新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2016年07月13日
第291回 ソシアルルーム
文●ツルシカズヒコ
一九一九(大正八)年九月二十四日、延島英一が巣鴨監獄から出獄、大杉の家に同居して労働運動社社員になった。
延島は五月に吉田一と銭湯に行く途中、小石川署巡査を尾行と見て暴行し、懲役三ヶ月を科せられて服役していた。
野枝は『新小説』十月号に「台所雑感」を書いた。
「新思想と教養を背景に立てる婦人の台所感」欄への寄稿で、山田わか、遠藤清子、田中孝子も執筆している。
野枝はまず当時の物価騰貴に触れている。
……資本家はあんまり儲ける事ばかり夢中になつて物価をつり上げたり賃銀の出し惜しみをして平民共を困らせないように、政府は表面のごまかしばかりして、結局主婦達を窮地におしこめるなどゝ云ふことのないようにして頂きたい。
(「台所雑感」/『新小説』1919年10月号・第24年第10号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p98)
まず前振りとして資本家や政府にチクリと苦言を呈したのであろう。
私は家庭生活と云ふものには充分に興味を持ち得ます。
衣食住、ともに自分の自由な趣味に応じて営むことが出来るならば、私はそれだけで充分享楽する事が出来ると思ひます。
家政、育児、料理、どれにでも没頭する事が出来ます。
わけて、料理をする事は私には一番興味深い事です。
(「台所雑感」/『新小説』1919年10月号・第24年第10号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p98)
しかし、大杉と野枝の家には常に何人かの同志が同居しているし、ふたりの家は労働運動社という職場でもあるから、普通の家庭ではない。
で私達は普通の家々とは全(ま)るで違つて、家庭と云ふものを完備さす為めに必要な努力をまるでしないと云つてもいゝ位です。
たとへば、家具と云ふやうなものに対してもOも私も二人とも相応に趣味も持つてはゐますけれども、それを購入し、家の中をかざる為めに一生懸命に働く、と云ふ事は出来ないのです。
何故なら私達の眼の前には、そんな事よりはもつと必要な他の事が迫つてゐますから。
(「台所雑感」/『新小説』1919年10月号・第24年第10号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p98)
衣食住のうち、食にだけはゼイタクをしていると野枝は書いている。
着物や家具にまわすお金を犠牲にしてでもである。
……私達はたゞたべる事だけに不相応なゼイタクをしてゐます。
そして、その食物ごしらへをするだけが、私が現在の家庭生活での唯一の享楽です。
ですから私は台所だけは何時でも不景気な風を吹かせないで愉快に皆んなの食物ごしらへの為めに働きたいと思ふのです。
(「台所雑感」/『新小説』1919年10月号・第24年第10号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p98)
こんな作りの台所があったらいいのに〜。
野枝には理想の台所があった。
当時から応接間を西洋風にする和洋折衷の家が流行り始めていたが、野枝は逆に居間や客間は日本風で、食堂や台所が西洋風なものがいいと考えていた。
大きなホールの片隅を台所に使つて大部分を食堂にして、炊事、食事に必要な一切のものをその室(へや)で間に合ふようにそなへておく。
親しみの多い客位は其処に通せるやうな設備もしておき、相応に室内をかざつても置いたり、楽器位はそなへておくと云ふやうにすれば、第一台所を清潔にする事がどうしても必要になり、窮屈なおもひをしながら働くにも当らない、室の内の人々と話しながら笑ひながら愉快に仕事が出来るし、其処に導き入れられた他人に親しみを感じさせる事が出来ると云ふようないろんな便利がかなりあります。
尤(もつと)も薪や炭の火を用ふと云ふやうな場合には、室内で火を燃すと云ふやうな乱暴も出来ませんが、水道瓦斯(がす)の便宜を持つ処ならば、こう云ふ台所は私には理想的なものだと思へます。
いろんな情実をもつた家では、そんな事は考へられないでせうが、私共の家のように殆んど家族同様の同志の出入りの多い、そして礼儀作法など云ふものとは縁の遠いところでは斯う云ふソシアルルームは便利と云ふよりは必要かもしれないのです。
で私は始終それを頭にえがいてゐます。
(「台所雑感」/『新小説』1919年10月号・第24年第10号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p99)
今なら当たり前のダイニングキッチンである。
和田久太郎は野枝の料理について、こう記している。
野枝さんは料理が御自慢だつた。
そして、実際にそれはうまいものだつた。
僕等はその御自慢で先づ満腹したが、大杉君は野枝さんの手料理が何より嬉しかつたやうだ。
(和田久太郎「僕の見た野枝さん」/『婦人公論』1923年11・12月号)
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
2016年07月11日
第290回 出獄の日のO氏(二)
文●ツルシカズヒコ
一九一九(大正八)年、第六回二科展は上野公園の竹の台陳列館(現在の上野公園噴水付近)で開催された。九月二日から一般公開だったが、林倭衛が出品した「出獄の日のO氏」が問題となった。
八月三十日に警視庁の事前検閲があり、検事告訴され保釈中の刑事被告人の肖像が公衆の前に展示されるのを不快に感じた警視庁が、撤回命令を出した。
二科会が抗議すると、八月三十一日、岡警視総監が来場し、撤回は命令ではないとしたが、二科会幹部に圧力をかけ、林が任意撤回したことにして「出獄の日のO氏」を引っ込めさせた。
九月一日、林は警視庁を訪れ、自ら任意撤回と公表したことに抗議、むしろ禁止命令を出せと迫った。
警視庁の本間官房主事が改めて禁止命令を出すことを受け入れたので、二科会は「出獄の日のO氏」を再び展示し、大杉と野枝も鑑賞した。
午後四時に下谷署から来た警部が撤去命令を発し、二科会はこれを受けて取り外した。
理由は広い意味での安寧秩序の紊乱だった。
大杉は撤回された絵が展示されていたところに立ち、「本物は絵よりもいっそう危険だぜ。これも撤回かい。僕は二科で日当を出せば、毎日でもここに立っているよ」と皮肉たっぷりに訴えたという。
『読売新聞』はこう報道している。
……林氏は呼ばれて今朝警視庁に行き本間官房主事に面会した、
本間氏は林氏に妥協を申込んで、、命令によつて右の画を撤去する事なく作者が刑事被告人を描いたのが穏当でない事を覚つて自発的に撤廃されたいと語つた、
併し林氏は断然之を拒絶したので結局話合の末陳列してよい事となつた、
林氏が会場に帰つて来た時は既に本間主事が自動車で駆け付けて一旦撤去したのを再び掲げてあつた、
この間に問題になつた此の作品のモデルたる大杉栄氏は伊藤野枝女史を伴つて見に来た、
処が午後四時になつて下谷署から前田警部が突然やつて来て「私の職権を以つて撤去を命令する」旨を居合せた有島生馬氏に迄申し達した其の理由は広い意味での安寧秩序の紊乱であると云ふのであつた、
林氏は「命令なら仕方がない、せめて特別室にでも入れる様にして貰へればいゝが結局は夫(それ)も駄目でせう」と諦め切つた言方であつた、
有島氏は傍(そば)から「林君のあの絵は宛然(まるで)稲妻の様だつたね、今日の午後一時半頃から四時頃迄二時間半許(ばか)りピカツと光つた丈でね」と同情した、
(『読売新聞』1919年9月2日)
同紙には、会場を訪れた大杉と野枝が、「出獄の日のO氏」が撤去されたところに立っている写真も掲載されている。
九月二日、大杉は山崎今朝弥弁護士を通じて、警視庁警務部刑事課の課長・正力松太郎を告訴した。
七月十九日、正力は警視庁詰めの記者に対して「(大杉が)日用品等の支払いをせず、家賃を支払う意志なく住居を借入れ、現住宅に無断侵入し……」などと語り、二十日の各紙はこれを報道した。
この件に関して、日刊十五紙に謝罪広告せよと、正力に対して名誉毀損および名誉回復請求の告訴をしたのである。
九月三日、大杉は「出獄の日のO氏」展示禁止処分に抗議するために警視庁に行き、本間官房主事に「弁護士・布施、山崎ほか五十名」による「鑑定書(依頼人・大杉栄)」を突きつけた。
「出獄の日のO氏」撤回命令は不法であり、刑法一七五条、治安警察法一六条、および美術展覧会規則にてらしても、禁止を命じうる法規はないという内容である。
本間は苦し紛れに治安警察法一六条だと答えた。
しかし、たとえ「安寧秩序ヲ紊シ」たとしても「公衆ノ自由に交通スル」場所においてという条件だから、適用はできないはずだ。
大杉はこの日の夜、上野精養軒の二科会懇親会会場に赴き、有島生馬、林倭衛と面談、林担当の二科会幹部にも会って、警察の禁止理由を確認し、二科会として命令に従う必要はないのではないかと質した。
再び展示をしないのなら、九月六日に大挙して押しかけ、一般公衆の通路として観覧料を払わずに通行するとまで詰め寄った。
九月六日、警察が厳重な警戒体制をしいていたが、大杉は現われなかった。
林や二科会に迷惑をかけるのは友誼上忍びないとして、大杉が実行を取り止めたのである。
ちなみに「出獄の日のO氏」」は戦災を免れ、現存している(八十二文化財団所蔵)。
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第289回 出獄の日のO氏(一)
文●ツルシカズヒコ
一九一九(大正八)年八月八日、大杉は東京監獄から野枝に第二信を書いた。
シイツがはいつてから何にもかもよくなつた。
あれを広くひろげて寝てゐると、今まで姿の見えなかつた敵が、残らず皆んな眼にはいる。
大きなのそ/\匐つてゐる奴は訳もなくつかまる。
小さなぴよん/\跳ねてゐる奴も、獲物で腹をふくらして大きくなつてゐるやうなのは、直ぐにつかまる。
斯んな風で毎晩々々幾つぴち/\とやつつけるか知れない。
蚊の防禦法もいろ/\と工夫した。
差入の飯にもなれた。
もう間違ひなく皆んな食べる。
そして可なり腹へ入る。
大便も日に一回になつた。
もうこれで総てがこつちのものになつたのだ。
「あんなに痩せて、あんなに蒼い顔をしてゐちや」と大ぶ不平のやうだつたが、どうも致し方がない。
あの暑い日に、二十人ばかりがすしのやうに押されて、裁判所まで持ち運ばれたのだ。
途中、僕は坐る場所がなくて、人の膝の上に腰かけてゐた位だ。
実際、向うへ着いた時には、自分で自分が死んでゐるのか、生きてゐるのか分らなかつた。
二三時間ばかり寝て、漸く正気がついた。
それから一日狭い蒸し殺されるやうな室に待たされてゐたんだ。
けふも又裁判だ。
ほんとうにいやになつちまうよ。
面倒くさい事は何も要らないから、何とでも勝手に定めて、早く何処へでもやつてくれるがいいや。
此処まで書いたら、いよ/\出廷だと云つて呼びに来た。
さよなら。
(【伊藤野枝宛・大正八年八月八日】・「獄中消息 市ヶ谷から(四)」・『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄書簡集』)
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば(以下、特に出典を明記しない記述は同書参照)、八月八日、大杉の巡査殴打事件第二回公判の開廷は八時の予定だったので、野枝や山川菊栄ら女性を含む同志二十数名が構内に参集して待機していたが、どういうわけか開廷は午後五時と大幅に遅れた。
検事の論告求刑の際、裁判官が被告・大杉に起立して敬意を表するよう再三命じたが、大杉は拒否して応じなかったので、結局、検事が折れて裁判官も黙認したので着座のまま論告が行なわれた。
大杉のこの異議申し立ては、検事の論告中に被告に起立を命じる官尊民卑の弊習を批判していた山崎今朝弥弁護士の示唆を実行したのである。
布施辰治弁護士は「処罰を必要とすべき性質のものなら、誰が考えても当時直ちに処罰していなければならない訳ではないか。五月二十三日に告訴状が出されたというのなら、それがこの二ヶ月間警察に放置されていたのは、いったいどうしたわけなのか」と不当を追及した。
八月九日、大杉の巡査殴打事件に傷害罪で罰金五十円の判決が下された。
検事は控訴したが、裁判官は身体の自由を拘束する必要なしと判断し、保釈を許可した。
八月十日、大杉は獄中から野枝に葉書を書いた。
知れてはゐるだろうと思ふが、念のために云つて置く。
保証金弐拾円で保釈がゆるされた。
今日は日曜日で駄目だろうが、明朝早く其の手続きをしてくれ。
(【伊藤野枝宛・大正八年八月十日】/「獄中消息 市ヶ谷から(四)」・『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄書簡集』)
保釈金は大石七分が出した。
八月十一日、大杉が保釈になり東京監獄を出獄、午後四時近くに服部浜次が自動車で迎えた。
八月十三日、林倭衛が大杉宅を来訪し、その場で大杉の肖像画にとりかかり、半日ほどで描き上げる。
右上にフランス語で「同志大杉出獄の日に」と書き入れた。
「出獄の日のO氏」と題して九月一日からの二科展に出品されるが、警視庁の撤回命令が出て問題になる。
八月中旬ごろ、大杉と近藤憲二が千駄木町の望月桂宅を訪問。
「出入りの同志が邪魔で落ちついて締切原稿が書けない。一寸避難して来たよ」と大杉が言って、望月の一閑張りの机を占領して原稿を書き始めた。
原稿は『新小説』九月号に寄稿した「死灰の中から」と想定される。
大杉は望月宅でこの原稿を書き終えてから、「十ノ廿松屋製」原稿用紙二枚にメモ書きをした。
一枚は「東京労働運動同盟会」と題した「実際運動」の起案、もう一枚は北風会の改組と新機関誌発行の計画を練ったものだった。
望月は半裸の大杉が机に向かっている姿を描き「ある日の大杉」と題した。
大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』口絵では一九二〇(大正九)年作とされていたが、その前年に描かれたものだった。
大杉の肖像画として有名な、林の「出獄の日のO氏」と望月の「ある日の大杉」の二枚の絵は、同時期に描かれていたのである。
八月三十日、横浜の吉田只次宅に大杉、野枝、村木、和田、近藤、中村還一らが合流し宿泊、翌日の会合後、本牧の三溪園を散策した。
※林倭衛
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★大杉栄研究会編『大杉栄書簡集』(海燕書房・1974年)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
2016年07月10日
第288回 外濠
文●ツルシカズヒコ
一九一九(大正八)年八月四日、東京区裁判所で大杉の巡査殴打事件の初公判が行なわれた。
『日録・大杉栄伝』によれば、野枝や荒畑ら同志三十余名が押しかけたが、傍聴席には付き添い(尾行)の刑事たちが詰めて席につけなかったので、ひと悶着が起きた。
法廷はスパイで満員だ、猛者連は承知せず、怒叫(※叫怒の誤記か?)する、遂に裁判は一時中止になつて、全部を法廷から出し、改めて公判を開いた、今度は吾々同志で大部分を、占てしまふことが出来た。
(武田伝二郎「大杉君と僕」/『自由と祖国』1925年9月号 ※「伝二郎」は「伝次郎」の誤植と思われる。武田伝次郎)
『日録・大杉栄伝』によれば、そのために五時開廷、山崎今朝弥、布施辰治らが弁護に立った。
大杉は「尾行巡査は私を犯罪人扱いにし、隣近所まで迷惑をかけた。安藤巡査の態度が余りに図々しいので、藤山家から出ろと大声で言うと、命令は受けないと返事するので殴った」などと述べた。
『東京朝日新聞』はこう報じている。
傍聴者中には例の伊藤野枝外(ほか)三十余名の友人等あり……
大杉は『尾行巡査が他家(よそ)の室内にまで付纏(まと)ふので困る』とか
『本気に殴つたのでない好(い)い加減に殴つた』……と空嘯(そらうそぶ)き
検事の問ひに向つては嘲弄的口吻(こうふん)を放ち『君と語るのは不愉快だ、主義に就(つい)ては語る必要なし』と怒号し
検事が獄中来訪の事より説いて『是吾人を陥穴(おとしあな)に入れんとするものなり』と結び……
……午後六時十分閉廷
(『東京朝日新聞』1919年8月5日)
八月五日、和田久太郎が東京監獄から出獄し、大杉の家に帰って来た。
八月六日、野枝は獄中の大杉に宛てて手紙を書いた。
あなたが留守になつてから、家の中は本当に気がぬけたやうになりました。
はじめ二三日は何んだか寂しくて仕方がありませんでしたけれど、それから用に追はれ出すようになつてからは、寂しいも何んにもありません。
夢中で一日が過ぎてしまひます。
それでも夕方帰つて、家の中は一杯に取り散らかされたままに誰もゐない、何んだか森(しん)としてゐるなんていふ時には、妙に寂しい気がします。
家主との厄介な事さへなければ、保釈などになつて帰つて来てまた改めて出直すなんて事になるよりは、此のまま早く済まして頂いた方が、私にはずつといいやうに思はれます。
しかし、家の方はどうしても一ぺんあなたに出て頂かなくちや本当に困りますね。
何しろ私はちつとも落ちつけないんで困るんです。
早く保釈の事、何んとかきまらないでせうかねえ。
家主さんも困るでせうが、私も本当に困つてしまふ。
此頃、大抵ぬけ弁天で電車を降りて行きますけれど、どうかすると外濠をまはります。
四ッ谷見附から牛込見附までの間は、私には懐かしいやうな恨めしいやうな、妙な一種の気持に襲はれて変なところです。
あの頃のいろんな記憶のよみ返つて来る事が、何んだか私には一つの重苦しい感じになります。
内的にも、外的にもあの頃の生活は一番複雑で負担の多い生活だつたと思ひます。
あの頃のやうに可哀さうな自分を見出す事は他ではありません。
あの頃のやうに悩んだ事はありません。
けれど又、あの頃のやうに幸福に酔ふ事も、恐らくあの時を除いてはないでせう。
時はどうしてこんなに早くたつて行くのでせう?
私達の前にも、もうあの時とはまるで別の世界が開けて来ましたね。
私達の喜びも、悩みも、かなしみも、総べてのものが、まるで違つた色彩をもつて来ましたね。
でも、私達の生活がとにかく人間の生活の本当の深味へ一歩々々踏みこんで来たと云ふ事は、何処までも事実ですわね。
私達はこれでほんの一寸でも立ち止まつてはならないのですね。
私達の生涯が、どんなに長からうと短かかろうと、その最後まで両足を揃えて立ち止まつてはならないのですね。
先達て、荒畑(寒村)さんの体が少々心配になる日がありましたので、山崎(今朝弥)さんへ様子を聞きに行きました。
山崎さんの話に、大杉はどんな場合でも、ちやんと初めから終(しま)ひまで思慮をつくして事をする。
たとへ他で何んと云つても無茶らしい事をするけれど、彼れにはちやんと損得勘定がしてある。
だから、何をしても他から少しも心配する事はない。
きつと損した以上の得をとらなければおかない。
しかし、荒畑は用心深いやうでゐてカツとのぼせて後で馬鹿らしいと思ふやうな目に遭うから困ると云つてゐました。
こんな事は常に自分達でも話し、他人からも云はれますけれど、此頃のやうな際には殊に強く響きます。
此頃の荒畑さんが熱を持ち出した事と云つたらありませんよ。
私達に対しても少しもこだはりのない態度を見せてゐます。
これも、一つにはあなたが留守になつた事が大きな原因だと云はなければなりますまい。
本当に私は嬉しく見てゐます。
あなたもさぞ本望だらうとお察し致します。
これで山川(均)さんが出て下されば申し分なしですね。
あなたの留守も充分に効果が上るわけです。
世の中の事と云ふものは本当にうまくしたものですね。
荒畑さんが変つたと云ふので和田さんなんか驚いてゐますよ。
(【大正八年八月六日・東京監獄内大杉栄宛】・「消息 伊藤」・『大杉栄全集 第四巻』/「書簡 大杉栄宛 一九一九年八月六日」・『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p83~84)
「抜弁天」は東京監獄(市谷富久町)の裏手にあった。
「あの頃のいろんな記憶」とは、小石川区竹早町の自宅から四谷区南伊賀町の山田嘉吉のもとに講読を受けに通っていたころの思い出である。
『定本 伊藤野枝全集 第三巻』解題によれば、『青服』を出版していた荒畑寒村と山川均は前年十月に入獄し、この年の二月に出獄、六月より毎月二回、服部浜次の日比谷洋服店楼上で労働組合研究会を開催していた。
ここに友愛会、印刷工組合信友会、新聞印刷工組合革新会、交通労働などの労働者たちが多く集まっていた。
※ぬけ弁天
※外濠通り
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第287回 柿色
文●ツルシカズヒコ
野枝が大杉に面会したのは一九一九(大正八)年七月二十二日だったが、彼女は七月十九日か七月二十日にも警視庁に来て吉田一(はじめ)に面会している(「或る男の堕落」)。
吉田は電気料不払いのために切られた電線を接続して電気を窃盗、七月十九日に警視庁(刑事課)に召喚され、七月二十一日から東京監獄の未決監に収監された(『日録・大杉栄伝』)。
そのころのことを野枝はこう書いている。
Yは吉田、Oは大杉。
それは大正八年の夏のことで、労働運動の盛んに起つて来た年の夏で、警視庁は躍起となつて、此の機運に乗じて運動を起さうとする社会主義者の検挙に腐心したのです。
そしてYと同時に、Oも次から次へと、様々な罪名で取調べを受けてゐる時でした。
(「或る男の堕落」/『女性改造』1923年11月号・第2巻第11号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p)
吉田の収監を同志たちは「いい機会が来た」と喜んだという。
増長しすぎていた彼にとって良い薬になるからだ。
読み書きができない吉田である。
獄中から葉書一枚書くこともできない、手紙をもらっても読むことができない。
野枝も同情したが、しかし、吉田はあくまで図々しく我がままだった。
吉田に面会し面倒を見たのは村木だった。
吉田は印刷した振り仮名があればなんとか読めるようだったので、村木は苦心して振り仮名つきの本を探して差し入れた。
しかし、振り仮名つきの本は耳学問のある吉田には物足りない。
彼は怒った。
さりとて、吉田好みの運動関係の本は初歩のものでも、振り仮名がついていないものがほとんどだった。
あるとき、村木は肩の凝らない本として、講談調の『西郷隆盛』を差し入れた。
喜んで読んでくれるかと思ったが、吉田は怒った。
「講談本なんぞを入れてもらうと、看守どもが馬鹿にする」というわけである。
獄中の同志に書物を差し入れるという作業は、実は厄介で骨の折れることなのである。
少しでも身になるように、無駄をしないように、当人の精神状態も考慮しなければならない。
しかし、そんなことにはまったく無頓着な吉田は、未決監にいる間は我がままを通した。
一審判決が出ると、吉田は既決監に下って豊多摩監獄に送られた。
吉田はそこで六ヶ月の刑期を送ったが、刑期中の仲間への消息は絶えた。
振り仮名の本を読むことも許されず、手紙も書けなかったからだ。
七月二十三日、大杉は尾行巡査殴打事件の傷害罪で起訴され、東京監獄の未決監に収監された。
野枝は獄中の大杉に手紙を書いた。
宛て先は「東京市牛込区市谷富久町 東京監獄内」、発信地は「東京市本郷区駒込曙町一三番地 労働運動社」である。
御気分いかがですか?
警視庁での二晩は随分お辛らかつた事と思ひます。
あの警部の室(へや)で会つた時の最初の顔がまだ目についてゐて仕方がありません。
ずゐぶん疲れた顔をしてゐましたね。
どうせ仕方のない事だと思つてゐても、あんな様子を見ますと何んだか情けなくなつてしまひます。
けれど、とんだ余興がはいつたりして、思ひの外自由に話が出来たり、永々と休めたのは本当に嬉しうございました。
獄中記は今月中に出来るさうです。
今日一寸(ちよつと)よつて表紙の色と、林(倭衛)さんの絵の工合を見て来ました。
表紙は思つたよりはいい色が出ました。
しかし、さめた色は商品として困ると云ふやうな話でした。
さう云はれて見るとそのやうな気もしますから、また真新しい柿色で我慢をしますかね。
着物と羽織を入れます。
あんなつむじまがりを云はないで裁判所に出る時は、チヤンとしたなりをして出るようにして下さい。
あんまりみつともないのは厭やですから。
これは私のたつた一つのお願ひです。
でなければ、私が一生懸命縫つたのが何にもなりませんわ。
それではあんまり可哀さうぢやありませんか。
本当にくれ/″\も体をわるくしないようにして下さい。
お願ひ致します。
今度の事件は、知識階級の間だけでなく、一般にも本当に問題にされてゐます。
本当につまらない事でしたけれど、結果から考へれば決してつまらない事ではありません。
私はあなたとの生活には、まだ/\もつと悲惨な、もつと苦しい辛い生活だつて喜んで享受するつもりだつたのです。
まだこれからだつて予期しています。
あなたがそちらで不自由な月日を送るのに、私達がべん/\と手を束(つか)ねて怠けながら、あなたの帰へりを待つと云ふ事は出来ません。
めい/\に出来るだけの仕事をして待ちます。
(【大正八年七月二十五日・東京監獄内大杉栄宛】・「消息 伊藤」・『大杉栄全集 第四巻』/「書簡 大杉栄宛 一九一九年七月二十五日」・『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p81~82)
「とんだ余興」というのは、例の愛国者の一件のことである。
『獄中記』は八月一日に春陽堂から出版された。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、『新小説』一月号、二月号、四月号に掲載した「獄中記」「続獄中記」と書簡「獄中消息」を併せて単行本にしたのである。
『新小説』に連載した「獄中記」「続獄中記」は評判がよく、このころから大杉の原稿が売れるようになったという。
単行本『獄中記』の表紙を柿色にしたのは、当時の囚人服が柿色だったからと思われる。
大杉は獄中から野枝に返信を書いた。
はじめての手紙だ。
まだ、どうも、本当に落ちつかない。
いくら馴れているからと云つても、さうすぐにアトホオムとか行かない。
監獄は僕のエレメントぢやないんだからね。
先づ南京虫との妥協が何んとかつかなければ駄目だ。
次ぎには蚊と蚤だ。
来た三晩ばかりは一睡もしなかつた。
警視庁での二晩と合せて五晩だ。
しかし、いくら何んだつて、さう/\不眠が続くものぢやない。
何が来ようと、どんなにかゆくとも痛くとも、とにかく眠るようになる。
今では睡眠時間の半分は寝る。
どんなに汗が出てもふかずに黙つてゐる僕の習慣ね、あれが此のかゆいのや痛いのにも大ぶ応用されて来た。
手を出したくて堪らんのを、ぢつとして辛棒してゐる。
斯う云ふ難行苦行の真似も、ちよつと面白いものだ。
蚊帳の中に蚊が一匹はいつても、泣つ面をして騒ぐ男がだ、手くびに二十数ケ所、腕に十数ケ所、首のまはりに二十幾ケ所と云ふ最初の晩の南京虫の手創(てきず)を負ふたまま、其の上にもやって来る無数の敵を、斯ふして無抵抗主義的に心よく迎へてゐるんだ。
大便が二日か三日に一度しか出ない。
監獄に入るといつも、最初の間はさうだ。
そして、それが、一日に一度と規則正しくきまるやうになると、もう〆たものだ。
其の時には、何にもかも、すつかり監獄生活にアダプトして了ふのだ。
(【伊藤野枝宛・大正八年八月一日】・「獄中消息 市ヶ谷から(四)」/『大杉栄全集 第四巻』/大杉栄研究会編『大杉栄書簡集』・海燕書房)
※中野刑務所 ※中野刑務所2
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
★大杉栄研究会編『大杉栄書簡集』(海燕書房・1974年)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第286回 警視庁(三)
文●ツルシカズヒコ
「だからさーー」
大杉は少しでも呑気に刑事部屋にいられるのを楽しむように、意地の悪い微笑を含みながら、ゆっくりと話し出した。
「つまり、君の言う主義というのは、四、五年前に僕のところで話したのと違ったわけじゃないんだろう。ね、君の主義は人民がみんな君を安んじて国を想いめいめいに国家や政府に世話を焼かせたり迷惑をかけたりしないようにならなくちゃならん、ということなんだろう?」
「そうです、そうです。その通りです。人民がみんな忠君愛国を重んずる立派な人間であれば、国は安穏に治まり、人民は幸福に暮らすことができるようになります」
「そうなればだ、こんな警察なんてものもいらないね。監獄なんてものもいらないようになるね。そうだろう、悪いことをする奴さえいなければ」
「そうです、そうです」
「だからつまり、君の言う忠君愛国主義というのは、突き詰めれば、人民がみんなで国家や政府の御厄介にならずにすむような世の中にしなければならんという理想になるんだね」
「その通りです」
「そうだとすれば、僕の主義もやはり人民がお互いに相談し合って国家や政府の御厄介にならんように自分たちだけでなんでも治めていこうというのだから、君の主義と僕の主義はまったく同じことになるじゃないか。賛成も不賛成もあるか、まったく同じだ」
大杉は笑いをこらえながら、巧みにもっともらしく、この気狂いと自分とを結びつけてしまった。
このアイロニーはこの愛国者を侮辱したものであり、野枝と村木以外の人たちを煙たがらせるものだったが、野枝は思わず吹き出してしまった。
村木も声を出して笑った。
大杉はこの意地悪な言葉の反響を促すかのように、テーブルの上に両肘を立ててプカリプカリと煙草を吸っていた。
Y警部と刑事たちは、大杉のこの馬鹿馬鹿しいアイロニーを、苦笑いで誤魔化すしかなかった。
みんなが気狂いじみた愛国者の反応を興味深く待ちかまえていると、
「まったくだ! まったくだ!」
彼が叫ぶように言った。
「私とあなたは今は主義が違う。しかし、最後に行きつくところは同じだ。人間は各自が違う、だから出発点は違う。しかし、行くべきところはひとつでなければならんはずだ。けれども、世間の奴はなかなかわからん。さすがは大杉さん、あなたは違う、偉い。あなたはもう私の主義をすっかりのみこんでいる、理解している」
野枝はこの気狂いじみた男の馬鹿さ加減を、次第に笑うに笑えなくなってきた。
「これで、あなたの情熱を持って我々の主義を宣伝して下されば、こんな力強いことはない。ねえ、みなさん、世間には人間がウジャウジャいる、うんといる。けれどもだ、この大杉さんのような立派な力強い熱を持っている人がはたして幾人あるか? 私はよく知っている、めったにいない」
彼は激しく唾を飛ばしながら、一向手応えのない大杉の方に向かって盛んにしゃべりたて、顔を真っ赤にしていた。
「そこで大杉さん、ひとつここに署名をして下さい。あんたのような人を味方にしたのは、私の大いなる誇りです。手柄です。百万の味方を得たと同じです。なにとぞ、ひとつここに書いて下さい」
男は大きな帳面を取り上げて、野枝の肩のあたりでその頁を繰って、最後の空きスペースを見つけると、ドシリとその帳面をテーブルの上に置いて大杉の前につきつけた。
大杉はあいかわらず微笑しながら、前の方の頁を繰って、名士たちの署名を読み始めた。
そこには、各方面の名士の名前が、いろいろな書体で、いろいろな墨色で、大きく小さく、それぞれの特徴を見せて並んでいた。
『此の男の何処にこれ等の名士達を引きつける魅力がひそんでゐるのだらう?』
私はつく/″\と此の男をふり返つて見ました。
どう見ても品のない豆粒のやうな汗がおびたゞしく滲んでゐる顔には別に人を動かすやうな何物もひそんでゐさうには思はれませんし、その厚ぼつたいフロックを着た不格好な姿にも何んの不思議もかくされてゐさうにありません。
たゞ此の男の持つてゐる異常なものと云つたらーーその向ふ見ずな熱狂だけでせう。
『気ちがひだ!』
じみてる位の話ぢやない本物の気狂ひなのだ!
私はさうひとりで決めてしまひました。
(「悪戯」/『ニコニコ』1920年2月号・第104号/「アナキストの悪戯」の表題で『悪戯』/「アナキストの悪戯」の表題で『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/「悪戯」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p139)
「さあ、なにとぞ書いて下さい。あなたのような人の賛成を得るということは、非常にいいことです。なにとぞ、なにとぞ」
彼は刑事のひとりが出した硯箱を受け取って、筆を手に持ち大杉に突きつけた。
「書くよ、書くよ。まあ、待ちたまえ」
大杉は持っていた煙草をくわえると、筆を持った。
大杉はしきりに紙を見つめながら、この人の悪い悪戯をいかにも楽しそうに、そして早くすませるのが惜しいように、筆を宙にまさぐりながら、薄笑いをしていた。
野枝はそれをちょっと度のすぎた悪戯のように感じた。
野枝は大杉の悪戯に気づかない、この真っ正直な愛国者が可哀相になった。
しかし、また、立派な一流の名士に交じってノトオリアスな大杉の名前が書かれるのは、なんとも言えない痛快なことだとも野枝は思った。
大杉が紙の上に丸い線を描きだした。
そこに何か面白い肩書きを入れるためだと、野枝はピンときた。
「今度は君、肩書きを入れてもいいのかね?」
刑事連と何かおしゃべりしていた愛国者に、村木が聞いた。
「いや、それは勘弁して下さい! それは困ります。名前だけでよろしいのです。名前だけで、名前だけで」
愛国者は振り向きざまに、そのテーブルに上半身をかがめて大きな帳面を不格好に両手で覆いながら、慌ててそう言った。
その慌てた様子に、みんなが声を出して笑った。
ことに大杉はそれまでこらえていた分までも、一挙にほとばしり出たかのごとくに、笑い続けた。
みんなも散々笑ったが、この愛国者だけは大真面目だった。
彼はその帳面がまだ無事なことを知ると、例の寄付金を書いた鳥の子紙で帳面の大部分を覆って、大杉の名前だけを書く余白を残し、「名前だけ」とねだった。
「だって君ーー」
ようやくおさまってきた笑いを抑えるようにしながら、大杉が言った。
「君はたった今、唱えている主義なんかどうでもいい、行きつく先が一緒ならそれでいいと言ったばかりじゃないか。まあ、そこを退(の)けたまえ」
「いや、それはわかってますよ、わかってますけれど……」
「わかってれば、いいさ。まあいいから、そこを退けてみたまえ」
「肩書きなんかなくてもいいんです。あなたは有名な人だから、名前だけでいいんです。え、勘弁して下さい。ちょっとここへ名前だけ、ね、そうして下さい」
愛国者は再び懸命になって、鳥の子紙を帳面の上に押しつけた。
これまでの熱狂はどこかにいってしまい、今にも泣き出しそうな顔が大杉の前に突き出された。
「大丈夫だよ、無政府主義者なんて書きやしないから。しかし、ただ名前だけじゃ面白くないから、ここに『警視庁留置場にて』と書こうかと思ってるんだよ。それならいいだろう? ね、面白いじゃないか」
「ああ、そうですか、なるほどそれは面白いですね。いや、ありがとう、ぜひそう書いて下さい。非常に面白い」
愛国者は救われたというふうに、体を真っ直ぐにして、覆った紙をとり退けながら、元気にハンケチを出して汗をぬぐった。
「ハハハハハ」
現金に元気を取り戻した彼の無邪気さを、みんなが笑った。
そして笑いながら一服吸った大杉が、たっぷりと筆に墨をふくませて帳面に向かおうとすると、今度はただならぬ顔をしたY警部が愛国者を押しのけてテーブルに進み寄って来た。
「いや、それはいけません。そんなことを書いては困ります」
Y警部は吊り上がった眉をいっそう吊り上げて、ニコリともせずに、本当にただごとではないというような厳格な顔をして、大杉の筆を止めさせた。
「アハハハハ」
今度は声を出して笑ったのは、大杉と村木と野枝の三人だけだった。
「いや、ありがとうありがとう」
愛国者は署名が無事にすんだことを、いかにもうれしそうに帳面を抱え上げた。
「じゃあ、ちょっとその帳面を借りて行きますが、さしつかえありませんね」
Y警部が愛国者から帳面を受け取って、部屋を出て行った。
厳(いか)めしいY警部が出て行くと、室内がまたくつろいだ雰囲気になった。
刑事連は愛国者をまたからかったり冷やかしたりしながら、お茶を入れたりしてくれた。
大杉が翌日に未決監に送られてもいいように、必要なものを差し入れて、食事を取り寄せる手続きなどもして、野枝と村木は引き上げた。
野枝たちは結局、Y警部の部屋に二時間くらいいた。
愛国者はその日やはり帳面や寄付金のことを調べられるために、そこに来合わせたのだった。
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★大杉栄・伊藤野枝らの共著『悪戯』(アルス・1921年3月1日)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
2016年07月09日
第285回 警視庁(二)
文●ツルシカズヒコ
一九一九(大正八)年七月二十二日、野枝と村木が警視庁を訪れ刑事部屋で大杉と面会をしている、ちょうどそのとき、ひとりの異様な男が刑事に付き添われて入って来た。
薄い髪の毛を襟のあたりまで長く伸ばし、真ん中から分けていた。
年のころは四十ぐらいだろうか、背が低く赤ら顔で低いだんご鼻、大きな下品な口、下卑て見えるたちの男だった。
真夏だというのに、厚ぼったい冬服のフロックコートを着ている。
そのせいか、顔中に豆粒のような汗を滲ませている。
大きな帳簿のようなものを抱えたその男に、部屋にいたみんなの視線が集まった。
伊勢神宮への寄付金を集めに来たなどと言って、わずかばかりの金を得て歩く、宗教気狂いなどによくある性(たち)の男のように、野枝には見えた。
「あの男を知ってるかい?」
野枝がその男から目を離すと、大杉が小声で言った。
「いいえ、あなたは知ってるの?」
「ああ、よく話すだろう、忠君愛国主義者でいろんな知名人の署名をもらって歩いているのさ。あれがその奉書でできた帳面だよ。ねえ、君、その人は忠君愛国主義者だろう?」
大杉がそばに腰かけていた刑事に話しかけた。
「ええ、そうですよ」
「この先生はね、僕、知っているんだよ」
大杉はこの男に一度、会ったことがあった。
自分の主義に賛成してくれと言って、この男は大杉を尋ね、帳面を持ち出して署名を求めた。
大杉は大いに賛同しますよと言って署名しようとその帳面を見ると、署名した人には伯爵だとか男爵だとか陸軍大将だとか、肩書きがついていた。
大杉は自分は主義者だから、その肩書きを書こうとすると、その男はそれは困ると言って帳面をしまって大急ぎで帰って行ったのだった。
大杉はわざと部屋中の人に聞こえるような大声でその話をし、
「ねえ、君、そうだよね」
と、その男の後ろから声をかけた。
「やあ、大杉さん、これはしばらく。あ、こちらは奥さんですか、どうぞ奥さん、私の主義に御賛成下さい。私はこういう者です」
男は野枝にいきなりハガキ大の名刺を突き出した。
それには大きくT・Tという名前が書いてあり、たくさんの肩書きがついていた。
そして男は狭いテーブルとテーブルの間に突っ立って、演説でもするような調子で手を振り体を動かし、しゃべり始めた。
「我が日本では忠君愛国ということを忘れては、決して万民幸福は得られない。万民はみんな幸福に生活しなければならない。しかし、今日、決して平等ではない、幸福ではない。それはなぜか? 今の日本では忠君愛国が蔑ろにされているからだ。そこで私は忠君愛国のために働いている。私はあらゆる天下の富豪を訪ねてこの主義のために五百万円の金を集める。そして愛国新聞を創(はじ)めてこの主義の宣伝に努める」
男はそこら中に唾を飛ばしながら、流れる汗をふく間もなく、しゃべりまくった。
「今日の大きな日刊新聞はみんな駄目です。あんなものは愛国新聞を出せば、一挙につぶれます。これを御覧下さい。この通り数十万円の金が集まりました。××会社の××氏は二十万円を出してくれることになっています。私は御覧の通り、夏冬の洋服一着で通します。私はパンと水があればよろしい。私は集めた金を私的なことに使ったりはしない。私はただ愛国新聞のために金を集めている。私の主義にはどんな人でも反対することはできません。御覧下さい。こんなに立派な人たちが賛成してくれる。まったくこの日本人の心に忠君愛国の心がなかったならば、我々は安穏でいることができない。ねえ、奥さん、そうでしょう。どうですか、私の主義に賛成して下さい。ねえ、大杉さん、あなただって、私の主義には賛成でしょう」
あまりに大げさな自己紹介に呆気にとられている野枝の前に、その男は大きな帳面を広げて、忙しくそれを繰って見せ、その間からさらに大きな鳥の子紙に一枚一枚「一千円也何某(なにがし)」「五千円也何某」というように寄付金高と氏名を書いたのを一束にしたのを見せたりした。
「僕は君が先(せん)にその帳面を持ち込んだときから、君の主義に賛成だと言ってるさ」
大杉は人の悪い微笑を含みながら、ゆっくりとその男に言った。
居合はす刑事連もそれから何時の間にか廊下から侵入して来た、Mもみんな笑ひながら此人の悪い○○○主義者と気狂い染(じ)みたしかしお人好しの忠君愛国家の問答に興味を感じてゐるやうに熱心に注意してゐました。
(「悪戯」/『ニコニコ』1920年2月号・第104号/「アナキストの悪戯」の表題で『悪戯』/「アナキストの悪戯」の表題で『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/「悪戯」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p137)
「○○○主義者」は「無政府主義者」。
「そうです、そうです。大杉さん、ぜひ私の主義に賛成して下さい。あなたのその熱烈な力で我々の主義を説いてくれれば、たちまちの間にすべて人間はみんな我々の主義になります。あなたのような人が賛成してくれれば、実に心強い。あなたのその熱情と力は、滅多に得られるものじゃありません」
男は他人の言うことなど耳に入らないように、が鳴り立てた。
男の額からは汗がますます流れ落ちていた。
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★大杉栄・伊藤野枝らの共著『悪戯』(アルス・1921年3月1日)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第284回 警視庁(一)
文●ツルシカズヒコ
一九一九(大正八)年七月二十一日、大杉は警視庁に傷害罪の容疑で拘留された。
二ヶ月前の船橋署の尾行刑事殴打の一件を蒸し返されたのである。
警視庁の警務部刑事課長・正力松太郎の執念である。
大杉は警視庁に二晩泊められ、七月二十三日に東京監獄の未決監に収監された。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、野枝が村木と警視庁に行き刑事部屋で大杉と面会したのは七月二十二日だった。
野枝がこのときのエピソードを書いたのが「悪戯」であるが、安藤花子というペンネームで寄稿している。
「○○○」は警視庁、「O」は大杉、「M」は村木。
場所は○○○の地下室の一つ、Y警部の室(へや)、さうですあの濠端の電車通りに面した室です。
夏の暑い日盛りの事、私はその時彼処の留置場に拘禁されたOに会ふ為めに同志のMーーと二人で其処へ行つたのです、
彼(あ)のお役所の正面をはいつて左の階段をおりると左手にずつと明るいタゝキの廊下があつて、其処においてある木の腰掛けには、何か調べを受ける為めに呼ばれた人が何時も控へてゐます。
その時にはたしか二三人の人しかゐなかつたと思ひます。
彼の大きな建物の蔭になつてゐる中庭から其の廊下に吹き込んで来る風は夏の日盛りとは思へない程冷やつこくていゝ気持なんです。
私はおゆるしが出るまで、その涼しい風の吹く処に立つて待つてゐました。
その間私の前をいろんな人相の悪い刑事達が通つては幾つもの室を出たりはいつたり忙しさうにしてゐました。
(「悪戯」/『ニコニコ』1920年2月号・第104号/「アナキストの悪戯」の表題で『悪戯』/「アナキストの悪戯」の表題で『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/「悪戯」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p133)
やがて、野枝はY警部の部屋に呼ばれた。
そこにはY警部の他に二、三人の刑事たちが控えていた。
大杉に面会する理由をY警部に尋ねられた野枝は、至急を要する仕事の相談、家の始末について、および差し入れのことだと簡単に答えた。
村木が入室することは許可されなかったが、廊下で会うことはどすることもできないのである。
すぐに大杉はひとりの刑事と一緒に入って来た。
さすがに野枝は胸がいっぱいになった。
大杉の疲労し切った顔を見て、野枝は彼が眠れないのだと思った。
帯をしめないで細い木綿の紐で結わえた腰のまわりが、情けないほどみすぼらしく見えた。
野枝は今すぐにでも、持ってきた新しい麻縮みに着替えさせたいと思ったほどだった。
「まあ、なんて顔をしているんです。ずいぶん疲れた顔をしているじゃありませんか。そうして、帯はどうしたんです?」
部屋の右側にある卓(テーブル)に向かい合って腰かけるなり、野枝はすぐに大杉に言った。
「帯かい、取り上げられるんだよ。首なんか吊っちゃいけないからというんだそうだ」
大杉は笑いながら、入口に近い廊下に立っている村木の方を振り返って、顔を見合わせた。
「どうも蚊がひどくって一睡もできないんだ。これは君、なんとか方法を講じてもらいたいな。また今晩もあれじゃ、やり切れたもんじゃない」
大杉はY警部に向かって言った。
「さあ、どうも警察には蚊帳のあるところってのはないんでなあ。まあ、君、今夜ひと晩だ、昼間うんと寝ておいて我慢するさ」
「蚊帳がなきゃ、なんとか他に方法をとってもらいたいな。このあいだ、築地じゃ線香をたいてくれたが、あれでもよっぽどいいよ。なにしろ少々の蚊じゃないんだからなあ」
不断蚊帳の中に一匹どうかして蚊がはいつても眠れない程なのに夜どほし蚊帳なしに責められては本当に文字どほりに一睡も出来ないのに違ひない。
さう思うと仕方がないとは諦めながらも不当としか思へない此の拘禁が本当に腹立たしく思へるのでした。
(「悪戯」/『ニコニコ』1920年2月号・第104号/「アナキストの悪戯」の表題で『悪戯』/「アナキストの悪戯」の表題で『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/「悪戯」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p134)
「ここでだけなら、煙草を吸ってもかまいますまいね」
野枝はひとりの刑事がお茶をふたりのテーブルの上に置いてくれたのを機会に、振り返ってY警部に聞いた。
「ここでだけはよござんす。何か食べたいものがあれば、それもここでなら黙認します」
通りに向いた、窓際の大きなデスクの上の書物を片づけながら、警部ははっきりとした調子で答えた。
野枝はすぐ立って村木のそばに行き、果物を買って来てもらおうと思ったが、近所に水菓子屋のないことに気づいて、甘いものを頼んだ。
大杉は眩しい通りの方を眺めながら、野枝が持って来たマニラの両切りを呑気な顔をして吹かしていた。
野枝と大杉の用談はすぐにすんだ。
警部も刑事たちも、ふたりの話を注意して監視しているようにも見えなかった。
野枝と大杉はまもなく村木の買って来たお菓子をつまみながら、思い出すままにいろんな話をした。
ときどきは刑事たちも口を出して、軽い冗談を言ったりしてくつろいで話した。
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★大杉栄・伊藤野枝らの共著『悪戯』(アルス・1921年3月1日)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第283回 正力松太郎
文●ツルシカズヒコ
一九一九(大正八)年七月十八日、昼近くになっても大杉たちは築地署から帰ってこなかった。
昼ごろ、野枝は日比谷の警視庁に行き特別高等課長に面会し、大杉たちがまもなく帰されることを確認した。
午後二時すぎころ、大杉たちはみんな元気な顔をして服部浜次の家に引き上げて来た。
野枝と大杉は疲れ切って本郷区駒込曙町の家に帰宅した。
玄関を入るとハガキが一枚落ちていた。
「茂木久平の件につき……」云々という、警視庁刑事課からの召喚状だった。
日付は十八日とあった。
野枝と大杉は疲れていたので、その夜は早く寝た。
翌七月十九日、大杉たちは横浜の集会に出かけることになっていたが、朝起きると尾行が知らせに来た。
「今、警視庁から自動車をまわしますから、それで御出頭を願いたいと言ってきました」
三十分もすると自動車が来た。
野枝と大杉は急いで朝食をすませて出た。
野枝はその日、芝区三田四国町の奥山医院に行く日だったので、警視庁の前まで一緒に乗せて行ってもらうことにした。
野枝が奥山医院を出て服部浜次の家に着くと、服部の妻がいて、尾行が大杉からの言伝(ことづて)を持って来たという。
今日は帰れないかもしれないという。
警視庁で大杉に面会した服部浜次が帰ってきた。
「家宅侵入」「詐偽」で告発されるという。
野枝はまったくなんのことなのか、理解しかねた。
「家宅侵入」とは本郷区駒込曙町の現在の家のことかもしれないが、それがなぜ家宅侵入になるのかーー。
茂木が家賃をためて出て行ったことは知っている。
家主と茂木との話はまだついていないので、久板らが留守をあずかっていた。
そこへ野枝が病気になったので、中山から出てきて、どこか住む所が見つかるまで、久板の勧めにまかせて現在の家にいるようになったのだ。
野枝と大杉は、家主と茂木の話がついたら後を借りたいと、駒込署の高等視察を通じて申し込んだ。
一応は貸せないとの返事だったが、家主側の仲介者からもう一度家主に聞いてみようということになったと、尾行に聞いていた。
野枝と大杉はまだ充分に交渉の余地はあると思っていたので、突然、そういう嫌疑をかけられることが解せなかった。
それに、現在の家には何ひとつ世帯道具のようなものは運び込んでいなかった。
どう考えてもそんなことに引っかかるとは思えなかった。
そして「詐偽」ということも、野枝にはなんのことかまるでわからなかったので、ただ「へぇ」と言ったきりだった。
ともかく、野枝は紙や手拭などを用意して警視庁に急いだ。
正面の玄関を入って左へ階段を降りた左の方にタタキの廊下があった。
野枝は前年の三月、大杉、和田、久板らが「どんだ木賃宿事件」で警視庁の留置場に入れられたときに、差し入れに来たので、見覚えのある廊下だった。
そこの腰掛けに大杉がひとりで腰をかけていた。
「どうしたのです」
野枝が近づいて声をかけた。
「家のことだよ。それと四、五年前からのチョイチョイの払い残りを詐偽だと言うんだよ。ずいぶん細かく調べてあらあ」
大杉は笑いながら言った。
「だって、そんなこと問題になるはずがないじゃありませんか。みんなちゃんと話がついているんだし、家のことだって私そんなはずないと思うわ」
「でも、向こうでもものにするつもりなら何かにはなるだろう」
「あんまり馬鹿にしてるじゃありませんか。そんな古いことまで洗い出して」
「つまらないことでやられるのもおもしろいよ、ちょっと。なあに破廉恥罪ということにして、世間に対する僕の人格的な信用を落としてから、ぶち込もうということさ。きまってらあ」
「すいぶん卑劣ですね」
「それだけ慌ててるんだよ」
「で、もう調べはすみましたか?」
「ああ、これから検事局だ」
「じゃ、今日中に起訴か不起訴か決まるんですね」
「ああ、今日はたいてい未決にまわると思うが、なんなら夕方まで待ってごらん、夕方までにはわかるだろう」
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、警視庁の警務部刑事課長・正力松太郎が新聞記者を集めて「大杉は大正五年以来、取り寄せた米みその代金を払わず、また現在の家は家主が立ち退きを迫っても応じない」から、詐欺、恐喝での取り調べだと発表したという。
正力が警視庁の警務部刑事課長に就任したのは、この年の六月だった。
ちょうどそこへ尾行が来合わせた。
「ちょっと」
野枝は尾行を呼び止めた。
「一緒に検事局に行くんでしょう?」
「ええ、行きます」
「じゃ、起訴か不起訴か決まるだろうから、わかったら私のところまで知らせてくれない? 私は服部洋服店で待ってるから」
「ええ、よござんすとも、すぐお知らせします。ですけれど、大丈夫ですよ、こんなつまらないことで……」
「そりゃわからないわよ、どうなるか。どうこじつけられるかしれないもの」
「そんなことできませんよ」
「まあいいから、とにかく知らせてちょうだい。検事局は地方? 区?」
「地方だそうです」
やがて茂木もそこに来た。
野枝は大杉と茂木が自動車に乗るのを見送ってから、服部浜次の家に戻った。
服部浜次の家の帳場の籐椅子に、野枝はがっかりしたような気持ちで腰を下ろした。
野枝は十五日夜、十七日、十八日とかなり激しい心遣いをし、体も動かした。
疲れ切っていた。
野枝は黙って結果を待とうとも思ったが、この卑劣な告発へ言いようのない屈辱と憤怒を感じた。
普通は犯罪になどなるはずがないが、警視庁は大杉を危険視して、大杉と世間との交渉を絶とうとしているのだ。
起訴になるならないにかかわらず、まず未決にでも投じるというのは、現在の警視庁の処置としては無理のないことである。
とうていこのまま帰されることはあるまい、公判の開かれるのを待つより仕方がないと野枝は思った。
野枝は憤怒が湧き上がるばかりだったが、手をこまねいていても仕方がないので、山崎今朝弥弁護士のところ出かけようと思った。
すると折よく、山崎が服部浜次の家にやって来た。
野枝がひと通り話し終わると、黙って聞いていた山崎が言った。
「罪にならんということよりは、予審にでもかけられると心配だな。予審にかけて一年も二年も長引かしといて、予審免訴にでもされるとこんな馬鹿らしいことはないからな。まあ、第一の心配はそれだ」
地方裁判所に持っていくほどのものではない小事件を地方の検事局に送ったとすれば、警視庁でもそのつもりなのだと、野枝は理解した。
私はもうすべてを成行きにまかすよりしかたがないと思つた。
何時如何なる場合に陥穽にかゝるかしれない。
或はどんな場合に生命を断たれるかさへ分らない。
その覚悟がなくて大きな権力を持つ政府に異端視される生活にどうして甘んじて行かれよう。
……公判廷ではすべてが明らかにされる事なのだ。
また多少の頭のある人々に、此の卑劣な陥穽が見えない筈はない。
私は留守をまもつて、他の同志と一緒に、此処まで漸く築き上げてきた運動の此の基礎をくづされないやうに出来る丈けの働きをしなければならない。
あの高い煉瓦の塀の中に拘禁されて一年も、或は二年三年と世間との交渉をたゝれる事は辛らい事には違ひなかつた。
しかし、私の信ずる彼は、どんな境遇にでも打ち克つ意志は完全に持つてゐる。
彼はその拘禁された二年三年と云ふ長い月日の中の一日でも決して無為に過ごす事はないだらう。
さうして彼は彼で、何かを体得して出て来る。
さう考へると私はひとりでに微笑ずにはゐられなかつた。
体さへ丈夫なら何んにも心配することはない。
一つも案じる事はない。
(「拘禁される日の前後」/『新小説』1919年9月号・第24年第9号/「拘禁されるまで」の表題で大杉栄らの共著『悪戯』/「拘禁されるまで」の表題で大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/「拘禁される日の前後」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p94~95)
四時ごろになって、茂木が帰って来たが、この人は大杉とはまるで違ったタイプの男だった。
夕方になって同志の一団は横浜の集会に出かけて行った。
七時近くなった。
尾行からはなんの連絡もなかった。
野枝は早く結果を知り、家に帰ってひと休みしたかった。
魔子も病気のせいか、機嫌が悪い。
八時、九時、十時……長い長い時が経過していった。
十時を打つと、近藤憲二がたまりかねて検事局に向かった。
また一時間が経過した。
誰からもなんの連絡もない。
十二時近くにようやく尾行が来た。
まだ決まらないという。
電車がなくなりそうだから、自分は警視庁の人に後を頼んで帰るという。
そこに近藤憲二が帰って来た。
大杉の尾行を帰すのだから、今夜、大杉が帰されることはないと野枝は判断した。
検事局にはまだ同志がひとり待機していたので、野枝は近藤憲二に頼んで連れ帰ってきてもらうことにした。
これでもうおおよそのことは決まったーー今夜はゆっくり休んで、あとはいろいろな後始末をすればいいのだ。
野枝はホッとひと息ついて、初めて服部浜次の妻とくつろいだ笑顔を交わした。
服部浜次の妻はいろいろ優しい言葉で慰めてくれたが、野枝にはもうすべての慰めの言葉は不必要だった。
ほどなく近藤憲二が迎えに行ったはずの同志がひとりで帰ってきた。
「大杉君、帰って行きましたよ。無事です。ずいぶん待たせやがった」
「まあ、それやよござんしたね」
服部浜次の妻がいかにも安心したような調子で言った。
「どうもとんだ御厄介になりました」
野枝はその同志にまずお礼を言ってから、どうして大杉が一緒に帰ってこなかったのかを聞いた。
「もうあなたは家へ帰ったと思ったもんですから。それに送っていく刑事がバカに急いでいて、ちょっとここまで自動車を寄せてくれってのに、それをしないんです。僕もそこまで乗って来たんです。本当は家まで乗せてもらうつもりだったんですけれど、近藤くんがここで待っていると思ったもんだから、途中で降ろしてもらったんです」
やがて、近藤憲二も帰って来た。
三人が日比谷でやっと飛び乗った巣鴨行きの電車は、もう青い燈をともしていた。
大杉は七月十五日に錦町署、七月十七日と十八日には築地署、七月十九日には警視庁に拘留されたのだが、野枝がこの間の顛末を書いたのが「拘禁される日の前後」である。
※赤電
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★大杉栄・伊藤野枝らの共著『悪戯』(アルス・1921年3月1日)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
2016年07月08日
第282回 築地署(二)
文●ツルシカズヒコ
野枝は魔子をしっかりと背負い、服部浜次の次男・麦生と、うまく逃れて来た若い同志の寺田鼎(かなえ)を連れて服部浜次の家を出た。
野枝たちは途中、おおぜいの検束者への食べ物の差し入れを調達し、走るように築地署に向かった。
面会を求めた署長はなかなか出て来なかった。
検束された人々の中には、夕食をすましていない者がかなりいた。
野枝が時計を見ると、夜の九時をとうに過ぎている。
野枝はじりじりした。
無遠慮な巡査たちの視線が、野枝たちに集中していた。
野枝はそれも不愉快だった。
「今、ちょっと話し中ですから、それがすめばすぐにお目にかかります」
しかし、署長はなかなか現われなかった。
検束されている人たちの食べ物を抱えた野枝も、いつ現われるかわからない署長を、ベンベンと待ってはいられなかった。
まず食べ物を差し入れたかった野枝は、和服の高等視察らしい男を通じて、署長に交渉させようとした。
しかし、「承知しました」と言っても、署長室に入って行く気配もない。
「今、ちょっとお話し中ですから、少々の間お待ちください」
前と同じことを言って、ぐずぐずしている。
玄関の左にある留置場の方から、大きな声で歌を歌う声が聞こえてきた。
野枝はみんなが騒いでいるのだと思い、そこにじっと立っていた。
だいぶたってから、署長室の扉が開いた。
署長と警部補らしき男が出てきて、ふたりが隣りの応接室に入ると、小使いがお茶を運んだりし始めた。
署長はそこで食事をするらしかった。
ふたりは笑いながらテーブルに向かって座っていた。
しかし、高等視察はまだ署長に近寄れない。
野枝はじりじりした。
署長の食事が終わるのなど待ってはいられないと思った野枝は、直談判しようと、応接室の扉口(とぐち)に進んだ。
こういう場合、案内なしに部屋に近づくことの無作法を、野枝は百も承知していた。
そこには新聞記者連もいた。
野枝は彼らの侮蔑のまとになることも平気だった。
「こんなところからはなはだ失礼ですが、あなたは署長さんでいらっしゃいますね」
野枝は扉口に立って軽く一礼するとすぐに言った。
署長はかすかに頷いた。
「私は先刻からお目にかかりたいと思ってお待ちしているのですが、お目にかかるのは後でさしつかえありませんが、実は検束されている人たちがまだ夕食をすましていませんので、食べ物を差し入れたいと思いまして持ってまいりました。なにとぞお許しをいただきとうございます」
署長は侮蔑を示して、野枝の顔から目を転じ、警部と顔を見合わせてニッと笑って言い合わせたように箸をとった。
「今、署長はお食事中ですから、ちょっとお待ち下さい。すみましたら、なんとでもお話してあげますから」
居合わせた巡査や視察が、野枝の前に立ちふさがった。
署長の侮蔑に引き下がる野枝ではなかった。
「私はあなた方に云つてるんぢやない。」
私は巡査をおしのけた。
「如何です署長さん、いゝんですか悪いんですかきめて下さい。私は待つてゐるんです。あなた方がさうやつて食事をなさるのもおなかゞすいたからでせう。中にはいつてゐるものもおなかをすかしてゐるんです。どうしてくれんです。もう十時ですからね。」
署長は頑固にだまつてゐた。
巡査はしきりに私を遮らうとする。
「いけないんですか、いけなければはつきり云つて下さい。みんなをひぼしにするんですね。返事をして下さいな、返事がなければ分りませんからね。返事も出来ないんですか。」
巡査はしきりと私をなだめる。
何時の間にか私の後ろは人立ちで警察の玄関は一ぱいになつてゐた。
「あなたがそんなに云はないでも、おなかがすいたと云ふのなら警察でいゝやうにしますからーー」
「警察の世話なんかにはならない。そんな意地悪がしたいのならまあたんとするがいゝ。ひぼしにでもなんでもするがいゝ。今にその大きな顔の持つて来どころをなくさないやうにするがいゝ。」
私は扉口を退いた出口の処まで来るとH(服部浜次)が、和服姿ではいつて来て入れちがいに視察達のつめてゐる室に案内されて行つた。
私は激しいめまいに襲はれて玄関の入口にしやがんでゐた。
(「拘禁される日の前後」/『新小説』1919年9月号・第24年第9号/「拘禁されるまで」の表題で大杉栄らの共著『悪戯』/「拘禁されるまで」の表題で大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/「拘禁される日の前後」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p90)
「大杉さんに差し入れというのはなんなんですか?」
野枝が振り返ると、受付のところに年老いた巡査が立っていた。
骸骨に皮をかぶせたような、気味の悪いほど痩せた老人だった。
野枝は服部浜次の次男・麦生に指図して、持って来たものを全部そこに出させた。
「こんなにたくさん?」
「だってみんなで十人からでしょう」
「みんなに入れるんですか?」
「みんなでなくて誰に入れるんです?」
「大杉さんひとりということでしたが?」
「冗談言っちゃいけませんよ。おおぜいで一緒にいるんじゃありませんか。なんだってひとりだけに入れるんです。ひとりに入れるくらいなら、よします」
「でも、ひとりということでしたが?」
「ひとりに入って、他の人には入らないんですか、どういうわけです? 私の方でひとりだけになどど、言った覚えはありませんよ」
「じゃ、ちょっと聞いてみます」
入れ違いに警視庁の高等課のKという、同志間で憎まない者はいないアバタ顔の視察がやって来て、寺田をとらえて言った。
「じゃあ、これを君が持って入って、みんなに少し静かにするように言ってくれたまえ。どうもあばれてやりきれないから」
野枝と寺田は留置場に入って行った。
中では見回りに来た私服の刑事が何か気にいらぬことをしたというので、みんなで大騒ぎをして押し出そうとしているところだった。
四つか五つ並んだ檻房の扉はひとつだけを残して、全部開け放されていて十四、五人の同志はみんなタタキの廊下に出て騒いでいた。
野枝たちは食べ物を分けて、ことづてを聞いて、三十分ほどして外に出た。
検束された人たちの半数は、その夜のうちに帰されて来た。
留置場に残留になったのは大杉、荒畑、近藤憲二など十数名だった。
『日録・大杉栄伝』によれば、彼らは深夜三時ころまで革命歌を歌って騒いだという。
野枝たちが差し入れたのはパンや桃だった。
★大杉栄・伊藤野枝らの共著『悪戯』(アルス・1921年3月1日)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index