2017年10月29日
拓馬篇前記ー実澄7
実澄たちは一時間近く喫茶店で過ごした。店を出ると外は薄暗くなっていて、街灯がともりはじめる。雪は止みつつあったが寒さは増していた。
青年に抱えられたレイコは寒そうに体をちぢこめている。実澄が貸したニット帽子とマフラーだけではレイコの体、特に足は寒さをしのげない。実澄は少女を心配し、彼女が履く靴下をなでた。数分前に暖かい店内にいたというのに、温かさはもう感じない。
「アクセサリー作り、やめましょうか……お家の人が帰ってきてるかもしれないし」
実澄は自分で発した言葉によって、あらたな気がかりな点が浮き彫りになる。レイコの保護は実澄が勝手にやっていること。その旨を誰にも伝えていない。予定より早くレイコの保護者が帰宅した場合、いるはずの子どもが不在であれば慌てるに決まっている。その手落ちに今になって気付いた。レイコのいた部屋の玄関にでも書置きを残すべきだったのだ。
実澄が失態を感じているとは露知らず、レイコは「えー」と嫌がった。彼女はまだ遊んでいたいらしい。その思いを実澄はむげにしたくないのだが、一度マンションに戻らねば気が済まない。
「ミスミ、少しだけレイコを預かってほしい」
青年がいきなり実澄にレイコを差し出してきた。
「どこに行くにせよ、レイコのこの格好は良くないんだろう?」
「ええ、そうだけど……」
実澄は青年に言われるままにレイコを抱き上げた。ずっしりとした重さは何年も前に経験したものと似ている。子どもにすべてを託される責任と充実感が再来した。
(うれしい、けど……やっぱりキツい)
この状態を十数分と維持するのはやはり無理、と実澄は自身の非力さを痛感した。
身軽になった青年は黒いジャケットを脱いだ。もともと見えていた群青の半袖シャツの下に灰色の長袖インナーがのぞく。その格好は春か秋での適切な格好だ。
「この上着をレイコに着させよう。マフラーは足元にくるめば、なんとかならないか」
「でも、今度はあなたが──」
「寒いのは平気だ。この程度で参るようなヤワな体じゃない」
青年が着るインナーは彼のたくましい体のラインを浮き上がらせている。頑丈にはちがいないという説得力があった。
「うん……ありがとう」
実澄は青年にレイコを預けた。その際にマフラーを取る。レイコの体温が残るマフラーを、彼女の膝から下の部分に巻いた。ずり落ちないよう、膝に近いほうのマフラーの端を折り返す。
「レイコちゃん、寒くない?」
「うん、あったかい!」
黒の上着ですっぽり包まれたレイコが元気よく答える。急場の防寒対策はやり終えた。
「ね、お家の人がマンションにいるかどうか、一度見てみましょうよ」
「いたら、おわかれ?」
レイコは名残惜しそうにたずねる。実澄は不確実な可能性を挙げることにした。
「もし親御さんが『いいよ』と言ってくれたら、お店に行きましょ」
「おかあさんが……いうかなぁ」
「ところで、何時まで遊びにきたお家にいられるの?」
「おとまりするの。だからなんじでもいい」
「そう。だったらレイコちゃんのお母さん次第ね」
レイコは「むー」と不満げな声を鳴らす。どうも彼女の母親は実澄ほどゆるい人物ではないようだ。
三人は来た道をもどることに決めた。だが数歩進んだところで青年が足を止める。彼は後方を振りむく。
「あれは、レイコの知り合いか?」
ランニングをしているかのように走る女性がやって来た。だがその服装はとても運動用には見えない。動きにくそうな、裾の長いコートを羽織っている。
「銀くんはどうしてそう思ったの?」
「あの女性が『レイコ』と何度もつぶやいているように聞こえた」
それを聞いたレイコは「おかあさん?」と声を張り上げた。急いでいる女性が立ち止まり、「レイコ?」と聞き返す。
「レイコ! なんで部屋で待っていないの?」
女性が駆けてくる。実澄と青年の顔を交互に見て、「あなたたちは?」と不審そうに質問した。実澄はほがらかな笑顔をつくる。
「わたしたち、レイコちゃんを預かっていたんです。この子、マンションの部屋にもどれなくなっていて」
「どうして? あそこはオートロックもないのに」
女性は見るからに警戒心をあらわにする。実澄は喫茶店の店員が「人攫い」と疑ってきた苦い体験を髣髴した。経緯を説明しても信じてもらえなさそうな雰囲気の中、青年は「レイコがベランダから落ちた」と言う。
「野良猫を触ろうとして、ベランダの柵を渡った時に転落した。そこで私たちが保護した」
「猫? そんなはずない。あの部屋には飼い猫がいる! その子と遊びたいからレイコは出かけなかったのに」
「貴女がどう思おうとそれが事実だ」
青年の堂々とした態度を前にして、女性は威勢が削がれる。女性が「本当なの?」とレイコに聞いた。レイコはこっくりうなずく。
「ほんと。だって、あのおうちのネコちゃんはにげちゃうんだもん」
レイコがおびえたふうに答えた。女性は肩をいからせて「バカ!」と一喝する。
「だからってベランダに出ちゃダメでしょ! 危ないって言ったじゃない!」
くぅん、と犬のような悲しげな声をレイコが出した。
「電話をかけてもぜんぜん出ないから来てみたら! バカなことして他人様に迷惑かけてたの?」
「えぅ……」
レイコはいまにも泣きだしそうだ。実澄は女性の叱責をもっともだと思いながらも、その仲裁をする。
「それくらいで充分だと思いますよ。レイコちゃん、もう柵にはのぼらないよね?」
「……うん。しない」
「危ないこと、やらないもんね?」
「うん」
「うん、いい子」
実澄はレイコの頭をなでた。ニット帽子のてっぺんに付けた房がゆれる。レイコの母が「それ……」とつぶやく。
「あなたたちが、この子が寒くならないようにと、貸してたんですか?」
「ええ、そうです。ありあわせのものですけど」
レイコの母は上着を着ていない青年を見、頭を深く下げる。
「すいません! いろいろ娘によくしてもらったのに、疑ってかかったりして」
「いいんです、娘さんを大事に想ってのことだと思いますから」
「そう、でしょうか……?」
双方のわだかまりが解け、青年が「どうする」と実澄に問う。
「この場でレイコを引き渡すか? それとも私がマンションまで送るか」
レイコは「え……」と小さな抗議をした。実澄はレイコの母に少女の思いを伝える。
「あの、これから雑貨屋さんでレイコちゃんとアクセサリーを作る約束をしたんです。約束を守らせてもらってもいいでしょうか?」
レイコの母は戸惑う。娘に「したいの?」と聞くとレイコはひかえめにうなずく。
「ねえ、おねがい。もうミスミとおにいちゃんにあえないかもしれないから……」
レイコは声をふるわせつつ懇願した。レイコの母が深いため息をつく。
「そのお店、なんて名前で、どこにあるんです?」
「え?」
実澄とレイコの声が重なった。レイコの母がぽりぽりと頭をかく。
「あとで迎えに行きますよ。レイコの上着と靴を持って!」
恥ずかしそうにレイコの母が言い、レイコは「おかあさんだいすき!」と屈託なく答えた。
青年に抱えられたレイコは寒そうに体をちぢこめている。実澄が貸したニット帽子とマフラーだけではレイコの体、特に足は寒さをしのげない。実澄は少女を心配し、彼女が履く靴下をなでた。数分前に暖かい店内にいたというのに、温かさはもう感じない。
「アクセサリー作り、やめましょうか……お家の人が帰ってきてるかもしれないし」
実澄は自分で発した言葉によって、あらたな気がかりな点が浮き彫りになる。レイコの保護は実澄が勝手にやっていること。その旨を誰にも伝えていない。予定より早くレイコの保護者が帰宅した場合、いるはずの子どもが不在であれば慌てるに決まっている。その手落ちに今になって気付いた。レイコのいた部屋の玄関にでも書置きを残すべきだったのだ。
実澄が失態を感じているとは露知らず、レイコは「えー」と嫌がった。彼女はまだ遊んでいたいらしい。その思いを実澄はむげにしたくないのだが、一度マンションに戻らねば気が済まない。
「ミスミ、少しだけレイコを預かってほしい」
青年がいきなり実澄にレイコを差し出してきた。
「どこに行くにせよ、レイコのこの格好は良くないんだろう?」
「ええ、そうだけど……」
実澄は青年に言われるままにレイコを抱き上げた。ずっしりとした重さは何年も前に経験したものと似ている。子どもにすべてを託される責任と充実感が再来した。
(うれしい、けど……やっぱりキツい)
この状態を十数分と維持するのはやはり無理、と実澄は自身の非力さを痛感した。
身軽になった青年は黒いジャケットを脱いだ。もともと見えていた群青の半袖シャツの下に灰色の長袖インナーがのぞく。その格好は春か秋での適切な格好だ。
「この上着をレイコに着させよう。マフラーは足元にくるめば、なんとかならないか」
「でも、今度はあなたが──」
「寒いのは平気だ。この程度で参るようなヤワな体じゃない」
青年が着るインナーは彼のたくましい体のラインを浮き上がらせている。頑丈にはちがいないという説得力があった。
「うん……ありがとう」
実澄は青年にレイコを預けた。その際にマフラーを取る。レイコの体温が残るマフラーを、彼女の膝から下の部分に巻いた。ずり落ちないよう、膝に近いほうのマフラーの端を折り返す。
「レイコちゃん、寒くない?」
「うん、あったかい!」
黒の上着ですっぽり包まれたレイコが元気よく答える。急場の防寒対策はやり終えた。
「ね、お家の人がマンションにいるかどうか、一度見てみましょうよ」
「いたら、おわかれ?」
レイコは名残惜しそうにたずねる。実澄は不確実な可能性を挙げることにした。
「もし親御さんが『いいよ』と言ってくれたら、お店に行きましょ」
「おかあさんが……いうかなぁ」
「ところで、何時まで遊びにきたお家にいられるの?」
「おとまりするの。だからなんじでもいい」
「そう。だったらレイコちゃんのお母さん次第ね」
レイコは「むー」と不満げな声を鳴らす。どうも彼女の母親は実澄ほどゆるい人物ではないようだ。
三人は来た道をもどることに決めた。だが数歩進んだところで青年が足を止める。彼は後方を振りむく。
「あれは、レイコの知り合いか?」
ランニングをしているかのように走る女性がやって来た。だがその服装はとても運動用には見えない。動きにくそうな、裾の長いコートを羽織っている。
「銀くんはどうしてそう思ったの?」
「あの女性が『レイコ』と何度もつぶやいているように聞こえた」
それを聞いたレイコは「おかあさん?」と声を張り上げた。急いでいる女性が立ち止まり、「レイコ?」と聞き返す。
「レイコ! なんで部屋で待っていないの?」
女性が駆けてくる。実澄と青年の顔を交互に見て、「あなたたちは?」と不審そうに質問した。実澄はほがらかな笑顔をつくる。
「わたしたち、レイコちゃんを預かっていたんです。この子、マンションの部屋にもどれなくなっていて」
「どうして? あそこはオートロックもないのに」
女性は見るからに警戒心をあらわにする。実澄は喫茶店の店員が「人攫い」と疑ってきた苦い体験を髣髴した。経緯を説明しても信じてもらえなさそうな雰囲気の中、青年は「レイコがベランダから落ちた」と言う。
「野良猫を触ろうとして、ベランダの柵を渡った時に転落した。そこで私たちが保護した」
「猫? そんなはずない。あの部屋には飼い猫がいる! その子と遊びたいからレイコは出かけなかったのに」
「貴女がどう思おうとそれが事実だ」
青年の堂々とした態度を前にして、女性は威勢が削がれる。女性が「本当なの?」とレイコに聞いた。レイコはこっくりうなずく。
「ほんと。だって、あのおうちのネコちゃんはにげちゃうんだもん」
レイコがおびえたふうに答えた。女性は肩をいからせて「バカ!」と一喝する。
「だからってベランダに出ちゃダメでしょ! 危ないって言ったじゃない!」
くぅん、と犬のような悲しげな声をレイコが出した。
「電話をかけてもぜんぜん出ないから来てみたら! バカなことして他人様に迷惑かけてたの?」
「えぅ……」
レイコはいまにも泣きだしそうだ。実澄は女性の叱責をもっともだと思いながらも、その仲裁をする。
「それくらいで充分だと思いますよ。レイコちゃん、もう柵にはのぼらないよね?」
「……うん。しない」
「危ないこと、やらないもんね?」
「うん」
「うん、いい子」
実澄はレイコの頭をなでた。ニット帽子のてっぺんに付けた房がゆれる。レイコの母が「それ……」とつぶやく。
「あなたたちが、この子が寒くならないようにと、貸してたんですか?」
「ええ、そうです。ありあわせのものですけど」
レイコの母は上着を着ていない青年を見、頭を深く下げる。
「すいません! いろいろ娘によくしてもらったのに、疑ってかかったりして」
「いいんです、娘さんを大事に想ってのことだと思いますから」
「そう、でしょうか……?」
双方のわだかまりが解け、青年が「どうする」と実澄に問う。
「この場でレイコを引き渡すか? それとも私がマンションまで送るか」
レイコは「え……」と小さな抗議をした。実澄はレイコの母に少女の思いを伝える。
「あの、これから雑貨屋さんでレイコちゃんとアクセサリーを作る約束をしたんです。約束を守らせてもらってもいいでしょうか?」
レイコの母は戸惑う。娘に「したいの?」と聞くとレイコはひかえめにうなずく。
「ねえ、おねがい。もうミスミとおにいちゃんにあえないかもしれないから……」
レイコは声をふるわせつつ懇願した。レイコの母が深いため息をつく。
「そのお店、なんて名前で、どこにあるんです?」
「え?」
実澄とレイコの声が重なった。レイコの母がぽりぽりと頭をかく。
「あとで迎えに行きますよ。レイコの上着と靴を持って!」
恥ずかしそうにレイコの母が言い、レイコは「おかあさんだいすき!」と屈託なく答えた。
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