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2016年07月21日
第301回 下婢
文●ツルシカズヒコ
野枝は『労働運動』一九二〇年二月号(一次四号)に、「堺利彦論」の前編、および八面(婦人欄)に「争議二件」「閑却されたる下婢(かひ)」「友愛会婦人部独立」「消息其他」を書いた。
「争議二件」は富士瓦斯(がす)紡績押上工場の争議、相州平塚町の相模紡績の争議の短信である。
相模紡績について野枝は「女工虐待では有名な」と書いている。
「閑却されたる下婢(かひ)」の冒頭で、野枝はこう書いている。
婦人の労働問題は、最近大分議論されるやうになったが、其の中心になつてゐるのは、何んと云つても工場労働者たる婦人に限られたやうになってゐる。
……此の工場労働者と同様に、或る意味ではもつとも惨めな、そして、我国の婦人労働者の数の第一位を占めてゐる、下婢がまるで問題にされてないのは、奇妙な事だと云へる。
(「閑却されたる下婢」/『労働運動』1920年2月1日・第1次第4号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p144)
当時、下婢払底の声が盛んになっていた。
農村子女が職を得る道のひとつとして開けていたのが下女奉公だったが、工場労働の方が割りがよく自由もあったので、下婢志願者が減少していたのである。
下婢が売り手市場になったことにより、各家庭の主婦たちの下婢の増長に対する嘆声が聞かれるような風潮になっていた。
前年の十月、森戸辰男が「日本に於ける女子職業問題」というリポートを発表していたが、その第二章第三節「二、婢」のデータを野枝は紹介している。
それによれば、当時、全国には七十万から百万の下婢が存在していた。
一九一六(大正五)年の全国の都市の下婢の平均賃金は、賄い付きで月三円十七銭。
賃金のみならず、下婢の食住がいかに劣悪であるか、「二十四時間労働」を強いられ、いかに雇用者の隷属下にあるかーー。
野枝は森戸がリポートしたデータを元に訴えている。
森戸は東大経済学部の紀要『経済学研究』創刊号(一九二〇年一月)に発表した「クロポトキンの社会思想の研究」が危険思想とされ、一月十四日に東京帝国大学経済学部助教授の職を休職になっていた。
いわゆる森戸事件で、森戸は十月、大審院で禁錮三ヶ月、罰金七十円に処せられた。
「友愛会婦人部独立」によれば、友愛会婦人部の会員は約二千二百名、うち富士瓦斯紡績押上工場の女工が千八百名である。
婦人部の独立は友愛会会長・鈴木文治の専制を打破するための動きであったが、結局、実現はしなかった。
一方、平塚らいてうは前年ごろから、友愛会婦人部の常任書記を辞したばかりの市川房枝を誘い、新団体の結成準備に取りかかり、新婦人協会を結成した。
東京モスリン吾妻工場を解雇された山内みなも新婦人協会に所属することになるが、野枝は「某婦人協会」(新婦人協会のこと)を結成したらいてうらを「不徹底な知識階級の婦人達」と批判している。
前年の十月二十九日、ワシントンで開催された第一回国際労働会議に参加した日本の代表団は、一月十三日に帰国した。
「消息其他」では婦人顧問として参加した田中孝子、田中に随行した尾形節子(鐘紡の女工)に言及、田中を批判している。
なお、野枝が担当している婦人欄に、山川菊栄が「米国の婦人労働者」を寄稿している。
この号から久板卯之助がスタッフに加わった。
野枝は『ニコニコ』二月号に「悪戯」、『解放』二月号に「ある女の裁判」を寄稿している。
「悪戯」は安藤花子という筆名を使用している。
「ある女の裁判」解題によれば、「とんだ木賃宿」事件が起きたのは二年前の三月だったが、このとき区裁判所で過ごした四、五時間の見聞を創作にしたのが「ある女の裁判」である。
大杉が日ごろ裁判の傍聴を勧めていたので、野枝はある裁判を傍聴したようだ。
被告は貧しい暮らしをしている屑屋の女房である。
被告はある男と不貞の関係になったが、その男は泥棒で盗品を彼女が預かったために起訴された。
野枝は傍聴した理由をこう書いている。
……被告人は女でした。
けれども……それが女だつたからと云ふ興味だけで聞いたのではありません。
また女だつたから特に面白いと云ふ種類のものでもありませんでした。
私はその裁判される事柄それ自身よりは『裁判』と云ふものに興味を感じたのでした。
(「ある女の裁判」/『解放』1920年2月号・第2巻第2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p)
今回の入獄に際し、大杉は三ヶ月間、三畳ほどの独房生活をしながら世界中を遊び廻るのも面白かろうと、エリゼ・ルクリュ『新万国地理』第七巻「東部亜細亜」、ダーウィン『一博物学者の世界周遊』、ウォレス『島の生物、動植物の世界的分布』などの書籍を丸善で購入した。
偶然に出逢ったファーブル『昆虫の生活』(仏語の原書)なども含めて、二十冊ばかりの本を抱えて豊多摩監獄に入獄した。
そして、入獄後すぐに丸善の新着本の中にあったファーブルの英訳書が五冊差し入れになった。
ーー『昆虫の生活』は『昆虫記』十巻の中からの抜粋で、フアブルが最も苦心して研究したいろんな糞虫の生活が其の大部分を占めてゐた。
ーー糞虫と云ふのは、一種の甲虫で、牛の糞や羊の糞などを食つてゐるところから出た俗称だ。
糞虫が、そう云つた糞を丸めて握り拳大の団子を造つて、それを土の中の自分の巣に持ち運ぶ、其の運びかたの奇怪さ!
又、一昼夜もかかつてその団子を貪り食つて、食ふ尻から尻へとそれを糞にして出して行く、其の徹底的糞虫さ加減!
そして又、やはり其の団子で、自分が死んだあとでの卵の餌食を造つて置く、其の造りかたの巧妙さ!
それにフアブルの観察や実験の仕方の実に手に入つたうまさ!
描写の詳密さ!
文章の簡素雄渾さ!
読み始めると、とても面白くて、世界漫遊どころではない。
(アンリイ・ファブル『昆虫記』「訳者の序」/『大杉栄全集 第九巻』/『大杉栄全集 第14巻』)
そして、差し入れてもらった英訳本『蟋蟀の生活』『糞虫』『左官蜂』『本能の不可思議』などを読み耽った。
※エリゼ・ルクリュ
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
★『大杉栄全集 第九巻』(大杉栄全集刊行会・1926年3月20日)
★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第300回 教誨師
文●ツルシカズヒコ
一九二〇(大正九)年一月二十二日、前年夏に豊多摩監獄に下獄した吉田一が出獄した。
行く先のない吉田は労働運動社に寄食することになった。
おしゃべりな吉田が獄中で唯一おしゃべりができるのが、教誨師の訪問を受けるときだった。
「だけんど、俺がたったひとつ困ったことがあったんだ」
吉田は博学な教誨師を無学な自分が論破した話を野枝にした。
あるとき教誨師が吉田に言ったという。
「おまえは、誰も彼も平等で、他人の命令なんかで人間が動いちゃいけないと言ったな。命令する奴なんぞあるのが間違いだと言ったなあ。だがね、たとえば、人間の体といういうものは、頭だの体だの手だの足だの、また体の中にはいろいろな機関が入っている。そのいろいろな部分がどうして働いていくかといえば、脳の中に中枢というものがあって、その命令で動いているんだ。この世の中だって、やっぱりそれと同じだよ。命令中枢がなくちゃ動かないんだ」
吉田は体のことなど知らないので、返事に詰まってしまった。
「どうだ、それに違いないだろう」
吉田は口惜しかったが、黙っていた。
「よく考えてみろ、おまえのいうことは間違っている」
そう言って教誨師は行ってしまった。
口惜しくてたまらなかった吉田は、半日、夜まで考え続けた。
そして次に教誨師が来たときに言ってやった。
「うんと歩いてくたびれ切ったときにゃ、いくら歩こうと思ったって足が前に出やしねえ。手が痛いときに働かそうと思ったって動かねえや。口まで食ったって胃袋が戻しちまうぜ。それでもなんでもかんでも頭の言う通りになるのかね。それからまたよしんば、方々での言うことを聞いて働くにしたところでだね、その命令を聞く奴がいなきゃどうするんだい? 足があっての、手があっての、なあ、働くものがあっての中枢とかいうもんじゃないか。中枢とかいう奴の己一人の力じゃないじゃねえか。ならどこもここも五分五分じゃねえか。俺は間違っちゃいねえと思う」
すると今度は教誨師が黙ってしまい、それ以降、吉田には何も言わなくなった。
吉田はいつも夢中で話すときに誰に向かってそうするように、野枝にぞんざいな言葉で話した。
「感心ね。よくでもそんな理屈が考え出せてね」
野枝が言うと、吉田はいかにも得意気にしゃべった。
「そりゃもう口惜しいから一生懸命さ。どうです、間違っちゃいないでしょう」
吉田が労働運動社に寄食するようになったことについて、野枝はかなり心配していたが、意外にも彼はやるべきことはやるようだった。
労働運動社の炊事は朝晩、交代でやることになっていたが、吉田は毎朝の炊事を引き受けた。
監獄で習慣づけられたとおりに、雑巾などを握って台所なども、案外きれいに片づけた。
二月一日、『労働運動』二月号・一次四号を発行、その経過を野枝が手紙で大杉に報告している。
宛先は「豊多摩郡野方村 豊多摩監獄」。
雑誌はまた昨日禁止になりました。
一昨夜十二時すぎに、和田さんが電車もないのに納本にゆき、昨日の朝近藤さんが行つて見ると、ボルガ団の記事がいけないと云ふので、皆んなで一段ばかり削る事になりました。
この工合だと初版禁止改訂再版が毎号つきものになりさうだと皆んなで話してゐます(二十九日)。
二十九日の夜と云つても、もう三十日の午前三時頃、漸く雑誌を渡辺まで運び込んださうです。
それから折つて三十日の四時の急行で和田さんは大阪に帰へりました。
そしてその晩ひと晩ぎりで後を折つて三十一日に配本を終りました。
近藤さんは風邪で苦しがりながらあちこちと本当に大変でした。
皆んな、大変な努力でした。
(「消息 伊藤」・【大正九年一月三十一日・豊多摩監獄へ】/『大杉栄全集 第四巻』/
「書簡 大杉栄宛」一九二〇年一月三十一日/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p131~132)
『定本 伊藤野枝全集 第三巻』解題によれば、「ボルガ団」とは同志社大学の東忠継(ただつぐ)、京都大学の高山義三などの学生に、奥村電機の新谷与一郎らの若い労働者が加わった労学会と言うべき京都の団体。
「渡辺」は故渡辺政太郎の妻・若林八代宅(小石川区指ヶ谷町九二番地)で、北風会の会場である八代宅は『労働運動』の発行所でもあった。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、『労働運動』同号より久板がスタッフに加わり、新たに神戸支局(主任・安谷寛一)を開設した。
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index