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2016年07月13日
第294回 労働運動の精神
文●ツルシカズヒコ
月刊『労働運動』(第一次)第一号が発行されたのは、一九一九(大正八)年十月六日だった。
タブロイド版十二頁、定価は二十銭。
大杉が創刊趣旨を書いている。
労働者の解放は労働者自らが成就しなければならない。
これが僕らの標語だ。
日本の労働運動は今、その勃興初期の当然の結果として、実に紛糾錯雑を極めてゐる。
頻々として簇出する各労働運動者及び各労働運動団体の、各々の運動の理論も実際も甚だ明確を欠き、従つて又其の相互の間の理解も同情も殆ど全くない。
局外者から観れば、日本の労働運動の現状は、全くの一迷宮である。
そして恐らくは、これは、猶暫くの間の、大勢であらう。
労働者の反資本家的感情が、混沌たる紛糾状態を描きつつ、向う見ずに狂奔して行くのも面白い。
しかし又、其の間に、各々の力が自己の進路や他の力との衝突や平均を確実に意識して行きたいと云ふ努力を起すのも、やはり自然の事であらう。
僕等は今、此の努力の促進を、日本の労働運動そのものの為めの僕等の首要な役目の一つだと考えてゐる。
本誌は即ち其の機関なのだ。
日本の有らゆる方面に於ける労働運動の理論と実際との忠実な紹介、及び其の内容批判、これが本誌の殆ど全部だ。
(「本誌の立場」/『労働運動』1919年10月6日・1次1号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』に「僕等の立場」と改題し初収録・編輯室にて・『労働運動』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』・編集室にて・『労働運動』)
大杉にとって労働運動とは、資本家に賃金の増加と労働時間の短縮とを要求するにとどまるものではなかった。
賃金の増加と労働時間の短縮は、人間が生き物として生きていくための最低限の生物学的な要求であり、初期の労働運動の二大属目だったが、今後の労働運動は労働者の人間的要求を満足させるものでなければならないと大杉は考えていた。
資本家が労働者を支配しているのは工場内にとどまらず、資本家は労働者の実存を支配していると大杉は考えていて、労働者の人間的要求とはつまり、労働者の実存を資本家から自分の手に取り戻すことだった。
僕等は、此の専制君主たる資本家に対しての絶対服従の生活、奴隷の生活から、僕等自身を解放したいのだ。
自分自身の生活、自主自治の生活を得たいのだ。
自分で、自分の生活、自分の運命を決定したいのだ。
そして僕等は労働組合の組織を以て、此の僕等自身を支持する最良の方法であると信ずる。
繰返して云ふ。
労働運動は労働者の自己獲得運動、自主自治的生活獲得運動である。
人間運動である。
人格運動である。
(「労働運動の精神」/『労働運動』1919年10月6日・1次1号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第二巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第6巻』)
大杉は労働運動社の社員紹介もしている。
中村還一、年廿二、時計工、労働同盟会前幹事。
和田久太郎、年二十七、人夫、新聞紙法違反で十ケ月の牢獄生活を終つて来たばかり。
近藤憲二、年廿五、早稲田大学政治科卒業。
伊藤野枝。
大杉栄。
外に目下傷害罪(尾行巡査を)で入獄中の活版工延島英一(年十八)も九月下旬出獄早々入社の筈。
これだけの社員が、社の常連として毎日のやうに遊びに来る多くの労働者と一緒に、いつも社にゴロ/\してゐる。
どなたでも、尤も二本足の犬だけは別だが、いつでもお遊びににお出で下さい。
(「読者諸君へ」/『労働運動』1919年10月6日・1次1号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』・編集室にて・『労働運動』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』・編集室にて・『労働運動』)
十月十一日、東京地裁で大杉の尾行巡査殴打事件に懲役三ヶ月の控訴審判決が下った。
『労働運動』を立ち上げたばかりで、野枝の出産も間近だったので、大杉は弁護士と相談して即日上告し、服役を先延ばしにした。
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
★『大杉栄全集 第二巻』(大杉栄全集刊行会・1926年5月18日)
★『大杉栄全集 第6巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第293回 婦人労働者大会
文●ツルシカズヒコ
第一次世界大戦の講和会議によって創設されたのが国際労働機関(ILO)だったが、その第一回国際労働会議が一九一九(大正八)年十月二十九日、ワシントンで開催されることになった。
その日本代表団の労働者代表が、政府の選出によって鳥羽造船所工場長・桝本卯平に決まったことから、友愛会をはじめとする労働団体の一大反対運動が起きていた。
第一回国際労働会議では、婦人の深夜業禁止や産前産後の休暇など、婦人関係の議題が含まれることになっていたので、政府代表の婦人顧問として田中孝子が任命された。
財界人の渋沢栄一の姪であった田中に対する、労働側からの風当たりも強かった。
婦人顧問の田中に婦人労働者の実状や要求をよく聞いてもらう目的で開催されることになったのが、友愛会婦人部主催による婦人労働者大会だった。
婦人労働者大会が本所区の業平小学校で開催されたのは、十月五日の夜だった。
平塚らいてうや野枝が来賓として招かれていた。
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(完結篇)』によれば、十月五日の夜は東京に台風が接近する前ぶれでひどい吹き降りだったが、横殴りの雨に濡れながら、らいてうは会場に出かけたという。
あいにくの雨にもかかわらず、業平小学校の雨天体操場は五百人以上の聴衆に埋め尽くされ、半数以上は婦人労働者だった。
司会は友愛会婦人部の常任書記・市川房枝、富士紡、東京モスリンなどの婦人労働者九名が演壇に立った。
東京モスリンの女工で友愛会理事の山内みなが、演説のしんがりを務め、草稿なしで熱弁を振るった。
らいてうは六年前の青鞜講演会を思い出していた。
あのときの聴衆はこれよりは多かったとはいえ、その三分の二は男性で、婦人の姿は男子とくらべようもないさびしさでした。
演壇に立つ人も……男性講師が主で……。
あのときにくらべて、今こうして女工の代表が演壇に立ち、「夜業禁止」「八時間労働」など、自分たちの当面の訴えを、次つぎにくりひろげる姿に、わたくしはおどろくほど早い時代の変化と発展をおもうのでした。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(完結篇)』_p55~56)
弁士の中にはまだ着物の肩揚げもとれない小娘もいれば、髪を銀杏返しに結い背に赤ん坊をおんぶした子持ちの婦人労働者もいた。
演説は草稿の朗読ではあったが、「おッ母ァうめえぞ〜」といった野次にも臆することなく、自分の要求を主張する婦人たちの姿に、らいてうは感動を抑えかねた。
山内みなの演説が終り、当時流行した霰(あられ)模様のお召しの着物、黒紋付きの羽織姿の田中孝子が壇上に立った。
「自分は決して労働生活を知らないわけでなく、アメリカでは女中のような経験もしたし、木の実取りをして働いたことある……」と話し始めると、猛烈な野次が聴衆の間から飛び交った。
この騒ぎは司会役の市川房枝の仕切りでひとまず収まったが、騒ぎは閉会後の控え室に持ち越された。
野枝が主役となった控え室でのこの騒動を、山内みなはこう回想している。
控室へもどってきた田中孝子女史に向って、伊藤野枝さんは「あなたのようなブルジョア婦人は日本の婦人労働者のことなどうんぬんする資格はない、国際労働会議に行くことをおやめなさい」と、たいへんな剣幕で詰めよりました。
田中さんも怒って、「あなたにそんなこと言われるおぼえはない」と激論になりました。
市川さんは、「ここでそんな議論はこまる、やめて下さい」といってやめさせました。
こんどは野枝さんは私のところにきて、「あなたは労働者だから、労働者はどうしたら解放されるか勉強しなさい、社会主義でなければだめだということがわかるでしょう、本を送ってあげます。」と言いました。
書記の菊地さんがそばで聞いていて、「会社はだめです、この子がクビになります。友愛会本部へ送って下さい」といった。
本部へ送ってきたのですが友愛会では私に見せませんでした。
その後しばらくたってから、会長鈴木文治氏が「みなちゃん、社会主義者に近づいてはいけないよ、おそろしい連中だから」と言いました。
(『山内みな自伝 十二歳の紡績女工からの生涯』)
らいてうが野枝の姿を見るのは、三年前、あの日蔭茶屋事件が起きる二日前、大杉と野枝が茅ケ崎に住んでいたらいてうを訪ねて以来だったが、控え室の騒動をらいてうはをこう記している。
ちょうどわたくしが帰りぎわにみんなに挨拶しようと控え室にいたときのことですが、突然、伊藤野枝さんが気色ばんだ見幕でそこに入って来ました。
彼女は、そこにいるわたくしをジロリと睨みーーまさにそんな感じの一瞥をくれて、むろん部屋のなかのだれに挨拶するでもなく、いきなり田中孝子さんのそばに行くと、「婦人労働者の経験のないあなたに、婦人顧問をつとめる資格はないのだ。一刻も早くおやめなさいーー」といった意味の言葉を、烈しい見幕で浴びせかけました。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(完結篇)』p56~57)
らいてうは野枝の憎体(にくてい)な言動にただ目を見張った。
野枝は縞の着物に黒紋付きの羽織を引っ掛けていたが、らいてうはそんな格好の野枝を見るもの初めてだった。
昔の娘らしいふくよかな面影がすっかり消え、ひどくトゲトゲしく、なんにでも突っかかり、誰にでも食ってかかるといったその日の野枝が、らいてうの目には未知の別人に映った。
しきりに言い募る野枝をたしなめる気持ちもあって、らいてうはひとことだけ言葉をはさんだ。
「工場で働く労働者のほかは労働者でないように言うのは間違いでしょう……」
罵倒といった感じで、自分のいいたいことを言うと、野枝はらいての言葉など黙殺したまま、プイと背を向けて出て行った。
らいてうは、野枝が大杉のもとへ走ってから折りにふれて聞こえてくる噂を思い浮かべた。
野枝が大杉の運動を助けて、あちこち金策に歩いていることはらいてうもしばしば耳にしていた。
後藤新平からお金を引き出した話も、大杉との間に生まれた子供に「魔子」と命名したことも、らいてうは知っていた。
なお、野枝は十二月に次女・エマを出産するが、らいてうはこのときに見た野枝のお腹がだいぶふくらんでいたと記している。
その後、らいてうと野枝に再会の機会は訪れず、この日の遭遇がふたりの永訣(えいけつ)となった。
野枝は婦人労働者大会について、こう書いている。
十月五日、本所区業平(なりひら)小学校で友愛会婦人部主催の婦人労働者の演説会があつた。
婦人労働者主催の此の種の演説会は先づこれが我国最初の催しであらう。
恰(あたか)も此の夜はワシントンに送る労働会議代表者桝本卯平(ますもとうへい)氏の労働者大会が明治座で催された夜であつた。
此の演説会も、政府側の婦人顧問田中孝子氏を招待して、大いに日頃持つてゐる不平不満を聞いて貰つて参考にして欲しいと云ふ、婦人労働者達の希望に出たものであつた。
招待された田中孝子氏は後(おく)ればせに女工諸氏の大半の演説が済んだ頃出席して、最後にその婦人顧問を引き受けた覚悟に就いて説明があつた。
当日広い会場の半数以上は婦人労働者諸氏によつて一杯に埋められた。
恐らくは五百人以上の出席者であつたに違ひない。
演壇に立つては、思ひ/\に、その要求がそれ/″\の理由をもつて提出されたが、帰する処は、労働時間の短縮、夜業廃止、の二つであつた。
大部分の諸氏は多勢の聴衆の前に立たれたのは始めてである為めか、皆多少の臆し気味があつて、草稿の朗読で終つて、期待した真の熱烈な叫びと云ふ風なものははかつた。
しかし、大多数の人達の要求が期せずして前記の二問題に落ち合つた処を観れば現在の紡織の婦人労働者が、何(いか)に最も苦しみつゝあるかは明瞭に看取する事が出来る。
賃銀問題に就いて、其の能率の上から、男子と同等の額をと主張したのは山内氏一人のみであつた。
政府が労働代表及び顧問に就いて婦人労働者を全く黙殺した事に対して確(し)つかりした批難を堂々と述べた野村つちの氏の演説と共に、当夜記者の印象に最も強く残つたのはそれであつた。
(「婦人労働者大会」/『労働運動』1919年11月13日・第1次第2号/學藝書林『伊藤野枝全集 下巻』に初収録/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p106~107)
野村つちの(富士紡)は山内みな(東京モスリン)とともに、友愛会理事を務めていた。
野枝はこの原稿を『労働運動』には無署名で寄稿、あくまで一記者としてリポートしている。
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(完結篇)』(大月書店・1973年11月16日)
★『山内みな自伝 十二歳の紡績女工からの生涯』(新宿書房/1975年12月)
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第292回 東京監獄八王子分監
文●ツルシカズヒコ
一九一九(大正八)年十月三日、懲役二年の刑を終えた神近市子が東京監獄八王子分監から出所した。
『読売新聞』が「淋しい笑顔を見せつゝ 神近市子出獄す」「好物のバナナを携へて露国の盲目文学者などが出迎へ」という見出しで報じている。
風呂敷き包みを抱えた彼女の写真も掲載されている。
「露国の盲目文学者」とはワシリー・エロシェンコで、秋田雨雀らとともに自動車で迎えに行ったのである。
市子は朝五時五十分に起き朝食を摂った。
秋田やエロシェンコらが八王子分監に到着したのは朝七時だった。
一時間程経て三人は市子を伴つて獄門を出て来た、
『……残念乍(なが)ら今日は何も御話が出来ません、唯御挨拶丈けで御免を蒙ります』
市子の辞(ことば)を受けて秋田雨雀氏は語る
『神近さんは当分静養し将来は創作家として立つことにならうが獄中でも創作は可なりあつたと聞いて居ります』
(『読売新聞』1919年10月4日)
大杉と野枝のコメントも掲載されている。
大杉のコメント。
入つたものは死にでもしなければ出て来るにきまつてゐるのだから出て来ると聞いても格別変つた感想も無いよ。
殺されてゐたら草葉の陰で恨めしいと思つてたかも知れないがね。
何でも女子青年会で引き取りたがつてゐるとも聞いたがあんな耶蘇教などへ行くよりは、又行きもすまいと思ふうが、秋田雨雀君のグループに帰つて文学生活に入るのがあの人のために一番好いだろう。
獄中で科学の本でも読んで来ると好いのだがワイルドの「獄中記」を訳したとかいふ話で読んだ物も恐らく思想的の本だらうと思ふ。
たいして変つた女になつて来るとも思はないね。
会ひたいなどとは思はないが偶然会ふ機会でもあつたら、さアその時どんな顔をするかね。
(『読売新聞』1919年10月4日)
野枝のコメント。
もう四五年も前に、あの人のお友達が神近さんは結婚をするのが一番いい、家庭の主婦になればチャンと落つく事の出来る人だから、其の方が始終動揺しなくていゝだらうなどゝ云つてゐた事もありますが、今後あの人がどうするとも私は別にそんな事に対しては思ふことはありませんね。
まあ小説でも書いて文壇を賑やかすのが一番いゝでせう。
随分私たちも材料になるかも知るれませんがね。
私の家にでも遊びに来てくれたら一寸面白いおつき合ひが出来るかも知れませんね。
大分周囲がやかましいから先(ま)づそんな事もありますまいが。
でも彼(あ)の人の事だからフイとまた来ないとも限りませんよ。
そんないたづら気でも彼(あ)の人が出して呉れるようだと、本当におもしろい人ですけれど……。
(『読売新聞』1919年10月4日)
神近が「私の家にでも遊びに来てくれたら一寸面白いおつき合ひが出来るかも知れませんね」というコメントは、野枝の本心だったのではないか。
十一月、神近は堀保子に謝罪した。
保子のコメントを「市子と保子」という見出しで『読売新聞』が掲載している。
二三日前の雨のビシヨ/\と降る日、突然一人でやつて来たのです。
顔を見ると謝絶をするわけにも行かず座敷へ上げましたがオイ/\泣くので困りました。
穴があれば入りたいと言ひましたが私も掘れるものなら穴を掘つてあげたいと思ひました。
大杉を刺した時の模様を話して呉れと揶揄(からか)い半分に気を引いて見たら喋り出したので驚きました。
何でも結婚をする心の準備がチヤンと出来てゐるといふことでした。
私にも結婚を勧めましたがどんな気で言ふのでせうかね。
(『読売新聞』1919年11月28日)
『神近市子 わが愛わが闘い』によれば、市子は出獄した翌年、一九二〇(大正九)年、評論家の鈴木厚と結婚した。
鈴木は市子より四歳年少、早稲田大学中退、資産家の養子だった。
辻潤が市子を来訪したときに、たまたま同行してきたのが鈴木だった。
市子は鈴木との間に三人の子供をもうけた。
※秋田雨雀記念館
★『神近市子自伝 わが愛わが闘い』(講談社・1972年3月24日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第291回 ソシアルルーム
文●ツルシカズヒコ
一九一九(大正八)年九月二十四日、延島英一が巣鴨監獄から出獄、大杉の家に同居して労働運動社社員になった。
延島は五月に吉田一と銭湯に行く途中、小石川署巡査を尾行と見て暴行し、懲役三ヶ月を科せられて服役していた。
野枝は『新小説』十月号に「台所雑感」を書いた。
「新思想と教養を背景に立てる婦人の台所感」欄への寄稿で、山田わか、遠藤清子、田中孝子も執筆している。
野枝はまず当時の物価騰貴に触れている。
……資本家はあんまり儲ける事ばかり夢中になつて物価をつり上げたり賃銀の出し惜しみをして平民共を困らせないように、政府は表面のごまかしばかりして、結局主婦達を窮地におしこめるなどゝ云ふことのないようにして頂きたい。
(「台所雑感」/『新小説』1919年10月号・第24年第10号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p98)
まず前振りとして資本家や政府にチクリと苦言を呈したのであろう。
私は家庭生活と云ふものには充分に興味を持ち得ます。
衣食住、ともに自分の自由な趣味に応じて営むことが出来るならば、私はそれだけで充分享楽する事が出来ると思ひます。
家政、育児、料理、どれにでも没頭する事が出来ます。
わけて、料理をする事は私には一番興味深い事です。
(「台所雑感」/『新小説』1919年10月号・第24年第10号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p98)
しかし、大杉と野枝の家には常に何人かの同志が同居しているし、ふたりの家は労働運動社という職場でもあるから、普通の家庭ではない。
で私達は普通の家々とは全(ま)るで違つて、家庭と云ふものを完備さす為めに必要な努力をまるでしないと云つてもいゝ位です。
たとへば、家具と云ふやうなものに対してもOも私も二人とも相応に趣味も持つてはゐますけれども、それを購入し、家の中をかざる為めに一生懸命に働く、と云ふ事は出来ないのです。
何故なら私達の眼の前には、そんな事よりはもつと必要な他の事が迫つてゐますから。
(「台所雑感」/『新小説』1919年10月号・第24年第10号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p98)
衣食住のうち、食にだけはゼイタクをしていると野枝は書いている。
着物や家具にまわすお金を犠牲にしてでもである。
……私達はたゞたべる事だけに不相応なゼイタクをしてゐます。
そして、その食物ごしらへをするだけが、私が現在の家庭生活での唯一の享楽です。
ですから私は台所だけは何時でも不景気な風を吹かせないで愉快に皆んなの食物ごしらへの為めに働きたいと思ふのです。
(「台所雑感」/『新小説』1919年10月号・第24年第10号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p98)
こんな作りの台所があったらいいのに〜。
野枝には理想の台所があった。
当時から応接間を西洋風にする和洋折衷の家が流行り始めていたが、野枝は逆に居間や客間は日本風で、食堂や台所が西洋風なものがいいと考えていた。
大きなホールの片隅を台所に使つて大部分を食堂にして、炊事、食事に必要な一切のものをその室(へや)で間に合ふようにそなへておく。
親しみの多い客位は其処に通せるやうな設備もしておき、相応に室内をかざつても置いたり、楽器位はそなへておくと云ふやうにすれば、第一台所を清潔にする事がどうしても必要になり、窮屈なおもひをしながら働くにも当らない、室の内の人々と話しながら笑ひながら愉快に仕事が出来るし、其処に導き入れられた他人に親しみを感じさせる事が出来ると云ふようないろんな便利がかなりあります。
尤(もつと)も薪や炭の火を用ふと云ふやうな場合には、室内で火を燃すと云ふやうな乱暴も出来ませんが、水道瓦斯(がす)の便宜を持つ処ならば、こう云ふ台所は私には理想的なものだと思へます。
いろんな情実をもつた家では、そんな事は考へられないでせうが、私共の家のように殆んど家族同様の同志の出入りの多い、そして礼儀作法など云ふものとは縁の遠いところでは斯う云ふソシアルルームは便利と云ふよりは必要かもしれないのです。
で私は始終それを頭にえがいてゐます。
(「台所雑感」/『新小説』1919年10月号・第24年第10号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p99)
今なら当たり前のダイニングキッチンである。
和田久太郎は野枝の料理について、こう記している。
野枝さんは料理が御自慢だつた。
そして、実際にそれはうまいものだつた。
僕等はその御自慢で先づ満腹したが、大杉君は野枝さんの手料理が何より嬉しかつたやうだ。
(和田久太郎「僕の見た野枝さん」/『婦人公論』1923年11・12月号)
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index