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2016年05月11日
第160回 堕胎論争
文●ツルシカズヒコ
『青鞜』一九一五(大正四)年六月号は発売禁止になった。
『青鞜』にとっては三度めの発禁である。
『定本伊藤野枝全集 第二巻』「私信ーー野上彌生様へ」の解題によれば、原田皐月が書いた「獄中の女より男に」が「風俗壊乱」だとされたからである。
「獄中の女より男に」は、生活苦のために堕胎した女性の内面を相手の男性に宛てた手紙形式で描いた小説だった。
『東京日日新聞』(六月七日)の「青鞜の発売禁止」という記事には、野枝の談話が掲載された。
野枝はこの一件について『青鞜』にこう書いている。
先月号は風俗壊乱と云ふ名の下に発売を禁止されました。
忌憚にふれたのは原田さんのらしいのです。
私は少しもそんなことを考へずに、可なりさうした考へが誰の頭にも浮かぶことを思つて立派な一つの問題を提起するものとしてのせました。
けれども私は不注意な編輯者としてしかられました。
けれども私は可なりあの堕胎とか避妊と云ふことについて男の人たちの意見は聞きました、けれども女の意見は聞きませんから知りたいと思つたのです。
今でもその考へはあります。
(「編輯室より」/『青鞜』1915年7月号・第5巻第7号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p247)
これが発端となり堕胎論争が起きた。
原田は胎児は自分のお腹にあるのだから、自分の体の一部であり、自分の腕一本切り落とすのと堕胎は同じである、その自由は認められるべきではないだろうかという問題提起をしたのである。
野枝は避妊はよしとしているが、堕胎は反対の立場である。
野枝は原田の「獄中の女より男に」を読んだ感想を「私信ーー野上彌生様へ」に書いた。
「私信ーー野上彌生様へ」と「獄中の女より男に」は両方とも『青鞜』六月号に掲載されているので、野枝は原田が書いた生原稿を読んだ後に書いたのである。
皐月さんは自分の腕一本切つたのと同じだと仰云つてゐます。
腕は別に独立した生命をもちません、人間の体についてゐてはじめて価値あるものですものね、それを切りはなしたと云つて法律の制裁をうけるやうなことはすこしもないのです。
……ところが腕を一本他人のを切つて御覧なさい、それこそ大変ですわ、直ぐ刑事問題になるでせう。
それと同じですわ、たとえお腹を借りてゐたつて、別に生命をもつてゐるのですもの、未来をもつた一人の人の生命をとるのと少しもちがわないと私は思つてゐます。
皐月さんはお腹の中にあるうちは自分の体の一部だと思つていらつやるらしいんですけれども私は自分の身内にあるうちにでも子供はちやんと自分の『いのち』を把持して、かすかながらも不完全ながらも自分の生活をもつてゐると思ひます。
其処に皐月さんの考へと私の考への相異があるのですわね。
(「私信ーー野上彌生様へ」/『青鞜』1915年6月号・第5巻第6号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p223)
生活の窮迫と堕胎については、実際に窮乏から堕胎するケースがあったら同情するという前提で、野枝は自分が窮乏していたころに出産した体験を踏まえてこう書いている。
私も子供を産むことを恐れながらとう/\産んだ一人である。
そうして産まれると云ふことが分つた頃は、一番苦しかった頃であつた。
私はその頃矢張りあゝした恐ろしい事の空想を幾度か経験した。
私はどうかして産まれないことを願つた位愚かな考へを持つた。
私の体の中の他の生命がずん/\育つて気味わるく勝手に動くやうになつても、私はまだどうかして産まれなかつたらと思つた。
若しも私がその頃決して困つてゐなかつたらそんな考へを起しはしなかつたらうと思ふ。
何時かはかうした事件が本当に持ち上つて来るであらう。
いくつも/\。
考えれば本当にいたましい事である。
けれども私の考へを云へばこれは疑ひもなく一つの圧迫にまけた事になる。
罪悪であるとかないとか云ふことを無視して、さうである。
例えはつきりと子供の上に愛が目覚めなくても何処かにかくれてゐるのだ。
さうしてそのかくれた力が矢張りその生命に保護を加へてゐる。
(「雑感」/『第三帝国』1915年6月25日・第44号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p239~240)
野枝はこのとき、一歳半の幼児を持つ母であり、そして第二子を妊娠中だった。
『定本 伊藤野枝全集 第二巻』収録「雑感」解題によれば、『第三帝国』では松本悟朗、『青鞜』では山田わか、らいてうが加わるなどして、堕胎論争に発展した。
野枝は「私信ーー野上彌生様へ」の中で、一歳半の一(まこと)の子育てについての考えも述べている。
静かなあなたのやうな方にはそんなことがないかもしれませんけれど私のやうに感情の動揺のはげいし者には殊にかなしい情ない子供に対して申しわけのない絶望の時がちよい/\見舞ひます。
殊に、ひどくヒステリツクになつてゐる時などに、執念(しつこ)くまつわりついたり何事かねだつたりする時私の理性はもうすこしもうごきません、狂暴なあらしのやうに、まつわりつく子供をつき倒してもあきたりないやうな事があります、けれども直ぐ私は、自分でどうすることも出来ないその、狂暴な感情のあらしがすぎると理性にさいなまれるのです。
そのかなしい感情をどうすることも出来ないと云ふことが私には情なくも腹立たしくもあり絶望させられるのです。
そして子供が可愛さうでたまらなくなります。
子供がそれをどういう風に感受するかと思ひますと、私は身ぶるいが出ます。
けれどすぐ私はそんな時に思ひます。
あゝ、私はまた間違つた教育者を衒(てら)はふとしてゐると。
私のこの突発的な感情を今によく理解させさへすればいゝのだ。
そのうち子供の方で理解するやうになる、と思ひ返します。
自分の醜い処を覆はふとするやうな卑劣なまねは子供に見せたくないと思ひます。
たゞ醜い自分の欠点に対して自覚を持つてゐないと子供に卑しまれると思ひます。
(「私信ーー野上彌生様へ」/『青鞜』1915年6月号・第5巻第6号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p224~225)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
2016年05月10日
第159回 伊藤野枝オタク
文●ツルシカズヒコ
その頃、野枝は彼女に異様に注目し接近してくる青年に閉口していた。
「伊藤野枝オタク」の中村狐月である。
芥川龍之介は井川恭に宛てた書簡で、狐月を酷評している。
批評家は大がい莫迦だよ
中では小宮豊隆が一番利巧だがね
ぼくのこの知識はぼく自身の個人的経験に立脚してゐるんだから確だ
中村狐月の如きは脳味噌の代りにほんとうの味噌のはいつてゐるやうな頭を持つてゐる
(井川恭宛書簡・一九一六年十月十一日/『芥川龍之介全集 第十八巻』_p58)
大杉はシニカルな視点だが狐月を評価していたようだ。
あの、ちょっとした文章なり顔色なりを見て、すぐさまその人の心の奥底を洞察することにおいて、まさに天下一品とも称すべき批評家、僕はよくあの男のことをこんなふうに評価して多くのあきめくら作家どもから笑われるのだが……。
(「男女関係についてーー女房に与えて彼女に対する一情婦の心情を語る文」/『女の世界』1916年6月号/日本図書センター『大杉栄全集 第3巻』_p223)
辻も狐月に言及している。
野枝さんは至極有名になつて、僕は一向ふるわない生活をして、碌々(ろくろく)と暮らしてゐた。
殊に中村狐月君などと云ふ「新しい女の箱屋」とまで云はれた位に、野枝さんを崇拝する人さへ出て来た。
(「ふもれすく」/『婦人公論』1924年2月号_p13/『辻潤全集 第1巻』_p394)
『青鞜』六月号(一九一五年)に野枝が書いた「私信ーー野上彌生様へ」は、野上が野枝に書いた私信に対する返信である。
それによると、おおよそ、こんなことのようだーー。
狐月の批評を読んだ野枝は、彼の頭の明晰さや観察の緻密さには感心したが、その人となりに関しては虫の好かないタイプだった。
『第三帝国』に書く約束をすると、狐月が何かにつけて理由もなく、野枝に会いに来るのもいやだった。
来そうだと思っただけでも気が重くなった。
大嫌いだというそぶりを見せまいとする自分が不快になったので、野枝は狐月に面と向かって言った。
「私、あなたのことが嫌いです」
「ああ、それは私もとうに知ってます。私は生まれつきこういう人間ですから、仕方がありません。そういう人間だと理解していただければ、それでよいです」
そのうちに狐月は無遠慮な文面の手紙をよこすようになった。
狐月の中では自分ひとりが野枝の最も立派な理解者だと言ってきたりする。
野枝の家庭生活を侮辱するようなことも書いてきた。
腹の立った野絵は、狐月に公開の怒りの手紙を書いた。
『第三帝国』第四十二号(一九一五年六月五日)に載った「中村狐月様へ」がそれである。
『第三帝国』第四十一号(一九一五年五月二十五日)に掲載された、狐月の「文芸評論」を読んで、それまで返事を保留していた狐月からの二通目の手紙にこたえたものと推測される(『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「中村狐月様へ」解題)。
以下、野枝の手紙の内容を抜粋要約。
●狐月は野枝に「自分より偉いと思う人がいるなら名を挙げて下さい」と書いた。野枝は人の言動を偉いとか偉くないとかで判断しないから、挙げなかった。そもそもそんな質問には無理がある。
●男の理解者は自分ひとりのような顔をしていることに腹が立つ。最初から高い評価をする方とは親しくなりたくない。そのうちディスイリュージョンを抱いて急速に評価が下がるから。
●そもそもあなたは私のごく一部しか知らない。私は自分の欠点までも認めて理解してくれる人と親しくなりたい。あなたは私の真の理解者ではありません。
●あなたは辻を蔑視しているようですが、彼は私のすべてにおける指導者です。
●手紙を書いているうちに憎悪がこみ上げてきました。
●あたなが私のことを方々で言いふらしているのも迷惑です。変な噂が私の家庭のことにまでおよんでいることが、私の耳にまで入ってきました。
●無遠慮な返事の催促の手紙も何度も来ましたが、これにも腹が立ちました。
●私が一番嫌っているあなたと私のつながりまで疑われようなことになったら、それこそ不快です。
●あなたはこの手紙でも私に対するディスイリュージョンを抱いたはずです。それは私の望むところです。
●あなたの嫌いなところを除けば、あなたに対する尊敬は残ります。あなたが私に近づいてくることが嫌で嫌で仕方がないのです。
(「中村狐月様へ」/『第三帝国』1915年6月5日・第42号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p234~237)
以上が野枝の怒りの返信だが、狐月は『第三帝国』四十二号(一九一五年六月十五日)に掲載された「野枝さま」(『現代作家論』収録)を書き、野枝からの第二信に答えている。
★『芥川龍之介全集 第十八巻』(岩波書店・1997年4月8日)
★『大杉栄全集 第3巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
★『辻潤全集 第一巻』(五月書房・1982年4月15日)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第158回『エロス+虐殺』
文●ツルシカズヒコ
野枝にとってショッキングな事件が起きたのは、一九一五(大正四)年五月ごろだった。
辻はこう書いている。
……僕らの結婚生活ははなはだ弛緩してゐた。
加ふるに僕はわがままで無能でとても一家の主人たるだけの資格のない人間になつてしまつた。
酒の味を次第に覚えた。
野枝さんの従妹に惚れたりした。
従妹は野枝さんが僕に対して冷淡だと云ふ理由から僕に同情して僕の身のまはりの世話をしてくれた。
野枝さんはその頃いつも外出して、多忙であつた。
屢々(しばしば)別居の話が出た。
僕とその従妹との間柄を野枝さんに感づかれて一悶着起したこともあつた。
野枝さんは早速それを小説に書いた。
野枝さんは恐ろしいヤキモチ屋であつた。
(「ふもれすく」/『婦人公論』1924年2月号_p13~14/『辻潤全集 第一巻』_p395~396)
野枝はこのときの心境を『青鞜』に書いた。
遂には私の信を奪つた、踏みにぢつた彼の行為を染々情なく思ひ出すより他はない。
……私はふれてはならない疵口(きずぐち)にさはらないではゐられなくなる……。
私はひとりでゐる時に気が違ふのぢやないかと自分でも思ふ位だ。
彼には私、彼女には他に愛の対象たる男がある。
さうして、ひよつとしたはづみに二人は私を裏切つた。
彼は私の愛人としてまた良人としての愛を、彼女は私のうとい肉親の中の唯一の者として愛した従姉の愛を、また男に対する愛を。
それは私には二人のふとした出来心であるとして、二人の過ちにしやうとした。
併し私の穏やかな顔色を伺つた二人は却つて二重に私を踏みつけた。
私の真実を踏みにじったことに対して二人は何の感情も表はさない。
私の苦しみは極めて安価に眺められてゐる。
それは私をどうしても二人の愛がさうした一時のいたづらな出来心からでなく本物でなければならないと云ふ結論に導いてゆく。
もしさうならば彼が再び私にかへつて来たと見えるのは虚偽でなくてはならない、私たちはそれによつて、どうにか解決をつけなければならない。
併し彼はそれを拒否する、さうして私もその拒否を受け入れてはゐるけれども私の不安がすつかり落ちついて仕舞ふやうな力強いものを彼は決して私に与へやうとはしない。
そうして私はそれを強ひて彼に求めたくない。
それはまた決して強ひて求むべき性質のものではない。
それが与へられさへすれば私はすつかり落ちつけることがわかつていゐ。
けれども私はどうしてもそれを要求することは出来ない。
彼自身から気がついて与へてくれる迄は私はおなじ苦しみをつゞけなけらばならない。
何時までも/\。
そして私の愛は、不安であればある程だん/\深みへはいつてゆく。
私はぢつとして自身のすがたを見つめているのだ。
(「偶感二三」/『青鞜』1915年7月号・第5巻第7号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p244~245)
瀬戸内寂聴『美は乱調にあり』は、辻の不倫相手を野枝の「従姉の代千代子」として描いている。
以下、その下りを引用。
辻が自分の目をかすめて浮気をする。
しかも相手は、人もあろうに、従姉の代千代子だった。
千代子も結婚してその頃上京してきていたが、野枝の家庭を見舞ううち、野枝が「青鞜」に夢中で、ほとんど夫も子供もかえりみない状態に目をみはってしまった。
その上、あれだけ周囲を騒がせ、犠牲を強いて辻の懐に走った野枝が、まるで自分の結婚が失敗のようなことをいう。
平凡で律儀なだけの入婿の夫にあきたらなく思っていた千代子は、辻の繊細さや知的な雰囲気は魅力だった。
昔の教師としての畏敬の気持ものこっている。
妻にまったくかまわれない辻の姿が、家庭的な躾だけを身につけている千代子には世にも不運なみじめな夫のように見えてきた。
「あんまり寛大すぎるから野枝ちゃんがいい気になってるんじゃないかしら」
一(まこと)をつれてミツや恒が親類の祭りに出かけた留守に、たまたま訪ねて来た千代子は、辻の書斎に座りこんで話していた。
「いくら、仕事が大切だって旦那さんあっての仕事じゃありませんか。夜まで出かけるなんてあんまりよ」
「毎度のことだからな」
「まあ、毎度のことですって」
……(中略)
千代子は辻の着物の袖付がほころびているのを見かねて、針を持ってきた。
「そのままで、すぐにつけますわ。ちょっとそうしていて」
辻は香油の匂いのする千代子の髪を首筋に感じながら、着たままの袖付のほころびを縫ってもらった。
ぴちっと糸切歯で糸をきる音をきいた時、冷たい髪が辻の首筋にふれた。
ふと、手を廻した時、千代子は無抵抗に崩れこんできた。
「気の毒なお兄さん」
千代子のふるえ声が辻のためらいを払い落とした。
(瀬戸内寂聴『美は乱調にありーー伊藤野枝と大杉栄』_p289-290)
矢野寛治『伊藤野枝と代準介』は、辻の不倫相手を代千代子にしている間違いを指摘している(矢野寛治が間違いを指摘しているのは、『美は乱調にありーー伊藤野枝と大杉栄』以前に刊行されていた角川文庫版などの『美は乱調にあり』に対してだが、両者ともに記述は同一)。
まず辻が不倫の相手を「野枝さんの従妹」と書いているし、野枝も「私のうとい肉親の中の唯一の者として愛した従姉の愛」と書いている、つまり辻の不倫相手にとって野枝は従姉であり、野枝にとっては従妹なのである。
一九一五年当時、代千代子は福岡の今宿(現・福岡市西区)で暮らしていて、長男が二歳、一九一四(大正三)年の暮れには長女を出産していた。
福岡に新婚所帯をもち、九州鉄道に勤務する夫は毎日帰宅する。
二歳の子と、乳飲み子を抱えて、どうして今宿から上京し、辻と懇ろになることができようか。
(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p95-96)
吉田喜重監督の映画『エロス+虐殺』(一九七〇年三月公開)でも、高橋悦史演ずる辻と新橋耐子演ずる千代子が関係するシーンが描かれている。
このよく調べられてない誤解の表現で、亡き義母(代千代子の娘、代準介の孫)も、私の妻(代千代子の孫)も、ずっと濡れ衣であることを歯がゆく思い、かつ長い年月我慢をしてきた。
(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p96)
では、辻と関係したのは誰なんだろうという疑問が湧いてくる……。
野枝にはもう一人いとこの「従妹」がいる。
こちらは当時東京で暮らしており、しょっちゅう辻の家にも出入りしていた。
名は判明しているが、あえてここには記さない。
(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p97)
『定本 伊藤野枝全集 第二巻』の口絵に写真が掲載されている。
辻、野枝、一(まこと)、野枝の叔母・渡辺マツ、野枝の従妹・坂口キミが写っている。
「一九一四(大正3)年頃」とある。
つまりこのころ、坂口キミは野枝と親密な関係だったのである。
野枝が婚家から出奔して最初に身を隠したのも福岡県三池郡二川村大字濃施(のせ)の叔母・坂口モト、従妹・坂口キミの家だった。
野枝にとって気が置けない従妹は坂口キミしかいない。
野枝は婚家から出奔した経緯を「従妹に」に書いているが、「従妹に」は「きみ」ちゃんこと、坂口キミに宛てた書簡スタイルで書かれてもいる。
ちなみに坂口キミに関しては後日譚がある。
『定本 伊藤野枝全集 第二巻』に「書簡 木村荘太宛(一九一三年六月二十四日)」が収録されているが、その解題によれば、辻はこの原書簡を死(一九四四年十一月)の直前まで持っていて、形見に伊東キミ(旧姓・坂口キミ)に手渡した。
野枝の魂のこもった手紙を、辻はよりによって野枝を裏切った不倫相手に形見として遺したわけだが、辻のこの行動を堀切利高『野枝さんをさがして』は「あの頃の野枝さんの思い出を共有できる唯一の人と考えたのではなかろうか」と指摘している。
さて、瀬戸内寂聴『美は乱調にあり』の間違いについて、矢野寛治『伊藤野枝と代準介』は、さらにこう指摘している。
瀬戸内寂聴は西日本新聞連載「この道」(二〇一二年連載、フリーラブ 三)の項で、「美は乱調にあり」とは別の書き方をしている。
引用してみたい。
「野枝の身辺に突然予期しない事件が起こった。辻の母方の従妹と間違いを起こしていたのだった。ツネが早く気づき、それとなく野枝に注意しても、野枝は全く気付かなかった。夫も子供もある彼女はとかく操行が悪く、これまでも問題を起こしがちの女だった」
ここには一切「千代子」は出てこない。
かつ従姉から「従妹」と書き変えられている。
辻の「母方の従妹」となっている。
変えてもらったのはありがたいが、辻は「ふもれすく」であくまで「野枝さんの従妹」と書いている。
合点がいかない。
(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p96~97)
この矢野寛治の指摘は、もっともである。
『美は乱調にあり』は、実在の人物や実際に起きたことをベースにしてはいるが、あくまで小説であるから、必ずしも事実に拘泥する必要はないという理屈は成り立つ。
瀬戸内は辻の不倫相手を代千代子として描いたことに、小説家としてのこだわりがあったかもしれない。
しかし、矢野寛治の指摘に対し、瀬戸内は作家としてしかるべきリアクションを公に示すべきだろう。
矢野寛治『伊藤野枝と代準介』の刊行は二〇一二年十月である。
それ以前に出版された『美は乱調にあり』(角川文庫など)は仕方ないにしても、それ以降に増刷されたり、新たに発刊される機会があれば、瀬戸内は矢野寛治の指摘に対する何らかのリアクションを盛り込むべきだろうーーそんなことを私は考えていた。
そんな折り、二〇一七年一月、瀬戸内寂聴『美は乱調にありーー伊藤野枝と大杉栄』が刊行されたが、矢野寛治の指摘に対する言及はなされていない。
同書の「はじめに」に 瀬戸内はこう記している。
二十八歳からペン一本に頼り生きてきた私は、九十四歳になった今も、まだ一日もペンを離さず書きつづけている。
四百冊を超えているらしい自作の中で、ぜひ、今も読んでもらいたい本をひつとあげよと云われたら、迷いなく即座に、「美は乱調にあり」「諧調は偽りなり」と答えるであろう。
今、この混迷を極めた時代にこそ、特に前途のある若い人たちに読んで欲しい。
(瀬戸内寂聴『美は乱調にありーー伊藤野枝と大杉栄』)
瀬戸内が記しているように、この本を読んで初めて伊藤野枝の存在を知り、彼女について興味を持つ若い人は多いだろう。
だからこそ、矢野寛治の指摘を明記すべきだった。
『美は乱調にありーー伊藤野枝と大杉栄』刊行のひと月後の二〇一七年二月、その続編『諧調は偽りなりーー伊藤野枝と大杉栄』上下二巻が刊行された。
下巻の巻末に瀬戸内と栗原康の対談「解説にかえて 恋と革命の人生を」が掲載されている。
二〇一六年十一月十六日に「寂庵」で行なわれた対談である。
その中にこういう下りがある。
栗原 辻潤が野枝と一緒にいたときに不倫をした相手ですが、僕もずっと従姉の千代子さんだと思っていたんですけど、矢野寛治さんの『伊藤野枝と代準介』を読んだら、もうひとりの従妹、きみちゃんだったみたいですね。
瀬戸内 そう。あれは私が間違っていたのね。
栗原 矢野さんは親類だから間違えられて嫌かもしれないですが、でも、いいな。僕だったら、おばあちゃんが辻潤と不倫してたって間違えられたらうれしいですね(笑)。
(瀬戸内寂聴『諧調は偽りなりーー伊藤野枝と大杉栄』下巻_p325)
ようやく、瀬戸内が自分の間違いを認めたのである。
しかし、対談の場を借りてというおざなり感が漂っているし、謝罪の言葉もない。
栗原の軽すぎるフォローが、そのおざなり感に拍車をかけている。
瀬戸内寂聴はもっと潔く誠実な作家だったのではないか?
という失望感を抱いた長年の愛読者もいたのではないだろうか。
★『辻潤全集 第一巻』(五月書房・1982年4月15日)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★瀬戸内寂聴『美は乱調にありーー伊藤野枝と大杉栄』(岩波現代文庫・2017年1月17日)
★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)
★堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(學藝書林・2013年5月29日)
★瀬戸内寂聴『諧調は偽りなりーー伊藤野枝と大杉栄』下巻(岩波現代文庫・2017年2月16日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
2016年05月09日
第157回 マックス・シュティルナー
文●ツルシカズヒコ
大杉は野枝からの手紙に返事を書かねばならぬという、義務感に責められていた。
しかし、どうしても書けない。
書くならば、野枝への沸騰した情熱をストレートに表明した文面にならざるを得ないが、それもできない。
大杉は野枝とふたりだけで会いたいと思ったが、会ったときの自分の情熱も恐かった。
辻がいてもよし悪し、いなくてもよし悪しーーとにかく、彼女の家で会おうと大杉は思った。
月に一回ぐらいの二度めか三度めの訪問のときだった。
「いつかの谷中村のことね、その後どうして?」
とうとう、大杉は思い切って、しかしごく臆病に、何かの話の隙を狙って言った。
「え?」
大杉はびっくりしたらしい辻の短い叫び声に驚いた。
「いつかあなたが話したでしょう。あの谷中村のことさ」
大杉は辻の方は見ないで再び野枝に話しかけた。
「ええ、あれっきりよ」
野枝はにこにこしながら、そう言ったきりだった。
辻は黙っていた。
大杉はもうそれ以上、話を進めることができなくなった。
大杉は話題をマックス・シュティルナーの名著『唯一者とその所有』に戻した。
辻はこの本を自分のバイブルだと言い、尊崇し愛読していた。
大杉もシュティルナーが好きだった、少なくとも、その徹底さが大好きだった。
「私は唯一者だ。私の外には何者もない。
「私は私以外の何者の為めにも尽くさない。
「私は人を愛する。けれどもそれは利己心からの自覚があつて愛するのだ。それが私に気持ちがいいからだ。それが私を仕合にするからだ。私は人の犠牲になろうなどとは少しも思はない。ただ冷酷な事をするよりも、温情を以てする方が、人の心を得易いからだ。
「私も亦私の恋人を愛する。そして其の眼差しの甘い命令に服従することがある。しかしそれとても矢張り私の利己心からである。
「私は又、感覚のある一切のものに同情する。其の苦痛は等しく又私をも痛ましめる。其の快楽は等しく又私をも喜ばしめる。私は一と思ひにそれ等のものを殺す事は出来るが、しかしぢりぢりと虐め抜くと云ふやうな事は出来ない。それは私自身の良心の平静、私自身の完徳の感じを失ひたくないからでだ。
「私は花と同じやうに天命とか天職とか云ふものを持たない。私は私以外の何者にも属するものでない。ただ私は、私の為めにのみ生きて、世界を享楽して、そして仕合せに生活する権利を要求するに過ぎない。
「斯くして私が取る事の出来る、そして私が維持してゐる事の出来るものは、総て私のものだ。私の所有だ。
「そして、それが為めには、すべての手段は私にとつて正当なものとなる。しかし私の権利を創つてくれるものはただ私の力あるばかりである。
「ここに、一匹の犬が他の犬の持つてゐる骨片を見て、もし黙つて控へてゐるとすれば、それは自分があまりに弱いと感じたからである。人は他の持つてゐる骨片の権利を尊重する。それが人道だとして通つてゐる。そしてこれに反すれば、野蛮な行為、利己主義の行為だと云はれる。
「利己主義者団体を組織せよ。何んの、財産は臓品なりなどと、愁訴するの要があらう。
(「死灰の中から」/『新小説』1919年9月号/伊藤野枝との共著『乞食の名誉』/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』_p598~599/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』_p283~284)
辻と大杉は会うたびに、このシュティルナーの話をした。
そして、ふたりはだんだん濃い友情に結びつけられていった。
辻は「ふもれすく」の中で大杉について、こう書いている。
……あの大杉君の『死灰の中より(ママ)』はたしかに僕をして大杉君に対するそれ以前の気持ちを変化させたものであつた。
あの中ではたしかに大杉君は僕を頭から踏みつけてゐる。
充分な優越的自覚のもとに書いていることは一目瞭然である。
それにも拘らず僕は兎角、引合に出される時は、大杉君を蔭でホメてゐるように書かれる。
だが、それは随分とイヤ味な話である。
僕は別段、改まつて大杉君をホメたことはない、唯だ悪く云はなかった位な程度である。
僕のやうなダダイストにでも相応のヴァニチイはある。
それは唯だしかし世間に対するそれではなく、僕自身に対してのみのそれである。
自分はいつでも自分を凝視(みつ)めて自分を愛している、自分に恥かしいやうなことは出来ないだけの虚栄心を自分に対して持つてゐる。
唯だそれのみ。
若し僕にモラルがあるならば又唯だそれのみ。
世間を審判官にして争う程、未だ僕は自分自身を軽蔑したことは一度もないのである。
(「ふもれすく」/『婦人公論』1924年2月号_p13/『辻潤全集 第一巻』_p395)
野枝は『青鞜』一九一五(大正四)年五月号に「虚言と云ふことに就いての追想」を書いた。
例の周船寺高等小学校四年時に体験した、Sという図画の先生の「虚言」を、六年後に活字にしたのである。
『青鞜』同号の「編輯室より」で、野枝は第十二回衆議院議員総選挙について言及している。
此度の総選挙に婦人の運動者が多かつたと云つて首相や内相が英国の女権運動の如き運動の導火線になると困るとか何とか云つて禁止の意を仄(ほの)めかせられたと……新聞が大変なことのやうに挙(こぞ)つて報道した。
併し日本の官憲の頑迷は今はじまつた事ではない。
その彼等の心情は憐憫に価するけれども私は世間の人が気にする程戸別訪問の価値も認めないし、それが禁止されたとても何も大したことはあるまいと思ふ。
また真にその禁止に向つて抵抗の出来る力をもつた婦人が幾人あるかと考へると私は到底禁止を妨害することなんか思ひもよらないことだと思ふ。
もし真に必要にせまられた、根底のある、権威のある運動ならばどうしたつて官権の禁止位は何でも抵抗が出来る筈だ。
併し日本の婦人の社会的な運動がそれ程までの力をもつて現はれる日がそんなに近い日であるとは私には思へない。
その頃にはもう少し若い人たちの権威の時代であるかもしれない。
(「編輯室より」/『青鞜』1915年5月号・第5巻第5号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p213)
当時の首相は大隈重信、内相は大浦兼武である。
野枝は一度目の結婚からの出奔により、肉親から非難され、その肉親に反抗して辻との二度目の結婚をしたが、しかし、辻の肉親と自分の関係は他人であり、その点ではやはり今宿の家族には情愛を感じるという。
……私は愛する良人(おつと)の肉親に対して他人であつた。
私は前に私が肉親にそむいた時の苦痛よりも更に幾倍も/\の苦しみをその交渉のうちにしなければならなかつた。
けれども、私がそれ等の人々に対して不快な感を持つ程自分の肉親の愛を力強く思ひ出すことを私はぢつと眺めてすます訳にはゆかなかつた。
良人は私が彼を愛してゐるやうに私を愛してくれる。
さうして私が肉親を愛するやうに彼も肉親を愛するに違いない。
(「感想の断片」/『第三帝国』一九一五年五月五日・第三十九号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』p217~218)
※大杉栄「唯一者 マクス・スティルナー論」
※辻潤『唯一者とその所有』
★大杉栄・伊藤野枝『乞食の名誉』(聚英閣・1920年5月)
★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)
★『大杉栄全集 第12巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
★『辻潤全集 第一巻』(五月書房・1982年4月15日)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第156回 同窓会
文●ツルシカズヒコ
一九一五(大正四)年四月ごろ、野枝は上野高女の同総会に出席した。
上野高女は校舎移転改築のため銀行から資金を借り、校舎の外観が整い入学者が増えるにつれて、資本主の干渉が始まった。
その対立の末「創立十周年の記念日を期し」て多くの教職員とともに佐藤政次郎(まさじろう)教頭と野枝のクラス担任だった西原和治も上野高女を辞職した。
同窓会も母校と絶縁し、佐藤を中心とする温旧会を結成した。
私の卒業した女学校に此の頃或る転機が来て頻りに動揺してゐ。
私は学校を出てから四年の間一度もよりつかなかつたやうな冷淡な卒業生であつた。
学校側でも同窓会があらうと音楽会があらうと、バザーがあらうと、一片の通知もよこさなかつた。
私は全く異端視されてゐた。
卒業生仲間でもさうだつた。
私は学校に対しては何のつながりも感じはしなかつた。
けれども学校の中心になつてゐる二先生丈けはどうしても学校と同一視しては仕舞へないでゐた。
此度その先生お二人が辞職なすつたと云ふさはぎで私は突然に再三同窓会の大会に出席することをすゝめられた。
初めて学校を出てから、同窓会の勧誘をうけたのだ。
私は多くの人の勝手に呆れながらも先生への愛感に引きづられて、出席した。
けれども私は、反感と侮蔑と失望でかへつて来た。
(「編輯室より」/『青鞜』1915年5月号・第5巻第5号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p214)
野枝は前年の『青鞜』六月号に「S先生に」を寄稿し、Sという匿名ではあるが教育者としての佐藤を痛烈に批判した。
同窓会に出席した佐藤は昂奮していたという。
おそらく学校側の対処に激昂していたのであろう。
佐藤のために東奔西走した人たちも、佐藤の激情に巻き込まれて昂奮していた。
同窓生たちも母校と校長に燃えるような反感を持っていた。
野枝もその怒りには深い同感を持てたが、佐藤の現実を無視したあまりの理想家ぶりに辟易した。
同窓生たちの佐藤の言うことになんでも賛成さえしていればいいという態度にも辟易した。
私は少しの間にすつかり退屈してしまつた。
そうして今更ながらあまりにひどい思想の懸隔が気味わるくも思はれるのであつた。
そして先生の十年の努力の結果がこれ丈けのものにしか現はれなかつたと云ふことを考へて私はかなしくなつた。
(「編輯室より」/『青鞜』1915年5月号・第5巻第五号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p214)
佐藤は上野高女を退職した翌年秋、函館に渡り(その際に新井奥邃から在寛の号を贈られる)、以後、函館で活動し、一九五六年(昭和三十一年)十月、八十歳で死去した。
野枝は『第三帝国』に「自覚の第一歩」を書いた。
「自分の考えの上に努力しない人」と云ふ言葉は現在及び過去の日本婦人の大方の人に対して用ゐらるべき言葉である。
私はそれを按じて日本婦人の一大欠点と切言し得るのである。
自分の考へを自分で仕末する事の出来ない人々とは何たる情ないことであらう。
何故にかうもすべての婦人が一様に悲しむべき欠点を持つに到つたであらう?
勿論これを日本婦人が過去幾十代幾百代にわたつて持つた、たつた一つの非常なる屈辱の生活の賜物である。
私はかほどまでに彼女等が物を考へまいとする恐ろしい力をもつた習俗を平気で無意識に持つてゐると云ふことが如何に多くの苦しい努力と多くの時間を費やしたかを考へると、私達の先祖なる婦人達が如何に盲目で唖者であることを必要としたかゞ解る。
そしてそれを必要とする婦人の生活が如何に不安で矛盾が多くて、普通に目が明き口をきけることが恐ろしかつたかゞ想像し得られる。
私達はさうした境遇におかれた婦人に対して出来る丈けの同情をよせる事は惜しみはしない。
併(しか)し私達の先祖はあやまつてゐた。
彼等には勇気と決断とが与へられてゐなかつた。
彼等はそうした唖者になることや盲目になることが如何に不幸なものゝ数々を出来(しゆつたい)さすかを決して思はなかつた。
彼等はたゞ現在に媚びつゝ時に引きづられつゝ単調な何の栄もない万遍なき記録を残した。
けれども彼等の記録によつて模倣を強ひられた後継者達は模倣を意識しなくなつた。
彼等は生まれながらの唖者や盲者であつた。
彼等はだん/\彼等が唖者たり盲者たらねばならぬ理由からは遠くなつていつた。
併し遠ざかられ忘れられた理由や原因は決して時のたつたが為めに消失はしなかつた。
時々彼等の前には二つの道が展(ひら)かれてあつた。
彼等はそのどれかをえらばなくてはならなかつた。
鈍なる者は苦もなく撰ぶことが出来る。
やゝ敏なる者は迷ふ。
併し考へることは許されない。
彼等は迷つて先輩の意見を仰いてわづかにその迷ひからのがれる。
そうしてずつとつゞいて来た。
一糸乱れぬーー乱すことの出来ない厳密な科学の原理ーーさう云ふ正しい理屈を学んだものすらこの恐ろしい習俗の力にかつことはむづかしかつた。
女学校や程度の低い女子大学を出た位でと云ふが併しかうも意気地(いくじ)のないものであらうかと私は思ふ。
彼等は何の為めに学科を学んだのであらう。
自分のことも他人にきめて貰はねばならぬ程ならば無学無智の女と何処にかはりがあらう。
自分のことではないか、自分のこと、本当に考へねばならぬことを人に考へて貰つてきめるとは実に情ないことだと私は思ふ。
(「自覚の第一歩」/『第三帝国』1915年4月15日・37号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p194~195)
そして、野枝は前年『青鞜』誌上で『読売新聞』の「婦人附録」を批判しているが、「自覚の第一歩」でも「婦人附録」の人気コーナーである「身の上相談」の相談者に苦言を呈している。
野枝は『第三帝国』三十八号に「婦人の反省を望む」を書いた。
『女賢(さか)しうして牛売り損ふ』……『女の智恵は猿智恵』等と昔から日本の婦人は……侮辱され続けて来ました。
そして昔とちがつて今日では婦人も相当な教育の道が開かれて多くの教養ある婦人が輩出するに至つてもなを……私共は……この侮辱を否定する訳けにはまゐりません。
今日婦人の為めに新聞雑誌など云ふものが幾種類も出来てゐます。
そしてこの後もずんずん殖えて行くでせうがその殆んどすべてを通じてどんな内容をもつてゐるかと申しますと、それは大方の人々が知つてゐるやうにそれは低級な子女の何の訓練も加へられない情緒を猥(みだ)りに乱すやうなのや、それでなければ善良な家庭の主婦達の安価なよみものに過ぎません。
日本の婦人雑誌で一番多数の読者を持つてゐると云はれる『婦人世界』はその最も安つぽさを振りまはしてゐる点では恐らく矢張り一番であらうと思はれます。
その内容は一目見ても何の思慮も分別もなしに吐き出され『何々夫人の経験談』『何々夫人の苦心談』『某夫人の夫を助けて何々せし談』等がかずかぎりもなく記載されてあります。
(「婦人の反省を望む」/『第三帝国』1915年4月25日・38号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p198)
野枝は子供の教育についてこう言及している。
私は小学校から女学校を卒業する迄十年余の長い間の学校でうけたいろ/\な気持ちや印象やを思ひ出す度びに身ぶるいが出ます。
……自分たちの子供をあの無遠慮な……頑迷な無自覚な教育家たちの群れに法律によつてきめられた強制的な義務によりて五年なり六年なり托さねばならぬと云ふことについてどうしたならば私の大切な子供達に愚劣な教師たちの手をふれさせないですむかと云うことばかり考へてゐます。
子供の本当の教育は子供自身にしか出来はしないと私は思ひます。
(「婦人の反省を望む」/『第三帝国』1915年4月25日・38号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p200)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第155回 婦人の選挙運動
文●ツルシカズヒコ
『青鞜』一九一五年四月号「編輯室より」に、野枝はこう書いた。
●先月は随分つまらないものを出したので大分方々からおしかりを受けました。
そのうめ合はせに今月は特別号にして少しよくしやうかと思ひましたけれど何しろちつとも準備が出来てゐませんから来月にしやうと思つてゐます。
●平塚さんは今長篇執筆中です。
いよ/\発表される日のはやく来るのを待ちます。
●かつちやんは寺島村の白(しら)ひげ様の横町にこんど越しましたと昨日通知が来ました。
●岩野清子氏はお家で皆様で修善寺へ行つてゐられます。
●雑誌が続かないのぢやないかなど御心配の方もあるやうですがこればかりはどんなことがあつても続けます。
何卒私を信用なすつて下さい。
先月あんなにつまらないものを出したからなおあやぶまれたのかもしれませんが併し私は決してさうつまらなくはないと思ひます。
かなりいゝものがあの中にあつたことを信じます。
たヾ私がなまけた事だけはどうも申訳けのないことに思ひます。
これからは決してあんなことのないやうにします。
(「編輯室より」/『青鞜』1915年4月号・第5巻第4号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p192~193)
野枝が渡辺政太郎(まさたろう)から谷中村の話を聞いたのは一月末だったが、それ以来、『青鞜』の編集の仕事はおろそかになっていたのかもしれない。
「平塚さんは今長篇執筆中です」とあるが、これはらいてうが『時事新報』に連載した塩原事件をテーマにした小説「峠」のことであるが、妊娠中のつわりによる体調不良などのために、連載途中で打ち切りになり、結局、完成することはなかった。
『青鞜』同号に野枝は「最近の感想二つ」を書いた。
「与謝野晶子氏の『鏡心燈語』について」と「生田花世氏に」である。
三月に第十二回衆議院議員総選挙が行なわれたが、与謝野晶子が雑誌『太陽』の連載「鏡心燈語」で、戸別訪問によって婦人が選挙運動に参加したことを評価し、それを非難した女子教育家を批判した。
晶子は「女は外で働くものではない」とする女子教育家を批判しているが、野枝はこれには同意している。
しかし、野枝は婦人たちの戸別訪問を評価した晶子を、こう批判している。
氏はもの/\しく婦人の選挙運動ーー多くの人もまたさう云つてゐるーーと云つてゐられるがそれが果たして氏が仰云(おつしや)る程価値のある仕事であらうか、たか/″\有権者の戸別訪問位のことが何程のことであらう。
不服を云へばもう根本から違つてゐる。
代議政体と云ふことすらもはや問題にもならないがそれを先づそれとしても例えば夫が候補にたつたとしても思想にも政見にも何の理解も同情もない人達の許に迄一々頭を下げてたのまなくては仕方がないやうな貧弱な背景しか持たないと云ふことは堪えられない屈辱ではないか。
(「最近の感想二つ」ーー「与謝野晶子氏の『鏡心燈語』について」/『青鞜』1915年4月号・第5巻第4号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p185~186)
なお、晶子の夫・与謝野鉄幹も故郷の京都府郡部選挙区から無所属で出馬したが、落選した。
『定本伊藤野枝全集 第二巻』の解題によれば、『青鞜』同号に花世が寄稿した「懺悔の心よりーー平塚様、伊藤様、原田様に寄せて」が掲載された。
この原稿の最後で花世は論争相手の原田(安田)皐月に謝罪し、貞操論争から退いた。
姑問題に苦悶している花世に対して、野枝は「生田花世氏に」で自分の経験を踏まえてアドバイスをした。
無頓着でゐると云ふことが一番いゝのです。
私は元来あまり細心な方ではないから無頓着と云ふことが苦しくありませんけれどもあなたのやうなデリケートな方にはそれは大変骨折りであるかもしれません。
いゝ人に見て貰はうと云ふやうな……欲望をおこすのは苦悶の種をまくやうなものだと私はおもつてゐます。
自分のいゝとこ、また悪いとこはかまはずさらけ出してしまふことです。
私は世間のすべてありとあらゆるこんぐらがりは醜いものの価値をば誰もが認めまいとして覆はふとしてゐるからだと信じてゐます。
……私は幸ひに最初から……自分をさらけ出して……道を歩かねばならないやうに余儀なくさせられました。
これは私の一生を通じて感謝すべき点だと思つてゐます。
それですら始終不純な感情に悩まされてゐます。
悪くおもわれたくないと云ふ欲望は何時でも私の頭のすみで目を光らして居ります。
あなたは……きつと姑様のなさることや考へなさることについていろいろ心配をなさるのでせう。
私はそれを云ふのです。
それをほつておいて勝手にさせ勝手に考へさせるのです。
もしそれがこちらに及ぼしさうになつたら知らん顔をしてゐるのです。
その代りこちらでも出来る丈け自由に振舞つたらいゝぢやありませんか。
私はさうしてゐます。
あなたは愛しやうとしてゐらつしやるらしいがそれはます/\あなたの苦悶を増すのみだと思ひます。
夫の母だとか義理だとか……考へると圧迫を感じます。
普通の同居人と思つて御覧なさい何でもありません。
いろいろな場合にしかし……苦しまなければなりません。
……その苦痛は夫に対する又は夫から受くる愛によつて償はれなければならないと思ひます。
(「最近の感想二つ」ーー「生田花世氏に」/『青鞜』1915年4月号・第5巻第4号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p189~191)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第154回 死灰の中から
文●ツルシカズヒコ
大杉が野枝の第一の手紙に非常な興味を持ったのは、もうひとつの大きな理由があった。
当時の大杉は内外に大きな不満を持っていた。
外に対する不満というのは、個人主義者らの何事につけても周囲への無関心であり、そして虐げられたる者に対する同情や虐げる者に向ける憤懣に対する彼らの冷笑だった。
「結局、それがどうなるんだ。同情してもその相手にとってなんの役にも立たず、憤懣する相手にはそれがために自分までが虐げられることになる。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。そんな余計なおせっかいをするよりは、黙って自分だけの仕事をしているがいい」
これが彼らの言葉である。
大杉は無関心だけならまだ許せたが、冷笑する冷血漢を当の敵よりも憎むほどにまで、彼らに対する嫌悪感を激昂させていた。
大杉らへの冷笑嘲笑は、外からばかりではなくサークルの内からも来た。
堺利彦と大杉とは、もうよほど前からお互いの主義や主張にだいぶ懸隔があり、お互いの運動の方針にだいぶ緩急の差があった。
堺やその周囲の者の思想や行動への大杉たちの無遠慮な批判は、彼らを不愉快にさせたのは事実だったろう。
彼らの集会とは別に、大杉たちが始めた集会が盛大になるのを見て、彼らが気持ちのよかろうはずもなかった。
荒畑寒村や大杉が多少、社会的に知られるようになり、文壇の一部でも彼らより多少歓迎されたことは、少なくても大杉なぞがいい気になっていたことは、堺はともかく、彼らは不満であり苦々しく思っていた。
『近代思想』の文壇的運動に嫌気がさして、大逆事件以来の迫害の恐怖が漲る中、乾坤一擲(けんこんいってき)的『平民新聞』を創刊したときにも、彼らはやはり冷笑の眼で見ていた。
「向こう見ずめが、今に見ろ」
堺だけは、逸(はや)りに逸る大杉たちの将来を真面目に心配してはくれたが。
『平民新聞』が発禁の連続で一回だに満足に出すことができず、六号で廃刊になったときには、堺だけはそうではないだろうが、彼らは勝利の微笑さえ浮かべていた。
「出せるものを出したらどうだろう」
荒畑や大杉の周囲にいる者も、こんな言葉を口にするようになった。
この言葉ほど大杉の癪にさわったものはなく、そんなことを言うやつは同志でも友人でもないとすら思うほど激昂した。
『平民新聞』が没常識で無茶なものであったところで、そうしたものを作らざるを得なかった心情を理解してくれるのが、真の同志や友人だと大杉思った。
大杉はまたこうも考えた。
彼には『平民新聞』がそんなに無茶なものとはどうしても思えなかった。
それでいて禁止になるのは、される側が悪いのか、する政府が悪いのか。
彼にはどちらも当然のことをしていると思えた。
しかし、そんな場合に最も悪質なのは編集者を責めて、政府の味方をすることだ。
そんなやつらがいるから、いつまでも政府は遠慮なくその権威をふるうことができるーー大杉はそう考えていた。
いつか堺も、同志の集合について、大杉にこんなことを言ったことがある。
「いわば、まあ、どこかの旦那が自分免許の義太夫を聞かせるために、親類縁者を寄せ集めるようなもんだからな……」
これには多くの同志に対する不満、軽い自嘲、そして大杉らに対する嘲笑が含まれていた。
大杉はむっとしたが、しかしまた、うまいことを言うなあとも思った。
そして、多くの同志に対する不満には同意をするほかはなかった。
「まるで暖簾と腕押しをしているようなもんだなあ」
荒畑も大杉によくこんなことを言った。
いわゆる同志と称する者の多くは、ただ以前から同志の列に加わっているというだけのことで、大逆事件以来の迫害の恐怖と無為無能の習慣から、まったく惰性に陥っていた。
大杉と荒畑が『平民新聞』を創刊したのは、彼らの惰眠を覚ますためであり、入獄でもすれば彼らの刺激にもなろうかと思ったからだった。
しかし、政府のやり方は以前のように司法処分ではなく、行政処分という新手の手法で対抗してきた。
荒畑と大杉は、
「仏の顔も三度と言うんだから、いわんや……」
などとふざけながら、すっかり入獄の準備をしていたが、不本意ながら無事にすんでしまった。
かくして外から内へと進んだ不満は、ついに大杉自身に対する不満になった。
ことに野枝の手紙は大杉に深い反省を与えた。
野枝が感激した谷中村の事件に対して、大杉は何もしないどころか、村民が溺れ死んでしまえば面白いと思った。
助けられるのではつまらないと思った。
なまじっかな社会学などの素養から、虐げる甲階級と虐げられる乙階級が存在するのは自明の理と決めていて、それも少しも不思議としない感情が大杉の中に生まれていた。
しかも、甲階級と乙階級の認識は事実から得た実感ではなく、書物の中で学んだ理屈にすぎなかった。
大杉は幼稚なセンチメンタリズムを取り返したいと思った。
憤るべきものにはあくまで憤りたい、憐れむべきものにはあくまでも憐れみたい。
そして、いつでも虐げられたる者の中へ、虐げる者に向かって、躊躇なくかつ容赦なく進んでいきたいと大杉は思った。
N子がY村の話から得たと云ふ興奮を、其の幼稚なしかし恐らくは何物をも焼き尽くし溶かし尽くすセンテイメンタリズムを、此の硬直した僕の心の中に流しこんで貰ひたい。
僕が彼女の手紙によつて最も感激したと云ふのは、要するに僕が幻想した彼女の血のしたたるやうな生々しい実感のセンテイメンタリズムであつたのだ。
本当の社会改革の本質的精神であつたのだ。
僕はY村の死灰の中から炎となつて燃えあがる彼女を見てゐたのだ。
(「死灰の中から」/『新小説』1919年9月号/伊藤野枝との共著『乞食の名誉』/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』_p596/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』_p281~282)
★大杉栄・伊藤野枝『乞食の名誉』(聚英閣・1920年5月)
★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)
★『大杉栄全集 第12巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
2016年05月08日
第153回 友愛会と青鞜社
文●ツルシカズヒコ
一九一五(大正四)年、当時の文壇思想界は個人主義全盛の時代だった。
自己完成、自己の生命の充実、自己を煩わし害(そこな)わんとする周囲からの逃避、静かなる内省と観照。
これが当時の個人主義の理論であり実際であった。
大杉は自分の獄中生活に顧みて、これを囚人哲学と呼んでいた。
幸徳秋水らの大逆事件以来、大杉たちの政治上および経済上の主張は言論の自由を奪われ、その思想は科学や文芸や哲学の形式に包まなければ表現できなかった。
自己完成や生命の充実のためには、内省や観照によるばかりではなく、自己を煩わし害(そこな)わんとする周囲に、大胆に当面し挑戦しなければならないと大杉は信じていた。
周囲は政治的にも経済的にもまた広く社会的にも、あまりに抑圧しすぎている。
それをはねのけなければ、自身の完成はもとより生命の生長発達すらも覚束ない。
この生の闘争を逃避して、ひたすらに内省や観照に耽ることは虚偽である、誤魔化しである、一時遁れであるーーこれを喝破しなければならないと、大杉は考えていた。
文壇の諸家は周囲の強圧を痛感しているが、周囲そのものの知識にはなはだしく欠けているので、大杉は周囲の何ものであるかを詳細に説き、周囲の中の本源を明らかにして、敵の本体を指し示さなければならないーー大杉はそう考えていた。
大杉は文壇諸家の中にきわめて少数ながら、とにかく漠然とこの精神に動かされている人々を発見し、その少数派の中に身を投じた。
大杉らは青鞜社の婦人解放の叫び声に満腔(まんこう)の同情を捧げてはいたが、その自己完成論の虚偽を棄てないかぎりは、ようするに文芸道楽のお嬢さんたちの寄り合いにすぎないぐらいに軽蔑していた。
大杉は同志たちに友愛会と青鞜社の話をよくしていた。
「ようするに友愛会はちょうど青鞜社のようなものなんだね。僕らは今の友愛会にはほとんどなんの期待も持たない。友愛会の言論や行動にはむしろ反感すら持っている。しかし、ああして労働者が団結して、とにかく自己の人格とか地位とかの向上を謀っている間に、あの中からきっと何か今の友愛会とは違った分子が生まれてくる。今の幹部に謀叛する何ものかが生まれてくる。そうして、友愛会をまったく新しい友愛会に変えてしまうか、あるいはそこから分離した新しい別な団体が起こる。その新友愛会、もしくは新団体が初めて本当の意味での労働者団体になり、本当の意味での労働運動の中心になるんだ。僕らは黙ってそのときの来るのを待って彼らと合体するか、なんとか方法を講じてできるだけその時期の来るのを早めるしかない。僕自身は後者を選ぶ。しかし、慎重でなければならない。結びつくべきはずの彼らと僕らとが、かえって相反目しなければならない妙なハメに陥ってしまうかもしれない」
大杉はこの本物の生まれ出たのを初めて野枝の中に見出したのだ。
そして、大杉は彼女の第一の手紙に示された自分への信頼によって、彼女が生涯離るべからざる友人であり、同志であるように感じた。
おそらくはそのときに、強い恋の予感というよりも、むしろ初めて彼女に対する恋らしい感情を兆したのだ。
そして、友愛会に対するのと同じように、ただ慎重な態度という考えから、強いてそれを抑えつけていたのだ。
丁度其時に、C社から、『貞操論』の寄稿を頼まれた。
僕はN子に宛てる公開状の形式でそれを書いた。
そして其の冒頭に、僕が今彼女に感じている強い親しみを、彼女に表明して置きたいと思つた。
そして其の結論には、可なり露骨に、僕の十年来の宿論を書いた。
自分が恋の強い予感を感じ更に恋らしい感情をすら抱いたと云ふ女に対しての、妻ある男が夫ある女に対しての、恋愛論としては、世間的には余程可笑しく聞こえる筈の結論である。
しかし恋の実際には甚だ臆病であつた僕も、其の理論だけには何処までも大胆であつた。
実際の恋の為めの負担は回避したかつたが、恋の理論の為めの負担は少しも恐れるところがなかつた。
これと同じ理論は既にTの前でも何んの遠慮もなく彼女と語り合つた。
彼女は全然不賛成であつた。
で、こんどは、雑誌の上で大いに議論し合つて見たいと思つたのであつた。
……勿論これは、単に議論の上の興味からではなかつた。
此の種の問題に就いて、彼女と語ると云ふ事が、僕に取つて少なからざる享楽であつたのは云ふまでもない。
『しかし僕なぞには、もうとても恋は出来ませんな。』
其時に僕は彼女に云つた。
『そんな事があるものですか。今に少しお暇になつて御覧なさい。きつと出来ますから。』
彼女は笑ひながら云つた。
僕は本当にさうだつたらと思ふと、恐ろしくもあり嬉しくもあつた。
其頃の事である。
或日Rが僕に云つた。
『あなたも議論通りに恋をする位だと、ほんとうに信用出来るんだが。』
……議論通りに恋をする位だと、と云ふ此のおだてだけには、ちよつと乗つて見たかつた。
(「死灰の中から」/『新小説』1919年9月号/伊藤野枝との共著『乞食の名誉』/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』_p586~589/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』_p272~275)
★大杉栄・伊藤野枝『乞食の名誉』(聚英閣・1920年5月)
★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)
★『大杉栄全集 第12巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第152回『谷中村滅亡史』
文●ツルシカズヒコ
葉山から帰京して二、三日後、大杉に野枝からの手紙が届いた。
『先日はもう一足と云ふところでお目に懸ることが出来ませんでしたのね。
御縁がなかつたのでせう。
雑誌(『青鞜』※筆者注、以下同)を気をきかしたつもりで葉山に送りましたがお手許につきまして?
C雑誌(『新公論』)を今朝、拝見しました。
いろいろなことを一杯考えさせられました。
そして、少しばかりあれには不公平がありますから書きたいと思ひますが、その前にD雑誌(『第三帝国』)に書きましたものを読んで頂けましたかしら。
あの御批評が伺ひたいのですの。
そしてから書きたいと思つてゐます。
お遊びにお出でくださいませんか。
私の方から伺つてもいいんですけれど、H新聞(『平民新聞』)も廃刊になりましたのね。
まあ仕方ありませんわ。
またK雑誌(『近代思想』)をお続けになつてはいかがですか。
『私たちにはあんな気持のいい雑誌が失くなつたのは、可なりさびしいことの一つです。
『 私は此頃すてきな計画を立てて一人で夢を見て楽しんでゐます。
二年かかつても三年かかつてもいいつもりで、自分の期待にそむかないものに仕上げたいと願つてゐます。
いまにあなた方を驚かしてあげますわ。
まあ、ちよつと話してみませうか。
私は今そのためにいろんなものを読んでゐます。
第一にA(荒畑)さんの「Y村滅亡史」(『谷中村滅亡史』)、それからKさんの「労働」、其他いろんなものを。
それは、私がいつかW(渡辺政太郎)さんからY村の話を聞いたときの、私の心的経験と興奮とに自分ながら深い興味を持つてゐて忘れることが出来ませんので、それをすつかり書いて見たいんですの。……
『本当にそれは不思議なほど私の頭の中にこびりついてゐます。これは今までになかつた現象です。今迄は大抵こんなものを書かうとしましても、他の思想が浮かんできますと先きのは消えてしまふのですけれど、此頃たまに小説でも書いてみようと云ふ気になつて書き始めて見ましても、直ぐ此の事で一杯になつて、とてもそんな下らない小説なんぞ書いてはゐられないのです。
私は今これが本当の意味での私の価値ある処女作になることを一生懸命に願つてゐます。……
『自分の興味でつまらない事をお話しました。私は書いてしまふまで誰にも話さないつもりでゐましたけれど、あなただけは少しは興味を持つて下さるかもしれないと思つてつい書いてしまひました。
これであなたに興味がなかつたら、私はずいぶんつまらないことをしやべつてしまひましたわね。
私は柄にもない大きなことを考へてるなんて軽蔑されると、折角の気持を不快にしますので、Tにもまだ其の計画は話しませんの。……
Wさんにはいろんなものを拝借しなければなりませんので話しました。
其他は誰にも云ひませんの。
『本当によろしかつたらお出で下さい。
私もお伺ひいたします。』
(「死灰の中から」/『新小説』1919年9月号/伊藤野枝との共著『乞食の名誉』/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』_p581~582/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』_p266~268)
大杉は少しむっとした。
「少しは興味を持つて下さるかもしれない」とはなんだ。
「それであなたに興味がなかつたら」とはなんだ。
大杉は野枝から第一の手紙を受け取ったときから、彼女がこの谷中村の事件についてどう興奮したのか、また辻がそれをどう嘲笑ったのか、そしてまた彼女と辻とがそれをどう議論し合ったのかーーそれを野枝自身から聞きたくて堪らなかったのだ。
まず大杉自身の社会主義運動に関わってきた経歴からの興味があった。
次には、社会的興味の色を濃くしてきた野枝の思想と感情とが、この事件からの興奮によって、さらにどれだけ高められかつ深められて、彼女の対社会態度や大杉らのムーブメントに対する態度にどれほどの決心をもたらしたかという興味である。
第三には、野枝と辻との論争が文壇思想界の二種の傾向を代表していやしないかという興味であった。
大杉のそれらの興味の中には、彼女の家庭崩壊、「弊履のように」棄てられる夫など、高低さまざまな興味があったことはもちろんである。
※不滅の『谷中村滅亡史』
★大杉栄・伊藤野枝『乞食の名誉』(聚英閣・1920年5月)
★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)
★『大杉栄全集 第12巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第151回 待合
文●ツルシカズヒコ
大杉は堀保子とは、もう八、九年ほどきわめて平和に暮らしていたが、大杉が野枝の家を訪れたときには、いつも保子の機嫌はよくなかった。
少なくてもいつも曇った顔をしていた。
野枝についての何かの話が出るときも同様だった。
そしてそのたびに大杉は、ただ心の中で軽く「馬鹿ッ」と笑っていた。
二月のある日の晩だった。
保子が大杉の机のかたわらに来て、いつも何か長話があるときに決まってするように、座布団を持ってきて妙に改まって言い出した。
「あなたは何か私に隠してやしませんか?」
「いや、何も。だが、なぜそんなことを言い出すんだい」
大杉は筆を置いて保子と火鉢に差し向かいになった。
「きっと何も隠してやしませんね」
「ああ、何も」
「それでは私の方から聞きますが、このごろあなたは野枝さんとどうかしてませんか?」
「いや、そんなことはない。ただ折々、遊び行くだけのことさ」
「それではもうひとつ聞きますが、このごろあなたはふたりきりで、どこかを歩いてやしませんでしたか?」
「うん、一度ちょっと一緒に歩いた」
「それ、ごらんなさい。やはり隠しているんじゃありませんか」
「いや、それはちっともそんな意味のことじゃないんだ。実はーー」
大杉が保子に事情を説明し始めた。
二週間ばかり前、大杉が同志の家に遊びに行ったときのことだった。
『青鞜』の一月号をまだ受け取っていないと大杉が言ったので、同志のひとりが野枝のところへ行ってもらって来ることなったが、あいにく野枝の手許には一部もなかった。
しばらくすると、野枝が大杉が遊びに行った同志の家にやって来た。
小売店から一部入手したので、届けに来たのだった。
大杉には尾行がついているにもかかわらず、野枝は大杉と一緒にその家を出た。
ふたりは水道橋まで電車に乗り、そこで別れた。
電車が混雑していたので、ふたりは離れた席に座った。
ただそれだけのことだったーーと、大杉は保子に話した。
しかし、保子はまだ疑い深い眼をしていた。
「ふたりで歩いたのは、それっきり?」
「ああ、それっきりだ」
「でも、あなたが野枝さんと一緒に待合に入ったのを見たという人があるんですがね」
保子は少し声を震わせながら言った。
大杉はあまりに意外な話なので口を開いて笑った。
大杉はそもそも、待合なぞというものを知らない男だった。
「へえ、誰がいったいそんなことを言ったんだい?」
保子の表情が少し和らいだ。
彼女によれば、同志のひとりが吹聴しているという。
大杉は尾行の警察の奴がその同志にいいかげんな情報を流し、その同志が話を大きくでもしたのだろうと思った。
保子の誤解は解けたようだったが、大杉はこう釘を刺された。
「しかしね、あなた、野枝さんも御亭主持ちなんですから、そんな噂を立てられてもお困りでしょうし、なるだけふたりきりで歩くなぞということは、これからお気をつけなさいね」
大杉は野枝にすまないことをしたと思い、そして少し困ったことになったとも思った。
大杉は野枝のことを得難い同志になる逸材だと見ていたので、同志たちに注意をした。
「今そんな噂をされちゃ困るんだよ。あの女も、女一通りを越したずいぶん自尊心の強い、つむじ曲がりなんだからね。そんな話を聞いちゃ、せっかく僕らに接近しかけているのを、すぐに怒って逃げ出してしまうよ」
そして、大杉はそんな気は毛頭ないことも話した。
しかし、面白半分に冷やかす同志もいた。
「しかし、あなたが野枝さんを恋の対象にしたら少し可笑しいな」
「馬鹿ッ」
大杉は軽く打ち消したが、ちょっと気にかかったので問い返した。
「しかし、もしそうとして、なぜそれが可笑しいんだ?」
「だって、あんまり釣り合いがとれませんからね」
「なぜ釣り合いがとれない?」
大杉はなんだか少しムキになっているよう見え、それにそばにいた三、四人のものまでが、妙に自分の顔を見つめているように感じたので、
「馬鹿だな、君は」
と言って笑ってゴマかした。
野枝に対しては、女であるし、それに例の新しい女ということから、とかく仲間内では評判が芳しくなかった。
やはりそのころ、堺利彦も笑いながら言った。
「このごろ、野枝さんとはどうしてるね」
「別にどうともしてやしないよ。ただ折々に遊びに行くだけのことさ」
堺が何か言いたそうな気配を感じた大杉は、面倒臭くなって言った。
「来月の『新公論』見てくれたまえ。その最初の方に、ふたりの関係が明らかにされているから」
「うん、そうか」
堺はそう言ったまま、何かを考え込んでいるようだった。
大杉はそんなことをひとつひとつ詳細に思い出した。
印刷所で野枝を待っていた二時間の間の、野枝が印刷所に来てびっくりする笑顔を思い浮かべながらの、焦慮とともに湧いてくるいろいろな回想を、幾度となく繰り返すのだった。
野枝から手紙を受け取るまで、大杉が抱いていたものは友情だった。
思想や感情に共鳴する濃い友情だった。
もっとも、それが恋になりはしないかという予感がないことはなかったが……。
しかし、二十前後のころをかぎりに、もう十年ばかり恋らしい恋の香を嗅いだことがなかった大杉だった。
そして、その間、牢獄また牢獄に暮らし、政治的叛逆の野心にのみ駆られていた大杉だった。
そして、フリーラブ論者でありながら、世間からの「恋の負担」にもまったく臆病になっていた大杉だった。
大杉は恋というロマンティックな場面に、自分を入れてみることができなかった。
其のほかにもまだ彼女に対する功利的な或者があつた。
僕は彼女を此の上もない異性の一友人として待つ外に、一同志としての、即ち僕等の有力な一協力者として彼女を待つてゐた。
彼女に対する僕の恋は、此のいづれをも僕から奪ひ取つて了ふか、或は其のいづれをも僕に与へるか、どつちかである事を僕は知つてゐた。
しかし此の予想の中の僕にとつて有利な一方、恋なぞといふ余計な努力なしに、安全に、且つ比較的、永続的に得られる事である。
斯くして僕は、先にも云つたやうに、僕は決して彼女に恋をしてはならぬもの、彼女との恋を予感する度びに、僕自身にきめてゐたのであつた。
けれども、ああ、其の間にいつの間にか、恋は徐ろに僕の心に食ひ入りつつあつたのだ。
だん/\熱が高くなつて来さうなので僕は急いで東京に帰つた。
(「死灰の中から」/『新小説』1919年9月号/伊藤野枝との共著『乞食の名誉』/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』_p579/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』_p265~266)
★大杉栄・伊藤野枝『乞食の名誉』(聚英閣・1920年5月)
★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)
★『大杉栄全集 第12巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index