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2017年11月06日

拓馬篇前記−実澄11

 実澄は青年に出会った時のことを娘に話した。ベランダから転落する少女を助けた、たくましい体つきの若者だったと。弱者の窮地を救ったヒーローだが、本人はその巨躯や怪力を良く思っていないことなども教えた。ヒーローものが好きな娘は「カッコいいね」と称賛する。
「なんだかヘラクレスみたい」
「ギリシャ神話の?」
「うん、赤ん坊のヘラクレスが蛇を絞め殺した話があるでしょ? あんなふうに、生まれつき英雄になる力を持った人かもね」
 青年が否定的だった能力を最大限にプラスに言い表している。実澄はそのポジティブさに感化される。
「今度会ったらそう言ってあげましょ」
「きっと悪い気はしないと思うよ。ヒーローは人気者だもん」
「ただ気負いしちゃわないかちょっと心配。英雄はたくさんの悪者と戦うんだもの、大変よね」
「うん、ヘラクレスの選んだ道はそうだよ」
 娘は児童書で学んだ英雄譚を語る。半神の勇者はみずからの意思で、困難ばかりだが後世に名声を残せる生き方を選択した。その時に彼が捨てさった生き方は、楽だがつまらない悪の道。その二種類の選択肢はそれぞれ女性の姿に具現化し、ヘラクレスの前に現れたという。
(銀くんは、簡単に割り切れる選択ができなさそうね……)
 青年が悩む行動とは、どれが正義だと断言できはしないだろう。あの心優しい青年が従いきれぬ指示を出す親がいる。その親のやり方はなにかが歪んでいるにちがいない。だが親の思いにそむけば不孝、あるいは不義不忠という別種の罪悪感を背負いこむことになる。
「でもヘラクレスもだらしなくてさー。勇者になる道を進むと決めたはいいけど、女の人とイチャイチャして子どもを三人こさえて。義母のヘラのせいで家族を死なせたのをきっかけに、やっとこ本格的な怪物退治をしていくんだよ。桃太郎だったら『鬼退治する』と宣言したあと、キビ団子が腐らないうちに仲間をゲットして、鬼が島に行ってるのにね」
 娘は西洋の勇者が本懐を遂げずに平穏にすごした期間を「鬼が島に何往復できるかわからないね」とからかった。実澄はその例えを不謹慎だと感じる。まだ名声を得ていない人物にも家庭を持つ自由はあるし、その幸福な家庭を失った反動によって唯一無比の勇者になれもしたのだと思ったからだ。このように考えた結果、実澄は娘とは別の解釈をする。
「……めぐまれた能力を持つ人だって、スムーズに事が運ぶわけじゃないんだわ」
 家族を失う大事件を乗り越え、神話の勇者は永遠の栄誉を獲得した。それほどの衝撃が銀髪の青年の身にも起きれば、彼は誰にも恥じることのない生き方へ転身できるのだろうか。
(だけど、それはとても辛いこと……)
 不運の英雄のように絶望の底から這い上がれたしても、そこから今までの労苦に見合う幸福を得られる保証はどこにもない。幸福が訪れなければ、ただ苦労を重ね続けた不幸な人になってしまう。その生き様は容易に他者へ望めるものではなかった。
「ところでお母さん、その新聞紙はなに?」
「え? これ、マグカップなの」
 実澄は胸に抱く新聞紙の包みを握った。包みごしに硬い陶器の感触がある。これがマグカップ作りの思い出だ。
「絵を描けるやつを、やってきたの?」
「そう。三人の合作で、三人分ね」
「へー、ちょうどよかったね。気になってたことがやれて」
 娘は母の欲求が満たされたことをよしとする。実澄はその意見を是としつつも、自分以外の者への利点を見いだす。
(ときどきこれを見て、思い出してくれるかしら)
 青年は今日の出来事を「勉強になった」と言っていた。そう悪くはない記憶になるだろう。この過去が、青年の苦しみをやわらげる糧となってほしい。そのように願った。
 長々と語らっていると自宅が見えてきた。娘が急に「今日のこと、オヤジにも話すの?」と尋ねた。実澄はその意味がよくわからない。
「言うけど、どうして?」
「いやさ、妻が若い男を連れまわしてたなんて、あらぬ誤解を受けそうじゃない?」
「バッカなこと気にするのね。小学生くらいの女の子付きよ?」
「まあそうなんだけど。話す時は女の子を優先的に出そうね。男の人のことだけしゃべったらオヤジはビックリするかもよ」
「それは『懐中時計の人』の話をした時のことを言ってるの?」
 娘は数日前、道端で見知らぬ背の高い男性と接触した。そのやり取りをその日の夕食時に話したら、夫が「お前も男を引っ掛けるようになったか」と揶揄したのだ。冗談だとわかっているとはいえ、娘は快く思っていない。
「カッコいいかどうかもよくわかんなかったのにさー」
「黒ずくめで、帽子を被ってて、大柄な人だったかしら? あら、それってもしかして──」
 よくよく娘の体験談を深めていくと、娘も実澄が会った青年と遭遇したのだとわかった。
「あらら、今日はじめてこの土地に来たみたいに言ってたのに、もう見学済みだったのね」
「回りきれなかったお店とか観光スポットがあったんでない?」
「そんなめぼしい場所がこのへんにかたまってるかしらね」
 実澄はほどよく田舎な地元を若干卑下しながら、青年との再会の希望があることを内心よろこんだ。
(好き勝手にしゃべっちゃったし、それでまずいことが起きてたらわたしが責任とらなきゃ)
 青年は自己表現が得意ではなさそうだった。かような人物には周囲の者の助けがきっと必要になる。実澄は今回、青年に与えた言葉が彼を救済する確信がない。うまくいかなければその都度修正を加えるべきだと考えた。
(会えた時のために、勉強しておこうかな)
 複雑な人間関係の対処法を説く書籍は世の中にごまんとある。手始めに家にある本を読んでみる目標を立て、実澄は灯りが煌々と光る自宅へ入った。

タグ:実澄
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