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2016年07月02日
第271回 クララ・サゼツキイ
文●ツルシカズヒコ
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、一九一八(大正七)年十一月一日に開かれた同志例会で、外国の新聞や雑誌の情報を入手していた大杉は、近くドイツで革命が起きることを予見したという。
ドイツでは十一月三日にキール軍港の水兵の反乱が起き、十一月九日に皇帝が退位、ワイマール共和国が誕生する革命が進行中だった。
ドイツが連合国との休戦協定に調印し、第一次世界大戦が終結したのは十一月十一日だった。
十一月十五日の同志例会で、大杉はドイツ革命に言及し、その潮流が日本にも及び、社会民主党くらいはできるかもしれないなどと述べたという。
こういう世界情勢の中、野枝は『新小説』十二月号に「ロシアの一友に」を書いた。
近藤憲二『一無政府主義者の回想』によれば、イワン・コズロフという「怪露人」がいた。
コズロフはロシア人であるが、アメリカ生まれのアメリカ育ちなので、ロシア語は知らなかったらしい。
コズロフはIWW(Industrial Workers of the World)の会員だった。
一九一七(大正六)年ごろに来日し、レコード会社の仕事をしていたコズロフは、売文社に英会話を教えに来ていた。
二十六、七歳だっという。
コズロフ夫人のクララ・サゼツキイは、ロシア生まれのユダヤ人であり、アメリカではロシア・ユダヤ人無政府主義者団体に加わっていた。
『一無政府主義者の回想』の口絵写真の中に「大正6年ごろ有楽町の通称山勘横町にあった売文社に、ロシア人の客が訪ねてきたときの写真」があり、その写真にコズロフとクララも写っている。
コズロフ夫妻には日本で生まれたスガチカという娘がいたが、その名前は菅野須賀子からとったという。
スガチカは魔子と同じ歳だった。
大杉夫妻とコズロフ夫妻は、のちに家族ぐるみのつき合いをする仲になる。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、大杉がコズロフ夫妻に初めて面会したのは、一九一七(大正六)年十一月ごろだった。
イワン・コズロフは一八九〇年ポーランド生まれのロシア人で、四歳の時、米国へ渡った。
IWW(世界産業労働者)の組合員。
ロシアに二月革命が成ったので、それまで米国に亡命していた革命派のグループは、日本を経て帰国するため、四月ころから来日する。
その一人で、五月に家族と来た。
彼らは売文社と交流があり、コズロフは日本のアナキストへの紹介を依頼、高畠が引き受けて、大杉との会談が実現した。
グループはロシアへの入国を拒否されて目的を果たせず、米国に引き返すことになるが、彼は日本にとどまり、やがて大杉と親交する(沿革一)。
(大杉豊『日録・大杉栄伝』_p213)
「沿革一」は官憲の資料に基づいているということである。
「ロシアの一友に」は「欧州の婦人に与ふるの書」欄の中の一文であり、他に山川菊栄、岡田八千代、遠藤清子、山田わか(山田のみ「亜米利加の婦人に」)が執筆している。
コズロフ夫妻はこの年の六月ごろ日本を発ち、モスクワに滞在中だった。
「ロシアの一友に」は、モスクワにいるクララ宛ての書簡形式で書かれている。
野枝は冒頭にこう書いた。
遥かなる露都にて
クララ・サゼツキイ
最近の新聞紙の報道によりますと、お国ではあの革命の祖母マダム・エカテリナ・プレシユコフスカイヤがボリシエヴヰキの政府に反抗した廉(かど)によつて銃殺されたと云ふ事ですが本当でせうか。
(「ロシアの一友に」/『新小説』1918年12月号・第23年第12号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p61)
しかし、ブレシコフスカヤが銃殺されたというのは誤報だった。
ともかく野枝は、ブレシコフスカヤが真の革命家として、ボルシェビキに反抗したことに賛同している。
アナキストである野枝ももちろん、反ボルシェビキの立場だからだ。
貴族や資本家の圧制から漸く放されて自由になつたと思つてゐた民衆は、どんな心持でレニン政府の社会本位の圧制政治の支配を受けてゐるでせう。
シベリアの雪中に埋められ、或は断頭台に処刑された幾多の人々は、こんな不自由な、専制的な革命を起さう為めの犠牲になつたのではなかつたのでせうに。
万人の自由が少数の者の為めに指図されたり煩はされるやうな事があつてはならない筈です。
ボリシエヴヰキの独裁政治はツアールの専制よりもより以上に悪(にく)むべきだと私は思ひます。
クララ・サゼツキイ
私は恐らくあなたが多くの人々の自由の為めに、今頃はきつと勇敢に戦つてゐらつしやる事と信じてゐます。
……多くのロシア人も……さう何時までも、現在のセントラリズムの独裁政治に屈従してゐる筈はあるまいと思ひます。
まだもう一度や二度は革命戦争が繰り返される事でせう。
レニンは今……大ロシア主義通りに統一しやうかと……夢中になつてその標榜してゐる労働者や農民の人間性に対しては非常に不親切でゐるやうですね。
凡てが野心で一杯になつてゐる政治家のやうに彼もまた何も彼も概念的に片づけて行かうとしてゐるやうですが、そんな事でやつて行けるかどうかゞ観物ですね。
(「ロシアの一友に」/『新小説』1918年12月号・第23年第12号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p61~63)
ところで、大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、野枝が支持したブレシコフスカヤは、十二月三日に来京している。
このときロシアの「革命婆さん」ブレシコフスカヤは、七十四歳だった。
大杉らが売文社と合同で彼女の所説を聞く招待会を企図したが、高畠素之らの反対で実現しなかった。
実は十二月四日、高畠と堺は彼女を基督教女子青年会館に訪ね、三十分ほど会話をした。
彼女がボルシェビキ独裁を批判したので、高畠や堺との呼吸は合わなかったという。
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第270回 タイラント
文●ツルシカズヒコ
吉田は「警察が恐くない」という妙な自信もあって、これも彼を慢心させ堕落に陥れた要因になった。
大杉一家が滝野川の家に越してから間もなくだった。
大杉が何かの用事で吉田の家に行くことになった。
吉田と彼の啓蒙者であった水沼が住む浅草区田中町の裏長屋、ふたりはそこに「労働者相談所」の看板を掲げ小集会を開いていたが、一度その小集会に参加した大杉が野枝をぜひその家に連れて行きたいと言っていた。
ある晩、野枝は大杉に連れられて、半ば好奇心から魔子をおぶって吉田の家に出かけて行った。
それは四畳半一間の家だった。
四畳半の半畳が板の間の台所、突きあたりの押し入れは半分が押入れで、あとの半分が便所という住居だった。
露路を入ると、なんとも言いようのない臭気がした。
吉田の家に入った野枝は、そこでもその臭気に悩まされ続けた。
話が弾んで、少し遅くなって帰ろうとすると、吉田が泊っていけとしきりに勧めた。
野枝は無茶な申し出に驚いた。
さすがに水沼は、
「こんなところに泊めちゃ、迷惑じゃないか」
と、吉田を諌めていたが、吉田はいっこうおかまいなしだった。
「くっつき合って寝れば、八人は寝られる」
吉田はムキになって主張する始末だった。
「後学のためだ、一つ我慢して泊まって見るか」
と、大杉は野枝の方を振り向いて言った。
「とんだ後学だなあ……」
水沼も野枝の顔を見ながら、気の毒そうに苦笑した。
「このへんの様子が、夜でちっともわからなかったろう? 明日の朝、もっとよく見て行くことにして泊ろうか。だいぶ遅くもあるようだし」
「ええ……」
大杉がそう言うので、野枝も仕方なしに泊まることにした。
薄い蒲団の中でのゴロ寝は窮屈だった。
魔子を寒くないように窮屈でないように眠らすために、寝返りを打つこともできず、体が半分痺れたような痛さを我慢しながら、どうして一人ででも帰らなかったろう、と野枝は後悔した。
大杉も眠れないらしく、魔子が少し動くとすぐ振り返った。
吉田一人が気持よさそうに熟睡しているようだった。
朝、水沼は早く仕事に出て行ってしまった。
吉田が起きると、野枝と大杉も帯をしめ直し、顔を洗いに外に出た。
ずらりと並んだ長屋の門なみに、人が立っていて野枝たちを不思議そうに見ていた。
野枝は大急ぎで顔を洗うと、逃げるように家の中に入った。
吉田によると、昨晩から刑事が三人も露路の中に入って来ているので、長屋中で驚いているという。
野枝たち三人が家を出て、通りを少し歩いていると、すぐ後ろに尾行が三人くっついて来た。
「尾(つ)くのはかまわないですがね、もう少し後へ下がって尾ついて来てもらいたいですね」
野枝はあんまりうるさいので、尾行のひとりにそう言った。
彼はぷっと顔を膨らませて野枝を睨みつけたが、野枝はかまわず、急いで先を行く吉田と大杉に追いついた。
しかし、彼らはやはりピッタリと三人のすぐ後を尾いて来る。
「おまえさんたち、私が言ったことがわらないのかしら?」
野枝はさっきの男を睨みながら言った。
「よけいな指図は受けない」
彼は憎々し気に野枝に言い返した。
「よけいな指図? おまえさんたちは尾行の原則、尾行の方法を知らないの?」
「よけいなことは言わなくてもいい」
彼が恐ろしい顔つきをして言い終わったか終わらないうちに、大杉がそこまで引き返して来ていた。
「なにっ! もういっぺん、言ってみろ! 何がよけいなことだ。貴様らは、他人の迷惑になるように尾行をしろと言いつけられたか」
「迷惑だろうが迷惑であるまいが、こっちは職務でやっているんだ」
彼は蒼くなって肩を聳かした。
「よし、貴様のような奴は相手にはしない。来いっ! 署長に談判してやる!」
大杉はいきなりその男の喉首をつかんだ。
「何を乱暴な!」
と叫んだが、彼はもう抵抗しえなかった。
あとの二人は、腑甲斐なく道の両側に人目を避けるように別れて、オドオドした様子をしてついて来た。
往来の人たちは、この奇妙な光景をボンヤリして見ていた。
たいていの人たちは、首を締められて引きずられてゆく巡査の顔を見知っていた。
吉田は真っ青な顔をしていた。
吉田は大杉に日本堤の警察に案内するようにと言われて、妙に臆したような表情をチラと見せて、ろくに口もきかずに歩いた。
それでも途中で一、二度知った人に訊かれると、
「なにね、あいつが馬鹿だからね、これから警察へしょっぴいて行ってとっちめるのさ」
と、ちょっと得意らしく説明していた。
日本堤署の署長はまだ出ていなかった。
居合わせた警部は、引きずられてきた尾行の顔を見るとのぼせ上がってしまって、大杉や吉田の言うことには耳も貸さずに、のっけから検束するなどとわめき立てた。
野枝はそっと署を出て近所で署長の家を尋ねた。
署長の家はすぐにわかった。
署長はもう出かけようとしているところだった。
野枝が簡単にわけを話し、すぐ署の方に出かけるように促すと、そこに大杉と吉田が来た。
署長は案外話がわかった。
野枝たちは尾行を取り替えてもらって帰って来た。
吉田にはこの小さなできごとが、よほど深い感銘を与えたのか、それから少しの間は絶えずこのことを吹聴して、警察は少しも恐れるに足らないと豪語していた。
同志たちには苦笑いの種だったが、吉田は警察に対して急に強く出るようになった。
警察をへこましてゆくたびに、吉田は増長していった。
吉田の住んでいるあたりの人たちは、世間一般の人より、いっそう警察を恐れていた。
その真ん中で、吉田は集会や演説会のたびに群らがってくる警官を、同志の力を借りては翻弄して見せて得意になっていた。
同志たちはその稚気を、かなり大まかな心持ちで、笑い話の種にしていたが、彼は大真面目だった。
確かに、吉田の話にはもっともな点がかなりあった。
一般の労働者階級は警察を極度に恐れていると同時に極度に憎んでいる、だから自分たちが警察を相手に喧嘩することは、彼らの興味をひきつける最上の手段だというのだった。
そう信じた吉田は、かなり無茶に暴れた。
警察はこの無茶な男に手こずり出した。
尾行の巡査たちは、この男のためにしくじりを少くするために、いろいろと猾いやり方を始めた。
非常に自惚れの強い吉田は、尾行のおだてに乗るようになった。
彼は馬鹿にされながら、自分だけは偉くなった気で威張っていた。
狡猾な吉田は尾行を脅かして電車賃を立て替えさせたり、食べ物屋に案内させたりすることを、一人前になったかのように自慢していた。
近隣の労働者に配布するチラシ「労働者相談所」を作り始めると、本職の鍛冶屋を辞めてしまい、チラシの印刷費の何割りかを広告から捻出しようと目論んだ。
広告集めに奔走し始めた吉田を見て、大杉は憂慮するようになった。
「いい男だが、あの悪い方面が多く出てくるようになると、運動からはずれてしまう」
はたして、吉田は悪辣な図々しさを発揮し、彼が警察をなめ切ってからは、ずんずんそれに輪をかけていった。
増長しだした吉田に苦言を呈せるのは、彼を教育し助けてきた水沼と大杉だけだった。
さすがの吉田も自分よりはずっと思慮分別も知識も優れた水沼には、一目も二目も置いていたが、やがて水沼も匙を投げるようになった。
誰も彼も、彼の図々しさにおそれを成して、彼を避けて通るやうになりました。
が、彼はこれを、自分のえらくなつたせいにしはじめたのです。
其の頃に、彼はもういゝかげん、同志の中の、持てあまされたタイラントでした。
もう少し前のやうに、誰も彼を大事にするものはありませんでした。
(「或る男の堕落」/『女性改造』19231923年11月号・第2巻第11号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第269回 無遠慮
文●ツルシカズヒコ
大杉一家が南葛飾郡亀戸町から、北豊島郡滝野川町田端の高台の家に引っ越したのは、一九一八(大正七)年夏だったが、この家には大勢の労働者、同志が出入りするようになった。
和田久太郎はこのころの野枝が一番よかったと回想している。
亀戸から田端へ移つて、それから西ヶ原、中山、駒込曙町と家を変つたが、此の間(あひだ)の、即ち大正七年の暮れから大正九年の夏頃までの野枝さんは中々よく活動した。
僕は此の頃が野枝さんの一等よかつた時代だと思つてゐる。
野枝さんは、自ら女工さん達の裡(うち)に飛び込んで行つてお友達になる事は出来なかつたが、大杉君の處へ集つて来る労働者に対しては、心から理解し合ひ、o親味のお友達となることが出来た。
(和田久太郎「僕の見た野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号_p22)
しかし、野枝は北風会会員の吉田一(はじめ)には、どうにも馴染めなかった。
野枝の遺作「或る男の堕落」は、吉田について書いた作品である。
野枝が吉田を初めて見たのは、米騒動の後、仲間の家で開かれた集会の席だった。
その時の印象は、たゝ、何となく、今まで集まつてきた人達の話しぶりとは一種の違つた無遠慮さで、自分が見た騒動の話をしてゐましたのと、其の立ち上つて帰る時に見た、お尻の処にダラリと不恰好にいかにも間のぬけたようにブラ下げた、田舎々々した白縮緬(しろちりめん)の兵児帯(へこおび)とが私の頭に残つてゐました。
彼はまだその時までは、新宿辺で鍛冶屋の職人をしていたのです。
(「或る男の堕落」/『女性改造』1923年11月号・第2巻第11号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)
野枝が吉田を初めて見た集会とは、八月二十四日に下谷区上野桜木町の有吉三吉宅で開かれた「米騒動茶話会」のことであろう。
『日録・大杉栄伝』によれば、当時、吉田は「車両会社の鍛冶職」をしていた。
大杉一家が滝野川に引っ越したころから、吉田は頻繁に来訪するようになった。
彼がまだ遠慮していたころは、無学だがなかなか理解力があるこの労働者を、野枝は興味深く眺めていた。
同志の間の吉田の評判もなかなかよかった。
しかし、彼が無遠慮のハメを外すようになってきたころから、野枝は彼の粗野なところが気になりだした。
大杉も野枝も来客の無遠慮はむしろ望むところだったが、吉田の無遠慮には野枝の眉をひそめさせるものがあった。
当初、自分の方に問題があるのかもしれないと思ったこともあった野枝だが、どうしても彼を許すことができなかった。
野枝は大杉によくこぼした。
「吉田さんの無遠慮はいいけれど、このごろのようだと本当に閉口しますわ」
「どうして?」
「どうしてって、火鉢の中にペッペッと唾を吐いたり、わざと泥足で縁側を歩いたり。どこか不自然な誇張があるんですもの」
「うん、まあそんなところもあるね。だが、僕らのこんな生活でも、やはりときどきは癪に障るんだよ。階級的反感さ。まあ、気にしないことだね」
「でも、ときどきは本当に腹が立ちますよ。あの人、ここに来てずいぶん気持ちよさそうな顔をしてるじゃありませんか」
昼間から大声で流行歌などを歌いながら風呂に入り、湯から上がると二階の縁側の籐椅子の上に寝転んで、とろけそうな顔をして日向ぼっこをしている吉田の姿などを思い出しながら、野枝が言った。
「無邪気ないい男なんだよ。だが、あなたの気にするようなデリカシイは、あの男には持ち合わせがないんだ。あなたのような人は、あんな男は、小説の中の人間でも見るようなつもりで、もっと距離を置いて見るんだよ。あの男は本当の野蛮人だからね。あいつが山羊や茶ア公とふざけているときを御覧。一番楽しそうだよ。すっかり仲間になり切っているからね」
本当にそれは一番の愉快さうな時でした。
彼は私の家の庭つゞきの広い南向きの斜面の原つぱで、私共の大きな飼犬と山羊を相手にころがりまはりました。
彼のがつしりした、私には寧ろ恐ろしい程な動物的な感じのする体が真白な山羊の体と一緒に犬に追はれながら、まるで子供の体のやうにころがりまはるのです。
さうしては青い草の中に一ぱい陽をあびて、ゴロリと横になつては犬をからかつてゐました。
(「或る男の堕落」/『女性改造』1923年11月号・第2巻第11号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)
後述するが、当時、大杉家では犬の他に牝山羊を飼っていた。
野枝の中にも吉田を小説の中の人間でも見るような視点はあったが、吉田の中に深く根ざしている、他人の心の底を窺うような狡猾さ、他人の好意につけ込む図々しさと執拗さに、野枝はどうしても目をつぶるわけにはいかなかった。
しかし、そのころ、吉田は非常に熱心に運動をしていた。
『日録・大杉栄伝』によれば、吉田は同志の水沼辰夫と浅草区田中町の裏長屋に住んでいたが、「労働者相談所」の看板を掲げ、組織されていない人夫や野外労働者を対象とした運動を企て、小集会をしたり、大杉が執筆した「労働者相談所」というチラシを近隣の労働者に配布したりしていた。
吉田はメキメキと頭角をあらわすようになった。
自分の姓名さえも満足に書くことができない吉田が、いつのまにか難しい理屈を複雑な言葉で自由に話すよになったのには、同志のみんなが感心した。
彼の質問攻めにはみんなが悩まされたが、しかし、一度腹に入った理屈を立派に自分のものにコナしてしまう頭を彼は持っていた。
他人同士の会話にも無理やり入り込んで、その会話を台なしにしてまでも、吉田は執拗な質問攻めをして耳学問を磨いていった。
吉田は聞きかじった理屈を、自分の過去の生活に当てはめてるみることも忘れなかった。
聞きかじりの間違った言葉や理屈で、若い同志たちに笑われることもよくあったが、吉田はそんなことで凹(へこ)みはしなかった。
大杉や野枝のまわりには大勢の労働者が集まって来たが、たいては「信友会」などの活版印刷工で、そうひどい肉体労働をするわけでもなく、知的レベルもかなり進んでいる人が多かった。
そうした中で、単純で無知だが労働者として大杉の言わんとすることをよく理解する人夫や野外労働者に対する宣伝において、吉田の辣腕が光っていたので、大杉はじめ同志たちの彼の評価は高かった。
それを吉田が見て取ったころから、彼の無遠慮にますます嫌な誇張が多くなってきたと、野枝は感じていた。
彼はわざと垢と脂で真っ黒な着物を着ては、ゴロゴロと畳の上に寝転ぶようになったり、
「虱(しらみ)なんかを嫌がって、労働運動面もあるもんか」
と、豪語しながらわざとかゆくもない体をボリボリかいたりしだした。
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index