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2016年07月07日

第281回 築地署(一)






文●ツルシカズヒコ



 一九一九(大正八)年七月十七日、午後五時から京橋区南河岸(現・中央区八丁堀四丁目)の寄席・川崎家で「労働問題演説会」が開催された。

 この会は大杉ら北風会が企画し、各派に呼びかけた公開演説会だった。


 ……チラシには、「弁士、服部浜次、荒畑勝三、吉川守邦、岡千代彦、山川均、堺利彦、外数名」とあったが(大杉栄の名は警察に遠慮したのである)、これは旧社会主義団体の、大逆事件後最初の演説会ではなかっただろうか。

 ……社会主義者自身で演説会を主催したのはこれが最初だったように思う。

 いわば官憲の手のうちを見る瀬踏みでもあったのだ。

 警察は三人入場すれば解散だと豪語していたので、わざと時間を延ばし人の集まるのを待った。


(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p201~202)

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 その日、野枝は疲れていた。

「今夜はもううちに引っ込んでいる方がいいよ」

 大杉も出がけにそう言ったので、夕方まで家にいた。

 しかし、帰省する人を送らなければならない急用ができて、野枝は東京駅まで行った。

 大杉たちの会が解散されたら、同志たちは日比谷の服部浜次の家に引き上げることになっていることを聞いていた野枝は、「日比谷洋服店」に寄ってみることにした。

 服部浜次の家はひっそりしていた。

 大杉たちの会の様子もまだわからなかった。

 野枝は尾行に様子を見に行ってもらうことにした。





 服部浜次の妻と子供たちと一緒に日比谷公園をブラついて帰って来て、ひと休みしていると、服部浜次と堺利彦が引き上げて来た。

「どうでした?」

 野枝は服部浜次にすぐに聞いた。

「大杉君はやられちゃったよ。荒畑もその他にもまだあるようだ、どうもえらい騒ぎだったからな」

 服部浜次は顔をしかめながら上着を脱いだ。

「じゃあ、みんなあばれたんですね」

「なあにあばれるもあばれないもありやしねえ。大杉君と荒畑が表の縁台に突っ立っただけで、なんにもしねえうちに引っ張って行きやがった。なにしろすばらしい人なんだ。電車が止まっちゃったんだからね。あとまだだいぶゴタついたようだから、まだ引っ張られたろう」





 服部浜次と堺は三階に昇って行った。

 顛末を聞こうとする新聞記者たちがしきりに尋ねて来た。

 間もなく築地の方からポツポツと同志たちが引き上げて来た。

 ひとりふたりと帰るたびに検束された人々の数が増えていった。

 みんなの口から、野枝はひと通りの様子を聞き取ることができた。

『日録・大杉栄伝』によれば、参加者が八百名あまり、築地署から署員数十名が来て入場を拒み、二時間にわたって交渉し、七時にようやく入場することができるようになった。


 ……午後七時、ころはよしと司会者服部浜次氏が入場すると、開会を宣する前に中止解散だ。

「馬鹿! なぜ解散だ! 署長の責任ある説明をしろ!」と、大杉、荒畑、私が入口の踏み台に立ちあがって街頭演説をはじめると、あちらでもこちらでも乱闘、検束、人が渦をまく騒ぎになった。


(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p202)


『日録・大杉栄伝』によれば、配置していた三百名の警官が出動し、もみ合いになり、十六名が築地署に検束され、会場付近はその後も数時間にわたり混乱、聴衆の一隊が野次馬を加えて銀座から警視庁へ押し寄せてときの声を上げる一幕もあった。





 私もつかまって築地署へ行くと、留置場の喧騒は外まで聞こえて来る。

 わめくやら、箱枕で羽目板をたたくやら、ケンケンゴウゴウ、耳を聾するばかりだ。

 はいると大杉が私をつかまえて「オイ、きょうは多分やられるぞ! 暴れないでやられるのは馬鹿々々しい。トコトンやっちまえ!」といってニヤッとしている。

 いわれなくも分っている。

 第一おもしろくて堪らないのだ。

 そこへ野枝さんがはいって来た。

 急を聞いて差入れに来たんだが、警察では、ともかくあの騒ぎをとめてくれというのだそうだ。

 野枝さんは私に小声で、郷里へいい送ることがあるなら聞いて帰るといった。


(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p202)




★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)


★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 16:26| 本文

第280回 森戸辰男






文●ツルシカズヒコ


 一九一九(大正八)年五月二十三日、大杉が尾行巡査を殴打した。

 新聞はこう報じている。


 ……大杉栄(三五)が去る五月二十三日 千葉県東葛飾郡葛飾村字小栗原七 藤山山三郎方にて 船橋署の尾行巡査安藤清に退去を迫り応ぜずとて 同巡査を殴打し左唇内面口角下(さしんないめんこうかくか)に負傷せしめたる事件……

(「東京朝日新聞」1919年8月5日)

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 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、 尾行は長年つけられている大杉だが、船橋署の巡査は犯罪人のような扱いでうるさくつきまとい、近隣にも迷惑をかけていた。

 この日も他人の家の中に入り込んで、しつこく問いただしているので、出るように言ったが、反発するばかりなので、腹立ち紛れに殴ったのである。

 巡査は左唇の中を切って出血したが、たいした傷ではなく、大杉は自ら巡査とともに署へ行き、事実を述べて監視の作法について抗議した。

 傷害事件にはならず、これですんだはずだったが、二ヶ月後に警視庁により蒸し返されることになる。

 六月十八日、大杉一家は千葉県東葛飾郡葛飾村の「中山の家」を引き払い上京した。

 この日は小石川区指ヶ谷町九二番地の若林やよ(故・渡辺政太郎夫人)宅に宿泊し、翌日、本郷区駒込曙町十三番地に転居した。

「中山の家」を引き払ったのは、野枝の体調が回復せず、芝区三田四国町の奥山伸の病院(奥村医院)に通うことになったからである。

 多くの社会主義者が奥山伸の世話になった(伊藤野枝「拘禁される日の前後」解題)。





『日録・大杉栄伝』によれば、駒込曙町の家は茂木久平が借主だったが家賃滞納で十日に出ていった後を、同居の久板が預かっていた。

 大杉は久板から誘いを受け、ここに移り、茂木との話がついたら後を借りたいと申し入れた。

 しかし、六月末が立ち退き期限だとして、七月二日、家主の室田景辰から明け渡し訴訟を起こされることになる。

 室田は前警視庁消防部長だった。





 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、七月上旬、大杉は東京帝国大学経済学部助教授・森戸辰男と面談した。

 森戸が「クロポトキンの社会思想の研究」を執筆するにあたり、大杉に面談を懇請したのである。

 翌一九二〇(大正九)年、「クロポトキンの社会思想の研究」が東京帝国大学経済学部機関誌『経済学研究』に掲載されたことによって、森戸事件が起きることになる。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、面談したふたりは初対面ではあるが互いに共鳴し合い、その後も森戸はクロポトキンの作品について「教えを乞いたい」と言ってきてふたりは二、三度会い、監獄生活のことも共通の話題として意気投合し、思想を語り合える仲として認め合ったという。

 森戸辰男「大杉栄君の追憶」(『改造』一九二四年四月号)には、「研究上のことで生前両三回の面識をしか
持ち得なかつた私」とある。





「今日はどうかすると危ないよ。そのつもりでおいで」

 七月十五日、朝の寝床の中で目を覚ますとすぐ、大杉が言った。

 伊藤野枝「拘束される日の前後」解題、『日録・大杉栄伝』によれば、その日は神田区美土代町の東京基督教青年会館で日本労働連合会の発会式をかねた演説会が開催されることになっていた。

 大会は午後六時に始まり、会衆約千人、大杉らは北風会の例会を中止して二十数名で押しかけた。

「いよいよ今日ですのね」

「ああ、たいてい大丈夫なつもりだがね、どうかするとわからない。しかし、引っ張られたところで、ひと晩とか、たかだか治安警察法違反というところで二、三ヶ月くらいなものさ」

「二、三ヶ月なら願ってもない幸いでしょう」

「当分、本が読めるだけでもありがたいな」

 大杉は早い夕食をすませて出かけた。

 野枝も一緒に出て日比谷の服部浜次の「日比谷洋服店」で用をすませて待機することにした。

「うまく入れますか」

 入場券がないと会場に入れないというような話なので、野枝は電車の中でそう言った。

「なあに、なんとしてでも入れるよ」

 大杉はすまして会場の入口に近づいて行った。





 其の晩の会場でさう大した騒ぎがあらうとはもとより私は思つてゐなかつた。

 しかし、労働者が、「労働と資本の調和」と云ふやうな事で、大切な自分達の生活の改善の為めに働かうとする意志を、うまく誤魔化されたり眩(くら)まされたりするのをだまつて、見てゐることの出来ないOをはじめ多勢の同志と、さう云ふ所謂(いわゆる)「危険思想」を持つ者にはテンから一行の文章も発表させまい一と口の差し出口もきかせてならないと云ふ政府の旨をふくんだ会場を警戒する警察官の間に、何んにも事なく済むと云ふ事もまた私には想像されなかつた。

 よし治安警察法の適用すら出来ない程度の事であつても、即ち彼等の「あいつ等は騒ぐかもしれない」と云ふ予想だけでも、警察の留置場に一と晩ぐらい拘禁するのは容易(たやす)い事なのだから、無事に帰つて来ると云ふ事は殆んど想像されない事だつた。


(「拘禁される日の前後」/『新小説』1919年9月号・第24年第9号/「拘禁されるまで」の表題で『悪戯』/「拘禁されるまで」の表題で大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/「拘禁される日の前後」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p86)





 野枝はあまり機嫌のよくない魔子をだましだまし、長い時を一時間、二時間と消していった。

 九時近くになると、野枝は誰か様子を知らせに来るかもしれないと思って、「日比谷洋服店」の門口に立って心待ちに待ちながら、絶えず後ろの電話の鈴(りん)にも注意をしていた。

 十時が過ぎた。

 無事には戻れまい、いやこの時間までなんの沙汰もないのを見ると無事にすんだのかもしれない……。

 野枝の気持ちは落ちつかなかった。

 野枝は外に出て、子供を眠らせるために、できるだけ静かな足取りで歩き出した。

 花月食堂の前を電車通りの方に歩いて行くと、宙を飛ぶように駆けて来るふたりの男の姿が野枝の目に留った。

 三、四ぐらいのところまでふたりが近づいて来たのを見ると、ひとりは近藤憲二で、もうひとりは野枝の知らない若者だった。





「近藤さん!近藤さん!」

 野枝のそばをすり抜けて走って行く近藤に、続けざまに彼女が呼びかけると、近藤の足が止まった。

「おう」

 近藤は引き返しながら、

「誰も来ませんか? まだーー」

 息をきらせながら問いかけた。

「いいえ、誰も来ませんよ。どうしたんです?」

「やられましたよ、大杉さんがーー」

「そうですか、他には? 服部さんは?」

「他にはやられないようです。服部さんはやられるようなことはないと思うんですがね」

「会は?」

「解散です。見事にブッ壊れですよ」

「大杉は騒いだんですか?」

「何にも騒ぎはしませんよ、ただ演壇に飛び上っただけです」

 野枝たちはいろいろと差し入れの準備をして、すぐに錦町署に向かった。

 しかし、大杉はすぐに帰された。



★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★大杉栄・伊藤野枝らの共著『悪戯』(アルス・1921年3月1日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 16:16| 本文

2016年07月06日

第279回 トスキナ(二)






文●ツルシカズヒコ




 ピアノ独奏の沢田柳吉はベートーヴェンの「ムーンライト・ソナタ」(月光曲)を弾いた。

 沢田は天才と称され、当時ショパンを弾くピアニストは楽壇では彼一人だと言われていた。

 清水金太郎、山田耕筰、竹内平吉は東京音楽学校の同期生である。

 天才だったが、酒好きでズボラで酔っぱらいのピアニストでもあった。

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『高田保著作集 第二巻』によれば、問題が起きたのは、沢田のピアノ独奏「ムーンライト・ソナタ」の初日の演奏が終わったときだった。

「タキシードなどとは民衆を侮蔑するものだ」

 という意見が楽屋からもち上がったのである。

 あれは貴族の服装である、浅草は貴族入ルベカラズの聖天地である、民衆の服をもってせよというわけだ。

 翌日、沢田は着流しで舞台に現われた。

 幕が上ると、上手から飄々とした痩身の沢田がよれよれの袷一枚、よれよれの兵児帯を締め、それも結びっきりに結んだ端をだらしなく下げた格好で現われて、舞台中央にでんと置かれている黒光りするグランド・ピアノの前に座った。

 タキシードのときは正面客席に向かって慇懃に頭を下げたが、それも貴族社会の幇間の風習だというのでやめてしまい、いきなりピアノの前に腰をかけた。

 しゃんと構えて鍵盤を叩き始めたが、格好が格好なので見物たちはきょとんと眺めているしかなかった。

 察しのいい連中は、あれはピアノの調子を直しているのだろう、やがて出て来る演奏者を待っていた。

 しかし、そのうちに沢田は立ち上がり、黙って引っ込み、幕が静かに下りた。

 見物は呆気にとられるばかりで、怒鳴る気にもならなかった。





 三日目、ただの着流しではというので、沢田は大道具方の半纏を羽織って演奏した。

 こんどは見物から弥次りとばされた。

 すると沢田はピアノも弾かずに客席に向ってただ一言「バカヤロウ」と怒鳴って引込んでしまった。

 沢田のこの態度を松本克平は、こう評している。


 官学出の沢田があえて浅草へ出てショパンやベートーヴェンをしかも浴衣がけやハッピ姿で弾いたのも、初めはオーソドックスな音楽の大衆化という沢田なりの意図があってのことが窺われるのである。

(松本克平『日本新劇史ーー新劇貧乏物語』)





 この沢田の「バカヤロウ事件」のときの観音劇場の最終演目が『トスキナア』である。

 スリを官許にするという奇想天外なオペレッタ(喜歌劇)である。


合唱

  ソワ、ソワ、誰だ

  ソワ、ソワ、誰だ

トスキナ独唱

  それが泥棒、それが泥棒

  黒いマントに赤い帽子

  服は紫

合唱

  それを見れば判る。それを見れば判る

  直に判るよ。

赤い帽子に黒いマント、紫の服を来たトスキナと称する怪青年がソロを唱いながら舞台の中央に現れる。

  私は官許のスリで赤い帽子に黒いマントは
  
  ご規則通りの制服でございます。

  みなさんお気をつけて下さいよ。

  わたしは免許のスリですよ。

 これが浅草オペレッタの傑作と今なお伝えられている『トスキナア』(二幕)のプロローグである。

 その中に『トスキナの歌』というのがあって、当時のファンにはよく愛誦された。

  島へおいで、島へおいで、

  島は平和だ、

  喧嘩なんかすこしも

  ありませんから……

 それは支配することもされることも嫌うアナーキストの夢をうたったものであった。


(松本克平『日本新劇史ーー新劇貧乏物語』)





 佐藤春夫、谷崎潤一郎、芥川龍之介、武林無想庵、今東光、尾崎士郎、添田唖蝉坊らが応援に駆けつけ、大杉、野枝、近藤憲二、宮嶋資夫らの本物のアナーキストも入れ替わり立ち替わり声援に来ていたという。

 野枝は舞台上の辻を観たのだろうか。

 観たとしたらどの演目だったのだろうか。

 楽屋に行って二言三言、言葉を交わしたかもしれない。

 まったくふたりの関係は断絶していたかもしれない。

 ところで、七十年後の一九八九(昭和六十四・平成元)年、日本はバブルの絶頂期を迎えることになる。

 浅草オペラ全盛期とバブル絶頂期、自棄(やけ)糞なアナーキーなアトモスフェアーがどこか似ているかもしれない。


★『高田保著作集 第二巻』(創元社 ・1953年1月1日)

★松本克平『日本新劇史ーー新劇貧乏物語』(筑摩書房・1966年1月1日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 13:26| 本文

第278回 トスキナ(一)






文●ツルシカズヒコ


 一九一九(大正八)年は浅草オペラオペレッタの全盛期であった。

 観音劇場でオペレッタ『トスキナア』が上演されたのは、この年の五月だった。

「トスキナア」とは「アナキスト」の逆さ読みであるが、プログラムや台本には検閲に引っかからないように「トスキナ」と刷った。

 作は獏与太平(ばく-よたへい)、作曲は竹内平吉、装置は小生夢坊(こいけ-むぼう)。

 浅草の伝法院の裏にあったカフェー・パウリスタ、その二番テーブルは獏与太平の「指定席」であり、そこは獏の仲間たちの溜まり場だった。

 その溜まり場に居合わせた獏、竹内、小生、沢田柳吉、辻潤、佐藤惣之助らの雑談から生まれた企画が「トスキナア」だった。

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 そもそも観音劇場の楽屋が「トスキナア」なのであった。

 松本克平『日本新劇史ーー新劇貧乏物語』によれば、観音劇場の楽屋口には「犬猫刑事ノ類入ルベカラズ」という貼札が掲げてあったという。

「犬」とは官憲のスパイのことである。

 これを発見した象潟署の刑事が怒鳴り込んで来た。

 対応した者はその場は一応、恐縮して書き改めることにしたが、翌日になると新しい貼札が掲げられた。

「刑事犬猫ノ類入ルベカラズ、これを犯すものは頭の上から水をぶっ掛けられるべしーー獏与太平」

 堂々と署名までしてあった。


 文芸部の小生夢坊、獏与太平、伊庭孝、辻潤などはいずれもかつて注意人物とされたことのある面面である。

 その楽屋へは佐藤春夫、谷崎潤一郎、芥川龍之介、武林無想庵今東光……はじめいろいろの詩人や作家がよく遊びに来たばかりでなく、近藤憲二、大杉栄、宮嶋資夫といった戦闘的なアナーキストまで時々顔を見せていたのである。

 これらの危険人物の行動を内偵するため、また交遊する連中の動静を探るために警察はしばしば探索にきたり、スパイをもぐり込ませていたのだった。

 犬猫刑事とはそのスパイに対するウイットに富んだ挑戦であったわけである。


(松本克平『日本新劇史ーー新劇貧乏物語』)





 このころ野枝も浅草に足を運んでいたようで、小生夢坊は大杉と野枝のカップルをこう書いている。


 アマカスに虐殺された大杉栄、伊藤野枝が、いとも仲よく(若し二人にして一人が欠けたら反射鏡のない顕微鏡のやうなものだつたらう?)時に私のシヤツポとマントを野枝さんがかむつたり着たりして、十二階裏から吉原の仲の町と流れ歩いたつけが、演歌を真似て唄つてゐるうちにそれがいつの間にか革命歌に変つたりして冬の夜を驚ろかしたりしたものよ。

(小生夢坊『浅草三重奏』)


 大杉は金龍館の楽屋にも出入りしていた。


 大杉はときどきてん屋ものを金龍館の三階に届けさせる。

 それを女たちと食べるから三、四人前だったりもする。

 文無しのくせに、と思う高田らを意に介するでもない。

「カネは下で待ってる人から受けとってくれたまえ」

 下で待ってる人といえば、楽屋口で待機している刑事しかいない。


(岡村青『ブラリ浅草青春譜ーー高田保劇作家への道ーー』)





『トスキナア』は五月に二度、小屋にかかった。

 第一回公演は五月六日から一週間、第二回公演は五月十四日から一週間。

 二公演とも最終演目が『トスキナア』で、前座として文士劇や沢田柳吉のピアノ独奏がプログラムに組まれていた。

 文士劇は第一回公演がシング『谷間の影』、第二回公演がゴーリキー『どん底』だった。


 第一回公演の『谷間の影』のプロローグとして辻潤作の表現派ふうの詩劇『虚無』をやった。


 幕が明いても舞台は暗黒であった。

 登場人物はみんな目だけ出した黒ずくめの衣裳を着ていた。

 瀬川つる子の淫蕩な女という役が「ええ、妾の心臓は薔薇色よ」と言う。

 俺は天上の反逆者だ。

 俺は数学から生まれた何とかだと誰かが怒鳴る。

 最後に作者の辻潤が黒衣でとび出してきて、「一切は虚無だ」と怒鳴ると幕という迷作であった。

 全然難解で何が何やらわからなかった。

 だがそれは本邦はじめてのダダイストの詩劇であったという。


(松本克平『日本新劇史-新劇貧乏物語』)





『谷間の影』では辻潤は放浪者の役をやった。


 佐藤惣之助の老人が寝床の中で死んでいる。

 山路千枝子の若い女房が泣いていると辻潤の放浪者が「おかみさん今晩は!」と入ってくる。

 二人は妙に仲良くなって、女房が山の向うの叔母のところへ行ってくると言って出て行くと、放浪者が針仕事をしながら歌を唄う。

 辻潤御自慢の独唱である。


(松本克平『日本新劇史-新劇貧乏物語』)


『どん底』には木村時子竹内鶴子、あるいは谷崎潤一郎作『鮫人』のモデルと言われている林初子など本職の女優が三十人も出演したが、本職は脇役にまわり、文士や詩人が主要な役をやるのが狙いだった。

 夜でも昼でも

 牢屋は暗い

 ……………

 恐ろしく汚いルパシカやボロを着て、ヒゲをボウボウ生やしドーランをぬたくった連中が、所かまわず歌いまくっていた。

『どん底』は三幕目に入っていた。

 男爵が詩人の佐藤惣之助、サチンが同じく詩人の陶山篤太郎、役者が天才ピアニストの沢田柳吉、奇声を発する錠前屋が辛辣な風刺随筆家であり表現派画家の小生夢坊、ナターシャが山路千枝子、ナースチャが瀬川つる子である。

 文士連は調子外れの声で勝手に歌いまくる、セリフは甲高い声でわめきちらしたり、ボソボソとつぶやくばかりだった、てんでんバラバラの勝手放題……。

 文士劇はとうてい入場料を取れるものではなかったが、役者たちはいい気分だった。





 どうだい……すばらしい雰囲気が出たじゃないかッ!

 雰囲気、アトモスフェアーというのがそのころの合言葉であった。

 スッカリ自分たちのアトモスフェアーにひたっていたが、舞台の演劇的効果はお話にならなかった。

 むしろ楽屋の方が『どん底』の雰囲気そのものであった。

 マチネーのメーキャップをするとそのまま夜までずうっと役の気分にひたってうっとりしていた。

 誰かが下らないことを言うと、

 おいッ! 日本人みないなことをいうなッ!

 と怒鳴りつけられた。

 つまりロシア人になりきったつもりでクロポトキンやバクーニンを論んじていたのである。

 みんながみんな人生を語り真実について論じ合っていたのだった。

 ロシアで暮しているようだな、これでウオッカさへあればねえ。

 そしてみんなウオッカの代りにショウチュウを飲んだ。

 夜の芝居もすんで、皆が自前の姿に戻る時になっても、巡礼ルカに扮した役者だけがそのままの姿で相変らず気分にひたっていた。

 誰かがうながすとルカは物倦(う)そうに言った。

 今夜はもう、辻潤に扮するのなんか俺は厭だよ!

 そしてハゲた鬘をとり顎ヒゲを外し、ワセリンを塗って傍の汚い布でつるりと拭ったその顔はまごうかたなきダダイストの辻潤であった。


(松本克平『日本新劇史-新劇貧乏物語』)



★松本克平『日本新劇史ーー新劇貧乏物語』(筑摩書房・1966年1月1日)

★小生夢坊『浅草三重奏』(駿南社・1932年)

★岡村青『ブラリ浅草青春譜ーー高田保劇作家への道ーー』(筑波書林・1997年7月1日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年07月05日

第277回 演説もらい






文●ツルシカズヒコ




 一九一九(大正八)年初頭のころから、北風会のメンバーは「演説もらい」を精力的にやり始めた。

 翌年に北風会に参加する詩人・岡本潤が「演説もらい」に言及している。


 そのころ、いわゆる大杉一派のアナーキストたちは「演説会乗っ取り」という戦法をよくつかっていた。

 他で主催する演説会へ押しかけていって、聴衆のなかへもぐりこみ、反動的な演説に対して猛烈な弥次をとばしたり、機をみて演壇へ駆けあがって反対演説をぶったり、各所でいっせいにビラをまいたりして、会場を混乱におとしいれるのである。


(岡本潤『詩人の運命』)

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 和田久太郎は「演説もらい」の意図するところを、こう書いている(要約)。


「演説会貰いは北風会の戦術、宣伝方法だ。演説の短評を猛烈にやり、いわゆる労働運動指導者の面皮を剥ぐ。労働運動をエライ人に指導してもらわねば出来ないと思い込んでいる労働者に、労働者自身の力を意識させる。かつ公開の禁じられている僕等の意見を発表する。弁士に迫り、演壇を乗っ取る場合もある。僕等には公開演説が許されないのだから、それに僕等は文なしだ」
(「集会の記」『労働運動』二一・二・十)


(大杉豊『日録・大杉栄伝』)





 大杉によれば、「演説もらい」は逮捕や下獄を覚悟しての戦術だった。


 春頃からの労働運動の勃興以来、僕等の同志の労働運動同盟(当時は北風会と云つた)は、殆んど連日連夜何処かしらに開かれる労働団体の演説会を利用して、僕等一流の宣伝運動を試みた。

 そして其の度に新聞は、『大杉一派』云々の初号か一号かの大みだしで、其のあばれ方をプロパガンダしてくれた。

 尤も僕等は、其の前年の米騒動の時から、いつやられるか知れんと覚悟はしてゐた。

 お上の鼻いきが急にあらくなつて来たのだ。

 が、戦後の労働運動の勃興を予期し且つ準備してゐた僕等には、其の鼻いきに遠慮することは出来なかつた。

 僕等は毎日、今日はやられるか、明日はやられるかと、時としては手拭やハガキまで用意して駈けづり廻つた。


(「新獄中記」/一九二〇年八月執筆/大杉栄・望月桂『漫文漫画』/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)


 大杉が「戦後」と言っているのは、もちろん第一次世界大戦のことであり、当時は「欧州大戦」などと呼んでいた。





 近藤憲二は、こう回想している。


 当時、日本の労働運動は社会情勢の波に乗って画時代的勃興をみ、労働組合は続々として発生し、労働問題の演説会は連日各所に開催された。

 しかしその多くは労働ブローカーの跳躍であり、御用学者の労資協調的ゴマ化し演説であった。

 毎週土曜日に集合して労働運動の闘士養成所の観を呈していた北風会は、それらのまやかし屋どもの演説会を片っぱしから打ちこわした。

 長い間、言論の自由をまったく奪われていたウッ憤がこれを機会にほと走ったのである。

 筆者もこの北風会の一員であったが、今なお遠慮なく断言することができる、北風会のこの時期に際しての運動は、日本の労働運動を戦闘化し、労使協調への堕落を防ぐうえに一つの功績を残したものである。


(近藤憲二『私の見た日本アナキズム運動史』)





「演説もらい」の標的になったのは、友愛会などの労使協調的な演説会だったが、友愛会会長の鈴木文治が大杉や「演説もらい」を評価しているコメントを残しているのがおもしろい。


 大杉君は、ただ理論で労働者を率いていただけでなく、そのなりふりや性格ーー世事を気にせず、明るく世間ばなれした趣があり、あっさりしていて、名誉、利益などに執着せず、純情で、情熱的で、生一本なーーで同君に接近していった多くの労働者を引き付けていたようである。

 同君は、そのころよく、同じ考えの一味を引き連れては、例の筒そでの和服の着流しなどで、いろいろな労働者の集会に顔を出し、野次やその他の方法で、満座の空気をざわつかせていた。

 無政府主義者に、ほとんど言論の自由の認められなかった当時としては、これもまた、かなり有力な宣伝方法であった。


(鈴木文治『労働運動二十年』現代文訳版・「労働運動二十年 」刊行委員会・一九八五年九月)





 北風会が「演説もらい」という戦術をとったのは、官憲の圧力によって自分たちの運動を自前でプロパガンダできなかったための苦肉の策ではあったが、大杉は「演説もらい」にまた別の意義を見出していた。

 大杉は演説会には、現代でいう「双方向」性が必要だという発想を持っていたのである。


 長せりふは昔の芝居の特徴で、新しい芝居では短かい対話が続く。

 人間の長話を黙つて聞いてゐるのは……上の階級の人に対してだけだ。

 同じ階級の人の間では、長せりふがなくなつて、短い対話が続く。

 長い独白から短かい対話へ、これが会話の進化だ、

 人間の進化だ。

 ……学校でも演説会でもさうだが、講壇や演壇の上の人は一人で長い独白を続けて下の人々に教へる。

 下の人々を導く。

 しかし人間がだん/\発意を重んずるようになると、其の長い独白がちよいちよい聴衆の質問や反駁に出遭つて中断される。

 そして遂には、謂はゆる講義や演説が壇上の人と壇下の人々との対話になつて、一種の討論会が現出する。

 演説会は討論会ぢやないと云ふ。

 又さうなつては会場の秩序が保てないと云ふ。

 そして弁士の演説に一言二言の批評を加へる僕等を、その演説会の妨害か打ち毀しかに来たものと考へ、警察官と主催者と聴衆とが一緒になつて騒ぎ出す。

 馬鹿なことだ。


(「新秩序の創造」/『労働運動』1920年6月号・1次6号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第二巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第6巻』)





 四月二十三日、大杉一家は千葉県東葛飾郡葛飾村小栗原一〇番地、斎藤仁方に移転した。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、現在の船橋市中山で総武線下総中山駅の近くで、「中山の家」と呼んだ。

 引っ越したのは、北豊島郡滝野川町西ヶ原の家の家賃が滞納して追い立てをくったのと、野枝が病気がちだったので空気のよいところに転地するためだった。

 橘あやめとその子の宗一も同居、飼い犬の茶ア公も連れてきたようだが、山羊は手放したと思われる。





★岡本潤『詩人の運命』(立風書房・1974年)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★大杉栄・望月桂 『漫文漫画』(アルス所収・1922年11月)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『大杉栄全集 第13巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★近藤憲二『私の見た日本アナキズム運動史』(麦社・1969年6月)

★鈴木文治『労働運動二十年』現代文訳版(「労働運動二十年 」刊行委員会・1985年9月)

★『大杉栄全集 第二巻』(大杉栄全集刊行会・1926年5月18日)

★『大杉栄全集 第6巻』(日本図書センター・1995年1月25日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年07月04日

第276回 おうら山吹






文●ツルシカズヒコ


  一九一九(大正八)年三月五日、久板が満期出獄し、大杉&野枝の家に帰って来た。

 このころ、大杉は黒瀬春吉が設けた「労働問題引受所」の顧問を引き受けるが、結局、大杉はその顧問を辞退した。

 しかし、大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、このころ大杉は黒瀬などとの関係を通じて、浅草オペラの楽屋に出入りするようになったという。

 浅草十二階下にあった黒瀬の店「グリル茶目」は、伊庭孝、沢田柳吉、石井漠などオペラ関係者の溜まり場になっていたし、黒瀬と親交が深かった辻潤も常連だった。

「グリル茶目」の二階に六畳敷きほどの一室があり、隣家との間を隔てている壁が酔客の落書きの場になっていた。

 黒瀬がそう仕向けていたと思われるが、思い思いの名文句とサインが書きなぐられていたという。

 大杉の同志例会である北風会のメンバーである中村還一が、この落書きされた壁の真ん中の空いたスペースに書かれた、あるひとかたまりの文字を読み取り、その文字が目の底に灼きついたという。

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 お前とならばどこまでも 栄

 市ヶ谷断頭台の上までも 野枝

 おうら山吹の至りにぞんじそろ 潤


 もちろん黒瀬の演出であったことが想像できる。

 大杉と野枝が立ち寄ったおりに書かせておき、後日辻が飲みに来たとき、頃合いに酔わせて筆をとらせたものであろう。

 文句の配列は植字の煩わしさを考慮して変えてある。

 実物は大杉と野枝との行間に多少の空白があったところへ、割り込んで辻が書いていた。

 しかし列べて書かず、三字分くらい下げて書いたのはどういう心理によるのか謎のままになってしまった。

 書かれたのは大正六年と想定される。

 一見しただけでは大杉と野枝とで辻をからかっているように受けとられるが、ふたりはそれを書いたとき辻の書くのを予想できなかったはずだし、大杉もそれほど粗野暴慢な人物ではなかった。

 むしろ日蔭の茶屋事件以来ふたりに集中した世間の悪意に対し、尻をまくってみせるというほどの気持ちで書いた文句であろう。

 それは辻にもわかったはずだ。

 受けとめ方がいかにも辻らしいではないか。


(中村還一「スチルナーと日本の思想風土」/『辻潤著作集 別巻』)





 関東大震災後、中村が黒瀬に会って例の壁の保存計画はどうなったかと尋ねると、経師屋(きょうじや)を頼んで壁紙を剥がすのはうまくいったが、震災で失ってしまったという。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、四月三日、北豊島郡滝野川町西ヶ原の大杉宅に同志二十数名が集まり、観桜会が催された。

 花見の会だから運動などの話は抜きで、浪花節、都々逸、物真似などを演じ大いに飲食したという。

 野枝も三味線をつま弾きながら、得意の端唄や歌沢を披露したかもしれない。

 午後三時ころ、大杉宅を出た十七、八名は浅葱色の地に赤い布で「AW」と縫いつけた二尺四方ほどの旗を押し立てて飛鳥山に行き、革命歌を歌ったり演説の真似などをして気焔を上げ、午後六時ころ大杉宅に引き上げた。

 引き上げた一同は、私服警官に殴打された者がいたことへの憤りが再燃し、大杉を先頭に十三、四名が王子警察署へ押しかけて抗議をした。





 岩佐作太郎が大杉宅を訪問したのは四月十二日ころだった。

 大杉の同志会である北風会に参加することになった岩佐は、こう回想している。


 大杉君はかなり大きな二階家に住んでいた。

 庭の空地には山羊が一匹遊んでおり、犬さえ飼っていた。

 立派な体格の青年が犬とふざけていた。

 家の中にも二、三青年がいた。

 大杉君は二階に案内して、野枝女史を紹介してくれた。

(岩佐作太郎「私の思い出」『アナキストクラブ』五二・一)


(大杉豊『日録・大杉栄伝』)


「立派な体格の青年」とは、吉田一(はじめ)のことだろうか。


南天堂




★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『辻潤著作集 別巻』(オリオン出版社・1970年)





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第275回 婦人参政権






文●ツルシカズヒコ




 一九一九(大正八)年当時の日本の衆議院議員選挙は制限選挙であった。

 一八八九(明治二十二)年の衆議院議員選挙法では、満二十五歳以上の男子で直接国税15円以上を納めている者に選挙権の資格が与えられ、満三十歳以上の男子で直接国税15円以上を納めている者に被選挙権の資格が与えられていた。

 一九〇〇(明治三十三)年になり、選挙権、被選挙権ともに他の条件は変わらず、直接国税納入額が十円以上に改められた。

 普通選挙運動が高揚した一九一九年六月には、直接国税納入額が三円以上に改められたが、女子は依然として対象外だった。

 そもそも女子は政治に関与することを禁止されていた。

 すなわち、治安警察法五条一項で女性の結社権(政党加入の権利)、二項で集会の自由(政治演説会に参加ないし主催する自由)を禁止していた。

 ちなみに諸外国の「女性参政権の獲得年代」を見ると、一九一九年時点で女性参政権があった国は、ソ連、カナダ、ドイツなどである。

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 そうした時代の趨勢の中で、婦人の参政権を要求したのが与謝野晶子だったが、野枝は『新公論』三月号に「参政権獲得是非ーー与謝野晶子氏に問ふ」を寄稿した。


 二三日前の各新聞紙で見ますと、与謝野晶子氏が、真先きに、普通選挙運動と共に婦人参政権を要求されたと云ふ事は報道されてあります。

 ……至極当然な事だと云へませう。

 その点では私はこれに賛成してもいゝと思ひます。

 しかし乍(なが)ら……。

 ……与謝野氏その人さへも、治安警察法の前には半人前しかない女としてその演説会に出席する自由さへ持たないのです。

 しかし……その不当と不自由を痛感してゐる婦人が果して幾人ありませうか、私は与謝野氏程の聡明さを持つた婦人が先づ十指にも満たないと等しく、此の不自由と不当を感じてゐる人も恐らくは十指には満つまいと思ふものであります。


(「参政権獲得是非ーー与謝野晶子氏に問ふ」/『新公論』1919年3月号・第34巻第3号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p71)





 以下、野枝が言わんとするポイントを挙げてみた。

 ●現在の日本婦人たちは、できるだけ非社会的に従属的に教育されて生活しています。

 ●娘はすべての目的が妻や母親になることと教育されます。

 ●女学校の教育方法を見れば、すべてのことがわかります。独立した一個の人間としての生活に必要なことは何ひとつ教えられません。男子の庇護を受けるために都合のいいように教育されます。

 ●こうして女たちは家の中で小さくなって生活しているので、頭脳の働きは遅鈍になり、動作は醜くなり、すべての考えや決断は従属的であり、小さな利己心のみが強くなるのも無理はありません。

 ●今日、多くの男子がその妻を始末におえない荷厄介として苦しんでいるのは、当然のことだと思います。





 ●いや、今は独立した生活を営んでいる新時代の女も多くいるではないか、と言う人もあるかもしれません。

 ●しかし、彼女たちもその最終目的は妻たり母たることであることにおいては、なんのかわりもないものだと思います。

 ●さらに、今日の職業婦人の賃金が独立して生計を立てるまでにいたっていない、これが独立して生計を立てる収入を得ることができるようになったら、もう少し違う見解を持つかもしれないという意見もあるかもしれない。

 ●私もそう思うひとりではありますが、悲しいことに、女の最終目的は結婚だと小さいときから叩き込まれている女たちは、現在の職業の待遇改善に骨を折るというような考えよりは、一日も早く相手を見つけて結婚しようと考えることを優先するのです。

 ●したがって、選挙権の拡張を民主的傾向として、単純に賛同することに疑問を抱いています。





 ●すべての点で従属的に教育されてきた今日の日本の女子に、参政権が与えられれば、政治家の野心の餌食になるのではないかと危ぶんでいます。

 ●与謝野氏の意義ある示威は決して無用なことではなく、必要なことです。

 ●氏の最初にあげた叫び、その勇気に感謝したいと思います。

 ●ただ、私が与謝野氏に求めたいのは、その叫びを無意味なものに終わらせない用意をしていただきたいということです。

 ●氏の後ろには、氏の頼みになるような人間はひとりも続いてはいないと思います。





 ●もし本当に氏が聡明ならば、この機会を利用して、多くの職業婦人をその無智な夢から呼び覚まし本当の利害の観念を注ぎ込まなければならないと思います。

 ●婦人の職業だからといって、決して内職であってはなりません。女の内職は女自身をいつまでも経済的な弱者の位置から救い出さないばかりではなく、男子の賃金の率までを低くするものです。

 ●職業婦人が真に社会的地位に経済的生活に目覚めたとき、一般婦人の上にも新しい時代がくるのではないでしょうか。

 ●そして、そのときこそは参政権必要も真に起こり、その行使も心配なくできるかもしれません。

 ●その大事な仕事を怠ったならば、ただ虚名を馳せることを喜ぶ人の一手段として、貶められても仕方がありません。


★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)




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第274回 スペイン風邪






文●ツルシカズヒコ




 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、一九一九(大正八)年一月二十六日、大杉は売文社で群馬県からこの日上京した蟻川直枝と会い、気が合ったふたりは浅草十二階下にある黒瀬春吉の店「グリル茶目」で食事をした。

 このときの話を、安成二郎が大杉からおもしろおかしく語って聞かされた。

 大杉と蟻川は「グリル茶目」での食事を終えると、吉原に行くことにした。

 売文社に行くとき、大杉は尾行をまいていたので、黒瀬の尾行に案内をしてもらい吉原のある家に行った。

 夜中になって、大杉は揺り起こされた。

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 象潟署の高等視察がやつて来たのである。

 大杉は取次ぎから其の名刺を受とると、わざとびつくりしたやうにぶる/\頸えながら女に抱きついて、実は俺は大泥棒だがいよ/\年貢の納め時が来て仕舞つたとか何とか、でたらめを言つて女をおどかしたのである。

 すると、そこへ高等視察が上がつて来ると、大杉は、こんなところへ遣つ来てるやつがあるかと怒鳴りつけたところが、役人は、御愉快なところを誠にすまないが、実は田端のあんたの家が丸焼けになつたと言ふ電話が田端の方の署から象潟署へかゝつたと言ふのである。


(安成二郎「かたみの灰皿を前に」/『改造』1923年11月号_p100~101/安成二郎『無政府地獄-大杉栄襍記』)





『日録・大杉栄伝』によれば、火事は一月二十七日の午前三時、隣接の工場・東洋ブルーム製造所から出火し、十軒ばかりが類焼した。

 大杉家の住居は全焼し、家財道具も蔵書もすべて灰になった。

 急きょ、北豊島郡日暮里町大字日暮里一〇五五番地の山田斉(丙号主義者)方に一時移転した(「伊藤野枝年譜」/『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)

 大杉は火事で「引っ越し料」も焼いてしまったと残念がったという。

 田端の家の隣家に博徒がいて、夜になると遊び人が集まって博打を打っていた。

 しかし、大杉一家が引っ越して来てから、警官が大杉の家の門口で見張っているので博打ができない。

 そこで引っ越し料として百円払うから出て行ってもらうように大家に頼み、大杉は二、三日前にその話を聞き、好都合だと思っていたからである。

 二月三日、北豊島郡滝野川町大字西ヶ原前谷戸三一三番地(現・北区西ヶ原三丁目七番)に移転、田端の家より大きい高台の家で山羊と犬も連れて来て飼った(『日録・大杉栄伝』)。

 二階家であった。

 大杉の末妹の橘あやめとその子の宗一も同居を続け、橘あやめと宗一はこの年の秋に米国に帰国するまで大杉宅で暮らした。





 二月五日、大杉は朝早く、牛込区市谷富久町の東京監獄前で山川と荒畑の出所を迎えた。

 東京監獄前の差入室の一室で、しばらくみんなで歓談した。

 迎える者も迎えられる者もたいがいは獄通である。

 山川と荒畑は盛んにその新知識を語った。

 迎えた大杉たちも急転直下した世間の出来事を語った。

「おい、抱月が死んで、須磨子がそのあとを追って自殺したのを知っているかい?」

 堺がふたりに尋ねた。

 島村抱月がスペイン風邪で死んだのは前年の十一月五日だった。

 そして、二ヶ月後の一月五日、松井須磨子が芸術座の道具部屋で縊死した。

「ああ知ってるよ。実はそれについては面白いことがあるんだ」

 荒畑が堺の言葉がまだ終わらぬうちに笑いながら言った。

 荒畑は妻からの手紙で抱月の死を知ったのだが、荒畑は抱月と自分は師弟関係だと偽り、監獄の教誨師に回向をお願いした。

 教誨師である坊さんは教誨堂に荒畑を連れて行った。

 実は荒畑は教誨堂なるものを一度見たかっただけなのだった。





『どうだい、それで坊さん、お経をあげてくれたのかい?』

 荒畑がお茶を一杯ぐつと飲み干してゐる間に僕が尋ねた。

『うん、やつてくれたともさ。しかも大いに殊勝とでも思つたんだらう。随分長いのをやつてくれたよ。』

『それや、よかつた。』

 と皆んなは腹をかかへて笑つた。

「で、こんな因縁から、お須磨が自殺した時にも、直ぐ其の教誨師がやつて来て知らせてくれたんだ……。」


(「続獄中記」/『新小説』1919年4月号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)


 このとき安成二郎は久しぶりに大杉に会った。

 山川と荒畑を迎える集まりがお開きになると、安成は大杉と連れ立って、滝野川町西ヶ原の大杉の家に行った。

 その道々に大杉が安成におもしろおかしく語ったのが、田端の家が全焼した夜の話である。

 さて、二〇一八(平成三十)年一月十日の『しんぶん赤旗』の「ひと」欄は、原和夫さん(七十一)についての記事である。

 原さんは東京都北区の銭湯「殿上湯(でんじょうゆ)」の四代目である。

「殿上湯」について、原さんは「社会運動家の大杉栄や伊藤野枝も通った老舗です」と語っている。

「殿上湯」の住所は「北区西ヶ原一丁目二十番」であり、大杉と野枝が「殿上湯」に通っていたのは「北豊島郡滝野川町大字西ヶ原前谷戸三一三番地(現・北区西ヶ原三丁目七番)」に住んでいたころだろうと思われる。


★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★安成二郎『無政府地獄- 大杉栄襍記』(新泉社・1973年10月1日)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)

★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)

★『大杉栄全集 第13巻』(日本図書センター・1995年1月25日)




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2016年07月03日

第273回 尾行







文●ツルシカズヒコ




 一九一八(大正七)年十二月のある夜のことだった。

 野枝は所用で日比谷に出かけた。

 例によって尾行がひとり尾(つ)いている。

 その尾き方が下手で露骨でみっともないので、野枝は癇癪を起こし、電車の中でその尾行に怒りをぶつけた。

 電車を降りると、野枝はその尾行にこう言った。

「今夜は用がすんだら、お前の後を尾けてやるから」

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 ある家に入って用をすました野枝は、その家の主人の外套と黒いソフト帽を借り受けた。

 野枝がコートを着た上からその外套を着て襟を立て、帽子を深くかぶると、見ていた人たちが大笑いした。

 これで尾行をまくのだと野枝が言うと、活動写真のようだななどと囃し立てられた。

 その姿で外に出た野枝が、日比谷の交差点まで来て後ろを振り返ると、誰も尾(つ)いて来ていない。

 暗い濠にそって馬場先門の方へ三、四丁来ても、誰も尾(つ)いて来ている者はいない。

 野枝は完全に作戦が成功したことを確認した。


 それから八重洲町の暗い淋しい通りにはいつて外套をぬいだり帽子をとつたりしてゐますと、丁度其処を通りかゝつた車を引いた男がびつくりしたやうな様子をして、立ち止まつて見てゐました。

 私はひとりで、うす暗がりを笑ひながら歩きました。


(「夢に男に蹤〈つ〉かれるの記」/『夢の世界』1919年3月号・第2巻第3号/「男に蹤〈つ〉かれるの記」の題で大杉栄・伊藤野枝共著『悪戯』/「男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/「夢に男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p79)


 野枝が所用に訪れた日比谷の家は、服部浜次の「日比谷洋服店」だろうか。





 野枝は「夢に男に蹤〈つ〉かれるの記」で尾行について言及しているが、あまりにプライバシーを侵害する尾行の手口について、彼女は憤っている。


 私には此の三年ばかり、外に出さへすれば、大の男が一人づゝはキツトのそ/\後ろから尾いて来ます。

 お湯に行くにも髪を結ひに行くにも八百屋や魚屋の買ひ出しのお供までする。

 ……大勢の人達の為めに交番に立たす筈のお役人様を、わざ/\毎日私の為めに尾けておいて下さるのです。

 此度の内閣になつてからは大臣達でさへ辞退されるのを、私達には依然尾けて下さるのです。

 今日は何処へ誰を尋ねて行つて何をしやべつた。

 帰りに何処によつて何を喰べた、位まではまだいゝんですが、八百屋でおねぎを五銭、お芋を五銭、酒屋でお味噌『ハゝア、おつけでもこしらへるのかな』等と何も彼も知れてしまふのは感心しません。

 その上に米屋へ行つては『どうだ、払ひはいゝか?』

 家主へ行つては『今月家賃は払つたか?』

 質屋へ尾いて行つては後へまはつて何を幾らで預けて来たまで一々調べられては感心しない処の話ではなく、迷惑どころの話ではなく、癪に障(さわ)つてどなり度くなるのです。


(「夢に男に蹤〈つ〉かれるの記」/『夢の世界』1919年3月号・第2巻第3号/「男に蹤〈つ〉かれるの記」の題で大杉栄・伊藤野枝共著『悪戯』/「男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/「夢に男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p75~76))


 しかし、その気になれば尾行をまくのはそう難しいことではないらしい。

 通りがかりの空車(からぐるま)をつかまえて乗ったり、ちょっと工夫して電話を借りてタクシイを呼んだり、変な男に後をつけられて困っていると事情を言えば、知らない家でもたいていは同情して何かの方策を講じてくれるという。





 野枝は変装のほかにも、尾行をまいた具体例をいくつか書いている。

 本郷区菊坂町にいたころのことだというから、一九一六年の秋ごろから翌年の六月ごろの間の、ある日のことだった。

 その日は日本橋の方に出かける用事があったが、野枝はどうも尾いている男の顔が気に入らなかった。

 まいてやろうと思い、まず松住町で電車を降りて、万世の方に歩きながらその方法を考えたが、妙案が浮かばない。

 足を返して上野の方へ歩いて行き、お汁粉屋の「太々(だいだい)」に入った。

 ここで、方法を考えようと思ったのである。

 野枝のあつらえがまだできないうちに、野枝に尾いていた男が店の勝手口から入って来て、少しして外に出て行った。

 野枝はすぐに女中を呼んで様子を聞くと、この家に裏口があるかどうかを確かめに来たという。

「よけいな先回りをするな」

 癪に障った野枝は外に出ると、

「おまえのような馬鹿に尾かれると不愉快だから」

 と散々に往来を怒鳴りながら歩き、自働電話のあるところまで来ると、本郷の警察に電話した。

「今日の尾行は馬鹿でいやだからすぐ取り代えてくれるように。これから上野の博品館で買い物をしながら待つから」

 と言って、代わりをよこしてもらう約束をした。

 野枝は博品館の前まで来ると、代わりが来るから待っていろと言い置き、中に入るなり場内を走るように通り抜け、外に出て俥に乗って走り去った。

 二時間ほどで用をすませ、神田の方をまわり、電車が上野広小路を通る際に電車の窓から見ると、まだふたりの尾行がボンヤリ立っていた。





 あるときは、行きつけの髪結のところに飛び込んだ。

 変なやつに尾けられて困っているから、隣りの家に俥を呼んでもらうことにしたのである。

 野枝はこの髪結の家と隣家が、自由に行き来できることを知っていたのである。


『まあ、いやだ、さうですか、よござんすとも、お急ぎ? ぢやおちか早く行つてそいつといで。』

 すきての一人が直ぐ俥をあつらへに出て行つた。

『まあ本当に、世間にはずゐぶん馬鹿な男がゐるもんだね、此の間もうちへ来た娘さんが一人矢張り困つてゐなすつたけが、知りもしない女のあとつけて何が面白いんだらう。』

 髪結さんは六ケ(むずか)しい顔をして島田のいちの工合を気にしながら独り言のやうに云ひました。

『好奇(ものずき)なんだか暇なんだか知らないけれど御苦労様だわねえ、私はまだ一度もそんな覚えはないけれどよくそんな話は聞くわ。一体どう云ふつもりでつけるんでしようねえ。それにそんな事のあるのは堅気の娘さんだの奥さんに多いわね。』

 フケを取つて貰つてゐた若い芸者が直ぐ口を出しました。

『どう云ふつもりも斯う云ふつもりもあるもんかね。つまり男は助平だからさ。』

 火鉢の傍で煙草を吸つてゐた細襟のはんてんを着た、色の浅黒い年増の人がまた直ぐさう云つて笑つた。

 皆んなも笑つた。

 私はまた皆んなとは違つた意味でおかしくてたまらなかつた。


『今直ぐ来ます。』

 おちかは前垂の下に両手を入れて背中をまるくしながら帰つて来て私の方に向つてさう返事をしておいて、また云つた。

『向ふのね袋物屋さんの横の処に一人の男が立つてゐるんですよ、あれぢやないかしら奥さんについて来たのは?』

『どんな男?』

『黒い様な外套を着た背の高い痩せて四十位の男ですよ、ひげを生やした、目付きの悪いーー』

『えゝ、それ/\、立つてるのまだーー私の俥に乗る処見えやしないかしら、尤(もつと)も見えても構やしないけど、直ぐ駈け出しさへすればーー』

『大丈夫ですよ。俥屋さんにさういつて蔭になつて貰ふとよござんすわ。だけどまあ何んでせうねえ四十面下げて女の後をつけ歩くなんて、ひげなんか生やしてゐるんだつて? 呆れたもんだね。』

 髪結さんは一人で憤慨するやうにそいつてゐました。

『お師匠さん、馬鹿にムキになるのね。』

 若い芸者が笑ひました。

『何もムキになる訳じやないけどさ、あんまり馬鹿々々しいぢやないの、若い人ならまあそんな、ものずきも聞こえるけど四十にもなつてさーー』

『いゝぢやないかお師匠さん、他所(よそ)の人の御亭主だもの、お前さんのぢやあるまいし、妬(や)かないだつていゝやね。』

 火鉢の傍の年増がおつかぶせるやうにさう云つてまぜつかへしたので皆んなが大笑ひしました。

 私は直き隣りの門へ引き込んだ俥に乗つて見事にその男を置き去りにする事が出来ました。


(「夢に男に蹤〈つ〉かれるの記」/『夢の世界』1919年3月号・第2巻第3号/「男に蹤〈つ〉かれるの記」の題で大杉栄・伊藤野枝共著『悪戯』/「男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/「夢に男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p77~78))





 旅行など長距離を移動する際にも、もちろん尾行がつくのである。


 旅行をしますと、県から県へと護衛の責任が汽車の進行と共に移つて行きます。

 そして私達が寝台の上に楽々と長くなつて眠つてゐる間でも先生達ちは車室の外に立つて眠りもやらずに護つてゐてくれるのです。

 さうして見失はないやうに注意します。

 先達て九州に行きました時にも矢張りその通りにして送られました。

 処が下の関の、私を出迎へに出てゐた二三人の先生と広島県から受けついで徳山あたりから私を送つて来た先生とが、どうした事か下の関のプラツトフオームを歩いてゐるうちに私を見失つたらしいのです。

 私は駅の改札口に立つてゐる正服や私服の物々しい様子をひとりで笑ひながら連絡船に乗りました。

 お蔭さまで、九州へはいつてからは駅々のうるさいお出迎へがなくて呑気に家までかへりつく事が出来ました。


(「夢に男に蹤〈つ〉かれるの記」/『夢の世界』1919年3月号・第2巻第3号/「男に蹤〈つ〉かれるの記」の題で大杉栄・伊藤野枝共著『悪戯』/「男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/「夢に男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p79~80))


★大杉栄・伊藤野枝共著『悪戯』(アルス・1921年3月1日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)


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第272回 山羊乳






文●ツルシカズヒコ



 大杉の末妹、橘あやめは一九〇〇(明治三十三)年生まれである。

「あやめ」という命名は、六月二十五日生まれだからであろう。

 大杉は十五も歳下のあやめを可愛がっていた。

『日録・大杉栄伝』によれば、あやめは一九一六年にアメリカのポートランドのレストラン料理人・橘惣三郎と結婚して渡米した。

 一九一八年十二月、病を得て帰国したあやめは、北豊島郡滝野川町大字田端二三七番地の兄・栄の家で養生することになった。

 あやめが連れて来た子・宗一(むねかず)は、一九一七年四月十二日ポートランドで生まれ(『定本 伊藤野枝全集 第三巻』「書簡 橘あやめ宛・一九二三年一月十五日」解題)、魔子と同じ歳で野枝にもすぐなついた。

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 大杉の末弟・進も勤務先の休暇で遊びに来ていたので、大杉家は賑やかになった。

 あやめは十八歳、進は二十一歳である。

 あやめは当時のことをこう回想している。


 野枝さんには此時初めて会つたので、二人の間には二つになる魔子ちやんが出来てゐました。

 私の宗一も丁度二つなので、すぐ子供の話しから野枝さんと親しくなりまして、気の置けない、親切さうないゝ姉さんだと思ふやうになりました。

 それに魔子ちやんと宗坊とを犬や小羊(ひつじ)の背に乗せてアツハアツハと嬉しさうに笑つてゐる榮兄さんを時々見ては、私はたゞもう嬉しさで一杯でした。

 貧乏で困つてはゐられましたが、しかし私は楽しく感じてしばらく一緒に暮らして居りました。


(橘あやめ「憶ひ出すまゝ(栄兄さん夫婦と宗坊のこと)」/『女性改造』1923年11月号_p169)


 犬は茶ア公のことであり、あやめが「小羊」と書いているのは当時、大杉家で飼っていた牝山羊のことである。

 近所から買い込んだこの牝山羊は、乳がたくさん出た。

 山羊乳は貧乏だった大杉家の貴重な栄養源であり、特に母乳がわりの山羊乳は魔子と宗一を育てるのに重宝したと思われる。

 当時、大杉家を頻繁に訪れていた和田信義も、この山羊乳をごちそうになったひとりだった。





 ……いつも進君が乳搾りの役を勤めて呉れた。

 いつだったか大杉君も野枝さんも進君も皆留守で、妹さんと僕と二人きりの時だつた。

 例によつて腹が空いて来たので乳を搾らうと相談が纏つた。

 そこでバケツに湯を持つて来て布で乳を温めながら搾るのが妹さんの役、山羊の両方の角を抑へて山羊が動かない様にするのが僕の役と決まつたのだが……。

 モウ……と牛の啼く様な聲を立てゝ頭を振られたり、両肢をもがかれると、僕はもう堪らなかつた。

 力一杯角を握つて、両肢を膝の上に乗せてゐるんだが、山羊先生も一生懸命に暴力を振るほうとするんで、僕は気味が悪くなつて終つて、とうとういつもの三分一ほども搾れなかった。


(和田信義「初めて知つた頃のこと」/『自由と祖国』1925年9月号_p31)





 大杉家で山羊を飼うようになった経緯は不明だが、ヒントになるようなことを山川菊栄が書いている。

 山川均は売文社の社員であり、菊栄も売文社とは密な関係だった。

 売文社にはさまざまな奇人変人が出入りしていたが、「高井戸の聖者」こと江渡狄嶺(えと-てきれい)も、そのひとりだった。

 江渡は高井戸で「百姓道場」を経営するトルストイズムの実行者だった。


 この人が休日にはときどきフラリと私たちの家にやって来て、田んぼを見はらす日当りのいい縁側に腰をかけ、ナタマメぎせるをたたいて、山川と百姓話に興じ愉快そうに高笑いをしていました。

 ……この人のすすめで庭の片隅に鶏小屋ができ、やがてその農場から白レグ三羽が送られて来て、私ははじめて鶏を飼いました。


(山川菊栄『おんな二代の記』_p252)


 大杉と野枝が発刊していた『文明批評』への資金協力も惜しまなかった江渡である。

 大杉夫妻とは親交が深かっただろう江渡が、山川夫妻に鶏を飼うことを勧めたように、大杉夫妻に山羊を飼うことを勧めたのかもしれない。





 当時の大杉家の経済状態はまったくお話にならないほど逼迫していた。

 しかし、大杉は平気だった。

 いつも呑気そうに魔子のお守りをしたり、書物を読んでいた。


 そして主として野枝さんが、其の生活費の心配に歩いてゐた様だ。

 電燈の点く頃他所からオペラバツグを下げて帰つて来る野枝さんと留守居の大杉君との第一の話は、いつも金が出来た出来ないといふことだつた。


(和田信義「初めて知つた頃のこと」/『自由と祖国』1925年9月号_p30)


 和田は「初めて知つた頃のこと」に、窮乏の極にあった大杉夫妻から、五円をもらった思い出も書いている。

 米代を支払う必要に迫られ、そして大杉が裁判所かどこかに行くために、下駄を買ったり、帯の質受けをする必要にせまられてこしらえた金だった。

 一日中、原稿を売り歩いた野枝の努力が無駄になったある夕方のことだった。

 その日は一日中、北風会信友会の連中、和田信義らが遊びに来ていたが、野枝が帰って来るまでは昼飯も夕飯も食うことができなかった。





 野枝が帰って来てから、野枝があやめの指輪を質屋に入れた。

 そして野枝の手にはなんとか十二円の金ができた。

 その中から大杉夫妻は和田に五円をやった。

 和田の妻が近々、三人目の子供を生むので、その心付けとしてである。

「そんなことをしては、明日からこっちが困るじゃないか」

 と、和田は遠慮して言ったが、大杉は、

「こっちはどうにかなるさ。細君に温かいものでも買ってやるさ、途中で使ってしまってはいけないぜ……」

 と、いつもの調子で笑っていた。

 そして、残りの金で、その晩みんなに寿司を取ったり、酒を買ったりして奢ってしまった。

 和田は「深く感激させられた」という。

 和田は「其の時分の僕の生活も随分ひどかつた」と書いているが、妻と子供ふたりの四人家族の和田の月給は、諸手当て込みで五十円にはならなかったという。


江渡狄嶺


★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫・2014年7月16日)


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 12:38 | TrackBack(0) | 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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