の身体を労わってくれたのだ。
八巻はふたたび妖精さんが現れるのを心待ちにした。彼女の目的がなにか気になるし、八巻の推測通りに治癒してくれているのならお礼を言いたい。そしてあわよくば交際を申し込みたい。彼女の正体が人間でなかろうとも些末な問題のように感じられた。
八巻は本来、死んでいた人間である。こうして生き永らえた要因は非現実的な事象の恩恵を受けたからだ。ならば生あるかぎり、非現実に類するものを拒む正当性は無いと考えた。
自身の思いを理論立てて繕っても、率直なところ八巻は妖精さんにお熱である。その恋心に理屈は通じない。彼女が命の恩人だと見做したから湧きでた感情なのか、はたまた美人であったからか、と他人に聞かれれば八巻はこう答える。「両方だ」と。
八巻が好奇心を発揮した夜以降、彼女は現れなくなった。正体を見てしまったせいで、もう来てはくれないのだろうか。それとも、これ以上治癒の手助けをする必要なしと判断されたか。八巻はがっかりした。だが医者にあることを吹きこまれると、希望が持てた。
除去手術──体内に入れた金属を取り除く際、患部が傷つき、腫れて痛みをともなうことがある。その説明には「骨折が治ってもそれで完治ではありませんよ」という念押しの意図もあった。どちらかといえば脅し文句に相当する。しかし八巻は絶好の機会が残されてあるのだと歓喜した。その反応を見た医者は当惑していた。怪我人をよろこばせるセリフを吐いた覚えがなかったからだ。
手術後に彼女の再来を期待できる。八巻は入院中であっても骨が治った部位を端から施術してもらった。しかし妖精さんは出現しなかった。こたび再入院した目的の足の手術も、一縷の望みをかけてきたものの、結局ダメだったようだ。
(あれはただの、まぼろしだったのか……?)
怪我による日常生活の支障がなくなった現在、八巻は彼女との接点を失った。浮かれた情はむなしく砕ける。その事実を認めるのは寂しい。
だがトータルで考えればプラス面が多かった。この身と心は彼女に支えられ、完全再起を遂げるまでになった。叶わぬ慕情であっても、長く苦しい入院生活に色を添えたことはありがたい。それは数日前に訪問してくれた校長も同意見だ。
『たとえ幻想だったとしても、楽しみが増えるならすばらしいことじゃないか』
校長は腹の底からそう考える人物だ。校長の奥方はまさに、幻想を人々に提供する職に従事している。恋愛ものを専門とする作家だ。その作風への助力か単なる趣味かは知らないが、校長自身もそういった話には興味と造詣があった。
(もうそろそろ、本業に気持ちを入れるか)
妖精さんへの思いに決別する時がきた。八巻は深いため息を一つ吐く。彼女の記憶を頭のすみに追いやりながら、中庭の周回を続行する。今度は八巻が迷惑をかけた学校の者たちへ思いを馳せた。
寝込みをねらったいたずらは不定期に起きた。八巻は当初、宿直の看護師がちょっかいをかけている、と予想を立てた。年配の女性看護師に聞いてみたところ「そんなことをするはずないじゃありませんか」とにべもなく否定された。偉丈夫を自負する八巻はすこし傷ついたが、どうも本当らしかった。
受け答えの冷たい看護師は内面まで冷えておらず、八巻の予想を真摯に受け止めた。宿直を担当した看護師の勤務状況と事件当夜の日を照らし合わせ、これといって怪しい勤務者が浮かび上がらないことを証明した。誰が夜勤をしていようとも事件は発生したのだ。看護師たちの無実を知り、容疑者は医療関係者から外れた。
次に同じ入院患者が怪しくなる。しかし八巻のいる階は動きに制限のかかる者が多い。八巻と似たような重傷の者や、もはや寝たきりを強いられる者など。彼らが八巻の個室に侵入する可能性は低かった。
犯人の正体はつかめないが、ほかに明らかになることがあった。怪現象が起きたその翌朝は多くの入院患者がよく寝坊するのだ。というのも看護師は毎朝、患者の体温や血圧を測りに回る。その時に相対した患者の様子を見て「最近みんながだるそう」だと言った。反対に八巻は体調も怪我の具合も前日より良くなっていた。まるで周りの患者の元気を少しずつ分けてもらったかのように。
八巻一人が元気であることを、看護師たちは別段不審がらなかった。八巻は病院に搬送された時からすでに異常な回復力を見せつけていたのだ。たかだか朝の目覚めがよいくらいでは異常のうちに含まれなかったのだろう。
その頃の八巻は夜な夜な枕元に立つ存在をあきらかにしたくなった。両手が自由に動くようになると、腕の骨折が残る左手で懐中電灯を握り、布団に忍ばせた。腕自体が動かせる右手は相手を拘束するために空ける。そうして謎の人物の到来を待った。
患者が寝静まる夜、例によって何者かが八巻の頬に接触した。八巻はその手首をつかみ、灯りをつきつけると──女性の顔があった。鼻筋の通った、青い瞳の、端正な顔つき。年かさは八巻と同程度に見えた。八巻は瞬時に「美しい」と思い、今なお目に焼きついている。
女性の美顔をじっくりとは鑑賞できなかった。彼女は八巻の手を振りはらい、即座に闇に消えた。その時に走りさる足音はまったく鳴らなかった。女性は、ほんとうに消えたのだった。
幽霊か物の怪か──と常人なら不気味がるだろう。八巻はそれを「妖精さん」として歓迎した。おそらくは彼女が八巻の怪我の回復を早めてくれた。もしかすると事故直後の声もあの女性が発したのかもしれない。きっとあの時に瀕死の八巻に目をつけ、入院後も八巻の身体を労わってくれたのだ。
八巻はふたたび妖精さんが現れるのを心待ちにした。彼女の目的がなにか気になるし、八巻の推測通りに治癒してくれているのならお礼を言いたい。そしてあわよくば交際を申し込みたい。彼女の正体が人間でなかろうとも些末な問題のように感じられた。
八巻は本来、死んでいた人間である。こうして生き永らえた要因は非現実的な事象の恩恵を受けたからだ。ならば生あるかぎり、非現実に類するものを拒む正当性は無いと考えた。
自身の思いを理論立てて繕っても、率直なところ八巻は妖精さんにお熱である。その恋心に理屈は通じない。彼女が命の恩人だと見做したから湧きでた感情なのか、はたまた美人であったからか、と他人に聞かれれば八巻はこう答える。「両方だ」と。
八巻が好奇心を発揮した夜以降、彼女は現れなくなった。正体を見てしまったせいで、もう来てはくれないのだろうか。それとも、これ以上治癒の手助けをする必要なしと判断されたか。八巻はがっかりした。だが医者にあることを吹きこまれると、希望が持てた。
除去手術──体内に入れた金属を取り除く際、患部が傷つき、腫れて痛みをともなうことがある。その説明には「骨折が治ってもそれで完治ではありませんよ」という念押しの意図もあった。どちらかといえば脅し文句に相当する。しかし八巻は絶好の機会が残されてあるのだと歓喜した。その反応を見た医者は当惑していた。怪我人をよろこばせるセリフを吐いた覚えがなかったからだ。
手術後に彼女の再来を期待できる。八巻は入院中であっても骨が治った部位を端から施術してもらった。しかし妖精さんは出現しなかった。こたび再入院した目的の足の手術も、一縷の望みをかけてきたものの、結局ダメだったようだ。
(あれはただの、まぼろしだったのか……?)
怪我による日常生活の支障がなくなった現在、八巻は彼女との接点を失った。浮かれた情はむなしく砕ける。その事実を認めるのは寂しい。
だがトータルで考えればプラス面が多かった。この身と心は彼女に支えられ、完全再起を遂げるまでになった。叶わぬ慕情であっても、長く苦しい入院生活に色を添えたことはありがたい。それは数日前に訪問してくれた校長も同意見だ。
『たとえ幻想だったとしても、楽しみが増えるならすばらしいことじゃないか』
校長は腹の底からそう考える人物だ。校長の奥方はまさに、幻想を人々に提供する職に従事している。恋愛ものを専門とする作家だ。その作風への助力か単なる趣味かは知らないが、校長自身もそういった話には興味と造詣があった。
(もうそろそろ、本業に気持ちを入れるか)
妖精さんへの思いに決別する時がきた。八巻は深いため息を一つ吐く。彼女の記憶を頭のすみに追いやりながら、中庭の周回を続行する。今度は八巻が迷惑をかけた学校の者たちへ思いを馳せた。
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