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2016年07月03日
第273回 尾行
文●ツルシカズヒコ
一九一八(大正七)年十二月のある夜のことだった。
野枝は所用で日比谷に出かけた。
例によって尾行がひとり尾(つ)いている。
その尾き方が下手で露骨でみっともないので、野枝は癇癪を起こし、電車の中でその尾行に怒りをぶつけた。
電車を降りると、野枝はその尾行にこう言った。
「今夜は用がすんだら、お前の後を尾けてやるから」
ある家に入って用をすました野枝は、その家の主人の外套と黒いソフト帽を借り受けた。
野枝がコートを着た上からその外套を着て襟を立て、帽子を深くかぶると、見ていた人たちが大笑いした。
これで尾行をまくのだと野枝が言うと、活動写真のようだななどと囃し立てられた。
その姿で外に出た野枝が、日比谷の交差点まで来て後ろを振り返ると、誰も尾(つ)いて来ていない。
暗い濠にそって馬場先門の方へ三、四丁来ても、誰も尾(つ)いて来ている者はいない。
野枝は完全に作戦が成功したことを確認した。
それから八重洲町の暗い淋しい通りにはいつて外套をぬいだり帽子をとつたりしてゐますと、丁度其処を通りかゝつた車を引いた男がびつくりしたやうな様子をして、立ち止まつて見てゐました。
私はひとりで、うす暗がりを笑ひながら歩きました。
(「夢に男に蹤〈つ〉かれるの記」/『夢の世界』1919年3月号・第2巻第3号/「男に蹤〈つ〉かれるの記」の題で大杉栄・伊藤野枝共著『悪戯』/「男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/「夢に男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p79)
野枝が所用に訪れた日比谷の家は、服部浜次の「日比谷洋服店」だろうか。
野枝は「夢に男に蹤〈つ〉かれるの記」で尾行について言及しているが、あまりにプライバシーを侵害する尾行の手口について、彼女は憤っている。
私には此の三年ばかり、外に出さへすれば、大の男が一人づゝはキツトのそ/\後ろから尾いて来ます。
お湯に行くにも髪を結ひに行くにも八百屋や魚屋の買ひ出しのお供までする。
……大勢の人達の為めに交番に立たす筈のお役人様を、わざ/\毎日私の為めに尾けておいて下さるのです。
此度の内閣になつてからは大臣達でさへ辞退されるのを、私達には依然尾けて下さるのです。
今日は何処へ誰を尋ねて行つて何をしやべつた。
帰りに何処によつて何を喰べた、位まではまだいゝんですが、八百屋でおねぎを五銭、お芋を五銭、酒屋でお味噌『ハゝア、おつけでもこしらへるのかな』等と何も彼も知れてしまふのは感心しません。
その上に米屋へ行つては『どうだ、払ひはいゝか?』
家主へ行つては『今月家賃は払つたか?』
質屋へ尾いて行つては後へまはつて何を幾らで預けて来たまで一々調べられては感心しない処の話ではなく、迷惑どころの話ではなく、癪に障(さわ)つてどなり度くなるのです。
(「夢に男に蹤〈つ〉かれるの記」/『夢の世界』1919年3月号・第2巻第3号/「男に蹤〈つ〉かれるの記」の題で大杉栄・伊藤野枝共著『悪戯』/「男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/「夢に男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p75~76))
しかし、その気になれば尾行をまくのはそう難しいことではないらしい。
通りがかりの空車(からぐるま)をつかまえて乗ったり、ちょっと工夫して電話を借りてタクシイを呼んだり、変な男に後をつけられて困っていると事情を言えば、知らない家でもたいていは同情して何かの方策を講じてくれるという。
野枝は変装のほかにも、尾行をまいた具体例をいくつか書いている。
本郷区菊坂町にいたころのことだというから、一九一六年の秋ごろから翌年の六月ごろの間の、ある日のことだった。
その日は日本橋の方に出かける用事があったが、野枝はどうも尾いている男の顔が気に入らなかった。
まいてやろうと思い、まず松住町で電車を降りて、万世の方に歩きながらその方法を考えたが、妙案が浮かばない。
足を返して上野の方へ歩いて行き、お汁粉屋の「太々(だいだい)」に入った。
ここで、方法を考えようと思ったのである。
野枝のあつらえがまだできないうちに、野枝に尾いていた男が店の勝手口から入って来て、少しして外に出て行った。
野枝はすぐに女中を呼んで様子を聞くと、この家に裏口があるかどうかを確かめに来たという。
「よけいな先回りをするな」
癪に障った野枝は外に出ると、
「おまえのような馬鹿に尾かれると不愉快だから」
と散々に往来を怒鳴りながら歩き、自働電話のあるところまで来ると、本郷の警察に電話した。
「今日の尾行は馬鹿でいやだからすぐ取り代えてくれるように。これから上野の博品館で買い物をしながら待つから」
と言って、代わりをよこしてもらう約束をした。
野枝は博品館の前まで来ると、代わりが来るから待っていろと言い置き、中に入るなり場内を走るように通り抜け、外に出て俥に乗って走り去った。
二時間ほどで用をすませ、神田の方をまわり、電車が上野広小路を通る際に電車の窓から見ると、まだふたりの尾行がボンヤリ立っていた。
あるときは、行きつけの髪結のところに飛び込んだ。
変なやつに尾けられて困っているから、隣りの家に俥を呼んでもらうことにしたのである。
野枝はこの髪結の家と隣家が、自由に行き来できることを知っていたのである。
『まあ、いやだ、さうですか、よござんすとも、お急ぎ? ぢやおちか早く行つてそいつといで。』
すきての一人が直ぐ俥をあつらへに出て行つた。
『まあ本当に、世間にはずゐぶん馬鹿な男がゐるもんだね、此の間もうちへ来た娘さんが一人矢張り困つてゐなすつたけが、知りもしない女のあとつけて何が面白いんだらう。』
髪結さんは六ケ(むずか)しい顔をして島田のいちの工合を気にしながら独り言のやうに云ひました。
『好奇(ものずき)なんだか暇なんだか知らないけれど御苦労様だわねえ、私はまだ一度もそんな覚えはないけれどよくそんな話は聞くわ。一体どう云ふつもりでつけるんでしようねえ。それにそんな事のあるのは堅気の娘さんだの奥さんに多いわね。』
フケを取つて貰つてゐた若い芸者が直ぐ口を出しました。
『どう云ふつもりも斯う云ふつもりもあるもんかね。つまり男は助平だからさ。』
火鉢の傍で煙草を吸つてゐた細襟のはんてんを着た、色の浅黒い年増の人がまた直ぐさう云つて笑つた。
皆んなも笑つた。
私はまた皆んなとは違つた意味でおかしくてたまらなかつた。
『今直ぐ来ます。』
おちかは前垂の下に両手を入れて背中をまるくしながら帰つて来て私の方に向つてさう返事をしておいて、また云つた。
『向ふのね袋物屋さんの横の処に一人の男が立つてゐるんですよ、あれぢやないかしら奥さんについて来たのは?』
『どんな男?』
『黒い様な外套を着た背の高い痩せて四十位の男ですよ、ひげを生やした、目付きの悪いーー』
『えゝ、それ/\、立つてるのまだーー私の俥に乗る処見えやしないかしら、尤(もつと)も見えても構やしないけど、直ぐ駈け出しさへすればーー』
『大丈夫ですよ。俥屋さんにさういつて蔭になつて貰ふとよござんすわ。だけどまあ何んでせうねえ四十面下げて女の後をつけ歩くなんて、ひげなんか生やしてゐるんだつて? 呆れたもんだね。』
髪結さんは一人で憤慨するやうにそいつてゐました。
『お師匠さん、馬鹿にムキになるのね。』
若い芸者が笑ひました。
『何もムキになる訳じやないけどさ、あんまり馬鹿々々しいぢやないの、若い人ならまあそんな、ものずきも聞こえるけど四十にもなつてさーー』
『いゝぢやないかお師匠さん、他所(よそ)の人の御亭主だもの、お前さんのぢやあるまいし、妬(や)かないだつていゝやね。』
火鉢の傍の年増がおつかぶせるやうにさう云つてまぜつかへしたので皆んなが大笑ひしました。
私は直き隣りの門へ引き込んだ俥に乗つて見事にその男を置き去りにする事が出来ました。
(「夢に男に蹤〈つ〉かれるの記」/『夢の世界』1919年3月号・第2巻第3号/「男に蹤〈つ〉かれるの記」の題で大杉栄・伊藤野枝共著『悪戯』/「男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/「夢に男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p77~78))
旅行など長距離を移動する際にも、もちろん尾行がつくのである。
旅行をしますと、県から県へと護衛の責任が汽車の進行と共に移つて行きます。
そして私達が寝台の上に楽々と長くなつて眠つてゐる間でも先生達ちは車室の外に立つて眠りもやらずに護つてゐてくれるのです。
さうして見失はないやうに注意します。
先達て九州に行きました時にも矢張りその通りにして送られました。
処が下の関の、私を出迎へに出てゐた二三人の先生と広島県から受けついで徳山あたりから私を送つて来た先生とが、どうした事か下の関のプラツトフオームを歩いてゐるうちに私を見失つたらしいのです。
私は駅の改札口に立つてゐる正服や私服の物々しい様子をひとりで笑ひながら連絡船に乗りました。
お蔭さまで、九州へはいつてからは駅々のうるさいお出迎へがなくて呑気に家までかへりつく事が出来ました。
(「夢に男に蹤〈つ〉かれるの記」/『夢の世界』1919年3月号・第2巻第3号/「男に蹤〈つ〉かれるの記」の題で大杉栄・伊藤野枝共著『悪戯』/「男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/「夢に男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p79~80))
★大杉栄・伊藤野枝共著『悪戯』(アルス・1921年3月1日)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第272回 山羊乳
文●ツルシカズヒコ
大杉の末妹、橘あやめは一九〇〇(明治三十三)年生まれである。
「あやめ」という命名は、六月二十五日生まれだからであろう。
大杉は十五も歳下のあやめを可愛がっていた。
『日録・大杉栄伝』によれば、あやめは一九一六年にアメリカのポートランドのレストラン料理人・橘惣三郎と結婚して渡米した。
一九一八年十二月、病を得て帰国したあやめは、北豊島郡滝野川町大字田端二三七番地の兄・栄の家で養生することになった。
あやめが連れて来た子・宗一(むねかず)は、一九一七年四月十二日ポートランドで生まれ(『定本 伊藤野枝全集 第三巻』「書簡 橘あやめ宛・一九二三年一月十五日」解題)、魔子と同じ歳で野枝にもすぐなついた。
大杉の末弟・進も勤務先の休暇で遊びに来ていたので、大杉家は賑やかになった。
あやめは十八歳、進は二十一歳である。
あやめは当時のことをこう回想している。
野枝さんには此時初めて会つたので、二人の間には二つになる魔子ちやんが出来てゐました。
私の宗一も丁度二つなので、すぐ子供の話しから野枝さんと親しくなりまして、気の置けない、親切さうないゝ姉さんだと思ふやうになりました。
それに魔子ちやんと宗坊とを犬や小羊(ひつじ)の背に乗せてアツハアツハと嬉しさうに笑つてゐる榮兄さんを時々見ては、私はたゞもう嬉しさで一杯でした。
貧乏で困つてはゐられましたが、しかし私は楽しく感じてしばらく一緒に暮らして居りました。
(橘あやめ「憶ひ出すまゝ(栄兄さん夫婦と宗坊のこと)」/『女性改造』1923年11月号_p169)
犬は茶ア公のことであり、あやめが「小羊」と書いているのは当時、大杉家で飼っていた牝山羊のことである。
近所から買い込んだこの牝山羊は、乳がたくさん出た。
山羊乳は貧乏だった大杉家の貴重な栄養源であり、特に母乳がわりの山羊乳は魔子と宗一を育てるのに重宝したと思われる。
当時、大杉家を頻繁に訪れていた和田信義も、この山羊乳をごちそうになったひとりだった。
……いつも進君が乳搾りの役を勤めて呉れた。
いつだったか大杉君も野枝さんも進君も皆留守で、妹さんと僕と二人きりの時だつた。
例によつて腹が空いて来たので乳を搾らうと相談が纏つた。
そこでバケツに湯を持つて来て布で乳を温めながら搾るのが妹さんの役、山羊の両方の角を抑へて山羊が動かない様にするのが僕の役と決まつたのだが……。
モウ……と牛の啼く様な聲を立てゝ頭を振られたり、両肢をもがかれると、僕はもう堪らなかつた。
力一杯角を握つて、両肢を膝の上に乗せてゐるんだが、山羊先生も一生懸命に暴力を振るほうとするんで、僕は気味が悪くなつて終つて、とうとういつもの三分一ほども搾れなかった。
(和田信義「初めて知つた頃のこと」/『自由と祖国』1925年9月号_p31)
大杉家で山羊を飼うようになった経緯は不明だが、ヒントになるようなことを山川菊栄が書いている。
山川均は売文社の社員であり、菊栄も売文社とは密な関係だった。
売文社にはさまざまな奇人変人が出入りしていたが、「高井戸の聖者」こと江渡狄嶺(えと-てきれい)も、そのひとりだった。
江渡は高井戸で「百姓道場」を経営するトルストイズムの実行者だった。
この人が休日にはときどきフラリと私たちの家にやって来て、田んぼを見はらす日当りのいい縁側に腰をかけ、ナタマメぎせるをたたいて、山川と百姓話に興じ愉快そうに高笑いをしていました。
……この人のすすめで庭の片隅に鶏小屋ができ、やがてその農場から白レグ三羽が送られて来て、私ははじめて鶏を飼いました。
(山川菊栄『おんな二代の記』_p252)
大杉と野枝が発刊していた『文明批評』への資金協力も惜しまなかった江渡である。
大杉夫妻とは親交が深かっただろう江渡が、山川夫妻に鶏を飼うことを勧めたように、大杉夫妻に山羊を飼うことを勧めたのかもしれない。
当時の大杉家の経済状態はまったくお話にならないほど逼迫していた。
しかし、大杉は平気だった。
いつも呑気そうに魔子のお守りをしたり、書物を読んでいた。
そして主として野枝さんが、其の生活費の心配に歩いてゐた様だ。
電燈の点く頃他所からオペラバツグを下げて帰つて来る野枝さんと留守居の大杉君との第一の話は、いつも金が出来た出来ないといふことだつた。
(和田信義「初めて知つた頃のこと」/『自由と祖国』1925年9月号_p30)
和田は「初めて知つた頃のこと」に、窮乏の極にあった大杉夫妻から、五円をもらった思い出も書いている。
米代を支払う必要に迫られ、そして大杉が裁判所かどこかに行くために、下駄を買ったり、帯の質受けをする必要にせまられてこしらえた金だった。
一日中、原稿を売り歩いた野枝の努力が無駄になったある夕方のことだった。
その日は一日中、北風会や信友会の連中、和田信義らが遊びに来ていたが、野枝が帰って来るまでは昼飯も夕飯も食うことができなかった。
野枝が帰って来てから、野枝があやめの指輪を質屋に入れた。
そして野枝の手にはなんとか十二円の金ができた。
その中から大杉夫妻は和田に五円をやった。
和田の妻が近々、三人目の子供を生むので、その心付けとしてである。
「そんなことをしては、明日からこっちが困るじゃないか」
と、和田は遠慮して言ったが、大杉は、
「こっちはどうにかなるさ。細君に温かいものでも買ってやるさ、途中で使ってしまってはいけないぜ……」
と、いつもの調子で笑っていた。
そして、残りの金で、その晩みんなに寿司を取ったり、酒を買ったりして奢ってしまった。
和田は「深く感激させられた」という。
和田は「其の時分の僕の生活も随分ひどかつた」と書いているが、妻と子供ふたりの四人家族の和田の月給は、諸手当て込みで五十円にはならなかったという。
※江渡狄嶺
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
★山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫・2014年7月16日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index