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2016年07月21日
第301回 下婢
文●ツルシカズヒコ
野枝は『労働運動』一九二〇年二月号(一次四号)に、「堺利彦論」の前編、および八面(婦人欄)に「争議二件」「閑却されたる下婢(かひ)」「友愛会婦人部独立」「消息其他」を書いた。
「争議二件」は富士瓦斯(がす)紡績押上工場の争議、相州平塚町の相模紡績の争議の短信である。
相模紡績について野枝は「女工虐待では有名な」と書いている。
「閑却されたる下婢(かひ)」の冒頭で、野枝はこう書いている。
婦人の労働問題は、最近大分議論されるやうになったが、其の中心になつてゐるのは、何んと云つても工場労働者たる婦人に限られたやうになってゐる。
……此の工場労働者と同様に、或る意味ではもつとも惨めな、そして、我国の婦人労働者の数の第一位を占めてゐる、下婢がまるで問題にされてないのは、奇妙な事だと云へる。
(「閑却されたる下婢」/『労働運動』1920年2月1日・第1次第4号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p144)
当時、下婢払底の声が盛んになっていた。
農村子女が職を得る道のひとつとして開けていたのが下女奉公だったが、工場労働の方が割りがよく自由もあったので、下婢志願者が減少していたのである。
下婢が売り手市場になったことにより、各家庭の主婦たちの下婢の増長に対する嘆声が聞かれるような風潮になっていた。
前年の十月、森戸辰男が「日本に於ける女子職業問題」というリポートを発表していたが、その第二章第三節「二、婢」のデータを野枝は紹介している。
それによれば、当時、全国には七十万から百万の下婢が存在していた。
一九一六(大正五)年の全国の都市の下婢の平均賃金は、賄い付きで月三円十七銭。
賃金のみならず、下婢の食住がいかに劣悪であるか、「二十四時間労働」を強いられ、いかに雇用者の隷属下にあるかーー。
野枝は森戸がリポートしたデータを元に訴えている。
森戸は東大経済学部の紀要『経済学研究』創刊号(一九二〇年一月)に発表した「クロポトキンの社会思想の研究」が危険思想とされ、一月十四日に東京帝国大学経済学部助教授の職を休職になっていた。
いわゆる森戸事件で、森戸は十月、大審院で禁錮三ヶ月、罰金七十円に処せられた。
「友愛会婦人部独立」によれば、友愛会婦人部の会員は約二千二百名、うち富士瓦斯紡績押上工場の女工が千八百名である。
婦人部の独立は友愛会会長・鈴木文治の専制を打破するための動きであったが、結局、実現はしなかった。
一方、平塚らいてうは前年ごろから、友愛会婦人部の常任書記を辞したばかりの市川房枝を誘い、新団体の結成準備に取りかかり、新婦人協会を結成した。
東京モスリン吾妻工場を解雇された山内みなも新婦人協会に所属することになるが、野枝は「某婦人協会」(新婦人協会のこと)を結成したらいてうらを「不徹底な知識階級の婦人達」と批判している。
前年の十月二十九日、ワシントンで開催された第一回国際労働会議に参加した日本の代表団は、一月十三日に帰国した。
「消息其他」では婦人顧問として参加した田中孝子、田中に随行した尾形節子(鐘紡の女工)に言及、田中を批判している。
なお、野枝が担当している婦人欄に、山川菊栄が「米国の婦人労働者」を寄稿している。
この号から久板卯之助がスタッフに加わった。
野枝は『ニコニコ』二月号に「悪戯」、『解放』二月号に「ある女の裁判」を寄稿している。
「悪戯」は安藤花子という筆名を使用している。
「ある女の裁判」解題によれば、「とんだ木賃宿」事件が起きたのは二年前の三月だったが、このとき区裁判所で過ごした四、五時間の見聞を創作にしたのが「ある女の裁判」である。
大杉が日ごろ裁判の傍聴を勧めていたので、野枝はある裁判を傍聴したようだ。
被告は貧しい暮らしをしている屑屋の女房である。
被告はある男と不貞の関係になったが、その男は泥棒で盗品を彼女が預かったために起訴された。
野枝は傍聴した理由をこう書いている。
……被告人は女でした。
けれども……それが女だつたからと云ふ興味だけで聞いたのではありません。
また女だつたから特に面白いと云ふ種類のものでもありませんでした。
私はその裁判される事柄それ自身よりは『裁判』と云ふものに興味を感じたのでした。
(「ある女の裁判」/『解放』1920年2月号・第2巻第2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p)
今回の入獄に際し、大杉は三ヶ月間、三畳ほどの独房生活をしながら世界中を遊び廻るのも面白かろうと、エリゼ・ルクリュ『新万国地理』第七巻「東部亜細亜」、ダーウィン『一博物学者の世界周遊』、ウォレス『島の生物、動植物の世界的分布』などの書籍を丸善で購入した。
偶然に出逢ったファーブル『昆虫の生活』(仏語の原書)なども含めて、二十冊ばかりの本を抱えて豊多摩監獄に入獄した。
そして、入獄後すぐに丸善の新着本の中にあったファーブルの英訳書が五冊差し入れになった。
ーー『昆虫の生活』は『昆虫記』十巻の中からの抜粋で、フアブルが最も苦心して研究したいろんな糞虫の生活が其の大部分を占めてゐた。
ーー糞虫と云ふのは、一種の甲虫で、牛の糞や羊の糞などを食つてゐるところから出た俗称だ。
糞虫が、そう云つた糞を丸めて握り拳大の団子を造つて、それを土の中の自分の巣に持ち運ぶ、其の運びかたの奇怪さ!
又、一昼夜もかかつてその団子を貪り食つて、食ふ尻から尻へとそれを糞にして出して行く、其の徹底的糞虫さ加減!
そして又、やはり其の団子で、自分が死んだあとでの卵の餌食を造つて置く、其の造りかたの巧妙さ!
それにフアブルの観察や実験の仕方の実に手に入つたうまさ!
描写の詳密さ!
文章の簡素雄渾さ!
読み始めると、とても面白くて、世界漫遊どころではない。
(アンリイ・ファブル『昆虫記』「訳者の序」/『大杉栄全集 第九巻』/『大杉栄全集 第14巻』)
そして、差し入れてもらった英訳本『蟋蟀の生活』『糞虫』『左官蜂』『本能の不可思議』などを読み耽った。
※エリゼ・ルクリュ
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
★『大杉栄全集 第九巻』(大杉栄全集刊行会・1926年3月20日)
★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第300回 教誨師
文●ツルシカズヒコ
一九二〇(大正九)年一月二十二日、前年夏に豊多摩監獄に下獄した吉田一が出獄した。
行く先のない吉田は労働運動社に寄食することになった。
おしゃべりな吉田が獄中で唯一おしゃべりができるのが、教誨師の訪問を受けるときだった。
「だけんど、俺がたったひとつ困ったことがあったんだ」
吉田は博学な教誨師を無学な自分が論破した話を野枝にした。
あるとき教誨師が吉田に言ったという。
「おまえは、誰も彼も平等で、他人の命令なんかで人間が動いちゃいけないと言ったな。命令する奴なんぞあるのが間違いだと言ったなあ。だがね、たとえば、人間の体といういうものは、頭だの体だの手だの足だの、また体の中にはいろいろな機関が入っている。そのいろいろな部分がどうして働いていくかといえば、脳の中に中枢というものがあって、その命令で動いているんだ。この世の中だって、やっぱりそれと同じだよ。命令中枢がなくちゃ動かないんだ」
吉田は体のことなど知らないので、返事に詰まってしまった。
「どうだ、それに違いないだろう」
吉田は口惜しかったが、黙っていた。
「よく考えてみろ、おまえのいうことは間違っている」
そう言って教誨師は行ってしまった。
口惜しくてたまらなかった吉田は、半日、夜まで考え続けた。
そして次に教誨師が来たときに言ってやった。
「うんと歩いてくたびれ切ったときにゃ、いくら歩こうと思ったって足が前に出やしねえ。手が痛いときに働かそうと思ったって動かねえや。口まで食ったって胃袋が戻しちまうぜ。それでもなんでもかんでも頭の言う通りになるのかね。それからまたよしんば、方々での言うことを聞いて働くにしたところでだね、その命令を聞く奴がいなきゃどうするんだい? 足があっての、手があっての、なあ、働くものがあっての中枢とかいうもんじゃないか。中枢とかいう奴の己一人の力じゃないじゃねえか。ならどこもここも五分五分じゃねえか。俺は間違っちゃいねえと思う」
すると今度は教誨師が黙ってしまい、それ以降、吉田には何も言わなくなった。
吉田はいつも夢中で話すときに誰に向かってそうするように、野枝にぞんざいな言葉で話した。
「感心ね。よくでもそんな理屈が考え出せてね」
野枝が言うと、吉田はいかにも得意気にしゃべった。
「そりゃもう口惜しいから一生懸命さ。どうです、間違っちゃいないでしょう」
吉田が労働運動社に寄食するようになったことについて、野枝はかなり心配していたが、意外にも彼はやるべきことはやるようだった。
労働運動社の炊事は朝晩、交代でやることになっていたが、吉田は毎朝の炊事を引き受けた。
監獄で習慣づけられたとおりに、雑巾などを握って台所なども、案外きれいに片づけた。
二月一日、『労働運動』二月号・一次四号を発行、その経過を野枝が手紙で大杉に報告している。
宛先は「豊多摩郡野方村 豊多摩監獄」。
雑誌はまた昨日禁止になりました。
一昨夜十二時すぎに、和田さんが電車もないのに納本にゆき、昨日の朝近藤さんが行つて見ると、ボルガ団の記事がいけないと云ふので、皆んなで一段ばかり削る事になりました。
この工合だと初版禁止改訂再版が毎号つきものになりさうだと皆んなで話してゐます(二十九日)。
二十九日の夜と云つても、もう三十日の午前三時頃、漸く雑誌を渡辺まで運び込んださうです。
それから折つて三十日の四時の急行で和田さんは大阪に帰へりました。
そしてその晩ひと晩ぎりで後を折つて三十一日に配本を終りました。
近藤さんは風邪で苦しがりながらあちこちと本当に大変でした。
皆んな、大変な努力でした。
(「消息 伊藤」・【大正九年一月三十一日・豊多摩監獄へ】/『大杉栄全集 第四巻』/
「書簡 大杉栄宛」一九二〇年一月三十一日/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p131~132)
『定本 伊藤野枝全集 第三巻』解題によれば、「ボルガ団」とは同志社大学の東忠継(ただつぐ)、京都大学の高山義三などの学生に、奥村電機の新谷与一郎らの若い労働者が加わった労学会と言うべき京都の団体。
「渡辺」は故渡辺政太郎の妻・若林八代宅(小石川区指ヶ谷町九二番地)で、北風会の会場である八代宅は『労働運動』の発行所でもあった。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、『労働運動』同号より久板がスタッフに加わり、新たに神戸支局(主任・安谷寛一)を開設した。
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
2016年07月19日
第299回 山川菊栄論
文●ツルシカズヒコ
野枝は『解放』一月号(一九二〇年一月号・第二巻第一号)に「山川菊栄論」を書いた。
「新時代の新人物月旦」欄の一文で、他に黒田礼二「森戸辰男論」、新明正道「島田清次郎論」が掲載された。
野枝は前振りとしてこんなことを書いている。以下、『定本 伊藤野枝全集 第三巻』の要約。
●社会問題がやかましく議論される昨今だが、社会問題に関する婦人界の知識が隔絶されている中で、山川菊栄氏のような評論家を得たことは一般婦人にとって幸いである。
●与謝野晶子氏、平塚明子(はるこ)氏は婦人評論家として押しも押されぬ存在であるが、社会問題に対する見識と態度においては、菊栄氏におよぶべくもない。
●労働問題に対する三氏の見解や態度は、三氏の色を明確にするものだと思う。
そしてまず与謝野晶子の「総論」を書いた。
●『太陽』において、早くから実際生活に対する不平をよく並べて、初老くらいの年輩の人々から注目されているのが与謝野氏である。
●しかし、そもそも氏は評論家ではない。どこまでも芸術家らしい人である。
●氏は目新しい理論などにすぐに眩惑され、批評をすることができない。
●氏の知識には統一がないから、バラバラの知識が氏の感情をいろいろに豹変させる。
●非常に正しいことを言っていると感じることもあるが、とんでもないことを得々と語っている場合も多い。
●そういう根本問題に、氏は少しも気づいていない。だから評論家として立つ資格がないのである。
続いて平塚明子の「総論」。
●与謝野氏に比べると平塚氏は評論家としてずっと聡明だ。
●与謝野氏は極めて不用意に大まかな感想や議論を無造作にするが、平塚氏はひとつの理論を受け容れるにしても、隅から隅まで吟味した後でなければ、軽はずみなことは口にしない。だから、平塚氏は評論家として申し分ないのである。
●平塚氏はエレン・ケイの導きによって、ようやく抽象論から実際的な社会問題に取り組むようになった。
●しかし、ケイの導きから一歩も出ていないのも事実であり、それが評論の領域を極めて不自由にしてしまっている。
さらに山川菊栄の「総論」。
●氏は早くから社会問題に注意を怠らず、それに対する知識を養ってきた。
●その透明な頭脳をある理論の追究に向けるとき、氏の冷たい鋭さが一貫していささかの妥協もゆるさない。
●自分を繕おうとする臆病な批評家たちなど真似のできない、氏独自の強味と鋭さがある。それが論敵に向けられたとき、その鋭峰はいささかの躊躇もなく敵の虚をつき、同時にまた持論の防備の手を拡げていく。
●これは与謝野、平塚両氏にとうてい見ることのできない強味であり、両氏よりはるかに多くの社会に対する知識や理解を有しいているから可能なのだ。
●しかし、「事象の陰翳(いんえい)」に対しては、平塚氏の方がすぐれている。平塚氏は微細な注意を払い理解を持とうと努める。
●「事象の陰翳(いんえい)」に対して、山川氏は時としてまったく寸毫も仮借しない。特に少しでも氏に侮蔑を持たれた場合には、特にこの寛大は求められない。
次に野枝は三氏と労働問題について論じている。
まず、与謝野晶子と労働問題。
●氏は労働問題についてはまったく差し出口を許されない人である。
●氏は柔らかい着物を着、暖かな寝床に寝て滋味をとりながら、ただその支払いに必要なお金が時々不足するから自分を貧民扱いにする人である。
●不潔な長屋に住み、不味いものを食べ、過労と睡眠不足との身を細らしながら、十二時間も十四時間も働かされて掠奪され踏みにじられている労働者をとらえて、自分たちよりはるかに幸福な人たちだなどと、とんでもないことを言う人だ。
平塚明子と労働問題。
●氏も最近かなり労働問題に興味を持ち出したきたようである。
●現在の女工の実際生活を見た人ならば、誰だって黙っていられるはずがないが、しかし、氏もまたそれを支配している大きな社会背景を理解していない。
●氏が現在、婦人労働者に対してやろうとしている第一のことは、彼女たちに教育をつけることらしい。
●しかし、彼女たちの悲惨は誰がどう救うのか? 資本家はどうすればいいのか? 労働者はまず何をなすべきか? 自分たちと労働者の溝をどうするのか? 平塚氏に聞いてみたいものだ。
●母性保護、健康というようなことをしきりに言っている氏の考えは、女工に対する同情の域を出ていないと思う。
●同情が無駄なこととは言わないが、資本家の不当な力というようなことにはまるで理解がない。
●氏は私に向かって言ったことがある。「あなたは工場で働くものでなくては労働者ではないと思っている」と。
●しかし、工場労働者ほど横暴に資本家の専制王国の牢獄にあるものが存在するだろうか。
●氏はまだ本当に社会的な諸組織の絶大な力を理解していない。
山川菊栄と労働問題。
●与謝野、平塚の二氏に比べて、山川氏がこの問題に対して明確な理解を持っていることは万人の認めることだ。
●しかし、氏には知識階級者としての自尊の影が、労働者の上に射していることがある。
●氏は知識階級者の助け、啓蒙なくして労働者は完成されないと言う。
●氏がそうだとは言わないが、習得した知識を特権でもかざすように労働者に見せびらかすことは、彼らの感情を踏みつけ反感を買うだけである。
●氏は労働者の知識階級に対する反感を狭量として非難した。かりに知識階級が労働者よりすぐれたものであるなら、だからこそ労働者に対する寛大さが必要なのではないだろうか。
●氏は労働者をよく知り偏見もないが、氏は文筆のみの運動者であり、彼らの中に伍する機会がないために、自分の生活と労働運動を一になしえないのである。
野枝は最後に山川菊栄は「日本の労働者の上に、太陽のように輝くであろう」と書いた。
●氏は硬い人だ、円味のない人だ、女らしい潤いのない人だという批評をよく聞く。
●しかし、私の知る菊栄氏は、優しい人、女らしい人、愛嬌にとんだ人、気持ちのいい話をする人だ。
●ずいぶん厳しい皮肉も言うが、しかしまた、なかなかうまいしゃれなども言う人であり、よく声をたてて笑う人だ。
●氏は現在の日本婦人がいかに男性に侮辱されているかということを、寸時も忘れることができない人だ。
●現在の日本婦人は古い因習に自由に息つくことも許されない。その因習に反抗した勇敢な婦人たちが、文学に心酔し、そのセンチメンタリズムに溺れ、安価な恋にだらしなく堕落し、再び因習に陥っていく事実がそこらじゅうに転がっている。
●氏のような透明な理性を持っている人には見ていられないのだ。侮蔑と反感でいっぱいになるのだ。女をそんなものと初めから決めてかかる男を、憎まずにはいられないのだ。だから氏はたいていの男性に強い武装をもって向かう。
●健康が回復したら、氏は労働者の中に飛びこんでいく人だと思う。そうなれば氏は日本の労働者の上に、太陽のように輝くであろう。
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第298回 豊多摩監獄(二)
文●ツルシカズヒコ
『労働運動』一次三号が発行されたのは、一九二〇(大正九)年一月一日だった。
同号の「御断はり」(『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄全集 第14巻』)によれば、十二月に出すべきものが一月になったのは、印刷所の都合がつかなかったからで、信友会のストの影響も発行を遅らせることになった。
結局、十二月号を休刊にして一月号を出すことになり、頁数は八頁増の二十頁にした。
同号には「又当分例の別荘へ行つて来ます」という大杉の「入獄の辞」(『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄全集 第14巻』)も掲載されている。
野枝は同号に「婦人労働者の罷工」「罷工婦人等と語る」「消息其他」を書いている。
「婦人労働者の罷工」では、博文館印刷所、日本書籍、東京書籍の罷工、および信友会を中心とする活版工の八時間制要求の同盟罷工に、婦人労働者が含まれていることに注目している。
「罷工婦人等と語る」は『新公論』一九一九年十二月号に寄稿した「婦人労働者の現在」とほぼ同様の内容だが、この取材について、野枝はこう記している。
……今号で婦人活版工諸氏が今回の罷工によつて示された態度について紹介する事が出来たのは非常な光栄だと思ひます。
此の頃では世間の風潮につれて、婦人界でも労働問題が彼是(あれこれ)議論されるようになり、私共が思ひもよらない方面の婦人雑誌でさへ盛んに書き立てるやうになつたのです、処がその総てが、一様に今回の婦人活版工の罷工に対して何んの態度も表明せずに、世間同様に黙殺し去つた不誠実さは私の憤懣に堪へないものであります。
(「消息其他」/『労働運動』1920年1月1日・第1次第3号/學藝書林『伊藤野枝全集 下巻』に初収録/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p121)
「消息其他」には、他にこんな記述もある。
■山川菊栄氏は現在では一番有力な婦人労働者の味方ですが、つい先達まで読売新聞の婦人附録の寄稿家でした。
が、氏の寄稿されたものが少しも発表されないでので聞いて見ると氏が婦人労働問題ばかり書き送られるので新聞社では、自分の方には労働問題は不向きだから、大学解放問題でも書いて欲しいと云つて今迄氏の書かれたものを発表しないのださうです。
氏は早速寄稿を拒絶されました。
■友愛会婦人部の記者市川房枝氏が入社後一ケ月で辞職されました。委(くは)しい事は婦人画報新年号で発表されるとの事です。
(「消息其他」/『労働運動』1920年1月1日・第1次第3号/學藝書林『伊藤野枝全集 下巻』に初収録/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p121)
市川房枝は、前年十一月十四日、政府代表夫人顧問・田中孝子の随員に山内みなを推したことが、友愛会内部で問題となり、責任をとって婦人部書記を辞任、友愛会も退会した。
一月、大杉は豊多摩監獄から野枝に手紙を書いた。
此の五日から漸く寒気凛烈。
そろ/\監獄気分になつて来た。
例の通り終日慄えて、歯をガタガタ云はせながら、それでもまだ風一つひかない。
朝晩の冷水摩擦と、暇さえあればの屈伸法とで奮闘してゐる。
(『労働運動』1920年2月号・1次4号・「豊多摩監獄から」/『大杉栄全集 第四巻』・「獄中消息 豊多摩から」・【伊藤野枝宛・大正九年一月十一日】/大杉栄研究会編『大杉栄書簡集』/『大杉栄全集 第13巻』)
檻房は見晴らしもちょっといい南向きの二階で、天気がよければ一日中、陽が入り、毎日二時間の日向ぼっこもできた。
この、日向ぼつこで、どれだけ助かるか知れない。
此の監獄の造りは、今まで居た何処のと一寸違ふが、西洋の本ではお馴染の、あのベルクマンの本の中にある絵、その儘のものだ。
まだ新しいのできれいで気持ちがいい。
(『労働運動』1920年2月号・1次4号・「豊多摩監獄から」/『大杉栄全集 第四巻』・「獄中消息 豊多摩から」・【伊藤野枝宛・大正九年一月十一日】/大杉栄研究会編『大杉栄書簡集』/『大杉栄全集 第13巻』)
『中野のまちと刑務所』によれば、豊多摩郡野方村新井・沼袋の丘陵地に、豊多摩監獄の新獄舎が完成したのは一九一五(大正四)年。
敷地は市谷の3倍、収容人員は4倍。
近代的な総レンガ造り、周囲約1q。
その高塀もすべて赤レンガ。
男子受刑者を拘禁するのを目的に建てられたものであった。
近隣はまだ人家もまばらで、緑の田園の中に真新しい赤レンガの獄舎が、崇高なたたずまいをみせていた。
その建築群は、やさしくおだやかで、内実にみちており、若き設計者後藤慶二はまたたく間に天才建築家として注目を浴びる。
(『中野のまちと刑務所』_p10)
なお、豊多摩監獄は1922(大正11)年に豊多摩刑務所に名を改める。
大杉が収監されたのは十字舎房の二階である。
大杉の獄中での作業は煙草と一緒にもらう小さなマツチの箱張りだった。
……本所の東栄社と云ふ、丁度オヤヂと僕の合名会社のやうな名のだ《僕のオヤヂは大杉東と云つた》。
一日に九百個ばかり造らなければならぬのだが、未だその三分の一も出来ない。
それでも、今日までで、二千近くは造つたらう。
一寸オツな仕事だ。
若し諸君がマヅイ出来のを見つけたら、それは僕の作だと思つてくれ。
(『労働運動』1920年2月号・1次4号・「豊多摩監獄から」/『大杉栄全集 第四巻』・「獄中消息 豊多摩から」・【伊藤野枝宛・大正九年一月十一日】/大杉栄研究会編『大杉栄書簡集』/『大杉栄全集 第13巻』)
朝七時に起きて、午前午後三時間半ずつ仕事をして、夜業が三時間半、寝るのは九時。
前年に差し入れられた本は年内に読んでしまい、新しい本の差し入れを催促している。
……此の正月の休みは字引を読んでくらした。
何分もう幾度も監獄へお伴して来てゐる字引なので、何処を開けて見ても一向珍らしくない。
あとを早く。
(『労働運動』1920年2月号・1次4号・「豊多摩監獄から」/『大杉栄全集 第四巻』・「獄中消息 豊多摩から」・【伊藤野枝宛・大正九年一月十一日】/大杉栄研究会編『大杉栄書簡集』/『大杉栄全集 第13巻』)
大杉は二女の誕生を看守長からの伝言で知った。
馬鹿に早かつたもんだね。
僕がはいつた翌日とは驚いたね。
母子共に無事だと云ふことだが、其後はいかが。
早く無事な顔を見たいから、そとでが出来るやうになつたら、すぐ面会に来てくれ。
子供の名は、どうもいいのが浮んで来ない。
これは一任しよう。
(『労働運動』1920年2月号・1次4号・「豊多摩監獄から」/『大杉栄全集 第四巻』・「獄中消息 豊多摩から」・【伊藤野枝宛・大正九年一月十一日】/大杉栄研究会編『大杉栄書簡集』/『大杉栄全集 第13巻』)
野枝はエマ・ゴールドマンにちなんでエマと名づけた。
大杉は魔子や雑誌についても言及している。
魔子はパパちやんを探さないか。
尤もあいつはいろんな伯父さんがよく出て来たりゐなくなつたりするのに馴れてゐるから、左程でもないかも知れんが。
いいおみやを持つて帰るからと、さう云つて置いてくれ。
雑誌(労働運動)はいかがか。
新年号は無事だつたかな。
とにかくもうかれこれ、二月号の編輯になるね。
けふは日曜、午後から仕事が休みなので、此の手紙書きで暮した。
何分筆がいいので、書くのに骨が折れてね。
さよなら。
(『労働運動』1920年2月号・1次4号・「豊多摩監獄から」/『大杉栄全集 第四巻』・「獄中消息 豊多摩から」・【伊藤野枝宛・大正九年一月十一日】/大杉栄研究会編『大杉栄書簡集』/『大杉栄全集 第13巻』)
※旧中野刑務所
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
★『大杉栄全集 第13巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
★『中野のまちと刑務所 中野刑務所発祥から水と緑の公園まで』(學藝書林・1984年3月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
2016年07月17日
第297回 スパイ
文●ツルシカズヒコ
荒木郁子と野枝は『青鞜』時代の仲間だったが、郁子の姉・滋子によると、荒木一家が営んでいた神田区三崎町の旅館、玉名館に野枝は大杉と魔子を連れて時々遊びに来ていたという。
魔子が三つか四つのころだというから、魔子が数え年で三つとは一九一九(大正八)年のころだろうか。
失(な)くなった岩野泡鳴さんとも、よく私のうちで、落合ふこともありました。
あんなにお互いの主義の違つた方々でしたのに、いつも、一緒に、トランプや花合せなどして、四五時間遊び続けてしまうことも、よくありました。
岩野さんは例の調子で、声高に物を迎有(おつしや)るし、Oさんは静かに、調子を落着けて話をなさる、魔子さんが、トランプの札を掻き廻しに来るのを、野枝さんは、お母さんらしい鷹揚さでなだめて、魔子さんの持つてゐる餡子(あんこ)で、懐中(ふところじゆう)汚されても、大して気にもならないやうなのを私は、感心して見てゐたことがあります。
その頃を限りに、野枝さんとは、逢ふことがありませんでした。
魔子さんを乗せた乳母車を押して行く尾行連れの大杉さんの後から、私と門口(かどぐち)での一寸の立ち話しに遅れた野枝さんが追うて行く姿が、今更ながら、想ひに浮びます。
(荒木滋子「あの時の野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号)
岩野泡鳴は翌一九二〇(大正九)年五月、腸チブスを病み東京帝国大学医学部附属病院に入院中に、林檎を食べて大腸穿孔を起こし死去した。
荒木滋子には魔子と同じ生年の道子という娘がいた。
大杉一家が玉名館を訪れた際、魔子と道子はふたりで遊んだことだろう。
荒木道子はのちに文学座研究所に入り、女優としてデビューすることになる。
道子の息子が、『空に星があるように』で一九六六(昭和四十一)年第八回日本レコード大賞新人賞を受賞した荒木一郎である。
近藤憲二『一無政府主義者の回想』によれば、一九一九(大正八)年十二月、暮れもだいぶ押し詰まったころだった。
本郷区駒込曙町の労働運動社から、和田久太郎は二歳の魔子を乳母車に乗せて外出した。
乳母車を持ち出した理由のひとつは、子守りと見せかけて尾行をまくためだった。
電車道で振り返ると、尾行はついていない。
和田はそのまま乳母車を押して下谷区上野桜木町の有吉三吉の家まで行った。
大杉一派の集会が有吉宅で行なわれたりするほど、当時の社会主義者の間での有吉への信用は確かなものだった。
有吉はそのころ自宅でゴムマリに花の絵を描く仕事をしていた。
おもちゃ屋に出すのである。
「おい、いるかね?」
和田はいつものように上がり込んだ。
「よ〜う……」
有吉は振り返っただけで、手を休めなかった。
「今夜また大阪に行こうと思うんだ」
「幾時の汽車だ?」
「八時ごろの見当でいるがね」
和田はそのころ労働運動社の関西支局を受け持っていた。
「ところがね」
和田は声をひそめて言った。
「いつか預けておいた『労働運動の哲学』をもらっていく。みんな出してくれないか。大阪でもだいぶ集まるようになったから、読ませようと思うんだ」
『労働運動の哲学』は大杉の著作で、西村陽吉の東雲堂書店から出版されたが、発行と同時に発売禁止になっていた。
和田はいろんな話をしてから、有吉の家を出た。
乳母車の底には本がぎっしり詰まっていた。
その日の夕方、和田は尾行をまき、大きな風呂敷包みをかついで東京駅に現われた。
手荷物にしようとして、扱所まで行くと、突然「おいッ!」と声をかけられた。
和田君はギラリと眼鏡を光らせてふり返った。
洋服の男が三人いる。
和田君はちょっと狼狽の色を見せた。
「おいッ、ちょっとこちらへこい、その荷物を持ってくるんだ!」
一人の洋服は、もう包みに手をかけていた。
和田君はかみつくように怒鳴った。
「よけいなお世話だ、荷物を預けるのがどうしたというんだ!」
荷物をはさんで開けろ開けないのおし問答がはじまった。
駅の係員も、居合わせた人たちも、なり行きを見つめていた。
やがて和田君は駅のそとまでつれ出された。
「人のいるとこがいやなら、ここで開けろ!」
ずんぐりしたのが居たけ高になった。
「開ける必要はない、これは蒲団だ!」
「蒲団なら開けて見せたっていいじゃないか。ね、和田君」
こんどは別のがなだめるようにいった。
「いや、開ける必要はない!」
「開けろといったら開けろ! いやにもったいぶりやがって!」
「いや、必要はない!」
「じゃ、開けるぞ!」
「おれは承知しない!」
和田君は腕組みしたまま立っていた。
なかは、和田君のいったとおり蒲団だった。
そして、蒲団のなかにまるめこまれていたのは、なんと、おびただしくよごれた一枚の褌だった。
和田君はニヤリと皮肉な笑いを浮かべた。
「そういうものを、ひと様の前でひるがえされるのは恥辱だからね」
「野郎、うまく引っかかりやがった」
和田君は曙町に引き返してきていった。
これは、当時一部の仲間の間に有吉の奴くさいぞといわれていた問題を解決するために、和田君がうった芝居だったのである。
(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p97~98)
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、年が明けた一九二〇(大正九)年一月一日、労働運動同盟会の例会が開かれた若林やよ宅で、有吉三吉が中村還一を刺すという事件が起きた。
有吉が中村を刺したのは、中村が有吉をスパイだとする風評を流した恨みからだった。
労働運動同盟会は、各地の同志に有吉が間諜であることを通知し、有吉との関係を絶った。
★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第296回 豊多摩監獄(一)
文●ツルシカズヒコ
一九一九(大正八)年十一月八日と九日の午後、野枝は神田区錦町の貸席、松本亭を訪れた。
貸席は今で言えば、イベント会場などに使用される貸しホールである。
日本印刷工組合信友会を中心とする活版工諸組合が、労働八時間制を要求して同盟罷工をしている渦中だった。
罷工の中心となっている三秀舎は、信友会の組合員である婦人活版工たちの組織だったが、松本亭にその事務所を置いていた。
十一月八日は信友会が「八時間労働制」を要求して同盟罷工に入ってから十二日目だった。
そしてこの日の午後、組合と資本家との最初の会見が行なわれることになっていたが、前日から罷工破りが出始めていた。
野枝は松本亭を訪れ、三秀舎などの婦人活版工たちから話を聞き、そのリポートを書いた。
『ーーでも皆さん男の方とは違つて、いろんな面倒な事情もおありでせうに、よくこんな長い事結束をお続けになれましたはね』
挨拶がすむと、私は斯んな風に話しかけた。
『いゝえそんなに仰しやられるとお恥かしいんです。折角彼方此方で皆さんが応援して下さいますのに、私共の方で昨日から工場に出た人がございますさうで、本当に真先きにこんな事になつてどちらにも申訳けがありません。せめて今日の資本家側との会見がすむまで待つて下さればよかつたんですけれど』
聞いて見ると、男子側は八十人、婦人側は三人と云ふ数の人が裏切つたのだつた。
私は竹の皮に包んだ二つの大きなおむすびを貰つて皆んなの仲間にはいつてたべた。
そして夕方までおしやべりをしてゐた。
其処で聞いた話では、其の人達の現在の労働時間は朝七時から晩の七時までの十二時間と云ふ長い時間で其の上に食事時間の休みもろくに与へられずに終日立ち通しの労働だと云ふ。
殊に女には特別な生理状態の時もあれば妊娠と云ふ大事もある。
聞いて見ると妊娠中などは恐い程足がむくんだりひきつつたりするし、体の冷える事も確かにひどいらしい。
『随分乱暴ですね……男の人達は……さう云ふ女の特別な事までは分らないでせうから、そんな事は女だけで相談してどん/\要求するんですね、腰掛けを貰ふとか、床に敷物を敷いて貰ふとか。ぢや、妊娠中なんて云つても何んにも特別な保護なんぞはしてくれないのですね。出産の際やなんかでもーー』
『えゝ、そんな事してくれるものですか。妊娠中だらうが何んだらうが、重いものは持たせるし、高い処には上らせるし……』
婦人達は猶斯う云つてゐた。
『曾つては朝七時から夜十一時すぎるまで働く事を普通と考へてゐた事がある。現在の日曜毎の休みも私達には夢のようにしか思へなかつた程思ひもよらない事だつたのだ。本当に私達は楽に働けるようにしようなどゝは考へた事もなかつた。けども考へて見ると、私達は出来るだけ楽に働けるようにつとめなければならない。工場で現在の労働時間が八時間に短縮されても或は半分になつてくれても、自分達には決して短かすぎはしない。家庭の仕事を考へれば、私達はそれでやつと息づぎが出来る位のものだ』と。
勿論文明はいろんな家庭内の雑務を省く為めの便利な設備や方法を教へてはくれる。
けれどもそれもつまりは経済問題に関係して来る事で、さう云ふ文明の利器を駆使するには、労働階級はあまりに貧乏すぎ無知すぎる。
そして此等文明の有難さは、一番怠惰な生活をしてゐる女達に時間がありあまり、最も忙しい生活をしてゐる女達を一層過労に墜(おと)し入れると云ふ奇妙な現象を呈せしめる。
此の人達とは僅かに半日づゝ二日ゐたきりだつた。
けれども……日本の婦人労働者の上に、たしかに一道の光明を見出すことが出来た。
私は現在の知識階級の婦人達が自惚れてゐるように、或は押人売(おしう)りする同情には頼らないでも、もう暫く後には婦人労働者自身の力強い解放運動が実現される事を信ずる。
(「婦人労働者の現在」/「『新公論』1919年12月号・第○巻12号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p112~115)
野枝はこの時の取材を元に、『労働運動』(一九二〇年一月一日・一次三号)に「罷工婦人等と語る」(『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)を寄稿したが、内容は「婦人労働者の現在」とほぼ同じである。
ちなみに、このとき松本亭の女将をやっていた松本フミは加賀まりこの祖母である。
十二月十八日、大審院で尾行巡査殴打事件の上告が棄却され、懲役三ヶ月が確定した大杉は、十二月二十三日に東京監獄に収監され、翌日、豊多摩監獄に下獄した。
このときの警視庁警務部刑事課長・正力松太郎について、大杉はこう書いてる。
……僕を詐欺だの、家宅侵入だのと勝手な事をぬかして、引張つては放し、引張つては放して、とうたう傷害罪の古傷でぶちこんだ……男です。
(「一網打尽説」/『東京毎日新聞』1921年9月15、16、18日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)
十二月二十四日、野枝は二女を出産した。
大杉が収監された十二月二十三日、野枝は服部浜次の「日比谷洋服店」に寄り、大杉と面会するために裁判所まで歩いて行ったが、歩くのがすごく苦しかった。
裁判所からの帰りもいっそう体のアガキがつかないので、また「日比谷洋服店」に寄って休んでから、帰宅した。
夕飯をすませると、労働運動社の社員たちは『労働運動』三号の校正を始めたが、野枝は気分が悪いので蒲団に横になった。
すると、一時間もたたぬうちにお腹が痛み出した。
二時間ばかり経過を見て、夜の十時半すぎに安藤さん(産婆)に電話連絡をすると、安藤さんは助手を連れて来てくれた。
此の前と同じ経過で、何時までたつても駄目なんです。
お産婆さんは二人とも、私のおなかの上につつぷして眠つてばかりゐるのです。
私は苦しくて本当に何と云つていいか分りませんでした。
痛んで来るごとに、私は眼をつぶつては頭の中一ぱいにあなたの顔を見つめて、ぢつと自分の胸を抱いては苦しみを忍んでゐました。
すると二度ばかり不意にひどい痛みが来ました。
本当に目がくらむやうでした。
すると、三度目に子供は出たのです。
(【大正九年一月三十一日・豊多摩監獄へ】・「消息 伊藤」・大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/「書簡 大杉栄宛」一九二〇年一月三十一日・『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p131)
この手紙の書き出しは「中野に落ちついたさうですね。でも、昨日(一月二十八日/筆者註)近藤(憲二)さんに行つて頂いて様子も分りましたので安心しました。御起居いかに。寒さは随分きびしさうですね。東京とは十度も違ひますとの事、さぞかしとお察し致します」である。
東京市内からすると、当時の豊多摩郡中野の郊外感がよく伝わる文面である。
和田久太郎はこのころの野枝を、こう評している。
大正八年……曙町へ移つて同志と共に第一次の月刊『労働運動』を発行してゐた頃は実に真剣だつた。
信友会の行つた『八時間制要求』のストライキに応援して、解版(かいはん)女工さん達と焚出しや何にかに尽くしたのも此の頃だ。
又、その年の十二月に大杉君が入獄して、直ぐその翌日次女の『サチ』を産み落したのだが、産後の疲れもいとはずよく原稿料も稼いだし、大杉君への差入れや何にや彼(か)やと眼覚ましく立ち廻つた。
『労働運動』にも多くの紙面を受持つて書いてくれた。
(和田久太郎「僕の見た野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号)
※加賀まりこ
※中野刑務所
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
2016年07月15日
第295回 婦人労働者の覚醒
文●ツルシカズヒコ
一九一九(大正八)年十一月十三日、『労働運動』(第一次)第二号が発行された。
この号から野枝は「婦人欄」を担当し、婦人労働問題に関わっていく。
「婦人欄」を担当するにあたっての「御挨拶」で、野枝は田中孝子、与謝野晶子、平塚らいてうについて触れている。
過日友愛会婦人部の演説会に臨まれた田中孝子女史が、自分もアメリカで多少の苦学らしい事をしたから、労働の生活は知つてゐるつもりだと云つて、男子側からノオノオを浴びせられた。
これと同じ心理を与謝野晶子氏もまた持つて居られると見えて、九月七日の読売新聞の婦人附録に『山内みな子さんが新聞記者に話された言葉の中に「自分達と一緒に労働した経験を持たない婦人達の抽象的な女子労働問題は無効である。自分達の問題は自分達で決する」と云ふ勇ましい一節がありましたが……山内さんが、文章によつて労働問題を論じる私達もまた労働婦人の仲間である事を忘れて、排他的の態度を採られる事を遺憾に思ひます』と書いてゐられる。
又、演説会当夜、平塚さんも私に『工場労働者以外のものは労働者でないやうに思ふのは間違ひだ』と云ふやうな意味の事を洩された。
私は此の懸隔を面白いと思つて居ります。
出来るなら、私は次号には、これに対しての婦人労働者側の徹底した意見を此の誌上で発表したいと思ひます
(「御挨拶」/『労働運動』1919年11月13日・1次2号/學藝書林『伊藤野枝全集 下巻』に初収録/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p108)
野枝は自分の立場を、こう語っている。
私も与謝野夫人の所謂(いわゆる)婦人労働者ではありますが、極めて怠惰な中産階級の下積になつてゐる一人です。
私はまだ嘗つて一定の給料を貰つて資本家の下で働いた事もありませんし、勿論肉体労働の苦しみと云ふやうな事はお恥しい次第ながらありません。
けれども私は人間が同じ人間に対して特別な圧迫を加へたり不都合をするのを黙つて見てはゐられないのです。
自分でも自分相応に不平もあれば不満もあります。
しかし婦人労働者諸氏の受けてゐる不当以上の不当な待遇はとても私共の比ではありません。
私は現在の婦人労働問題を論じてゐるある種の婦人達のやうに、自分等は先覚婦人で、労働婦人を指導し教導するのが自分等の務めだと云ふやうなエライ考へを持つて、婦人労働者諸氏とおちかづきにならうとするのではありません。
私はたゞ怠惰な自分が、多少とも諸氏の活動の道具ともなつてお手伝ひが出来る事があるならばと思ふだけなのです。
此の婦人欄の為めに来月号からはもう一頁は是非とつて、そして出来る丈け婦人労働者諸氏の気焔を上げる場所にしたいと思ひます。
私の方から種(いろ)んなお話を伺ひにも出ますが、皆さんも、若し少しでもお書き下さる事が出来れば、それのみでも埋める位のおつもりで御寄稿下さる事をお願ひします。
(「御挨拶」/『労働運動』1919年11月13日・1次2号/學藝書林『伊藤野枝全集 下巻』に初収録/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p108~109)
野枝は「御挨拶」の他、『労働運動』一次二号に「婦人労働者の覚醒」「英国婦人労働組合」「婦人労働者大会」(前出)を寄稿している。
「婦人労働者の覚醒」は山内みな、野村つちの、大森せんらの目覚めた婦人労働者の尽力により、五百に満たなかった友愛会婦人部の会員が最近数ヶ月の間に二千数百の会員に達し、九月の友愛会の大会では婦人部独立の要求が入れられ、山内、野村が同会の理事に連なったと報告している。
さらに七月の博文館印刷所、東京書籍会社、日本書籍会社の職工の同盟罷工に際し、婦人労働者が男子に伍して活動したと報告。
「英国婦人労働組合」は海外の婦人労働者情報である。
●労働婦人として強固な自覚を持ち自主的に訓練されているのはドイツの婦人労働者が第一位だが、労働組合を最も組織的に発達させたのは英国の婦人労働者である。
●「今回の世界大戦」が多くの婦人をまったく思いもしなかった種類の労働に誘い込み、戦争という非常事態が生んだ結果ではあるが、英国の婦人労働者の数は非常な勢いで増加した。
●六年前に三十五万だった英国の婦人労働組合員が、五十万以上になった。
●戦争中、婦人の労働が歓迎され賃金が急に上がって組合員であることの利益が一般に認められたことが、英国の婦人組合員増加の一因でもあるだろう。
大杉が『労働運動』創刊号について言及している。
創刊号が出た。
評判はいろ/\だ。
編集の体裁は申分ないが、印刷のきたないので打ちこはしだ、と黒うとの人は云ふ。
編集のうまいのは近藤のお手柄で、印刷のまづいのは印刷屋のお手柄だ。
近藤はあれ以下にはまづくは出来ず、印刷屋もあれ以上にはうまくは出来ないのだから、仕方がない。
尤も、近藤の編集ぶりは、黒うとには受けがよからうが、白うとにはどうだか、と云ふ評判もある。
しかし、根がおとなしい上品な近藤のことだから、とても大きな活字をばらまいたりする品の悪いまねは出来ない。
(「手前味噌」/『労働運動』1919年11月13日・1次2号/『大杉栄全集 第四巻』・編集室にて・『労働運動』/『大杉栄全集 第14巻』・編集室にて・『労働運動』)
近藤憲二は『労働運動』の発行編集兼印刷人である。
大杉は主幹という立場だったようだ。
印刷のクオリティが低いのは、危険思想雑誌だから大手の印刷所が引き受けてくれないからだろうか。
「手前味噌」によれば、定価二十銭は高すぎるという一般的評価だったが、想定していた実売部数だとこの定価は仕方がなかったという。
しかし、想定していたより実売部数が多かったので、定価を下げる代わりに四頁増にすることにした。
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
2016年07月13日
第294回 労働運動の精神
文●ツルシカズヒコ
月刊『労働運動』(第一次)第一号が発行されたのは、一九一九(大正八)年十月六日だった。
タブロイド版十二頁、定価は二十銭。
大杉が創刊趣旨を書いている。
労働者の解放は労働者自らが成就しなければならない。
これが僕らの標語だ。
日本の労働運動は今、その勃興初期の当然の結果として、実に紛糾錯雑を極めてゐる。
頻々として簇出する各労働運動者及び各労働運動団体の、各々の運動の理論も実際も甚だ明確を欠き、従つて又其の相互の間の理解も同情も殆ど全くない。
局外者から観れば、日本の労働運動の現状は、全くの一迷宮である。
そして恐らくは、これは、猶暫くの間の、大勢であらう。
労働者の反資本家的感情が、混沌たる紛糾状態を描きつつ、向う見ずに狂奔して行くのも面白い。
しかし又、其の間に、各々の力が自己の進路や他の力との衝突や平均を確実に意識して行きたいと云ふ努力を起すのも、やはり自然の事であらう。
僕等は今、此の努力の促進を、日本の労働運動そのものの為めの僕等の首要な役目の一つだと考えてゐる。
本誌は即ち其の機関なのだ。
日本の有らゆる方面に於ける労働運動の理論と実際との忠実な紹介、及び其の内容批判、これが本誌の殆ど全部だ。
(「本誌の立場」/『労働運動』1919年10月6日・1次1号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』に「僕等の立場」と改題し初収録・編輯室にて・『労働運動』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』・編集室にて・『労働運動』)
大杉にとって労働運動とは、資本家に賃金の増加と労働時間の短縮とを要求するにとどまるものではなかった。
賃金の増加と労働時間の短縮は、人間が生き物として生きていくための最低限の生物学的な要求であり、初期の労働運動の二大属目だったが、今後の労働運動は労働者の人間的要求を満足させるものでなければならないと大杉は考えていた。
資本家が労働者を支配しているのは工場内にとどまらず、資本家は労働者の実存を支配していると大杉は考えていて、労働者の人間的要求とはつまり、労働者の実存を資本家から自分の手に取り戻すことだった。
僕等は、此の専制君主たる資本家に対しての絶対服従の生活、奴隷の生活から、僕等自身を解放したいのだ。
自分自身の生活、自主自治の生活を得たいのだ。
自分で、自分の生活、自分の運命を決定したいのだ。
そして僕等は労働組合の組織を以て、此の僕等自身を支持する最良の方法であると信ずる。
繰返して云ふ。
労働運動は労働者の自己獲得運動、自主自治的生活獲得運動である。
人間運動である。
人格運動である。
(「労働運動の精神」/『労働運動』1919年10月6日・1次1号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第二巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第6巻』)
大杉は労働運動社の社員紹介もしている。
中村還一、年廿二、時計工、労働同盟会前幹事。
和田久太郎、年二十七、人夫、新聞紙法違反で十ケ月の牢獄生活を終つて来たばかり。
近藤憲二、年廿五、早稲田大学政治科卒業。
伊藤野枝。
大杉栄。
外に目下傷害罪(尾行巡査を)で入獄中の活版工延島英一(年十八)も九月下旬出獄早々入社の筈。
これだけの社員が、社の常連として毎日のやうに遊びに来る多くの労働者と一緒に、いつも社にゴロ/\してゐる。
どなたでも、尤も二本足の犬だけは別だが、いつでもお遊びににお出で下さい。
(「読者諸君へ」/『労働運動』1919年10月6日・1次1号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』・編集室にて・『労働運動』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』・編集室にて・『労働運動』)
十月十一日、東京地裁で大杉の尾行巡査殴打事件に懲役三ヶ月の控訴審判決が下った。
『労働運動』を立ち上げたばかりで、野枝の出産も間近だったので、大杉は弁護士と相談して即日上告し、服役を先延ばしにした。
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
★『大杉栄全集 第二巻』(大杉栄全集刊行会・1926年5月18日)
★『大杉栄全集 第6巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第293回 婦人労働者大会
文●ツルシカズヒコ
第一次世界大戦の講和会議によって創設されたのが国際労働機関(ILO)だったが、その第一回国際労働会議が一九一九(大正八)年十月二十九日、ワシントンで開催されることになった。
その日本代表団の労働者代表が、政府の選出によって鳥羽造船所工場長・桝本卯平に決まったことから、友愛会をはじめとする労働団体の一大反対運動が起きていた。
第一回国際労働会議では、婦人の深夜業禁止や産前産後の休暇など、婦人関係の議題が含まれることになっていたので、政府代表の婦人顧問として田中孝子が任命された。
財界人の渋沢栄一の姪であった田中に対する、労働側からの風当たりも強かった。
婦人顧問の田中に婦人労働者の実状や要求をよく聞いてもらう目的で開催されることになったのが、友愛会婦人部主催による婦人労働者大会だった。
婦人労働者大会が本所区の業平小学校で開催されたのは、十月五日の夜だった。
平塚らいてうや野枝が来賓として招かれていた。
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(完結篇)』によれば、十月五日の夜は東京に台風が接近する前ぶれでひどい吹き降りだったが、横殴りの雨に濡れながら、らいてうは会場に出かけたという。
あいにくの雨にもかかわらず、業平小学校の雨天体操場は五百人以上の聴衆に埋め尽くされ、半数以上は婦人労働者だった。
司会は友愛会婦人部の常任書記・市川房枝、富士紡、東京モスリンなどの婦人労働者九名が演壇に立った。
東京モスリンの女工で友愛会理事の山内みなが、演説のしんがりを務め、草稿なしで熱弁を振るった。
らいてうは六年前の青鞜講演会を思い出していた。
あのときの聴衆はこれよりは多かったとはいえ、その三分の二は男性で、婦人の姿は男子とくらべようもないさびしさでした。
演壇に立つ人も……男性講師が主で……。
あのときにくらべて、今こうして女工の代表が演壇に立ち、「夜業禁止」「八時間労働」など、自分たちの当面の訴えを、次つぎにくりひろげる姿に、わたくしはおどろくほど早い時代の変化と発展をおもうのでした。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(完結篇)』_p55~56)
弁士の中にはまだ着物の肩揚げもとれない小娘もいれば、髪を銀杏返しに結い背に赤ん坊をおんぶした子持ちの婦人労働者もいた。
演説は草稿の朗読ではあったが、「おッ母ァうめえぞ〜」といった野次にも臆することなく、自分の要求を主張する婦人たちの姿に、らいてうは感動を抑えかねた。
山内みなの演説が終り、当時流行した霰(あられ)模様のお召しの着物、黒紋付きの羽織姿の田中孝子が壇上に立った。
「自分は決して労働生活を知らないわけでなく、アメリカでは女中のような経験もしたし、木の実取りをして働いたことある……」と話し始めると、猛烈な野次が聴衆の間から飛び交った。
この騒ぎは司会役の市川房枝の仕切りでひとまず収まったが、騒ぎは閉会後の控え室に持ち越された。
野枝が主役となった控え室でのこの騒動を、山内みなはこう回想している。
控室へもどってきた田中孝子女史に向って、伊藤野枝さんは「あなたのようなブルジョア婦人は日本の婦人労働者のことなどうんぬんする資格はない、国際労働会議に行くことをおやめなさい」と、たいへんな剣幕で詰めよりました。
田中さんも怒って、「あなたにそんなこと言われるおぼえはない」と激論になりました。
市川さんは、「ここでそんな議論はこまる、やめて下さい」といってやめさせました。
こんどは野枝さんは私のところにきて、「あなたは労働者だから、労働者はどうしたら解放されるか勉強しなさい、社会主義でなければだめだということがわかるでしょう、本を送ってあげます。」と言いました。
書記の菊地さんがそばで聞いていて、「会社はだめです、この子がクビになります。友愛会本部へ送って下さい」といった。
本部へ送ってきたのですが友愛会では私に見せませんでした。
その後しばらくたってから、会長鈴木文治氏が「みなちゃん、社会主義者に近づいてはいけないよ、おそろしい連中だから」と言いました。
(『山内みな自伝 十二歳の紡績女工からの生涯』)
らいてうが野枝の姿を見るのは、三年前、あの日蔭茶屋事件が起きる二日前、大杉と野枝が茅ケ崎に住んでいたらいてうを訪ねて以来だったが、控え室の騒動をらいてうはをこう記している。
ちょうどわたくしが帰りぎわにみんなに挨拶しようと控え室にいたときのことですが、突然、伊藤野枝さんが気色ばんだ見幕でそこに入って来ました。
彼女は、そこにいるわたくしをジロリと睨みーーまさにそんな感じの一瞥をくれて、むろん部屋のなかのだれに挨拶するでもなく、いきなり田中孝子さんのそばに行くと、「婦人労働者の経験のないあなたに、婦人顧問をつとめる資格はないのだ。一刻も早くおやめなさいーー」といった意味の言葉を、烈しい見幕で浴びせかけました。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(完結篇)』p56~57)
らいてうは野枝の憎体(にくてい)な言動にただ目を見張った。
野枝は縞の着物に黒紋付きの羽織を引っ掛けていたが、らいてうはそんな格好の野枝を見るもの初めてだった。
昔の娘らしいふくよかな面影がすっかり消え、ひどくトゲトゲしく、なんにでも突っかかり、誰にでも食ってかかるといったその日の野枝が、らいてうの目には未知の別人に映った。
しきりに言い募る野枝をたしなめる気持ちもあって、らいてうはひとことだけ言葉をはさんだ。
「工場で働く労働者のほかは労働者でないように言うのは間違いでしょう……」
罵倒といった感じで、自分のいいたいことを言うと、野枝はらいての言葉など黙殺したまま、プイと背を向けて出て行った。
らいてうは、野枝が大杉のもとへ走ってから折りにふれて聞こえてくる噂を思い浮かべた。
野枝が大杉の運動を助けて、あちこち金策に歩いていることはらいてうもしばしば耳にしていた。
後藤新平からお金を引き出した話も、大杉との間に生まれた子供に「魔子」と命名したことも、らいてうは知っていた。
なお、野枝は十二月に次女・エマを出産するが、らいてうはこのときに見た野枝のお腹がだいぶふくらんでいたと記している。
その後、らいてうと野枝に再会の機会は訪れず、この日の遭遇がふたりの永訣(えいけつ)となった。
野枝は婦人労働者大会について、こう書いている。
十月五日、本所区業平(なりひら)小学校で友愛会婦人部主催の婦人労働者の演説会があつた。
婦人労働者主催の此の種の演説会は先づこれが我国最初の催しであらう。
恰(あたか)も此の夜はワシントンに送る労働会議代表者桝本卯平(ますもとうへい)氏の労働者大会が明治座で催された夜であつた。
此の演説会も、政府側の婦人顧問田中孝子氏を招待して、大いに日頃持つてゐる不平不満を聞いて貰つて参考にして欲しいと云ふ、婦人労働者達の希望に出たものであつた。
招待された田中孝子氏は後(おく)ればせに女工諸氏の大半の演説が済んだ頃出席して、最後にその婦人顧問を引き受けた覚悟に就いて説明があつた。
当日広い会場の半数以上は婦人労働者諸氏によつて一杯に埋められた。
恐らくは五百人以上の出席者であつたに違ひない。
演壇に立つては、思ひ/\に、その要求がそれ/″\の理由をもつて提出されたが、帰する処は、労働時間の短縮、夜業廃止、の二つであつた。
大部分の諸氏は多勢の聴衆の前に立たれたのは始めてである為めか、皆多少の臆し気味があつて、草稿の朗読で終つて、期待した真の熱烈な叫びと云ふ風なものははかつた。
しかし、大多数の人達の要求が期せずして前記の二問題に落ち合つた処を観れば現在の紡織の婦人労働者が、何(いか)に最も苦しみつゝあるかは明瞭に看取する事が出来る。
賃銀問題に就いて、其の能率の上から、男子と同等の額をと主張したのは山内氏一人のみであつた。
政府が労働代表及び顧問に就いて婦人労働者を全く黙殺した事に対して確(し)つかりした批難を堂々と述べた野村つちの氏の演説と共に、当夜記者の印象に最も強く残つたのはそれであつた。
(「婦人労働者大会」/『労働運動』1919年11月13日・第1次第2号/學藝書林『伊藤野枝全集 下巻』に初収録/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p106~107)
野村つちの(富士紡)は山内みな(東京モスリン)とともに、友愛会理事を務めていた。
野枝はこの原稿を『労働運動』には無署名で寄稿、あくまで一記者としてリポートしている。
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(完結篇)』(大月書店・1973年11月16日)
★『山内みな自伝 十二歳の紡績女工からの生涯』(新宿書房/1975年12月)
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
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第292回 東京監獄八王子分監
文●ツルシカズヒコ
一九一九(大正八)年十月三日、懲役二年の刑を終えた神近市子が東京監獄八王子分監から出所した。
『読売新聞』が「淋しい笑顔を見せつゝ 神近市子出獄す」「好物のバナナを携へて露国の盲目文学者などが出迎へ」という見出しで報じている。
風呂敷き包みを抱えた彼女の写真も掲載されている。
「露国の盲目文学者」とはワシリー・エロシェンコで、秋田雨雀らとともに自動車で迎えに行ったのである。
市子は朝五時五十分に起き朝食を摂った。
秋田やエロシェンコらが八王子分監に到着したのは朝七時だった。
一時間程経て三人は市子を伴つて獄門を出て来た、
『……残念乍(なが)ら今日は何も御話が出来ません、唯御挨拶丈けで御免を蒙ります』
市子の辞(ことば)を受けて秋田雨雀氏は語る
『神近さんは当分静養し将来は創作家として立つことにならうが獄中でも創作は可なりあつたと聞いて居ります』
(『読売新聞』1919年10月4日)
大杉と野枝のコメントも掲載されている。
大杉のコメント。
入つたものは死にでもしなければ出て来るにきまつてゐるのだから出て来ると聞いても格別変つた感想も無いよ。
殺されてゐたら草葉の陰で恨めしいと思つてたかも知れないがね。
何でも女子青年会で引き取りたがつてゐるとも聞いたがあんな耶蘇教などへ行くよりは、又行きもすまいと思ふうが、秋田雨雀君のグループに帰つて文学生活に入るのがあの人のために一番好いだろう。
獄中で科学の本でも読んで来ると好いのだがワイルドの「獄中記」を訳したとかいふ話で読んだ物も恐らく思想的の本だらうと思ふ。
たいして変つた女になつて来るとも思はないね。
会ひたいなどとは思はないが偶然会ふ機会でもあつたら、さアその時どんな顔をするかね。
(『読売新聞』1919年10月4日)
野枝のコメント。
もう四五年も前に、あの人のお友達が神近さんは結婚をするのが一番いい、家庭の主婦になればチャンと落つく事の出来る人だから、其の方が始終動揺しなくていゝだらうなどゝ云つてゐた事もありますが、今後あの人がどうするとも私は別にそんな事に対しては思ふことはありませんね。
まあ小説でも書いて文壇を賑やかすのが一番いゝでせう。
随分私たちも材料になるかも知るれませんがね。
私の家にでも遊びに来てくれたら一寸面白いおつき合ひが出来るかも知れませんね。
大分周囲がやかましいから先(ま)づそんな事もありますまいが。
でも彼(あ)の人の事だからフイとまた来ないとも限りませんよ。
そんないたづら気でも彼(あ)の人が出して呉れるようだと、本当におもしろい人ですけれど……。
(『読売新聞』1919年10月4日)
神近が「私の家にでも遊びに来てくれたら一寸面白いおつき合ひが出来るかも知れませんね」というコメントは、野枝の本心だったのではないか。
十一月、神近は堀保子に謝罪した。
保子のコメントを「市子と保子」という見出しで『読売新聞』が掲載している。
二三日前の雨のビシヨ/\と降る日、突然一人でやつて来たのです。
顔を見ると謝絶をするわけにも行かず座敷へ上げましたがオイ/\泣くので困りました。
穴があれば入りたいと言ひましたが私も掘れるものなら穴を掘つてあげたいと思ひました。
大杉を刺した時の模様を話して呉れと揶揄(からか)い半分に気を引いて見たら喋り出したので驚きました。
何でも結婚をする心の準備がチヤンと出来てゐるといふことでした。
私にも結婚を勧めましたがどんな気で言ふのでせうかね。
(『読売新聞』1919年11月28日)
『神近市子 わが愛わが闘い』によれば、市子は出獄した翌年、一九二〇(大正九)年、評論家の鈴木厚と結婚した。
鈴木は市子より四歳年少、早稲田大学中退、資産家の養子だった。
辻潤が市子を来訪したときに、たまたま同行してきたのが鈴木だった。
市子は鈴木との間に三人の子供をもうけた。
※秋田雨雀記念館
★『神近市子自伝 わが愛わが闘い』(講談社・1972年3月24日)
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